カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

秘密の無い時代へ

2010-04-30 | net & 社会
 福山雅治という俳優さんが長崎県出身であることもあって、長崎での龍馬伝の熱狂ぶりはそれなりに凄まじいものがある。昨年末には駅前の龍馬伝のポスターが盗まれたり、新たに張り出されたポスターの前での記念撮影をする人々の群れを観ることができた。
 実際の大河ドラマの出来栄えもまずまずといったところもあり、また、福山の純朴な演技も好感が持たれ、一定のファン以上の支持もつかんでいるように見える。龍馬という戦後になってから新たに人気を博している人物の魅力がこれほどのものであることも改めて驚きだが、やはり福山人気というものとの相乗効果というものが、非常にいい形で開花しているということでもあるのだろう。
 ロケが大村湾で行われるということは、当然ながら最初はtwitterで知ることになった。武田鉄也やトータス松本が来ているらしいことも漏れ伝わってきた。ひょっとすると番組の案内などでも知ることができるのかもしれないが、僕自身は垂れ流しのツイート情報でそういうことが勝手に入ってくる訳だ。ぼつぼつブログなどでもその話題が増えてくるようになり、実際の映像なんかも連動して知ることになった。ブログとtwitterは連動させている人が多いので、書き込んでいるツイートからそういうものへと詳しく情報が簡単に手に入る。中には本当に身近な人が撮影に関連する場所やモノや何かを提供しているということも分かったりして、なるほどなあ、と感心したりした。
 僕自身は福山雅治にまったく関心の無いということではないけれど、いわゆるファンではないし、積極的に情報が欲しいわけではない。しかしながら、彼が熱狂的に好かれている国民的なスターであることは十分によく分かった。彼の行きつけだったらしいラーメン屋が大繁盛したり、彼のお兄さんだかがどういう人でどんな職業だということまで勝手に知ることになる。まあ、身近な範囲の知っている場所だとかいうこともあるので、それなりに面白くはある。
 福山がロケの時に食べた弁当を提供したのが大村の某店で、そこに魚を卸している魚屋さんが諫早だというのは面白かった。NHKはそういう情報を宣伝に使うのを厳しく規制しているというのも初めて知ったし、福山がご飯(炭水化物ということかも)をとらない食事を摂っているらしいことも分かる。まあ、どうでもいいといえばどうでもいいわけだが、規制をしこうがどうしようが、情報はどんどん漏れる。つくづく芸能人という人たちは大変なんだと同情してしまう。秘密なんて結局ばれてしまう。まるでサザエさんの一家のようなものだ。
 有名人の本人のつぶやきを聞きたいということもあるだろうが、本人を知ろうと思えばそのまわりのつぶやきを拾った方がいいのかもしれないと思う。調べようと思えば福山まわりの人で呟いている人を探すことも可能かもしれない。ストーカーにはたまらなくいい時代になったものだと、つくづく思うのであった。
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総長カレー

2010-04-29 | 
総長カレー、一億円突破

 総長をもっと身近に、って理由がよく分からない。でも確かに食べてみたい響きあり。
 しかし単にみんなカレーが好きなんだってことかもしれない。
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家の庭にゾウ

2010-04-29 | 時事
家の庭にゾウ

 確かに象さんがいるとびっくりするだろうなあ。でも僕の家にも来てほしい。

 脱走するのが難しい存在かもしれませんね。ダンボさん、気の毒でした。
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カメよりこの家が怪しい

2010-04-28 | 雑記
盗まれたカメ、飼い主のもとに帰る

 人間的な見方をすると忠実な感じがするということになるのか。盗まれた先がどこだったかということも気にならないではない。それに本当に盗まれたということになるのかということさえもミステリーっぽい話である。結局は人間の都合の話という感じも無いではない。
 本当はアフリカに帰りたいと思っているかもしれないし、そんな感情自体がないのかもしれない。実際カメに帰巣本能があるんだろうか。
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4周年を過ぎていた

2010-04-27 | 掲示板
 このブログの編集画面を見ていると、ブログを始めてから1462日と表示が出ていた。一年365日で割ると、なんと、いつの間にか四年をちょっと超えているではないか。それもちょっと微妙に記念日(といえるのか)を過ぎていて、ものすごく残念な感じがしないだろうか。折角だからその記念日に何かするべきではなかったのか。その日に訪れた人には何かプレゼントするとか。いや、今のは忘れてもらうことにして、とにかくその日には何かスペシャルなことを自分にしてもよかったのではあるまいか。
 ま、二日前はもう少しで10キロ(あと400メートル)歩いていたはずなのに達成できなかったし、読みかけの本を読み終わらずに数ページ残して家に忘れてしまったし、せっかく龍馬伝で家族が盛り上がった後につまらない映画を観てしまって、僕以外の家人をすべて早い時間に深い眠りに陥れてしまった日だったのだった。なんとその中途半端さの冴えわたっていたことだろう。気づかなくてよかったのかもしれない。ちゃんと酒も飲めただけでも良かったと考えるべきだ。
 そういう訳でしまりのないまま5年目を目指して頑張ろう。
 前身のブログから考えると既に何年このようなことを続けているんだろうか。最初は単なる備忘録だったから今よりもっとダラダラ長かったのだが、初心に戻ってたくさん書きたい気分に少しだけなったが、別に気負わないから続いてきたともいえるわけで、そんなに深く考えないことにしようと思う。その間にパソコンだけは数台つぶしてしまった。過去はそんなに振り返らない性質があるので、先があるというだけが何となく励みという気もする。目標がないのはさまよっているのと同じだという。そういうさまよいぶりで、今後も日々を消化していければいいような気がする。
 僕は何にも崇高な理念などは持ち合わせていない。それが、僕のポリシーと言えばそうかもしれないし、ポリシーそのものだって正直言うとそんなに大切にもしていない。他人からお叱りを受けるようなことを書けるようになればいいなあと思うが、小心者なのでそれもあんまりしない(意識的には)。僕が、割合上手く書けたなあ、というような日が多ければいい、というささやかな希望があるだけのことである。もちろん読んでくださる人がいるのは正直うれしい。そういう関係があればブログは続くものなんじゃなかろうかとは薄々思ってはおります。
 それでは皆さんそれぞれにご自愛のほどを。
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夢でも会話が成立しない俺って…

2010-04-27 | ことば
 夢の中である人と会話していた。何故かPTAの話になって、その人は何か役をしているらしいニュアンスだった。なんとなく「監事さんか何かをやっておられるんですか?」と聞くと、「いえ、カタカナくらいのものです」という。片仮名の役って何があるのかなあ、と不思議に思った。
 目が覚めて、ああ、洒落だったのかと気づいた。夢でもシャレがわからないんだな、と苦笑するよりなかった。
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孤独なひとときの確認

2010-04-26 | 映画
 映画は娯楽だから退屈しのぎに観るということはあるんだけど、退屈しのぎのつもりなのにさらに退屈にさせられることがある。僕はつまらない映画というのもそれなりに好きだから、そういうことについての批判ではない。たぶんその時の自分に合わなかったというだけのことだとも言えて、映画が悪いのだとはあえて封印して言わない。

グッドナイト&グットラック/ジョージ・クルーニー監督
 やたらと煙草ばっかり吸っていて、白黒映画なので、そのコントラストを黙って眺めて時間を浪費したという感じかもしれない。まあ、真剣に戦っているんだろうなと思うが、それに付き合った僕自身もごくろうさんという慰労させてやりたい気持ちになった。ま、いい時代だったのかもしれないと、かえって感じはするけど…。

フル・フロンタル/スティーブン・ソダーバーグ監督
 正直言って内輪受けをするために付き合わされたのだろう。ソダーバーグの悪い癖だと思う。彼らはこれを観て、クックックと笑っている。まあ、それがおしゃれだといいたいのだろう。それこそ悪い冗談なのではないだろうか。

アヴァロン/押井守監督
 映像美と世界観を楽しむ映画だということは分からないではないが、それが目新しかったのは過去のことなんじゃなかろうか。ファンのための映画かもしれないし、監督のための映画かもしれない。音楽がいいのかも、とは思うが、ビデオクリップではないしね。

 という訳で、退屈を楽しませてもらった。もちろん家族は皆爆睡。僕は孤独な存在だと確認はできるのであった。

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古典の人じゃなかったのか

2010-04-26 | 時事
アラン・シリトー死去

 むしろ生きてたことに驚きを覚える。古典の人だと思って読んだ記憶がある。
 ひねくれ具合が思春期の心情によく合っていて、僕らの中学生時代にはよく読まれていた作家だったのではなかったろうか。今はどうだか知らないけど、あれは流行りだったのだろうか?
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男はなぜ校庭にミカンの木を植えたのか

2010-04-25 | 時事
男はなぜ校庭にミカンの木を植えたのか

 単に頭にきてたんでしょうね。でも、なかなか面白い事件だ。
 問題の先送りで結果的にことが大きくなるということの象徴的な事件のような気がする。ほとんどの人はみかんを植えずに結果的に泣き寝入りして事実を受け入れるしかなくなってしまうのかもしれない。

 北方領土とか竹島が、そういうことになりそうな気がしないではない。いや、事実上日本というのは、この男と同じような立場なのではないだろうか。
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興味はすでに5月以降だ

2010-04-24 | 時事
 報道を見ている限り、普天間問題の5月末解決はあり得ないように見える(もちろん5月末は楽しみだ)。僕はノンポリなので、そのことで政局がどうなるというような視点には興味が無い。言った言わないも、まあ、どうでもいいような気がする。
 徳之島をはじめ、移転候補地といわれるところは会話無き反対の合唱状態。そんな事は当たり前なんだろうが、しかし賛成の声がまったく聞こえないのも戦争状態と同じで興味深い現象ではある。米国海兵隊がこんなに嫌われる存在だったということが明らかになってしまった。実際に駐留中の沖縄だって猛反対の機運が更に高まっている。米国はおそらく、安いお金で守られていたに過ぎない国が、ちっともその恩恵に感謝してなさそうに見えることに違和感を覚えていることだろう。ただの属国が何をやろうとしているのか。不審を向けているのは政府に対してだけではなかろう。時間切れを本当に望んでいるのは間違いなく彼らだろう。
 今はその程度の議論で止まっていることの方が実は最も大きな問題だ。思考停止がこのまま続くんだろうけど、いらないものはいらないといっていいのは当たり前のことだ。それは本当に要らないのならば。
 まともな意味での5月末解決は無いだろうが、しかし、この議論の始まりはあんがい大きいことなんじゃなかろうかと思う。パンドラの箱は開けられてしまった。後は根気よく議論を止めないことだ。本当に必要なんだということになれば、いくら犠牲が大きくとも、根気強く駐留させるための処置は取られなければならない。もちろん軍備の別の選択だってある訳だ。安全はタダではない。それが宙に浮いたままでの反対論というのは、本来ならばまったく意味はない。ゴミ処理場が自分の庭につくられるのは、誰だって嫌だ。嫌だから反対というのは、心情的に理解はできるものの、通る話ではそもそも別のことだろう。
 今はやんわりと圧力をかけつつも傍観を気取っている米国は、つまるところ自分の財布が痛む問題ではないから知らんふりを続けられるだけのことなのだろう。彼らの予算に影響を与える事態になれば、また違う形で正式に圧力をかけてくるだろう。彼らは国内問題にならない限り、興味さえ示さないはずだ。
 これは日米問題の本当の新たな一歩になりえる。
 彼らの世論は知らないが、もし僕が米国民だったならば、なんで日本はいらないものを僕らにいらないといえないのだろうと率直に疑問に持つだろうと思う。これだけの国民世論がありながら、外交に対してなんら意見が無いように見える。しかし、そのままで済むわけの無い問題であることは明からであり、これからは何らかの回答が聞こえてくるはずである。別に喧嘩をするわけではないが、初めて対話ということが生まれていくことになるかもしれない。子供なんだと思っていたのに、意見が言えるのだと素直にびっくりしてしまうかもしれない。
 という訳で、面白くなるのは5月末以降のことになってほしい。繰り返すがとりあえず政局には興味が無い。そっちにばかり話が飛ぶのは、つまるところこの問題の先送りに加担するだけのことになってしまうだろう。ああ、日本人、である。
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コーチ・カーター

2010-04-24 | 映画
coach carter trailer


コーチ・カーター/トーマス・カーター監督

 カーターという名前の高校のバスケット部の監督の物語。よく知らんが、たぶん実話が元なんだろうと思う。
 カーター監督は学校の先生ではなく、スポーツ用品店を経営するかたわら、請われて地元高校のバスケットボール部の指導を受け持つことになった。今は荒れているがカーター監督もこの高校の出身であるらしく、以前はバスケットでは名門高校であったらしい。昔の栄光を知っている人に、その復権をゆだねられたわけだ。
 選手たちは、そこそこ実力が無いわけではなさそうだが、試合には勝てないし、チーム状態はバラバラ。いきなり鳴るもの入りでコーチがやって来たからといって、そう簡単にいうことを聞くような連中ではない。しかしこの監督はこのやんちゃなチンピラもどきの生徒達を相手に、さらにやんちゃぶりを発揮して圧倒してしまう。単なる暴君なんだが、筋論だけで曲げることをしない頑固さがあり、それなりの単純さが分かりやすいために、やる本人さえ頑固なルールを受け入れれば実力を伸ばすのが上手いという指導方法。日本人には向くかもしれないなあと思いながら観た。
 サクセスするのは面白い。さまざまな困難が持ち上がっても、その頑固さだけで乗り越えて行ったりする。はっきり言ってむちゃなんだが、なかなか心地いい物語である。
 一種のバカ映画には違いないのだが、サミュエル・L・ジャクソンが怒っているのを観るのは楽しい。アメリカの映画館だったら、彼が怒るたびに大喝采となったに違いない。ただ彼は大魔神とは違い、我慢をため込まないでどんどん爆発する。辛抱しないカタルシスは、考えてみるとかなりアメリカ的ではある。暴走列車を誰も止めることができないように、ぐんぐん行くところまで行くしかないのである。実にうまく行っているにもかかわらず、そうなると水を差すことも平気でやる。バスケットだけでなく子供たちの行く末を本当に考えているという展開もなかなか泣ける。お節介すぎる厄介な人間なのに、それを強要してはばからない。まさに洗脳のプロである。
 しかしながらある意味で、人間の情熱ということの見本の先生なのかもしれない。大変害のある人間だとは正直言って思うけれど、害の無い教育なんてありえない。先生の影響力によって子供は害を受けることこそが本当の教育なのだ。そのことを実にストレートに迷いなく語られていて、大変に楽しかった。特に教育関係者は、楽しみながら観るべし、である。
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帯の無い本がいい

2010-04-23 | 雑記
 古本を買うときに何となくうれしいのは帯がついてないことである。
 比較的新しいもので帯がついたままのものがあるが、新古書というか、中古品として不満だ。状態がいいという意味だとか、中には古くても帯がついているだけで高かったりするので、付加価値を越えて意味のあるものということがいいたい場合もあるのかもしれない。しかし、本当に帯というのはほとんど不要なものという気がする。
 最近の新書の一部には帯の広いものがあって、持っていても気にならないものもありはするが(ほとんどカバーという感じだし)、帯がついたままの状態の本は、読んでいるときに帯がずれるのが気になってイライラすることがある。
 じゃあ、捨てれば。という回答こそ憧れのものだ。いや、多くの場合僕だって捨てる。そういう勢いのある気分の時は断固捨てる。
 だけど勢いの無い時は捨てられないのである。何故なのか僕自身に聞いてみてもよく分からない。もったいないということなんだろうか。買った状態が崩れるのが嫌なんだろうか。
カバーの内っ側に折って引っかけておくこともよくする。注釈のある本にはその場所の栞として使う場合もある。ちょっと嵩張るので不都合も感じるが、無いよりマシ、という感じかもしれない。利用できて嬉しいという気もしないではない。
 本とは関係ないが、以前はLPレコードにはタスキがかけてあった。僕はあれを捨てきれなかった。付けたままだと破れたりして不都合なので、別に取って保管していた。中学生の頃に「趣味とコレクション」というものを学級で見せ合う行事のようなものがあって、僕は迷わずレコードのタスキの束を持って学校で見せびらかせたものだ。新聞少年だったから同世代のみんなより格段にお金を持っていたので、おそらくその狭い社会の中で、段違いにレコードを買える余力を持っていた。楽器以外はレコードしか買わなかったから、当然たくさん持っていたわけだ。だからタスキをたくさん持っているというのはちょっとしたステータスだったのかもしれない。もちろん羨ましがられたが、そのタスキを乱雑に扱う奴がいたので、思わず喧嘩になってひどく先生に怒られたので、むやみやたらに自慢することはそれからは止めることにした。
 いや、本の帯はレコードのタスキとはずいぶん違うような気もする。コレクションしたことすらない。レコードからCDになってちょっと残念だったのは、端にちょこっとだけ型紙のような帯の代わりの紹介文がついているアレに代わってしまったことかもしれない。もちろん今は躊躇なくゴミ箱行きだ。
 帯はおそらくその本の宣伝のためについているのだろうとは思われる。しかしながら僕は帯を読んで本を選んだという意識はほとんど感じない。最近はほぼ8割以上ネットだから、送られてきた(つまり既に買った後)本に結果的に帯がついている状態というだけにすぎない。新品である証明のような意味しかないような気がする。
 ところで古本だが、そういう煩わしさを開放するがごとく帯が無いというのが潔い。帯のついてない古本が送られてくると、やあ、いい本だ、と思わず愛おしく感じられるほどだ。おそらく前の持ち主が躊躇なく捨ててくれたものだろう。そういう彼(彼女)に尊敬と感謝を感じつつページをパラパラめくるというのが、僕にとってはしあわせなことなのだ。
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あの歌はもう聴こえない

2010-04-22 | 雑記
訃報、多田富雄さん

 父の本棚から何気なく手にとって読みだして驚愕した本が「免疫の意味論」だった。体はすでに意識するしないにかかわらず自らシステムを作り出し、そしてアイディンティティを持っている。この日本語に訳しにくい概念を、日本語にあろうとなかろうともっていると主張しているようにも見える。用語は慣れないととっつきにくいんだけど、決して理解不能な世界では無い。そしてぐいぐいと引き込むような面白さに任せて読めばいいだけなのだ。
 
 ある方が亡くなられたのだが、僕はあえてある意味で彼は異分子のような存在だったのかもしれないと考えていた。システムの中でも生きていくことはできただろう。しかし、彼は自分の好きなことをやりたいということだけに賭けて生きたのではなかったか。自由というと聞こえはいいかもしれないが、実は荒波の世界だ。上手く乗り切れていたかどうかは僕は知らない。ただ、誰かのシステムとして生きていたわけでは無かったのだと思う。そういう人が居なくなるというのはどういうことか。考えあぐねているが、自己システムの一つが消えてしまったのかもしれないのだった。誰も彼のようには生きられない。それはたぐいまれな存在だったのだ。

 もちろん、ひとりひとりは決定的に個として他の個とは違う。意識しないでも強烈に体はそれを主張している。
 多田富雄は「女は存在だが、男は現象にすぎない」と言ったらしい。僕は男だから普段は存在を無視しては生きられない。しかし男としては現象を起こさないわけにはいかないのだ。そうでなければ生きられない。
 そして、確かに何か、その現象自体が消えたのだと思う。影響を受けた僕らはどうなるのか。少なくとももう二度とあのような風はふかないということらしい。そのことは、いつか理解することにはなるのだろう。
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小鳥たちは知らないのかもしれない

2010-04-21 | 雑記
 現実問題として、日本の将来、それもかなり近い感じのものだけど、それがかなり危ういというのは共通認識だと勝手に思っていたのかもしれない。同業関係だけじゃなくても、ちょっとばかり近しい関係になったときに、なにげなく、やっぱり危ないなということを言うと、相手はなぜかヘラヘラ笑うことが多い。ちょっとだけ不思議に感じていたんだけど、これはそんなことわかんないよ、というサインなんだということが薄々分かってきた。何だ、共有する以前に無知なんだ。
 僕は預言者じゃないよ。だけど、もう逃げられませんよ。今からどうにかなるというのは既に幻想に近い。何でそんなことも見ないで済ませられる人が多いんだろう。そのことの方がはるかに異常なんです。ま、だけど力入れて言うことでもないね。ジャズの世界なんだろう。
 もう諦めてから既に何年かにはなるんだろう。しかし、僕自体は努力はやめません。それは僕の為でもあり、正直言って僕の後の世代の為でもある。報われない努力はしたくないから辛口になるということはあるにせよ、手遅れでもあるんだということは分かってはいるんだ。矛盾を抱えたまま戦うのは本当につらい。僕自身は一人では無いはずだ。それだけが、こころの支えだったのかもしれない。しかし、そういうものはたぶん無いのだろう。一人でも立てる世の中。厳しいが、それ以外に選択肢さえなくなってしまったのかもしれないのであった。がーん。しかし、やはり考えるのは止めるわけにはいかない。小出しにするので、受け止める人よ、あらわれよ。
 なんか新興宗教みたいだな。とほほ。
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1Q84 book3

2010-04-21 | 読書
1Q84 book3/村上春樹著(新潮社)

 読み始めていきなりあれっというような裏切りを感じないではなかったけど、まあ、物語は作家の自由だ。その時点である程度結末は予想できないではなかったけど、本当にその通りになるのかはそれこそ分かったものではない。読書体験としては素直に楽しいひと時ではあった。続編がどうだという議論ももちろんあるが、それは勝手にどうぞという気はする。ただ12月が過ぎたらたぶん1Q84も終わる。スターウォーズのように過去にさかのぼる手が無いではないが、天吾君のお母さんの謎など話が、このラブストーリーの支えになるものだろうか。
 物語自体はそれなりに単調である。それがつまらないかというとそんなことはないのだけど、二冊で構築された世界が広がりを見せる展開というよりは、収束に向かって坦々と準備を進めているという感覚はあった。もちろん多少は危ういサスペンスはあって、全体を見通せる読者の目としては、もう少しお互いに慎重になるべきではないかという気分にはなる。肝心なところでそれぞれに考えられないミスを重ねているようにも見える。準備の割に本番に弱いというか。まあ、僕自身だってうまく立ち回れる自信はないのだから、他人のことを言えた義理ではないが。
 オウムの影響が色濃くあるのだという。実は僕はそれはあまりにも直接的な背景のような気がして、かえってピンとこないところでもあった。オウムの場合実はインテリで、それなのに何故という図式がなんとなくあるのだが、さきがけにはそれが感じられない。リトルピープルはデビット・リンチのように音楽的だが、笑えないディズニーでもある。この部分が確かによく分からないけれど、彼らの宗教なんだからそれはそれでいい。それにしても犠牲が多すぎるなあとは思うが、人間というのは彼らにとって何なの分からないので仕方がない。
 僕は運命論者なのではないと思う。しかし、恋愛というものの物語や歴史においては多少の運命は必要な気がしないではない。そんなものが無くても全く支障はないともいうことはできるが、そのように見える恋愛であっても、よく考えると運命的な要素はまったくないとはかえって言えない。それが小学生の時の一瞬であったというのは、なるほどそういうものかなとは思うが、彼らがそうなのならそうなのだろう。現在の彼らが満足であって、将来においてもそれが支えになるというのならそれでいい。実は多かれ少なかれ、僕らにとってもその物語が支えになることは確かだからだ。恋愛に連続性はあるが、もちろん強弱もある。弱い部分の補強は、運命に補ってもらう必要があるのではないか。上手く補強ができていないものは、壊れてしまう可能性もある。その後修復可能ならば問題なかろうが、その前に運命の力が強力であれば、事前に対応可能なのではないか。
 村上春樹は一人っ子だそうだが、そのことでの影響は確かにあるのかもしれないとは感じた。僕自身は6人兄弟の三番目の二男坊だから特にそう感じるのかもしれないが、出てくる人物のきょうだいなどの影がやたらに薄い。それに個人個人がものすごく孤独である。確かに大人になると肉親との付き合いはそれなりに減る。減りはするが無くならない。それが(僕が感じているだけかもしれないが)ある程度は普通の家族の中の個人という状態であって、天涯孤独という状態は、ものすごくまれな人の特殊な状態なのではないかと思う。しかし、その人を丁寧に書いていくにしたがって、そういう状態がますます希薄になっていく登場人物たちを眺めていて、やはり特殊な人たちばかりが登場する物語という感じを抱かざるを得ない気がするのだった。よくもまあ揃いも揃って孤独なものよ。彼らが集まっても結局はバラバラにしかならない。皆違う道を歩むしか無かろう。
 人間は最終的に一人だということは確かにそうだ。そしてその孤独というのはなかなか厄介だ。しかし村上作品は、そういうことを特に好んで共感を求めているきらいがある。少なくともそういう感じは確かにある。しかし実はそれが大きな共感があるらしく、多くの支持を得ているようなのだ。僕自身を鑑みても、その共感の大きな柱は、孤独への希求のようなものなのかもしれないとは感じている。誰も認めてくれなくてもかまわない孤独な自由。しかしそれは誰かが説明してくれなくては上手く表現することができないのだ。
 村上作品に上手くとっつけない人がそれなりにいるのはよく分かる。そういう共感に冷めたものを感じてしまうからではないのか。どこか白々しいものを感じてしまうのかもしれない。しかし、村上作品が求められ成功しているというか、これだけ影響力があるということには、おそらく誰もが持っている個人的な欲求を代弁しているからだということが感じられる。うまく説明できないし分かってもらえない心のひだのようなものを、作中の人物がある意味で語ってくれるからではないのか。読書はある意味で現実逃避だ。普段は活字を読まない人まで巻き込んでしまうのは、それはブームのなせる業であるとはいえ、そのままある程度引き込んだまま離さない村上作品の魅力は、そのような人たちの代弁者だからではないかと、薄々僕は疑っているのである。
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