カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

利口な人ほど馬鹿に見える

2009-03-31 | 時事

 高橋洋一にはびっくりさせられたわけだが、しかしながらなんでここまで馬鹿なんだろうと思うのかというと、やはり馬鹿じゃない人だと思っていたからだろうとも思う訳で、変な矛盾である。このまま教授でいられるのかどうかは知らないが、続けたくてもやれるものなんだろうか。ある意味で今まで拍手喝采していた人たちまで、本来は関係のない実績まで、ぜーんぶ吹っ飛んでバブル崩壊という感じだろうか。手癖の悪い人は分かんなきゃやるわけで、出来心でどうだとか言っても、結局信用されない。つまりこれはもう終わりということなんだろうね。印税食いつぶして暮らしていくよりないんじゃないだろうか。ブルガリの時計がどんなものか知らないだけに、知っている人の方が危ないのかもしれないとも思う訳で、いやしかし、その前に、鍵がかかっているかどうかがどうして分かったのかというのも気になるところである。人生ってわからないものですねえ。

追伸:池田信夫ブログを読んでみると、ちょっとなるほどとは思ったので保留したくはなったのだけど、保留し過ぎると今の民主党の小沢問題のような気がしないではないところもある。
 しかし、麻生さんの漢字読めない事件も、9月末のものが11月になって恣意的に出てきたということもある。これは犯罪性ということではないが、人を陥れる意志が働いて動いたということは十分考えられることだろう。人の一生を左右しかねないことにもかかわらず、裁量で恣意的操作しようとする人たちがいる、ということであるのかもしれない。謝罪なり釈明なり本人の言葉をぜひ聴きたいものだと思う。

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行楽シーズン

2009-03-30 | 時事

 昨日遠出した人が多かったようである。かなり経済効果ありと見て間違いない政策だったのだろうと思う。混むからどうだという愚痴はあるにせよ、だからなんなの?という気はする。根本的に政策批判になってない。
 利用が増えて事故が増えて国民が減少したというのなら問題かもしれない。物流で土日に働いているところには迷惑かもしれない。ETC搭載が間に合わなかった人も恨めしいかもしれない。一過性のもので、来週にはこの気分が収束するというのなら問題だが、一定期間は熱が冷めないものと思われる。麻生さんはシメシメなんて思っているのだろうか。給付金効果が重なると、一気に支持率が上がると豪語しているらしい。こりゃ選挙が近づくということなのかな。小沢さんがコケたのに民主党も何にもできないし、選択肢を失った人たちが、また自民を復活させるというのだろうか。なんという国だろう。漫画より漫画チックだ。
 結局ガソリンを焚かないと活性化しないという点をマスコミが無視するのだけはアホくさいけど、彼らは日和見なんだから仕方がない。不景気は最大の環境対策であるのだからNHKなどは大喜びして地球を救っている実績を報じるべきなのだと思う。まったく偽善でニュースを改竄しないでほしい。
 それにしても今モノを売ろうということになれば、パーキングエリアでの販促を考えるというのは合理的だ。土産物とか特産物とかホクホクかもしれない。しかし家賃や手数料が上がるかもしれない。
 そういう気分に水を差すようだが、4月の解雇は凄いことになりそうではある。気分は吹っ飛ぶなら、やっぱり選挙は先になるんだろうね。まだまだ事件待ちですね、当分。
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最悪のほうがいいかもしれない件

2009-03-29 | 時事

 北朝鮮の人工衛星だかミサイルだかの騒動で、実際に日本に落ちたらアメリカがどうこうだ、というようなことばっかりいっている人がいる。なんだか本当に脱力しちゃいますね。今回は東京に落ちたら最高にラッキーだと思う。いや、それを願うしか道がないのかもしれない。今度の北朝鮮の行動は、日本にとってはものすごく救いになる愚行なんじゃなかろうかとも思っている。これだけ助けてもらえるんだから期待にこたえるべきだろう。
 まあ威勢のいいこといって盛り上がるのは幼稚だとは思うにせよ、これは日本の問題なんだからちゃんと考えましょうよ。日本にはこれこれしかじか何にもできないというのは、結局役人的なことなかれ主義でしょう。自分で決めたらいいんだから、できないことなんてほとんどないということのほうが多いんじゃないかね。むしろちゃんと予告どおり撃ってくれることを期待しなくてはならない日本て、本当に国家として成り立っていないのだと思う。国じゃない場所に住んでいる僕らって、いったいどういう存在なんだ、ということになりはしないだろうか。結局黒船が必要だったころと、基本的に何にも変わってないのかもね。
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真実は知らない方がいい場合もある

2009-03-28 | 散歩

 こういうことを言うと何故か苦笑いされることが多いのだが、僕は桜の花がそんなに好きじゃない。いや、枝垂桜とか八重桜は好きなので総体としての桜ぎらいなのでは無くて、いま満開のソメイヨシノが嫌いなようだ。
 原因ははっきりしていて小林秀雄の所為である。小林秀雄は本居宣長が好きだったらしく、宣長の本を書いている。僕はそれを読んだわけじゃないが、小林秀雄の講演が好きで、その講演で宣長の話を聞いている。宣長は大の桜好きで、自分の墓にまで桜を植えるよう生前に指示していたと言われる。とにかくこの人は日本の国学がやたらに好きで、日本的なものを特に重視した人らしい。桜が好きだというのは、そういう日本人の心のよりどころ的な象徴のようなものなのだろう。
 まあ、普通であればそれは今の現代の日本の多くの人たちにも通用する感傷なのかもしれないとは思う。桜の花をめでる国民性というものがあるとしたら、間違いなく日本という国は突出しているだろう。国のお役所である気象庁が桜前線を報じるなど、その取り扱いは軌道を逸しているぐらいの情熱がある。
 ところがである。宣長の時代の桜と現代の桜は、実は別のものなのである。小林秀雄に言わせると、ソメイヨシノは明治の造園業の人たちが国と結託して全国の城跡などの公園に植えまくったまがいものの桜ということであるらしい。宣長が愛した桜とは別の、品種改良を重ねた異常な桜の一品種にすぎないようなのである。日本人が昔から愛してやまない桜というのは、まったくの別モノなんだというのだ。だいたい花だけが咲いて葉っぱのない、不自然な姿であるのだという。
 その時は、まあトリビア的に「へえ、そんなもんか」と思ったにすぎないのだけれど、このことを知ってしまうと、いろいろと桜を見る目に変化が現れてしまったのである。例えば桜をめでているご年配の夫婦などが「ああ桜がきれい。日本に生まれて良かったですね」などとしみじみしている風景などを目にする際に、かえって哀れを感じるようになってしまったのである。それは昔からの桜とは違うのだし、あなたが感傷に浸っているのは超近代の一時期、それもごく最近の流行りのような現象にすぎないのですよ。と略して言うと、そういう気分になるのである。これはどうにも調子が悪い。教えてやるのもいらぬお節介だし、僕は嘘が嫌いな性格なのだ。多くの人達は商売上手な植木屋の陰謀に騙されて感傷に浸っているという感じがして、げんなりしてしまうのかもしれない。ソメイヨシノ自体はきれいだとは認めるし、別段恨みがあるわけではないが、これが日本人の心のように言われると、とたんにげんなりするようだ。段々桜観賞すること自体が嫌な気分を伴うようになってしまった。
 そういうわけでソメイヨシノは、葉桜になってから観賞するようにしている。しかし小林秀雄も罪な人だったなあと、今の季節には思うのであった。
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見た目は変えられるか

2009-03-27 | ことば
 女の人にかけてはいけない言葉があるというのは、僕にはよく分からない問題だ。以下の文章を読みながら、まったく見当もつかなかった。まあ、容姿のことかもな、とは考えたが。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090324/189861/?P=1&ST=spc_k-change
 しかしながらだからといって「疲れてるんじゃない?」というような事は、やっぱり言ってはならない言葉のようにはどうしても思えない。疲れている人を気遣う場合にはどうしたらいいんだ、と思ってしまう。疲れているようだけど気付かないふりをするというのがやさしさというのも、まったく理解できない。何でそこまで神経質な解釈をするような女でなければならないのだろう。それにこの話はぜんぜん一般論じゃないような気がする。
 まあどうでもよさそうなものだけど、つれあいにもそこのあたりはどうなのか聞いてみると、やっぱりぜんぜんそんなことは気にならないようだ。気にする人がいるかもしれないというのは分からないではないようだが…。そんな一般的じゃない問題が、なんで女というひとくくりにされてしまうのだろう。これはこの記事を書いた個別の感性の問題じゃないか。私は疲れていると言われたくない。たぶんそういう問題だ。女を気遣うということではなく、「自分を気遣えよ、まわりの男たち」ということなんじゃないか。
 しかしこんな考え方って、自分を本当に疲れさせる根本じゃなかろうかと気の毒にはなる。人間疲れるのは自然だし、疲れてもいいんだと思う。そうでありたくない自分を演技で乗り越えることで矛盾を抱え込む。そんなことを続けていると、結局傷口が深くなっていくんじゃなかろうか。疲れた顔を平気で見せられる人間関係を築くことの方が大切だろうという感じがする。

 しかし見た目ということでいうと、メイクというのは大きいのだと改めて驚く。
http://trend.gyao.jp/internet/entry-13350.html
 完全に現実と乖離した変身ぶりに唖然とする思いだ。率直に言ってこれだけの技術があるというのは、芸術の域かもしれない。

 女の人は現実主義者だという話はよく聞く話だが、僕は普段からはなはだ疑問に思っている。考え方で一般的に男と女という違いがあるとすると、むしろ女の人の方が現実主義とは違うということを感じることの方が多い。話を聞いていてすぐに感じるのは、少し現実とのズレ方があるのが特徴ではないか。それもかなり個別にズレ方が異なる。へえ、この人はこんなふうに感じたり考えたりしてるんだ、ということこそ女の人の面白さかもしれない。いい意味で一般的でなく、個人主義なのだ。
 しかしそうであるくせに、なんでそんなにまわりのことを気にしなければならないのだろう。まあ、見た目もそれなりに大切だというのは否定しないが、むしろ誰も自分のことなんて本当に分かりはしないものだ。その方が自然だし、誤解されるのも了解して生きていくより仕方がない。風評被害を被るのなら釈明も必要だろうが、自分のことがそのように見えるらしいことはある程度受け入れるよりないし、そう考える人が本当に一般的なのかというのは限りなく疑問だろう。
 まあ僕は、女の人に限らず、人のことがだいたいよく分からないので、分かってもらえないことにも寛大なのかもしれない。いや、こんなブログを書いているのは、結局理解してほしいという欲求かもしれないが…。ああそういえば、書いてあることがよく分からないとは言われてがっかりはしているようだ。他人のことは言えたものではありませんね。反省はしないけど。分からないんで反省しようがないんです。
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義堅い人間じゃないけど

2009-03-26 | 

 いつの間にか休止状態の続くダイエットを緩やかに再開することにした。目標は6キロから7キロ減だが、6月いっぱいまでを一区切りにすることにする。スタート時はモチベーションが高いのでいい結果を期待し過ぎるわけだが、基本的に着実に刻むことが何より大切だ。減りすぎは失敗のきっかけになりかねない。
 さてしかし、ダイエットの基本である少量を食うというのがやはり簡単ではない。ダイエットと思うだけで腹が減るような状態になるので、かえっていつも食べ物を探している自分を発見する。昨夜も宴会で、刺身の盛り合わせに中華風野菜炒め、天ぷら、から揚げ、白身魚のあんかけ風、寿司各種ネタ、個別に牛焼き肉があり、〆はわんこ蕎麦。食ったのはいわしの刺身と白身魚、串の焼き鳥と牛肉。山のように余っている天ぷらは完全に無視し、寿司は席から遠かったので簡単にスルーできた。ある程度の勝利感は味わえる空腹感が残った。
 実はダイエットにはこのような宴会は割合都合がいい。積極的に残すという行為がモチベーションの維持には効果があるのだ。もったいないという道徳観が邪魔をするというは分かるが、金を払って何もないということの方が困るわけで、つまりそんな感傷は偽善にすぎない。その上に自分が胡坐をかいて甘えるので、もったいない論は偽善よりタチが悪い。特にダイエット中は、ゴミ箱に捨てるのも胃袋に捨てるのも同じ行為だと悟るべきだろう。胃袋に捨てることが、さらに罪深いのだ。
また、目に見えて残っている食材を眺めることで、達成感を得ることもできる。かぶりにして持ち帰ると二次会のつまみや家族のためにもなる。残すということができるかできないかというが、ダイエットを実行しているのかどうかという証明でもあるのだと思う。
 その上酒が入るので、いろんな人についで回ることで食べ物から離れることができる。他人のテーブルで食べ物をつまむというのはほとんどできない。だいたい話が長い方だから、一度席を立つとなかなか戻らないので結果的に食事の機会を逃す。食わずに飲むので早く酔って、そういう意味でも経済的である。翌日は胃がつらいが、体を壊すとさらに食えなくなるのでまたまた好都合だ。
 しかし二次会に強引にさそわれて、ポテトチップスなんかをつまんでしまう。普段ほとんど口にしないが、ポッキーも食べたと告白します。でもチーズは意地で無視したので、それは評価してほしいところである。
 実は今日も宴会で、会場は座敷らしいと聞いているので、おんなじ戦法が取りやすいとは思っている。不味ければさらにいいだろう。しかし二次会がやはりカギになるようで、つかまらないで帰ることができるかどうか。それなりに義理があるのが夜の最大の悩みである。
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買い控えていると

2009-03-25 | 時事
 日本の地デジ移行が失敗することはほぼ確定的といわれているが(廃棄されるテレビ問題だけでも深刻だ)、テレビの画面の隅に浮き出ている「アナログ」の文字は屈辱的だ。ちょっと前までテレビの調子が悪かったのでいづれ買い替える必要があるように思っていたが、地デジが気に食わないので延期していた(本当は金がないのだが)。その上以下のような処置が今後とられることも見苦しいが確実そうだ。


http://www.jiji.com/jc/zc?k=200903/2009031700307
地デジ推進で閣僚会議=新型TV、買い替え補助検討
 政府は17日、2011年7月の地上デジタル放送(地デジ)への完全移行を円滑に進めるため、関係閣僚による「デジタル放送移行完了対策推進会議」(仮称)を月内に設置することを決めた。従来のアナログテレビからの買い替えや、地デジ受信のチューナーを購入する際、一定額を補助することなどを検討する方針で、普及促進を図りつつ消費拡大につなげることを狙う。
 河村建夫官房長官が17日午前の記者会見で明らかにした。同会議はIT(情報技術)戦略本部(本部長・麻生太郎首相)の下に置き、官房、総務、経済産業、IT担当などの各閣僚がメンバーとなる見通し。高齢者や低所得者への支援や、公共施設での普及を図るための具体策を協議する。河村氏は「実行可能なもの、景気対策につながるもの、いろいろな角度から検討しなければいけない」と述べ、普及促進策を追加の経済対策に盛り込みたいとの考えを示した。(2009/03/17-12:09)


 しかしこのような処置自体は政治的な業界癒着であることは間違いない。はっきり言ってかなりずるいのだけど、それが自民党という政党なのだから仕方がない。地方自治体まで補助する動きがあると聞くが、どの程度までやるかはもう少し見届けてもいいようだ。
 そう思っていたが、以下のような場合もあるようだ。


http://www.asahi.com/shopping/news/TKY200903210229.html
KURO販売急増 パイオニア撤退で「今しか買えない」
 2月にテレビ事業撤退を発表したパイオニアのプラズマテレビ「KURO」が、急に売れ出している。「今しか買えない」という一部ファンの後押しで、店頭価格も上昇。価格下落が目立つテレビ商戦では「異質」な動きだ。
 家電製品は撤退発表で売れ行きが鈍り、価格が一段と下がるのが一般的。アフターサービスへの懸念で買い控えが起きるからだ。
 だが、2月のKUROの販売台数は最需要期の昨年12月より2割増。調査会社BCNの調べでは、パイオニアのプラズマテレビの国内販売シェア(金額ベース)も昨年12月の3.9%から2月は5.5%に上昇した。「高画質と優れた音響がホームシアター向けに評価されているようだ」(BCNの田中繁広アナリスト)という。
 価格比較サイトの価格ドットコムによると、安いときで40万円を切っていた50型のKUROの店頭価格は、いまでは47万円前後だ。パイオニアによると部品はあと数千台分あり、組み立ては続けるが、今の販売ペースだと8月ごろには在庫がなくなるという。(堀内京子)


 僕も量販店でこのテレビの画面を見て、素直に一番美しいと思った。本当に優れたものが生き残るのではなく、そこそこのものが生き残るという法則に敗れてしまったのだ。
 今後はこれからも続くであろう消費不況のあおりで、このようなことがまた起こる可能性もある。いいものが買えなくなるし生き残れないというのは、なんだかやりきれない損失である。
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助かったというべきかも

2009-03-25 | 時事

 ベンチでは敬遠の予定で一塁を空けたのに、なぜかバッテリーは勝負しちゃったんだとか。観てる方はここまでコケにされているイチローという図式に見えてけっこう哀れだった。結果的に神が降りたらしいけど、イチローはぜったいに打てないと公言していた野村監督が、どのような釈明をするのか楽しみだ。
 それにしても韓国国民が一番憎んでいる選手がこのような結果を残したことで、韓国の悲観ムードがどのようになるのか心配したけど、意外とサバサバした様子であるのはブキミではある。北も人工衛星とやらを打ち上げるらしいから、これに賭けてみたくなっているのではないか。
 日本のプロ野球はマイナーリーグ化し、韓国のプロ野球は広島カープ化しているようにも感じる。WBCってそういう図式のイベントなんじゃないかと、スカウトのための大会だったんじゃないかと、ひねた見方で感じたのだった。
 まあ、負けてたら野村監督は喜んだかもしれないけど、今日の日本の空気はどんなことになっていたかということだ。日本経済の先行きにもかなり影響が出ただろう。やっぱり日本は駄目なんだという悲観ムードは決定づけられたに違いない。年度末だし。
 結果的においしいところはイチローが持って行ったにせよ、この結末でなかったことが何よりだったと胸をなでおろすばかりである。
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メモと合格手帳

2009-03-24 | 散歩

 哲学の杜などといって、散歩道を気取るつもりはないが、確かに歩くのは考えるのに都合がいいとは思う。時々ははっきりと、その為に散歩に出るということをしているようだ。歩いて気分転換をはかるということもあるだろうけれど、歩いているその時間こそ仕事やら考え事をするのにいい場合がある。これは気分転換になるというより、明らかに積極的にそのことに集中するために歩きに出る。その方がかえって考えがまとまるというか捗るというか、やはり都合がいいのである。
 今日は何を考えようかということを、あらかじめ散歩前に準備することもある。仕事中に後回しにしておこうということは結構頻繁にあって、手帳にメモしたり紙切れにメモしたものがたまる。そういうものをポケットに突っ込んで、適当に拾って考えたりする。持って出るのを忘れても、紙に書いたという記憶はあんがい残っていて、歩きながら思い出すことも多い。メモは見るために残すということもあるけれど、記憶させるためにはかなり有効だと思う。
 アイディアをひらめかしたり、後でやらなければならないことを思いだしたりすることもある。あわててメモを探したりするが、あいにく持ち合わせていない。レシートの裏紙などをポケットから見つけて立ち止まって書く。どうしても紙がなければ手首などに書く。暑い日には皮膚にインクが乗らないことがあって、シャツやジーパンの上に書いたりする。読んでいる文庫本なんかを持ち歩いている場合があって、余白に書いてページの端を折っておく。僕は本を読了すると、また最初からパラパラめくりなおして線を引いたり書き込んだりしたことを読みなおす習慣がある。時々内容とまったく違う意味不明のことが書いてある。何かひらめいたらしいが、何のことだっけ?などと自分自身がいぶかしい。メモしたからといって安心するとこのように意味がないということもあるので、散歩の後にも注意が必要のようだ。

 息子が来年高校受験なので、合格手帳(田村仁人著/ディスカバー21)というのに目がとまって購入した。プレゼントするつもりなのだが、パラパラめくって読んでいるとなかなか面白い。僕が勉強できなかったのもうなずける。こんなふうに取り組んでなかったもんな。
この本は受験生に有用なだけじゃなくて、結構社会人にも共通して使えるという印象がある。僕としてはもっと書いてあることのボリュームがあったほうがいいと思ったが、それでは手帳にならないのかもしれない。
 中でも特に面白いのは、「メールにはすぐに返事をしない」などという心得が書いてあったりすることだ。いつもすぐに返事を書くような人だと、もし返事が遅れてしまった場合にかえってマイナスになるからだという。優等生の失望ということらしく、真面目な人が遅刻などをするとその印象の方が大きかったりする。それならいつもからグータラな方が点数を稼ぎやすいということだろうか。
 また自分が何かに取り組んでいるときにまわりから何か話しかけられたりしたら、力のない生返事をすることを勧めたりしている。その程度で友情を失うことはないから大丈夫などと太鼓判を押してくれる。ある意味で自己中心的な考え方のようにも思えるが、何か自分で志を立てて頑張るということは、自分の時間をいかに有用に確保するのかということにもかかっているのかもしれない。アドバイスの仕方が変わっているけれど、こういうホンネのこもった言葉こそ、あんがい印象に残って身に着くということにもつながるのだろう。
 プレゼント本なのにいつの間にか何か所かに線を引いてしまった。新品という感じじゃなくなったけど、まあいいか。息子がこの手帳を実際に使うかどうかは知らない。パラパラめくって読むだけでもいいんじゃなかろうか。計画するのは実行するためである。手帳を使いこなすことに長けるより、そのことに気づいてくれる方が肝要だ。もちろんそのための手帳は、結局自分で作っていく必要があるということなんだろう。
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靖国

2009-03-23 | 映画
靖国/李纓監督

 政治的な弾圧を受けたことで上映する映画館がないのではないかと言われたが、結果的にそういう事件がいい宣伝効果になって、かえって話題作となった。
 中立的な表現であるという話は聞いていたが、中国人の監督ということで、そういうことがにわかには信じられないという観てない人の反応も大きく、観てない人同士で議論が交わされたりするような不毛なものも見受けられた。ネット上ではそういうことは日常的な風景だけど、このような題材はネット世代でなくともアレルギーがあるせいか、印象論で話が進んでいる感じが残ってしまった。僕としては最初は確かに少し遠くても映画館に足を運んでやろうかという気分にはなったけれど、これだけ話題になるとDVD化するのを見込んでみることに決めていた。タイムリーでない方が頭も冷めていいのかもしれないし…。
 そうして手にして、今がいいタイミングといえたのかは結局疑問として残った。考え方として間違った見方だとは言えないかもしれないが、タイムリーでなくては結局考えを議論の場に乗せにくい題材だったということが分かったからだ。率直に言ってそんなにドキュメンタリーとして出来がいい話かというと全然そんなことはない作品で、そういう点ではがっかりさせられるところは大きかったが、結局外国人が誤解してしまうということもよく分かる説明にはなっており、靖国神社の問題点というものを単純化して笑いをとるには、このような視点も知っておいていいのかもしれないと思った。
 しかしながら靖国神社というのは妙な空間には違いないが、熱狂的に愛されている場所ということも言えて、国がどうだという議論も面白いけれど、必要とされているのなら、たとえそれがマニアックな人たちだからと言って、需要のある神社なんじゃないかと改めて思った。神社というものがそういうものでいいのかということを考える人もいるだろうが、神社として金を集める能力がないのなら、鳥居は朽ち果てていくだけの話だろう。小泉首相がいきたいと思えば行けるという場にすぎないし、これからもそのような場所であるだけのことだと思う。そうではないと思いたい人たちが、参拝もせずに集うおかげで、靖国という場所はこれからも潤うだろう。この話が政治的だということになっていること自体が、ものすごく滑稽な寓話のように思えて、かえってリアリティを感じないのであった。
 この映画で確認するまでもなく、日本という国の特殊な事情によってワンダーランド化していく、またはそうならざるを得ない靖国神社という姿が、限りなく悲しい現実であることは間違いがない。日本が何を大切にしているのかというのは、すでに靖国にはないものであるような気がする世代の僕としては、このような靖国の姿は、珍日本紀行というような風俗にすぎないものになってしまったという感が確定したような気分になった。すでに日本人の心のよりどころでも国家の歴史の支柱でもない靖国神社は、今の政治のやり玉にあがるような、別施設というようなものに変わってしまっても、たいして意味をなさないものになってしまったのであろう。近隣の国が騒ぐことによってしかその存在が示されないようになってゆくと、さらにこの神社は性格が極端にならざるを得なくなっていくかもしれない。先の敗戦は、いろんなものを既に破壊しつくしているということを、改めて認識し直すことになったのだった。
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死人の会もあることだし…

2009-03-22 | 雑記

 K又君を送る会に出席する。
 現役時代は毎日のように顔を合わせていた時期もあって、まあ、それなりに激論というか意見もぶつけあったものである。基本に忠実なところはもちろんありながら、実はラジカルなこだわり派の代表格で、神は細部に宿るというけれど、そういう意味で超人といっていい人だと思う。そういう考え方もよく知っている仲だけに、やっぱり正直に言って寂しい。疲れた顔しているときでも議論しだすとそのまま熱がピークに達するし、やることが残っていれば作業をいつまでもやめない。僕のような軟弱な人間にとって、このエネルギーはいったいなんだろうとちょっと不思議に思えたものである。理論負けするというより完全に力負けしてしまうのだ。負けたんだから勘弁してくださいと懇願までしてしまう。今だから懐かしいけれど、また同じように何かしなければならないということになると、前提になるルールから確認してからにしてほしいと正直に思うのである。範囲を狭めないと、どこまで行くものかキリが無くなることが目に見えている。
 しかし基本的に人柄がよくて悪意が微塵もないものだから、このようにたくさんの人が自然に集まってしまうのだろうと思った。当たり前だが誰も彼を恨めない。きっと悪かったのはこちらの方だったのだ。K又君が100人くらいいたら、世界経済は急に爆発的に成長するんじゃないかと思う。どこまで行くか心配になるくらい…。
 K又君のおかげで、またがんばんなきゃな、という気持ちがだいぶ湧いてきた。こんな風に人が集まって、そうして相乗効果でじわじわ気持ちが高ぶっていくものなんだろう。ここで出会えたことは本当にありがたいことだったんだと、つくづく感じた夜だった。
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匙を投げられたからこそ

2009-03-20 | 散歩

 痛風になってひどい目にあったわけだが、その後いろいろ忙しくしており以前ほどではないにしろ飲む機会などもあったりして、少し気合が薄れかけていたという状態にはなっているようである。久しぶりに病院へ行って医師の話を聞いてみると、薬を飲むかどうかどうしようかなあ、という状態なんだそうだ。しかし痛風というのは薬を飲んで治るという病気ではなく、薬を飲む行為を例えていうと、目が悪い人がメガネをかけるようなものだという。つまり根本的な治療とはいえない。それでは何をする必要があるかといえば、体重を5キロ減らすとか、酒を思い切って止めるということになるのだという。まあ話がわからないわけではないが、基本的にこの話の根拠となっているのは尿酸値なのだから、尿酸値を下げる効果が減量や酒であると断じているということになる。痛風というものが生活習慣を原因とする病気である可能性は高いのだろうが、ある意味でそれは引き金のようなもので、個体の痛風に対する素質というものについて考える必要があると思う。それは以前なら遺伝といわれるものかもしれないが、人が同じような習慣で生活していても病気になるならないという結果になる以上、痛風の生活習慣原因説というのは必ずしも正しい解釈とは思えない。むしろ間違っているがやるよりやったほうがましかもしれないという手法に過ぎないだろう。もう少し厳密に言うと、治療方法は無いということがこの話から導き出される正しい解釈だろう。
 こういう風にいうと、自分を弁護する言い訳を考えていると捉える人がいるかもしれないのだが、僕の選択は体重を減らした上で酒量を控えるというものに落ち着くのである。もちろんそれは治療として捉えている行動ではなく、信じていないから実行するというものである。先生が嘘を言いたかったわけではなかろうが、事実上さじを投げている状態であるので、その煩わしさに付き合う気になったということなのである。結果的に下がることになるのかならないのかは知らない。もちろん期待はして行動するつもりだが、もともと体重を減らそうと思っていたインセンティブに有効であるという判断が、僕の決断を促すことになったということだ。もう病院にいく必要もそんなにありそうにないけれど、インセンティブに投資するということで、病院との付き合いを続けることにした。ある意味で自分で治せという判断をしてくれたこの先生は、僕にとって名医になるのではないかとも思えている。長い付き合いになるのは御免だけれど…。
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上手く言えたかは別にして

2009-03-19 | ことば

 肩の荷が下りたという状態が今なんだろう。たかが祝辞なんだが重たい気分が続いていたのは確かである。お隣の市長さんと談話して時を待つ間、緊張感がピークに達してゆく恐怖をしっかりと味わった。まるで死刑執行を待つようなものだ。
 しかしまあ不思議なもので、話している間はなんとなく落ち着いていく。準備していた話の内容を変更(前の人が同じようなネタだったため)するということも決めていたし、淡々と語るのみである。できるだけ卒業生の顔を見るように語りかけていたが、しかし、やっぱり息子の顔の方にはあんまり目を向けることができなかったりした。このような緊張感のやり場は、かえってむつかしいものである。冗談も実は考えていたが、こういう場合誰も期待していないということもあるだろうから、あえて控えた。期待に沿うというのはこういう場合のスピーチのセオリーで、そうではあるが、少し趣向を変えるという冒険は内容の方に込めることにした。まあ、少し変わった祝辞であったのではないだろうか。
 そうしてやっと大役を務めた訳だが、終わった後の充実感はあんまりなくて、実は上手くいったものかどうかという不安の方が大きかったのであった。この不満足感というのは僕自身の伸びしろというか欲なので仕方がないが、正直いってやり直したいくらいだった。まあしかし終わりは終わりだ。そういう意味での解放感があったことは大きかった。単に弛緩しただけかもしれないが…。
 とりあえずはほっとしながら席に戻って卒業式を眺めていたら、目の前の子供が何かこちらに向かって言っている。よく見ると、隣の子が戻したらしい。ちょっと躊躇する空気はあったもの、あわてて席を立ってステージ横の階段部屋のようなところへ連れて行った。他にも先生が連れ添ってきて背中をさすってやる。別れの言葉をいう役割のプレッシャーで、戻してしまったらしい。ああ、こういう小さい子供でも責任感の重たさに耐えているんだ、と思うと、僕の中に勇気のようなものが湧いてくるのを感じた。もちろんこの子の心配もあるのだが、本当に吐いたっていいじゃないか、というような、共感と励ましの気持ちである。小さいながらに必死で頑張っているそれぞれの立場がある。僕が祝辞をのべるために味わったものは、特殊な役割というものの代償というだけのことではなく、皆が同じように感じる流れの中の一部だったのだろう。僕は目の前のこの子に支えられて話をすることができたのかもしれない。もちろん、この場にいる多くの人たちも含めて。
 この子は、しばらく先生に付き添われていたが、後にちゃんと席に戻って、自分のセリフをこなしていた。間にあって良かった。大役を立派に果たしたのであった。そしてもう一つの懸念であった僕の息子も、おんなじように何かセリフを言っていた。みんなそうやって本当に卒業していくんだなあという思いがして、なんだか胸が熱くなる思いがしたのだった。こういう風に卒業式に出ることができたのは、本当にしあわせなことだった。
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脳内独り言

2009-03-17 | 雑記

 ところで僕の働いている業界ってこの不景気なのにものすごく人手不足で困っているところなのである。ひとことでいって魅力がないようだ。しかし経営者がその分ピンはねしているのかっていうとそうじゃなくて、いろいろ規制があってそれでも人件費比率が70パーセントを超える事業所がたくさんあって、すでに経営的にはかなり破綻している。もともとそういう可能性からスタートしているので、労働者が来ようがないのだ。それでまあ、政治的にかなりの保護政策で優遇されていてなんとかしのいでいるというわけだ。心配しないでも営利が入り込むわけないジャン、と冷静になってみると容易に分かるのだが、いや、おいしいところがなくなるとさらに苦しいと本音を言っておこう。保護されてもどうにも何にもできない日本の農業とまったくおんなじですね。競争力が無いわけです。
 それで日本の労働者は駄目だから外国人労働者を大量に入れようという話になっているのだけど、日本人が駄目だから外国人がいいという発想がそもそもどうかしていることはとりあえず棚に上げて考えてほしいのだが、しかしそのアレルギーもものすごくて、やっぱり外国人は労働者としては駄目だという話を延々と聞かされたのであった。問題は日本国内の労働の問題なのだから、待遇面も含め日本人と変わらない方策で雇い入れすることは当然として、やっぱり外国人であるというだけで働けない人が多いというのはどういうことなのだろうか。まあ外国人アレルギーがあるということも理解できるし、わざわざ日本に来なくてもいいと考える人が多いのも分からないではない。しかし今は製造業を含め、すでに日本で消費されているものというのは段々と外国で生産されているということであれば、その労働力は結局のところ日本で雇い入れることと本質的なところでは違いはない。いや、賃金は違うが、だからこそ日本のその業界は日本という地理においては競争力がなくなっている。
 まあしかしサービス業というのは、人そのものに対して行うというローカル性がある以上、完全に外注できるものではない。かなりの部分はネットで売買できることではあるにせよ、完全に外国からというのでは、結局安い輸送コストという条件もかなり重要だ。
 結局脱線せざるを得ないが、労働が不足しているのにそれにこたえられない業界にこそ問題があるのであって、外国人の所為ではまったく違うのだけどなあ、と思ったまでです。日本語が話せるという最低条件は必要だけど、労働力で本当に問題があるんじゃなくて、単に風習が違うだけだってば。ま、それはそれで大変ですがね。
 それよりやっぱり規制緩和ですね。コンプライアンスばっか言っているところにイノベーションは絶対に無いのである。僕らの業界がそれでいいのかって? いいわけないのが今の状態なんだってば、ほんとにもう分かってよ。ついでにこの業界で働きたくない若者せいでも絶対違うからね。ぜーんぶ勘違いです。
 なんてことを会議中には考えているのであった。
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当たり前が暴走に見える現実

2009-03-17 | 時事

 阿久根市の竹原市長ってやっぱり面白いね。
http://www5.diary.ne.jp/user/521727/
 困る人が多いというのもよくわかるけど、この人の問題意識というのもある意味ではまっとうなものなんじゃないか。ブログがいけないとかリンクが違法だとか名刺が厳重注意だとか、一所懸命周辺の些事を拾い集めて批判しているさまは、まるで大人たちが寄ってたかっていじめを展開しているという図式なんだが、その中で、けっこう意に介さず暴走しているさまは微笑ましい。阿久根市民としては、とうぜん議員の人たちと関係のある人も多いだろうし、すんなりと歓迎できない地元空気というものはありそうだけど、この人が全国区で有名になるのは、結局そのような勇気ある行動を取れる子供の心を持った政治家というのはきわめて少数の人だからという証明だろう。平たく言うと政治的には少し「馬鹿」が入っているということであろうが、あえて少し馬鹿だからこそ世の中を変える力があるのかもしれないのである。そうでなければ現状なんて、自分たちの力でまったく変えられないということなんだと思う。変えるという中身には、いいものを壊すという恐怖を持つ保守的な人もいるのだろうけど、今の腐ったものが付着している現実をどうにかしたいということをから目を逸らすことで終わっている歴史があるんだと思う。ずっと先送ってここまで来たという今までの良さなんて単なる幻想なんだと、目を開いてみるときなんだろう。
コメント (2)
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