カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

構造じゃなくて恣意的問題だ

2006-10-31 | 音楽

 渋谷陽一のラジオ番組で「ギターリフこの一曲」のリクエスト特集をやっていた。僕もなんかリクエストしたいな、とは考えていたが忘れていた。
 聞いていて、まあ、ロックっぽかったらなんでもよかったんだな、という感じである。ギターリフってやっぱりリフレインを強調した曲でなかったら駄目なんじゃないかと思うが、それさえはっきりしていなかったのは残念だったと思う。
 後半は逆に平凡で呆れてしまう。サイモンとガーファンクルは少し意外だったけど、最後のジミヘンはこの曲では普通の番組である。もちろん大好きだから曲がかかるのはいいんだろうが、パープルヘイズのリクエストなら近所の猫でも考えそうなことである。
 ついでにホワイトストライプスには他にもいい曲があるんだから、違う曲を選択すべきであろう。セブン・ネイション・アーミーは、この番組で5回以上かかっているんではないか。バランスとして不自然である。
 しかしながらギターリフのリクエストなんて、考えてみれば何でも可能である。ギターリフの無い曲の方が少数だろうからだ。それだからこそ強力なやつが欲しいところだが、以前にチャック・ベリーなんかの古典も既にかかっていたような記憶がある。バランスとして新旧取り揃えましたという感じが、渋谷流なのかもしれない。
 もちろん好みが偏っている方が番組として面白いので、リクエストはもらったんだけど好きな曲をかけるもんね、という渋谷流儀は、呆れながらも好感を持っている。
 バランスよく配置して、なんていう考慮はロックには無用だと思う。そういうことができないからロックを聴くようになったというのが、正当なロックンローラーではないか。
 リクエストの多い順に曲を流すというのが一番つまらない番組だ。トップ10番組がつまらなくなったのも、変な民主主義的公平感のつまらなさではないか。一番売れてる曲なんていまさら聴きたくない。そんなもの、どこででもかかってるじゃないか。
 町山智浩のコラムを拾い読みしていたら、今の音楽業界の歪を指摘していて驚いた。確かに番組中に渋谷陽一も「いまどきCDを買うのはおっさんぐらいのものだ」と言っていたが、アルバムとして曲が売れる時代はとうに過ぎてしまったというより、システムとしてそういうことができなくなってしまったということが真実のようだ。一番売れている一部の曲のみ大金をかけたプロモーションで売るより方法が無くなったり、地方局といえども自由に曲をかけることも制限されて巨大メディアの指示通り機械的に曲を流すシステムになっているのだという。日本はまだ自由が残されているようだが、じきにアメリカ流のシステム契約のあおりを受けることになっていくのだろうか。WEB2.0の世界観とはまるで異なるアメリカの現状を見ると、未来は実に暗いものがある。
 構造的に通信に金を使うようになったのだから、音楽業界はあおりを受けて売れなくなったというのが従来の理解のされ方だと僕は思っていたので、いささか現状を指摘されて驚いてしまった。今は確かにめったなことではCDさえ買わないが、アルバムとしての完成度を求めることすら音楽家はやれない時代になったのだということなのであろう。もうすぐ年末になると結局熟年シンガーベスト盤しか売れなくなるわけで、ますますこの業界の未来は暗くなる一方だ。
 ベスト盤ほどつまらないものは無いが、ファンだから仕方なく買うものだとばかり思っていたが、今は本当にベスト盤を待って買うスタイルなのだろうか。ヒット曲の寄せ集めって結局聞いたことがある曲ばかりのはずだが、何の期待があって買うのだろうか。僕には益々不可解だが、そういうものだから仕方が無いのだろう。
 思えばギターリフに涙していたなんていうことが許されていたのは、僕らの甘い青春時代のことであって、なんどもなんどもロックは死んでしまったと嘆いていたのに、本当に死んでしまった後には、小鳥が鳴いているというエンド・オブ・ジ・ワールド的な現実に気づいたということなのかもしれない。やっぱりいいもんはいいんだよね、って、生きているうちには忘れずにいきたいものである。少なくともそういう覚悟がないと覚醒が保てない現代って、やっぱり変なんじゃなかろうか。
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真央ちゃんの敗北

2006-10-30 | 雑記

 出張行って職員の結婚式があって、ちょっと疲れてしまったのかもしれない。翌朝朝食の時に何気ない話をしていたら、どういうわけか長男が話の先を折るように割り込んできた。子供の言葉に妙に腹が立って反応してしまう。いつの間にか怒鳴っていて、ピタリと話は途切れてしまった。
 それからちょっと気まずい時間が続く。普通にしているようで、よそよそしい。僕自身も大人げなかったとは思うものの、なんとなく釈然としない。気分転換に散歩に出たが、ふと思い出してしまう。
 家族というものは、こういう時間の長さで形作られるのかもしれないと思い直す。ナーバスになりすぎるのもよくない。
 帰ってみて声を掛けるが完全無視。下の子もおんなじように顔を背ける。頭を触るとどこかに行ってしまった。現実はなかなか厳しいものだ。まあ、こういう具合が重なって、虐待などに発展するんだろう。ああいう事件はよそ事ではないんだろうな、と思う。それほど感情を左右されるのも、また家族なんだろう。
 一生わだかまりは抱えることにはなるんだろうが、それが僕の宿命なのだろう。諦めるより仕方が無い。
 しかしながら自分の場合を考えて、父親のことをどう思っていたのか思い出してみる。僕は溺愛状態に可愛がられたらしいのだが、そんな覚えはまるで無い。叱られた覚えもほとんど無いが、なんとなく接するのが気恥ずかしい感じだった。何かいわれるのも、ただ煩わしいだけだった。そのうち疎遠になって大人になってしまった。大人になってから、かえって普通に話をするようになったが、僕は家族とは標準語でしか話せないので、相変わらずぎこちなかった。そのうち父は死んでしまった。
 まあ、俺と父よりはマシじゃないか。僕自身は人格者とはいえないまでも、あの父よりは大人である。なによりまともなのは間違いない。世紀の変人と比較しても仕方ない気がしないでもないが、それでも親子関係はなんとなく成り立っていたのだ。親が余分なことをしても、子供はそれなりに育つと養老さんも言っていたじゃないか。親は無くとも子は育つわけで、親が至らないことは子供には関係が無いのかもしれない。
 夕食の時に話しかけると、なんとなく戻っている。結局は僕の問題かもしれないな、なんて思う。胃腸がすっきりするような、不思議な安堵があって、焼酎を飲んだら眠くなった。テレビを見ていたのかもおぼろげにしか記憶にないが、目が覚めたら真央ちゃんが負けていた。調子が悪い時があるんだろうな、お互いやり過ごすしかないさ。妙に慰められる残念さを感じたのだった。
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生姜湯

2006-10-29 | 雑記
 やはり風邪らしい。生姜湯飲んで体がポカポカ。具合が悪いが気持ちいい。変な調子が明日まで、持ち越さないで欲しいものだ。民間療法は信用してないが、医療はもっと信用できない。というか、わずらわしい。玉子酒とか、にんにく療法とか、そういうもので治るというのが面白いと思う。もちろん程度ということもあるんだろうけれど、これで大丈夫、という感じで翌朝気分がさっぱりすると、風邪をひいた甲斐があったというものだ。今は具合が悪くなる前である。経験として嫌な感じだが、生姜湯でいいんだという感覚が何より楽しいのである。
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知覧にも寄ってきた

2006-10-28 | 雑記
 鹿児島から帰ってきた。仕事関係の全国大会だったのだけれど、けっこうまじめな集まりで(当たり前だ)三日間完全缶詰状態で勉強したので、かなり疲れた。実は僕は副会長を今春からやっていて、式典のときは壇上に席があったりする。まったくあれはバツの悪いもので、一種のさらし者である。他にも役はあったのだが、ちゃんと発言するなりの緊張感で逆に苦にならないものだが、そういう具体的なものに比べて前に座っているだけというのはつらい。うっかり鼻クソもほじれない。まあ、ほじれなくてもいいんだけど、僕にとっては拷問みたいなものなのである。
 まあしかし大会のほうは主管する人たちのスムーズな進行もあって、実り多いと正直に思えるようなものとなった。途中の講演も印象深かったし、他の種別の状況が聞けたのも為になった。将来は特に明るくはないけれど、少しでもステップが踏めればいいのである。
 
 大会が終わって、ちょっと足を伸ばして知覧へ。特攻記念会館に行く。いつも鹿児島に来る度行ってみたいと思いながら、なかなか機会がなかった。
 設備的にきれいではあるが、最初は特にすごいとは思えず拍子抜けして見学していたが、だんだんじわじわ効いてくるものがある。確かに心揺り動かされる思いがする。会館を後にすると、なんとなく言葉を失ってしまった。
 僕は先の戦争に負けたのは必然的なものであったろうと思っている。しかしながら、日本が間違った戦争を行ったというのは、単純に同意できない。その当時の人たちの考え方として、きわめて常識的な選択で戦争になったのではないかとさえ思う。歴史にif(もしも)はないが、あえて戦争を起こさなかったら、日本はどこかの国の占領下に、多かれ少なかれおかれていたことだろう。朝鮮半島のように、分断されてしまう可能性だってあったのではないか。特攻まで行わなければならない社会がまともだとは思わないが、そこまで追い込まれてもなおかつ守ろうとしていたのは、単に国体というものだけでなく、家族や子孫や、未来の人に対する思いなんだったんじゃないか。
 結果的に現代のような社会になって、皮肉に思わないでもないけれど、長く戦争を体験しない世代より、平和のことを一番わかる人たちだったのではないかという気がする。アメリカの政治家など、例外もあるかもしれないが、軍隊出身者ほどハト派が多いようだ。悲惨な戦争だからこそ、知っておかなければならないのではないだろうか。
 知った人に何故か何度も知覧に行ってしまうという人がいる。なんかの節目だとか、落ち込んだりするときに、知覧に足が向かうのだという。特に理由は話されなかったけれど、今回そういう意味のようなものがなんとなくわかるような気がした。なるほど、もっと気分が落ち込みそうなものだけれど、逆に勇気のような、そんなような力がわいてくるような気がしないでもない。人が生きているということは、こんなにも深いものなのか。

 職場にやっと帰り着いたのは9時ごろだった。今思うと、街灯はあったとはいえ、確かに暗すぎたのかもしれない。車から荷物を降ろすが、どうしても僕の背広の上着が見つからない。まさか忘れてきてしまったのだろうか。忘れたとしたらどこだろうかと思いながら、散々みんなにも探してもらって、それでも見つからなくて、ないものは仕方ないと諦めた。帰ろうとして自分の車に行こうとしたら、米ちゃんが「すいませんでした」と叫びながら駆けてきた。何事だと振り返ると、着ていた上着を脱いで、「僕が着てました」とその上着を渡された。どおりで見つからないわけである。大笑いしてハケたのであった。本当に、お疲れ様でした。
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鹿児島出張です

2006-10-24 | 掲示板
 ちょっと出張に行ってきます。3日間鹿児島です。その後お祝いがあったりして、なんとなくツアーみたい。実はし忘れた仕事があったりしてけっこうあせってます。でももう無理(相手がいないと無理なんだよな)なんで、明日電話で済ませよう。ごめんなさい。
 〆切があると仕事ができると思ってたんだけど、チョンボしてしまってショックであります。なんとなく引っ掛かりがあって、スランプかもしれない。出張が気分転換になればと思っております。では、しばしさようなら。
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野外の式典

2006-10-24 | 雑記

 予定時刻より三十分も早く会場近くに来ているはずなのだが、肝心の式典会場が見つからない。犬を連れて歩いているおばさんに聞いてみるが、そんなことは知らないから近くに商店があるから、その場所を教えてやるからそこで聞けとのことだった。まあ、その人なら大抵知っているという意味なのだろうと思って、素直に商店を探して店内に入ると、毛がもさもさしてどこに目がついているか分からない小さな犬にワンワン吠えられながら、さあ、知らないね、という答えを聞く。
「この辺の人は商店の上とか横とか簡単に言うけど、車で10分も上に行かなくちゃなんなくても上は上とか言うのよね」
 なるほど。確かに、僕の近所の人もそういうふうにいう人がいるようだ。それで分かるという想像力の人に場所を聞いてきた僕がバカだった。そういえば文章とかの案内は無くて、電話で申し訳ありませんが来てくれといわれたのだった。そういうところからなんとなく怪しいとは思っていたが、そういう怪しい式典だからこそ、なんとなく見てみたいという気になった。こうなったら探すしかない。
 そうはいっても田舎道なのでそんなに通りがたくさんあるわけではない。式典というからには車がたくさん止まっているに違いない。田舎の人が公共機関を使って移動するとは考えられない。この地はアメリカと同じなのだ。
 まあ、それでもぐるぐると枝道をくまなく探す。公民館でゲートボールの練習をしているおばあさんに聞こうと思って車を止めると、公民館の裏に車がたくさん止まっていた。ずばりここが怪しい。
 見ると裏に更に広っぱが広がっていて、片隅に椅子がたくさん並べてあった。人も二三十人といったところか。時計を見ると5分前。ちょうどいいということか。
 なんとなく業界関係者の顔も見えてホッと一安心して受付のようなものは無いものか探すと手前に立っていた報道の腕章をつけた人が式次第をくれた。この人もグルらしい。僕に電話をかけたらしい人が近づいてきたのでお祝いの言葉とお祝いを渡すと、今日は気持ちだけいただきます、と返してくれた。これは儲かったのだろうか。こんなところに本当に来てよかったのだろうか。一応他の業界関係者の顔を見ると、まあ、とっとけよ、おいらも返してもらったぜ、というような目をしたので、また懐に収めたのであった。もちろん、これは後で事務所に返却しましたよ。念のために言っとくけど。
 まあ、式典は挨拶が何人かあっての形だけのものだったが、主催者のユニークな髪型の青年の時にハプニングがあった。野外だったので少し強めの風がふいたと思ったら、ハラリと額とてっぺんを固めていた横髪がずれてしまった。はっきりとぱっくり髪が顔の横に移動した感じだ。僕はまっすぐ正面に座っていて直視していたが、彼は話をしたまま体の位置を変えて(風を背に横を向いた)髪を整え直した。なんとなくホッとすると、また風が…。ひどくまじめな人なのだろう。話も長いのだが何度も何度もめげずに髪を整え直すのであった。参列したみんなはいつの間にか全員うつむいてしまっている。僕は自分の震える肩を後ろの人が気づいているのではないかということばかりが気になった。こういうことなら、もっといっぱい人を連れてくるんであった。こんな少人数でみるにはもったいない出来事だった。
 しかしながら彼の名誉のために(になるんだろうか)告白するが、僕だってだいぶ髪は薄くなってしまってつれあいからは人前で髪をかき上げるしぐさは控えるように注意されるまでになった。判断は難しいところではあるけれど、ユニークな髪型に執着しない心構えでいこうとは思っている。特にこういう事件は他人事なので心から楽しいのであって、当人は悲劇に他ならない。いや、悲劇だからこそ悲痛だからこそ面白いのだろう。明日笑われる自分の姿なのであろう。悔しいのでもっと多くの人に笑ってもらおうっと。
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方言だったんだ…

2006-10-23 | ことば

 新聞を読んでいたら「離合」は方言と書いてあった。福岡などの地方で、車がすれ違うことなどを言う。なるほど。辞書などを引くと、人の場合は「離合」というが、車の場合は一般的に「離合」とはいわないものらしい。「集散離合」などというもんね。
 実は地元の議会に職場近くの道について陳情したことがあって、「離合」という言葉を辞書で引いて適切な項目が無かったのでおかしいな、と思ったことを思い出した。しかしながら、陳情理由はせめて「離合」できる道幅の確保という文言で受理された。方言でも公文書で受理されるほど不都合は無いのかもしれない。というかちっとも方言臭くない方言というのはまだまだありそうである。
 別の地方の人の話で、普通の会話のつもりでなかなか通じていない場合もけっこうある。僕の友人に北海道出身のヤツがいるが、彼は国道以外の道を「道道(どうどう)」というのでよく分からなかった。「ドウドウ通ってきたんだけどさ」などといわれても、「堂々」として何が悪いと思ってしまう。かなり後に裏道のようなところということなんだと分かって苦笑した。いわゆる「県道」のような意味なんだろう。
 これは方言ではないが、若い職員にそこの「反故」にしてあるやつを取ってくれ、といって通じなかったことがある。彼女は鹿児島出身で、「長崎では「反故」というんですね」としきりに感心していたが、方言ではない。分からない言葉は何でも方言だと思わないで欲しい。
 まあ、人のことは言えなくて、僕は「はつる」を方言だと思っていた。言っている人が方言丸出しの人で、「そこばちぃーとばっかはつってさね」などと注文を受けていたので、てっきり方言だと思っていたが、れっきとした共通語というか標準語というか、そういう全国共通認識がある言葉らしい。
 農業用語には地元のむつかしい方言がたくさんあって会話に苦労するが、僕が最初に聞いてまったく分からなかったのが「ばくりゅうさん」だった。まあ、地元の難しい問題を世話するのに通じている人を指していっていたようだが、語源を調べてみると「伯楽」ということらしい。もともと伯楽がなまって「ばくろう」などという地方が多いらしい。さらに地方で「ばくりゅう」となまったのだろう。馬の良し悪しが分かる人から転じているわけだが、実際そういう商人自体も指していうらしい。
 さて、布を再生して油拭きなどに使う「ウエス」というものがあるが、あれはいったいなんだろうと思う。「ウエス」といえば全国的に通じるようだが、辞書を引いても載っていない。単なる業界用語なのだろうか。しかしながらお年寄りの人なんかもあんがい知っているので、古くから使われているような気もする。英語の(waste)ボロからきているんだと聞いたことがあるようだが、けっこう定着しているんだから辞書に載せてもらえないだろうか、などと思っている。
 うちの近所の人は接続語に「ジョン」をつける。「このあいだからいうとったとジョン、なんもしてくれん」などというような風に使う。「ばってん」は英語語源だという説もあるが、「じょん」だって疑わしいのではないか。ちなみに近所の人は「じょんじょん」いうわりにアメリカナイズされてはいない。いまだに僕はほとんど聞き取れないので、外国人と変わらないとはいえるのだが…。
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陰謀説なんて考えてみる

2006-10-21 | 時事

 安倍総理の「美しい国」というのは既にいろんなところでジョークになっていることと思う。確かに中国語でアメリカのことは「美国」という。メイゴウという発音に近い。カタカナで書くと分かりにくいかもしれないが、「アメリカ」という音に近いわけですね。ずばりアメリカナイズを目指す国、という解釈でもあるわけだ。
 まあしかし、首相というのは誰がなっても大変にむつかしいことを要求される立場な訳で、よくまあ望んでなるもんだと僕は思うが、なりたい人は多いのだろう。何やってもケチつけられるのを分かってないんだろうか。不思議だ。
 ただ、僕はいろいろ言っている内容は実はほとんどよく分からないんだけれど、首相の給与を30パーセントカットしたという具体的なところが一番気になる。他の大臣は一割カットだそうだ。これは多くの新聞では改革への意気込みとしてのパフォーマンスだ(もちろんそれもあるが)としているようだが、それだけなのだろうか。
 しかしながら、恐らく少なからぬ人は既に気づいていると思うが、これは公務員の給与をいじるよ、という意味であると思う。自分が30だから、15パーセントという感じだろうか。具体的な数字には議論があるところだろうが、これはやってくるだろうと思う。会社経営でも人員をカットする前に自分の給与をカットする。当たり前の行動なのだ。そして、恐らく本気だ。僕は具体的な行動しか次の行動の連鎖は無いと思う。
 行政改革で失脚しなかった人はいないとも言われるし、安倍首相が本気なら長期政権は無いかもしれないとも思う。公務員はいつまでも恨むからね。それにもっとも嫌なことだから(公務員でなくても嫌だけど)強硬な抵抗をしてくることだろう。いろいろと議論はあると思うが、そういうことはわかっているはずで、何か大きな流れを仕込んでいるという感じがする。人気が続かない限り何もできない政権であるから、世論はこの流れであると掴んでいるのかもしれない。
 ちょっと陰謀説めいてくるけど、飲酒運転の本当のターゲットは、公務員というところが極めて大きかったのではないだろうか。僕はちょっとファシズムっぽいなあと感じていたけど、政府としては、大いにこの流れを掴んで改革したいという思惑なんではないか。それともやっぱり僕の思い過ごしなんだろうか。
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やっちゃいました

2006-10-20 | 雑記

 OB交流会が終わって、二次会もハネて、実はあんまり食ってないよね、ということで、小料理屋へ。まあ、なんというかホッと一息という感じであろうか。
 既に少しのんでいるので直ぐに焼酎をやりだしたのだが、なんとなくスイッチが入ったのかもしれない。
 ふと我に返るとS一君が寝むたそうな目をしていた。そこで少し「シマッタ」と反省しました。
 僕は時々(あんがいいつもかも)自分の話に加速がついて一人でダーッと演説をぶつことがある。自分で言うのもなんだが、自制がきかないというか、とめられない。別の意識が立ち上がるような感じで、思考がフル回転しだす感じだ。いろいろ脱線しているんだと思うが、自分なりに整合性があるようだ。「あれ、なんで僕はこの話からこの話をしだしたんだろう」という疑問も、自分自身に対して興味が湧いてエキサイティングなのだ。まあ、付き合わされた方はたまったものではないだろうが…。自分が今なんに興味を持っているのか、自分なりに整理できてよかった。
 しかしながらTきちゃん、S一君、K村君、改めて失礼しました。そしてありがとうございました。僕はこれをやらないと、窒息するのかもしれません。人助けだと思ってご勘弁ください。できる限り、短縮できるようにがんばります。
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かなりきている感じである

2006-10-19 | 時事
 朝ニュースを見ていたら福岡の宗像大社でお神酒をやめてアルコールのない甘酒を出しているというリポートがあった。宗像大社は交通安全の神様らしいが、そういう神社でお酒はどうしたものかということらしい。自動車の交通安全の神様がいてもおかしくはないが、そういう由緒というところから怪しい感じだ。時代に機敏だからこそ、そういう反応をする神社なんだろうか。なんとなく救われない気もするんだが…。
 しかしながら厳密には飲酒と強弁できるのかもしれないが、小学生が指摘してるんじゃないんだから納得していいものか。だいたいああいう行為を飲酒という方がおかしいのではないか。神社帰りに飲酒運転の影響で事故を起こす人が後を絶たないということなのだろうか。まあ、直会なんかの後ならそういうこともあるかもしれないが…。
 おくんちの庭見せでの振舞い酒もなかったらしい。酒樽だけは飾ってあってむなしいとの声も聞かれた。まあ、その程度の祭りなら、止めたらよかったのだ。なんとなく誇りにしていたが何のことはない、薄っぺらい文化である。金がなくなったのなら仕方が無いが、伝統がなんであるか伝わっていないのなら偽物である。尻尾が出たようである。
 飲酒運転はしてはならないのは当たり前である。しかし撲滅運動も程度がある。殺人事件だってしてはならない。じゃあどのような撲滅運動をするか。必要悪と開き直るつもりは毛頭無いが、こんなことをして満足しているバカにはなりたくないものだ。
 そうは言っても飲酒運転はなくならないじゃないか。この際徹底的にやるべきだ。まあ、そう考える人もいるんだろう。そのことはぜんぜん否定しない。
僕は自主規制が恐ろしいと感じているだけだ。自分の中の内なる規制を信じられないから、過剰に反応してしまう。
 戦争中の軍隊による略奪は、どこの国でもどこの民族でも見られることである。法が無いのも同じだからそうするというより、自分の中の規制がきかなくなるのではないか。人は簡単にそういう状態になる。暴動などで略奪が横行する。別に貧しいから起こるのではなく、人は簡単にそういう状態に流されるのである。ほとんどの人は普通に生活できていたのだろうが、そっちの世界へ入り込んだ瞬間にスイッチが入れ替わるような感じなのではないか。人間は簡単にそういう状態になるんじゃないか。
 何の話だ。まったく違う次元じゃないか。そう思う人は想像力が無いのである。まったく同じである。社会憎悪がこういう行動をとらせているのだ。既に異常な状態になっているのに気づいていない。だから当たり前の状態が変わってしまったのだ。だって、神社のお神酒は当たり前だし、庭見せの振舞い酒は当たり前でしょ。そういうものが異常に見えるのは、どちらが異常なのだろうか。
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素直に望んだことができない

2006-10-18 | 雑記

 生活のつなぎ目がうまくいかないせいか、ちょっと忙しくなると風呂に入らなくなる。「え、なんで?」と思う人もいるかもしれないが、だからつなぎが悪いって言ってるでしょ。
 僕は習慣として夜には酒を飲む。ただひたすら飲む。そうして家に帰ると、バタンと倒れるがごとく寝てしまう。意識が戻ると朝だ。飯を食ったら仕事に行かなくてはならない。そうして夜になるまで仕事である。正直言って暇な時もあるけれど、風呂に入ることができるような環境にはない。そうして夜にも寄り合いがあると、それじゃあ食事して帰るか、ということになる。僕にとって夜の食事は、ご飯のことではなくてアルコールなのであった。ようはそういう日が続くと風呂に入らないことが苦痛になるわけだ。
 仕事から直接家に帰ることができると風呂に入ることもできるのだろうけれど、そういう時間はなんだかもったいない。限られた時間を生活のために使うのは浪費ではないか。たぶん、僕にはそういう思想があるのではないかと考えられる。我ながらバカだと思う。
 まあ当たり前だが風呂に入らなくても、人間死にはしない。平気ではないが、重要ではない。断っておくが、僕は大の風呂好きである。好きなことを犠牲にしているから尊いのだとさえ思う。
 つれあいが僕の話を聞いていて、本当に嫌だと怒ることがある。大抵僕の変な理屈を聞かされている時である。僕もなんでこんなふうに考えるのか不思議なのだが、聞かされるほうはお気の毒だと思う。
 まあしかし、いい加減に風呂には入りたい。今日も明日も夜はつぶれているのだけれど、何とかしたいとは思っている。死にはしないがいいかげん疲れた。好きなことを選択できるいい理屈を考えなければならないようである。
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なんとなく釈然としない/ブロークバック・マウンテン

2006-10-17 | 映画
ブロークバック・マウンテン/アン・リー監督

 なるほどこれは純愛であるな、というのはよく理解できた。禁断の愛というか、認められない愛という設定もなかなかズバリとストレートだ。当たり前だが、男であろうと女であろうと、これはよく理解できることだと思う。
 以前の禁断の愛の代表は身分違いであったろう。海外文学にもそういうものは多いようで、人類には普遍的な共感があるのかもしれない。だが、戦後民主主義の世の中になって、そういう実感は分からなくなった。恋愛に平等はスリルがなくなるのだろうか。
 子供のころの少女漫画の世界では、幼馴染ものが多かった。これは禁断というか、擬似近親相姦なのではないかと思われるが、勘違いだろうか。オタクポルノには妹ものがけっこうあるが、性愛として踏み外すスリルなのかもしれない。もしくは安易な征服欲か。
 同じく少女漫画の世界では、同性愛ものはあんがい普通に描かれている分野である。どういうわけか男同士が多いのだが、女性ではなまなましすぎるのだろうか。
一方で宝塚があるんだけれど、あれは美しい男というものの憧れのようにも思う。本当に美しい男は女でなければならないのかもしれない。
 女形というのもあるが、女の立ち振る舞いの美しさを演じるということに意味がありそうだ。線としては女にかなうはずもなかろうが、これが動くといったん男の視線が必要になるのかもしれない。まあ、僕にはよく分からないのだが…。
 同性愛ではセックスそのものがなんとなく気になるのだが、具体的にはあんまり問題がないのだろう。構造的にいろいろ違うのではないかと思いはするが、まあ、そんなに違わないということにもなんとなく納得できる。
 気持ちが悪いというのも、正直にいって感じることだ。偏見があるからそうなのだと言われると、そうなのかなあ、とよく分からない。正直言って僕にはそんなものないよといいたいが、それはやっぱり他人事で、受け入れるにはどうしても抵抗がある。やっぱり偏見なんだろうか。
 性愛は自由ではないかというのにも、抵抗がある。本当にそうだろうか。欲望として自由だというのは、ポルノとしてでないとやはり問題があるように思うからだ。強姦は暴力だし、幼女性愛もやっぱり問題がある。認められないのは偏見だと本当に強弁できるか。
 同性愛は異常性愛なのかというと、今は微妙になったのだろうか。病気ではないらしいが、理解者はまだ多数ではなかろう。同性愛は歴史が古いが、少数だからこそ問題が隠れてしまうのではないか。どういう文化にも、どこにでもある現象でもあるとは思われる。そうすると、やはり自然と認めるべきか。
 米国の一部ではかなりオープンな場所があるらしいから、それがハッピーかといえば、まあ勝手にどうぞである。そこのあたりでは、感情的に冷たい自分がいる。しかし日本のお笑い芸人を受け入れる民衆には、デリカシーのない暴力を感じる。彼こそ本当の偏見ではないか。本当のハードゲイは、草陰に隠れて泣いているのではないか。
 実は本当に心揺さぶられ感動したので、疑問は感じなかった。哀れで切なくて泣ける映画だ。
 しかしながら思い起こしてみると、家族は裏切っているわけだし、偏見に耐える視点だけが強調されすぎていて、あんがい不公平なのではないかとも思えてきたのだ。実は上手く騙されたのではないか。時間がたつと、複雑な感情にさせられる問題だ。
 不幸な状況がある。人間は、時代に翻弄される運命だということなのだろうか。
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人に甘くありたい

2006-10-16 | 雑記

 なんとなく気分がすぐれない。理由は分かっているが語りたくない。ひとことで言うと、人の思惑が嫌なのだろうと思う。もう少し直接的には、たぶん悪意だ。それも善意なる悪意である。
 気に食わないこともあるだろう。時に人はかなり攻撃的に人を非難できる。自分が不当な扱いを受けた。憤りの行き場所を一点に集中させる。
 しかしこの感情には同調も必要なのかもしれない。自分だけ怒っているわけにはいかないのかもしれない。そういう話を聞かされて、気分が重いのだ。あまりに浅はかなので申し訳ないが、僕にとってどうだっていい話なのだ。
 どうだっていいが、少しばかり引っかかる部分がある。嫌な奴だから引きずりおろしたいという感情までは、ほんのちょっとだが理解できないではない。しかしながら、そのあとにお前が行くべきだという話はどうなのだ。なんだよ、それは。フンフンと、適当にあしらっていたが、はっきり困る。あいつは別に何にも悪くないじゃないか。いや、少しそりゃあ問題はあったかもしれないが、別にいいじゃん。それが彼の特徴なんだよ。むしろ面白いんじゃないか。彼のせいで苦労するぐらいが一番平和だ。本当に能力があるヤツが悪さをすると、取り返しがつかないじゃないか。(失礼!分かった人は黙っててね)
 こういう話が好きなのは、田舎の特性だなあと、僕は田舎の人間ながらそう思う。誤解を恐れずいうと、僕にはそういう感情はほとんどないのだ。人がどんな飯を食ってようが、いい車に乗ってようが、どうだっていいことだ。宝くじが当たっても、そりゃよかったですねと素直に思うよ。僕が当たらなくてよかった。それぐらいは冷静である。ああいうものが本当にあたってしまったら、ある意味で本当に不幸であろう。できれば仕事で当てたいものだ。本当に正直にそう思う。
 だいぶ脱線してきたが、人の悪口が嫌なのだった。悪いやつに悪く言って何が悪いということもいえるが、たいして悪くもなく、何しろ当事者でそして苦労しているヤツを、どうして悪くいえるんだろう。僕は批評家の卑怯を知っている。残念だったらまた明日である。それで通り過ぎるしかないではないか。失敗に悪意があったり、努力不足なら指摘はするかもしれない。今は結果を残せという。場合によっては確かに必要なことだが、いまヒットが出なくても、打席に立たなければいけないときもあるんじゃないか。距離があると平気でこの状態を踏み越えて非難するのではないか。共感力が欠けているんじゃないか。元に戻るがどうでもいいじゃないか。はっきりいって鬱陶しいいじめである。正当であればあるだけ、いっていることはいじめなのだ。僕は加担したくない。そりゃいじめはなくらないだろうが、いじめられたやつには反乱を起こしたり、逃げ出したりする自由をつくってやろう。僕は甘い人間で生きていくのである。
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いち抜けた/ミュンヘン

2006-10-16 | 映画
ミュンヘン/スティーブン・スピルバーグ監督

 人を殺したことがないのでよく分からないのだが、その罪悪感というものはどのようなものなのだろうか。精神的に押しつぶされるような感覚があるものか。
 人は防衛本能もあるようで、そう簡単には人殺しができないのだという。催眠術などをかけてピストルの引き金を引くというようなことはできるが、誰かを殺せという命令では実行されないのだという。無意識の中でも抵抗感があるらしい。
 しかし人殺しの動機というか、衝動ということなら、悲しいことだが、なんとなく理解できる。殺してやりたいほどの怒りは、確かに経験がある。別に最近の中学生でなくとも、いわゆるキレて暴力をふるうということはあったようにも思う。感情的に殺そうと思っていたこともあったようだ。よく人を殺さずに生き延びてきたものだと思う。僕はそれだけでも幸運だったと思う。
 近所の国の動向が気になって、いっそのこと誰かテロでもおこさないものかと考えないではない。残虐な殺人事件の犯人などは、死刑にすべきだとも思う。最近は被害者家族も積極的に極刑を望むなどとコメントしている。死を望む憎悪は日常にあふれている。恐らくこれは、テロリストの心情も同じようなものなのではないか。最近のテロは無差別に民衆を選ばず殺すのでどうにもならないが、もともとは思想や政治的な駆け引きとして、テロは実行されているのではないか。今でも権力者なら死をもって償ってもらおうというような境遇にいるものは、世界中にどれだけいることだろう。人間のうごめく憎悪の中に、少しばかりの平穏があるというのが実情なのではないか。
 主人公の報復の動機は、テロへの憎悪であろう。個人的な恨みというより、国家的な使命に誇らしさもあったのではないか。ターゲット以外の人間への被害を最小限に食い止めようという配慮にも、中東のテロリストとは一線を引いた、ルールなのかもしれない。
 しかしそういうものは、結局は自分自身への言い訳にしか過ぎず、微妙な計画のずれで、自分達の行動そのものにも疑問が湧いてくる。報復をしているが、相手側も新たな報復に出てくるだけで、際限がない。暗殺を重ねていくうちに、自分達の動きも相手側に伝わっていくことが考えられる。新たな報復として自分が狙われている立場になっていくようだ。
 仲間も具体的に犠牲を受けて減ってゆく。次は誰だという疑念が益々自分自身を苦しめていく。
 人を具体的に殺そうと思ったら、あんがい簡単に実行できるものだな、と感じた。もちろん組織的にお金もかけて行われているのだけれど、地元の警察から追及されているような場面はなかった。いや、本当なそんなことはないだろうとも思う。一種の恒久的な逃亡生活なのではあろう。しかしながら映画のテーマとは逸脱するので、削って表現されているのかもしれない。
 紀元前から問題は解決していない。そういう意味では彼らは本当にしつこい。誰かがやめなければ終わらないのに、相手がいなくなるか、相手が諦めるしかないと思っているらしい。決して自分が勝負を降りるとは想像できない。憎悪の連鎖はそういう想像力を失なわせるのかもしれない。
 暗殺者は、スムーズではないにしろ、最初は淡々と任務にあたっていた。しかしながら、段々と物事を深く考えるようになったのではないか。具体的に当事者として行動しているうちに、誤りを重ねてやっと想像力が働くようになったのではないか。時既に遅しだが、破綻してやっと自分自身の行動をやめることができた。それでも、取り返しはつかないことには変わりはないのである。
 しかし、国家は反省していない。また、代わりの誰かが実行し続けるのかもしれない。映画としてはある程度過去の話となったので、今語られているということはあるだろう。多くの人が指摘しているように、中東とアメリカの関係において、やめるべきは、アメリカではないかというメッセージも込められているのかもしれない。難しいが、恐らくそれ以外に解決はできない。しかし、また個人に戻るとどうなるか。
 もう、僕は考えたくなくなった。おかしくなるより仕方ないではないか。まったく人の悪い映画だと思う。僕一人で悩みたくないので、誰か他の人にも観てもらいたいものだと思うのであった。
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シャレとマーキング

2006-10-15 | ことば

 やばいなあと思うのは、日々口にする親父ギャグかもしれない。以前は罰金制度がしかれていて、ウケないシャレには百円のペナルティがあった。だがいつの間にか風化し、それをいいことに気がつけばしょうもないシャレが口に出て、歯止めが利かなくなっている。ひらめいて、口にすると軽蔑されると躊躇しているのに、発音してしまう。これはやばい。
 職場にも再雇用で働いているオジサンがいて、この人が親父ギャクの帝王である。ウチは比較的年齢層が幅広いのだが、二十台の女性も四人いる。見ていると、オジサンはこの四人と一緒のときにシャレを連発しているようにも思える。それならば、一種の色気のようなものなのだろうか。
 もちろん女でもシャレを言う人もあるようだが、「親父ギャグ」というネーミングのとおり、特にしょうがないシャレは、オジサンが使う頻度がずば抜けている。ある人は語彙が多いせいではないかと分析していたが、そういう前向きな判断をしていいものだろうか。失礼ながら、そんなにたいしたことのない知性の人でも、シャレは言っているような気がする。だいたい親父ギャグというようなものは、知性が感じられないから非難されているのではないか。
 シャレは予定調和のような気がしている。言う人は、相手に期待しているとか、甘えているのではないか。厳しい場面では、シャレは出ない。権威主義的男には、気が緩むと軽口をたたく習性があるのではないか。僕自身も、確かにシャレは口にするが、圧倒的に家族の前である。仕事関係で冗談は言うが、シャレは自重気味だ。これはなんか緊張感と関係があるような気がする。ウケなくても気にならない関係になると、口にすることができるのではないか。中には人のいい人がいて、なんとなく「フフン」としてくれる。そういう安住の地を求めて、親父ギャグをばら撒いているのではないか。
 そういうことを想像してたら、犬の牡がマーキングで電柱におしっこして廻るようなことを思いだした。習性には違いないが、迷惑である。しかし本人はおしっこをかけずにいられない。オスという存在は、ひたすら悲しいものだという気がして仕方がない。
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