カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

解説者も気合が入っている

2021-07-31 | 時事

 訳あっていろんな人と会って話をすることが続いたのだが、ご自宅や事務所などのテレビがつけっぱなしのままである。要するにオリンピックである。今どうなってますか? という感じで自然な話の展開があるし、なかなかに楽である。僕は新聞くらいは読んでいるが、だからと言ってその程度だから詳しい方とは言えない。真剣にオリンピックを見ている人というのは、そういう裏情報含めてよく知っているもので、会話で意外なことをたくさん聞ける。それと民放でもオリンピックは放映しているらしく、解説の人の顔ぶれがずいぶん違う。そういう人が誰なのか、そういうことも教えてくれる。元選手というのが多いのだが、現役を引退して、こういう芸能の世界に入るような人というのは、やっぱり一般の人より洗練されているものだな、と思う。テレビなのでスタイリストというような人が、それなりに整えてくれるのだろうと想像するのだが、やはり何か違うものがあるなと思う。解説してくれる人の話によると、彼らも売り込み時で、これでいい感じに顔が売れると、また仕事が増えるのだろうということだった。まさに稼ぎ時なのだろう。偉いですね。
 オリンピアンとは、もともと常人とは違う超人の域の人々なんだろうと思うが、やはり勝負に身をささげていただろう人々なので、そのようなものには長けているものがあるのだろうか。一定以上の一流選手というのは、だいたいにおいてあまり性格の良くない必要があると思っていたが、そういう性格がまた、テレビ・フレンドリーなところがあるのかもしれない。負けず嫌いで努力家なので、そういう場面にも動じない精神力があるわけだし、思い切って考えていることを口にできる。そういうところが魅力的なわけで、意見を引き出す方も使いやすいというのがあるのではないか。実際に選手として活躍している頃は、勝負の駆け引きを相手に知られたくはない。頑張ります、程度しか言えないのが実情だったろう。落ち着いたときに取材を受けて、いわば訓練されていた経緯もあるかもしれない。地元のスターなので、講演などにも呼ばれたかもしれない。スポーツ以外にも自信がついているので、このような時に解説するのにも役立っているのではないか。メダリストになると、報道も大々的で国民的な栄誉を受けて、全方位的に顔が売れる。そういう人がタレントになるのであれば、やはりこれから売り込まなければならない人間よりも、数段有利かもしれない。
 もっとも、やっぱり住む世界が違って、馴染まない人もいるんでしょうけどね。報道されなくなって、世間の関心から離れた生活に戻って、よかったなという人というのも、またなんとなく魅力的な感じもしないではない。収入の方が許せば、タレントにならなくてもいいのではないだろうか(なった方が断然儲かるだろうけど)。
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頑張れニッポン

2021-07-30 | 時事

 僕はオリンピックには興味がないと思っていた。しかしながらコロナ禍で、オリンピックは開催すべきでないという圧力一色なったマスコミを見ていると、やっぱり開催した方が正解なんだろうな、と思うようにはなった。いつだってマスコミは事実と反対のことばかりするからだ。要するに頑張っている人が困るのを見るのが楽しい、というのが報道の基本姿勢で、僕はそういうものを好まない。今でも何かありそうだと恐怖をあおる状態はキープしながらも、同時にオリンピックは熱心に伝えたりしている。ほとんど二重人格化しているのではないか。彼らには倫理観や矜持というものは無いのだろうか。感染者数が増えると、困りそうな人にマイクを向けに行っているようだが、だからと言っていまさら中止にする方がどうかしていることくらいは知っている。それでも関係者が、やっぱり無理しているとか、失敗したとでもいえば、喜ぶかもしれないけれど。
 しかし妙といえば妙なことにはなっている。昨年の今頃を考えると、やっぱり大して感染者はいなかったわけだが、次々にイベントなどは中止に追い込まれ、シラケたムードになった。なんだか失敗したのではないか、本来は今のタイミングでやるべきことは多かったのではないか、などと逡巡した人は多かったのではなかろうか。そうして秋になり、これまでも中止にしてきたのだから、やっぱり流れとして中止にせざるを得なかった。そうして寒くなってきて期待通り感染者が増えだしてホッとした。やっぱり危なかったかもしれないという気持ちが満たされたわけだ。
 そうだったはずだが、今は感染者の数だけ見ればたいへんに増えた。まあそれが当たり前になったということは言えるが(検査数が増えていて、一定の割合が感染者数だから)、やはりワクチンを打っていない若い人中心である。そうでない人もいるようだが、圧倒的に少数派になった。そう考えると、やっぱりワクチンの効果があるということは言えるわけで(それはそうである)、状況はどうなのか考えるまでもなく、緊迫感はそれほどでもないという感じもする。うちのまちでも(感染者が)出たらしいよ、と聞くが、以前のように特定はできない(狭い町なので知っている人は身近にいるものなのだ)。今までは恐怖のためにいじめに近い状況だったから、そういうことを反省する意味でも、それでいいのである。
 実際のところ、以前は知っている人のそのまた知っている人が感染していたわけだが、今は、実をいうと身近な誰が感染していたのだと後から聞く。ああ、やっぱり感染症なので、これは防ぎようがないなと感じる。その中で、単にラッキーなだけで、暮らしている。そうして暮らしていける。そういうことが分かりかけている人が増えたのではないか。まだまだ洗脳から解けていない人が多数派ではあろうけれど、解けている人もいるのである。
 それにしても炎天下でマスクは本当に苦しい。これで死んでいる人がいるはずなので、そういう人をカウントして、日々公表してほしいものである。
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結果は誰に聞くか、それが問題だ

2021-07-29 | 時事

 家に帰っておふくろに今日はどうだったかと聞くと、キツネみたいな顔した人だったけど、頑張ってよかったよ、とか。腋毛が少なかったけど、あれは男としてはどうかね、などという。何となく爆笑してしまうわけだが、だからと言ってそれが何だったのかは、結局妻に聞き直さないとわからない。まあ、会話の話題としてはありがたいのだが、いったいおふくろは何を見ているのだろうか? まあ、そういうのを相手に戦っているわけではないのだろうし、しかしそれが大会の本質かもしれない。僕としては、前の大会の後に生まれ、そうしてこの次は無いだろう。こういう感じを記憶にとどめ、楽しんでいこう。
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田舎娘のサクセス・ストーリー   タイピスト!

2021-07-29 | 映画

タイピスト!/レジス・ロワンサル監督

 田舎での縁談が嫌で飛び出してきた雑貨屋の娘は、あこがれの秘書の仕事に就こうとする。早いだけのタイプライターの技能をかわれ、一週間の使用期間を得るが、やはり秘書としてより、タイプライターの早打ち大会で勝つことを求められる。最初は僅差で敗れるが、特訓を積み、フランス大会で優勝し、国際大会への参加を勝ち取り、国民的なスターに上り詰めていくのだったが……。
 タイプライターの早打ち競技がそんなに盛り上がるものなのか、という疑問は置いておいて、しかし問題は綺麗な女優さんと多少偏屈な煙草ばっかり吸っている保険会社のボンボンの若者との恋の駆け引きである。最初から秘書の能力というより、女の魅力で採用したにもかかわらず、それをうまく肯定できずにタイプライターの競技のためと称し、束縛し虐める。しかし、女は田舎の生活に戻るのはまっぴらで、そんな変な男だが好かれていることを知っているので自然に恋に落ちるということになる。まだ時代が男女差別的なフランスの背景もあるようだし、女のあるべき価値観の中で、タイプライターを通じて努力していくしかないのである。まあ、適当に気が強く、かわいいのでいいのだろうが。
 何かひねりのようなものがあるのかな、という期待もあって観ていたが、ほとんどそんなこともなく物語はそのまま進んでそのまま終わる。ハリウッド作品ではないし、60年以上前のフランスなどの風俗がちりばめられていて、デザインがちょっとおしゃれな感じになっているのかもしれない。いわゆるレトロとして。タイプライターそのものが、そういう時代の象徴かもしれないし。俳優さんは二枚目なのかもしれないが、なんとなく横柄なうえに線が細くて魅力を感じられない。まあ、ジャン=ポール・ベルモンドみたいなのも過去にいたので、あちらの美的感覚はそんなかもしれないけど、日本人的にはちょっと変である。女優さんは時に目がうつろだが、まあ、かわいいかもしれない。日本の上映は、そのあたりの影響だろう。走っている車もかっこいいし、いろんな国の人もステレオタイプ的に偏見に満ちているし、分かりやすい演出とはいえるだろう。まあ、そこのあたりが物足りない一番の要因だけれど。
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結局辛抱して曲を聴く毎日

2021-07-28 | 音楽

 自分の教養のなさなのかもしれないが、クラシック音楽を聴きに行きたいという願望はない。もっともロック・コンサートであっても、考えてみると特に行きたいわけではない。住んでいるのが田舎だということもあるが、何か足を運んでイベントに行くということすらしない。若い頃は、文字通り若い衆として祭りの手伝いにかり出される身だったが、実のところ祭りすら好きなわけではない。付き合い上やっていただけのことで、要するに今でいうインドア派であるのかもしれない。祭りとクラシック音楽は別物だろうけれど、出かけていくという行為ということでは、僕の中では五十歩百歩である。
 昔松田聖子の歌で、クラシック・コンサートに誘われていい子にしてて疲れるということを歌っていたが、確かにクラシックというのは、ものすごく退屈な時間を経て盛り上がるものであって、それなりに心構えがなければ耐えられない。そのために事前に準備というか、予備知識的に曲を知っていないとあんまり盛り上がれないということもある。キャッチーな曲がない訳ではないが、全く未知の領域になると、戸惑うばかりか、曲を追っていく道筋すら見失ってしまいそうだ。
 知的水準の高い人が、どういうわけかそういう分野においてのめり込むような傾向があるようにも見受けられる。庶民的な人がクラシックを聴いているという話は、やっぱりなんだかなじまない。散歩をしていると、それなりの音量が漏れて聞こえるお宅があって、それがクラシックなのである。佇まいからして想像するに、退職して子供も巣立った後に越してきたような比較的新しい家である。家では何か作業でもされているのかどうか、そういう中にあって、音楽をかけっぱなしにしておられるような雰囲気がある。あくまで想像だけれど。しかしながらどうしてこれほどの大音量なのだろうか。自分がその音楽に浸り続けていたいのだろうか。
 もちろん、それでも時々はクラッシックは聞く。若い頃は今より頑張って聞いていた。モーツアルトやベートーベン、さらにどういうわけかラフマニノフ。でもまあ、繰り返し聞いていているとやっぱり飽きるし、今時はロックの方が辛抱して聞かなければならないような曲も多いので(難解なのである)、結局苦労するために、またロックの世界に戻る。軽くジャズにも行くが、すぐにやっぱりロックに戻る。僕は辛抱強いのか軽薄なのかよく分からない。よく知らない新しい人たちの、なんだか分かりにくい新しいポップスを聞いて、昔はこんなにむつかしくなかったけどなあ、などと思っている。でももう昔の曲は、やっぱり古くなって、聞き飽きたような気もする。そういうのはたまに戻って聴く程度だけになっていて、そうして結局聞いたことのない曲を求めて際限なく消費を続けていくのである。
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僕らはみんなブライアン・ウィルソンが好きなのだ   ラブ&マーシー終わらないメロディ

2021-07-27 | 映画

ラブ&マーシー終わらないメロディ/ビル・ポーラッド監督

 兄弟家族や近所の仲間で結成されているビーチ・ボーイズの中心メンバー、ブライアン・ウィルソン。彼の音楽的才能はずば抜けており、斬新なアイディアで曲作りをしていくが、同時にメンバーからは理解を超えた曲への没頭があり、孤立する。そうしてだんだんと精神を病んでいく。同時進行として精神病を治療しながら、その精神科医と依存関係に陥り、さらに病気と異常性を帯びる医者(おそらくブライアンの遺産目当て)という不幸な関係が生まれてしまう。そういう異常さの間に割り込んでいく、新しい恋の行方を描いている。
 時間軸が複雑に入れ込んでおり、よく分からなくなることにもなるが、精神的な病気がブライアンを苦しめ、そうしてその創作裏話などが史実的にわかるようになっており、興味深い。もともと再評価の波がちょっと前にあったけれど、この映画もその流れの中の一作品なのかもしれない。ブライアン・ウィルソンを尊敬する音楽家というのは多方面にわたっており、初期のわかりやすいヒットソングももちろん素晴らしいが、当時はそれほど売れなかったペット・サウンズがいかに凄かったのかというのを、見事に映像化した作品である。また、その後病気で引きこもるが、復活前にそんなことがあったとは、日本人の僕はまったく知らなかった。ちょっとぎこちないが、精神を病んだ人間の恋愛劇ということでも、面白いのではないか。
 若い頃のブライアンを演じるポール・ダノもなかなか素晴らしい。最初はちょっと違うんではないか、という思いがあって観ていたが、だんだんと本当にブライアン・ウィルソンその人に見えていく。憑依したとしか思えないではないか。
 僕は何にも考えないで、十数年前に「スマイル」を買って聞いていた。ふつうにビーチボーイズのサウンドなのに、どうしてブライアン・ウィルソンのソロなんだろう、とは思っていたが、事情はまったく知らないままだった。そんなことくらい調べたらよかったのに、僕はまったくバカだった。でもまあ、そういう訳で、映画は楽しめたけど。
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資格試験は受けたくない

2021-07-26 | culture

 日本の資格試験が諸外国と比べて特に多いのかどうかの比較は僕にはわからない。しかしながら、ふるさと検定など民間の資格が、就職などと関係なくそれなりに活況を呈して産業として存在しているという状況は、案外それなりに日本的であるといえるのかもしれない。僕は民間の何とかいう資格を試験料を払ってまで取得しようとは思わないが、しかし過去においていくつか資格試験は取りに行った記憶はある。それは仕事の関係で、モノを配送したりフォークリフトなんかも運転していたので、そのような危険の伴うことについて、資格を取っておくべきということだったのだろうと思われる。また、特に僕が危険物を扱っているわけではないが、そういうものを保管したり、他の人に管理させたりする都合上とらなくてはならなかった資格があったようにも思う。誰がどのように管理しているのかさえ知らないけれど、長い年月の間、様々な資格に関するカードや証書のようなものがあるはずだ。今も必要なものがあるはずで、管理が悪いと問題になることもあるかもしれない。
 で、民間の試験であるが、取ったとしてもその資格が何に生かされるか分からないものが人気であるということである。そしてなんだか、その内容は多少奇妙である。例えばふるさと検定のようなものがあるのだが、観光案内に必要な人がとるというのならまだわかるものの、それとは関係ない人が、単なる故郷の愛着のためなのかどうか、しっかりした知識取得のための確認のためなのか、受験する人がいるらしい。また、猫に関する知識だけの資格もあるというし(出版社の独自資格だとか)、音楽のロックに対する知識検定のようなものがあるんだそうだ。おいらはロックに詳しいぜ、っていう人がそういう資格を取ることで、ロックっぽい人格を強化できるとも思えない。ああいうのはバーのカウンターでポロっと語ることで、神格化する問題である。多少怪しくても携帯でわざわざググったりしない間柄で詳しい、というのがさらに望ましいのである。
 そういう資格を取るために勉強したり、実際に資格を取得する達成感があるというのは分かりはする。そういう人がいても、それはそれで世の中の成り立ちではある。勝手にすればよろしいといえばよろしいのだが、何かそれは本当に自主的な心情なのであろうか。
 それというのも、やはり何かの権威というか、そういうものがなければ、自分の立ち位置が確認できない人がいるのかもしれないというのがある。猫にしてもロックにしても、自分だけが詳しくなって何の問題もない訳で、そういう人にどうして資格が必要になるんだろうか。好きなロックスターのことは好きだから自然に詳しくなっていいと思うが、その奥さんより詳しくなる必要もないし、たぶんならないであろう。そういう部分で詳しくなりたいわけで、やっぱり試験は受けたいと思わない。自分の知識は、人から評価されたくない問題である。そういう気分があるからこそ、何かそこには不穏なファニーさを感じさせられるのかもしれない。まあ、それが日本人だというのであれば、多少ぼーっとした気分にならざるを得ないのである。
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トコトンつまらない名作といわれる作品   インテリア

2021-07-25 | 映画

インテリア/ウディ・アレン監督

 何か才能はあるらしいが口うるさい母親がいて、すでに大人になった三姉妹がそれぞれいる。娘たちも地味だが、女優だったり詩人だったり、ライターの仕事をしている様子。まあ、収入はありそう。そういう家庭で家族がそろった席で、父親が別居を宣言する。それは実験的な試みであり離婚ではないらしいが、要するに妻(娘たちには母)との生活に嫌気がさして距離を置きたくなったということだ。そうして父が出で行くと、それで母親は精神を病んでしまう。そうなるとうるさがっていた母ではあるが、娘たちは同情する。しかし不安定な母は自殺未遂までしてしまう。そうなっても、父は今度はどこかで知り合った恋人を連れてきて結婚すると言い出す。そうして、娘たちを招いて結婚式をするのだった。
 まあ変な話で、ちっとも面白いものではない。芸術的な感じと、べルイマン風の静かなドラマに、多少母親はエキセントリックだったかもしれないが、裕福で坊ちゃんだからだろうか(すでに年寄りだが)どうしようもない父の行動に、母はもっと苦しめられてしまうということだろう。まさに後のウディ・アレンそのものの精神構造の男のエゴだろう。
 まあともかく評価ばかりは高く、しかしどういうわけか目にしない隠れた名作のようなことになっていて、今では見る機会が少なくなっている。しかしこうして観てみると理由は明確で、まったく面白くない。こんな映画は物好きしか見ないであろう。芸術的だというが、まあ物語は低俗なものである。インテリアは何かの隠喩だが、才能があろうとなかろうと、誰だって嫉妬はするし生活に不満はある。それでも何とかやっていくものだが、誰かがそれでもエゴを通そうとすると、そのバランスは大きく崩れる。父親は既に心が離れたということなんだろうけれど、すぐに恋人を作り、そうして追い詰めてしまった罪は大きいのではないか。この映画では不思議と最後まで責められることは無いが、その代わり連れてきた新しい母は嫌われている。娘たちにしてみれば、そんなものなのだろうか。まあ、外国の話だから僕にはわかりようがないが。
 それにしてもアニーホールのような名作を撮りながら、そのあとにこのような作品をどうしても撮りたかったのだろうと思われる。もちろん商業的にはどうしようもないことは、わかっていたのだろう。その後はちゃんとした面白い作品作りに戻るので、何か若い頃にためていた作家的な何かを吐き出したかったのかもしれない。そういう意味では、かなり私的な映像美を求めた作品である可能性はある。そういうところに何か惹かれるものがあって、芸術的な人にとっては心に響く作品となったのかもしれない。だから僕にはふつうに詰まらなかったのだろう。まったくまたしても時間を無駄にしてしまった。
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猿のコーネリアス

2021-07-24 | 時事

 小山田圭吾って人のことは知らないと思っていた。しかしながらコーネリアス? なんだか聞いたことがあるような……。録画して観ることがある「デザインあ」というのがEテレであるのだが、今年この挿入歌を中心とする演奏の映像が流れた。音の使い方が非常に上手くて、テクニックもすごい。さらにその曲の広がりも素晴らしい。日本人にもこんな人たちがいたんだなあ、と、かなり感心してしまった。僕の好きな分野とは言えないが、凄いことには変わりがない。音楽の可能性って、やっぱりいいなあって感じだった。こんな風に人の心を動かすことができるんだから。
 ということで、あの人だったのか。記事を読む限り、ずいぶん前から執拗に狙われていた人らしく、とうとうオリンピックの政争に巻き込まれ、事実上永久追放されてしまったようだ。いかにも現代人の単純正義らしい出来事だ。
 もちろんやったことの卑劣さが許されることではない、という話はもっともらしく聞こえる。そりゃそうだけど、そもそも過去のそういういじめ自体が、事実なんだろうか? 内容がひどすぎるし、盛っているんではないか、とも言われている。そうであれば、やはり事実究明が必要な案件ではなかろうか。たとえ過去すぎる問題だとしても、許されない行為であればこそ、そうすべきだろう。被害者が思い出したくなく、出ても来られない状況ならば、なおさらそのことも考えながらやるべきだろう。私刑は許されるものではないし、復讐も残念ながらやれるものではない。今のような状況で社会制裁することはフェアではないばかりか、悪質である。
 小山田という人が、なぜそのようなことを雑誌に語ったのだろうか。音楽を創作するということと、そのような強烈ないじめをしたという体験が、何かつながるようなことを考えていたのだろうか。人前でオナニーをさせたりうんこを食べさせたりするというのは、殴る蹴るという具体的な身体を傷つける行為以上に、その人を傷つける強烈な虐待である。しかしながら、いわゆる小説や若者向けのノベルものの中では、よく出てくる、言ってしまえばありふれた表現である。ふつうはいくら何でもそこまでのいじめにまでは至らない。似たようなところまでは行く可能性もあるが、あくまで密室であろうし、それが漏れると、学内でもそれなりに大きな問題に発展することだろう。だから事実ではないということではないが、少年であるとか子供の残忍性を見つめ直す時に、そのような心象風景というのは、実際にありそうな気もするのである。大人になれば絶対にやらないしやれないことであるが、そのような残酷な時代を経て、特殊な体験を経て、今の自分があるというのは、語られる意味のようなことを、何か含んでいるのだろうか。ものすごくいやな気分にさせることができることで、また、そのような表現を何かに応用できるようなことがあるのだろうか。
 人の気持ちを、そのようないじめ体験を語ることで揺さぶることができる。雑誌のような活字が残る媒体で、著名になった自分がそれを語る気負いがある。誰もが普通はそんなことはしないし、できもしない。いじめをやってきた張本人というのは、そのような悪質な部分を抱えていることをひた隠す方が自然である。それを武勇伝のように語れるというのは、その雑誌の方向性や演出を含んでいる可能性を捨てきれない。
 そもそもオリンピックというのは、きれいな大会ではない。そんなことは大人の誰もが知っている。しかしながらそういうものを強烈に含んでいるからこそ、表面的にはやはり強烈に人を動かす力を持っている。そういう様々な圧力やゆがみを、舞台裏から引きずりだして揺さぶろうとする力がある。少なくともこれで、これに関わる人の人生は大きく変えられてしまった。そういう意味では、この問題を忘れないでいるということにも、それなりに意味がありそうな気もする。この問題以外でも、退場したままの著名人は複数いる。沈黙を続けるよりないのだろうが、いったい何を思っているのだろうか。
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ビートルズ無き世界は、やっぱりあり得ない?   イエスタディ

2021-07-23 | 映画

イエスタディ/ダニー・ボイル監督

 何故か世界的な大停電が起こっているさなか、交通事故で意識を失っていた売れないシンガーソングライターの青年が目覚めてみると、彼だけがビートルズの記憶を残している世界になっている。そうすると彼が知っているビートルズの曲を歌うことで、皆はちょっと驚いてしまうわけだ。当然ながら周りが放って置かなくなり、シンガーとしての青年の境遇は、どんどん変化していく。そうして世界そのものがどのように変わっていくのか、という体験を映像化した物語である。
 設定は荒唐無稽だが、そのようなことになると起こるべくして起こることが夢のようなものになる。現代の大スター、エド・シーランも出演していて、いい味を出している。そうしてそれを超えるスターが、誕生することになるはずなのだが……。
 ビートルズのない世界は、同時にハリー・ポッターや、コカ・コーラも存在しない。ひょっとすると異次元に迷い込んだのだろうか。オアシスがいないのは、当然なので笑えたが。
 ダニー・ボイルらしいテンポのいい映像で、そうして脚本がリチャード・カーティスだ。それだけ製作にも力が入っている大作である。主人公は無名の青年だが、歌も上手いし、実際の本人はアフリカ・ルーツの英国人らしいが、インド系をにおわせており、世界的なヒットをにらんだ戦略も分かる感じだ。今や映画は、インドなしには世界制覇はあり得ないのである。もちろんそういうしたたかさはありながら、ビートルズを生んだ英国らしい風刺が至る所に見られる。ハリウッドではないのも、この映画のいいところだろう。
 ところで、しかしながら僕はちょっとノレないところが多かったのも事実である。それというのも、僕もふつうに遅れてやってきた日本のビートルズ・ファンだからだろうと思う。ビートルズの曲は確かに名曲ぞろいだが、ビートルズが生まれる必然的な時代背景もあるし、そのキャラクターも大きいことを知っているからだ。英国の中産階級の出でありながら、最初はだれも売れるなんて思われていなかったにもかかわらず、ドイツで修業を積んでのし上がっていった背景あってこそのサクセスだということを、誰もが知っているはずだ。しかし売れすぎていくことに彼らは戸惑い苦しんで、実際の活動期間はあんがい短い。そうして、解散したその後も、ある意味でビートルズであることに逃れられなかった。
 まあ、それはいい。だってビートルズのいない世界なんだから。でもまあ、好きだからこそエド・シーランはこのような役を演じたのかもしれないが(そんなにビートルズに影響を受けたっぽい人ではないし)、現代ではこのようには、おそらくならないだろう。さらに恋愛劇だが、売れたから彼女が離れるのではなくて、男の方が離れるのではないだろうか。そうでなければ、馬鹿な自分には気づかないものなのではないか。まあ、それもいいが、しかしビートルズが存在しなかったからこその、あるメンバーとの邂逅だけは悪くない。何か非常に寂しいが、なんとなくだか、そんな感じかもしれない。
 もしもの世界はむつかしい問題をはらんでいるが、確かにアイディアとしては面白い。ここまでは大胆すぎて却ってやらなかっただけのことだろう。そんなに面白すぎる作品ではなかったが、そういう雰囲気を楽しむためには、いい材料だったと思うのであった。
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中国人留学生は、自国に帰っている

2021-07-22 | 雑記

 米国への留学する日本の学生が少なくなっているという話は、ずいぶん昔から言われていていることだ。人口比もあろうが、中国が圧倒して30%くらいだったはずで、日本は1%強といったところだろう。米国留学というのは、奨学金などの制度もあろうけど、基本的には比較的裕福な子息息女に限られて行ける留学先という感じもあって、経済力のバロメータ的な見方もされていた時代があった。なので米国留学が可能である国の経済レベルが、留学生数で計ることが可能という考えもあったのだろう。
 もっとも米国は移民文化で、現地の人のみでは、やっていけない社会だと言われている。優秀な人材が集まるから、世界的な様々な優位性において先頭を走り続けることができるというわけだ。
 そういう理由もあって、その国自体を目指して留学する学生は、その後も米国に残って活躍する人が少なくない。特に中国の留学生にはその傾向が顕著だったといわれていたのだが(残って就職した方が自国より高収入が見込まれるということも暗に含まれている)、なんと直近の傾向としては、せっかく留学しても自国に戻って勉強し直したり、やはり自国で就職する若者が増えているのだという。
 まあこれは日本の報道だから、近年のアメリカの在り方(特にトランプ政権やアメリカ第一主義的な保守傾向)を批判する意味が第一にあるとは考えられるが、しかし、中国の若者の本音としては、必ずしもそのような米国批判なのではないという。その第一の理由は他でもなく、中国第一主義的な若者の台頭であるということなのである。
 どういうことかというと、米国に留学したものであったとしても、改めて中国という国の良さを見出すことになるからだ、ということである。最初は米国に一定のあこがれをもって行ってみたのだけれど、思ったより自由であるわけでもないし、成長するという意味でも、自国に戻った方がより魅力を感じられるということがある。そのうえで、統制社会の中国批判などがあることは知っているが、中国で暮らしている分には、よっぽど政治的に反感を持っているならともかく、むしろ意思決定は政治的に素早いし、統制が取れていることで、米国などよりはるかに治安も良く生活の満足度も高いのだという。そうして、やっぱり中国の方が将来にわたって成長している国の若者として、自分自身がこの国で生きていく上での期待度も大きい、ということだろう。
 まあ実際の話として、自国民で自国を捨てる方がよっぽどのことなんじゃないかとも思えるし、当然といえば当然の考え方なのかもしれない。米国でなければ最前端の研究の難しい分野もあることだろうが、バスケットや野球選手であるわけでもないし(あれは米国の商業タレントである)、目指す目標が必ずしも米国でなければ達成できないものではなくなった、ということだろう。ある意味で、日本の若者と変わりはしないし、他の経済水準の国とも似たり寄ったりかもしれない。
 しかし、日本の一般の人にとっては、何やらざわついた感覚の残るものであるかもしれない。
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伝説の試合を、伝説的にひも解くと   ボルグVSマッケンロー/氷の男と炎の男

2021-07-21 | 映画

ボルグVSマッケンロー/氷の男と炎の男/ヤヌス・メッツ監督

 伝説の試合となった1980年のウインブルドン男子決勝戦。ボルグ対マッケンローの戦いを中心に、二人の内面を含んだ物語を展開させている。特にボルグには大会の5連覇がかかっており、日本にいるテニスに興味のほとんど無かった僕でさえ、この試合のすさまじさは記憶がある。ニュースやドキュメンタリーで見たことがあるのだろう。
 そういうわけで、その試合の結果は知らないではないはずなのだが、これがまた、息をのむような緊張感で、いったいどうなってしまうのだろう? とかたずをのんで試合の展開を観てしまったのである。そんなことってあり得るんだろうか。
 知らなかったのでかなりびっくりしてしまったのは、他でもなくビョルン・ボルグの性格である。この映画の表題にもなっているが、当時いつも冷静にプレーをし、正確なストロークを繰り出していたことから、「氷の男」と評されていたことは間違いない。そこが彼の最大の魅力でもあって、さすが北欧のスウェーデン人は、何か他国とは違うものがあるんだろうな、とさえ思っていた。ところが彼の幼少期からの性格は、それとはまったくの真逆で、激しく切れやすく、感情をコントールできず暴言さえも吐いて関係者を愚弄する暴れん坊だった。生まれた階級も低い庶民であることから、自国テニス界ではプレーを制限され差別さえされていたのである。ところがあるコーチから見いだされ、怒りを圧力釜の中に封印し、一つのプレーのみに集中する神経質な男へと変貌する。同じ椅子に座り同じ車に乗り、ぎりぎりに弦を張り詰めたラケットを決まった数だけ毎日調整して用意し、汗を拭くタオルさえきっちりと決められていた。予定されているものは細部漏らさず守り、いつも神経質にあらゆる物事におびえながら、勝つことの恐怖の中に自分を置いている人間だったのだ。勝利への執着は誰よりも強く、いわば何時も命がけだった。
 一方のマッケンローは、いつもキレキレでラケットをところかまわず投げつけ暴れまわるやんちゃものとして、アメリカ国民の恥として多くの人から嫌われていた。この人も感情をセーブすることの困難な人だったのだ。その行動は連日批判され、友人も少ない。しかし孤独だけれど、誰よりも勝利への執着が強く、落ち着きがないのだった。しかしながらこれは、冷静を装っているボルグ本人にははっきりとわかっていた。ボルグ以上にボルグと同じ人間だったのだ。要するにこの戦いは、実はものすごく同じ人間同士の、激しい葛藤の中にある戦いであったのだ。だからこそ一歩も譲れず、しかし同時にギリギリの綱渡りのような強烈な精神の戦いでもあった。それが本当の歴史的な真剣勝負にあって、実際に奇跡としか言いようのない死闘となったということなのである。
 映画でも少しだけテロップが流れるが、マッケンローは実際はかなりいい奴だったというのは、実は周知のことである。当時も人気の高かったテイタム・オニールと結婚し子も儲けるが、テイタムはドラッグ中毒でもあって生活はほとんど破綻していたといわれるが、献身的に支え続けた。しかしながら結局は離婚して、その後再婚してまた子供がいるようだ。また、テニスの上でも映画の中では決別したように見えるピーター・フレミングとは、何度もダブルスでコンビを組んで優勝している。日本でもCMに出たりした人気者で、引退後もテニス解説者などをやっているようだ。全くの誤解とは言い切れないが、若く激しい試合に対する向き合い方と、普段の性格は別のものではないのだろうか。
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女子高生の中に引きこもり青年が入れ替わる   ぼくは麻理のなか

2021-07-20 | 読書

ぼくは麻理のなか/押見修造著(双葉社)

 全9巻の漫画。大学生の途中からいわゆる引きこもりになって、親の仕送りがあるので何とか食べてはいけて、一日中ゲームばかりしている青年がいる。しかし青年は決まった時刻に外出し、コンビニで見かけるだけの女子高生を見に行く。女子高生は美少女で、ただ眺めて後をつけているだけだ。ある日同じようにコンビニから後ろをつけていると、彼女が振り返るようなしぐさをした時から記憶が飛ぶ。そうして目が覚めると、青年はその女子高生になってしまっていた。
 男女の入れ替わりものというのは、ときどきこのような物語になってはいる。最初はそういう、ちょっとエロの入った入れ替わりものかな、という気もした。青年が女子高生になって、生活ができるものなのだろうか。厳密にいうと絶対に無理なはずだが、様々な問題を起こしながらも、しかし女子高生の男は、そのスリリングな毎日に身を投じていく。そうしてその本当は男が女になっているはずの姿を追うもう一人に女、依さんという人がずっと見ていたのだった。
 何が何だか分からないながらに、さすが押見作品という緊張感と、内面の葛藤が終始続いていく。まったく凄い。漫画ならではの話なのだが、しかしこれは本当に漫画なんだろうか。どうして美しい女子高生の麻理ちゃんの中に、引きこもりの小森功という青年が入り込んでしまえるんだろうか。どうして、麻理は意識ともども消えてしまったのだろうか。引きこもりの小森はちゃんとアパートにこもって生活をしている。会いに行くと、麻理たちのことは知らないそぶりで、さらに関係が深まっていくと、麻理に恋に落ちていくようなのだった。いったいこれはどういうことなのか。この作品はSF的に終着駅にたどり着けるのだろうか。
 そういうわけで、作品のオチまで心配しながら読み進んでいって、しかしこれもなかなか思わぬ展開になって、見事作品は着地するのである。びっくりだな、これは。そうして考えてみると、このようなゆがんだような青春というか心情というのは、やっぱりこの頃の女の子や、青年たちにもあることなのではあるまいか。いや、入れ替わりはないかもしれないが、何か女子高生のころの真実のようなものが、男の僕であっても理解できるような感じもある。それは作者も男であるから、男同士の共通理解にあって成り立つ感情なのだろうか。でもたぶんそれは違う。いくら男が考えたって、感情を掘り下げていけば真実に突き当たることもあるのではないか。少なくとも、作品としては、そこまで行ってしまったのではないだろうか。
 いや、改めて凄い人だな押見修造は。漫画の連載途中の作品は見ないようにしているけど、ちょっと困ったことになったと、思っているところなのである。
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いまさらながらに昔を観る   ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

2021-07-19 | 映画

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序/庵野秀明監督

 何か得体のしれない使徒といわれる生き物のようなものに攻撃されている地球のある時代、その使徒と戦うことを強いられる博士の息子の葛藤を描いた作品、のようだ。しかしまあ、そんな話なのかどうかも、観ていてよく分からない。そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。説明は最小限で、しかしメカが動いたり戦闘が始まると、なんだか興奮する。絵の構図が実に見事で、キマッている。機械の動きが、機械的だけれど、どこか動物的に美しい。そうして激しい爆発と光の炸裂がある。凄いなあ、っと感嘆するよりないのである。
 僕がすでにアニメなどを見なくなって久しい時代にヱヴァンゲリヲンは放映されていたようで、僕はまったく興味がなかったというのもあって、同時代としてはほとんど知らない。どうもブームになっているらしい、という噂は聞いたことがあるような気もするのだが、思い出せない。しかし、僕はどういうわけか機動戦士ガンダムが嫌いで、主人公が優柔不断でうじうじしている感じが嫌なのだった。ヱヴァンゲリヲンにもそんな感じが勝手にあって、見続けることがつらい感じで、観なかったのではないかと疑っている。今回見て思ったのも、この少年はいったい何をやってるのか? といった感じだったので。しかしまあ、出てくるお姉さんたちは綺麗であって、いつまでも迷っていたところで、彼女らから怒られるに決まっている。そういう中で生きられる男の子なんていない訳で、ま、頑張るしかないでしょう。それにしても、これだけ男の子の中の脳内妄想みたいな内容の物語であっても、何か普遍性のようなものがあるのだろうか。コスプレなどいまだにエヴァ関係のものは見受けられるようだし、そういうファッション的なもので、人々の心をつかむ要素があるんだろうか。これを見てもなお、そういう感覚は僕にはよく分からないのだった。
 ただし、これを観る前に、ちょっと前だったが「シン・ゴジラ」を観てひどく感心し、庵野監督というのは、そういうことだったのか、と思ったわけだが、最近になって「キューティー・ハニー」を観て、なんだろうこれは、と思ったばかりだった。それで最近ヱヴァンゲリヲンが正式に終わったという話をテレビで観て、この監督さんはやっぱり何か凄みがあるな、と感じたわけだが、一時代をこのようにして作っていく人というのは、これくらい訳が分からないものでなくてはならないのかもしれないと思い直した。確かにこれは、凄いのかもしれません。
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苦しい青春と葛藤   志乃ちゃんは自分の名前が言えない

2021-07-18 | 読書

志乃ちゃんは自分の名前が言えない/押見修造著(太田出版)

 高校に入ってクラスで自己紹介をするときに、どうしても自分の名前を言うことができなかった女子高生の物語。クラスのみんなには笑われて孤立し、先生からは自分から打ち解けようとしないからではないか、と的外れに励まされる始末だ。しかし、そんなことでいわゆるこの吃音症のようなものが治るわけでもない。どんどん孤立して、何も話したくなくなってしまう。そうして、昼休みに校舎の影のようなところで一人で弁当を食べていると、ちょっと不良っぽい女の子がイヤホンで音楽を聴きながら、ものすごく音痴に鼻歌を歌っているのを聞いてしまう。そういう場面に出くわして、お約束でドジに動いて物音を立ててしまい、聞いていることがバレてしまう。それがきっかけで加代ちゃんと知り合う。加代ちゃんは、実はギターも弾けて音楽が好きなんだけど、歌が音痴でコンプレックスを持っている。そうしてどういうわけか志乃ちゃんは歌なら引っかからずに歌える。加代ちゃんがギターを弾いて、志乃ちゃんが歌うというデュオを結成して文化祭で歌うことを目標にするのだったが……。
 ひどい吃音の人というのは確かにいるようで、これが嫌で発声すらしなくなる人もいるのかもしれない。この漫画を描いた著者も吃音に悩まされていたそうで、それでこのテーマを真正面から扱った作品を描いたのかもしれない。漫画なので激しくディフォルメはされているのだろうけれど、なんだか非常にリアルでもある。悩み苦しみ友情も絡んでドロドロになっていくが、それでも結局もがき苦しむ。誰もが簡単には理解してくれないし、しかしだからと言って何かどう努力していい問題なのかもわからないのだ。そんな中にありながら、加代ちゃんは突っ走っていって、一人でも文化祭で歌うのだ。相変わらずひどい音痴のままで。そうすると、一種の奇跡が起きるのかもしれない、というか、どうなんだろうか。
 青春ものとして素晴らしいのだが、映画化もされたようで、これがどんなことになるんだろう、という感じだ。この苦しみが、高校生の青春にはまることになるんだろうか。僕にはちょっと分からないけれど、少なくともこの苦しみが、このような漫画を形作ることができたことは理解できた。物事には真実が宿っていなければ、本物にはならないのではないか。そんなことを思わせられる作品ではないだろうか。
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