カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

自分で望んで巻き込まれてしまったが…    タクシー運転手 約束は海を越えて

2019-05-31 | 映画

タクシー運転手 約束は海を越えて/チャン・フン監督

 1980年の韓国の光州事件をもとに作られた作品らしい。娯楽作としてフィクションがかなり混ざっている感じはする。光州で学生運動交じりで、何か不穏な事件が勃発しているようだ。ドイツ人記者はその取材のために現地入りしようとするが、その情報を耳にして、お金が欲しかったタクシー運転手が、予約しているタクシーを差し置いて客のドイツ人記者を乗せて(奪って)しまう。実際に現地に入ってみると、想像以上に政府軍の虐待は凄惨を極めていた。これは逃げないことには、たいへんに危険な状況である。すっかり怖気ずいたタクシー運転手は、逃げ帰ろうとするのだったが…。
 ある意味で韓国映画らしい演出がふんだんにあって、たいへんにイライラさせられる。運転手が馬鹿すぎるのである。考えが甘いだけではなく、感情が先にあって論理を持たない。だからいつまでも苦労するのだが、演出家はこれをあえてクローズアップして話を進めてしまう。どこかご都合主義に展開してしまうのは、そのためである。結果的にはいい話なのかもしれないが、そのために犠牲が積みあがっていって、すでに清算はできないのではないか。本当に勇気あるタクシー仲間たちは、おそらく死んでしまったのだろうし…。
 という感じなのだが、たぶん一般的にはいい映画なんだろうと思われる。少なくとも近年のアクション娯楽作は、日本のそれとは別にして、韓国映画は見せることに関しては、かなり水準が上がっている。それなりに金のかけ方が上手いうえに、映像の技術が日本より上なのかもしれない。まあ、お隣の映画だから、そんなことを感じてしまうのかもしれないのだけど。それにしても、そんなに昔の話でもないのに、恐ろしい時代だったんですね。
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クラゲの魅力とは何か

2019-05-30 | Science & nature

 クラゲが水族館で人気になったのはいつからのことだろう。少なくとも、僕が子供のころには、こんなにクラゲは注目されていなかった。そのころの人々は、あまりクラゲに注意が向いていなかった。今の人々をクラゲがひきつけるようになったのには、やはり今の人々の世情が関係あるのだろうと思う。
 見た目のクラゲが、ある種の人々を引き付けるのは間違いなかろう。海の中(あるいはほかの場所)をゆらゆらと漂う。生きているものに、その生きている意味を問うのは野暮なことだが、とみにクラゲのこの漂うだけの生態に、何か人間は妙な感慨を抱いてしまうのではないか。一見クラゲは何も考えていないで、ただ漂っているように見える。
 実際のところ、クラゲは何も考えていない可能性は高い。何しろクラゲは脳を持っていない。脳がモノを考えていると考えている人間にとっては、脳無しのクラゲは、モノを考えていないことになる。考えていないだけでなく、考えるという概念すら持っていないだろう。
 しかしクラゲは刺胞という長い尻尾のようなものをもっていて、これで獲物を捕らえ、時には毒を刺してマヒさせ、食べてしまう。そうすると、漂っているのは、獲物を捕らえるためなのかもしれない。栄養がたくさんつくと、どんどん大きくなる(もちろん種類にもよるが)。栄養が足りなくなると、小さくもなる。雌雄があって、生殖活動もする。しかしその姿のまま子供を残すことは無く、ポリプという形に姿を変え、フジツボのようなものに取り付いてから、子供を産む。いや、厳密には子供のようなものを放出する。それはクラゲの子供のコピーのようなもので、増殖するようなものかもしれない。そうしてその幼体から変形を経て小さなクラゲになり、その後大きくなったりするわけだ。我々がクラゲと認識しているのは、その生体として、プランクトンとして海を漂っている時期のことである。
 クラゲは生態的にも魅力的な生物であるが、いわゆる癒しとして人気があるのは、水族館のオブジェとしてではないか。泳いでいるときのクラゲは、刺すので厄介者だし、漁師の網にかかるクラゲは、漁の邪魔をするごみのようなものである。我々の多くは、クラゲのほんの一面しか見ていない。そうして癒されているわけだ。
 クラゲは何も考えていないかもしれないが、我々も何も考えていないのかもしれない。そういう思考の循環を促す存在として、我々に問いかけているのかもしれないが。
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ダークな過去を持つ変な国に生まれて   修羅雪姫・怨み恋歌

2019-05-29 | 映画

修羅雪姫・怨み恋歌/藤田敏八監督

 一応続き物だが、話自体が続いているわけではない。復讐を遂げて警察に追われる身になった雪だったが、逃亡に疲れて結局捕まって死刑を宣告される。が、秘密警察という組織に助け出されて、そこでスパイ工作のようなことをさせられるのだった。今回は雪の怨念(というか母の)を晴らすという主目的が消えて、能力を買われて殺し屋として活躍する姿に特化している感じである。ちょっと違うがゴルゴ13である。さらに非常に政治的な背景があって、出ている悪人はもちろん善人側の人もキャラが濃くて非常に漫画チックである。殺陣でのスプラッターぶりも凄まじくなっていて、面白いが、理解して喜んでいるのは、マニアックなファンだけなのではなかろうか。いや、そういう映画なんでそれで十分いいのであるけれど。
 ということで、梶芽衣子のダークで美しい魅力を十二分に楽しむための映画で、そのために濃いメンツがそろって変な感じになっているのがさらに面白いわけである。もうこんな映画は、まじめに作られることは金輪際無いのだろうな、という不思議な感慨を抱くことになるだろう。まったく変な国に生まれたものだな、とも思う。それを誇らしく思うかどうかは、個人的な差がある事であろうが。
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ミシュランの夢を支えているのは

2019-05-28 | 

 ミシュランといえばフランス(というか世界的な)のタイヤ・メーカーのことである。しかしながらそれとは別に、三ツ星といわれるレストラン・ガイドの本(レストランだけじゃなく、ホテルなども評価しているが)を発行していることでも有名だ。実をいうと、僕自身も、この赤いガイド本が有名であることは子供のころから知っているが、ミシュランのタイヤを初めてみたのは大人になってからだ(日本では一部でしか売れてないんじゃなかろうか)。
 ミシュランがそのようなガイド本を発行したきっかけは、このガイド本を利用して車で出かけることによって、タイヤが摩耗することによって販売促進につながるという目論見があったためだといわれる。最初はパリ万博の時に無料で配られ人気を博した。当初は、道案内の地図が目的であったともいわれている。
 さらに有名であることを担保しているのは、他ならぬこのガイド本が、大変な権威として君臨しているためである。レストランなどの格付けの基準は明確には明らかにされていないにもかかわらず、ミシュランが格付けで紹介しているところは、大変な権威を与えられることと同じであり、成功の象徴でもある。また、その味を含めた一流を担保することにもなっている。
 星をめぐっての熾烈な戦いというか、シェフたちの並々ならぬ努力は、数々の逸話を残している。この評価の星をめぐって死んだ人は、数知れないとも言われている。ミシュランに評価されるために料理を作っているわけではなかろうが、この評価に浴することが、何よりの料理人の名誉である、ともされているからである。
 しかしながらその評価そのものが、必ずしも信用があるものだとは言えないと、一部の人からは言われている。一流であるのは間違いないながらも、その最高の三ツ星でないレストランが、なぜ三ツ星でないかという明確さは何もない。あるのはそれが、ミシュランの評価であるというだけで、最高だという評価が固まっているらしいことだけである。星のついたレストランには大勢の人々が争って予約し訪れることになる。もともと人気店であることが多いにもかかわらず、さらにそれに拍車がかかることになり、当然料金も跳ね上がってしまうことだろう。高くなるのは混雑するよりいいことかもしれないが(安いままだと永遠に食べられない人も生んでしまうだろう)、このことで料理人や店の将来も左右されることになるということだ。中にはガイドを辞めた国(オーストリアなど)があるとのことで、ガイドで紹介されなくなった店は、見るも無残に衰退してしまうことになるのかもしれない。
 近年ミシュランガイドは日本でも発行された。やはり賛否はあるが、三ツ星の店は当然予約が極めて難しくなっているようだ(行ったことないのでほんとは知らないけど)。覆面調査だから、誰が評価したものかは、一応謎である。しかしながら、そうではないかな、というのは、店にはなんとなくわかるという話はあるのだが…。
 結局行けないのだからミシュランのことは関係のない話であるはずだが、やはり関心のないわけではないらしい。少なくとも、大金を払ってミシュラン体験をしたいという人というのは、今後もいなくならないのではないか。結局人は権威に従う生き物だ、ということは、証明できる話なのかもしれない。
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カマトトが輝いていた頃   昼下がりの情事

2019-05-27 | 映画

昼下がりの情事/ビリー・ワイルダー監督

 オードリー・ヘップバーン主演のコメディ。探偵をしている父の事件の詳細を盗み聞きするのを趣味としている娘が、ある浮気事件が殺人に発展しそうなことを知り、止めようとすることから大富豪のプレイボーイと恋に落ちる話。今となっては多少時代がかっているが、やっぱりオードリーなので許される作品となっている。ただし相手役の大富豪役のゲーリー・クーパー(当時56歳だと思われる)が、すでにかなり年上すぎる感じで、今一つ合っていないのが残念であった(ゲーリー・クーパー自身は大変に二枚目俳優であることは間違いないのだが)。また、劇中流れる「魅惑のワルツ」が印象的なのだが、僕個人的にはチャップリンの「ライムライト」の印象が強すぎて、妙に違和感があった。いい曲ではあるんだけれど。
 コメディなので仕方ないが、そのような設定自体が笑えるのだというのも分かるが、やはりなんとなく釣り合っていない感じは終始残る。大富豪がぞっこんになるから何とかなるけれど、やはり男を手玉に取るには、もう少し実際に悪いことをしないといけないのではないか。若い俳優を使って、恋のライバルに誤解を与えるなど工夫がほしいところであった。
 もっともそのような健全性が時代背景にあるのも間違いなかろう。昔の人は案外カマトトなんである。まあ、オードリーはどう考えてもそんな感じの代表的な人ではあるんだが、それだけかわいいので許されることに過ぎない。真似をしたい気持ちは分からないではないけれど、やっぱり背伸びをしすぎてしまった人は多いんじゃなかろうか。
 というわけで、やっぱり古き良き時代を楽しむ映画なのであった。
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ジャンキー、ヒトラーの教え

2019-05-26 | HORROR

 ヒトラーは酒も煙草もやらなかった。結婚もしなかったし、子も無かった。死ぬ前に愛人(一日だけ結婚はした)はいたけど。
 ナチスには同性愛も多かったので、そのようなことに寛容というか、いわゆる極めて現代風(いわゆるリベラル的な先進指向というか)な考え方をしていた可能性がある。子供は大好きだったようで、ユダヤ人の子供であっても目を細めて一緒に遊んだ(その後殺すわけだが)。当時のヒトラーは列強国から恐れられているとともに、史上最強の将軍とまで言われて、絶好調だった。何事も成し遂げられる強い意志の持ち主であるとして、そのために精力的に働いた。知られているように、演説にも力を入れて、何度も力強く展開していたようだ(音楽家のライブの様に)。
 しかしながら生身の人間だから、そういうことを続けていれば疲労がたまる。すでに主治医はいたようだが、愛人エヴァからの紹介があって、モレルという医者からビタミン注射をしてもらう。それが良く効いたらしく、いつしかモレルはヒトラーの主治医となる。
 ヒトラーは疲れを感じると、頻繁にモレルの処方するビタミン注射を欲するようになる。さらに良く効くものは無いかという要求に、モレルは良く応えて、多少怪しい成分の注射を次々に開発(? 牛の睾丸のエキスだとか、とにかくいろいろ)して注射するようになる。モレルは奇妙な服装をして太っており、いつの間にか愛人エヴァからは嫌われ、他のナチスの幹部からも嫌われていたようだが、何しろヒトラーからは頼られている。ついには麻薬成分の入った薬を注射に混ぜるようになり、自然とヒトラーは、ジャンキーになっていったと思われる。
 しかしながら戦況が悪化すると、ヒトラーは引きこもりがちになり、一部の幹部としか顔を合わせなくなる。得意の演説もまったく行わなくなっていく(すでに民衆を説得させる理屈が、ひどい現実を前に思い浮かばなかったのかもしれない)。しかしながら時には、公の場に姿を見せなければならない時もある。そういう時は明らかにラリッていて、興奮状態になって現れた。ジャンキーとしてそういう時には、ひどく強い麻薬を注射してもらっていたようだ。まったくの悪循環である。
 傍から見ていると明らかに病気だが、彼の狂気を助長したのは、ほかならぬ麻薬だったことは間違いなさそうだ。それも最初はビタミン注射だったのだから、疲労回復のための薬に過ぎなかったはずなのだ。
 ヒトラーは、何もかもひどく特殊な怪物だと人々は考えがちである。しかしながらヒトラーだって、生身の人間だったことに変わりはない。だれもがヒトラーにはなれないだけのことで、ヒトラーの様に破滅する材料は、山のように身近にあるのかもしれない。
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子供は誰のものだろう   海を照らす光

2019-05-25 | 読書

海を照らす光/M・L・ステッドマン著(早川書房)

 灯台守の夫婦は、孤島で任務にあたっている。妻が二度目の子供も流産した直後に、ボートが漂着してきた。中には男の死体と、赤ん坊が乗っていた。妻は神から授かった子だといって、そのまま育てる決意をする。夫は戸惑いながらも、不憫な妻を思ってその考えに従うことにしたのだったが…。
 設定は違うけれど、日本にも幼い子供を育てる側と、失った側を描いた作品はある。物語は当然、大変な悲劇を伴う。どのようにしたらいいのかというのは、たいへんに重い決断を必要とする。そのあたりの描き方が、非常にうまくいっている作品ではないか。
 もっとも、あまりにも倫理的なテーマであるせいか、読んでいてそれなりに葛藤を迫られることにもなる。この物語は、ひどく罪深いことを描いているのではないか。僕自身は、何か途中でこの妻のことを許せない気分が支配した。お気の毒であることは重々理解できるが、またそのために、傷ついた人に対してどのような償いができるというのだろう。一応の答えが物語にも描かれるが、その是非についてはそれなりにまた考えさせられる。非常にまとまりは良く、それ以上の答えなど無いとは思うが、その説得のための状況設定は、これ以上のものが無いのだろうか。それはやはり図りかねない問題かもしれない。このテーマを扱う以上、こうでなければ、やはり成り立たない構図なのだろう。そういう意味では、確かに素晴らしい作品なのだろう。
 しかし涙なしには、とても最後まで読めるものではない。まったくこんな気分にさせられるなんて、なんてやるせないことだろう。後半になると、一定の物事に対する強い考え方が示されるが、それは、人間の行いえる最大の難関でもあるだろう。許しというのは、それほどに難しいことなのだ。
 映画化もされているというが、そのことは知らなかった。作者は女性で、謎も多いが、ロンドン在住だという。これはデビュー作だそうだが、このような作品を、今後もまた生み出すことができるのだろうか。失礼ながらなかなかそれは難しいのではないか、と思わされるほどに、この作品は名作めいていると思った。
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おやつと食事の間の食べ物

2019-05-24 | 

 フルーツサンドが日本独自のものらしいというのは、どこかで聞いたことはあった。欧米の人(パン文化圏の人)からすると、それなりに奇異な食べ物に感じられるものらしい。日本人が最初にカルフォルニア・ロールを見た時と似たようなものだろうか。まあ、あれはじきに慣れてしまったが。欧米の人ではないが、確かにあれは甘いケーキの分類であるようには感じていて、昼食にあれを食べる人は、昼にショートケーキで済ませるような感じがあるのではないか。そういう意味ではおやつであって、昼食などの食事とは別なような気がする。
 また、カツサンドのようなものは、もともとパン粉を使ってあげてあるのをまたパンで包むというのが変な感じらしい。レンジがあればいいけど、冷めていても食べるというのは、ちょっともったいない気もする。絶対にアツアツの方が旨いわけだし。
 日本のサンドイッチの多くは、パンの耳を落としてある。もったいない感じが嫌だけれど、それだからおいしいという感覚はそれなりにわかる。パンの耳自体はまずいわけではないにせよ、具材との雑味を無くすという意味では、切ったほうがさっぱり美味しい場合はある。かなり贅沢だけど、そのような食品文化の残飯を増やすことに抵抗のない日本人らしい食いもんかもしれない。
 ランチパックのパンは、いつまでもしっとりした食感を保つために、砂糖をパン生地に配合してあるらしい。大福もちの餅がいつまでも乾燥しないのと同じ要領だという。だからと言って生地自体が甘いわけではない配合だそうだ。そういう工夫は技術革新だからいいけど、本来のサンドイッチとは、やはり別物ではあるのだろう。出来上がり具合も、やはりちょっと違うものだし。何か一個では物足りないが、ちょっとしたつまみの食べ物としては、重宝するものである。
 ハンバーガーとは基本的に違うのは、やっぱりハンバーグを挟まないというのと、具材があまりはみ出さない程度、というのはあると思う。日本人であっても直接手でつまんで食べるということに抵抗の少ない食べ物でもある。
 また、売ってあるものを買うという文化は最近のことであって、基本的には家庭の味のようなところもあったように思う。少なくとも僕にとっては一種のおふくろの味で、キュウリや卵の入ったサンドイッチがたくさん食卓に並んでいたり、またはピクニックのようなときに昼時に食べるのがたいへんに楽しい記憶がある。忘れがたき黄金の記憶といっていい味だろう。もちろんコンビニなんかのサンドイッチを、教室や学生ラウンジなどで休憩時間に食べた記憶もあるんだけれど、それはほんの一時の習慣に過ぎなかった。大人になったら御握りでないと腹持ちもしない。そうしていつの間にか、食べなくなってしまったのかもしれない。
 今のサンドイッチは、やはり新しい文化なんであろう。
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詩人というのはこういうものか   パターソン

2019-05-23 | 映画

パターソン/ジム・ジャームッシュ監督

 主人公のバスの運転手は、詩を書いている。朝起きて仕事を終えて、家で食事のあとは犬の散歩の途中でバーで一杯飲んで帰る。ほとんどそのような決まり切った一日を繰り返す生活らしい。その一週間をのんびり追っていくわけだが、当然何か不思議な雰囲気と仕掛けに観る者はとらわれていくことになる。
 ジャームッシュ映画なんであるから、それでよいという作品である。それがなんであるかというのは、要するに何か変だけど、それがいい、ということなんだろうと思う。ジャームッシュのコメディは、以前ドリフも取り入れたりしていたが、あまり成功してはいなかった。そんなに面白いことは無いのだし、たぶん表面的にウケはしない。しかしコメディアンとしてはやってみたくなる。というたぐいのものなのではなかろうか。分かる人に向けて。そうして分かる自分に向けて。
 俳優たちは演技をしているのだが、何かうまく科白を回しているようには見えない。リアルな会話だからそうなるというより、無理に無感情にいいことをいう。感情がうまくこもっていないような気がするが、言っていることはまともそうなので、非難できない。そうして話は発展せずに、断片を残したまま、終わるような気配である。今のは何だったのだろうか。本当は何かほかに言いたいことがあったのではないか。そんなことを見るものは考えてしまう。それは監督には答えがありそうだけど、やはり教えてはくれまい。もやもやとして残るものがあって、それがなんとなくこの映画を名作めいた雰囲気にしている。それが、ジャームッシュ映画なのだ。
 最後の方で永瀬正敏が、割合重要な役割で出てくる。これが、なんとなくだが、この映画の意味めいたものを醸し出している。分かったような、わからないようなものだけれど。さて、この映画を僕が好きなのかどうかというと、正直言って好きである。そうして、このような映画を好きな人と、一緒に詩でも書いてみたいな、と思ったりして(嘘)。
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親を何と呼ぶか

2019-05-22 | ことば

 子供が親を呼ぶ。ママ。パパ。日本人の田舎の家庭でも、今はこれが一般的なのかもしれない。呼びやすいし、かわいい。聞いていて、ほほえましい。
 僕は両親を、お父さん、お母さん、と呼んでいた。小さい頃もそうだったのか、それは記憶にないが、うまく呼べないまでも、最初からそうだったのではないか。何故なら弟二人と妹一人がいるけれど、彼らが小さいころもお父さん、お母さんと呼んでいるのを見たような覚えがあるからだ。姉や兄も、たぶんそう呼んでいたのだろう。
 祖母のところに遊びに行くと、父はおばあちゃんだよ、と僕らに教えた。いや、おばあちゃんちに行くとか、そういう風に言っていたのだったか。母がおばあちゃんを何と呼んでいたのか、ほとんど記憶がない。お義母さんといっていたに違いないが。
 父とおばあちゃんが話をしていて、父が「かあちゃん」と発音しているのを聞いて、ひどく驚いた記憶がある。父は僕らにお母さんといわせて、自分はかあちゃんといっていたのか。なんだかとても不思議だったが、ずいぶんしてその話を母にすると、私が最初に「お父さん、お母さん」と呼ばせたので、そうなったのだろうということだった。
 檀一雄の小説を読んでいると、彼が自分の子供に「チチ、ハハ」と呼ばせていることを知った。これもひどく驚いた。間違いではなかろうが、意外な感じというか。考えてみると、そういう呼び方をする家もあったことだろう。
 つれあいは、自分のことは子供に「かあちゃん」と呼ばせているのに、なぜか僕のことは「お父さん」といっている。息子たちは僕を直接「お父さん」とは呼ばずに、「ねえ」とか呼び掛けるのを習慣にしていた。そして多少大きくなって、「お父さん」と呼ばれるようになった。なんでもないことかもしれないが、うれしいものですね。いい響きだよ、ほんとに。
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権力は個人の感情を増長する   1987、ある戦いの真実

2019-05-21 | 映画

1987、ある戦いの真実/チャン・ジュヌアン監督

 大学生が警察の取り調べ中に死ぬ。警察は心臓麻痺と発表するが、実際は拷問による死亡であったため、その事実が漏れて報道される。警察は隠蔽のために躍起になる。暴力に次ぐ暴力で言論を封じようとする。同時期に民主運動を展開する学生と、地下で活動する人々が文字通り命を懸けながら警察と対峙していくのだったが…。
 この当時の学生デモなどは、僕も学生だったのでテレビ報道などで見た覚えがある。当時の日本の大人たちは冷ややかで、韓国は日本の戦後民主運動より40年くらい遅れているな、という意見を聞いた覚えがある。そういうものなんだな、と思ったことと、やっぱりまだ怖い国なのかもしれないと認識したと思う。北朝鮮と韓国は違う国とは聞かされていたが、実際はあまり変わらないのかもしれない。もっとも、日本との態度を別にすると、今はだいぶ変わったらしいことは感じられはするけれど。
 とにかく、拷問に関する暴力描写が凄まじい。いったいなんでここまで暴力を振るわなければならないのだろうか。日本の警察も、取り調べで激しく同じようなことをするところがあるようで、密室での行き過ぎは、アジア的に同じようなものがあるのかもしれない。これは、冤罪が起きて当たり前である。
 脱線ついでにさらに言うと、韓国の従軍慰安婦や日本の企業による強制労働などの問題で、あちらの人が激しく誇張して、要するに嘘ばかりついてしまうのは、自分たちならこのような暴力をはたらくことを知っているからで、当然日本人もやっているはずだという感覚があるせいだろうと思う。とにかく恐ろしいことが行われるのだから、それに対しては激しく拒絶もするのであろう。
 結局何があっても警察に捕まってしまうと人生は終わりである。日本でカルロス・ゴーンさんの検察のやり方も海外からの批判があるが、おそらくこれに似たような不信感が、あちらの国にあるんだろう。図らずもそれなりにタイムリーな感覚で見ることができた映画だった。
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芸術は裸だろうか   フローズン・タイム

2019-05-20 | 映画

フローズン・タイム/ショーン・エリス監督

 彼女に振られたショックで不眠症になった美大生が、寝られないので深夜のスーパーマーケットで働くことにする。寝られないための幻覚なのか、彼には時間をとめる能力があることになっている。時間を止めて何をするかというと、買い物客の女性の服を脱がせて、くまなく眺めスケッチするのである。とんだエロ野郎だが、どうもこの男には異常に女性の裸に執着があるらしく、幼少のころから女の裸ばかり眺めているせいで、絵描きになっているようだ。そのような異常な執着から、芸術が生まれるということなんだろうか。
 映像は妙に気取っている割に、一応はコメディなのかもしれない。スーパーマーケットで働く人々のくだらない日常が、何か最下層の人々のヒネた風刺のように描かれている。なにもかもうだつが上がらないが、くだらない冗談を言ってその場をしのいで楽しく過ごそうとはしている。しかしやはり下品で楽しいわけが無い。主人公の男は、冷めた感情を持ちながらも、それらの日常にあらがうことなく、ともに行動をしている。時間を止めて女を脱がしてスケッチする以外は。
 女性に振られるにしても、新たな恋の相手となかなかうまくいかないにしても、同時にこの男が馬鹿だからではないかという疑念が、最後までぬぐえなかった。一応は勝手に誤解は解けてハッピーエンドだが、馬鹿であることには変わりないだろう。今後も失敗は続くのではなかろうか。まあ、ひどく画家というか芸術家としては成功をしたからいいのだろうが…。
 そういうことで、エロ芸術作品で変態じみているが、そういう風には見えない作品である。そうして実際は純愛を描いていて、裸は多いがポルノ作品ではない。楽しい映画ではないけれど、そういうことでそれなりにファンのついたものなのかもしれない。
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ふつうは感動して涙ボロボロ映画だそうです   あなた、その川を渡らないで

2019-05-19 | ドキュメンタリ

あなた、その川を渡らないで/チン・モヨン監督

 韓国のドキュメンタリー映画。老夫婦の日常を追ったもので、題名の通り夫が死ぬまでの日々を撮影している。妻は14の時に嫁いできたらしく、9歳上の夫(現在は98歳らしい)と仲良く暮らしてきた様子だ。雪が降れば雪合戦するし、掃除中水を掛け合ったりしてたいへんに仲が良い。むしろちょっと異常さを感じさせられるほどに、仲が良すぎるとも感じてしまう。これが若い人だったら、いわゆるラブラブすぎて辟易させられることだろう。
 さらに彼らは、よくおそろいの民族衣装を着ているのだが、これが派手すぎて格好が悪い。その格好で作業をしたりして、大丈夫なんだろうか、と心配になったりする。おばあちゃんが良くしゃべるので、背景は段々と分かっていって問題ないが、外国のドキュメンタリーではよくある無説明の日常映像なので、いったいこの人たちは何なのかというのは、かなり時間を経ないと分かりづらい。それが一種の謎解きの興味になっているのだろうが、韓国の状況が分からないので、ラブラブすぎてちょっと変なお年寄りカップルという印象がぬぐえなかった。まあ、ふつうの人は感動して泣いてしまうらしいから、それは僕の方に問題があるんだろうけど。
 しかし脚本も無いのに、韓国らしい風景も良くとらえている。おじいちゃんの誕生日祝いに、子供や孫家族がたくさん集まって、いわゆる宴会をやる。みんなで食事して、大変に幸せな風景だったのだけど、長男がちゃんと面倒を見ていないなどと批判する妹(おばちゃん)が暴れたりして、ものすごく雰囲気が悪くなる。こんな演出、映画としてやろうと思ってもなかなかできない。韓国の人々は興奮しやすくて、非常に映画的に絵になるなあ、と思った。こんな嫌な気分というのは、映像としてそんなに撮ることはできない瞬間ではなかろうか。素直に素晴らしいです。
 おじいちゃんが徐々に具合が悪くなって、医者から薬さえもらえなくなる(どうせ効かないんだそうだが、そんなことがあるにしても、自宅放棄は無いだろう。というか、あちらの医療は怪しい)が、そういうところも克明に記録していく。とうとう死んでしまって、このおばあちゃんどうなるんだろう、と思った。後で知ったが、この映画が大ヒットしたせいで、取材などがこのおばあちゃんの生活を壊してしまったということだ。映画の質そのものとは関係のないことだけれど、ドキュメンタリーって怖いものもあるかもしれない。
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もつ鍋も食べた

2019-05-18 | 散歩
 やっと開会時間一時間前くらいになって、会場に向かいました。
 着いてみて、すでに青年部の方々が大方準備を済ませて受付に並んでおられて、たいへんに恐縮致しました。そうだよな、ふつうそこまで考えるべきだったよ。なんもできなくてすんませんでした。


 ということで、講師の先生のお迎えくらいはやりましたけど、特に何もしないままいろんな人とあいさつを交わしたのでした。盛況でよかったですよ、ほんとに。
 さらに無事に済んだことと、長崎の青年会に混ぜてもらって反省会であります。


 ついていった先は、すき焼き風のもつ鍋屋さんでした。こういうのは初めて食べましたよ。なんでもすごい人気店のようで(実際すぐに一杯になってた)予約しないとは入れないんじゃないでしょうか。


 若い人たちと飲んでいて改めて気づかされるのは、やっぱり僕は若くなくなったということですかね。ああ、そういうことに悩んでいるのか~、などと感慨深いです。似たようなことを思っていた時期もあったのかもしれないけど、すでに僕はそういう風には物事を考えていないかもしれない。何も説教臭いことを考えているのではなくて、そういう段階にいるんだろうことが、なんとなくわかるし、そうして同時に、分からなくもなっているのかもしれない。若い人は偉いなあ、と思いますよ、本当に。


 お店の名前は万作屋さんでした。〆のちゃんぽん玉も入れて食べました。旨かったです。


 一件スナックに入ってカクテルとウイスキーと焼酎飲んで、また歌うたいました。今回は歌と縁がありましたね。こういう風に続くことは近年珍しいです。

 さて、若者をなめてました。やっぱりまだ〆に食べるんですよね。結構辛いつけ麺屋に連れていかれました。昼飯抜いて良かったですよ、本当に。



 ということで駅前に戻って解散。まだ飲んでいる人もいたようですが、帰らねばならないのです。

 ということでぐっすり寝た後にシャワー浴びて、朝ご飯です。
 というか、パンでした。


 さて、後は散歩するしかないです。楽しみでもありますが。



 人参公園。


 まっすぐ来たら線路に出ました。新幹線も通ってたみたい。



 駅そばの住宅街って感じですか。朝なんで静かであります。


 こくてつ通り。


 ライオンキングではなく、パチンコ屋さん。



 住吉公園。


 住吉通りに戻ってきた。


 ちょっと散歩には歩き足りないかな。



 結局陥没博多駅前通りまでやってきてしまった。


 東林寺通り。で、散歩は終了。


 9時台のバスだったので、おみやげ屋はまだあんまり開いてませんでした。歩くには充実した出張だったな。疲れたけど。

 ということで、さようなら。


 バスの中ではそれなりに寝てました。

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清川サンロード商店街

2019-05-17 | 散歩
 昼に来たことなかった中洲。まあ、ふつう来ないですもんね。


 真昼間なのにしつこく呼び込みに捕まっている人たちが居ましたよ。大変だよな。僕はシレーっとスルー出来ました。偉い!


 天神中央公園。



 大丸の中通りっていうのかな(知らないけど)。


 結局天神まで出てきちゃいました。


 警固神社前あたり。



 そういえば息子がいたんだったな、と思って電話してみたら、あいにく友人と一緒らしい。友情の方が大切だから、一緒に飯食うのはあきらめました。また、次もあるだろう。


 やっぱり一人で飯食うのも味気ないな、と思うのと、どうもそんなに腹減ってない気がやっぱりするんですよね。いい傾向だから、抜いてみよう。そうしたら、荷物の中に読みかけの本入れてたのが、残念に思えてきた。


 まあ、道は長いし、歩いていくべ。


 広い通りに出て、これは日赤通りだな。


 車からはよく見えている、サンロードのアーケード、通ってみたかったんですよね。満足です。


 アーケード抜けると、向かいは柳橋市場通り。あそこはこの間歩いたよな。


 日陰の多い方を歩いて行こう。住吉通りです。


 たぶん女子高か中学か分からんけど、この後信号待ちでものすごい女子たちの集団にかこまれてしまいました。さすがに写真撮るのはイケンと思って遠慮して証拠写真はありませんが、息苦しくていかんですね。女の子たちとは言え、集団だと迫力ありますね。鳥の集団が来たみたいに、凄まじい話声でした。先生たちは大変だろうね。


 住吉神社。



 お隣に楽水園ってのがあって入ってみました(100円)。何故か韓国の人がたくさんいて圧倒されました。この日本庭園は、明治の博多商人が建てたものらしい。休んでたら結婚式の前撮りなんかもやってきて、なかなかいろいろ使われているところだったんだな、という感じでした。おめでとうございました。


 しかしながらまだ時間はあって、一度博多駅(筑紫口)まで行って、そのあたりでコーヒー飲んで休憩しました。日曜に出すなぞなぞ問題でも考えてみよう。





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