カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

恥の文化の生まれるところ

2012-09-30 | culture

 日本は恥の文化と言われた過去があるが、これはもともと日本特有の文化であるとは言えない。恥の文化と言い出したら、韓国の「恨」の方がすさまじいともいえる。ロンドン・オリンピックでは、中国人選手が金メダルではなく銀や銅であることに、国に対して申し訳ないといって泣いている姿に西洋社会が驚いたという話もある。いい記録であることに変わりが無いし、個人がそのような感情を抱くことに違和感を覚えるということだろう。しかしながら、そんなことを言うとメダルの数に比例して金が少ないと批判の多かった日本はどうなるのだろう。それが悪いことだという批評も多かったはずである。
 それではこのような恥の文化はアジア特有のものかというと、特にそんなことは無い。実はアメリカだってヨーロッパだってそのような風潮はあるのであって、特にスポーツ界ではそのような国民的な激しいバッシングを受ける場合も多々あるようだ。オリンピックはむしろ個人競技が多いので、そのような国民的な感情を喚起しにくいということもいえそうで、サッカーのワールドカップでは、平気で戦犯・国賊扱いを受ける場合が多いようである。日本のメディアなどは、そのような風潮こそ選手を強くするなどというような事を平気で言ったりしている。そんな感情を見習えというのは、かなりスジ違いだとは思うが、興奮した頭には分かりづらいものかもしれない。
 実は昨日のボルト選手の続きなのだが、ボルト選手自身が強くありたいというモチベーションには、この恥の感情が強くあるように思えるのだ。ボルト選手はその圧倒的強さゆえに国民的に厚い期待を集めている。しかしながらその過去のレースにおいては、怪我のためにレースで思うような活躍ができなかったり、フライングで失格になったりするなど、大きく期待を裏切る事をしてきている。ジャマイカ・メディアも容赦が無く、生き恥であるとか、死んだ方がましであるとか、そのような結果に陥るボルトを激しくなじるのである。もともと内気なところのあるボルトくんは、そのことに激しく傷つきナーバスになってしまったようだ。そうしてそのようなバッシングを受けないためには、本当に歴史に残る王者となり、誰にも文句を言わせたくないというモチベーションに転嫁させているところがあるようなのだ。激しいトレーニングに耐えきる精神力は、そのような高い目標に向かえる闘争心で、そしてその原動力は、激しいバッシングを受ける恥の感情なのかもしれないのだ。
 日本においては、メダルの取れなかったオリンピック選手は、まったく無視されるような扱いを受ける。もちろん期待を集めた選手においては多少の違いはあるかもしれないが、少なくとも公的メディアにおいて「恥さらし」となじられることは、考えにくくなっているだろう。恥の文化といわれるものは、曲がりなりにも表面的には、かなり薄くなった考え方になりつつあるようだ。
 考えてみると恥という感情の多くは、対面的な立場において生じる可能性が高いものだ。一方が恥であるという感情を抱くということ自体は、本来的には文化とはあまり関係が無いのかもしれない。考えつく形容としては、一族の恥であるとか、一家であるとか、そして国の、というような属性に対して抱かれるものらしい。国のためなどに何かをしなくてはならない個人に、恥の文化は芽生えるものらしい。
 誰かのために頑張ることは、あんがい尊い事でも何でもないのかもしれないとも思う。なまじ変な期待などもたれない人生は、張り合いは無いかもしれないが、それなりに平和なのである。
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この場合も、ハンデを克服と考えていいのだろう

2012-09-29 | 雑記

 たぶんオリンピックに合わせて放映されたウサイン・ボルトのドキュメンタリーを見た。タイムリーじゃないのだろうけど、その間の悪さも含めて楽しめた。
 ハイスピードカメラだとか何とかいう機器を体につけて、ボルトの走りそのものを解析すると、世界一早い男には、さまざまな障害といえるハンディキャップがあるらしいことが分かる。一番の原因は脊椎側湾症という病気で背骨が曲がってしまっていることで、上半身のブレが大きくなり、骨盤への負担が過分にかかったり、歩幅なども左右で大きく違うなどの、現実的には早く走るには不利と思われる症状が出ているのだという。またその骨盤への影響で太もものハムストリングという筋肉の肉離れが起こりやすいというリスクもあるらしい。それじゃあいったい何でそんなに早く走れるんだという不思議の世界だ。実際に怪我には悩まされており、レース中に肉離れを起こしてしまったこともあるようだ。太ももの負担軽減のために十分な練習もできないのだという。
 結果的にはそのような障害をおぎなうために、特殊な筋力トレーニングを積み、また障害で出ている特徴をばねにして、大きな歩幅でスピードを上げる走りをしているということである。そう簡単な事らしくは無いのだが、しかし現実にボルトは速い。ただでさえ190㎝以上の身長はスタートの機敏さに欠けるといわれ、100メートル走の選手には不向きなのだという。つまりほとんど常識外れでどういう訳か結果が速いという、不思議な風景が広がっていた。その上人類が9.6秒台の壁を越えるのは、2039年という科学的予想も軽々と覆してしまった。
 最後には100m走に懸ける精神性やスタート練習の取り組みなどを紹介していたが、過酷なトレーニングに耐えながら、世界一に君臨していこうとする人物そのものを描きだしていた。
 しかしながらフライングのギリギリまで研ぎ澄ました集中や足の運びの研究と鍛錬をやりながら、0.001秒でもタイムを縮める努力を積み重ねる姿は尊いとは思うのだが、多くの人が知っているように、ゴール前では余裕のパフォーマンスを見せるために流して走る事を繰り返しているのは、大きな矛盾なのではあるまいか。本当は記録を塗り替えるということよりも、人に自分の存在をアピールする顕示欲の方が強いのではないかという疑問がわいてしまうのも仕方ない事だ。まあ、そういうところこそ、本当の強さの秘密なのかもしれないのだけれど。

 実は今回のオリンピックの結果は忘れていたのだけど、予定通り金だったのですね。そう言えばそうだったな、と思い出した訳だが、ついでに前に少し紹介したセメンヤの結果も銀だったと知ったのだった。みんないろんな意味での障害に負けずに頑張ってください。
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日本のリーダーは重要だ(は教科書的にという意味であること)

2012-09-28 | net & 社会

 政治の話はネット上ではいいか、とは思うものの、テレビを見なくても目に入る頻度が高くなるのは、やはり関心度の高さということはあるのかもしれない。もちろん僕も、と言いたいところだが、実はこの盛り上がり方はよく分からないということの方が本音だ。盛り上がりたい世論と個人の軋轢のようなものである。が、実際にはそんなものは微塵もないが。
 自民党総裁といえば、一昔前は事実上総理大臣とイコールであったのだが、今回はどうか。もちろん現在は野党だから当然イコールではない。谷垣さんと河野さんの二人はその例外的な存在だったという歴史が刻まれた訳だが、そうすると普通は安倍さんもその仲間になるのかというと、たぶん今回は違うだろうということだ。だから前提は近いうちに選挙があると自民党が大勝する、ということなのだが、それは前提というより希望である。もちろん今選挙になるとそのような可能性が高そうに見えるというか、民主党は相当負けるだろうということが予想されている訳だ。負ける選挙をしないのは与党の特権で、政権には任期があるのだから、普通は今の状態であれば任期まで選挙はしないのが普通である。もちろんそれは自民党政権の頃からそうであって、解散は首相の伝家の宝刀なのだから、その他の人が決めることはできない。しかしやはりそれには前提があって、どうも密約というか近いうちの選挙というのは政党間で合意がなされているらしいという話がある。それをみんなが知っているのはどういう訳なのかが疑問だが、しかしそれを裏切ってまで選挙をしないのは野田首相らしい。しかし首相の側は、合意の前提である国会運営である程度の協力の方を、問責決議などをされて裏切られたというのが先にあるらしい。なんだか歴史問題のようにややこしくなってくるのだが、任期までの解散時期のやり取りは今後も本当に解散をするまでは続く。
 そうではあるが、安倍総裁になれば解散の時期が早まるという期待がやはりあるらしく、早ければ1月頃になるのだという。解散説は6月や8月や9月や11月というのを順に聞いてきたので、やはりこれでも先になったんだな、と思った。そうしてやはり阿部さんというのは保守的なイメージがあるらしく、今の外交上の懸念を国内向けに考えて溜飲を下げる人が一定数居るようだ。強い日本とか美しい日本とか。共に形容なんで、具体的にはどういうことかということは分からないので、安倍さんのお腹の調子が戻ると、それも何とかなるらしいということは期待されているのだろう。
 それで今度は安倍さんがカツカレーを食べたということになって、腸の病気がそれほどまで回復されているのだ、ということと、その食べたカツカレーが3,500円(以上するらしい)ということで、庶民感覚が無いという批判が一緒に出てきた訳である。なんだか結果的にそれが一番盛り上がっているようで、日本は平和だというオチなのではないが、しかしこの選挙の象徴的な出来事としてカツカレーとは秀逸だという気はするのだった。
 本当にまじめにこの結果を考えると、今選挙があるとなどの多くの前提がクリアされなければその期待のほんの少しでさえも実現が不可能である状態の自民党総裁が決まったという現実があるわけで、誰がなっても本当に厳しい立場に居ることに変わりが無いということだろうと思う。もちろんそんなことは誰でも分かっているので、何か気持ちの行き場が無くて、人々の気持ち自体が迷走してしまったようにも見える。そういう気持ちの受け止め場所の無い世界が日本の政治世界で、これほど国際的にも窮地に立ちながら、ガラパゴス的に平和を保てる国内世論というのは、他国にはどのように映るものなのだろうか、などと考えたりするのである。
 考えてみると、日本の国のリーダーというのはそれほど軽い存在で、影響が少ないからこそ人々はこんなことをいってられるのである。リーダーが変わるとその国の運命まで変わりかねない立場である国民の人々よりも、そういう意味ではしあわせなのではないかという論調もあって、そのことが何より説得力を持っているのが、今回の結論であるようだった。
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あちらの人が帰ってこないのは当たり前かもしれない

2012-09-27 | 境界線

 ポアンカレ予想をめぐるドキュメンタリー番組を見た。名前は知っているが訳の分からない数学界の難問だ。それもその難問を解いたというロシヤの数学者ペレリマンというひとは、隠遁生活をしており他人前に姿を現さないのだという。
 分かったというのとは違うけれど、大筋どのような考え方であるということは分かった。しかし厄介なことに分かったとはいえ、そのことがより数学の世界の厄介さを思わせられるところが複雑な気分にさせられた。その上このポアンカレ予想のために多くの数学者が数学の迷宮をさまよい、ある意味で人生を失ってしまっているように見えることだった。そのような数学の魔力というものがさらに見る者を困惑させることになって、いくら難しく魅力的な世界だからと言って、現実世界を忘れさせてしまうという数学世界の恐ろしさが、さらに余計に訳が分からないという思いに捉われるのだった。
 数学の問題や定理などを発見する喜びは、世間的には名誉となる場合もあるだろうけれど、あまり金銭的な成功とは直結しないもののように見える。無欲というよりも、そういうことにかまっていられなくなるということかもしれない。それはまわりの人間を困惑させることではあるにせよ、数学そのものとつきあう人間にとっては、恐らくなにものにも代えがたい喜びがあるためであるように感じられる。そうしてそれは、人類や自然や歴史においても不変のものなのだ。
 いや、人間においては影響があるらしいから、いくら人間の頭の中の世界のこととはいえ、少なからず政治的に影響力があるということは考えられる。ペレルマンが世間というものを捨ててしまったように見えるのも、実際にはそのような人間性への不信が根底にあるように匂わされていた。
 数学の世界というのは極めて人間的な癖の世界であるにもかかわらず、しかし人間の連携を拒むものなのかもしれない。哲学の悟りなどは共有してなんなのかは分からないけれど、しかし数学のそれは難解で理解できる人間が少ないとはいえ、しかし共通理解であるはずなのだ。人間が到達できる限界のところにある世界というものを、見てしまった人間というものが齟齬をきたしてしまうとしたら、それは本当に恐ろしいものというしかないのではあるまいか。
 数学に没頭すること自体は病的に見えるとはいえ、決して病気そのものでは無い。しかし、精神病のある面においては、非常に似ているものがあるようにも感じられる。精神病の多くはA=Aという共通理解をはみ出すことによって生じる社会生活への困難さである。多くの人にはそのような共通理解こそが社会性なのだが、その世界においてA=Bの人が存在してしまうと困ってしまうのである。いわば訳が分からない。もちろんB側の人だってA側の人とはつきあえない。数学的な難問の世界というのは、実はA世界とは相いれないB世界そのもののようなことなのではなかろうか。
 もちろんそんなような事を考えてしまうのは人間の癖のようなものだろう。もともと人間というのは、共通理解のためにいろいろと道具を使わないとうまく暮らせないという特徴がある。そのひとつが例えば言語とも言える訳で、言語の違う外国の人とは通訳が必要になってしまう。ゼスチャーでも何とかなるというのは、それは言語の代替として動作で共通理解ができるということに過ぎない。
 数学の世界を理解するためには、数学という言語を手に入れなくてはならない。しかし誰もが可能で無い深みがあるのであるから、やはり通訳が必要なのだ。ペレリマンさんの現実世界への帰還を果たすものも、恐らくはそこのあたりの翻訳機能の役割にかかっているような気がして仕方ないのであった。
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やる気を引き出す自律性とは   モチベーション3.0

2012-09-26 | 読書
モチベーション3.0/ダニエル・ピンク著(講談社)

 どのようにしてやる気を出すかというのは確かに難しい問題のように思える。そもそも仕事にいつもやる気で満々という人間は、正直って少しばかり鬱陶しい。松岡修三といつも一緒に仕事をしたいと思うような人間が、世の中にいったいどれくらい居ると言うのか。
 しかし、会社側や経営者が人を使う場合、社員にはやる気満々で働いて欲しいと願っているのは想像できる。基本的にはそのような人間にこそ、たくさんの報酬を与えたい。もちろんやる気のあふれる人間が、利益を生み出す働きをしていると考えているからだ。仕事ができるということであっても、まわりの人間を落ち込ませるような人間が、本当に欲しいといえるだろうか。もちろんある程度の見える成果を上げ続けられる人間を無視できる訳では無かろうが、やる気の無い人間を抱えているほど苦痛なものは無いだろう。役場のような組織であるならともかく。
 つまりやる気になって働いている人間は、仕事の上では理想的なのだ。そして多かれ少なかれ、成果というものと連動していると信じられている。成果があげられると、さらにやる気のへのモチベーションも高まるだろう。そのような好ましい循環こそが、会社のような組織において、もっとも好ましい状態といえるだろう。
 そうなるように組織というのは様々な工夫をしているはずだ。目に見える報酬というのはそのもっともたるものだろう。だからある程度の歩合制は、個人のモチベーションと連動しているはずだ。しかし実際にそのような仕組みを強化すると、不思議なことに全体のモチベーションは逆に下がってしまいかねない。競争に負ける人が出ることもあるが、勝ち続けることに疲れてしまう人も出てきてしまいそうだ。個人の利益を最大化するために、好ましい連携にひびが入る場合もあるのかもしれない。そもそもお金は最大のモチベーションであるというような単純な考え方には、限界がありそうだ。ではいったいどうしたらいいのだろう。
 答えのカギは自律性と熟達、それに目的といったところだろう。自律性は個人の裁量を自由化させることでかなりの部分は得られるようになり、熟達は忍耐も必要だが、プロフェッショナルには欠かせない要素だ。目的はいうまでも無くその道しるべだ。
 それらは実に当たり前の答えに過ぎないように見えるが、しかし実際には多くの人には与えられていない権利であるかのようだ。経営者の多くは、自らはそのようなものを手にしていて、実際にやる気をだして働いている人が多いはずなのだが、いざ自分が人を使うようになると、それらの一番大切なエッセンスを奪って仕事をやらせてしまう。それで本当にそれぞれがやる気を出して働いて行けるというのだろうか。
 これがこの本を読んだ感想。つまりこれは経営者が、自分の会社で社員をどうしたらやる気にさせるのか、ということを考える際に役立つ本のようだ。もちろんやる気を引き出すために社員側が読んだって参考にならないことは無いだろうが、その裁量が与えられていない立場では、むしろ不満が生まれてしまうのではなかろうか。それに、このような考え方は好ましくもある半面、そのような裁量を必要としない業種(というものがあるような気が漠然とする)にとっては、少しばかり厄介なものかもしれない。
 しかしながらこの本の考え方を支持できるのは、人は必ずしも他人よりも大きな報酬のみを求めて働いている訳ではない、ということだろう。その上で本当に自分にとって楽しい働き方を考える場合、その後ろ盾になる考え方にはなりうると思う。実際に一流と言われるようなスポーツ選手などは、当たり前のようにこのような手法を用いて、日々トレーニングに励んでいるはずなのだ。最終的に結果を出せる人間というのは、自律性を持って熟達に励み、自分の目指す目的へ向かって進んでいる人だということだ。
 問題はその当たり前のことこそ、やはりそう簡単ではないのだろう。だからこそそのような確認を、人は時々するべきなのだ。
 僕自身は自動的にそのような状態になれる魔法が無いものか探し求めて逃避して、そうしてたまにこのような本を読んでしまう。持続してものになるのかどうか、それは結局のところ、自分次第にかかっている問題の様である。
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記憶力に本当にまったく自信の無い人こそ楽しめる本   「絶対記憶」メソッド

2012-09-25 | 読書

「絶対記憶」メソッド/小田全宏編(PHP研究所)

 実は小田さんの講演を聞いて、実際に彼がすらすらと覚えた番号と単語をそらんじた姿に、何よりの説得力を感じて試してみたくなった。小田さんはあちこちで講演をされているようだから目にした人も多いことだろう。そしてその暗記の実際を見て驚かない人が居るのだろうか。ホントかウソかというような議論の必要のない、真っ正直な話なのだろうと思う。
 記憶術を使ってこのように単語をたくさん覚えたからと言って、いったい何の意味があるのか、という疑問がわくのも自然の事だとは思う。実は真っ先に僕はそう思った。馬鹿らしいと一笑してしまってもそれは自由だと思う。実際確かにそういう面はあるのかもしれない。いや、あるとしても、その先の事を知らないのだから仕方が無い事なのかもしれない。坊さんが悟りを啓くということするが、もちろんそれとは別のことではあるが、しかし、その悟りとは、啓けてない人には分からないという禅問答的な真理があるとしたら、そういうことに少し似ている可能性がある。この本を使って実際にやってみようという気になって、そうして自分自身がその体験を達成できたとしたら、人はどうなるか。それを知りたくは無いですか。僕は知りたいと思った訳だ。
 結果どうなったか。
 ここで少しばかり大げさなことを言いたい気持ちはある。しかし僕はある意味で正直者なので、やはり正直に言いたい。以前の僕とは見た目では何にも変わらない。そうしておそらく能力的にも、実際はそんなに変わっているとは言えないだろう。しかしはっきり言おう。僕は100個の単語を間違いなく覚えてしまっている。その事実こそ、自分自身にこれほどの感動をもたらすとは、まったくもって驚くべきことだ。
 そういう意味では、僕は完全に別人になる程の変化をもたらされた、といういい方もできる気がする。何故なら、小田さんの話を聞く以前の僕は、そういうことをしようともしなかっただろうし、また、恐らく少しも出来はしなかっただろう。しかし今の僕は、この本に書いてある単語を100問そらんじて言えるし、たぶん明日も明後日もそのことを忘れないだろうことを知っている。また、新たに100問やってみろと言われても、たぶんそれは達成可能だろう。やるかやらないかは別として、僕にはそれができるということを知っている人間になってしまったのである。
 実はこれほどの感動を多くの人と共有したいという欲求と、そんなことに関心の無い人に知らんぷりして教えたくない欲求が両方ある。知らない人は平和かもしれないが、ざまあ見ろ、である。知っている人は間違いなく同志だ。というだけの話だが、その道を分けているのは、たった一つ、やってみるか否かだけの話なのだ。そうしてはっきり言って、やってみるということになると、できない人は一人も居ないはずだ。出来ない人は、やらない人に過ぎないからだ。
 結局お勧めしている訳であるが、ほんとに騙されたと思ってやってみるといいですよ。人間っていうのは、いろいろとやり方を知らないだけのことで、やり方さえ覚えるとその能力は素晴らしいものがあるということを、自分自身が身をもって体験できるのだ。人によっては人生がガラリと変わるということになる可能性だって、本当にあるのだろう。
 そういう意味では多少は危険な書物かもしれないので、知らないでいい人は平和に生きていってください。

 ちなみに僕のつれあいも普通に簡単にできちゃったみたいで、そうしてなんだかさらっとしているので、器用な人は、かえってこの気分には違いがあるのかもしれませんけどね。本当にお勧めなのは、やはり記憶力に本当に自信のない人なのかもしれません。
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激しい音も静かに聞きたい

2012-09-24 | 音楽

 音楽好きと言いながら、コンサート(ライブ)が特に好きな訳ではない。アマチュアのバンドマンだったこともあるからステージを踏んだことはあるんだけど、他人の演奏を聞くのが上手じゃないというところがあるようだ。スタジオとか小屋なんかで練習しているときは熱心に他人の演奏を注視することはあるんだけど、コンサートのようなところではあんまりそれが叶わない。そういうところが不満らしい。立ちあがって踊ったり、手拍子したりして忙しい。汗かいたりして気持ちが悪くなる。適当なところで疲れてしまって早く終わんないかな、などと考えてしまう。
 ちょっと前に泉谷しげるをテレビで観ていたら、演奏の途中で曲を止めてしまった。観客が手拍子するのが気に食わないらしくて、この曲では手拍子をするな、と言ってまた最初から曲をやり直していた。客は多少面喰っていたようだけど、手持無沙汰になりながらも体をゆすったりして、いわゆるノッて聞いている風だった。まあ、それだけなのでどうということは無いのだが、そんな感じの方が楽な聞き方かもしれないな、とは思った。
 これも少し前の話だが、クラッシックの少人数でのアンサンブルの演奏会を観に行った事がある。その時演奏者の誰かが、演奏を聞きながら寝てもらって結構だ、と言っていた。会場はなんとなくウケていたが、まんざら冗談ということでもない風だった。気持ちよく客を寝せるような演奏を本当に心がけたいというような思いがあるらしいのだ。そういう気持ちはよく分からないな、とは思うものの、彼らの考え方は本当に変わっているのかもしれない。本当に寝せてしまえる力もいい演奏というのを信じているということか。いい訳ではなさそうではあったし、確かに演奏自体は澄んでいて、分からないながら心地よかったのだけれど。
 普段は圧倒的にCDやらMDなんかの音源に向き合う姿勢で音を聞いている。自分がどんな態度をとろうが、演奏者には関係が無い。もちろん根本的に生というのは違うので当てが外れているけれど、そういう姿勢に慣れ過ぎて聞き手はわがままになっているのだろうか。客席とステージとの一体感というのは、生では大切なことである。それは分かるが、一方の立場が不得意というのはあるとは思う。出来ればじっと聞いていて、終わったら拍手というのは普通にいいな、と思う。
 ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」という映画があるのだが、劇中にヤードバーズが演奏しているのだけど、客は円陣を組んだりして座って大人しく見ている。演奏は激しくジェフ・ベックはギターを壊したりしてるんだけど、客は曲が終わると拍手している。今の感覚からはなんともシュールなんだけど、これはこれでいいなと思う。いつも盛り上がるのはどうなんだろうという感じかもしれない。もちろん全部がどっちらけではお互いに不幸なのかもしれないのだが…。
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ヤクザ者だから純粋さを失わない人間   拝啓天皇陛下様

2012-09-23 | 映画

拝啓天皇陛下様/野村芳太郎監督

 三度の飯が食えるというだけで軍隊に憧れ、さまざまな軍隊生活の苦行に接しながらもやはり飯が食えるということと、娑婆の世界の苦難よりは軍隊の水に合ってしまうというある意味純朴過ぎる主人公の生涯を描いた作品。時代の背景もあるが、貧乏ゆえにヤクザ者として生きている純粋な青年が、お国のためというよりも、普通の人間なら生き地獄のようなつらい軍隊生活に安寧を見出すという不思議な味のコメディになっている。
 主人公の渥美清は、後の当たり役である寅二郎の原型とも言える人物を好演している。ヤクザ者だが根は悪いところなど無い、むしろ世間の風当たりのつらさから人懐っこさと純粋さが損なわれない、日本人がある意味で勘違いしてしまったような任侠人の原型が生まれたものであるようだ。まてよ、しかし森の石松というのもあるから、浪曲やら浪花節の世界観を近代風に仕上げているということかもしれない。
 日本の軍隊というのは特殊な場所だったというのは現代人にとってはむしろ当たり前に思える事だが、この映画でもそこのあたりは辛辣に描いては居るけれど、英国の学生寮の話だとか、米軍のいじめなどとも通じるところはたくさんあって、もちろん時代背景や豊かさが違うということはあるにしても、団体生活における人間の醜さというのは、どこの国でも同じような事が起こるものらしいことが分かる。しかしながらそうでありながら、やはり天皇陛下という神様の存在は、今の北朝鮮の様なところはあるにしても、何となく日本の特殊なところだったのかもしれない。親しみを抱きながら危うく不敬罪に問われそうになったり、その時代の社会の滑稽さも見事に描き出されている。
 娑婆という世の中ではどうにもうまく渡り歩くのがつらい変な人間であっても、お国のためである軍隊では、天皇陛下の赤子としての人生を全うする事が出来た人間というのが、皮肉でもあり悲しいということでもある。たとえ命の危険があろうとも、人間社会はそのような残酷さをはらんでいる。こちらの世界に生まれながらにして生きている人間には理解しがたい疎外された人間がいて、しかしそういう人間であっても、ある意味で平等につらい思いを共有できる軍隊という社会が、主人公にとっては安寧の世界だったのだ。そうして戦争を生き抜き、やっと戦後を迎えて、曲がりなりにも何とか結婚まで行きつこうということになるまで、いわば、軍隊からの本当の卒業が果たせるようになるまでが、彼の本来の姿でもあった訳だ。もちろんその後の事は知りようが無いのではあるが。
 考えてみると、確かに世の中は大きく変わってしまった。このような人物がこれからも愛され続けるのかというのは、かなりリアリティに欠けているという気がしてくる。困った人物でありながら、時には非常に哀れな人間でありながら、放っておくことができない愛すべき人物というのは、これからは共感の出来なくなる事になっていくのではあるまいか。ある意味では根っからの悪さは抜けきれない事は分かっていながら、それでも付き合うだけの器量というものが、それはある意味で忍耐を伴うことでもあり、厳しいながらも許容のできる懐の深さだったかもしれなくて、失われた事は仕方が無い面もあるにせよ、映画のような世界にしか、残っていかないものなのかもしれない。もちろんそれは、人の暮らしていくには、より良いものではあるのだろうけれども…。
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腹七分目は習慣化できるか   寿命は30年延びる

2012-09-22 | 読書

寿命は30年延びる/白澤卓二著(幻冬舎新書)

 こんな本を読むなんてヤキがまわったのか、と疑われるだろうが、ちょっと眠気防止に仕方無なく読んでしまった。自分の寿命がどれくらいかも知らないし、さらにそこから30年延びるなんてかえって恐ろしいくらいである。アンチエイジングなんて言葉も嫌いだし、おおよそなんでこの本が僕の本棚にあるのかもよく分からないのだが、よく分からないのが自分であるのもいつものことなので特に気にしないでおこう。年相応に老いて死ぬ方法に役立つこともあるかもしれない。
 書いてある内容はごく常識的な事ばかりかもしれない。しかしながら最近いろいろと体の不調があったせいもあるのだろう。分かっているからあえて実行しないという反骨精神も段々と薄れている。まったく不健康な年頃になったものである。いつまでも若くありたいという思いは微塵も持ち合わせていないものの、だからと言って誰よりも早く老いてしまいたいという願望がある訳ではない。それにやはり病気で長い時間苦しむのは嫌かもしれない。この本にある理屈によると、ある程度の若さを保ちながら老いることで、加齢による病気の発症の先送りができる、というのは合理的には気になった考えだった。まるで日本の行政の行動を個人に還元したようなものだろう。そのような狡さは個人的には野望として持ち続けても支障はあるまい。
 サーツー遺伝子やサーチュイン遺伝子というのがあるらしいことは知識として知っていた。米国にはそのような遺伝子が活性化するサプリメントがあるらしいけど、日本であるのかは知らない。しかしながらそういうものに頼らなくても、そのような長寿遺伝子が活性化する簡単な方法があるらしい。それは単にカロリー制限をすることである。昔から腹八分目医者いらずというのだそうだが、もう少し減らして腹七分目くらいだと、長寿遺伝子が働きだすのだという。方法は単純で簡単だが、実行はそれなりにつらいし難しい。世の中というのはうまい話というのはなかなか無いもんなんだよね。
 そういう事実らしい事を確認して、さて諦めるかやってみるかという選択肢をどうするかということで道が分かれる。どの時点でその分かれ道に立つのかというのも問題だが、知っていて知らんぷりするというのもかえって臆病なことなのかもしれない。基本的にはダイエットだもんね、ということにしておいて、それなりに効果を期待なんぞしてしまうのも老後の楽しみかもしれない。飲んでいるとそのことをすぐに忘れるので、乾杯前にいちいち思い出すことができるのか。何年かしたらその答えの一端が、ひょっとすると現れるかもしれないと期待をしておこう。
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身近にある危機との共存

2012-09-21 | HORROR

 土砂崩れの恐ろしさというのは、建物の崩壊や命の危険というのもあるが、やはりいつ起こるか予測しづらいというのがあるようだ。斜面からの泥水のあふれ方や、ミシミシという音がするという話も聞くが、気持ちが悪いながらも、その場所から非難するかどうかというのは悩むところではなかろうか。ましてやそれが自宅であるとして、自分の住んでいるところへの不安がありながら住まい続けるというのはどんな心境になることだろう。
 長雨で雨量がかさむと地滑りの危険が高まる訳だが、近年はそのような災害が増えているのだという。つまり長雨が以前より増えているということだ。過去十年間のデータで比較すると、その前の十年の2倍増ということらしい。原因としては海水温の上昇があるようで、日本列島沿岸部に至るまでの海水温が上がることで、偏西風の通り道に変化が見られるという。以前は日本列島を横切っていた風が、日本列島に沿って流れるようになっているらしい。海からの上昇気流にのって雲が発生して、そのまま列島をくまなく通るような雲が増える。一度雨が降り出すと、次々に雨雲が絶え間なく続いて生まれて連なるために、結果的に長雨になってしまうようだ。一日の降雨量が少なくなっても、連日の雨でトータルの雨量が増えるために、地層に蓄えられる水の量が増える。結果的に崩れやすくなり、さらには深い地層まで水が浸透するという事態も起こり、いわゆる地滑りの大規模化や深層崩壊といわれる表面より深い場所から根こそぎ地層が滑り落ちるということが起こりやすくなっているそうだ。
 台湾で500人という命をのみ込んだ大規模な深層崩壊の事故が起こった事もあり、地層の似ている日本においても脅威度は増している。そうして実際に最近の紀伊半島の災害ということもあった。比較的なだらかで、これまでは地滑り危険の低いとされていた場所も安心できないという。ましてや今回の紀伊半島の被害個所は、川を挟んだ対面の斜面が滑ってきて対岸の集落を襲ったものだ。その場所に居れば、確実に悲惨な目に会うことになってしまうだろう。
 地震や津波という非常にインパクトの強い災害の前に、災害の一点に集中してしまうように見える地滑りというものは、いくばくか軽んじられる可能性もあるように思える。しかしながら火山灰の堆積した地層が多いことや、長い歴史上プレートの動きで折れ曲がった地層が幾重にも堆積しているという構造が、深層崩壊という危険をはらんだものになっていると指摘する専門家もいるようだ。雨が降れば、どの場所が崩れるのかという予想がつきにくい災害であるもののようなのだ。
 台風銀座に長雨に、頻繁にさらされる宿命を背負う日本列島に移り住んできたご先祖様たちは、何から逃れてこの新天地を求めたのだろうか。日本人が災害とつきあいながら生活してきたということについては、その気質というものとも関係があるのかもしれない。その意味はひも解かなければ理解はできないのかもしれないが、これからも危険と共に生きながらえる術は身につけていかざるを得ない問題なのであろう。
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崇高な人間しか踏み込めない世界   昆虫標本商万国数奇譚

2012-09-20 | 読書

昆虫標本商万国数奇譚/川村俊一著(河出書房新社)

 虫取りに人生をかけている人の冒険談、ということで間違いは無いが、これが血沸き肉躍るような楽しい話、というような訳にはいかない。いや、お話は面白いが、その冒険に付き合って、つまりこの話を読んで虫取りに憧れる人がどれくらいいるのか。もちろん著者のサービス精神もあってエピソードの面白さそのものは際立っているのだけれど、どちらかというとこういう体験はまっぴらというか、いくら虫好きでもやはり冒険は止めた方がいいかもしれないとか、かえって躊躇してしまう人も居るのではあるまいか。
 アジアや南米の混沌というのはあるかもしれない。日本人には得体のしれない過酷な世界だ。また自然も厳しい。災害にも巻き込まれるし、人災にも巻き込まれる。本当に命がけということもあるようだし、監禁されたりすることもあったようだ。懲りている事もあるだろうし、既に取り返しのつかない事もあったようだ。しかし彼は現地に行く。自分で蝶を捕る興奮に代えられないものが無いかのようだ。
 冒険譚の他にも色々な虫にまつわるエッセイが入っている。いや、虫だけというより本人の人生というか。もちろん虫と切り離せはしないのだけれど、虫に懸ける情熱は子供の頃より変わらないようだ。そうして著者自体が特異な虫好きに過ぎないかというととんでもない話で、彼の先輩や先達や偉人がごろごろいる世界なのだ。むしろその存在に叩きのめされ、あこがれ、追い付き追い越せ、という感じで、さらにまた虫の世界にのめり込んでいき、ついには標本商として生きていくことになってしまう。対象が対象だけに凄まじいものがあるようで、好きであるということを越えて生きていくサバイバルそのものということになってしまうのだろう。
 かえって躊躇するものが出る心配をしたが、しかし、これは魅力的な生き方であるとはいえないでは無い話でもあるのである。というのも、実はちょっとは憧れる気持ちがあるのである。いや、僕にはとても無理には違いないのだが、そういう生き方のできる男というのは世の中に居ていいような気がする。そしてそういうことが実際にできる男というのは、同性として何と無く羨望してしまうというか…。
 地位や権力や金の面では、もっと凄いのは居るのかもしれない。しかし人間の頭脳を駆使しながら、実際に地球上の神秘に直に触れている前線の男たちというのは、いったいどれほど居るというのだろう。どういう訳か女の人にこういう人は少ないようだけれど、このような興味だけで生きているような男というのは、純粋に苦しくても楽しいのではあるまいか。
 別段死に急いでいる訳では無かろうが、ひょっとすると命にかかわることもあるかもしれない。それは頭の片隅にかすめているにもかかわらず、次の森には探している蝶が居るかもしれないという思いが、彼を駆り立てていくのだろう。また、そのように考えられる気持ちが羨ましい。そのような情熱に駆られなければ、とてもそういう気分になりはしないだろう。そうしてよく分からないが、本当にそのような願いがかなうかどうかも本当は分からないことなのだ。
 やはりこれは純粋に冒険譚なのである。そうしてそういう冒険の心を満たすことができる最後の領域が、昆虫の世界に間違いなくあるということだ。ダイレクトに地球とつきあう方法として、虫とともに生きる道を選ぶ。それは実に崇高な人間性だと言わねばならないのである。
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散歩は(あくまで)ダイエットのためではないのだけど

2012-09-19 | 散歩

 春先に74キロを超えた頃からダイエット宣言をして、昼を抜いたりキャベツや豆腐を食ったりしていた訳だが、間あいだにいろいろと無茶食いを入れるようになったりして、かえって体重が増える結果に陥っていた。盆前になるとついに78キロを超える事態になってしまっていたのだ。体重を量ってグラフを付けていたのだが、延々と右肩上がりで線が枠からはみ出してしまっていて、つけることもいつの間にか断念していた。ダイエットを始めたばっかりに4キロ増えるとは何たることだろう。
 そうやって焦っているうちにいろいろと体調不良が続き、少しばかり規則正しい食生活(入院したり)になったら何とか75キロ台も見えてくるようになった。改めてそういうことだったんだね、という感じだ。もう少ししたら元書いていたグラフにも線を書く事が出来るようになりそうだ。
 前にも書いていると思うが、運動で痩せるというのは難しい事である。しかし、何故だか少しばかり運動をした方が効果があるのは確からしい事で、たぶんそれは精神的な面が大きいのだろうと思う。実際は効果の無い事ではあっても、運動を取り入れるとダイエットらしくなるというか、継続性を保って食生活が改善されるということになるのだろうか。あくまで運動でカロリーを消費した原因で無く、食べない動機付けが強くなるということなのである。
 夏場は気温が高いので体温を保つための代謝が落ちるのでダイエットが難しくなるという話も聞かされた。理屈の上では「へえ」ではあるけど、一番重たい水分が出たり入ったりする激しさもあってか、体重計の目盛りの上下は少しばかりはげしくなるという感覚はある。もちろん脂肪分を燃やさなければ意味が無いということは言えるのだけど、数値で現れる体重は目安にしやすいということはある。真意の程は知らないが、そういう上下の動きを確認しやすい季節という意味では、ダイエットの励みになりやすいのは間違いがなさそうである。寝る前と目覚めすぐの体重差が大きいので、なんだかお得感もあるというか。結果を求めやすいということは、精神的な持続も比較的容易だ。夏はやはりどこか味方につけやすい季節なんだということは言えそうである。
 もちろんもうすぐ季節は秋だ。血液検査の数値の事もあるんで、11月くらいまでは頑張ってみようと思います。その先はその時になって考えよう。普段は有言実行は気が小さくてやれなかったのだけど、今回はそのあたりも何とかしてやろうということで、頑張ってみます。
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旨いコメこそ世界を回る

2012-09-18 | culture

 日本から見たら地球の反対側にあるウルグアイで、米作りに奮闘する人のドキュメンタリーを見た。
 もともと田牧さんは福島を飛び出してアメリカで米作りをやった実績のある人で、なんでそんなことをしているのかというのは、追々分かっていくようになる。単純に旨いコメを世界に広めるということに情熱を傾けているわけなのだが、言下には表現されていないものの、それは日本の閉鎖性からの脱却を志しているということも感じられた。フロンティア精神とチャレンジ精神。そうしてその芯には日本の高い技術を引っ提げて、世界で戦う強さも体現している。
 旨いコメである自信はあるものの、やはり文化や風土も制度も違う。坦々とレポートされているものの、作物を作ることは根気も必要だ。そして資金やある程度の計算もあるだろうけれど、ギャンブル的な度胸も必要だろう。障壁は大きかったはずだが、それでも大規模な土地やさまざまなメリットを最大限に活用して強みを生かそうとしていく。地球の反対側に通って、まさに地に根を張り巡らそうと奮闘しているのである。
 日本のコメを食べてもらうために地道に啓蒙活動を重ねたり、実際にどのように旨いのかを見極める方法を確立していき、そして何より、そのような全体的なものを実にうまくアピールするということを実践していく。土壌を改良し、水を管理し、精米や米を炊くために日本の製品も同時に広げていくことにつながっていく。着実にしかし大胆に、日本人など誰もいない大地で奮闘していく姿は、本当にたくましい。
 現在は日本にも帰ってきているようだが、しかしこの日本においても懸念すべき問題を指摘する。なんと、日本の基本的なお米の質が劣化しつつあるというのだ。ベースになっているものが危うくなっては、有意性のある旨いコメであるという基本的な価値が崩壊しかねない。そして日本の一般大衆は、そのことに微塵も気づいていないのである。
 田牧さんと共にコメの研究者も海外へ進出して行こうとしている。日本の内向きな農業政策にあって、本来的に必要な研究の土壌が海外にしか見いだせなくなりつつあるからだ。優れた人材は、日本で活かしようが無いのである。日本の保護的な農業の現状が、自らをどんどん蝕んでしまっている。それは日本で米を作っている農家であっても気が付いてないのかもしれない。
 将来的には日本のコメは、海外から調達せざるを得ない時代が来るかもしれない。それも安くレベルの高い旨いコメが国内のコメを席巻すると同時に、自滅した農業を補うという形になるに違いない。国内向けにしか意味をなさない自給率のようなインチキでかさ上げした保護政策で、国民の税金をかすめて延命しようとする国内の農業政策は、多かれ少なかれ未来の無いことは確定している。
 このような海外進出を果たすような人たちが、結果的には日本を助けることにつながっていくのだと思う。日本人の生きるまっとうな道は、このような柔軟で勇気のある行動に宿っている。現在の視点から異端であるように見えかねない田牧さんのような人が、これからのスタンダートになってこそ、ひとつの日本人の未来を決めるモデルになるに違いないと感じた次第である。
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理屈で真実を語れないからファンタジー   ネバーエンディング・ストーリー

2012-09-17 | 映画

ネバーエンディング・ストーリー/ヴォルフガング・ペーターゼン監督

 エンデの原作が良すぎるので、まあ仕方ないかなという思いも割り引いて観ることになる。英語というのも気にならない訳ではないが、まあ仕方ないです。むしろ監督の出世作のUボートとはかなり違う作風なので(当たり前だけど)、それなりに楽しんで作られたものかもしれないな、とは思った。また、CG全盛の現代の視点から見ても、なかなか新鮮な映像世界だと思う。80年代の僕らの記憶よりも、なんだか古典じみて見えるのは、そのような時代の流れの速さなのかもしれない。
 ファンタジー世界の生き物たちの面白さというのもそれなりに生きている。動きがそれなりに面白くて、その造形に凝っているらしいのは見てとれる。キャラクターのデザインのセンスが、やはり外国ものというのはずいぶん日本のそれとは違うものだと思う。おどろおどろしくもあるけれど、どこか滑稽に感じる。ディティールでは表情には凝っていても、体の部分のデコレーションは過剰になっていない。オリエンタルな怪獣たちとはやはり考え方も随分違うのかもしれない。
 別のテレビ番組で解説があったが、日本の妖怪というのはモノであるとか、何かが変形してなるものが多いが、外国ものは生まれつき怪物で、変化しないのが普通だということだった。魔法ものでは蛙にさせられたりするものもあるようだが、あれは確かに妖怪のようなものではない。生まれつきそういう生き物であるのがモンスターなどの類で、いわば生き物の種類の一つという捉え方なのかもしれない。日本だと生物とはまた別のものという感じがあって、翻訳のしにくい存在なのだそうだ。日本でもそのようなものとの自然との付き合いのようなものはあるようだけれど、どこかそれはファンタジーとは違うような気がしないではない。トトロなどは、あんがい西洋的なモノノケなのかも分からない。宮崎監督自身がかなり西洋趣味な訳だし、日本ではむしろ特殊な部類なのだろうか。
 子供心というのは、大人になってしまうと本当に忘れてしまうものだ。この映画のような心情は、見ている側だから答えが分かっており、登場人物の子供にそのことを教えたくはなる訳だが、そういう背景が無いことには、本当にそのような答えが自ら分かったかどうはかなり怪しい。つまり本当は既に忘れていた訳で、ファンタジーはあくまで大人の解決法では無い。しかしながら、このような強引さもありながら、子供の解決策の方が、やはりファンタジーとしては納得しやすいようにも思う。被害を受けたものを損害賠償してもらっても仕方が無い。同じような恐怖をいじめっ子に味わってもらうことが、何よりすっきりするのである。そのようなことでいいのかどうかは大人の判断としては問題がある。だからこそファンタジーが人間には必要になるのではあるまいか。理屈でいうとそういうことになるが、しかしその感情は理屈では無い。理屈ではないがファンタジーが強く心に響くのは、そのような真実が物語の中に隠されているからなのだろう。
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元祖の強み

2012-09-16 | 

 訳あって大分に出張してきた。会議研修なので缶詰になると、楽しみは食いもんということになる。関サバ関アジ城下鰈。大分市ということもあるんで、どれも近隣という楽しみかもしれないが。
 弁当や懇親会の料理でも、それぞれ少しはでていたものもあったらしい。そうかもな、という気分はあったが、何となく食ってしまって口惜しい。給仕の女性に確認すると、「厨房に聞いてまいります」という。そうしてさっきのものが、そのものであったという。今が旬なのかと問うと「また、聞いてまいります」という。聞く方も聞かれる方も忙しい。かと言ってじっくり会話する訳にもいかないという間柄である。結果、鯵は夏(今くらいまではギリギリらしい)、鯖は冬(2月くらいかな)ということだった。で、さっき食ったのは鯵だったみたいで、少しは目的が達せられたかもしれない。
 二次会に繰り出すが、いけすの店で、鯖は不味くは無いが、たぶん関じゃないんじゃないかという気がした。そのうち話の方が忙しくなってそれきりになった。食い意地の張った人ばかりじゃないので仕方のない事だ。
 翌朝になると帰りに何を食うかということになる。そう言えば鶏飯というのは食ったみたいだったが、とり天はまだかもしれないという話になる。ネットがあるので、ざっと調べると、どこにでもあるという。どこにでもあるなら帰りに適当に寄ればいいという話にもなる。しかし、帰り道にキョロキョロした範囲では見つけきれずにインターチェンジについてしまった。これも縁だから諦めて帰ろうということになってしまう。食い意地が張って無い集まりは淡白なのである。

 調べている中で、とり天の元祖問題というのがあることを知る。古いという意味の元祖では別府の東洋軒という店のものが有力であるらしいのだが、大分市の食堂(キッチンいこいと丸山という二店が元祖という)もその後独自開発して売り出したという歴史もあるらしい(つまり別モノとして)。元祖争いでは両市に論争や異議申し立てなどもあっているらしく、面白いと言えば面白そうだ。郷土の料理としては定着しているものと見えて、スーパーなどの普通のお惣菜としても売られているのだという。
 観光のクチコミでも混乱があるようで、天ぷらと思って注文したら唐揚げだったというような記述もあって、食べている人自身が区別のつかないような人が混在しているようだ。実を言うと過去に何度か大分には来ているので食べたことはあるが、ちゃんと違うくらいは分かりそうなものである。また、さらに実を言うと、今回も弁当や朝食ビュッフェの中にも、あったような気がする。まあ、それくらい名物というか一般的な食べ物として、定着しているものなのであろう。
 どこで食べてもいいものだろうけど、しかし元祖があってそこでなければ本来では無いという感覚は、やはりそこに正当なものと邪道なものという感覚があるのかもしれない。ブランドものの強みとも言えそうで、一度そういう認知のされ方をすると、何しろ元祖だから変わりようが無い。その地位を考えると、元祖であるか無いかというのは、やはり重要なことなのかもしれない。
 結局帰りには食いっぱぐれて、少し車を走らせて湯布院でゴボウ天そばを食った。平日の午後だというのにそれなりの人で通りが埋まっており、このような観光名所というブランドも、なかなか貴重であることが分かる。問題はやはりどれだけ持続維持していくのかということもありそうで、そこらあたりはたゆまぬ努力もいるのかもしれない。しかしここを参考にして町おこしをするところもたくさんあるのだろうけど、やはりここほど強く成長しているところも少ないように思える。ある意味で元祖の偉さということは、やはり大きな違いということなのであろう。
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