カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

すべては想定内だったらしい

2011-03-31 | 時事
すべて想定されていた

 その通りなんだよな。それでも1000年に一度という響きの中で、想定外だと感じてしまうわけだ。
 平時には聞こえない言葉があるんだということだと思う。理屈の上では分かってはいるんだけど、現実的には受け入れられないというか。そんなこと言い出したら、日本中住むところ無いよ、というあきらめもあるのかもしれない。落とし所として、現実感が無い。
 そうであったものが本当にひっくり返ってしまったわけで、聞こえてない言葉は忘れ去られてしまった。
 しかしながら、非常時に響きすぎる言葉もあるんだということも、片隅には考えておかなければならないと思う。だいぶ落ち着いてきているとは思うけれど、非常時だからなんでもありというのは、二次災害と同じだ。
 たとえば心情的に原発は今後一切受け入れられないという感情は理解はできるものの、だからといって選択肢から神経質に排除することは本来であれば現実的で無いはずだ。識者の中には普通に可能性の話をしているだけなのに、リスクはありながらもむしろ選択しなければならない勇気のような問題になってしまっている。さらに論外だという感覚は、既に理性を失っている。
 どれだけタブーを排除して議論を進めていけるのか、そのことこそが本当に重要なことだ。今性急にやらなければならないことと同時に、根気強くやらなければならないことも休んではならない。便乗して声の大きくなるところは割り引いて聞かないことも、大切になってくるのだと思う。同時に小さくなった声を拾えるような人も必要になってくるだろう。本来は、それは政治の役割なんだろうけどな、とは思うと、やっぱり暗くなってしまうのだけれど…。
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一瞬の判断は誰がするのか

2011-03-30 | 時事
警察官が乗客など40人を救う

 まさに生死を分ける判断がなされたわけだ。ぜひともビデオまで見ていただきたい。

 自分の置かれている状況を鑑みて、本当に行動に移せるのかというのは非常に難しい問題だ。この場合で考えると、このお二人は警察官という自分の立場で、責任が明確化されたことが何より大きかったのではなかろうかと考えられる。自分が今何をなすべきか。今乗り合わせている乗客の命をなんとかするのだ、という使命が一瞬のうちに明確になったということなのだろう。二人が一緒だったというのもその判断を後押ししたのではなかろうか。だからこそ他の乗客のワンセグ報道という少ない情報であるにもかかわらず、それをもとに行動に移せたのだろう。
 迷いがあったら自分自身もおそらく危なかったであろう。お二人の話には特にてらいなども感じられない自然さがある。ひとえに職業意識の高さが、自分の行動に自信を持たせていたのではなかろうか。
 集団の中にあって、誰が最初に行動に移せるのか。この場合リーダーとなるべく職業意識の高かった人間がたまたまいたために、多くの人が難を逃れることができた。この意味は決して小さいものではないだろう。おそらく今後の復興を占ううえでも。
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休肝日に発泡酒

2011-03-29 | 雑記
 日曜のお祝いで調子に乗って遅くまで飲んだのがいまだに祟っている。遅いといっても1時くらいまでだったのだが、何しろ夕方から飲んでいる。酒量が過ぎたのは言うまでもないが、フィニッシュにラーメンという紀元前の〆方をするから内臓まで疲れたのかもしれない。
 月曜は当たり前だが休息を許してくれなかった。その上外出の要件がいくつかあって、さらに時間を圧縮された。さすがに夕方激しくつらくなって、少しだけも横になりたい誘惑にかられたが、それなりの喧騒の時間帯にもあいまって、結局断念した。
 自宅に帰ると家人たちも皆忙しく一人である。杏月ちゃんはかまってくれとせっつくが、余裕がない。準備されている唐揚げ弁当をレンジで温めて食べた。月曜日は休肝日なのだ。向かい酒ならいくらかつらさを忘れるのだが、仕方がない。
 ちょっとだけテレビを観て、しかしほとんど楽しさの意味をつかめないまま時間を浪費するのがつらくなって消す。本を読むが目がかすむ。
 下の子を塾に迎えに行く時間になって外出し、やっと風呂にでも入ろうということに気がついた。風呂は自動だが、発電所に問題が出るとアウトなんだよな、とも思う。なんとなく勧められるまま、オール電化とやらがこの際良いのかもしれないと思わせられてそうしたのだけど、後で調べてみると必ずしもエコであるともいえず、さらにこのように災害になるとどうにもならない代物だと分かる。要はやはりバランスで、ガスや電気は配分を考えて使い分ける方が賢いのかもしれない。
 とはいえ、しばらくすると「湧いた」とアナウンスの声がして風呂に促される。いつの間にか息子は熟睡している。若いって眠いのだろう。
 風呂上がりにDVDの映画を観ていたら、やっとつれあいたちが帰ってきた。どういうあんばいか発泡酒を飲んでいいと差し出され、寝る前に少しだけアルコールが胃に流し込まれた。
 周りを見回すといつの間にか皆うたた寝している。小琳ちゃんを抱いて寝室へ移動するが、どういうわけかすぐには寝付かれなかった。疲れすぎているとかえって寝られないということがある。年をとると自分の体が不思議なものである。諦めて最近読んだアステカの残酷な人肉を食う話などを思い出したりしていると、いつの間にか寝たようだった。
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誰も気づいて無かったわけじゃなくて

2011-03-28 | 雑記
 ポッドキャストのラジオ聴いていたら、バブルの時代の話になっていて、あの頃は誰もバブル経済だと気づいてなかったし、指摘する人など無かった、という話をしていた。僕の昔の記憶なんてたいてい怪しいのだけれど、しかしそれは完全に嘘である。なぜなら僕らは学生だったけど、それなりにノーテンキな毎日を送りながら、今のバブル経済はいつかははじけるんだよなあ、というような会話をしょっちゅうしていたからだ。友人に裕福な青年がいて、NTT株を持っているという話に驚いたのだけど(確か当時200万円以上したらしい)、この友人を妬んだやつが「どうせバブルなんだからはじけて大損さ」などと言っていたことも鮮明に覚えている。
 まあ、そんなこともあって、やっぱり異常な事態はいつかは崩れるというような、そんなような教訓めいたものを感じたわけだ。終末論はいただけないけど、今の状態だって本当は先は見えている。ただ、その時が、その瞬間がいつ来るのかなんて、誰も分からないだけなのだ。
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酒やタバコのようなもの

2011-03-27 | 時事
震源地の被災者として言いたいこと

 なんだか切なく考えさせられた。
 僕らにもやれることは何か無いだろうか、と考えている折でもあり、実際に遠い場所で何ができるかと思い悩んでいた。絶望が2,3年後に来るというのは、確かにそうなのかもしれない。まちを元に戻すなという議論はすでに聞いていて、しかしそのデザインができる人間が居ないだろうことも、また、問題を難しくしている。
 すぐにできることと、しかし、あえて今しっかり考えておかなければならないことも同時にやらなければならないのだろう。特に今回のようなことになると、実際に被災地だけの問題という枠にはすでに収まっていない。
 最終的には個人がどこまで未来に向けてやれるという気持ちになれるのかということをサポートしていかなくてはならない。僕らのやるべきことは、手を差し伸べるという単純な善意だけでは駄目なのだろう。むしろその善意の圧力で、障害になることさえあるということらしい。
 被災地に酒やタバコを送ることができるようになって初めて、普通の復興に向かう手助けができるようになるのではないか。今はまるで戦時下の「非国民」のごとく、遠慮や不謹慎という感情が力を持ちつつある。僕らも普通の生活を送りながら普通の感覚を持って前を向いていかなければならない。
 今は下りのエスカレーターを上っているような状況なんだから走らなければどうにもならないと思われる。しかし、多少落ちていこうとも、上るという意思が生まれなければ走れない。荷物が重たいと愚痴を言っても始まらないではないか。
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ヒア アフター

2011-03-26 | 映画
映画「ヒア アフター」予告編


ヒアアフター/クイント・イーストウッド監督

 実は東北関東大震災の前日に観た。現在は津波の影響で上映停止になっていると聞く。被災したわけではなく、オープニングにすさまじい津波の場面で始まる映画だからだ。
 僕自身の感覚で言うと、確かに翌日の現実の津波は、デジャブというより、少しリアルさの欠けるような、妙な浮揚感のあるものに感じられた。おそらくその波にもまれているその瞬間に、多くの人が現実に亡くなられているだろうということが、映画よりも信じられないという感じがあった。作り物の津波よりも、現実の津波はむしろゆっくりしており、波のおどろおどろしい高波のようには見えない。白い怒涛のしぶきをあげる映画の波は派手だが、しかしその水の透明感だとか、一気に流れながらもどこか柔らかな感じすらする迫力で、やはりあれは人間の想像の映像化なんだということを後で思うのだった。実際の押し寄せる津波は、あれはいったいなんだといぶかしげな押し寄せ方に見えて、近づくと猛烈な圧力ですべてのものを押し流していった。海の水があんなにも黒々とおぞましく汚らしく見えるものなのかと息をのむ思いだった。

 映画の内容に戻ると臨死体験や死後の世界とのかかわりなどを巡る群像劇で、テーマとしてはよく分からないが、人間の精神的なつながりと心の中の理解は別なのだということなのかもしれないのだが、下手をするとこのような題材だと、妙に陳腐になりかねないもののように思うのだが、上手くまとまっていて、観た後の感覚は悪くはない。イーストウッドは、多少はひねくれているが上手い職人さんだなあと思うのだった。人間というのは分かりあえるよう努力をするものの、本当には確かに分かりあえていないのかもしれない。しかしお互いにどこまで納得できるのかというのが重要で、心の中がすべて見えるようでは逆につらくなってしまうものだし、しあわせにもなれないのだ。何を言っているんだというようなことだけど、つまりそういう感じのことを考えさせられるのだ。
 また、人は身近な人の突然の死を、そう簡単に受け入れることができないのかもしれない。身内の人間は、自分自身とは違う人格ながら、自分自身の一部だからだ。長い時間をかけて失われたものを確認しなければ、欠けたものを埋め合わせることはできないのだ。
 また、震災のことに戻るならば、ただでさえ突然の災害に呆然とする思いの中にあって、身近な人の、行方の分からないまま生きているのか死んでいるのかさえ明らかでない状態がどれほど当人を苦しめるものなのだろうか。目の前で亡くなったというのを見ることは大変に残酷で悲惨なものであろうけれど、しかし死んでしまったのだという確認を目の当たりにすることでは、むしろその死を受け入れるということにはつながりやすいのかもしれない。もちろん、できるならば病院などで医者などの第三者が機械的に死亡を確認してくれる方が、よりメタレベルで死を受け入れやすくしているのかもしれない。災害というのはそういう意味で、最も死が宙ぶらりんのような、受け入れがたい別れの形なのかもしれないのだった。
 震災のこの時期にこのような映画がどうなのかというは、正直に言って僕にはよく分からない。ただ僕は、このようなタイミングで観てしまったというだけのことなのかもしれない。運命的に運がどうだということではないのだが、遠くの被災民の方々を考えるとき、むしろこのような映画を観ることは、必ずしも不謹慎なことではないとは思う。もちろんとても観る気にもなれないという心情はよく分かるにせよ、人の死というものを考える上では、決して害のある映画などでは無いと僕は思う。
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北も心配している

2011-03-25 | 時事
金総書記が見舞金4千万円
 へえ。自国民のためとはいえ見舞金送れるんですね。米国に同調する国々の銀行口座は凍結されているだろうから、普段のお金はどこで管理しているんだろう。ドルで保持しているようだし、送金のことを考えると海外なんだろうけど。ルートをたどられると厄介だろうから考えてはいるだろうけど、お金が届いたから報道されているのだろう。
 また、阪神淡路大震災の時の半分だというのはどういう理由だろう。聞くところによるとエジプトの騒動で一番被害をこうむったのは北だという話もある。企業誘致はもちろん失敗したようだし、武器の輸出も滞ってしまったようだ。ほとんどは中国経由だろうけどそれなりに企業活動はなされているらしいのだが、デノミに失敗してから政府の信用はガタ落ちしてしまって、台所事情は苦しくなっているのではなかろうか。
 まあ、何もかも推測するしかない国なんだが、いろいろしぶといのは、結局ちゃんと金をもっているということも言えるんじゃなかろうか。狂っているけどしたたかだということは間違いないようだ。
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体力も奪われていく

2011-03-24 | 時事
解雇相談が70件以上に

 このような問題も長引きそうだ。倒産する企業や、給与の未払いのままの従業員が相当膨らむのではないか。
 ちょっと記事を見つけきれなかったが、大学などの学校現場も大変なことになっているという。外国人教師や多くの留学生はそう簡単に戻ってこないだろうからだ。収入が減るのはもちろんだが、居ないままの教師の給与の支払いは続くことになるかもしれない。始業を遅らせるべきだという話にもなっているらしい。
 プロ野球では開幕をどうするのかゴタゴタしているようだが、実際上外国人助っ人の多くが帰ってしまっており、そういう面でも選手間に動揺があるという話もあった。契約内容がどうなのか知らないが、居ないままでも多額の給与が支払われることになるのだろうか。基本的に興業なので、開催できなければ経営的には大変に苦しくなるだろう。そういうあたりの体力の問題も、もめている本当の原因だろう。
 相撲部屋などは地方巡業の付き合いなどで疎開できるにもかかわらず、移動制限が敷かれているという。逃げ出すな、ということらしいが、これもどうなのだろうか。主力のモンゴル人力士たちが帰国したとも聞かないし、場所が開かれるめどは立たないし、おそらく飯もたくさん食うだろうし(これは比喩だが)、本当にどうにも行き場が無くなっているのではなかろうか。
 近隣国の日本の食品の輸入停止のニュースも入っているし、さまざまな問題がボディブローのように効いてきている。しかしながら逆に日本の部品などの製品が滞り生産のできないものもたくさんあるという。すべて補償したらいいという問題でも無いし、不可能だろう。今の一時の間だけの辛抱で済むとは考えられない状況に、さらに呆然とする余裕さえ無くなっているようだ。
 しかしながら、不足は供給のチャンスでもあるはずだ。どこかに必ず不足を埋めるためのがんばりが生まれる。また、それ以外に復興の道は無いのである。
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体験ルポ 国会議員に立候補する

2011-03-22 | 読書
体験ルポ 国会議員に立候補する/若林亜紀著(文春新書)
 行革ジャーナリストの選挙体験記である。若林さんの記事は雑誌などで読んでいて(本も持っているようだ「独身手当」新潮文庫。これも結構頭にきますよ。お勧めです)同調して腹を立てたことがあったので、そろそろ選挙だし興味本位で手に取った。
 率直に選挙のドタバタぶりが赤裸々に綴られており、失礼ながら結構笑える。当時のことを振り返ってみて、「みんなの党」という名前はどうなのかという疑問はありながらも、少しばかり期待していた政党だったので、ちょっとばかしびっくりするような強権ぶりも知って参考になった。政党政治というのは、結局はそういうものなのかもしれない。
 選挙というもののわけのわからなさと無用な金のかかる仕組みというのが良く分かるのも、さすがジャーナリストである。当人もその時は流されるように選挙に金を使わざるを得ない。おかしいと思いながらも、どうしようもなく、さらに追い打ちをかけるように不条理に騙されたりしている。酷い人達は思い切って名前を出しても良いんじゃなかろうかとは思ったが、まあ、分かる程度には明らかなのかもしれない。妙なルールではあるが、その選挙違反を堂々と破るのが弁護士候補だったりするのも笑える。恣意的に解釈できる公職選挙法って、いったい何なんだろう。日本は遅れているというより、ただ単に滑稽に悲しい。
 ただ、こと選挙を戦うということについては、身近に選挙にかかわったりした個人的な体験もあるので、若林さんのそれは、国政選挙という違った側面を勘案しても、なんとなく甘い感じがするのも確かだった(出版に対する厳しさとは取り組みが違うというか)。ご本人自身が反省しておられるけれど、結構現場はそれなりに厳しいものである。支持者の中でもいろんな人がいるので、全部がプラスになるわけでもない。微妙な選挙妨害もあるし、心無い言葉も容赦なく浴びせられる。ひょっとしたらあえて割愛したということもあるのかもしれないけれど、政治家や政治家候補というのは、そういう意味で本当に強くなってしまうのかもしれない。僕は気の毒だと思うが、知らない人は、政治家が汚く見えてしまうのかもしれない原因だと思う。政治家の多くは一般大衆よりお人好しで、少なくとも正義感においては比較的純粋な人が多いように思う。しかしそれではとても人間的にはもたないので、裏表を作って精神安定を図っているんじゃないかと疑ってしまうほどだ。それほど世間人や選挙にかかわったり群がったりする人たちは激しく汚い。
 僕自身は今の政治制度はもちろんだが、選挙そのものに対してそれなりに不満がある。選挙というのは、本来は本人の掲げる政策が第一であるべきだと思う。しかしながら現実には、支持母体が無ければ、その母体の思惑を生かす代理人でなければ、選挙というものはまともに戦えない。地盤・看板・鞄、というのは本当に本当の話で、結局選挙に強い人はこの三つが強いのだ。つまるところ選挙期間の運動というのはただのお祭り騒ぎで、名前を連呼するくらいで投票する人なんて、ほとんど存在しないだろう。しかし支持者はそうすることを求めるし、他になす術がないから候補者もそのようにふるまっているようなものだ(中には本当に一所懸命な人もいるだろうが)。選挙制度がそのようなふるまいを演出するような脚本になっており、本当に有権者に選択をさせるような討論会などのまともな比較の場が、あまりにも少ない。日本の選挙が外国人から奇妙でおもしろいものに見えるのは当然で、その奇妙なことを真面目にやっている裸の王様状態なのかもしれない。
 しかしながらだからと言って、現行の選挙活動はこのような展開しか許されない。当選した政治家は、その後は何故かこのような不条理に慣れてしまうらしく、まともに改革しようともしない。あがってしまうと三バンはそれなりに固まるので、逆に厄介になってしまうのかもしれない。
 間もなく統一地方選挙である。実はそういうわけで、実際は選挙前の頑張りや基盤固めなどの戦いは終わっており、後は祭りが始まるということのようだ。まあ、お願いされるのは後の方がいいという話もあって、そういう期待無しにやってられないというのが正直なところだろう。選挙のときだけ頑張っても、政治の世界はどうにもならない。しかしながら選挙に当選しなければ、政治家はただの人である。日本の民主主義って、たいへんに難しいものだと改めて思うのである。
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タイガーマスクは燃料も

2011-03-22 | 時事
朝起きたら燃料満タン、灯油缶も

 そう簡単に現地に入れるものかもわからないし、被災民の方にピンポイントに届くかどうかも怪しいときに見事な神業というか、受ける側もすぐにタイガーマスクという名前を出すあたりもなんとなく狂言っぽい感じが無いではない。切迫した救援を呼び掛ける手段だったとしたら、かなり見事だという感じだろうか。なんとかしたいという思いがありながらもどかしい気持ちでいる人たちにさらなる後押しになるのかどうか…。
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情報が過多すぎる

2011-03-21 | 時事
被災者が本当に欲しいもの、靴、ドライアイス

 ドライアイスか…。何もかも不足している中での切実な声に、まんべんなく答える術自体が失われている。
 ちょうど総会の時期でもあり、さまざまな会議の折毎に、既に何度となく黙祷を捧げ、被災地に対する自分たちへの気持への整理だけはなんとかつけようとはもがいている状態。それぞれの団体からの義捐金要請に応え、律義に金額の配分を考えてみたりしている。もちろんこちらはとしては名義などどうでもいいが、そういうところだけは妙にこだわる人たちもいて不必要に腹立たしい。
 手元にも、さまざまな団体から救援物資のリストなどが送られてきている。しかし末文には実際の要請については慎重にする旨などが記載されており、一体本当に何を送ればいいものなのかはよくわから無い状態だ。人員の支援も応える準備はあるし、また被災民の受け入れも可能だとしているが、実際に返答はまだ無い。長崎県は基本的に福島県への派遣になるということになったようだが、その話になると原発の影響もあり、一度要請にこたえた事業所であっても再考の上慎重に返答しなおすべきだという連絡が又回ってくる始末だ。確かにその通りなんだが、どうにもやりきれない気分になってしまう。
 だがしかし、スーパーに行ってみても特に保存食などの不足があるわけではない。もちろん関係無い地域であるから当たり前であるが、聞くところによるとトイレットペーパーが不足している事業所などはあるらしい。そうするとやはり備えておくべきだという意見がまことしやかにささやかれ、実際に倉庫にはパーパーや生理用品などが買い足されたのだという。危機管理上無理もないことだが、これではやはり連鎖しないわけがないではないか。
 実際にこのような大きな災害が起こってしまうと、個人というのは本当に無力だ。遠く離れた地にいながら、本当に日常を取り戻すことにさえままならずにいる。大丈夫だ、落ち着けという声であっても、届いたすぐに疑わしく思ってしまうのだろう。
 いっそのこと今の情報過多の中から距離を置くということが、今はむしろ必要になっているのかもしれない。被災地と距離のある場所においては、そのようにして平常になることの方が、有益な場合もあるのかもしれない。
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ボールを追うだけでは…

2011-03-20 | 時事
東電の発電能力、震災前7割まで回復へ

 火力発電を再開して当面はまかなう計画のようだ。もちろんそれでも夏場の供給量には不足があって、計画停電は続く模様だ。現在の能力の倍以上必要だといい、需要をまかなうための方策には10年という単位の時間がかかるという論者もいる。日本のGDPの4割を稼ぎ出す首都圏という馬鹿でかい需要のダメージは、想像以上に先行きが暗い。もちろん復興需要というものも経済自体を押し上げる力があるが、長期的に見てそれが本当に明るい材料になるかどうかはわからない。神戸の港は災害前の状態に戻ったが、需要量は元には戻らなかった。
 福島の原発の状況はとりあえずホっとする状況になったといえる状態まで落ち着いたものと考えられる。福島50といわれる人たちを含め自衛隊や消防や警察の皆さんの勇気と力の大きさに改めて敬意を表したいと思う。
 しかしながら原発の将来ということで考えると、日本のみならず世界的な潮流は脱原発へと大きく舵が切られていくものと考えられる。脱石油エネルギーの担い手として、その主役の座から原発が消えることは、世界的に計り知れない影響が及ぶものだと考えられる。こと日本だけに絞って考えてみても、電力供給の4割を原発が占めているわけで、事実上原発なしに電力を供給できない体制が固まっている現在から脱却することは、日本自体の復活の大きな足かせになるだろう。1000年に一度の災害であっても最悪の状態の回避を果たしにもかかわらず、世論はそのようには受け止めはしない。
 特に日本の原発は、事実上核の抑止力を担っていたとも考えられ、国防上の脅威に対する再軍備の必要性も議論すべきであるだろう。しかしこれはおそらくないがしろにされて終わる危険も大きい。世論のミスリードによる混乱は、恒久的に続くことが決定したといえるのかもしれない。
 また今回の災害による検証段階に入って議論されるべきことに、再度遷都論が持ち上がってくる可能性もあるだろう。関東地方の震災の危険性は、度重なる警鐘が鳴らされるにもかかわらず、結局は経済規模の現実から先送りが繰り返されてきた。最大の安全対策を講じるのであれば、首都機能の分散は避けられない問題であるだろう。そのことにも気づかないままであるというなら、復興計画を含め片手落ちのままの議論だということにもなりはしないだろうか。
 さしあたっての原発の脅威から回避を受けて、落ち着いた議論がなされることを期待したい。今現在は災害時の特殊な空気の中で、さまざまな問題が先送りか棚上げ状態である。優先的には復興が第一であることはそのとおりだが、その他の問題が先送りされることのリスクの蓄積も、同時に将来的な起爆剤となることも忘れてはならない。どこまで段階的に掘り下げて議論できるまでに復活できるか、そのことがこの国の自力として試されているのではないだろうか。
 ボールをただ追うだけの状態を子供のサッカーという。いまどきの少年サッカーでもそのようなゲームをするチームはいない。日本に司令塔が居ないという懸念はあるにせよ、転がるボールを追うだけでは、本当に流れを支配することは不可能なのである。
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この体質からの脱却を

2011-03-19 | 時事
米軍無人機の映像、日本政府が公開に慎重

 今は変に揚げ足を取ったり足を引っ張るべきときではないが、このような報道を見ると非常に残念な気持ちになる。デマや流言を防ぐ最大の方策は、物事をありのままに報じることだと思うし、そのような誠実さが本当の信頼の連鎖につながるのだと思う。何を恐れているのかは想像に難くないが、だからこそ誠実になるべきときであることは間違いあるまい。
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このようなときだからこそ、あえて

2011-03-16 | 時事
祝!九州 九州新幹線全線開CM180秒


 こんなときだからこそあえて流したい、とネットでの声に賛同して。
 すぐにこうなるとはとても思えないが、必要なのはこのような気分かもしれない。
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間違う力を信じているから

2011-03-15 | 雑記
 少し前にツイッターで卒業式の祝辞の文章を読まない旨つぶやいたら、多少の誤解を受けた。まあ、短いつぶやきを繰り返しても誤解が深まりそうだったので途中であきらめてしまったわけだが、今になって少し弁解する。
 僕は詩の朗読や引用をしなければならないような場合を除いて、基本的にスピーチの際は原稿を読まない。別に方針というかそういうことではなくて、読むのが下手だ(話も下手だが)というのが第一に言えることで、読んでいるとどんなに練習を積んでも原稿に頼ってしまって目が離せなくなるのでトチりやすくなって、そうしてトチるとさらに不安になるのでシドロモドロになるのが怖いのだ。どの道しゃべりのプロでもないわけで、人によく思われようというような欲も無いとは言えないが少ない。人前で話すのは好きではないからそれなりに練習もしてきたし(苦手や嫌いだからこそ人は克服しようとするものなのだ。嫌いこそものの上手なれである)、いつの間にか年をとってしまって人前で話さざるを得ない場数も増えてしまった。話す前は生きた心地はしないけれど、時間がくればいつかは終わる。僕はバンドでボーカルをやっていた時期があり、マイクで自分の声を聞くと何故だか少し落ち着くということを知っている。話が上手くいっていなくても、聴衆を見ると段々と燃えてくるのかもしれない。まあ、しゃべり終わると自己嫌悪に陥る場合もあるのだが…。
 もちろん、スピーチの天才と言われたソニーの盛田さんも尊敬しているし、そうなりたいというあこがれは無いではない(現実の彼のスピーチを聞いたことは残念ながら無いのだが…)。しかし一番大きいのは、いろんな式典で様々な人のスピーチを聞いてきて、役人の代読ほど聴衆に失礼なスピーチは無い(自分の部下などに書かせておいて本人から預かってきたなどと嘘を言うのがそもそも気に食わない。かわりに出席しているのだから代読するのではなく、任された責任を持って自分の言葉で話すべきだ)と常々感じさせられてきたのもあって、自分がそのように聞いていて頭に来るんだからおそらく僕以外でも迷惑に思っている人間は必ずいるはずで、そのようなわけでその場しのぎのような卑怯な真似はするわけにはいかないという考えは少しあるような気がする。もちろん読みたくて読んでいる人はそうすればよかろうし、本当にそうでなければ話せないという人ならお気の毒だと思うまでだ。
 ただ、ものすごくはっきり僕が日頃から感じていることは、ヒトは間違うから素晴らしいということにも尽きるのかもしれない。そういう生の人間が間違うかもしれない臨場感があってこそ、ダイレクトに伝わる力を信じているのだ。それはレコードには無くてライブにはあるものであろうし、落語をはじめとする話術や演劇などの舞台芸能が証明している現実であろう。
 いささか大げさになってきたが、そういうわけで僕は祝辞を読まないというだけのことである。
 もちろん不安だったので家人の前で3回ほど練習して本番に臨んだ(家人といえども十分恥ずかしい思いをして)。書いた原稿の内容では8分程度になることが分かり、三分の一程度に端折ってみても4分近くになる計算(話し出すとなんとなく付け加えるものが出てしまうのだ)だった。一応原稿以外にも他の方との重なりを考えて代替案ネタの一つくらいは車の中で考えておいた。本番は緊張でナーバスになっていて昂揚感も無く、何を話したか細かいところはよく覚えていない。演台に提出するために原稿を内ポケットから出す際に、手帳も一緒に飛び出してしまって焦ったことくらいが笑い話だ。でもまあ、終わったからホッとしたので、それでいいのだ。
 というわけで、やっぱりスピーチは好きにはなれないが(大変だから)、自分を過信して原稿を読まないというわけではないことはご理解のほどを。ホッとするのもつかの間で、また入学式があると思うと頭が痛いぜ。
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