カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

元々いきなり世界性がある作家   もういちど村上春樹にご用心

2024-07-23 | 読書

もういちど村上春樹にご用心/内田樹著(文春文庫)

 村上春樹に関する論考集。村上春樹が素晴らしいという思いを、さまざまな角度で論じられている。元は著者のブログで書いたものを下敷きにしているようだ。著者の内田先生は、村上春樹が日本の主論壇で正当な評価がされていない感じに不満があるようだが(実際村上を無視するものを含め、明らかに嫌っている日本の古くからの批評家はそれなりにいる。もちろん嫉妬している人も含めてかもしれないが。批評家のすべてがそうとは言えないまでも、作家になれない批評家というのは、それなりに存在する。村上はそのような批評家を過去に何度もあざ笑っている。要するに村上自身も不満があるということなのだろう)、村上春樹は確固たる世界的な評価の高い世界文学者である。そうして実際にその文学性は、驚くほどに世界水準で抜きんでている。いったいそれは何故なのか。それは、読むもの一人一人に対して、実は私のために書いている物語なのではないかと思わせるものを、村上が書ける作家だからなのである。そうして日常のことを書きながら、異界の世界へ出入りして、そうでありながらそれなりに訳が分からない。
 村上春樹のそのような描写の解釈であるとか、テーマ性であるとか、音楽であるとか、料理であるとか、アイロン掛けであるとか、父性の不在や、邪悪な不条理性なども論じてある。なるほどね。それらは僕らを虜にして離さない、村上春樹の魔術のそれぞれである。なんだか最近は、ノーベル文学賞を受賞するほぼ確実性について盛り上がっている感もあるけれど、それもどうだかよく分からない感じになっている。昨年久しぶりに長編小説が発表され、もちろん小説としてはベストセラーになったものの、これまでの村上作品のように爆発的には売れなかったようにも感じられた。村上春樹は国民的な作家であるだけでなく、繰り返すが全世界的な作家であり人気があるが、普通の男にはできないことをさらりとやり遂げて、しかしながらそれを何とも思っていない風を装っており、嫉妬される。そういうことを繰り返して、毀誉褒貶が絶えることが無いのである。
 僕もご多聞に漏れず中学生からの読者で、おそらくコアな村上ファンだ。何度もファンレターのようなものを書き、それらに媒体を通してお返事も頂いたこともある。当時は感激し、それらは家宝にしている(たぶんあると思うが)。村上春樹についてわからないことがあったら、ご用心を読んで、さらに混迷を深めてほしい。
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洗脳から逃れて自由に生きる   「集団主義」という錯覚

2024-07-19 | 読書

「集団主義」という錯覚/高野陽太郎著(新曜社)

 副題「日本人論の思い違いとその由来」。日本人が集団主義的だというのは、いわば常識化している言説である。僕はそうではないと知っていながら(これまでもその説は怪しいというのは聞き及んでいたので、完全には洗脳されていないと思っていた)、これを読むまでは、本当には知らなかったことを知った。日本人が集団主義でないことを、これでもかというほど実証している訳だが、それでも集団主義だという思い込みは、海外からも日本人からも抜けてはいない。その謎がどうしてなのかも証明してある。証明しているが、それでも呪縛から抜けることが、簡単でないことも解説してある。それほど根深い問題が、間違いなのに完全に流布している。それが日本社会であり、西洋人の思い込みだ。何でもステレオタイプに理解すると話が早い。そうであると認める方が、お互い分かり合えると誤解できる。それほど思い込みというのは厄介なものだ。それを思い知ることは、人間として生きていくためには必要なことのように思える。必要なことなのに、それを備えていない人間の方が多数である。それを絶望するか、はたまた喜ぶべきか、読んで確かめてみるべきだろう。
 実を言うと、そのような洗脳から逃れられない日本人論を、喜んで納得して読んできた個人の歴史もある。ブログを見返してみると、昨年も日本人の働き方を論じた西洋人の本を読んでいた。その内容をそれなりに正確に理解したうえで、今思い返してみると、その実証的な調査に基づいて論じてある論旨は、ある程度間違いであることにも今気づかされた。彼女らの考えのもとに間違ったバイアスの認識があるので、日本人を誤解していただけだったのだ。ちゃんとした学者の研究なのにこれだから、日本人論は難しいのである。おそらくちょっとした正確さをもって日本人を見ている外国人は、コンマ1%も居ないことだろう。
 もっとも同時に、例えばアメリカ人が日本人に比べて個人主義的か、という問題がある訳だ。正しい答えとしては、ちゃんと実証すると、日本人とアメリカ人は、同じ程度には個人主義的ではある。むしろ日本人の方が少し個人主義的なのだが、誤差の範囲かもしれない。今のアメリカの大統領選前の雰囲気を見ても分かる通り、アメリカ人というのは、非常に集団主義的な人種でもある。様々な人種が混ざり合い、アメリカとして団結するためには、個人主義だという価値観を持ちながら、集団主義的に物事を把握していかなければならないようだ。個人主義的な日本人の目から見ると、かなり奇異なる光景なのだが、そのことに気づかないほどに熱中して集団主義を邁進しているのである。そうして彼らは、個人の自由を犠牲にして自分たちを保護し、ひどく差別的な政策を自己正当化していくのである。彼らに個人主義的な価値観が少しでも残っているのなら、そんなことにはなり得ないのである。
 それでも日本人は、これからも集団主義的であると信仰してはばからないだろう。ほとんど馬鹿みたいだが、それが洗脳というものである。もっと自由に生きていきたいなら、迷わず読むべき必読書であろう。
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進化にとりつかれた人々の営み   進化のからくり

2024-07-07 | 読書

進化のからくり/千葉聡著(講談社ブルーバックス)

 副題「現代のダーウィン達の物語」。その副題の通りの内容なのだが、ダーウィンの進化論に魅せられて生物のことが好きなったというよりも、さまざまな生物の不思議を確かめていくにつれて、その基本的な考え方の骨組みにもなっている進化論に思いをはせるようになる研究者たちの行動を記録しているという感じだ。現代の科学的な調査の方法の前に、生き物には向き合わなければならないし、その生き物たちと出合うためには、人間では侵入しにくい過酷なジャングルのような場所へでも厭わず出向く必要がある。生物は様々なところに住んでいて、さらにそのさまざまな場所に適応して進化し続けているのかもしれない。そうして進化の過程において、時代の変遷において、近隣の仲間と交雑したり、離れていってしまったりする。形を変える過程で、そこに住む捕食者などの影響を受けて、派手になったり地味になったり、大きくなったり小さくなったりする。また捕食者のみならず、寄生虫によっても運命を変えられるのである。
 著者はカタツムリを専門とする研究者だが、そのカタツムリのみならず、さまざまな研究者と互いに貝などの研究をするうちに、進化論としてどのような進化の形をとったのかという論文ができて、そうしてその内容について国際的に激しい論争になっているトピックを紹介している。自然を読み込む方法や考え方において、時代を重ねるごとに新しい見地が見いだされ、そのことで激しい論争を繰り返してきた歴史があるのだ。そうしてそれらの発見においては、熾烈な研究の争いがある。誰が先にその研究成果を上げられるか、時間と戦いながらも、手を抜くことなく広範に物事を捉えながら、研究は進めていかなければならない。それは単に研究費用を獲得するというような、矮小な競争なのではない(それももちろん大切なんだが)。人間の根源的な好奇心をもって、なんと好きというだけで、この世界で頑張っている人々がいるのである。それも基本的には優秀な頭脳の持ち主ばかりで、あまり合理的とは言えないながらも、研究に魅せられていくのかもしれない。まあ、スポーツをやったりサーフィンやったりあちこち移動したり、という楽しみはあるのかもしれないが……。
 この本を読んで進化論の歴史、とりわけ日本のそれについても一通り認識を新たにすることができた。それというのも僕が進化論や、動物などが好きな理由の一つが、若い頃に今西錦司の存在を知ったからかもしれない。偉大な先生だったから、日本にはその弟子たちも偉大な人が多い。サル学なんかでは、その系譜は今に続くのではないか。しかしながら若い頃に読んだそれらの説というのは、バッサリと現代では切り捨てられてしまっている。そういう事もちゃんとこの本ではふれてある。ああ、やっぱりそうだったんだな、と改めて思う訳である。
 それにしても進化論をめぐって、今でも世界中の学者たちが研究を重ね、珍しい進化の不思議について、新たな論文が書かれているはずである。何しろいまだに謎が解けていない分野もたくさんあるのだろうし、検証の必要なものだってごまんと眠っているだろう。そういう複雑さの統合のようなものが、まだ欠けているものがたくさんある進化論の姿なのかもしれない。英語で言えばエキサイティングな現場が、そこら中に広がっているのが地球なのである。神は細部に宿る。研究者が感じているのは、そういう事なのではあるまいか。
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カタツムリを探してみよう   歌うカタツムリ

2024-06-25 | 読書

歌うカタツムリ/千葉聡著(岩波書店)

 副題「進化とらせんの物語」。生物進化を考えるにあたって、スター的な存在の生き物がいる。それがカタツムリである。カタツムリは非常に多様な生き物だからである。住んでいる場所で、山であるとか谷であるとか、その形状ごとに同じ種でも形や色やその他の特徴が違う。カタツムリを子細に調べることで、さまざまな進化の議論が展開されてきた歴史がある。そうしてそのような議論の証明や考え方に、カタツムリそのものが答えてきた壮大なドラマがあるのである。
 そんなカタツムリに魅せられた研究者たちの戦いの歴史を軸に、その考え方の解説がなされていく。環境に適応して違いが出ることから、適応的な進化をするとする立場と、それでも時間の経過などで偶然に進化するとする立場とが、激しい論戦の戦いを展開させてきた。また、その説明に適合する状況を、カタツムリは提供しているように見える。だが一方で、その説明に合わない状況も時折見つかる。天秤が揺れるように、歴史の上で両者の軍配が、揺れてはまた逆に傾いていく。そうして時には人間の仕業で、絶滅に追いやられることもある。人間は神の領域に、踏み込んでいくような愚かさのある存在なのである。
 そのような研究者たちの系譜に、著者である研究者たちもその知見を積み重ねていく努力を日々行っている。過去の亡霊やあたかも呪いのようなものと戦うべく、現代もその論争は続いている。ただし、新たな統合的な行方も示唆されている。著者はどちらが勝者だという考え方よりも、その二面性を統合して考えることを進めているようである。それらの研究の上に、新たな発見や知見が生まれるのであるから、一見過去の誤りに見える研究であっても、無駄にはならないということなのかもしれない。
 進化論というのは、DNAの発見や過去の化石なども含めて、実験や観察や歴史も含めて、実に総合的な見方を必要とする学問である。そうしてそれは、生き物だけの不思議を解くだけでなく、物理法則や地球の在り方や宇宙に至るまで、実に様々なものを語ることにもなる。そうしてそれらを語る存在として、カタツムリは重要な位置に居続けているのである。身近でありながら壮大な物語の世界に、魅せられること請け合いの良本である。
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眠れない人のことを考えて眠る

2024-06-23 | 読書

 村上春樹の短編「眠り」を再読した。きっかけは書評家の三宅香帆が紹介していたから。本棚を見ると「TVピープル」もあったのだが、何故か「全作品1979~1989⑧短編集Ⅲ」の方に収録されている方を読んだ。こちらは村上春樹自身が、これらの作品を書いた状況をメモした文章もある。村上はこれを「ダンス・ダンス・ダンス」を書いた後、小説は何も書けなくなった時期を経て、翻訳をたくさん書いてはいたが、ともかくその後に書いた短編なのだという。ローマで、まちの陽気な人々を見ながら、このような眠れない人のことを書いた。
 あらすじにすると単純で、ある日眠れなくなった主婦がいて、それも不眠というのとは違う、別に眠れなくても平気であり、しかし不安は抱えながら、ひたすら読書をして、日常生活を送って、プールできっちり泳いだりする日々を描いている。著者は何の寓意もなく書いたと書いているが、なにかの寓意を感じさせられる物語である。ブランデーを飲みながらチョコレートをかじり、ひたすらアンナ・カレーニナを読むのである。それも三度も繰り返し。昼は夫と息子の世話をし、食事を作り洗濯をし買い物をして、夕方プールで一時間きっちり泳いで、さらに読書をする。体は締まって若返り、それに比べて夫の寝顔はだらしなく見え、息子にも将来は愛情が薄れるだろうことを予感する。そうして夜に車で外出するようになり、ホラー体験をする。
 いったい何の意味があるのか僕にはさっぱりわからないのだが、おそらく女性の持っているある種のまわりの不理解に対する孤独、のようなものを描いているのではないか。夫は悪い人間では無いし愛してもいるが(セックスにもこたえられる)、決定的に自分を理解している人ではない。そうして息子は、その夫に似ているのである。それは、実際は耐えられないほどの問題ではないのだが、しかし決定的に欠けている何かである。世の中の妻の悩みを代弁している、あるいは表現させている小説なのかもしれない。もっともそれは勝手な寓意の読み違いかもしれないが……。
 確かに何か恐ろしい物語なのだが、そういう風に考えているだろう妻がいるかもしれないというのが、男である僕の感じる恐怖感かもしれない。妻は夜には寝ているようだけれど。
 もっともそういう感じのことは、大げさに考えないのであれば誰にだって当てはまりはするものである。それが作り物である小説の持っているリアリティであり、真実である。そういうものを発見させられて考えさせられる。そうではない人もいるのだろうが、身につまされるというか。しかし人間であれば僕らは寝てしまう。それで平和が戻ってくるのであれば、さらにいいのであるのだけど。
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グルメ旅行のはずが、深淵なる二人の世界   台湾漫遊鉄道のふたり

2024-06-19 | 読書

台湾漫遊鉄道のふたり/楊双子著(中央公論社)

 時代設定は昭和13年の台湾。日本の統治下におかれた状況だが、いわゆる軍事的な物語とは少し違う。この物語の作家は、設定として若い日本人作家の青木千鶴子である。書いた作品が映画化され、日本はもとより台湾でも評判になる。その為に台湾で講演の旅をすることにして、その通訳に現地の若い女性(国語教師だが、結婚を前に辞しており、堪能な語学の才能のために抜擢された)の王千鶴があてがわれることになる。千鶴子は自由奔放な性格で、背も高く大変な大食漢である。というより、食に対する獰猛な執着がある。対する千鶴は、頭脳明晰なばかりではなく、料理も上手で、あらゆる台湾の食事情にも通じでいる超人である。この二人が台湾の美食を食べつくす旅の物語かと思いきや……。
 基本的には美食というか、おやつというか、台湾の習慣や風景を交えての二人のやり取りを楽しむ物語だとはいえる。台湾のまちと共に売られている様々な食べ物がふんだんに出てくるばかりでなく、その素材から調理に至るまで、実に楽しく紹介されている。それをあたかも妖怪のごとく食べつくす千鶴子の様子も、実に愉快なのである。
 しかしながら実は、そういう物語がこの小説の主眼ではないのである。ほとんど美食食べ歩きの描写が実際に続きながらも、千鶴子と千鶴の感情の駆け引きが、それこそしつこいまでに克明に繰り返されるのだ。こういうのを百合小説だというとは、僕は知らなかったのだが、引き込まれて読みながら、男である自分の神経の鈍感さに思い至らざるを得なかった。相手の表情や、目の色や、ちょっとした言葉のあやなどを、彼女らは実に何度も何度も考え思い起こしながら会話をしている。そうして相手の本心が分からないことを悟っている。そんな芸当は到底僕には及ばないしできないし、そもそもやったことが無い。分かっていないことを確信しながら相手に探りを入れて、時には直接的に問いただして、しかもその答えで相手がまだ心を開いていないことを悟るのである。小説ではそれができているが、実世界で僕らがそれをできるわけがないじゃないか。
 最後まで読んでみて、この物語の設定そのものにも、細かい仕掛けが仕込んである世界観であることが分かった。なるほど、どっぷりそういうものに浸れるように、考えつくされているということなのだろう。それをどう思うのかは日本の読者には、多少いろいろあるとは思うのだが、いやいや、これは傑作でしょう。僕は確か角田光代が新聞書評で取り上げているのでこれを買ったように思うのだが、手に取って本当に引き込まれてしまった。グルメ小説でこんなに熱中するなんて自分でも不思議だな、くらいで読んでいって驚かされたのだから、たいへんに貴重な読書体験になった。それに最初から百合小説だとわかっていたら、手に取ることすらしなかった可能性が高い。自分の見識の狭さを、改めて反省した次第である。世の中は広い。面白さというのは、さらに広い視野の向こうにある、ということなのだろう。
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恐ろしいのは思い込みと暴走だ   おろそかにされた死因究明 検証:特養ホーム「あずみの里」業務上過失致死事件

2024-06-13 | 読書

おろそかにされた死因究明 検証:特養ホーム「あずみの里」業務上過失致死事件/出河雅彦著(同時代社)

 特養のおやつとして提供されていたドーナツを食べているときに、一人の入所者の意識がなくなる。他の人の食事介助にあたっていた看護師がそのことに気づき、最初は何か喉に何か詰まらせたのかと考え、背中を叩いたり口の中のものを吐き出させようとしたりしたが、意識は戻らず、脈なども低下する。その後救急車で搬送されるが、数十日後死亡する。家族としては、母親は歯もなく誤嚥する可能性があることを心配して特養に預けており、ドーナツではなくその時別に用意されていたゼリーなどを食介などを通じて与えるべきだとして(またそのように申し送りしたとして)、慰謝料を1300万受け取ったうえに警察に通報したようだ。その為にこの時近くに居た准看護師が起訴され、一審で有罪にされるに至る。しかしながら、死因が窒息であることもはっきりしない上に、介護現場においてこのようなケースで刑事事件として起訴され有罪になることは、社会的な規範として現場職員を委縮させるだけでなく、利用者本人にとって生活を豊かにする楽しみであるおやつなどの提供をも阻むような(またそのような支援を妨げる)社会問題があるとして再審に至り、結果的に無罪確定となる詳細な記録である。
 著者は司法においての情報開示の在り方などに非常にこだわりがあった様子だが(それは大変な問題であることは明らかにされているが)、実際に刑事告発された業務上の事故において、当事者を苦しめる検察の在り方や裁判自体の恐ろしさが、克明に描き出されていることに衝撃をうける。まるでホラー小説だ。彼らにとって事実などどうでもよくて、どうやって人間を落とし込むことが有効か、そのことばかりに執着している。まるで人間的でなく、悪意のある保身集団の在り方が、理解できるはずである。司法は腐っている。そこに生きる人間は、クズ同然なのではないか。
 さらに窒息に関する知識も改める必要があることが分かる。医師は安易な診断として、窒息を死因にしたがる背景があることも分かる。死因を病因とするには、それなりの困難を伴い、さらにあいまいなままでも食事時の背景などを勘案して、窒息とする判断にしがちなのである。後の救命活動などで、逆流して肺などに食事内容が入るなどの可能性もあって、さらに日本では多諸国の5倍にあたる窒息という死因がある現状から、おそらくは誤診がかなり含まれているらしいのである。しかしながら窒息の診断がなされると、これは病気ではなく事故にあたり、現場ではその責任を問われる事態に追い込まれかねないのである。たとえ医師であっても、誤嚥や窒息に関する専門家は少なく、このような事故に当たる判断に導きかねない危険が大いにあることが分かる。
 日本の司法は、事件に当たり本当に真実であるかをあまり重視していない。日本の裁判は、真実を追求するのには向いていないのではないか。特に刑事告発事件に関するものは、死因さえあいまいなままでも起訴できることがこの事件で明らかである。いったん暴走してしまうと、自己反省をすることができないのが問題で、だから事実が何かをあいまいにさせてしまうのだ。そうして社会を委縮させてしまう。日本人がダメになる原因は、あんがいこんなところにあるのではないか、などと考えさせられる内容である。今もどこかで暴走している集団があるはずで、それは司法に限らないと思われる。本当に恐ろしい事実とは、そういう分からないところでの事件なのではなかろうか。
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本格推理小説の入り口   そして五人がいなくなる

2024-05-20 | 読書

そして五人がいなくなる/はやみねかおる著(講談社文庫)

 三人姉妹のお隣の洋館に住んでいる夢水清志郎は、名探偵である。夏休みの遊園地で、天才と謳われた各分野の子供たちが、何故かフランス語を扱う伯爵と称するマジシャンに、次々と消されて誘拐される事件が持ち上がる。この謎をすべて解いた、という割に、名探偵夢水は何にもしないのだった。いったいそれはどうしてなのだろうか?
 という物語。途中で謎というか、事件の動機は分かる。児童文学というか、いわゆる子供向けのミステリ小説で、随所にユーモアと笑いがちりばめてあり、そういう仕掛けの文章を楽しむものであるようだ。三人姉妹のキャラクターや、名探偵夢水の行動も面白いし、刑事さんも犯人も皆ユーモアたっぷりである。あえて言うとわざとらしいのだけど、そういう世界観なんだから仕方ないのである。
 著者のはやみねは、たくさんの著作があるようだが、本作品が本シリーズの最初のもので、当時は小学生の先生をやりながら執筆していたという。本作品などが読まれたことから、専属になっていったのだろう。僕より少し年上の人らしいので、僕にはなじみが無かったのは、僕の子供時代には無かった所為だろう。なので、若い世代の子供時代に、人気を誇った作家さんということらしい。
 巻末に解説以外に、本人が読んできたブックガイドがついている。著者は子供にもっと本を読んでもらいたいという思いがあって、自分でも書いたということのようだ。まさに読書の入り口にある人であるのかもしれない。僕は遅れてやって来たということになってしまうが……。
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夢を読む仕事と運命   街とその不確かな壁

2024-05-16 | 読書

街とその不確かな壁/村上春樹著(新潮社)

 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだのは、高校生のころだったと思う。父と本屋で待ち合わせしていて、ついでに買ってもらった(ラッキー)。当時は分厚い本だと思ったが、夢中で読んだので、長いとは感じなかった。この作品のもとになっているとされる中編の作品は、もちろん読んだ事は無かったし、その存在も当時は知らなかった。もともと村上春樹は、それなりに売れている作家だったし、僕のように若い世代から、それなり以上に支持されている作家だった。もっともその二年後に「ノルウェイの森」で化け物的な人気を博する作家に変貌してしまうのだが。
 そうしてずいぶん時を経て、この「不確かな壁」の長編を読むことになった。昨年の春には予約して購入していたのだが、頭のところを少しだけ読んで、どういう訳か放り出したままにしていた。そうして一年余りして、こうして再び手に取って読むことになった。今年はそんなに寒い冬ではなかったが、やはり内容的には、冬に読んだ方が結果的には良かったのかもしれない。そうして春になって読み終わり、これは確かに僕にはあった読み方だった。忙しさと持ち運ぶには不向きな本だったので、移動にはもっていかずに読んだので、やはり時間がかかってしまった。でもまあ、そんな感じでスローに読めて、それもこの作品の読み方にはあっていたのかもしれない。あくまで僕にとっての事ではあるのだが。
 感想を書こうと思っているのに、やっぱり村上春樹の文体に引きずられている自分に改めて気づかされる。凄い魔力である。普段の別の文章は、おそらくそんな感じにはならない筈なのに、村上作品を読んだことを考えてながら書くと、やっぱり村上魔術が僕にとりついてしまうようだ。そんな感じに影響力のある本であることは間違いなくて、少し十代にさかのぼった僕の精神をも、味わうことができた。しかしながら実際の僕の年齢はかけ離れてしまっているので、感覚としての肌触りのようなものは、かなりの抵抗も感じないではなかった。そうではあったのだが、気が付いてみるとそっちに引っ張られてしまう自分がいて、覚醒すると不思議なのだ。魔力というのはそういうものであろう。
 何やら複雑なうえに、象徴的な物事ばかりで、そうでありながら実際のストーリーは進んでいく。よく分からないながらも、ちゃんとわかるように丁寧に描かれている。そういう矛盾したものがありながらも、物語の中の周辺の人々にはもっと気の毒な感じがしないではないまでも、そうならざるを得ない物語なのは理解できる。それは僕らにはどうしようもないことだし、読む側が何かをできるものではない。可哀そうな人々は報われることはないけれど、主人公たちは何かをつかむことができるかもしれない。そうはならないかもしれないが。
 まあ、なんというか、そういう小説である。読んでいる時間は楽しいので、そういう時間を共有するための物語なのだろうと思う。とにかく不思議なところには連れて行ってくれる。楽しいと書いたが、遊園地的な楽しさではないので気を付けるべきだが、文字通り楽しいというのは、遊園地的な楽しさばかりではないのである。物語に浸って分からなさを楽しむ。たぶんそういう事なのであろう。
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老母おりんは超絶人間だ   楢山節考

2024-04-22 | 読書

楢山節考/深沢七郎著(新潮文庫)

 読書家として知られる向井万起男さんが、日本文学の最高傑作として本書をあげていて、むむむ、と思って本棚を見たらあったので読んでみた。まだきれいなままの文庫本だったので、まったく読んでいないか挫折したのだと思う。短編集で中短の作品が4つ並んでいる。まずやっぱり「楢山節考」を先に読んで、それから他を読んだ。楢山節考は最初から筋は分かっている。映画化されたものを観たことがあるし、たぶん以前はドラマとして放映されたことがあるんじゃなかろうか。子供のころに複数回見た記憶がある。姥捨て山というのはだから、僕らの子供のころには一般的に知られている悲劇だった。後にこれは嘘の伝説だとされるものをやはり複数読んだことがあるが、この楢山節考を観た外国人が、一様に日本は年寄りを大切にしない伝統が古くからあるらしいということを受けて、これでは国際的にまずいと考える人々が増えたためにそうなったのではあるまいか。もちろん子供を口減らしに殺したり棄てたりするのはよくある話だが、自分の母親であるものを口減らしのために殺すのは、伝説以外の記録としては無いのだという話は聞く。そうではあるが文学としての楢山節考とは何か。読んでみて確かに妙な話だが、これは後の解説などに書いてあるように、なにか人間を超絶したようなものなのではないか。ちょっとあり得ないものがありながら、そのような人間を超絶した人間愛のようなものがあって、心がざわざわするのである。こんなことがあっていいものか。あってはならないとするヒューマニズムを語ることは簡単だが、しかしこのような物語を紡ぐのは困難だ。それが深沢の楢山節考を日本文学の最高傑作とする考え方なのだろう。
 他に妻が精神病になるホラー作品だったり、エルビス・プレスリーに熱中する若者を描いた訳の分からないものがあり、そうして楢山節考を絶賛し、その後交友のあった作家の正宗白鳥を描いたものがある。全部がなんだか妙な書き方のされる妙な物語ばかりで、ちょっと面食らってしまった。おそらく以前は、このために挫折してしまったのだろう。これで僕がきれいなままこの文庫本を持っていたことの謎は、解けたということなのである。
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父はどうして死んだのか   水死

2024-04-10 | 読書

水死/大江健三郎著(講談社)

 作家である長江は、幼いころに亡くなった父親のことを小説にしようとしている。数年前に母も亡くなっており、母が持っていた父親に関する手紙などがしまい込んであるトランクを、受け渡されることになったからである。母は夫のことを小説に書くことを嫌がっていた様子で、しかし長江にとっては重要なテーマで、なんども父が大水の日に短艇にのって水死した情景が夢に出たりして、頭から離れない。四国の故郷のまちにやって来て、演劇をするグループとのかかわりあいの中で、障害のある息子と共に生活を送りながら、執筆を試みる。自分の年齢のこともあるし、おそらく最後になるだろう水死小説を書き上げようと、トランクの中身の資料を読み込んでいくのだったが……。
 まあ、それなりに長い話で、さらに複雑な人間関係の絡みがあって、作家の内面の話なのか、父の死んだ当時の日本の事とか、現代の教育の中にある思想の話であるとか、ごちゃ混ぜになって物語はつづく。誰の話なのかはそれなりに分かりはするものの、誰がどのように語っているのかは、なんだかよく分からないような状態になったりする。大江の独特の文体があって、あえてわざとわかりにくく書いていることは分かる。いわゆる読みにくい悪文ばかりが続いていて、この作家は文章が下手なのかもしれないが、故意に下手に書いていることは間違いが無くて、読む方はたいてい困惑する。そういう仕掛けがあることはあるので、後半になるとそれなりにどんでん返しのようなことがやっぱり起こって、なるほどそれでもわからないものはあるにせよ、大江作品の集大成なのかもしれないな、と思わせられる。
 要するに、自伝的な私小説とも言えて、しかし創作もそれなり混じっているはずで、そうして幻想もあるのだろう。それが小説であるのかもしれず、妙なものを読まされているのは間違いないものの、そうして同時に妙な感動のような事にもなる。こういう作家は、やっぱりあんまり居ないのかもしれないとは思うので、ノーベル賞を取ったからというよりも、こういうものが作品として残るのかもしれない。
 読むのにそれなり苦労を強いられるので、お勧めとはいえないのだけど、まあ、暇ならこういう読書体験も良いのかもしれない。なんだかんだ言ってしばらくこれを読み続けている自分がいて、その没入感のようなものに酔っていた。大江が読まれるその理由は、そういう事にあるのであろう。
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凄まじい格闘の研究人生   当事者は嘘をつく

2024-03-21 | 読書

当事者は嘘をつく/小松原織香著(筑摩書房)

 副題なのか「私の話を信じてほしい」とも帯に書いてある。修復的司法の研究をしている著者が、自らの経験を交えて、その研究に至る経緯を、いわゆる自分語りをしながら明らかにしていく。読んでいて正直に感じていたことは、性被害者が抱える感情の、複雑さと凄まじさと悲しさと、そして驚きであったかもしれない。「あなたには理解できない」という当事者からの言葉は、後に書かれているように、実際にはあなたにもわかって欲しい、ということかもしれず、ただ遮らず話を聞いて欲しいということなのかもしれない。廻りにいる支援者はしかし、そのことになかなかに気づけないもののようだ。理解したいがために、当事者を見せものにして、自分の立場から彼らを解説する。どう接していいかわからずに、その恐れもあっての事か、自分たちの視点で被害者を理解しようとする。そうして被害者の生の声を遮断してしまうのかもしれない。だからこそ、著者は加害者以上に、むしろそうした自分たちの側に立とうとする支援者に、怒りや牙をむける感情を持つようになる。何も知らない、表面的で誤解しているかもしれない人々よりもむしろ、そのような傍にいる理解者であるような二次的な加害者こそ、当事者を様々に苦しめる存在であり、おぞましくも恐ろしいものなのかもしれない。
 当事者は嘘をつくかもしれないというのは、実際に嘘をついているという事実かもしれないことを、直接的に言っているわけではない。当事者しか知らない、当事者しか感じ得ない体験や言葉というものは、当事者であってしても、自信をもって本当のことであるとは、言い切れないことかもしれないことを指す。それは十分には語りつくしえない問題でもあり、そうして時を経て、粉飾されるものが含まれてしまうかもしれない。しかし語るべき時には語らなければならないものでもあり、困惑を含みながらも語られてしまうものなのかもしれない。事実を語ることは、その事実そのもののはずであるが、しかしこと性被害という出来事について当事者が語るときには、そのような体験と共に自らの感情が複雑に絡み合ってしまうのであろう。事実を語りながら、自分の事実に自信が持てなくなるのかもしれない。
 時折哲学的な論考があったりはするものの、著者の体験的な成長物語というような側面もあって、後の水俣の研究に至る研究者としての当事者でない姿なども描かれていく。ケータイ小説にのめり込んで文章を磨いたりなど、ちょっと変わった試行錯誤もあったりして、なかなかに読ませる物語のようにも感じられた。
 ちょっと告白すると、著者はどんな顔の人かな、とネットで検索して見たのである。そういう自分の行為を考えると、こういう本を書いて、さらに自分が被害者であることをカミングアウトしている著者の立場を、改めて考えてしまうのである。僕の行為は、ある意味で暴力に近いものがあるのは確かで、そういう事とも、被害者は戦っていかなくてはならないのだ。格闘する研究者の姿をありのままに書いた本ということで、たいへんに貴重な研究入門になるのではないだろうか。
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親子関係は殺さなければ逃げられない   母という呪縛 娘という牢獄

2024-03-19 | 読書

母という呪縛 娘という牢獄/齋藤彩著(講談社)

 河川敷に両手両足頭部の切断された、胴体のみの腐敗した遺体が発見される。すぐに近くに住む31歳の女が疑われ逮捕される。彼女は母娘二人暮らしのはずだったが、母親の行方が分からない上に、DNA鑑定で母の遺体であることが断定された。死体遺棄は認めたもののの、当初殺人は否定、その後発言を覆し殺人をも認め、二審にて懲役10年の判決を受け服役することになった。娘は既に31歳になっていたが、医学校合格を目指し9年の浪人生活後に看護科に学び、既に働きだしたばかりだった。娘が母を殺した動機は、激しい受験に絡む母娘関係の葛藤があった。その地獄のような日々の記録が、克明に明かされるのが本書である。
 いわゆる教育ママの行き過ぎた家庭生活の話なのだが、母娘関係の奇妙な深いつながりがあって、娘は従わざるを得ない牢獄と地獄の生活を強いられることになる。父親は仕事の関係もあるが、母親とはほとんど関係を断絶し、20年も別居しており不在だった。娘も高校生の後半ごろには多少の反抗も見せ、家出なども数回実施するが、その都度母の雇った探偵などの手段により連れ戻されることになった。母親の管理はまさに軌道を逸しており、激しい叱責や虐待が見られた。また、祖父母から支援や受験のための資金を得るために、奇妙な嘘を共同でついたりしていた。携帯電話などを通じたlineの文章のやり取りや、刑務所内から本人の手紙のやり取りなどから、その親子関係の激しい言葉の記録が明かされる。ちょっと現実のものとは思えないような地獄の日々でありながら、何故この関係が続いていかなければならなかったのか、考えさせられることになる。
 逃げられなかったのは、母娘関係だったからだろうか。娘は母からの長時間にわたる叱責に耐えながら、なにか精神に異常をきたしていたのではないか。成績の悪かったテスト用紙の改竄や、バスの回数券に偽造など、後にバレてしまうにもかかわらず(しかも犯罪が含まれている)、実に安易と言わざるを得ない偽装を、娘は繰り返す。これだけの苦しみがあるので、致し方ないとも思えるのだが、それにしてもあまりに計画性が薄い。母親を殺したことすら仕方がないような気もするのだが、バラバラにして遺棄して見つからなくする方法は正しい(あえてそういう方法があるのであれば、という意味である)とは思うが、肝心の胴体は、ちゃんと見つからないように埋めるべきだったはずだ。手足や頭は、ちゃんと業者が燃えるごみとして引き取り、処理されていた現実を見ると、なんとも中途半端である。母のラインの文面をまねて返事を書き、母の友達とやり取りをして、居なくなった後も偽装して分からなくなっていた(それが捜査上の証拠として、逮捕につながっていたわけではない)ことを考えても、やることがどこかちぐはぐである。見つかるべき事件として、露見したに過ぎない感じである。
 事件の猟奇性も相まって、非常に悲しいケースだが、ここまでの結末に至る経緯は、あるいは一般性があることなのではないか。いや、異常には違いなく、ここまではさすがにない話だろうとは考えられるものの、家庭内の虐待というのは、このような異常性を内包しているものが、結構あるのではないか。親子の関係というのは、残念ながら簡単には切れはしない。そのことが、この事件の原因の最大の問題点では無いのだろうか。
 恐ろしいドキュメンタリーだが、この問題は、まだどこかに隠れていることは間違いないと思う。そういうことを思うことが、また更に恐ろしいことなのである。
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黒人で探偵をする困難   ゆがめられた昨日

2024-03-17 | 読書

ゆがめられた昨日/エド・レイシイ著(ハヤカワミステリ文庫)

 田中小実昌訳。殺人事件に巻き込まれてた私立探偵のトゥイは、黒人差別の激しい南部の田舎町で、自分の身の潔白を晴らすべく、真の殺人犯を追うために奮闘する。しかしながら手掛かりは何も見つかる気配はなく、彼女から借りた金も底をつきかねず、大変な窮地に落ちていくばかりなのだった。そもそも探偵として雇われてある男を見張っていたのだが、その男が何者かに殺された部屋によびだされたところで、ちょうど警官に見つかったために警官をぶちのめして逃げてきた訳で、警察は血眼になって追ってきているだろうし、黒人である自分は、捕まれば電気椅子だろう。差別でろくに人間扱いもされないし、立ち寄ったドライブインで食事すら拒否される始末だ。金を貸してくれた彼女は、必死になって働いている自分を認めず、郵便局で地道に働くようにしか言わない。何もかも気に食わないが、しかしともかく犯人を見つけないことには、どうにもならないのである。
 当時のアメリカで黒人である立場が、どんなに困難な状況なのかということが、それなりのユーモアも交えながら描かれていく。いちおうハードボイルドミステリとはいえるのだが、その状況そのものが、スリラーとしてスリルに満ちている。しかしながらこれを書いている作家は実はユダヤ系のアメリカ人で、黒人ではない。この状況を描くために、あえて黒人の主人公を当時選んだということなのだろう。絶対的に不利な状況で、さらに面白くないことを言われながら、心の中では憤慨しているが、従わざるを得ない中で、時には反撃を仕掛け、そうして落ち着いて逃げる。まったくもっての世の中は不条理だらけだ。
 移動中にちょっと軽めに読もうと思って手に取って、それなりに夢中になった。こんな状況でろくに捜査なんてできそうにないが、出会った人々との奇妙な会話を交わしながら、一見的外れなことばかりになりそうでありながら、実は事件の核心に近づいていく。なかなかに見事な展開なのだが、やはり当時のアメリカ社会の人々のものの考え方だとか、風俗的な興味も十分に満たしてくれる文体だという気もする。日本語訳もなかなかにこなれているというか、日本人の会話ではありえないもののいいまわしを、見事にあらわしている。彼らは苦労はするけれどユーモアを忘れないし、非常に機転が利く。これだけの差別がありながら、そうでない人もちゃんと描いている。同性愛もあり、金やテレビ局の事情などもある。そうして黒人同士でも、社会に対する見方がいろいろあるというものだ。
 記録を見ると3年前の6月に古本で4円(送料240)で購入している。古いので定価でも320円と印字してある。なんでこれを知って買ったのか、相変わらず不明だ。そういう文庫本はたくさん持っているが、どういう訳かあんまり読まない。それなのに時々衝動的に昔のミステリを読みたくなるのはどうしてなのか、それは自分なりのミステリなのである。
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才能がぶつかる顛末を綴った苦悩の書   少年の名はジルベール

2024-03-03 | 読書

少年の名はジルベール/竹宮惠子著(小学館文庫)

 有名な自伝だが、どういう訳か今になって読んだ。僕は萩尾望都のおそらくファンで、だからであるからか、「大泉サロン」(女性版トキワ荘ともいわれている)の存在は知っていた。知っていたというか、だいぶ後、つまりだいぶ最近になって知ったのだったが。おそらくだが、ふつうに少女漫画を読んでいた人々は、誰でも知っていることなのだろうと思われる。そうした顛末への興味もあってだろう、この本は売れたという。そうしてこの本を解説する人々は、たくさん出てきた。要するにそういう文に触れて、僕は買ったのだと思うのである。
 著者の竹宮惠子を知らない人は少数だと思うが、日本を代表する漫画家だが、同時にいわゆる腐女子と言われる人々にとっては神的な存在であろうし、現在のボーイズラブと言われる漫画の一分野の始祖者ともいわれている人である。その彼女が、どうしてそのような漫画を描くようになったのか。実際には、大変な苦労があって、世に出てきた分野であったということが書いてある。世の中というのは一筋縄ではいかないものであって、絵の上手な人間だからと言って、たとえそれだけでは、生きてはいけないものらしいのである。
 徳島出身で、地元大学生の時には既に漫画家としてデビューしており、連載も抱えていたために〆切を守れないほどになってしまい、上京せざるを得ない状況のまま本格的に漫画家として食べていく道に入っていく。その過程において、同世代の若い作家との交流がきっかけになって、萩尾望都とその友人である増山法恵と出会い。増山宅の向かいにある二軒長屋の片方に萩尾と共同で住むことになる。ここに様々な人々が集まるようになって、いわばサロン化する中で、少女漫画の創成期に様々な試行錯誤が生まれるということになったようだ。
 自伝なので、自分のことは多少割り引くというか、謙遜もあって描かれているのだと思うが、とにかくずっと週間連載を持つ超売れっ子と言っていい立場であり、読者はもちろん、編集者も一目以上に置いている大作家であっただろうことは見て取れる。しかし時代背景もあり、編集者という会社組織の事業の方針もある。漫画を描いているのは確かに作家自身であるが、それを売る媒体の出版社との関係において、それなりの拘束や条件がある訳だ。作家として本当に自由に描きたい分野があったとしても、それを自由に受け入れるだけの器量が、会社側にもなかったし、おそらく時代の許容が分からない時期でもあったのかもしれない。少女というか、女性のあるべき立場のようなものとか、その女性自身が求めている漫画という娯楽への要望というものが、才能ある作家の考えと合致するものかどうかの見極めが、非常に難しかっただろうことが見て取れる。さらに大泉サロンで一緒に漫画を描いているもう一人の突出した才能のある、親友でありながら最大のライバルである萩尾望都の存在が、自分の中で膨らみすぎていく。そうしてそもそも若い女性でもある竹宮の精神や才能を、押しつぶしていくように感じさせられていくのである。その苦しさの心情を、ある意味で吐露したところに、この自伝の大きな流れがある。
 これを読んでさらにいくつか調べてみると、その後萩尾望都も自伝を書き、いわばこの本の返答をしているようなものである。結果的に二人は現在も和解していない様子だ。大泉サロンを解散させたのは、確かに竹宮の方だったが、しかしそのことで完全に心を閉じてしまったのは、萩尾なのかもしれない。それほど二人は、その頃の青春の影響が大きく、深い傷を負ってしまったということだろう。しかし、さまざまなタブーを打ち破って、少女漫画だけでなく、日本の社会を変えてしまうような偉大な作品を生み続けた。二人が強く共鳴していたモチーフのようなものの共有は、お互いにとって大切だからこそ、むつかしいものだったのかもしれない。人間の関係性のむつかしさを思い知るような、そんな告白の書だと言えることだろう。
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