カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

虎ノ門~新橋へ

2018-05-31 | 散歩
 総会終わり。やっぱり用事をひとつでも消化すると少しはホッとしますね。こういうのを繰り返す人生だけど、一つ一つが終わればいいのさ。



 当初はどこか河岸を変えて散歩しようと思ってたんだけど、時間的に二時間も余裕があるわけではなさそうで、じゃあやっぱり歩いてみるかとなるわけです。



 このあたりは僕が二十代に出張していた頃とは、少し変わってるんですよ。



 当時別団体の会長さんだった人が、このあたりで娘の結婚式をしたというお話をされていました。その建物は、もう既に無いようで、建て替えが進んでいるようです。その会長さんだった人は既に故人。僕も業界人として古くなっているはずですよね。変らず通わさせていることだけが変わらないということで、僕もいずれは消えてしまいますのでしょう。
 とまあ、妙に感傷的になったところで、街は変化するんでいいのです。ヨーロッパの価値観としては、古いものを残そうとするコストがかかるのですが、日本の場合(戦争で破壊されたので仕方なかったのですけどね)、どんどんやりかえるので、その時に生きている人にとっては、活力になって良いという話を聞いたことがあります。同意できないのが現代人であるのは分かってますが、僕は古臭い人間ですので、どんどん新しくなる方がいいと思います。若い人にはついていけないぜ。



 本当の完成形なんて僕が生きている間には確認できないだろうけど、それが生きているということなんですよ。だから再構築というのは、頑張ってやってほしいと思います。



 
 ここからも東京タワー見えますね。父が就職した頃に建設されていた建物だったそうで、今はスカイツリーですからね。これが無くなる日が来ても、僕は歓迎したいです。



 朝散歩したところにだんだん近づいて来ましたよ。





 ほら、もう飲み屋街です。





 で、駅に着いちゃった。



 実は風邪ひいてて、鼻水が凄くなってて、具合も悪くなってたんですよ。空港で薬局探そうっと。



 こっからだと空港直通。便利なのです。



 空港着いたらインフォメーションのお姉さんに教えてもらって薬局行きました。
 薬を買うと同時に飲んで、何とか落ち着くのを待ちましょう。



 ちょっと頼まれてたおみやげも買って、落ち着いたとこで一服。
 何やら聞いたことがあるな、と思ってジュース代わりに出汁飲みました。
 鰹節の汁って感じではありましたが、まあ、そうですからね。なるほど、なるほど。



 みんなそれぞれに帰ります。おみやげもいっぱい持って、大変だよな。





 帰ってきた。大村の方が少し涼しいかな。また来週も出張だし、地元も総会続くし、頑張らないとね。とりあえず、風邪治さなければなりません。

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女は強いとはみんな知っていることだ   ワンダーウーマン

2018-05-30 | 映画

ワンダーウーマン/パティ・ジェンキンス監督

 アメコミの実写版。女性監督で女性主演映画としての興行成績が歴代1位とのこと。しかしながらいわゆる女性的な映画では無く、男の子向けのアクション映画という感じではある。主演のガル・ガドットはイスラエル出身で兵役経験があるとのことで、動きのキレはかなりいい。ほとんどCGとはいえ、基本的に戦いのシーンの動きが様になっていると思った。最終的には漫画のドラゴンボールみたいだったけど。
 時空か何か垣根のある世界で、女性だけの王国があって、そこで戦闘能力を鍛えられた人たちがいた。何かのはずみで第2次世界大戦中に兵士たちが迷い込み、そこでそこの王女がこの大戦の悪の張本人がいるという確信を得て参戦する。銃などの近代的な武器は使わず、馬を駆り弓や剣で戦う。悪より愛の力が強いという理屈らしいが、結局腕力で相手をねじ伏せてしまう。最終的には少し悲しい結末にはなるが、そういう怨念があってこそ、人間は力を発揮できるという事なのかもしれない。
 お話に特に感心することもないし、アクションは確かに凄いけど漫画チックすぎるし、どうなのかという疑問も無いでは無かった。しかしながら重厚感と主人公の女優さんの美しくも強いというのは、映画的には観て損はしないという事だろうか。もっともこのような戦闘を行うにおいて、肌の露出が多すぎるのはよくないとも思う。やっぱり怪我の危険も多いし、必ずしも暑すぎる環境でもなさそうなので、服はちゃんと着て戦って欲しい。いわゆる女性的なハニートラップで相手を欺くようなことはしない訳で、そういう正々堂々とした感じが、女性監督という事になるんだろうか。よく分からんが。
 また、こういうお話の人間離れした力の出所については、もう少し映画的な説明も必要だという気がする。漫画だからそれでいいという話では無くて、魔力を身に着ける何かそういう人間とは違う特殊性について、良いアイディアがあればいいのに、と思う。人間との能力のあまりに違うところを見ていると、正直に言って少しシラケるようにも思う。凄すぎて、脱力してしまうのかもしれない。まあ、こういう人が味方についてくれると、助かるには違いないのだろうけれど。
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日比谷公園レトロだな

2018-05-29 | 散歩
 この暑いのに、皇居の周りはけっこうランナーが走ってます。張り切ってまんな~。



 公園に入ります。



 心字池。もともとこの場所は池だったことと、池の形が心という字を崩したものに似ているためだという。本当だろうか? まあ、そうなのであろうが。



 何かイベントのような準備してましたね。いい雰囲気の建物でもありました。



 第一花壇、ペリカン噴水です。



 水飲み器、水飲み場らしいです。現在は水があるわけではないですが、馬などの家畜が水を飲むところのようです。鳥なんかも水浴びするようでありました。デザインが素晴らしいです。





 電灯もレトロ。時代もんって凄いですね~。



 ここから外に出て二重橋とかにも行けるんだけど、暑いからね。出たくないです。



 ほら、公園は緑いっぱい。やっぱりだいぶ涼しいですよ。



 あれがさっき見た高いビル。後で調べたら、東京ミッドタウン日比谷っていうそうです。遠くからでもひときわ高いね。



 自由の鐘です。アメリカから贈られたそうです。まあ、そういう価値観を共有している国ということであればいいのですけど、言いたいことを言わなければ、それなりに自由という国なんで…。まあ、自由ですけどね。僕はいいことだと思ってますです。



 で、公園を後にして、霞が関あたりで総会でありました。
 僕らは昨日会議してますので、特に質問ありません。あってもいいんだろうけど、あるんだったら昨日にしておくべきことです。あっても質問したくないし、こういうのはあんまり張り切ってもいけません。それがダメだという人もいるけど、そんなことは無いと思います。僕らが時間と金を使ってこんなことをやっているのは、無駄に付き合う民主主義を守っているからです。手続きをおろそかにせず、黙って責任を共有するわけです。それができなければ、糾弾だけして時間を浪費することになります。別段批評的に何かを言いたいわけではないですが、そういうことをやるからシステムが保たれている面があると思います。僕はあと一年、そういうことに再度付き合う役割を担っているということなのです。

 ということで、遅めの昼食はお弁当。何やら豪華でしたよ。半之助って書いてありますね。ごちそうさまでした。




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ズラばかりでてくる   ベルサイユの宮廷庭師

2018-05-28 | 映画

ベルサイユの宮廷庭師/アラン・リックマン監督

 今作品でルイ14世役をやっている人が監督も兼任している。2年前に膵臓がんで亡くなっているようだ。
 ベルサイユ宮殿の庭を巡って正当なものと斬新さをどのように調和させるのかという庭師たちの葛藤と、その過程においてお互いに惹かれあい恋仲になってしまうお話。人間関係なのでそれぞれに事情があるようで、過去を清算する物語ともいえるかもしれない。
 伝統を守りながら正当な美を追求する宮殿の庭師に、公募で噴水の庭の部分を女性の庭師が担うことになる。最初は自分の正統的な美学を何か馬鹿にしているのではないかと考えていたフシがあるが、同時にその斬新性が気になって仕方なかったのだろう。女性は事故で夫と娘を同時に亡くしていた。その心の傷をどうするのか、という事も筋の一つになっている。
 嫉妬が絡んだ妨害などもあり、工事は難航する。ルイ14世は基本的には伝統美を愛する人である。時に崇高な会話の妙があり、OKなのかNOなのかよく分からない感じもあるが、それは僕が上流階級の出身で無い所為だろう。
 男女の仲においては多少のご都合主義もあるようにも感じたが、静かながら抑えられない愛の行方を描いた佳作である。使われる音楽も美しく、もちろん庭園も美しく、リッチな作品であるかもしれない。
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日比谷の映画館が多いところ

2018-05-27 | 散歩
 目覚めたら、なぜか調子が悪い気がする。気がするが、飯でも。
 ホテルの2階がガストになってて、そのまま朝食会場になっていた。



 食べたら散歩。方角は適当と思うが、朝から暑いので日影が多かったらいいな、と。



 通勤の人達もたくさん歩いている。あんまり逆らって歩けないな。



 東京タワーも見えます。



 このあたり、前回も歩いたんだったな。結局来ちゃって、記憶力悪いです。



 一応ぐるっと戻ることにする。



 夜は賑やか、朝も賑やか。



 駅前に戻って来て、烏森神社。参拝してる人、けっこういました。





 朝の散歩にはちょうどいいくらいかな。なんとなく調子がいいのか悪いのか分からなくなるくらいは回復した気がしました。
 一度ホテルに帰って身支度しなおして、総会前にまだ時間あるんで、再度散歩に出ました。





 今度は朝とは取りあえず、反対方向です。





 帝国ホテルですな。



 ちょっと行くと、前回は工事中だったゴジラが完成してた。



 僕以外にもサラリーマン風の男性が写真撮ってました。



 何かイベントがあるのか、広場には結構人が集まりだしている感じでした。ビルも高いんだよね。



 しかし陽ざしは厳しい。涼しいところを探さなければ。

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田舎の壮絶ないじめ問題   少年時代

2018-05-26 | 読書

少年時代/藤子不二雄A著(中公文庫コミック版)

 原作の小説があるという。富山で疎開している東京の少年が体験する、壮絶ないじめ支配と友情を描いた作品。ベタの多い作風と内容が混じって、実に陰湿で重苦しく気分の晴れないストーリー展開である。僕はある人の書評で感動したらしいことを読んで、気になって手に取ってしまった訳だが、そういえば藤子不二雄A作品ってこんな感じだったな、と改めて思うと共に、大変に暗い気分に陥ってしまった。大人になってしまった人間にとって、この子供時代の陰湿さはとても耐えられないやるせなさを感じるものだ。僕は疎開したことが無い(当たり前だ)のでよく分からないことだらけだけれど、かわりに田舎の生活はよく知っているはずだけれど、こんな暗い少年時代というのは、ほとんどわからない。日本に生まれてきて(たぶん日本じゃなくても同じような世界はあるだろうけど)、とても嫌な気分になるようだ作品だった。
 東京から疎開してきた、頭は良いが気が小さい少年は、非常に腕力が強く頭の良いタケシが支配する学校社会で、毎日苦しめられることになる。タケシの力は絶大で、グループを支配しているだけにとどまらない。多少の年上であっても腕力でねじ伏せてしまうし、数人程度ならものともしない。物語の後半においては、タケシの人間らしい面もやっと見ることが出来るが、基本的に自分の感情を鎮めるためだけに、まわりの人間を簡単にいじめ抜く心情をもっている。東京少年進一は、そういうタケシに支配され憤りをいつも感じているが、少しでも優しくされると、友情を感じて心を落ち着けることが出来る。支配される人間としてたいへんに卑屈になっている訳だが、そういう描写においては、もの凄く細かく漫画として描かれている。これは確かに誰しも胸の内に持っている感情には違いないのだが、だからこそというか、非常に心がかき乱されるようなことになるのかもしれない。疎開だからいつかはおしまいになるだろうという事は予感としてあるが、その一時の時間だからといって、気分の晴れるようなものにはなっていないように感じた。もちろん物語はなんとなく感動的なのだが、その心情はとても僕には分らないし、こういう世界が終る事こそが、人間性にとっては非常に大切なことなのではないかと考えてしまった。
 いまだに子供社会でのいじめというのはあると思われるが、いくら田舎でも時折行き過ぎたときには大人が顔を出すこともあったようだ。それで解決しているようには見えなかったが、恐らく都会ではこのようないじめが少なかったことを考えると、大人の介入があれば、このような子供社会も生まれないのではないか。最終的には腕力で無いものの力がこの世界を壊滅させるわけだが、それはやはり背景に大人社会の事情があるような読み取り方もできると思う。戦時中の閉塞感は、このような子供社会をつくることにもなったという事なのではないだろうか。
 子供の頃だったら多少はこのようなブラックな話を読んでも楽しいかもしれないが、大人になったらもう少し健全なものを読んだ方がいいように思った。とにかく読んでいてつらかったです。藤子不二雄Aは、そういう意味でさすがである。
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雨だし怪獣だし

2018-05-25 | 散歩
 今回の出張はちょっと遅めの出発。



 外は雨でありまして、現地も雨との情報は聞いておりました。



 飛行機に乗る時にやっとA部さんの姿を確認いたしまして、そうして羽田でやっと合流致しました。結局京急で新橋まで一緒になって、じゃあ遅めの昼食でも、ということになったのです。
 で、入った店がちょっと変わったところでありました。



 まあ、なんというか、恐ろしいわけではないが、何でしょうね、この雰囲気は。



 で、ランチですから、その中からビーフカツを選択。



 思った以上にボリュームがあって、ヒーフーいいながら食べました。旨いというより、格闘しました。



 テーブル前にはこんな人もあったりして、いろいろ演出がありました。僕の世代より少し上の文化だと思いますが、若い人も面白がっている感じはするですね。ノスタルジーより、目新しさもあるのかもしれません。



 しかしながら、やっぱり外は雨でして、会議までどうしましょう。



 とりあえず、今回は事務局が新橋にホテルとっておいてくれてまして、助かりましたし、余裕がありました。



 いつもの新橋、サラリーマンの聖地。まあ、僕も少しはここに属しているかもなあ、なんて思うここ数年です。



 雨のおかげで、気温は高いけど歩ける感じですかね。助かりました。








 ということで、会議に参加して,さらに懇親会もそれなりに盛り上がり、有意義でありました。今回の目的は、ほぼ果たしたということになっていいんじゃないでしょうか。



 でも新橋は生きてるんですよね~。でも一人ですんで、やめましょう。ここがいわゆる個人的な勝負どころでもあるんです。



 ですからね、コンビニ寄って部屋飲みにしたのです。もちろん、シャワーも浴びたいっていうのもありましたね。雨とはいえそれなりに汗をかきました。明日にも備えて、お休みなさい。
 
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見たことないがちょっと昔の風景がよみがえる   諌早菖蒲日記

2018-05-24 | 読書

諌早菖蒲日記/野呂邦暢著(梓書院)

 著者が棲んでいた古い家に残されていた古文書をもとに、多少のフィクションを交え書き起こしたという。時代小説になっていて、当時の諫早藩の様子が15歳の武士の娘の視点から蘇る構図である。佐賀のおそらく鍋島藩の圧力を受けながら、砲術指南役の父の苦悩の姿を中心に仄かな恋心も交えた娘の心情が描かれていく。
 著者の野呂は故人だが、お隣の町・諫早の産んだ文士として、いまだに地元では根強い尊敬を集める作家である。しかしながら作品のほとんどは絶版で、古本では高騰していて手を出しにくい。今作は新装版として再出版されたものを、数年前に僕が買っていたもののようだ。そして三分の一程度読んで、放り出してしまったようだ。そういえばと思ってまた手を出してみて、今回はちゃんと読了に至った。時代ものなので当時のものを表す漢字など、読みずらいものがあるのは確かだが、むしろこの丁寧な筆運びが、やはりこの作家の持ち味でのようで、慣れるとその文の行そのものにも愛着が持てるような名文と言えるだろう。
 また、当然だが諫早の地名やその当時の様子が克明に描かれていて、今の姿を知っている地元の人間としても、なかなか楽しめるものになっている。干潟の多い海でも様々な魚がとれていたことも見て取れて、武士の台所事情なども分かって興味深い。
 巷にある歴史小説は、著名なものの史実を焼きましたもの、または剣術などの活劇ものなどに大別されると思うが、庶民の中の静かな生活(これも武士のものではあるが)をこのような姿で小説化された作品というのは、そんなに多くは無いと思われる。地味と言えば地味なのだが、何か物語そのものが終わって欲しくないような連続性が心地よい話ともなっている。静かだが人々には悲哀があり、そうしてかすかな明日の手ごたえがある。その後の時代を僕らは知っているけれど、失われた幕末の地方の藩に暮らす人々のことを、一体本当にどこれくらい知っているというのだろう。もちろん地元の人間ということが大きいのだろうと思われるが、諫早の昔、ご先祖の暮らしを垣間見ることのできる、数少ない機会なのではないだろうか。
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こだわりの嫌悪

2018-05-23 | ことば

 自分自身では、特に物事にはこだわらない性格であると思っている。しかしこの、「こだわる」という言葉自体が好きでは無い。こだわったからなんだというのか。食い物にこだわりがあるのは煩わしいし、何かのうんちくというのは、興味が無ければウザったいだけである。みんなそう思っている癖に、こだわりがある方がいいと思っている人が居そうである。そういう感じがとても嫌で、こだわりという言葉がさらに嫌になる。人がしあわせになる為には、こだわりを捨てることだと仏教では教える。物事のこだわりが、しあわせを阻害するのである。皆が仏教を信仰している訳では無いから教えを知らなくて当然で(実際僕も知らないが)あるが、そういう感覚を知ることは有用である。
 しかしながら、こだわりは簡単には捨てられないのである。だからしあわせは遠い。別にこだわりたくないのにこだわってしまうのが人間性で、何もこだわりが無い人間というのは既に人間なのかは疑わしい。食い物にこだわるのは煩わしいと最初に書いておきながら、やはり刺身は醤油で食うべきだと思っているし、朝から納豆を食いたいという人だって相当いるだろう。そうしてそれが当然と思う人とそう思わない人がいる。どちらにもこだわりがある訳である。
 もっともこのこだわりというやつは、恐らくもっと極端なものを指しているとは思う。黄色い傘で無いと雨の日に外に出られないだとか、コーヒーを一杯飲まないと寝られないとかいうものは病的にも思えるが、いわゆるそれがこだわりだ。それは個人の趣向性として際立っているものであれば、面白くもあり楽しいという事かもしれない。そういうものを全部ひっくるめてこだわりを嫌っている訳では無いのだが(むしろそういうのは好きだが)、こだわりがいいことであるという感覚が、どうにも引っかかるのかもしれない。
 恐らくだが、物事を突き詰めて考えていて玄人っぽいところにいったものをこだわりと認識しているようなものが、なんとなく嫌なのかもしれない。いや厳密には、そうであるならばそれは素晴らしいはずなのだが、実はそんなところに行っていない人がこだわっているようなことが、嫌なのである。そういう境地に達していないにもかかわらず、本人はこだわりの末にそう思っているらしい感じである。
 まあ、勝手なんであるから、そんなことは放っておけば済むことである。実際ほとんど放っているが、心の中で嫌気がさしている。何というこだわりの心であろうか。そういう自分が嫌で、こだわらないと勝手に思っているのかもしれない。
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世の中のために今やれる最善のことは何か   ヒトラー暗殺。13分の誤算

2018-05-22 | 映画

ヒトラー暗殺。13分の誤算/オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督

 原題は「エルザー」。主人公のゲオルク・エルザーの名前である。ヒトラーが演説をする会場に強力爆薬を仕掛け暗殺を試みるも、ヒトラーは既に移動して13分後に爆発。巻き添えで他の8人のが犠牲になった。すぐにこの男は囚われる。拷問等を受けるにもかかわらず、なかなか口を割らない。地元に残していた愛人と少し面会させると、彼女を守る為かやっと供述を始めることになる。ナチスとしては組織的な関与での暗殺計画を疑っていたが、ゲオルクの語る内容は、完璧なまでの単独での犯行のあらましだった。
 先に爆発があって、捕まった後の取り調べの様子と前後しながら、犯行に及んだ男の過去にフラッシュバックされる。地元のやや革新的な立場の若者集団に属していたとはいえ、非暴力で音楽家で、少しばかり女ったらしのようなところがある。何人かの女たちとも付き合っていた様子だが、暴力的な飲んだくれの夫を持つエルザに心惹かれていく。この人妻は生活の為もあり夫を拒むことが出来ない。一方ゲオルクとの関係にも溺れており、身ごもった子供の名前をゲオルクにする始末である。
 戦禍は拡大し世の中はナチスの影響力が強く、閉塞感が広がっていく。ナチスの宣伝に田舎町はよりナチスへの結束が強まっていくが、キリスト教の戒律の問題なのか主人公はそれらとは一定の距離があり、英仏の参戦を招くと、ドイツはひとたまりもないと予見している。そのような戦争の悲劇を最小限にとどめるためには、多少の犠牲があろうとも、ヒトラーを暗殺するより無いという考えに至るのである。自由な世の中というバランスが崩れることこそ、将来の悲劇が大きくなることを、この時代に理解できていた数少ない人間だったのである。
 好きな女とは不倫関係で、夫との強圧的な関係の中、簡単には連れ出すことが出来ない。また戦時下でもあり、移動も危険が伴う。隣国のスイスにも、簡単には逃れらえないだろう。人々を巻き込むリスクより、まったく独自に爆薬を調達し、時計仕掛けの時限装置を自作する。そうして総統のスケジュールを把握し、会場を視察して爆薬を仕掛けることにも成功する。ただし霧の影響があって、ヒトラーの演説は少し早く切り上げられることになってしまい、結果的にはヒトラーが移動した後(13分後に)爆発に至ったという事なのであった。
 個人にとってどのように生きるのが重要かということは、かなりの議論が必要だろう。特に異常な体制下においては、安易に命を落とすことに繋がってしまう。その中でどの程度の自由なら自分は生き延びて行けるのか。そのために今何をすべきなのか。そういうものを、少なくともこの映画は問うている。その今を逸した人間は、少なからず時代の波の中、別の状況で暗殺される運命かもしれない。恐ろしい映画だったが、きわめて現代的な示唆を残すメッセージ性の高い作品ではないだろうか。
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体操には意味があったのか!

2018-05-21 | 掲示板

 今ではとても信じてもらえそうにないことだが、若いころには運動もしていた。最初はサッカー部で、これは小学校4年くらいから始めた。高学年になったらちゃんとレギュラーでも活躍できていたと思う。中学は野球をちょっとやって、長距離に変更した。高校はハンドボール。これは万年2軍だったから、向かなかったのかもしれない。社会人になっても時々サッカーなどはやっていて、よく走っていた。もともと長距離が得意だったこともあり、スタミナが無い訳ではなさそうだった。
 しかし、この運動部時代は、(ウォーミング)アップが嫌いだった。というか、体操全般が嫌いというか。理由はめんどくさいというのが一番で、そんなまどろっこしいことしないで、はやく本番に入りたい。準備運動しないと怪我したりベストの動きが出来ない、とか言われていたけど、まだ若いのでそんなことが本当に関係あるなんてとても信じられなかった。むしろ準備運動なんかで体力を消耗するのがもったいないような気分があった。すぐに動けることは、準備しなくても分かっていると思っていた。単に儀式的にやり過ごして、実に適当にやっていた(やらなければ怒られるから)。出来るだけ感情を殺していることも考えていた。また、嫌嫌やることで、少なからず抵抗している気分があったのかもしれない。
 ところが、である。やはり年を取ると、体操にはそれなりに意味があることを実感するのである。準備運動しないと本当に体が上手く動かない(体操しても上手く動かないけど)。それにある程度体を伸ばしたりしないと、転んだり筋を痛めたり本当にしてしまうようで怖いのだ。
 指導者や先輩たちは、やはりそういう実感もあるので、しきりに体操をさせたがったのではないか。また下手に怪我をされても困る。当時は分からなかったが、分かるようになることだったのである。
 ラジオ体操なんかダサいな、とずっと思い続けていたが、ラジオ体操で救われる人たちはたくさんいるのかもしれない。朝から体操して気分のいい人たちの気持ちが、分かる世代になってしまったのかもしれない。
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実話だから描ける異常性   ハクソーリッジ

2018-05-20 | 映画

ハクソーリッジ/メル・ギブソン監督

 実話をもとにしているらしい。まあ、映画にはありがちな設定だけど、確かに観終わってみると、これが事実でなければ映画的にはかなり変である。実をいうとそれくらい作り話っぽい作品と言えるかもしれない。非常識というか…。
 主人公の男は、子供のころの体験や、恐らく宗教的な信念のために、絶対に人を殺してはならないと心に決めている。まあそういう体験が無くても普通は殺してはならない、くらいは思ってる人が多いだろうけど、ちょっとそれは異常なくらい思い込んでいるという設定なのである。
 そうでありながら日本との闘いが激化している世情の中、衛生兵なら自分なりの役割があるかもしれないと考えて、陸軍に志願する。体力的にはいい成績を残しながら、銃を手にすることを拒否(殺す道具だから)。理解できない(当然だが)上に一緒に戦うと危険を伴うため、上官や仲間たちから執拗な嫌がらせを受けるが、考えを変えない。上官からの命令拒否という事で軍法会議にもかけられるが、良心的兵役拒否権というものが認められ、辛うじて戦場に赴くことが可能になる。そうして沖縄戦に行ったのであった。
 映画としての見どころは、この激烈な戦闘シーンであろう。人間が肉として粉砕され飛び散っていく。それが戦争の姿ということだ。累々と重なる死体を踏み越えながら、前線を進んでいく。殺しても殺しても敵はゾンビのように湧いて出てくる。日本兵は米兵とは違って死を恐れていないように見える。そうして容赦なく米兵も殺されていく。多くの負傷した兵隊が倒れて動けなくなり助けを求めているが、下手に動くとやはりやられてしまう。この世の地獄なのである。そういう中にありながら、主人公は衛生兵として負傷した兵隊にモルヒネを打ち、止血処置をして運び出して助けていく。自らの危険を顧みず次々と命を救っていくのである。
 まあ、米国人から見るといい話なのである。尋常でない働きをして、多くの命を救う奇跡の実話なのである。
 ところがこの映画。正直に言ってかなり変である。映画を観ながら頭を離れなかったのは、この主人公が馬鹿に見えてしょうがないことである。信念は尊いという事かもしれないが、ここまで来ると異常であり、軍法会議で処罰されて当然という気もする。恐らく宗教的な忠誠という意味が監督の趣旨としてあろうことも分かるし、いわばキリスト的な人間として受難を描いているとも考えられる。それは分かるが、だからといって素晴らしい映画の出来栄えかというと、単に異常性が際立っているとしかいいようが無い。だからこの人間は、バカにしか見えないという事である。ひとの命さえ馬鹿にしているようにも見える。そんなものより宗教心や信念の方が大切と言わんばかりである。
 世の中には確かに変人はいるだろう。この人は、多くの命を救った良い人だったから良かったのだろうか? このような頑なな信念の人は、他の人々に軋轢を生む存在なのではないか。事実激しいいじめにあうが、彼らだって本当は人を殺したかった訳では無かろう。自分の信念は、自分自身が抱いていればいいだけのことだ。宗教が時に周りの人に厄介なのは、このような問題であるという気がしてならないのであった。
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今の能力を楽しんでください

2018-05-19 | HORROR

 今思い返してみると、まったく理解していなかった未来の驚きに、老眼という現象がある。ご年配の人が、何か文字を読むのに苦労している。そういう光景は目にはしていた。まあそういうものかという思いはあったのだろうけど、まったく共感として分かっていなかった。ちょっとくらい読めないことがあったとしても、ふだんは普通に生活しておられるように思っていた。むしろたいした問題では無い将来、というくらいしか認識していなかったのではないか。
 ところがこれがあんがい厄介なんである。僕はもともと近視だから、眼鏡を外せば行動に制限がある。車の運転などは、大変危険だろうと推察される(危なくて眼鏡無しの運転など試せないが)。それに以前は、不確かな情報ながら、近視の人は遠視(老眼)は緩和されることがあるという話も聞いたことがあった。確かにメガネをはずしてモノを近づけてみると、ある程度は見えるというのはある。でもこれは厄介なことだし、めんどくさいことこの上ない。それにそうやって見たとしても、やはり焦点が上手く定まらないような対象がたまにある。そうやって見ないことにはどうにもならないので仕方なくやっているが、イライラする場面は結構ある。
 眼鏡をかけていて見える世界は、眼鏡をかけていて見えている世界に限定されている。生活の中でものを見るという事では、その距離感であるとか、光の加減であるとか、当然外的な条件によってさまざまにある。しかしながら長年の勘のようなものがあるから、適当に視覚の不都合を補って、生活しているに過ぎない。多少見えていないものがあっても、特に注意しなければならないもので無いのであれば、もうあきらめて端折って適当にやり過ごしているのである。遠くのものがある程度見えていても、急に足元が見えづらいなどの危険は、だからものすごくたくさんあるのだ。
 若い人達よ、老眼を侮ってはならない。例外はあるのかもしれないが、多少長生きした将来において、恐らく体験することになるはずである。そうして聞くところによると、スマホなどを常時扱っているような人ほど、老眼の度合いは早く進むことがあるらしいのである。これは単なる脅しでは無い。そしてそれは、これからの僕の将来においても、更に加速度的に不便になるかもしれない恐怖でもある。世の中がきれいに見えているような時間というのは、実はそんなに長いものでは無いのかもしれない。せいぜいその時間を大切に過ごしてもらいたいものである。
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やっぱり一夜の恋は必要だ   ロイヤル・ナイト 英国王女秘密の外出

2018-05-18 | 映画

ロイヤル・ナイト 英国王女秘密の外出/ジュリアン・ジャロルド監督

 1945年の5月9日は、ヨーロッパでは、ドイツが降伏したことを受けての戦勝記念日になっているらしい。まさにその当日勝利に沸き立つ市民の中に、英国王室の娘であるエリザベスとマーガレットは外出を許されることになった。そのような史実をもとに膨らませたロマンチック・コメディーである。
 まず当然思い出されるのは「ローマの休日」だろう。一国の王女が内密に外出するとどうなるか。どこの国もセキュリティの関係もあるので仕方無いことなのかもしれないが、若い人が閉じ込められて暮らしているところというのでは同じようなものらしい。豪華な暮らしながら、事実上軟禁されているような生活に、若い女性である二人は耐えられない思いを抱いていたのに違いない。それだからこのような物語が想像される訳で、ロマンチックなだけでなく、確かに痛快な感じがある。儚い命の躍動があり、決して本当には知らされることのないロマンスやミステリがあるのかもしれない。しかしながら本人の一人はまだ生きておられる訳で、こういうのを観て楽しむことが出来るんだろうか? 感想を聞いてみたいものである。
 実際によくできた物語で、お話は楽しくもどんどん破壊的な方向へ進んでいく。何かこう少し踏み外すようなことになると、とてもコメディでは済まされないギリギリのところで危機脱出するようなスリリングさがある。さりげなく英国皇室や戦争そのものの批判も取り混ぜてあったりする。水戸黄門のような大権力で人々をひれ伏せさせたりもするが、日本のそれとは違って、ちゃんと権力のやり過ぎについては控えるところも忘れていない。ローマの休日は名作過ぎて神格化していると感じるが、より現代的で破天荒で爽やかなロマンスとして、もっと評価されていい作品ではないだろうか。星をつけるなら、迷わず満点の娯楽作である。
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伝説の男になりそびれた

2018-05-17 | HORROR

 人前で話すのはもともと得意ではないし好きでもないが、立場上浮世の義理もあってやらなければならないことがある。それなりに回数をこなしているは間違いなくて、緊張はしているが出来なくもないという気分でいるようにしている。そうしなければ心が折れそうになるからだ。やはりやり過ごす心情を持たなければ、とても体がもたない。
 ところがそれでも大変な境遇に立たされることがあって、先日そんな感じのスピーチの場があった。いわゆる来賓あいさつである。
 式典で最初から壇上に席が設けてある。テーブルの前に、いわゆるふんどしが下がっていて、僕の名前も書いてある。当たり前だが、その後ろの席に座らなければならない。リボンも胸につけられている。僕を知らない人でも、僕はどんな人だろうと思うだろうし、僕を知っている人だって、僕がどうなってしまうのか心配に違いない。こんなところで落ち着いて座っていられるわけがない。でも順番があって、さらにしかるべき式典の手順が終わらなければ、降壇できないらしい。
 僕は来賓としては5番目に話すらしい。これも当日知ったことだ。政治家が3人と、業界の九州の会長さんが隣だ。皆さんはそれなりに落ち着いておられるように見える。場数が違うことだろうし、心臓だって違うはずだ。
 なんだか喉が渇いてくる。トイレにも行きたいような気がする。今朝より下痢がひどくなっている気分がする。壇上から降りてもトイレが遠いと思う。ここで漏らしたとき会場の人はどんな顔をするだろう。小学校の遠足の時に野グソをした同級生がいたが、成人式の時にもそのあだ名で呼ばれているのを目撃したことがある。僕の一生は間違いなくそのような漏らした男として語り継がれていくことだろう。もしかしたら死後にも語りつがれることになるかもしれない。残された家族に申し訳ない。息子たちはそのことに耐えて生きて行くことが出来るのだろうか。
 苦しい時間は長かったが、順番が来て話し出した。すぐにつっかえて、何と自分の所属する立場の団体の名前すら間違えてしまった。どうなるのか、オレ。
 という感じだったが、もう5番目の挨拶だから前の人が一通り話すべきことは話してしまわれていた。なんとなく話そうと思っていたことは、尽きてネタが無かった。もうこれは自分語りネタで行くしか無くて、子供のころの思い出から、大胆にも話すことにした。でもそれは、たぶん誰も知らないことだから、自由と言えば自由だ。
 という事でなんだか話が逆に長くなっている感じがしたので、適当に止めて〆た。終わってみると解放感があって、まだ話してもいいような気分さえする。相変わらず馬鹿な奴である。
 でももう呼んでほしくは無いな。考えてみると、式典はこれからもたぶんあると思われる。次はトイレの近い席だと、精神的に助かるんだが…。
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