カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

望む、原点回帰   影なき殺人者・刑事コロンボ

2013-06-30 | コロンボ

影なき殺人者・刑事コロンボ/アラン・J・レヴィ監督

 最初は何となくいい感じではあったのである。いろいろ巧妙に仕掛けに取り組んでいるし、コロンボも働き甲斐があろうな、という感じもする。弁護士ということで、言い訳も上手そうである。それを逆手にとってコロンボが追い詰めていくという展開も面白いかもしれない。シャンペンのコルク問題に目を付けるということでも、何か含蓄のある事を学べるかもしれない(ある程度は学べたが)。
 ということではあったが、やはり残念な出来だった。というか、そりゃないでしょう、というレベル。トリックとしてはもう少し気の合った人間だとか、共通の敵である必要もある気がしたし、何より物理的にはかなりの危険を伴う無理のあるものじゃないだろうか。がっかりですね、これは。
 ということで悲しい気分になってしまったが、ひょっとすると助手的なこの女性が今後も活躍する機会があるのか、というような、何となくの含みも感じたが、実際どうなのだろう。これもこの場限りのものなのだろうね。コロンボの物語を愛している者にとっては、そういうものがシリーズとして膨らんで行ってもいいのかもしれないとは思う。コロンボ以外のキャラクターが増えることは、アニメシリーズの人気の脇役というものの重要性ともつながるものではあるまいか。
 しかしながらあんがい米国というのは、そういうキャラの発展の仕方や使い方というのはそんなに上手く無かったりするようだ。こういうのにもお国柄がありそうで、比較したり調べたりすると面白くなるかもしれない。
 もっとも、コロンボはやはりコロンボと犯人のやり取りが基本なのだから、もう少しそこのあたりを精査して反省してもらいたいものだが、もう時間切れですもんね。重ね重ね、残念であります。
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笑った後には…

2013-06-29 | 音楽
The Strokes - "One Way Trigger" (Audio)


 最初はまさに「アハ」みたい、で笑って聞いてたんだけど、不思議と馴染んで来るもんですね。こういう感じの人とは思って無かったけど、考えてみると最初からこんな人だったよな。という感じかもしれない。

 初対面の印象が大切だという話はよく聞く訳だが、そんなことを気にしたり大切にしたり引きずったりするのは、後々問題が多いような気がしないではない。最初が悪くてそれで終わりは悲しいということは言えるけれど、その印象で押し切られるほど甘くないというか、なんというか。むしろちょっと期待を裏切ったり、驚かせたり出来ることの方が大切だという気がする。そのためにネタを仕込むというのは、なんではあるんだけれど…。
 相対的な関係を楽しむ、という姿勢でやっていくしかない訳です。
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引き込まれて面白さが減価しない名作   別離

2013-06-28 | 映画

別離/アスガー・ファルハディ監督

 イラン映画(シャレでは無い)。一言で言うと、じゃあ誰が一体いちばん悪いのか? というお話。しかしながら誰もが悪く、誰も悪くないという気もする。いや、悪いところはたくさんあるにはあるが、それが決定的に、運命的に悪くなったように見えるということかもしれない。
 物語の中で終始落ち着かず、短気で暴言ばかり吐いている家政婦の夫にして見ても、同情の余地はかなりある。もちろん、物語をこじらせる張本人でもあるが、彼が暴れることにより真実に近づいたかもしれない側面はある。もちろんそれを阻んでいる元凶と考えることも出来るのだが…。このあたりのスジのからませ方が絶妙で、サスペンスとして見ても、人間ドラマとして見ても、社会批評として見ても、すべてにおいて観賞に耐える作品に仕上がっている。まさに「残る」作品として確定的だろう。
 折り合いのつかない感情と、そのためにつかれる嘘というのも大きなテーマになっている。さまざまな人がそれぞれに嘘を抱えているが、その嘘をめぐって、さらに背景にある嘘の理由が人間を縛っていることも分かる。時には宗教のような社会背景もあるし、貧富の格差もあるし、本人の思惑や、法律的な罪の問題もある。そしてその中で両親を離婚させたくない娘の思いもある訳だ。
 人間は誰も正直に生きられる訳ではない。ある意味で正直というのは馬鹿と同義であったり、迷惑で邪悪なものでもありうる。美徳という考え方は、単なる偏見なのかもしれない。しかしながら誰もが嘘つきなら、この世はやはり住みにくいだろう。本当の事と嘘が混ざることで、人間はかろうじて人間社会を生き抜く事が出来るのだろう。
 嘘だろうと本当だろうと、大切なのは折り合いをつけるということかもしれない。そのためには、やはり相手に歩み寄る必要がありそうだ。その境界は損得だったり、時間だったり、考え方や思想だったりするかもしれない。イランの社会においての特殊性もあるが、しかしこれは人間に普遍的なもののようにも感じられる。誰が決定的に悪いのかは僕には分からない。しかし、どのように話し合うのかというのは、この物語の人たちには決定的に足りないという印象は持った。もちろんそれはある程度は仕方のない事なのかもしれないが、お互いがどうしたいという平行線は続くばかりで、ほとんど誰も折り合いをつけようとしていない。その果てには地平線があるばかりという感じで、ただ悲しくむなしいのである。結局不幸は連鎖するように増幅し、誰も幸福にはなれない。まるで悲劇を呼び込んでいるような悪循環が続いていくのである。
 このような映画が面白いというのは、人間の罪のせいなのだろうか。自分ならどうしただろうと自問が続き、そして嫌悪の感情も治まらない。そうしてしかし、謎解きのカタルシスも結末の将来も考えさせられる。まったく贅沢な2時間を満喫できる「面白い」映画なのであった。
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若くて小賢しいは、憎らしいか   殺人講義・刑事コロンボ

2013-06-27 | コロンボ

殺人講義・刑事コロンボ/E・W・スワックハマー監督

 試験問題を盗んだことがバレて退学になるのを防ぐために先生を殺すというとんでも無い展開の上に、我らがコロンボまで陰で馬鹿にしている金持ち大学生という、かなり憎むべき人物(二人)が犯人ということで、観るものを殺意に駆り立てる内容、という感じかもしれない。こいつらは絶対に許してはならない、という気分には少なくともなるはずだ。それは結果的には期待通りにならなくてはならないが、トリックの見破り方というのは、はっきり言ってあんまり上手いものではない。それにやはりこの若者たちは愚か過ぎて、自滅的に墓穴を掘る道を進んで行く。これもコロンボの力量から言って、やはり興味を削ぐものではなかろうか。新シリーズは残念なものが多いのだけれど、このような感情までも乱されると、なんだかちょっと気分が悪いままという感じが残ってしまう。突っ込んで楽しむ余裕さえ奪われるということかもしれない。
 しかしながらトリックの仕掛けや、金持ちであることの特権や、彼らの持つネットワークの行使の仕方などをよく考えてみると、現代的な若者らしい賢さということは言えるのかもしれない。過去の若者だった自分の事を鏡みてみると、このような理由で年配の人から憎まれていた可能性はある。でもまあそれは多かれ少なかれ勘違いや妬みで、新しい仕掛けに抵抗なく、そうして自分では無力な癖に虚勢を張っているだけのことだから、むしろやはり若者はかわいそうな存在なのではなかろうか。
 みんな大人が悪いとは思っていないが、原作者の中にそのような偏見があって、この若い犯人像に育てたのではなかろうか。犯人が悪い方がカタルシスは大きい。まるで水戸黄門だが、外国人だって、きっと水戸黄門が好きに違いない。そんなことを考えさせられる悪人創作の手法ではなかろうか。というか、ホントは知らんけどね。
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増量拒否の理由

2013-06-26 | 境界線

 スーパーで何割引きと書いてあるのを見るのは好ましいのだが、増量とかオマケというのにはあんまり食指が動かされない。まあ量が多くて助かるものもあるだろうけど、オマケというのはやはり余分だ。
 飲料などには、増量と標準と少量の飲み物の値段が同じである場合がある。少ない量もサービスということが考えられるが、何となく釈然としない。容器を製造するなどのコストなんかもあるのかもしれないが、中身の製品の原価を考えると、量によって値段が違う方がまともという気がするためだろう。僕の力ではどうしようもないが、値段に変化を付けて欲しいという希望を持っている。
 それというのも、こういう値段設定で売っているという事実を見てしまうと、増量で得をしている人の分のコストの負担を、レギュラーとかスモールのものを購入した人が負担しているような気分になるからだろうと思う。増量で得をする人の満足を、見ず知らずの、時にはこの差額に気がつかない購入者が負担することが、はたして公正だと言えるのだろうか。
 並んで売られている場合、それは了解済みではないかという考えもあろうが、そのためにいくらか不平をのみこみながら購入している可能性は無いのだろうか。たくさん飲めない自分の体の能力について、恨めしく思ったりしないだろうか。
 値段というのは情報格差でもある。情報を掴む能力のあるものが、勝者ということだ。チラシを子細に比較し、安い商品を買うことが出来た人が、高額で購入した人の負担を勝ち取ることができるということなんだろう。
 それは分かるが、明らかにこのような量の差があるお得感というのは、やはり何となく気に食わない。今は少量飲みたいのだからそれで満足すべきだという理屈を、自分なりに説得しなくてはならない。かと言ってたくさん飲んでゲップしたくないのだから。
 そうして結局、増量するような種類の飲料物は避けて購入したい、という選択をするようになってしまった。いちいちこの不公平感を味わいたくない、という気分になるらしい。いつも公平に量が変わらない飲み物というのが、僕にはなんだか好ましい。もちろんその単価自体が安くなることは、歓迎するだろうけど。
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かなり変なバイオレンス映画  スーパー!

2013-06-25 | 映画

スーパー!/ジェームズ・ガン監督

 この手のヒーローものというのは、近年よく作られるようになった。中にはデフェンドーみたいに大変に優れたものもあって、やはり一定の理解と支持を得ているといえるだろう。この作品はデフェンドーみたいにリアルではないが、ちょっとだけ近い。その上でキック・アスのような激しい暴力も加味されているという感じ。というか、行き過ぎではあるだろう。まあ、そういうところが楽しいといえばそうなのだが、悪趣味と言えばそうである。ショックを受けつつも考えさせられる訳で、そもそもの善行というのはまったく難しい問題なのである。
 世の中には悪い人間がいることは確かだ。いわゆるヤクザ的に怖くて迷惑な人を何とかしたいということもあるし、この映画のエピソードにもあるように、列に割り込むような人間も何とかしたい。非常に不快だが、やはりあちらの国でも、皆黙って我慢しているような現実があるのだろう。注意して懲らしめてやりたいが、関わりを持つのも面倒そうだ。さらにはとばっちりだって受けかねない。悪のほとんどはそのようにやり過ごされることが多くなり、諦められていくのかもしれない。道徳問題として学校教育を子供時代に受けたとしても、大人社会の現実として学ぶことは、一定の悪さというのはのさばるままであるという感じかもしれない。
 映画としてはこの問題に対処する方法を提示しているとも言える。ヒーローになることで社会提起してより良い社会にして行くということも言えるかもしれない。警察以外のヒーローが取り締まることで、ムーブメントが起こるかもしれない。現実には痛い人間が的を外しながらやるにしても、大義名分としては理解できることである。
 そうして、主人公の行いの基本には、自分のパートナーへの深い愛という側面もある。ある意味で崇高なところに精神を持っているともいえて、しかしかなり風変りだ。SFチックな物語になりそうになりながら、精神世界の破綻したものにもなりそうになる。正義と暴力のバランスを崩して、痛いしっぺ返しも食らうのである。
 とにかく変なバイオレンス映画なのだが、出来が悪い訳ではない。明らかに低予算でありながら、かなりいい感じの仕上がりにもなっている。もっとも嫌悪を覚える人の方が多いだろうけれど…。
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独善的な人間

2013-06-24 | 雑記

 僕は独善的な人間である。あまり人にばれないようにしているだけで、性格的なものなのかもしれない。
 何か物事を決めなければならない時は、ほとんど相談することはしない。自分で静かに考えることはあるが、できるだけそういう考え自体は人には話さない。これはしかし、性格というより経験的なものの積み重ねでそうなった可能性もある。人に相談してそれなりに懲りた。そういう思いもあるので、以前は相談していたのかもしれない。
 そうやって決断して方向性を決めると、一方的に発表する。後はまあ、前に、というわけだ。
 そういうことばかりやっていると、やはりお叱りは受ける。もう少し事前に話しておいて欲しかったという反応はもちろんだが、批判も多い。批判どころか非難というか、ほとんど妨害のようなことも受けるようになる。猛省を促されるということもよくあることだ。非を認めて謝ることもあるけれど、まあ、目的の中に入っているという感じかもしれない。
 そういうやり方については、時々やはり物事を相談して決める重要性を説かれるということもあるようだ。なるほど、と思うこともあるが、考えを変えるに至っていない。何故なら、やはりその重要性がよく分からないからだろう。
 批判を受けている最中も、反省もしないわけではないが、やはり相談しなくて正解だったと思うことの方が圧倒的に多い。そのようなことを考えていると、おそらく決断はできなかったし、行動もできなかっただろうな、と思うからだ。迷惑をかけた方面には陳謝するものの、こちらの目的達成のためのお願いも含めてである。そうして相談しなかったという判断に、ますます強い成功感を覚える。間違っているかもしれないが、それでよかったのである。
 大切なことはできるだけ相談しない。そういう態度は生きていくうえで、大変に大切な心得だと思うのである。そしてそれは、責任ということとも関係があるのかな、とも考えている。
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変だけど名作   カルメン故郷へ帰る

2013-06-23 | 映画

カルメン故郷へ帰る/木下恵介監督

 この映画の興味というのは、はっきりってその当時はエロだったに違いないのだが、今見てみると、かえってこのおかしみというのは伝わりやすくなっているのではなかろうか。もちろん最初からコメディとして楽しい訳だけど、さらに時代が下ると、この面白みがかなり年季が入って増していくように思えた。
 田舎の風景と都会から帰って来た若いストリップ・ダンサーの踊り(半裸ではあるが裸では無い)のコントラストがなんとも言えないのだが、エロの興味で注目を集めているのに、頑なに芸術として踊っている彼女たちの行動が滑稽なのである。しかしやはりこの映画をずっと見ていると、最初は滑稽なだけだった彼女たちの踊りが、なんだか妙に滑稽さを通り越して、芸術的な感じさえしてくるのだから不思議である。変な踊りには違いなくて、そうして歌も踊りも奇声もやっぱり変だが、じわじわくるというか、可笑しくて崇高になっていく訳である。この感じは是非現物を観て頂きたいと思うのだけど、これは本来的な監督の狙いからも恐らく越えた効果なのではないかとも思われる。高峰秀子と小林トシ子の演技がそれだけ素晴らしいというか、上手くない上手さが良かったのだと思う。これは今こういうことになると誰も見ないかもしれないが、いや、かえって面白いと思ってくれるコアなファンは確実に少数でも出てくると思う。そしてやはり過去にこれだけぶっ飛んだ人々が普通の喜劇として楽しんだということに、驚きを覚えるのであった。
 田舎のまちではこの騒動が大事件である訳だが、しかしあんがいおおらかに認めているようなところがあって、そういう空気も面白い。しかし父親などの関係者は恥ずかしいやら悲しいやらの思いをする訳で、馬鹿騒動なのかどうなのかという筋立ても見事である。
 結果的に芸術振興に大いに役立つことにつながっていくのだが、やはりそれは興行で儲かるからなのである。芸術というのは不幸や貧乏が何となく似合うのだけれど、しかし結果的にお金がなければ文化として成り立たないとも言えて、妙に教訓的な事も考えてしまった。
 変な映画だけれど、やはりこれは面白い映画である。名作というのは、こういう残り方をする映画の事なんだと再確認した次第である。
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逃げ場は夜更かし

2013-06-22 | HORROR

 最近は酒に酔うようになっていて、これは加齢に伴い体力が弱っている証左であろうけれど、酔うのはある意味でお金の節約になって良いという側面が無い訳ではないが(割り勘負けという側面もあるが)、これに伴って困ったことになっているのは、イビキがひどくなっているらしいのである。
 睡眠時無呼吸症候群などのような健康被害を気にしている訳ではない。昼に眠くなるのは困るだろうけど、突然死しても本人が困る訳ではない(というか困りようがない)。それに不健康なのは、かえって僕のようなアマノジャクには精神衛生上気分がいい。ざまあみろ、である。
 困ったと思っているのは他ならぬ他人への配慮である。いやお隣に寝ているのは主につれあいだから他人ではないが、他者であるということでは大変にいけない。僕には意識がないが、彼女が睡眠不足になるのは良くないばかりか、まことに申し訳ない。事故にあったり怪我をするような事があったら、どうしたらいいのか。その原因が僕のイビキだということがバレたら、かえって滑稽ではないか。
 それともうひとつまずいことがあるのは、そうであるから休肝日を増やせとか、酒量を制限される危険が増すということなのである。そんなことになったらオチオチ落ち着いて飲んでいられない。
 とりあえず出来る限り僕から先に寝ないということを気をつけながら(そのくらいの意識を保つ程度に酔うということ)夜更かしをするしかないと考えているところである。
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単に気に食わない奴だからだろうか?   マリブビーチ殺人事件・刑事コロンボ

2013-06-21 | コロンボ
マリブビーチ殺人事件・刑事コロンボ/ウォルター・E・グローマン監督

 新シリーズは突っ込みどころ満載のものが多いようだが、それは第一に過去の作品の質の高さに対しての比較として不満があるのだと思う。ファンというのは勝手なもので、素晴らしい作品に感動を受けながら、さらに高い水準のものを際限なく求めてしまうものなのだろう。
 さて、いかにもサスペンス劇場のような作品なんであるが、めぞん一刻の三鷹さんのような犯人(しかし三鷹さんみたいに金持ちじゃ無いようだ)が女性を巡って立ち回る姿というのが、何となく納得がいかない感じが先ずするのだった。誰からも好かれる二枚目というのは居るのかもしれないけれど、やはりそれはちょっと安直なのではあるまいか。
 トリック自体はいろいろと仕掛けがあって、謎解きに至るコロンボの気付きの視点も面白いのだが、そういう二枚目の立ちふるまい自体が残念という感じなのだ。ちょっとコロンボ的でないというのは、犯人は悪い人間であっても、何となく知性が高かったり、それなりに社会的地位のある人だったりすることが多いせいかもしれない。行き当たりばったりに行動しているように見えて、さらにそれが成功していくような人間の謎解きというのが、そんなにいい印象を残さないと言えるかもしれない。もっともそのような滑稽さを楽しむという方法があってもいいわけだが…。
 多くの女性の支持を受けるような甘いラブロマンスを作る魅力的な女性と、さらに多くの女性を虜にしてしまう二枚目のテニス・プレイヤー。そういう魅惑の設定を持ってしても、本当に女性の心をつかむ作品になっているのだろうか。コロンボ・ファンに女性が少ないはずもないと思うが、少しそこのあたりのはずし方が激しいのかもしれないと感じた。
 最後のちょっとネタばれ的だが、女性の下着の前後というのは、本当にそんなに間違わないものなんだろうか。男性の場合は前後の特徴が激しいのだが、それでも間違うということを犯しがちである。それだけ男性は愚かだということは言えるのだけれど、女性の場合の下着というのは、何となくどっちだって良さそうな感じもしないではない。間違えないという自信がこのような仕掛けだけで防げるとは思えなかったのだが、どうなのか。そこのあたりはこれを見た女性の人たちに聞いてみたいところであった。
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客観性から主観的科学へ   生物から見た世界

2013-06-20 | 読書

生物から見た世界/ユクスキュル著(岩波文庫)

 地球という星には、本当にさまざま生き物に満ちている。人間は人間社会の事にほとんどの場合夢中で暮らしているけれど、もちろん人間だけの都合で地球の事情が決められている訳ではない。人間が環境に与える影響も小さくは無いけれど、しかし決定的に自然の前に、人間というのは無力な存在なのかもしれない。人間にとっての見方だけでは理解できない自然の姿は、やはりなかなか分かりにくいものがあるようだ。しかしそうであっても、実は考えてみるとちゃんと目の前にある事に変わりは無い。それはあたかも人間が鳥になったり獣になったり、時には昆虫や植物になったつもりになると、ぼんやりと見えてくるもののようだ。それは想像力ということかもしれないが、しかし彼らの視点というものは、子細に調べることによって、少しずつでも獲得できるのかもしれない。
 一般的に科学的な見方というのは、客観的な視点を確保することによって得られると考えられる。しかしながらそのような客観性でもってしても、理解されえない分野というものがある。それはやはり人間以外の生物からの視点なのである。この本では環世界という言葉を使っているが、それはつまり生き物からみた、いわば主観的なものの視点だ。それぞれの視点から眺めた環境というのは、人間のそれとは完全に違う見え方をしているのだ。昆虫が世界をどう捉えているのか。またどのようにその目で見ているのか。そのような世界の話が面白くない訳がない。本当にはその考え方は知りようもないことなのだが、しかしその見え方を知ることで、あたかも彼らの考えまで理解できるような気もしてくる。このような人間以外の主観的な見方というもので、自然という世界を読み解いていくことで、人間の見えている視点というものも、別の角度で見直すことになっていくだろう。
 個別のエピソードも大変に興味深く考えさせられるものも多かった。ダニの脅威の機能や、鳥の社会観というものなどは、なるほど人間の叡智とはまったく別の自然の知恵のようなものを感じさせられる。このような世界を理解することで、あたかも神の意思のようなものがあるようにさえ感じられる。自然という超越した世界というものを理解することは、人間の英知を越える試みなのかもしれない。
 古典的な名作だが、薄い本の上に言葉使いも大変に平易なものだ。多少古い事も無いではないが、基本的にその考え方は古びていない。イラストは日本の漫画の様にこなれていなくて、なんだかちょっとユーモラスである。自分で読んで楽しいし、人にプレゼントするにも良い本かもしれない。
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政治家の面構えが悪くなると…

2013-06-19 | 時事

 選挙前というのもあるんだろうが、いろんなところで舌戦が聞かれるようになった。本当の世間の温度というのは僕には分かりようがないのだけれど、業界としては選挙戦真っ盛りという感じにはなってきた。僕にもいろいろ立場があるから誰を選んでどうこうという話から、一応お付き合いですからエヘヘヘ、というものまで、めんどくさく付き合わされている。頑張ってくださいと握手もしたりする。こんなふうにして人間というのはツラの皮が厚くなっていくんだろうなあ、などと思ったりします。
 ところでメディア的にはどうなのかというと、舌戦より何より非難中傷ばっかりですなあ。やっぱり面白ければそれでいい、ということらしい。特に週刊誌なんかは、選挙といえば面白いと思っているようで、こんなネタで読者がついているという確信があるんだろうね。今の時期はほとんど読める紙面が無い状態なんである。
 非難の言葉もだがさらに写真が酷いなと思うのだが、特に酷く写されるようになったのは、橋下市長だろう。最初は誰の顔か分からないものまであって、橋下という文字が無ければ分別不可能だ。かなりの悪人顔が採用されているようで、文意は読まなくてもよく分かる。叩いていいという確定がなされた人物ということで、今更ながらメディアというのは卑怯な存在である。いじめ問題なんか取り上げる資格無しでしょうね。
 悪人顔といえば何と言っても小沢一郎で、彼が活躍しなくなると寂しくなっているのではなかろうか。彼がメディア嫌いなのは、他人事でもよく分かることである。彼の立場で報道陣を信用するようになる方が異常だろう。
 近年は女性の政治家も増えてはいるけど、これは女性の社会進出とある程度比例することは間違いないだろうけど、本人の本音としては、このような報道体制化、政治家として写真に撮られたくない女ごころということもあるんではあるまいか。一般人ならここまで酷く撮られることは稀だろうけど、政治家なら容赦がない。政治心情的には平気そうにしていても、人間心理としてはとても耐えられないと思うのではないか。
 もちろん将来のことは分からないけど、日本の首相が女性になる日というのは、そう簡単じゃない気もする。どの道話も聞かずに中傷が先走る社会にあって、まともな神経の人が政治家を選べるものなんだろうか。
 ああそうか。つまりツラの皮の方を厚くするより無い訳だ。政治家もワルいツラほどそれらしいということなんだろうね。
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過去はだいたいにおいて恥ずかしい

2013-06-18 | 雑記

 先日珍しく二次会にスナックに入ったら、ママさんが生前の父を知っている人だった。地元ではご年配の人がよく行く老舗スナックで以前働いていたようだ。その後、まあ、独立したというか、何かあってこの店をやっているということなんだろう。
 そういわれてみると、僕もなんとなく覚えがある。つまり父の仕事関係の業界人と行ったことがあるからだ。
 まあ、僕のことはあんまり覚えてないだろうと高をくくって飲んでいたわけだが、時々そういえば、という感じで昔話をしたりする。そうしてこういうところだから当たり前だろうけど、やたらに父を褒めてくれたりする。
 こういうのは人によるんだろうけど、それなりに落ち着かないというか、恥ずかしいというか、どうにもかえって居心地が悪い。地元密着型のスナックらしく、本当にご近所の老人会という感じの常連らしい客がカウンターに陣取ってカラオケを連続して歌っておられる。僕らグループ4人も、その合間合間にカラオケを歌う。なんだか思わず遠くに来てしまったような妙な感慨と、そうして時折父を褒められて恥ずかしくなるというような不思議な夜だった。
 そうしていると、突然今度は僕のことを思い出したようなことを言い出した。本当かどうだかはよく分からないが、ひょっとすると僕の弟たちのことかもしれない。こうなるとさらに恥ずかしさが増して、酔ってるんだか、飲まれてるんだかよく分からなくなるのだった。
 ちなみにこの店ではこのママさんの娘さんも一緒にカウンターの中いて、常連が帰ったらこちらにも寄ってきた。まずいことに目がきついことを除くと見られない顔というわけではないようだ。つまり一緒に居た連中が、どうも気に入ったらしい。
 僕は眠くなったので帰ったのだけど、また行く機会がありそうな余韻が残ってしまった。ちょっと変わった地区にあるスナックなので、そんなに警戒することもないとは思うが、この恥ずかしさをまた味わうような、危険度の高い場所ができてしまったようである。
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騙されて喜んだ   十角館の殺人

2013-06-17 | 読書

十角館の殺人/綾辻行人著(講談社文庫)

 名作と名高いミステリ。少し古くはなっているが、そういう時代だからこそ成り立つトリックもあって、確かに充実感を味わえる作品になっている。最初は妙なニックネームのやり取りについていくのが何となく億劫だったが(本名といちいち確認しながら読んでいた。もちろん僕なりに犯人を突き止めようと思って)、それもまあ、慣れていく。だいたい登場人物の名前には妙なものもあって引っかかっていて、しかしそれが見事な伏線になっているということが最後に分かるので、そういう作業は感動を増幅させたかもしれない。良く考えてパズルを組み立てられており、まさにこれは残る作品だろう。倫理的な問題は残るけれど(まあ殺人事件だし。ただ、殺された人にも身内は居るだろうからなあ、という余分な意見である)、見事なトリックにしてやったりといったところだろう。
 本当はトリックを見破れなかったのだけど、後半になって目星をつけていた人が犯人だったことは、個人的には少し当たりということではあった。それと少しだけケチをつけると、多くの人が殺されて人数が減っていくと、犯人とそうでない人と、そうして外部の人間説との葛藤がもう少し複雑化しそうな気もした。普通なら犯人でない人は、やはり誰も信用したりしないだろう。そういう描写はあるにせよ、孤島とはいえ、連絡手段にもっとジタバタするということは考えられるだろう。もちろんそうなってはお話は面白くなくなってしまう訳だが…。
 これはもう読んでもらうより無い。ミステリ好きなら既に読んだ人も多いことだろうが、そうでないなら騙されても、という類だろう。本当に後半に謎が解けるカタルシスは感動的でさえある。ミステリファンというのは騙されて喜ぶマゾ的な側面があるらしいですね。
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やはり雨の注意は必要ということで

2013-06-16 | 掲示板

 実は空梅雨の話でも書こうかな、なんて思っていたところである。そういう話題も多くなっているし、今後もそんな感じかな、ということもあった。天気予報も曇りってあるけど、ほとんど晴れだったし、そうすると、雨かもしれないのは曇りじゃないか、なんて変換したくなる。勝手なことだけど、そんなもんじゃなかろうか。
 先の天気も予想が難しいわけだが、未来というものは本来的に予測が難しい。もしできるというならば、競馬に人が殺到することになる。だからそれでいいのだけれど、じゃあ、梅雨というのはどういうことになるか。毎年書いてるので繰り返すのは嫌だけど、空梅雨になるとそういうことを思う。さらに嫌なことを言うと、雨が降らない梅雨の時は集中豪雨があったりするんだよね。これは外れてほしい体験的な情報ということでご勘弁ください。
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