カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

持続可能の段階ではない

2012-01-31 | 時事

 消費税増税の道筋が整いつつある。とりあえずその是非については議論しないが、早ければ早いほど後の世代へのつけ回しは減る(微々たるものであるにせよ)ことは確かなので、その点だけは評価できる。しかしながら問題というのは、10%後の話である。現在の政府の試算では、2020年までに16%であるとされる。そしておそらくそれが最低ラインということらしい。ところがその五年後である2025年になると、大方のエコノミスト試算では20~30%という線が出ているようだ。もちろん増税による景気の減退による収入減については勘案されていない。
 2025年までの試算というのには訳があるようで、その先になるとさらに悲惨なことになっていく。もちろん段階的にさらに上げていかなくてはならなくなるのだが、2055年になると58,8%になってしまうのだという。所得税や住民税など社会保険料も上がっていくので、その頃になると手取りは3割程度になるという。その手取りの3割で買い物をすると6割が税という社会がそもそも成り立つのかどうか、というのがかなり疑問なのだが、試算上はそうなるということだ。別に冗談なのではない。
 10%が賛成・反対という議論というのは、するのは勝手だとは思うものの、そういう訳で本来的にはあんまり意味のあることではない。まあ、先のことに気づいていないひとが多いから、この世が成り立っているということが、何となく分かるのではあるまいか。もちろん現在のような社会を維持するためにそうなるということなのだから、現在でも不満があるというのは分かるが、現在より悪いをどう受け入れるのか、という議論のためには必要だとは思う。思うが議論できる勇気のある人がいるとは思えない。
 そういう訳で、残念ながらそのような状況が分かったからと言って、何の救いも無いわけなのである。
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言い訳のいるものではないにせよ

2012-01-30 | 雑記

 少し気の張るイベントを終えて弛緩している。ストレスと達成が次の仕事の活力になるというが、どうなのだろう。一方で明日のジョーのように、精いっぱい戦うと燃え尽きるというのがある。そのまま燃え尽き症候群というのだが、そんなような倦怠感を覚える。いや、でも解放感も大きいな、どっちなんだろう。
 終えた後にいろんな人からねぎらいの言葉をかけていただいたのだけど、素直にうれしいものだ。別段褒めてもらいたくてやっていたつもりはさらさらないのだけど、結果がどうあれそれなりの労力をつぎ込んだわけで、そういう部分においてねぎらわれるのがうれしいのだろう。喜んでくれた人も多かったようで、そういうところはやり終えて本当に良かった。
 しかしながらそれなりにミスもあり、トラブルもあった。単純なものから予期してなかったものまで様々だが、本当に申し訳なかったものから、ある程度仕方のなかったものもある。なんとかしのいだけど、素直に反省である。
 ところがこれが、ひとから注意されるとそれなりに堪えるというか、なんだかなあ、という気分になって不思議に思った。もちろんこれは気づいた人が心配して注意してくれた場合には、本当に心から申し訳ないという気持ちでいっぱいになるのだけど、その非難の色が強いものに関しては、反省より反発を覚えるのである。もちろんそういう経験は今までにも数多くしてきたわけだが、ニュアンスとしてそれだけなのか、というような人も時にはいて、かえって失望してしまうというか…。
 ミスはミスなので真摯に受け止めるしかないのだけど、そこに付け込んであれこれ言われるというのが、逃げ場のない拷問というかなんというか。こういう言われ方をする筋合いはないように思われて反発心を覚えるのだろう。直接の上司であるとか、この人のもとで仕事をすることが今後もある場合などは、おそらくその不幸をのろうことにしかならないように思う。少なくとも今後はよっぽどのことがない限り、この人の言うことを聞くような仕事は避けることになるのではないか。もしくは絶対に真剣に取り組むことはしないだろう。
 まあ、こうやって書いているほど今はそんなに嫌な気分ではないのだけど、こういう経験は反面教師としてはいい体験だったのだとは思う。こういうことをやってしまうと、たぶん人は僕についてきてくれることは無いということだ。心の戒めにしなくては。
 しかしながら、いじめられた嫁ほど、自分の嫁をさらにいじめるという話もある。こういう経験はほどほどにしなくては、人間がダメになるようにも感じる。もしくはそれなりに忘れられる程度に、楽観視できるように工夫が必要なのかもしれない。
ということで今日は楽しく飲もうという言い訳なのである。いつも楽しく飲んでいるわけで、調味料のようなものなんでしょうけどね。
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小さな違いを選択することが満足という図式について

2012-01-29 | culture

 アメリカ社会は、小さな違いを選ぶことに喜びを感じる文化だという話があった。何を飲みたいか、という問いに対して自分自身がいいと思うものを選ぶということに満足感を持つようなところがあるらしい。それはよくわかることだし、時にはそのように感じられることもあるわけだが、やはり少し面倒な感じもする。
 僕などはあまり自分で選択をしない方かもしれない。仕事の上では毎日いろいろ選択決断しなければならないことが多いので、ほとんど悩まずなんでもすぐに決めていくのだけど、こと個人的なことについては、ほとんど自己主張的に何かを選択することは無いように思う。自分が何かを欲しいかなんて、最大級重要なことに思えないし、はっきり言ってどうだっていい。つれあいについてはどうでもよいとはいえないにしろ、その他の自分のための選択なんかは実にいい加減だ。
 そういうわけで、人が何かを選択することについては、日々何となく疑問に感じていることはあるかもしれない。
 ちょっと前に子供たちから、どこそこのコンビニに行けとそれぞれ別のコンビニに行くようにとの指示を受けて、コンビニなんてどこでも一緒じゃん、とついつい思ってしまった。好きなコンビニがあってもいいのかもしれないが、そこでなければ買い物したくないというのは身勝手だと感じるのかもしれない。コンビニエンス・ストアの名前どおり、自分の都合に良ければいいわけだから、近くであるとかの利便性に合致していれば、その都度利用すればいいだけの話である。わざわざ自分の好みのコンビニを探して買い物に行かなければならないという選択は、合理的に思えない。
 しかしながらよく考えてみると、僕の運転する車だから、多少遠くても自分の行きたい店に行きたいというのは、彼らの合理性として正しいのかもしれない。コンビニなんてどこでも一緒だとはいえ、れっきとして店のカラーは幾分の違いがあるのは確かだ。パンの種類の豊富さや、アイスクリームの品ぞろえに違いがあるのかもしれない。自分の行動範囲が車によって広がったのだから、そちらの選択肢を優先させるという考え方であるということなのだろう。
 それに対して僕の選択させたい欲求は、単に買い物を早く済ませたいということだったのであろうから、非合理に見えただけのことなのだろう。そもそも利便性や選択の合理性の問題ではなかったようだ。
 そういうわけで、やはりアメリカ社会でなくとも小さな違いを選択することによって満足感を得るというのは間違いではないようだ。そうであるからこそ、コンビニに限らず様々な商品は、小さな差別化を図って売れるようしのぎを削るということなのであろう。安いというだけの差別化は、よってむしろ無個性に走らざるを得なくなるということなのだろうか。
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スマホ勝利(恐らく)

2012-01-28 | 境界線

 携帯電話とスマートフォン、どちらがいいのか、というような紹介を見た。
 結論としてどちらがいいというよりも、携帯をものすごく使いこなしている達人としての個人もいるのだけれど(これはケン玉やヨーヨー使いが凄いというのと同じだ)、結果的にスマートフォンの驚きの機能紹介ということになっていた。携帯はあくまで、電話としての優位性や安全性という点で利用すべきものということのようだ。機能としての優位点やその将来性においては、すでに勝負はついているということなのだろう。
 定義的な理解として、スマートフォンは携帯するパソコンであるという理解をしていたわけだが、どうもそういう理解を越えたものであるらしいということもよくわかった。パソコンで出来ることはもちろん出来るので小さいパソコンであるというのはそんなに間違いではないにせよ、それではノートパソコンやタブレットの小型のものなのかということとは、やはり違うようなのだ。小さいものが何か出来るというのは、基本的に機動性がまるで違うということで、生活の変え方がまるで違うものだということのようで、やはり別物なのであった。とくに面白かったのは、動かすことを前提に傾かせる動きを利用する楽器としての使い方があった。弦楽器は弾けないがスマートフォンの中の弦を弾く演奏は出来る(厳密にだから弦では無いのだけど)し、ものすごく得意だという人が、これからのミュージシャンには主流になっていく可能性はものすごく高そうだった。少なくともその入口においては。
 こうなればいいと思ったことが次々に実現していくというスピード感がまるで違う。とにかく使用法はどんどん加速度的に膨らんできていて、とてもとらえきれない領域まで広がっている可能性がある。それも既成の製品にとどまらず、利用している本人がアプリケーションを利用してどんどん開発しているのである。そういうものを開発させる基本的なものはプロが作っているのだろうけれど、利用している人がソフト自体を自分の利用のためだけに開発して使うということが自然に身に着くツールとしての可能性が、ものすごく高いようなのだった。凄いとは思っていたけど、これってやっぱりもの凄いです。
 別に頑固な性格ではないけど、だからと言ってスマホに替えるのかは個人的には別問題なんだけどね。僕は携帯は、電話としての機能と携帯する検索ツールが基本なので、壊れてから考えようという基本姿勢は変わっていないのだ。まあしかし、確実に「欲しい指数」は数段上がったので、近い将来のスマホ体験を楽しみにしております。
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汽車に乗ってくる

2012-01-27 | ことば

 フェイスブック上で「汽車」という単語の混ざったつぶやきを書いたら、「確かに汽車だよね」という反応があった。地元の在来線は単線の上電車が通っていない。隣町の諫早からは電車が利用できるが、飛び越えて長崎まで行こうという時に、わざわざ乗り換えることはしない。
 そういうわけで、いわゆるディーゼルカー(専門的には気動車とかいうらしい。ディーゼル動車とも。欧州ではレールカーだそうだ)が走っている訳だが、このことを汽車と呼ぶのは自然のことのように思える。汽車と言うと蒸気機関車を思い起こす人もあるのかもしれないが、そういうものが現在も走っているところの方が珍しいし、僕なんかは実物が走っている姿すら見たことがない。
 国鉄がJRに変わってからもしばらくは普通に汽車と言っていたはずだが、確か働きだしてしばらくした時に、長崎市での会議か何かの席で、佐世保からの出席者が「JRに乗ってきた」と言ったのを聞いて、ちょっと不思議な気持ちになったことを覚えている。
 長崎市の人が何というのかを注意して聞いてきた訳ではないが、最近になって電車と言っているのを聞いたことがあって、これも不思議な感じだった。長崎市の場合であっても電車といえばチンチン電車もあるので、国鉄(JR)の列車のことを普通に汽車と言っていたはずである。福岡あたりに行くのであれば電車というのは自然だけれど、JRを指して電車というのはふさわしくない気がする。
 そういえば寝台特急の「さくら」や「あかつき」が無くなってからも久しくて、長距離を汽車が走るということが無くなったというのも大きいのかもしれない。僕が初めて大阪の兄のところに遊びに行ったのも「あかつき」だったし、無くなったものをいまさらどうしようもないが、そのいまさらながらに寂しいと思う。
 さて、東京や大阪に行くと、電車というのは当たり前である。だが、電車というのは、普通はJR以外の私鉄を指して言っていたようにも思う。もちろん総称としての電車でもおかしくは無いのだが、あえて別にしているのは、やはりJRは元国鉄だからだと思う。そして国鉄の中には、寝台特急のような電車以外のものが混ざっていることもあったのではあるまいか。地方を電車以外で結ぶ車両とは区別するという意識が働いていたのではないのだろうか。そのせいだと思うが、山手線や中央線を利用する場合なんかは、JRと社名をあえて使っている人も多いような気がする。私鉄とJRとか、電車もJRもあるなどという表現は、極めて普通の語感がある。
 つまり僕らの住む田舎のまちを走っている列車は、普通に汽車であるはずだったのだけど、人口の多い人々の使う言語の中では、いつの間にか汽車は消滅していっている可能性があるようだ。汽車という単語を聞くと、特異な引っかかりが生じることもあるのかもしれない。それを地方出身者は感じ取って、地元の汽車のことも含めて電車という総称で表現するような人が現れたのではなかろうか。そうして地元に帰ってきても、そのまま電車と使ってしまう。田舎者は何故だか田舎者というのを恥じる感覚があるもので、「ああ、電車って都会的(でかっこいい)」と思う人もいるのかもしれない。その感覚自体は理解できるものの、かえって田舎者くさい悲しさである。
 まあ、非難するつもりはなかったのだけど、僕は大村のようなまちでJRのことを電車と言ってしまうのは、悲しさも含まれるような気がしてしまうのかもしれない。まあ、確かに、せいぜい二両編成の汽車の走っている姿を見ると、当たり前だがかなり田舎くさい。そういうものを卑下してしまう田舎の人間というのは、仕方のないことなのかもしれない。とくに若い人間などは、田舎をクサすのが商売のようなものである。「ああ、こんな風景なんて嫌だ」と思っても、住んでいる以上どうしようもないのである。そうしてせめて「電車」と言ってしまう。ああ、やっぱり悲しい物語である。
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扉をたたく人

2012-01-26 | 映画
扉をたたく人/トム・マッカシー監督

 最初はホラー映画かなと、ちょっとドキドキした。でもまあ、人間の巻き込まれるホラー的な状況とは言えるのかもしれない。不法入国の問題。人間の生きがい。そしてもはや保守的で自由ですらないアメリカという国の悪夢のような現実。テロの生んだ殻に閉じこもろうとする苦悩の社会を、見事に描き出したといえるだろう。
 主人公の大学教授である米国人は、妻に先立たれて失意のうちにあるのか、何か覇気のない日常を送っているようだ。最低限の仕事をこなし、それ以上のことをするつもりなんてさらさらない。しかしながらいやいやながら学会で発表しなくてはならない羽目に陥り、その出張先でもある長らく住んでもいなかったもう一つのアパートに帰るのだが…。
 音楽をやりたいという気持ちはもともと持っていたようだが、最初からピアノのハードルは高すぎたようだ。気持ちとは裏腹にまったく上達するめどが立っていなかった。そうした中、一見単純そうに見える打楽器のジャンペという太鼓との出会いが生活を一変させてしまう。ひょんなことで知り合ったジャンペ奏者との交流と、彼に降りかかる事件にも否応なしに巻き込まれていく。いや、自ら積極的にかかわりを持とうとしていく。その彼の不条理な境遇に巻き込まれていく偶然のきっかけを作ったのは、自分のせいでもあるようだ。その上自分の住んでいるアメリカという国に対する信頼感も持っていたのだろう。
 しかしながら結果的に状況はまったく改善するようには思われない。むしろやれるだけの行為が、何もかも無駄にすら思えていく。ここは人によっては、何の自由も保証しない、いや、保証しないどころか、自由を束縛して何の関心もない冷たい社会であったのだ。
 自由というのはアメリカの理想を支える重要な思想のはずである。しかし、そういう絶対的とも思える価値観でさえアメリカの社会は、ある一部の問題として放棄して無関心になってしまったようだ。もちろんそのような世論は、自意識の中には微塵もありはしないだろう。テロに対する過剰な恐怖感が、結果的に一部の人間への強烈な差別という形で露呈していく。その上で何の罪の意識すら持たないし、関心すら湧かない。国を支えていた活力であるはずのアメリカの理想を信じた多くの移民に対して、かつては自分たちの姿であったはずの人々に対して、内と外の問題として受け入れようとしない人々。積極的に排除してしまおうとする人々。無言の憎悪が、夢と希望の前に、ただ無言を強いられ泣き寝入りせざるを得ない人々を追いこもうとしていく。誰も何もできない。あるのは人間の感情とは思えない冷たい規則だけなのだ。
 激しいアクションのある映画ではないが、実際は坦々と映像が進んでいくだけなのだが、静かながら確実に衝撃的な問題作だ。まるで共産主義の国の、それも過去の出来事のようなことが、現実にアメリカ社会を覆っているということなのだろう。
 しかしながら、そのような自己反省の出来る国であるのも、実はアメリカの姿だ。だからこそ、こうした映画が作られる。流れとしては、一方的な圧力が生まれた瞬間は多くの場合問題視すらされることは無くても、徐々にではあれ、このような疑問を感じる人々が、やはり自由に生まれていける社会なのであろう。若い国アメリカと言われるが、アメリカの経験が、その後の社会に与える影響は大きい。多かれ少なかれ、僕らの教師であるのは、そういう体験的な社会であるからなのであろう。そして、そのことにおいて、やはり自由な国ということになるのかもしれない。
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兄とその妹

2012-01-25 | 映画
兄とその妹/島津保次郎監督

 戦前のモダンな生活描写の楽しい映画である。今でいうと、というかちょっと古い言い方だけど、いわゆる当時のトレンディ・ドラマという感じなのかもしれない。西洋風の食事だったり、ハイキングに行ったりなど、都市生活を満喫しながら非常におしゃれなライフスタイルを送っていることがよくわかる。そうでありながら会社の中の軋轢は、妙に日本人的な村社会というのもなかなか考えさせられる。そういうあたりが現代人の目から見ると、率直な驚きと滑稽さを感じさせられるのかもしれない。その上やはり武士道的な潔白さがあって、そこまで強がる精神性の潔さも含めて、楽しい映画体験の時間となるだろう。クライマックスのどんでん返しのテンポも見事で、娯楽作としての映画のお手本のような作品である。
 会社勤めのときは、ビシッと背広で決めているのだが、家に帰ると和服にまたビシッと着替えなおす、という感じも見所だった。服の脱ぎ捨て方が妙に乱暴で、そうして着替えのその所作は、不思議な連携を見せて見事である。夫婦というものの共同作業の美しさというようなものが感じられて、ダンスを踊っているようである。
 兄夫婦と独身の妹が同居しており、家族なのだが付かず離れずというような距離感があって、しかし同時に互いの気遣いがある。結果的にそういうお互いの思いやりのようなものに、その育ちのような理想的ともいえる気高さがあるということなのであろう。ちょっと幻想的ですらあるのだが、恋愛では生まれえない愛の形ということも言えるのではなかろうか。
 最終的に兄のとる行動は、自分自身の利己的な感情に対するうしろめたさがそうさせたようにも思った。妹が潔く兄のことを考えているのに対し、自分自身は逡巡してしまった。結果的に思わぬ誤解の根が想像以上に広がっていることに驚かされるのである。相手にぶつける怒りは、そのような自分自身に対する怒りだったのかもしれない。恥ずかしさだったのかもしれない。それは極めて日本的な美学でありながら、どこか合理的に割り切れない近代性への批判なのかもしれない。
 古い映画には違いないが、基本的には今の日本の近代批判としても十分に通用するテーマのようにも思う。繰り返すが、そのような理想主義が好ましいと思えるうちは、日本的な美学は生き続けているということなのであろう。
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天才は崇めるのみにあらず

2012-01-24 | 境界線

 画家で蒔絵師の天才、柴田是真の映像を見た。
 金粉を使った蒔絵の規制によって、かえって技巧が生きていくという時代背景もあって、是真自身が言ったといわれる「(蒔絵は)金銀によって価値を失う」という言葉の重さが光るのだった。
 たとえ大きい絵であっても、子細にみるとミクロの世界まで実に丁寧に超絶技法を展開している。ため息の出る絵とはまさに彼の天才をもって言えることなのだろう。蒔絵界のダビンチだといわれるゆえんである。
 富士の絵を描くために自身も富士にのぼり、その風景だけでなく、ふもとに暮らす人々の生活までも描写してしまう。それはほとんど宇宙といっていい世界で、どこまで観ても楽しめる奥深さを表現するのである。
 そういう天才が日本にいた、という話で終わっては本当にもったいない。人間というのは、求めればそのような高みまで極める人がいるという証明なのではあるまいか。超絶であるがゆえに、人間の高みと奥深さを思い知らされるすさまじい人物である。
 そしてそういう人が細部に描く昆虫などは、実にユーモアに満ちてもいるのである。真剣でありながら遊び心も忘れていない。自分自身の満足だけでなく、いかに人を楽しませるのか。そういう視点の変化にも心配りがなされているから、唸らされるだけでなく愛されるのであろう。もちろんそれは国境を越えて人類的な普遍的な価値をもった上なのである。
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すき焼きに白菜は…

2012-01-23 | 

 料理番組を見ていると、すき焼き(関西風)を作るコツは、水気をたくさん出す葉野菜を入れないことだと紹介してあった。豆腐やネギやシイタケ、ゴボウなんかを入れていたようだ。肉を入れて砂糖を入れて焼いて、醤油ダレや酒みりんなど入れると、後はそのような具を合わせ入れて、そのままグツグツやるようだ。味が薄くならないので生卵とも相性がいいのだとか。
 確かに旨そうなんだけど、そういうもんなんですかね。黒っぽいスープの中に白菜が沈んでいて、そういう味のしみた野菜を食べるのもすき焼きの楽しみのように思っていて、なんだか本当に意外な気がした。
 すき焼きといえば映画の「悪名」を何故か思い出すのだが、勝新太郎がすき焼きを食う姿は本当に旨そうで、すき焼きとはああいう少しくらい無頼派というか、品の無い人が食う方が断然旨そうだと思ってしまう。上品な人が食うとなんで様にならないのだろうね。まあ、単なる偏見なんでしょうけど…。
 僕自身は醤油味というのは子供の頃にはあんまり好きじゃなくて、すき焼きにもそのような思い出があるように思う。しかしながら育ち盛りになってくると、すき焼きの味付けと飯をがっぽり食うというのはかなり魅力的で、夜もいいけど翌朝もまた楽しみであったように思い出す。
 そういえばすき焼きというのは、各家庭によってかなり違う食いものらしいというのもなかなか面白いものである。そもそもすき焼きは牛ではなかったとか、いろんな事情でいろいろな食材になるようである。クジラこそすき焼きだった、という話も聞いたことがあって、時代によっても姿かたちはかなり違うのかもしれない。
 鍋奉行によってかなり出来合いの味が違いそうなこともある。肉が固くなるからくれぐれもこんにゃくは先に入れるな、と言っているそばからどんどんこんにゃくを投入するような人がいて、宴会などは鍋ごとに険悪な空気になったりすることもよくあるようだ。
 この間観ていた談志のドキュメンタリーでは、談志が弟子から3万円のすき焼き肉を貰っていた。貰うと嬉しいだろうが、贈るにも勇気がいりそうな領域である。
 知り合いに以前肉屋に勤めていた奴がいて、王監督が10数万円すき焼き肉を買ってくれた、という話も聞いたことがある。スポーツ選手というのは食事代が大変なのかもしれないなあ、と思ったことであった。
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じゃんけんと民主主義

2012-01-22 | culture

 ふと、じゃんけんの「最初はぐー」というのは欽ちゃんだったっけ? と疑問に思ったのだけど、答えはドリフ(とくに志村けん)だったということだ。欽ちゃんはあっち向いてホイなので、じゃんけん関連でそう思い込んでいたのだろう。ドリフターズは食事の支払いはじゃんけんで決めていたらしく、支払う時に酔ってしまってじゃんけんの号令がそろわないので、最初はグーですね、とそろえたのだという。それを番組でも使っていて日本全国に広がったのらしい。
 じゃんけんポンという号令だけで揃わないのに、最初はグーだと揃うというのは少しばかり疑問だが、じゃんけんを出すのが揃わなくてやり直しだというのは、遅出しがずるいからである。遅出しの人が勝った場合はやり直しというのなら分かるが、時には遅出しの人が負けているのにかかわらず「やり直し」という号令がかかるとやりなおされる場合があって、何となくそういうものこそずるいという思いがするのだけど、じゃんけんが始まるとそれに抗うことができない。そういう仕切りのようなものをジャッジ出来る人がいると助かるが、そういう人を決めるのにじゃんけんが必要なら、やはり本末転倒である。
 実は中国留学時代に、かの国の人の多くがじゃんけんを知らなくて驚いた。日本の文化をいくらか知っている人なら普通にじゃんけんを理解しているが、しかしそれは日本から来たものというより、中国から日本に渡って定着している間に中国はじゃんけんを忘れたのだという風に理解しているようだった。民間ではそういうのはどうでもいいけど、すべての文化の発祥だと信じている国民は強いものである。
 さて、そういうわけでじゃんけんが無ければ困るのかというと、やはり彼ら同士の間では、そんなにじゃんけんが必要でないらしいというのも、あとでわかった。嫌なら押しつけるし、良ければ自分がごり押しする。要は強ければ勝ちなので、じゃんけんで決まったことも簡単に反故にされる。つまりじゃんけんの意味がない。じゃんけんのような遊びはあるにはあるが、そういうわけで日本のじゃんけんのように誰でも運で勝つというようなものではなくて、説明するのが厄介だが、いわゆる考えてやり方が上手かったり強かったり少しばかりずるかったりする方が勝つようなゲームで物事を決めるのである。日本人の目からすると極めて不公平だが、弱肉強食の世界なのでその方がかえってはっきりしているのであるようだ。
 じゃんけんというのは日本に住んでいると大変に便利な文化なのだけど、欧米や中国などの自己主張が大切な文化では、かえって厄介な摩擦を生みだす元になるような気がする。
 自分の主張の方が正当だとか、自分の方が強いということを明らかにしたい文化圏では、運で物事を決めるというのは、大変に不公平な印象を持っているのではなかろうか。
 日本人も自己主張を大切にすべきだという意見をよく聞くことがあるわけだが、そういうことをいう人は、じゃんけんを廃止すべきだということを考えてみてはどうだろうか。
 なかなか物事が決まらないで厄介なことになるとは思うが、自己主張の文化というのは、根本的にそのような厄介な取り決め方法のことなのである。少しでも反対があるから(もしくはあるかもしれないという予想だけかもしれない)と言って口をつぐんでしまうような考え方こそが、実は自己主張の無さのような気がする。物事が決まらないからじゃんけんで決めるというような乱暴な文化は、そもそも民主的な手続きですらないのである。
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デカルト

2012-01-21 | 読書
デカルト/野田又夫著(岩浪新書)

 学校では「われ思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」と習ったような気がするが、ここでは「考う故に」となっている。言葉的には思うというのはどちらかといえば、一点とかひとつのことを指す場合が多く、考えるは複数のことを指す場合が多いということもあるので、考える人であるが故ととらえるのならば、本書の訳というのが適当なのかもしれない。また、本書の中であるように、「われ歩く故」や「われ○○ゆえ」といろいろ置き換えるのも可能ではないかと思われる向きもあるだろうが、そのような行動の前に「考う」という言葉が入り込む余地があるため、やはりこれはデカルトが偉かったのだということのようだ。つまり考えていないひとは「われ無し」ということであって、考えてみると手厳しい。考えたうえで無言という場合であっても、それは自分においてわれありなのでいいわけであって、一種の唯我論的な出発であるが、それは真理としてその通りである。デカルトで現代人が生まれたようなものだというのが分かって、それなりに面白かった。
 デカルトは昔の人だから、現代人の目から見ると多少滑稽な試行錯誤をしていることが分かる。大変に頭のいい人だったことは間違いないが、しかしながらそういう人であっても、最初の頃に物事を考えぬくということは、それなりに大変らしいことがよくわかる。巨人の肩に乗るという行為を経ないで人間というのは、物事を考えるという行為においても大変に困難が付きまとうということなのだ。結局僕らは近道を歩くために、本を読んだり勉強をしたりする。それはいばらの道のように見えて、実は一番平坦な道なのだ。そうしてその平坦な道であってもそれなりの距離があって、すぐにたどり着ける場所というのは知れているということなのであろう。
 僕らが現在考え悩んでいることの根本の多くは、いや、そのほとんどは、古典的哲学者たちがすでに考え悩んでいたことなのかもしれない。その彼らにおいて一定の答えを見出されたものであっても、後に覆されたり否定されたり、または再評価されるということを繰り返して現在があるのは間違いがない。科学的な研究から導き出された物理的な真理であっても、いわばその出発点においては、哲学的な省察を経て、その実証を任されたということも多いようだ。人間が考えたことである方向に、自然というものの真理は隠されている。いや、その道筋の向こうに、やっと姿を現すことをするのかもしれない。そういう科学的態度を明確にした最初の人間が、実はデカルトであるということが言えて、そしてそうだからこそ、彼はわれわれ現代人の原型のようなものなのかもしれないのだ。僕らはデカルトを体の中に取り入れることによって初めて、現在の社会を生きていくことができるのかもしれないのであった。
 もちろん、そういうものの考え方の中にも、それなりに危ういものは含まれている。そうして当たり前だけれど、デカルトであっても間違いはたくさん犯している。しかし、彼のいわばその素直な態度は、人間が生き抜くうえでは、大変に重要であるように思える。われありという単純さの中には、人として生きていくコアのようなものが集約されているといえるだろう。そういうものを取り去る無私というものもあるのかもしれないのだけれど、それは同時に我ありという状態から出発しない限り、やはり到達される道ではなさそうだ。単純そうで大変に手ごわい。しかし同時に大変に弱くも脆い人間の確証が、やはりそこに集約されている。
 誰もが知っていることでありながら、やはり目覚めなければ分からないデカルト的な自我というものを、改めて知るという格好の入門書なのであった。また、ある意味で現代の政治家のような人々がもっとこのような自我に目覚めてくれると、議論というものはもう少し前に進むようにも思えて、何となく残念になったのだった。
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ゴリラ社会の父性と社会の成り立ち

2012-01-20 | culture

 ニシローランドゴリラのドキュメンタリーを見る。
 マウンテンゴリラとは違って木登りが上手である。木の枝を強引に折りながら食べる姿に、最初はちょっと森の破壊者的な印象も受けたが、物事を追っていくうちに、そういう強引さも含めて、森自体と共生していることもよくわかった。そういう荒っぽい付き合い方で、森とのやり取りは逆に上手くいっているということなのだろう。
 ゴリラと人間とは同じものではないのだけれど、そうしてあまりにも擬人化して考えることにはかえって誤解を膨らますことにもなりかねないのだけど、人間の社会の起源を考えるときには、人間と同じ先祖を持つゴリラのような親戚の姿を見ることは、大変に参考になることは間違いがない。
 ゴリラの社会は、父親を中心とするいわばハーレムで群れを形成するもののようだ。人間的にみると極めて封建的な社会である。力で群れを統治する絶対権力者のリーダーが、一人の父親なのである。そうして複数の母親(この群れでは6頭)がいて、子供が15匹以上いたようだ。父親は群れを守ってはいるようだが、基本的に自分が先に飯(木の実など)を食い、傍若無人に振舞っているようにも見える。一見群れを従えるという表現がぴったりするような、そのような完全封建社会の姿である。
 しかしながら彼らの生活を子細に観察していくと、そのような封建的な社会でありながら、それが人間社会の封建制とは、やはりかなり違うらしいということが見えてくる。権力者が自分自身の安楽のために君臨している社会ということではなくて、逆にその群れ全体が、互いに思いやりながら社会を維持している中で、その手本としての封建リーダーが、父親という存在なのである。
 子供たちは遊びながら、父親のしぐさのまねをする。そうして強い父親がするように、群れの中の弱いものを守ろうとするのである。群れの中に一匹だけ片腕を失った弱い存在としての子供がいる。周りの兄弟たちはその子を取り囲み、移動ではその子を待ち、そうして敵の襲撃に備えようとしている。それらの行動は本能的というより、リーダーの行動にいわば共感し、まねるようなことから獲得していっているように見える。いわば、確固たるお手本があるために、社会性を形成していっていると考えていいようなのだ。
 おそらく人間においても原初の封建制というものは、このような集団的ななりたちであった可能性は高いのではあるまいか。それが社会性の原型であり、現在の社会的ななりたちは、その変形ということも言えるのかもしれない。父性というものは時には疎ましさの対象として語られることの多い昨今において、このようなことは悪しき原型ととらえる感覚が強いものなのかもしれないが、しかしながら、それは本来的には疎まれるより先に、好ましいものとして共感され連鎖するようなものから始まったものなのかもしれないのだ。
 繰り返すが、必ずしも擬人化して語ることには誤解される要因が多すぎるとは言える。しかしながらこのような社会の成り立ちを考えるときには、素直に人間の社会の成り立ちを考えるよすがになりうる観察なのではあるまいか。ゴリラ社会に人間が学ぶというのは、そのような素直な観察眼を養うことに他ならない。人間には偏見が多すぎる。それは、かえって自分自身を見つめるまなざしに、色眼鏡をかけているようなものなのではあるまいか。
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マンダレイ

2012-01-19 | 映画
マンダレイ/ラース・フォン・トリアー監督

 誰もが良いこととして疑わないことであっても、実行してみると上手くいかないということは多々あることだ。この映画では、比喩的にそのことを批判しているようだけれど、そうしてそれは確かな事実らしいことのようだけれど、そして、恐らくその批判しているものとは民主主義のことらしいのだけど、少しばかりそれは、やはり白人の独善的な思想であるようにも思われてならなかった。ましてやそれを、歴史的にも苦難の事実のあった白人社会と黒人社会であらわすという手法においては、さまざまな誤解や偏見なども混ざりこんでいて、そのあまりに特殊なレアケースの展開でのみ語られることに、新たな疑問の方が次々にわき出てきて、物語の展開を追うことにも、ある種の困難さを覚えたのだった。とらえようによっては、黒人には黒人のしあわせがあるかのような、そんな後味の悪さを覚える。黒人特有のつまらなさというのは、本当に白人の中には無いものなのだろうか。
 そうして唐突に表れる激しい性的欲求。白人の独善性を表わしているのかもしれないのだけど、そういうものでしか自分自身に気づけない個人というものに、何故か疑問の方ばかりが膨らむ気がしたのだった。まあ、もともと変な映画だろうとは思っていたのだけど、その奇をてらった表現に懲りすぎて、かえって固執してしまったようにも思える。主人公を演じたロン・ハワードの娘自体は、大変に熱演していて上手かったのだけど、ちょっと使われ方がかわいそうだったかなとも感じてしまった。独善的なアメリカ自身を体現しているようでいて、しかしそれをこの個人になすりつけてしまってもいいのだろうか。結局は誰も反省しないままに自分の偽善に酔ったまま、今までの失態についてほとんど忘れてしまっている真のアメリカ国民というものについては、結局はたどり着けていないのではないだろうか。
 しかしながら、さらにその問題提起にすら考えが及ばないような人々についての啓発としては、一定の役割は果たしているようにも同時には感じられる。そういうあたりの凄さに対して、僕自身が少し辛口になりすぎているということはあるのかもしれない。
 前作の「ドッグウィル」には人間性の共通した愚かさのようなものを暴きだして、不快ながらある程度の溜飲を下げるものがあったのだけど、マンダレイの問題は、どこか自分とは違う他者に対する批評のような、そのような距離感を覚えた。基本的には同じような演出やテーマなのだけれど、そこのあたりが最も評価の分かれるところなのではあるまいか。ガツンと激しいショックを与えるという荒療治の手法は、それなりに共通して評価していいとは思うものの、もう少し自分自身の問題としての共感や嫌悪や、まとわりついて離れないような戸惑いや悩みというものについて、語ってほしかったとも思うのである。それは他者だけに対する攻撃ではなく、恐らく自分自身に対する批評によって得られるものであるように思われる。
 万人にはお勧めではないにせよ、しかしこれはやはりお勧めしなければならないとも思う。誤解する人もいるだろうことも含めて、不快になる気の毒さもありながら、やはりこの変な映画を多くの人は観るべきなのだと思うのであった。
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THEダイエット!

2012-01-18 | 映画
THEダイエット!/関口祐加監督

 監督さん自らの体験をつづるセルフドキュメンタリー。ダイエット体験談というより、自分が太っているという理由と歴史、そしてアイディンティティの確認ということのようである。太っているということの自己確認の仕方のすさまじさと面白さで引っ張って行きながら、シリアスな部分では自分をここまで私小説的にさらけ出してしまって本当にいいのだろうかと心配になるようなお話だった。日本女性でありながらオーストラリア人的なあからさまさも会得している不思議な人物である監督さんのパーソナリティの勝利なのかもしれない。
 太ってしまう理由ははっきりしている。痩せるために何をしたらいいのかというのもものすごくシンプルにはっきりしている。しかし、実際に太らなくしたり痩せたりするのは大変に難しい。結局どうしたらいいのかと迷っている人が多くなるようだが、迷わなくてもやり方を知らない人などいないだろう。迷っているのは楽をして痩せたいというだけのことだ。ダイエットを実行しても効果の出るのは大変に遅い。そのスピードの遅さに人は耐えられないのかもしれない。そういう速度の遅さを克服するにはどうしたらいいのか。それは、そのようなシンプルさを自分で受け止めるしか方法がないということだ。現在の自分を認めること。それができるかできないか。自分のことは自分自身が一番よく知ってるって? そのように考えている人にはダイエットは成功しない。自分を知らないことを知ることがいかに難しいことなのか。期せずしてダイエットに励むうちにそのことに気づく人は偉いものだと思う。結果的に、そのことを知ることができれば、ダイエットはやっとスタート地点に立てるということなのだろう。
 別段禅問答をしたいわけではない。自分自身を認められないからダイエットという手法が分からなくなっている。自分を知っている人が痩せている人とは限らないけど、ダイエットに成功している人は、意志の強さの前に自己分析が上手くいく人なのかもしれない、というだけの話なのである。映画の結末はだから、ダイエットの成功談ではない。カバ女にもカバ男がつくかもしれない。そういう表現をしていたのだけど、それは自分自身の肯定なのかもしれない。相対的に他者がそれを認めることによって自己確認をしているわけだ。
 楽しい映画だが、同時に本当は辛い物語だ。これを日本女性ができるということに、何かちょっと不思議な感じすらしてしまう。日本を脱出した日本女性だからこそ、日本の女性性に目覚めてしまう。そういうところがなにより考えさせられるドキュメンタリーということなのだろう。
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俺一人で食いたい気持ちに共感する

2012-01-17 | 

 談志のドキュメンタリーを見ていて、いくつかその人となりを表わすエピソードが紹介されていたのだが、その中で談志を含めて数人で食事を摂りに行った時、最初に談志が何か注文したのだそうだ。注文した品は忘れたのだが、面倒なので例えば彼はドライカレーを注文したとしよう。そうするとそこにいた複数の人が続けて同じように「じゃあ俺も」という感じでドライカレーばかりになってしまった。そこで談志は「悪いけど、俺一人でドライカレーを食いたいんだ」と言ったという。それで皆は談志とは違うメニューを注文しなおしたようだ。
 個性的な人柄であるという意味で紹介がされていたのだと思うのだが、もちろんそういう意味としても印象的な出来事であったとは思うのだが、僕はこれは談志流の気遣いのようにも感じられる。その上で、確かにみな同じものを食うことのつまらなさを感じていたのもよくわかるのである。
 伊丹十三の映画で、フランス料理店か何かで注文をする場面があって、その場の社長かなんかの一番偉い人が、ビーフシチューか何かを注文すると、役員その他が右へ倣いですべてビーフシチューになってしまう。最後に一番若い付き添いのような社員が、好きな品を複数注文したうえで、その料理に一番合いそうなワインまですらすらと注文してしまうというギャグがあった。
 職場関係者の寄り合いの席で、ちょっと一緒に飯を食おうということになった。さて何食おうという時に、お店のことを考えてみな同じものにしようと提案する人が時々出る。まあ、おごってくれるという意味もあるのかもしれないが、ちょっと複雑な心境にはなる。これも決まってご年配の人で、気づかいかもしれないが世代を感じさせられる。
 僕は断然談志にシンパシーを感じることが多い。先に注文してしまうと右へ倣いがたくさん出る場合が多くて、ちょっと考えて後から発言することが多いかもしれない。本当はゴボウ天そばを食おうと思っていても、先に誰か注文すると丸天にしてしまうことも多い。ようはなんでもいいとはいえるものの、やはりつまらないと思うからに他ならない。それで後悔するもよし。出来るだけ皆が違うものを食う。出来ればそれが個人の思いならなおいいのだが、同じじゃない楽しさが、食事の旨さとも関係があるような気がしてならないのである。
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