カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

奇跡の出会いを体験する   ビフォア・サンライズ

2014-08-31 | 映画

ビフォア・サンライズ/リチャード・リンクレーター監督

 「恋人までの距離(ディスタンス)」という邦題時代に、一度観ている。夜明けまで男女が会話するだけの映画でありながら、これほど劇的な感じのする作品は他に知らない。もちろんそういうことで多くの人に支持され、続編が作られ、そうして第3作目も近年高評価であると聞く。またそのような道筋を辿るためにも、また見かえてしておくべきだと考えたわけだ。
 見返してみてまた驚いたのだが、その新鮮度は落ちていなかったことだ。本当に最初から最後まで、なんと言うか、ドキドキしてしまうのだ。恋というもののみずみずしさが、まさにはち切れんばかりだ。会話は確かにたわいも無い。どちらかといえば女性の方が知性的で、男性の方は直感的だ。というか男性は自分本位に自説をぶち(なんともアメリカ人的だ)、女性側はある一定の根拠を持った上で感性を語る。しかし共通するのはお互いがお互いに持っている好意と、そして相手を知りたいという好奇心だ。偶然に出会ったばかりの二人だから、当然のことながらお互いが相手のことを何にも知らないわけだ。たわいの無いおしゃべりをしながら、本当に徐々に相手のことが分かっていく。なぜ偶然出会ってしまったのか、そうしてお互いにいつから恋に落ちたのか。
 そういう謎解きもスリリングだし、でもその偶然性と国や文化の違いなどから、やはり夜が明けるまでしか二人には時間が残されていない。結果的に一夜の情愛は確かめられたようだけれど、それだけが目的だったわけでもない。今のみずみずしい感情は宝石のように貴重だが、しかし本当にこのまま離れてしまっていいものだろうか。時間の経過とともに、なんとも切ない気分がせき止められず溢れようとしている。
 恐らく、この時点で続編は意識しては居なかったのではなかろうか。この映画だけでも非常に完成度が高いからだ。この映画を観て、このような出会いを夢見る人は相当数に登っただろうことも予想される。しかし、このような奇跡的な輝きが、本当に一夜の出来事として起こりえたかは分からない。それはまさに「ローマの休日」へのオマージュだろうし、このような展開だからこそ、いつまでも甘い感情が色あせないのだろうとも思われる。
 しかし、人間の情愛というものは、思い出だけにあるわけではない。人間はいつでも今を生きているわけだ。そうして、今を生きるなかに、離れたくないパートナーも居るということだ。結婚は制度上のものだけれど、恐らくその基本的なところでは、そのような感情を形に変えたものでもあるだろう。もちろんこれに家が絡むと少し別の文化論になってしまうが、結婚という制度を利用しなくても、離れたくない感情こそが、二人を支えていることは間違いなかろう。たとえ一時顔も見たくないような状態になろうとも、それが一時のものだということを知っているからこそ、その次の時間を共有することが可能になる。そのスタートというか根拠というか、そういうものが詰まっているのが、他ならぬこの作品なのである。だから恋にはこれだけで十分ということが(もしくは不十分)分かるわけだ。
 しかしながらお互いがお互いそのように思ってくれるというは、やはり奇跡的なことのようにも思える。実はお互いの許容の問題もあるんだろうけれど、それをいえばシラけるので止めておこう。二人だけの奇跡があるからこそ、そのことを信じられるからこそ二人には未来がある。たとえそれが勘違いであろうとも、二人にとっては真実なのだ。
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この不自然が成り立つ世界の不思議

2014-08-30 | 雑記

 僕が単純に不思議だな、と思うのは、朝日新聞がつぶれないということである。いや、言い換えると、人気があるらしい、というのもあるかもしれない。巨大な会社だし、そんなの当たり前だ、と思う人の方が多いのかもしれない。そういうことも含めて、かなり不思議だ。
 国をあげて仲の悪くなる原因を、それも故意に嘘をついてまで広めた原因があることは明確になった(というかかなり前から明確だったけど)。何しろ変な書き方にしろ、自ら認めたわけだ。いや、やったことをいつまでも認めないよりそのあたりはいいことだと思うけれど、かなり取り返しのつかないところまで問題は歪められた後のことだ。普通の企業ならひとたまりも無く粉砕するだろう。特に食品などを扱う会社だったら、不買運動は間違いなかったことだろう。メディアという最大の公権力を持っている強さということは言えるだろうけど、しかし、それでも購買数が減ることも無く、現在も日本第二(それは恐らく世界でも第二だろう)の発行部数に変わりないらしい。スゴイですね。
 ひとつは老害の問題は考えられる。新聞というのは既に老人文化である。僕も取っているので老人は無いじゃないか、という意見もあろうが、基本的に老人文化に参加しているだけのことである。今後はもうのびないことは間違いなくて、決定していることでどうにもならない。要するに老人が気にしてないから新聞を止めてないということだ。酷いとは思っている人でも、やはり止めるつもりが無いということだろうか。イデオロギーや信念があって止めていないというより、慣性の法則で止められないだけのことだろう。近所の学校なんかには苦情を言うような人でも、新聞には何も抵抗できないのかもしれない。
 そのような環境だから嘘をつけたのかもしれない。その方が面白い、つまり売れるという算段があったのだろう。事実売れているわけだ。そうすると、嘘をついた方が得だ。味をしめているので、たぶんまた嘘をつくだろう。そういうことが分かってか分からずかは知らない。けれど、購買者が減らないのなら、嘘の助長にはなるだろう。その自覚はたぶんあるまいが…。
 基本的にそういう神経が恐ろしいと思うのかもしれない。不思議の中にそのことが含まれている。反勢力があるのは自然だけれど、それがこれだけ巨大に見えて、実はけっこう無関心ということもいえる。だから大声で記事を書こうという方針になるのかもしれない。危険はそういう土壌が形成している疑いがある。
 保守系の新聞が面白くない、という原因もあるかもしれない。確かに胡散臭いこともたまにある。時折威勢がいい場合もある。それよりこのブランドの方がいいというのがあるんだろうか。まあ、それは頑張って下さい。
 まあ僕は毎日新聞なんだが、この新聞もかなり酷い。偏った思想を振り回して反省が無い。そんなことは分かっているが、僕も止めていない。それと同じことじゃないか、とは言える。地元の新聞も思想的には偏っていると感じるし、メディアというのはだいたいそういう傾向の方が強そうだ。沖縄の新聞なんて普通の神経なら狂ってるようにしか見えないが、しかしやはり新聞らしい。まあ、結局そういう人が新聞文化を支えているわけだ。だから新聞社の人間にしても、間違っているけれどそれには気付かない。そういう感性の人が勤める傾向にあるのかもしれない。それで無ければ勤まらない可能性もある。ならば最初から選択肢が無いのかもしれない。つまり諦めと慣性が強固に連鎖しているのだろう。
 それでも世の中何とかなっているようにも見える。思えば変な教育も受けてきたわけで、それでまともに育ったのかは疑問があるにせよ、多少の害悪があっても人間というのはそれなりに育つものなんだろう。バランスという面では、酷い人が6割でも、後の4割が頑張って何とか均衡を保てるという話もある。ちょっと悪いくらいでちょうどいいとは、言いたくないが現実なんだろう。身近に危険があるから緊張感を持って暮らせるということか。もちろん、朝日やその読者にそんな自覚があろうはずも無いのだが…。
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壮大な、しかし個人的な復讐心の連鎖   Vフォーバンデッタ

2014-08-29 | 映画

Vフォーバンデッタ/ジェームズ・マクティーグ監督

 今更ながら何で観て無かったかな、と思うのだが、たぶん僕は刃物で血しぶきが飛ぶような感じが苦手だからだろうと思われる。子供の頃に座頭市や子連れ狼をみていたトラウマかもしれない。といいながら、やはりそういう映画も面白いものが多いので、結局観なくてはならないわけだが…。まあ、この映画もそのひとつといえるだろう。
 ずいぶんマトリックスみたいな哲学的な説明の多い映画だな、と思ったらウォシャオスキー兄弟が脚本を書いていた。なるほど、そのようなゲイ的な美的感覚も満載で、これはきっとお仲間がたくさんおられるのだろうということも見て取れた。拷問や血の流れ方も、そのような美学ということもあるのかもしれない。だからキルビルのようにならないということだ。僕はどちらも好きだけれど、やはりどこか馬鹿映画にならず、美しくまじめなのはその為だろう。
 背景となっている政治的な物事は、リアルとしては実はどうでもいいというか、それこそが最大の幻想なわけだが、しかしそのなかで戦う動機は復讐で、しかし最終的には共感であるというのがポイントといえばそうかもしれない。扇動される気分というのは、本当に迫害を受けた側への共感でなければならない。復習はある意味で素直な感情だと思うが、多くの場合個人的に内包される側へ向かう場合がほとんどだ。何故なら法律で規制されているから。それが国家であるとか、文化であるとか、とにかく規範的なものである。しかし超法規的に復讐がなされなければならない場合があろう。それは個人的な問題でありながら、社会的に阻害されているもの、なのだ。観たら分かることなのでそれ以上はいわないが、多かれ少なかれ、個人の事情が社会的に阻害される少数者が居る。この場合権力の圧力に晒されているということになるが、実際社会では、もっと具体的でない形で、この世界を支配しているものだろう。そういう比喩を映像化するとこうなるということで、理解が上手く行かない人は、そのような脳内翻訳をすると、見えてくるものがたくさんあるのではないか。いや、感性に任せてそのまま楽しんでも何の問題も無いとは思うけれど…。
 ということで、大変に楽しい、というか。とにかく美しく、見事なカタルシスという感じだ。最初の爆発と最後の爆発はかなり意味が違って、最初も驚きは見事なつかみだけれど、最後の美学は完全に確信に応える確かなものだ。ビッグベンが壊されてこれだけ爽快な気分にさせられるという皮肉も飛躍も、この映画だからこそ許される必殺技である。これが米国で無いというのは製作者側の都合もあるとは思うが、むしろそのような美学において必要な要素だったのかもしれない。ナチスしかりヨーロッパ文化しかりである。重厚な歴史があって初めて、新世界は現れる。アメリカ地方ではなしえない、連携を呼びかける意味もあるのであろう。
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伝わりにくい真面目さこそ大切に

2014-08-28 | 雑記

 戦争は遠きありて思うもの、というか、戦争と遠ざかっている現在において、現実感の乏しいというのは実感としてあるだろう。
 戦争と平和という対比というか、対義語のような捉え方もある。仮に平和を定義すると、「戦争と戦争の間の時間」という話もあるくらいだ。
 では、戦争でなければそれでいいのか、問題があるわけだ。
 9条があるから平和だというのは、論理的に既にアレなのだが、平和だから語られる議論であることは間違いなかろう。戦時にそんな議論をする人は、たぶん無いだろう。しかしながら皮肉なことに、9条があるから平和が脅かされる日が来ているわけだ。敗戦国として懲罰的に受け入れざるを得なかった条文という足かせが、多くの国際均衡のための協力さえも拒もうとしている。ある意味で内と外を見る時にこれを使い分けていた政治家も、自国のみで防衛できないという現実を前に、外向けの約束を果たせなくなりつつある。孤立の道こそ最も危険な選択なのだが、国内世論に向けてその重要性を説明できる人は、限りなく少ない。
 先の大戦を大局的に俯瞰すると、最初から無茶な戦争をする背景はある。確かに孤立せざるを得ない圧力があり、日本が動かないままでも、非常に危ない状況には追い込まれていた可能性の方が高かったようにも思われる。しかしながら結果的には、やはりそれなりに別の方法もなかった訳ではあるまい。満州という場所の正当性を理屈上でもてあそび、どんどんと後に引けなくなっていく様子が分かる。最終的に米国を相手にしてしまうという選択まで選んでしまう。そもそも論としてダメだけど、脱原発のように論理的にそれから出発するという変な精神論からはありうる話だ。つまるところ、現在の日本で原発が停まっている事実からみても、戦前の日本とおんなじ構図を結局は選んでしまっているわけだ。
 まあ、この混同は論理的な比喩としては同根だけれど、さらに手を広げすぎて面倒だから戻そう。
 ということで、平和を希求するならば、精神論ではなくて、さらに何かのプラスアルファがある状態を堅持することが必要なようだ。今は平時で、曲りなりに平和である。いろいろあるが、それには特に異論は無かろう。隣国と変だという関係があろうとも、たぶん、そんなに簡単には、開戦はしないからだ。たぶんとしかいいようが無いのは、紛争としては起こりうる環境にはありそうだ。どちらが? というのは一国民には分かりえないことだが、防衛という観念からは、それなりの頻度で、危ないことは年に何度も起こっていることのようだ。
 だから戦争はあんがいリアルにある、そこにある危機だが、防衛線が重複して張ってあるというのが、今のありようであるらしい。国際社会というのは、面倒であるけれど、ある程度の均衡を保っていると捉えるべきだろう。それは日本という立ち位置と地理的な場所ということを改めて言うべきことではあるが…。
 しかしながら、それでも危なくないということは言えない。中国が野蛮だから日本に攻め入る、などということではない。地政学的にそういうリスクがありうるが、しかし防衛の歯止めがあるからこそとどまっていることは間違いなかろう。米国や韓国との同盟関係がその担保であるはずだが、このあたりの揺さぶりをかけられていることは、周知の事実ということなのである。集団的自衛権や憲法の死守というのは、背景のどちらに有利なのかをよく考えるべきだろう。
 だから平和の希求としては、備えるよりほかに術はないわけだ。それは戦争に限らない訳だが、平和のためにやるべきことは、回避を含めてやるべきことに備える、という以外に道は無いわけだ。そもそもそれさえがいらないというような話は、だから単なる暴論に過ぎないのだけれど、なぜかそれがあたかも同じ議論上にあるような話をする人さえいる。そもそもその備えさえなければ、危なくて議論どころの話ではなかろう。9条問題というのは死守することが目的ではなくて、人間が生きていく方法として、適宜変更をすることの方が安全を担保するはずなのだ。神が法を作るわけではなく、人間の証として、生きている証明としてとらえるべきものだろう。憲法はバイブルでもないし宗教でも無いのだ。
 つまり平和というものは議論として少しばかりのずれが生じてしまう。本当に危険な時に使えないのであれば、おそらくそんなものは無視されてしまうことになろう。だから平和なときには危険を論じ、危険になれば、冷静にそれを守るような努力をしなければならない。危険になってからその勢いできめるというのが、最も愚なことなのである。
 ということを毎年のように考え、しかしもう考えたくない。本当にリスクをもって考えている人は、逆に批判にさらされる材料にしかならないように見えるからだ。本来はそういうことをもっと問題にすべきなのではなかろうか。平和を現実的に考えない人たちが注目される期間ではなくて、もっと素直に深く考えている人たちのことに注目すべきなのではあるまいか。
 結局そういう真面目さというのは、人々の関心を集めにくいし、要するに面白くないのかな、とも思う。売れないものを書いたり紹介しても、どうしようもないことなのかもしれない。
 結局嘘だとか、デマだとかということの方が世の中には出回ってしまう。乱暴なのは手段としてそれを容認してまで目的を達成させようとする原理主義者がいることだ。単純で力強いこれらの考え方は、現代病という摂理というようなものなのかもしれない。右翼にせよ左翼にせよ、出発点として人々を先導するのは、ほぼそのような嘘であるに過ぎない。嘘を根拠に論理を展開すると、結局は間違ったままだというのは、そういう理由なのである。
 何が嘘なのかが分かりにくい世の中だ。政治的な季節を経ずに大衆的な気分の方が優勢にあるとしたら、間違った政治家よりたちの悪い動きが出てしまうということなのだろう。間違ったことをどのように矯正すべきか、そういうことを考えるというのが、個人的には一番大切な心構えというべきなのではあるまいか。要するに当たり前のことを当たり前に、かみ合った議論になりさえすればいいだけの事なんだが…。
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守れ美しき「ヂ」

2014-08-27 | ことば

 名古屋本を読んでいて思い出したが、確かに名古屋には駅前に大名古屋ビルヂングというビルがあって大変に目立つ。いわゆるランドマークという感じである。もっとも僕はほとんど空路だから、帰りに空港行きのバスを待つときに、ビルヂングだな、と思ったようなのだが…。
 本の文中にもあったことだけれど、岩中という人の批判本では、このビルヂング表記が田舎くさいということのようだった。そりゃ昔の表記だから当然のことで、以前は英文などの文字をカナ化するときに、原文がJIとかZIだと「ジ」、DIだと「ヂ」とする法則があった名残である。現代仮名遣いにはそのような法則さえない不十分なものだから、かえってヂ表記が廃れただけのことである。これは国語として未熟さを露呈しているとも考えられるが、旧の方はそれだけ完成していたのだから、新しい方が劣っていて当然のことである。現代人にはもう分からないだけのことだ。
 さらにこのビルの持ち主である三菱地所の登録商標としてビルヂングを採用していたという経緯がある。同じく東京駅の前のいわゆる丸ビルも、正式には以前では丸の内ビルヂングだったらしい。だったらしいというのは、三菱地所では、新たに立て替えたビルの名称は、暫時ビルディング表記に変えているとのことだ。学の無い世代が社員になっているのだろう。まあ、時代の趨勢として仕方のないことかもしれないが…。
 しかしながら大名古屋ビルの方だが、建て替えが既に進んでおり旧ビルは取り壊された。新ビルになるにあたって当然ビルディングへ名称変更が進むかに思われたが、なんと地元民の愛着の強い「ビルヂング」表記を残して欲しいとの声が大きく、そのままの表記が残る予定であるらしい(15年竣工予定らしい)。なんとも楽しい話ではないか。
 古臭いからかっこ悪いという感性と、古臭いから愛着があるという感性については、やはりその古臭さ度ということにも左右されよう。土地の人の感性が古きを良いと感じているというのなら、それは大変に誇らしく素晴らしいものではなかろうか。残り少なくなって廃れてしまったように見える「ヂ」の運命を、これからも引き続き守っていて欲しいものである。
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類型化と無知は危険   真実の「名古屋論」

2014-08-26 | 読書

真実の「名古屋論」/呉智英著(人間社)

 県民論とか県民性というのは、確かにありそうだ、と思わせるところに面白さがある。冗談として、話のネタとしてなら、そう目くじらをたてるべきものではないのかもしれない。もちろんそれは分かっていながら、やはりひどいものは酷いと批判すべきではある。中にはかなり有害なものがあるということだ。この名古屋論を語る岩中浩史という人はその代表格のようで、自分の無知から始まって論を展開する害悪があるということで槍玉に挙げられてしまったわけだ。居酒屋でどうでもいい話をする分には罪も軽かったが、堂々と本にまでして害を垂れ流した上に、それで権威的にさらに無知なるマスコミが取り上げたりする。目も当てられないという感じかもしれない。血液型性格診断と同じように、無知に付け込んだ悪の連鎖というものを、知識人は放っておいて良いはずはない。まあ、本当は半分冗談ももちろんあるが、そういう正義感の本という事もできそうだ。ついで、というかそれが本文だろうが、名古屋という場所の素晴らしさも同時に理解できる。もちろん、名古屋に限らず、さまざまな地区というものについては正しく評価されるべきものだ。そういうことも同時に考えさせられる内容ではなかろうか。
 実は僕もなんとなく騙されていたクチではある。特に恨んではいないが、トリビア的にも楽しめた。名古屋人は堅実だが、結婚式に金をかけ、離婚率も低いと思っていた。というか、そういう話などはどこかで聞いたことがあるようだし、恐らくテレビでも見たことがある気がする。しかしながらそれらはそんなに顕著な特徴とはいえないらしい。都市化が進んだところでありながら血縁を大切にする傾向は多少ありそうだけれど、それは地方都市がそのまま巨大都市化したということでもあって、他の地方都市でも、そういう傾向が残っているところはある。名古屋らしい特色は、案外当たり前のことで、さらに名物などについても、比較的新しいものが多いようだ。恵まれて素晴らしい土地柄ということは言えそうだけれど、それは名古屋的にこの土地の人の気質が生んだものと断定するには、やはり根拠が希薄といわざるを得ないのかもしれない。
 もちろんそういうことは、名古屋だけにとどまらないわけだが、しかし、ロマンというか、願望というか、地方にはそれらしき気質があってほしいような気分というのはある。そういうことは考えるべきことかもしれない。人というのは類型化したがる癖のようなものが、たぶんあるのだろうと思われる。または差別化というか。
 以前英国から来たという人に、紳士の国からみえたのですね、と話を向けると、「それはよく日本人にいわれるが、大変な思い違いだ」と笑われたことがある。英国人は乱暴で粗雑、マッチョで暴力的なとこがあるというのが定評だというのだ。サッカーのフーリガンを見よ、ということかもしれない。そのときはちょっと驚いたが、そういえば僕らはパンク・ロックに親しんだ世代だ。あれは若者のカウンターカルチャーだと思っていたが、そういう資質のようなものが、もともとあるらしい。いや、いかん。また簡単に類型化しようとしているかもしれない。野蛮だからこそ紳士的にあれと謳わなければならないとしたら、どうなのだろう。日本人が勤勉だなんてのも、今や昔かもしれないし、そういう気質というのは、簡単に語られるものでは本来は違うのだろう。うっかり口にしては訂正ばかりも変だけれど、自戒の念くらいは持っておくべきかもしれない。
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芸達者なコロンボ   刑事コロンボ・攻撃命令

2014-08-25 | コロンボ

刑事コロンボ・攻撃命令/ジェームズ・フローリー監督

 犬を使った犯罪モノと言うのは、いくつか記憶がある。犬の賢さを利用して、訓練して遠隔で動いてもらう。結果的に自分の手をわずらわせることなく、何かできるということらしい。銀行強盗をやる映画だとか、全部でなくとも、犬が何か仕事をするというものがあったように思う。名犬ラッシーになると、人間らしい犬が感動を呼ぶわけだが、同時に人間のように毎回演技をしているらしいという想像が、さらに物語を面白くしているに違いない。
 犬種もあろうかと思うが、実際に犬は人間の訓練によって、そのような条件反射的な命令によって仕事をさせることができる、という前提がまずある。北朝鮮なんかでも犬の兵器が居るらしいから(いや、他の国でも居るだろう)、その攻撃力を利用するというのは、単純だが、明確に役割を達成できそうな手段である。何しろ犬というのはもともとオオカミで、人間になつきやすいものが便宜上イヌといわれているだけのことである。人間の長年の交配でオオカミらしくないイヌが増えているだけのことで、攻撃的な本能はもともとあるに違いない。
 さらに本文とは関係ない話だが、このようなイヌの姿を見て、それなりに反感を持つタイプに、ネコ好きが居るような予感がある。イヌはこのように訓練して飼い主の言うことを聞くことを、ある意味では喜びにしているという習性があるわけだが、それを見て、不自由さを覚えたり、ある種の封建的な関係を嫌悪したりするのではないか。自分らはネコにそういうことを求めていなくて、さらにそういうことに無頓着なネコほど愛らしいものは無い、という感じだろうか。まあ、元は野生のものを人間の都合で手なずけることをしていることに変わりは無いのだが、そういう感情こそ人間中心主義というべきものだろう。鯨保護などの思想の根底にある無頓着なのだが、まあ、脱線しすぎなので止めておこう。
 ということで、被害者はイヌに噛み付かれて殺されたわけで、大変にお気の毒なわけだが、この犯人は、こういう事故の後に、訓練したイヌが処分されることを見越して、凶器としての動物という視点しか持っていないようにも見える。非道な人間ということだが、実は僕はこのあたりが一番引っかかったといっていい。これだけの訓練が出来る人が、イヌ好きでないはずは無いのではないか。これだけのことができるくらい深いイヌとの関係があったのではないか。もちろん自分が捕まりたくないという合理主義だったという考えもあるが、たとえ人をかみ殺したとはいえ、これは何かの間違いなのだから、何とか犬たちが助かるように出来ないか、という懇願なりをするのが普通ではないのか。そういうことをしないのであれば、その時点で、犯人として限りなく疑わしいと考えるべきなのではなかろうか。
 さてしかし、この物語の謎解きは、なかなかスタイリッシュだ。コロンボがこんなにビリヤードが上手いなんて! これが決まるからかっこいいわけだが、決まらなければどうするつもりだったのだろう。さらにイヌにまで仕組んでいる憎らしさ。そういう時間があるのなら(練習の時間というか)、もっと早く犯人を落とせたかもしれないが、それはもちろん言っては野暮である。
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古い現在と未来の話   スタートレック4・故郷への長い道

2014-08-24 | 映画

スタートレック4・故郷への長い道/レナード・ニモイ監督

 とにかくへんてこな話なのだが、これが面白いのは確かだ。古さも適当にいいし、だから懐かしさもあるが、しかし過去にはこんな話があったのか、という素直な驚きも覚える。やっぱりアメリカ人ってどこか変だな、というのが良くわかるし、しかしどこか善人で平和だという感じも漂っていて、時代もあるんだろうが和んでしまうという感じかもしれない。
 捕鯨問題に対する偏見というのはあるのだが、そういうことは鯨に聞いてみたほうが早い。当然それもやっていて反則技だが、これもドラマとしては面白い。スポック博士はまじめに鯨の入っているプールに飛び込んでそういうことを聞き出してしまう(ことができるということになっている)。これくらいの超人なら、わざわざ地球人と付き合うまでも無いことのようにも感じるが、アメリカ人はそんなことは気にしないのだろう。未来のアメリカ人が過去の(当時は現在の)アメリカ人を批評しているわけだが、自分勝手だからいつまでも傲慢さは変わらないということを示唆してもいる。もちろんそのあたりに屈託は無くて、悪気も何も無い。あるのはその場に流れる違和感を楽しむコメディだ。実際に笑えるのでいいのだけれど、本当はまじめな思想なども含まれているのかもしれない。
 未来の政治が必ずしも優れていないだろう感じも変なんだが(ほとんど大岡越前だ)、しかし、宇宙人が集まる民主主義というのはそういうものなのかもしれない。そもそも民主主義の成立のために長い時間をかけて現在に至っているわけで、将来が劣化しないという保障は無い。そもそも現在であってもほころびは十分に見て取れるわけで、そのあたりのことは感慨深いものがある。多かれ少なかれ米国民主主義の影響を受けて生活している僕らにしてみても、このような時代の流れの中にある考え方を見ることで、その変遷や思想を垣間見ることができる。どう考えても過去も未来も変だけれど、それはこの映画が作られた時代と、今の空気の違いがそのままパロディになってしまっている所為だろう。古い前衛的な映画というのは、そういう運命を辿ることになるということだろうか。
 タイムトラベルものだからそのあたりの風俗の違いがいろいろギャグになっているわけだけれど、恐らく今の未来像とは軌道修正が必要になっており、サルから分かれてチンパンジーやゴリラとなった未来と、今の人類が違うような感じになっている可能性が高い。たぶん人間側から主観的に眺めているわけだが、そういうずるい視点から物を言わせてもらうと、未来は違ったものになって良かった面と悪かった面が混在している。スタートレック的な未来像は恐らく訪れる可能性は低くなった残念さもあるが、だからといって未来が明るいものではないのには変わりは無い。これはやはり悲しむべきところかもしれないのだが、まあ、未来なんて詰まるところ予測の範囲でしか分かりえない。楽観的に行こうじゃないか。
 スポック博士は、この映画の監督さんも兼任しているらしい。カーク提督もこのあいだコロンボに出ていた役者さんだ(ルーサン刑事)。個人的にはそのような米国芸能界のつながりにもなんとなく興味のわくところであるが、あの時代に活躍した役者さんたちなんだから当たり前なのだろう。思えば確かにいつの間にか年を取ってしまったものであるなあ。
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欲を出して歌える歌は歌わない

2014-08-23 | 音楽

 先日数年ぶりに行ったスナックで、つれの人がずっと洋楽の曲を歌っていた(この人は還暦ちょっとすぎ)。客層が古くて、後から来た年配の客もやはりつられてボブ・ディランの有名でない歌を歌った。お前らも歌えといわれるが、歌える歌なんて無いという気分だった。チイママさんがビートルズくらいは、といわれるが、それもどうなのか。歌えるのもあるが、やはり止めて、エーとなんだっけ、キャンテイクマイアイオブユーとかいうやつ、と調子に乗ったら、ダンスミュージックが流れてきて、沈没した。なんか古いおじさんがゆっくり歌うから何とかなるかもな、と思ったのに…。
 チイママといっても僕よりひとつふたつ下くらいだろうか。最近の若い客で洋楽を歌う人なんてめったにないし、歌うとしても集団でマイクを譲り合ってビートルズのレットイットビーなんてパターンが多いのよね、という。ビートルズのレットイットビー、というのにすぐに混乱を覚えるが、それはつれの人が何やらつぶやいていたので任せて、やはりそういうことかもしれないとは思う。今でもロックは聴くけど歌うためでないし、歌えるような古いものは僕らのタイムリーではない。ましてや僕らより若いなら…。止めとこう。
 カラオケが最盛のときも、やはり中心は歌謡曲で、王選手がマイウェイを歌うらしいとは聞いたことはあるが、概ねあんまりそういう人は少数だった。自分も歌うが他の人もそれなりに聴くので、その人なりの選曲にならざるを得なかったということになるのだろう。
 いぜんは僕よりオジサンたちから、大人になると自然と演歌になるもんだといわれたものだが、あれは完全に嘘だったな。彼らは若い頃から演歌に親しんでいたに違いないのだ。僕も絶対演歌を歌わないという原理主義者じゃないが、冗談以外で口ずさむことなんてない。普段聞いているのはロックだけれど、だからカラオケはそうなるということでもない。ロック魂が少し出るような曲と酒の席を考えて歌うということであって、自分の趣味がそのまま表に出るような場所でもないという感じだろうか。そもそもツェッペリンはインストめいているわけで、歌ってどうなるというものでもないだろう。
 まあ、会話してもそんなに楽しくない気分の夜もあるわけで、そんなに聞きたくなくてもカラオケなら仕方がないと杯を重ねられることもある。上手く歌えなくてもカタカナ英語で歌詞を読むだけでもいいのかもしれない。お経だって意味は分からないわけで、ありがたいのか苦行なのか分からないから面白いこともあるかもしれない。とにかく時間はつぶれるので、客の居ない店ではそういう遊びもありということなんであろう。
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公開の是非の線引き

2014-08-22 | net & 社会

 「まんだらけ」が鉄人28号を万引きした犯人の画像を公開すると警告して話題になった。おもちゃといえども27万円相当というから相当な盗みである。その後犯人は捕まったが、28号は転売されていたという。お金もだけど、こういう場合は盗品の売買ということで、品物は戻るのがスジだろうけど、どうなんだろう。
 問題はしかし映像を公開するという脅しの是非と、公開するという罰のあり方などにも議論が及んだ。結局捕まったことと、警察の指導があったらしく公開は踏みとどまったということらしいけれど、捕まったら報道もされるわけで、公権力なら公開していいという、なんとなくの矛盾は感じさせられる。このようなさじ加減というのは、確かに倫理面での議論は出来そうだ。
 万引きの罪の重さ、という感覚の問題もあるという。万引きとはいえ、金額から言って宝石などを盗むような犯罪に等しいと思われるが、宝石だと窃盗と表記されるだろうことと、まんだらけという店とおもちゃという商品についてのこの差というのはどう線引きしたらいいのだろう。僕は完全に一緒だと思うが、これがスーパーのバナナだったらと思うと、やはりなんとなく万引きという感じもする。しかし考えてみると、スーパーのバナナだから罪が軽いなんていうのは、やはり金額の感覚なんだろう。ただ、万引きが蔓延すると相当な被害額になるらしいことも聞いており、やはりバナナであろうとも、厳罰化するべきだという意見ももっともだと思う。特に二度三度と繰り返すような場合は、金額の大小に関わらず、しっかりと刑事罰を与えるべきだろう。弁償したり賠償したから済むというのは、考えてみるとやはり少しおかしいとも思える。そこのあたりの温度差が議論になったわけだけれど、そういう感覚ということが、万引きを助長させることにもつながりそうに思える。万引きの罪の軽い感じに個人差があるのは、ある程度の経験値とも関係がありそうだし、教育とも関係があろう。恐らく文化的な土壌でもかなり違いがありそうだ。
 写真を公開することに関しても、やはり罪の重さとの関連があるのだろう。万引き程度で店がそのような判断をすることが、やりすぎだと感じる人がいるのだろう。店側としては当然のように僕には思えるが、やはり店も客商売であり、消費者の感覚が店への圧力になりうるとも考えられる。要するに店を非難する人には、店に対しての差別意識があるということになるだろう。職業に貴賎なし。消費者が偉い社会はろくなものではない。
 一方ではそうでありながら、たとえば芸能人の麻薬なんてものの報道もどうなのか。米国などの校則違反より軽いものが、日本では重大な犯罪として報道される。危険ドラックにせよ、日本の規制が生み出した犯罪に過ぎないが、まあ、法律は法律という規範を語るのならいいが、取り扱いの過激にやりすぎは間違いなかろう。また企業によっては、脱税だとかミスにも過大に報道する場合がある。愉快にいじめているわけで、まんだらけを誰が批判できるというのだろう。一般人の感想は仕方ないが、報道がバランスを判断するのは、既にダメなのではなかろうか。僕らの業界なんかは、以前は請求ミスということだったが、最近は不正請求という言い方に変わった。中には悪いのもいるらしいが、ほとんどは批判のための言い換えである。なんだかな、と思うが、これが世の中の流れのようだ。結局刑罰より罰したい気分の方が勝っているわけで、気分で言葉を使い分けている卑劣さに反省が無いだけのことだろう。
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氷水は頭を冷やせるか

2014-08-21 | culture

 氷水をかぶって寄付をする(いや、しない方法もあるらしい)映像は少し前から目にはしていた(かれこれ数か月にはなる)。最初は寄付ということではなくて、単に指名されたらやるか罰金を払うというような、そんな話も聞いた。たぶん発祥を取り違えたものだったのだろう。ちゃんと批判もあって、この流れを止めようとする人の映像もいくつか観たことがある。
 ネット上ではそれなりに盛んで、これを有名人がかぶるというので話題になり、波及して素人さんも、頻繁に氷水をかぶっておられるようだ。夏だからというのもあるだろうけど、一種の美談めいた雰囲気もある。ついにテレビのニュースでも流れるようになっており、そもそも難病に対する寄付金を集う成功例というような趣である。やっとそうだったんだと思ったりしたが、日本でも寄付しているということなんだろうか。そういう寄付先という案内は特に無い。要するにやはり水かぶりを楽しんでいるのだろう。
 罰ゲームというものとは少し違うらしいが、氷水をかぶった人が、さらに3名指名するというルールらしい。つまりマルチ商法である。強制ではない(当たり前だ)という断りは一応あるらしいが、映像で公表されたら、逃げるという選択はそれなりに勇気が居るだろう。事実堂々と拒否する人は、そのような勇気のあるような人が多い(小泉さんの息子とか)。それはそれで大物感があるけど、一般の人でもこれだとどう解釈すべきか。友人間でやる場合が多いのだろうから、ある種の禍根も残しそうだ。
 遊びなんだから、という考えもあるだろう。どこが楽しいのかよく分からないが、準備もいるし、ギャラリー無しだと寂しい。いくら暑いとはいえ、着替える必要もあるだろう。そもそもの問題として、一種のいじめの構図という感じもする。だから強い人しか逃げられないのだろう。それか変わり者か。
 もちろん簡単に寄付金が集まらない現状打破を狙ったアイディアという好意的な見方も出来る。事実何億という多額の寄付金が集まっているという。話題の成立の仕方から見て、まだのびる余地もあるのだろう。いかにも西洋的な発想だと思うが、しかしこれを真似する文化も卑屈な感じもする。ノレないとダメなようなこの感覚は、何とかならないものだろうか。
 難病に金がかかる現実があるという主張もあろう。しかし一難病ひとつだけ助かればいいのだろうか。いや、アイディア勝負だからそれでいいということなのか。治療法は無く、介護するためということなのか。そもそも必要な目標額はどのくらいで、どれくらいの人に行き渡るのだろう。本当に必要な情報は、実際にはそういうことだろう。
 これが出来ない難病の人はどうなるのだろう。以前はよく米国での手術のために寄付金を集めるというのがあった。切実な願いは分かるしお気の毒だが、しかし集まる人と集まらない人がいるのではないか。これが出来る人は助かり、出来ない人は亡くなるのだろうか。もっと広くいうと、癌治療などもそういう側面がありそうだ。保険適用外の治療を受けたいが、ワクチンなどが高額だという。そうなると結局命は金である。発展途上国の人々はどうなるのか。人の命の値段は事実上違うという現実を確かめるためにあるのだろうか。そもそもそういうことは考えないのだろうか。
 育児書で有名なスポック博士は、高額な医療費を払い続けた結果、破産した。聞くところによるとそのために寄付を募ったということだった。結果は分からないが、要するに、十分な自宅介護をやりたいがために専属の医者や看護婦を雇った結果高額になり、さらにそれなりに長生きしてしまい、破産に至ったらしい。
 もちろん、寄付など無しに我慢しろという理屈を言いたいわけではない。つい考えてしまうということを言いたいだけだ。やりたいことは金が無ければ出来ないという現実に対して、やはりどれくらい向き合うのかということはいえるのかもしれない。ある意味ではそれは限りなく素直なのかもしれない。しかしながら、考えることについては、氷水はなんとなく邪魔をしている。成功しているという事実が、さらに拍車をかけて考えなくしている気もする。本来はそういうニュースなのではないだろうか。

追伸:それでも話題になっただけ良い、という意見にはそれなりに肯定はします。けれど、来年以降は寄付金は激減するわけで、それで有名になっただけ良いというだけの問題では済まないとも思うわけで…。結局難病が周知されることとは別問題だということを露呈しているということを言いたいということは理解してもらいたいものです。そもそも問題は、どのように理解されるかということの方が大切です。だから日々苦闘しているわけで、このような形は、やはり不幸なのではないでしょうか。
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妙なものを読んでしまった   「別れる理由」が気になって

2014-08-20 | 読書

「別れる理由」が気になって/坪内祐三著(講談社)

 率直な感想を言ってしまうと、妙なものを読んでしまったな、という感じだ。元になっている「別れる理由」というのは小島信夫の小説のことだ。月刊の文芸雑誌に12年にわたって連載されたという大長編ということらしい。恐らく全部読んだことがあるのは3人くらいともいわれており(坪内はその中の一人とすると、作者と編集者と、で既に3人になってしまう。だから、せめて5人くらいは読んだんじゃなかろうか)、誰も全部は読んだことはないが、しかし野間文芸賞を受賞したりした、名作というか迷作というか、とにかく変な物語らしい。らしいというか、既にこの長編評論を読んだから、だいたいというか、それなりに詳しく内容は分かった。分かったが、しかしこんな小説を読むかというと、ぜんぜんそんな気にはならない。むしろこれを読んだから、絶対に手に取ったりはしないだろう自分のことを賢く思う。こんな世界に付き合うほど人生を浪費させたくない。
 ところが不思議なことに、この評論はそれなりに面白いのである。時間をかけてじっくり小説を読み込んで、しかし結局なんだかよくは訳が分からない。いや、批評している坪内は、この小説のことが良くわかっているらしいということは分かる。そうして本当に噛み砕くように内容を紹介し、背景を探索し、そうして恐らく意味することも証明して見せている。けれどやはり何のことやら、なんとなく程度にしか理解し得ない。そもそもどうしてこの作者はこんな作品を書いてしまったのか(いや、それは少し分かる)、そうしてこれを許す会社があって、連載を続けられて、今となっては絶版になっているとはいえ、出版までされてしまった。もちろん商業ベースに乗るという考えもあったのだろうが、本当にそうだったかは疑わしくさえある。小説なんてものはそもそもそんなにメジャーなものではないし、さらに難解な現代文学を読むような人間は、たぶん人の道から外れたような人間に違いない。少し言い過ぎたが、しかしそんなに狭い社会のことに関わるような人間というのは、本当に不思議な矮小な偉大さを感じさせられる。
 こういうものに時間をとられることが恐ろしいということはある。だから坪内のような読者が、このような作品を批評してくれるのが大変にありがたいという感じかもしれない。さらによく考えてみると、そもそもこのような作品を読んで理解できる人間というのはごく限られている。頑張って読み解いても、恐らく何にも分かりはしないだろう。そういうことがわかりながら書いている作家が居て、その凄さを分かりながら支えている文壇のようなところがある。しかしそれに多少はつられて読まされている読者は少しはいて、しかしやはりとても歯が立たずに退散を余儀なくされる。そういう人間が悔し涙にくれているときにこの本が出て、やはり大変にありがたがられたことはあるのではないか。もっともなんだこれは、と怒ってしまうのだろうか。
 わざわざ意味の分かりにくいものを分かろうとする読者が居ることは、作家にとってはしあわせなことであろう。小島は既に亡くなったが、この批評が連載されているものに目を通していたようだ。文中にもそういうことが書かれている。そうして理解されえないことを半ば悟った人間が、自分のことを読み解かれていくことをどう思っただろうか。
 しかしながらどんなにつまらないものを書いたとしても、このように興味を抱いて読んでくれる人が解説までしてくれる。さらにそれを読んで面白がっている読者がまた連鎖する。なるほど、そういうことでこの小説に取り込まれる人間がまた一人、ということになるわけだ。まんまとしてやられたということになるが、そのうち僕も死ぬのだろう。そしてこの評論文も絶版だ。読まれることが無くなっても意味が残るのだろうか。多くは望まないが、この小さな連鎖がどこまでも続いて欲しいような、そういう変な書物である。
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世を捨てて見るもの

2014-08-19 | 時事

 盆の日中はこもって高校野球を見ていた。一日三試合とか四試合とか続けてみていると、さすがになんだか世捨て人になったような気分になる。いい試合もあるし、それなりに残念な試合もあるが、高校生なんだから仕方ないというような割引感はある。地元の高校なんかだと少し力がはいらないこともないが、地元といっても実際はそんなに地元ではないから、特に贔屓ということも無い。そういうところは薄情だと思うが、これが知人の息子さんとかが出ていると、また違ったものにはなるんだろう。
 甲子園の観客の雰囲気というのは世情を反映したものがあって、明らかに応援で贔屓にされている学校がある。関西の学校ならそれも分かるが、そうでない地区でも時折そういうことがある。もともと話題のピッチャーだとか、バッターを擁する場合はもちろんだけど、ニュースで話題の県というのもあるようで、そういうときには少し応援が偏る。そして高校生は当然プロじゃないわけで、この雰囲気に素直に呑まれている選手が居る。ただでさえ大歓声で試合をするという経験は限られているだろうから、これであんがい試合の流れが変わってしまう。選手だけでなく監督さんもそうで、見事に変な采配をしているように見える人もいる。いわば浮き足立っている感じがあって、選手はそれを酌んで、さらに緊張感が走っている。どことはいわないが妙な大逆転があったりするのは、そういう圧力も背景にあったようにも感じた。それも確かに時の運だが、スコア以上に妙なものではある。
 また、審判の微妙な判定というのもけっこうある。今はビデオで見返すことが容易に出来るので、ああやっぱり微妙だったな、というのがけっこうある。プロのものより概ね高いコースに甘く、さらに外角に甘い。主審が明らかに好きなピッチャーというのがあるようで、そういう人は確かにいいピッチャーが多いが、それで得をしている場合も見受けられる。当然そうなると流れが傾く。バッターは審判にまで対応せざるを得ず、結局自滅する場合が多い。またプロの苦情は見苦しいと思うこともあるのだが、高校野球はこれがタブーだ。いつまでもベンチでムカついて対応できない監督さんも多く、これが選手にも影響しているように見える。見ていて痛々しいが、まあ、これが高校野球である。
 しかし、今年は特に、大人の対応を見せるピッチャーが多くなっている印象はある。悪く言えば図太く、よく言えばあっけらかんとしている。いや、逆かな。ともかく勢いがそのままけっこう持続している。そうして、安易にいいバッターからも逃げていない。遊び玉を放る場面も比較的少なく、三球三振というような場面も多い。以前なら投げ急ぎを注意されるのだろう、カウントをあえて整えたりしていたが、それはある意味でバッターにも心の整理をさせてしまう。調子がよければそのまま行く。そういう姿勢の表れという感じもする。得点はそれなりに入っているが、試合時間は比較的短く感じる。結局はそういうペース配分が、ピッチャー本位になっているということかもしれない。
 段々贔屓したいようなチームが出てきたが、優勝候補と目される高校の半分以上は既に消えてしまった。もちろん前評判どおり生き残っているところもあるにはあるが、かなりおおかたの予想とは違った展開になっているように思われる。もちろんだからこそこれからも期待が大きくなるわけではあるが、しかしやはり盆は終わってしまった。もう落ち着いて観戦することはほぼ無いので、自分の目で見た展開予想は不可能である。ニュースのダイジェストでは、本当の試合展開などは理解し得ない。試合を見るというのは、世捨て人でなければ簡単にはいかないものなのである。
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設定は特殊そうだが、真実はリアルだ   キッズ・オールライト

2014-08-18 | 映画

キッズ・オールライト/リサ・チョロデンコ監督

 同性愛のカップル(この場合はレズビアンのようだ)に二人の子供が居る。それぞれの子供で、精子提供者(つまり父親)も同じらしい。そういう男女のきょうだいが、ふと生物学上の父親に会いにいく。そのことがきっかけで、一見しあわせだった(しかしそれなりに問題はあるようだ)家族に軋みが起こるという物語。設定に特殊性はあるが、しかしよく考えなくても、ホームドラマとしてはありうる話である。さらにあえて言うと、これが男女の夫婦であっても、同じことは普通に頻繁に起こっていることではあるまいか。しかしながらこの葛藤は、同性愛の家庭だからこそ、より深く理解できることになっている。そこのあたりが映画として面白いわけだが、性の問題や家族の問題を考えるとき、生物学的にどうこう考えるというあざとさが、つまり習慣が邪魔をして見えにくくなっているものがあるのではないか。そういうことを考えさせられるお話である。
 女性同士のカップルだが、自然と役割のようなものがあるらしく。父親風の女性と母親風の女性がいる。しかしながらどちらもママではあるらしい。お互いがお互いの子供を特に自分の子供認識もしており、しかし同時に二人とも二人の子供とも認識している風でもある。このあたりが少しややこしいというか面白いというか(要するにこのきょうだいは、この家族には居ない精子提供者の父親を通して似ている)、少し観ながら混乱する。もっとも現実の僕の周りには意識的にそのような環境にある人を知らないが、映画やテレビ的には、既にこのような環境というのはそれなりにありふれている。いや、設定として工夫はあるが、そのような人がいるらしいことくらいは、あんまり抵抗もなく観ることは出来る。しかしながら抵抗を感じないと理性は思いながら観ているのに、時々なんとなく引っかかるような感覚が蘇る。それは演出的にも映画的にも製作側が狙っている効果なのだが、そういう認識をすっ飛ばして、僕らは普段生活しているということを悟らせてくれる。当たり前に見える風景が、その当たり前さにおいて本当にそれでいいのか、と考えさせられるのである。
 男女の別は役割の別を社会的に規定されているという考え方がある。あるいはそれは事実そうかもしれないし、実際はそうだ。しかし起源を遡ったところで、事実を検証することは可能だろうか。そういう別というものや、文化というものは、確かに簡単に変えることは出来ない。しかしながらその根本である男女の別が、同じ性においても文化的に分けられるとしたら、やはりなんとなくギクシャクしてしまう。そういう中で、母親役のほうが、生物学上の父親である男と浮気してしまう。面倒なことに、その男の方は限りなく本気になってしまう。父親役のほうはそのことで傷つき苦しむが、まさにその苦しみは性別を超えて、父親的に苦しんでいるように思える。それはあるいは僕が父親としての存在と男である所為かもしれない。多少日本の文化と異なる印象もないではないが、しかし嫉妬心のあり方は、男性的なありようが感じられる。そこによりによって男性と浮気をするなんて(要するに具体的なセックスのありようとして)、という戸惑いがあるのは失礼ながら面白いが、十分共感の持てるものだった。だから僕の偏見があらわになるのだが、この感情は同性愛であろうと、まったく僕らと変わらないものなのだ。
 他でも書いたことだが(ブロークバックマウンテン)、いまや本当の純愛のあり方は、同性愛でなければ嘘っぽくなってしまった。家族の愛のありようも、既にその領域に達しているのかもしれない。なんでもありの特殊な設定をしているのではなく、実にありふれた家族愛を描くためには、このような細工がないと分かりにくくなってしまった。そのような単純さが描きにくくなっている現代というのは、実に愛の確認が難しくなっているということをあらわしているように思う。真実というのは、実に嘘っぽい世界になってしまったものである。
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人類の夢を託す代理人とは

2014-08-17 | HORROR

 宇宙は広い。というか広いらしい。今は膨張していて、でもいつかは収縮するという。いずれにせよ、今は広いが将来は狭くなるか、引きちぎられるか、まあ、消滅というか破壊される。そういう間の時間に宇宙的な時間の尺度を用いると、我々はただ一瞬だけ生きることを許されているということのようだ。
 繰り返すが、しかし宇宙はとてつもなく広いらしい。星もたくさんある。そういう無数に思える星々の中には地球のようなものもあり、さらに知的生命体も、確率上は相当数居るらしいことは間違いなさそうであるらしい。地球も奇跡的な星らしいが、そういう奇跡が他に生まれえるくらいは、確率が成り立つくらいの分母があるということだ。
 しかしながら現実的にはそれだけのことで、物理的な距離というのがあって、さらにその物理の法則で考える距離を埋めるべく進めるスピードというのがあって、それは今のところ質量のない光以上に早くなりえることはない。その光のスピードでもっても数万年のスケール旅をしないことには、知的生命体としてコミュニケーションできるレベルの他の人類とは出会うチャンスはなさそうだ。人間の寿命もあるし、さらに移動に耐えられるシステムというものがない。宇宙には未知のエネルギーに満ち溢れていることは分かっているが、それが何なのかは分かっていない。太陽が輝いているそのエネルギー相当を利用したとしても、宇宙空間を安全に長期間高速で移動できる手段は未知数である。
 将来的に他の人類と出会うことは、だから地球人レベルの文明では完全にお手上げである。では相手が会いに来るしか手立てはないが、物理条件は一緒だから、わざわざ下等な人間に会いに来る動機があるとは考えにくい。あるとしたら侵略だとか、彼らに見合った利益の大きさが必要だろう。つまり人類が事実上他の地球外知的生物とコンタクトすることは、将来的にもほぼ不可能だろう。人間はまだ恐竜時代より遥かに短い時間しか地球上でその栄華を享受していない。この先恐竜が滅亡した理由とされる隕石の衝突のような事故の起こる確率の方が遥かに高いわけで、その一時の間しか繁栄は許されるものではないだろう。さらに地殻変動や気候の変化など、人類が耐えうる災害規模ですむものかも、楽観的に考えてもありえない。人類の将来は極めて暗いが、それでも一時でも生きていられるだけでももうけものなのだろう。
 ただし、それは有機体という条件を前提にしているということではある。人類が作り出したものが、人類よりもう少し長く働ける可能性というものはないではない。それで意味があるかないかという議論はあるかもしれないが、人類の考えを受け継ぐ機械なりロボットなりまたは違う形なりが、長い時間と環境に耐えうる可能性のほうが遥かに高いだろう。実際に人類というのは、近くの惑星であっても特殊な環境を再現させない限り生存できない。地球上でも南極などの局地にすら生身では住めない。地球だから生きられる生命が外の世界に出るのは現実的ではない。要するに人類はあくまで代理人を立ててしか、他の人類とコンタクトする夢は実現できそうにないということだ。それはそれで大変に夢のあることではあるが、しかしどこか認めるにはむなしい。諸行無常。人間が宗教や哲学を手にして生きていく意味というのは、そのような生命としての弱さということなのであろう。
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