カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

変なアメリカとアメリカ人(2020年をふりかえる)

2020-12-31 | なんでもランキング

 バック・ト・ザ・フューチャーで有名になった自動車が、「デロリアン」だったというのは、実は知らなかった。もちろん映画に出てくるので車は知っていたが、その人物はまったく知らなかった。いかにもアメリカ的で、そうしてやはりアメリカ的に悲しい。そうしてこういう映画にまでなってしまって、ある意味ではさらに可哀そうだ。家族も悲しんでいることだろう。しかしまあ、映画はいい出来栄えになっていて、要するに見世物として格好の人物だったわけだ。人はいろんな失敗をするものだが、こういう失敗はしたくない、という見本のような人なのかもしれない。
 愚かな犯罪者といえば、そりゃあたくさんいることだろうが、ふりかえり再現されて検証されるということをされる人たちは、そうたくさんではなさそうだ。若き過ちには違いないが、こういう取り返しのつかないようなことを、いかにも若気の至りでやってしまうというのが、やはり人間らしいことかもしれないではないか。「アメリカン・アニマルズ」は、そういう意味で傑作で、見終わっても感慨深い。ほんとにこんなことをしてしまうという青春の罪を、ひとごとでなく感じられる人間こそ、僕は信用すると思う。
 しかしながら、タランティーノの手にかかると、やっぱり悪ふざけになってしまう。そうして躊躇なく歴史を改竄する。先の映画では誰もが知っているヒトラーまで殺してしまう始末だ。彼は分かったうえで、そういうことを面白がっているのだ。そうしてそういうことに、ちょっとくらいはうんざりしないではない気分がありながら、やっぱり映画なんだから面白がってしまう自分がいる。傑作ではないが、よくもまあこんな映画に一流の俳優たちが出るものである。要するにいい面ばかりしていることにも、彼らはうんざりしているに違いないのである。そうして息抜きして、またいい映画を作ればいいのだ。期待してますよ、ほんとに。 
 
ジョン・デロリアン/ニック・ハム監督
アメリカン・アニマルズ/バート・レイトン監督
ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド/クエンティン・タランティーノ監督
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往年のスターのその後(2020年をふりかえる)

2020-12-30 | なんでもランキング

 2020年に個人的に観た映画をふりかえる。田舎暮らしなので、ほとんど映画館には行かない。住んでいるまちに映画館が無くなってうん十年。そういうスペシャルな習慣が無いのだ。毎年断りはしているが、だから僕はもっぱらDVDやネットで映画を観る。時系列は、ぜんぜんタイムリーじゃない。僕の時間でタイムリーだということなので、そこらあたりは自分で確かめて観てください。基本的にはお勧めを紹介するが、順位はよく分からない。言葉や概念の上では、順位というのは存在するが、実際はたいして意味などある筈は無い。一番だから一番いい映画? そういう考え方じゃ、一番いい映画は見逃すに違いない。

 僕が小学生の時にテレビで「スティング」を観た衝撃は凄かった。僕はロバート・レッドフォードの大ファンになってしまった。そうして、彼は「アウトロー」で引退した。それは仕方のないことだが、本当に寂しい思いだ。でもまあ、映画はまずまずで、引退作としてはいい感じではないか。必ずしも傑作ではないかもしれないが、演技としていい味のある作品である。せっかくだから「明日に向かって撃て」でも、また見返すかな。
 そういえば、「ラスト・ムービースター」も良かったのである。これはバート・レイノルズの遺作で、文句なしの傑作だ。彼自身も、これだけ客観的に自分を演じられたということで満点である。若い頃は、演技派ではなく、単なる調子のいいアメリカン・ナイスガイだったわけだが、実際は、やはり本当の俳優であり、映画好きだったのではないか。こういう設定で演技ができる器のある素晴らしい人物であることは、間違いなかったのである。
 もう一人、素晴らしい自分物といえば、ジャン=クロード・ヴァン・ダムである。そのままを演じているフェイク・コメディである。しかしながら、実際は笑えない。これだけ自虐的に自分を演じた俳優が、これまでいただろうか!(いたかもしれないが) かっこいいアクション・スターの、アンチ・テーゼを見事に演じ切っている。本当に素晴らしい。僕は改めて、ヴァン・ダムの大ファンになってしまった。

さらば愛しきアウトロー/デビッド・ロウリー監督
ラスト・ムービースター/アダム・リフキン監督
その男ヴァン・ダム/マブルク・エル・メクリ監督
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今からでも間に合うかどうか   せんせいのお人形

2020-12-29 | 読書

せんせいのお人形/藤のよう著(KADOKAWA)

 何か事情があって親戚をたらいまわしにして育てられていたスミカだったが、とうとう引き取り手が無くなる。遠い親戚たちはこの困った状況に、独身で教師をしている昭明(ショウメイ、と読むらしい)という男に託すことになる。昭明は、気難しいインテリだが、女学校の先生をしているので女子高生に、少しは免疫がある。しかしながらほとんど育児放棄状態でほったらかしに育てられたスミカは、うまく人間の感情を表に出せないばかりか、荒れに荒れている問題児だった。昭明は、言葉は厳しく冷たいままだったが、根気よく、しつけや生活態度などの改善を行うのだった。
 もとはネットの漫画で話題になり、紙媒体でも発行されたものだという。ネットでは120話あって完結しているらしいが、紙で発行されているのは41話で、第一部のような区切りで一応の完結としているようだ。僕は紙で3巻手に取って読んだ。最初にネットでさわりを読んでいて、紙があることを知って買ってしまったということだ。絶対ネットでは漫画を読まないと決めている訳ではないが、こういう形でしか読めないというのはちょっと残念だ。
 そういうわけで第一部の展開での感想ということになるが、さすがにそれなりに話題になっただけのことがあって、物語の顛末は面白い。育児放棄のためとはいえ、無気力で、学習レベルも小学生程度かもしれないとされる女子高生が、預けられた高校教師のもとで、読書の習慣から始まり、同級生のふしぎな天才からも教えを受ける。厳密に学校教育は意味がないようなものだが、しかしそういうことでメキメキと物事を吸収し、恐るべきスピードで世の中のことを学んでいくのだ。
 そういうことが、読んでいて爽快というのがまずはあるが、ただ単に勉強をどうするということだけではなく、ジェンダー問題や淡い恋愛、そうしていじめの問題も含んでのストーリー展開になる。何かこの一族には出自に関して謎があるようで、その条件のために少しレベルの高い学校へ転入をする試験というのが、クライマックスになっている。その後のことは分かりえないが、一族問題や、暮らしている先生との真剣な恋愛問題へと発展していくに違いないと思われる。仲の良かった友人たちとも、その後何かあるのかもしれないが……。
 まあしかし、誰もが学者や先生になるわけではないが、世の中のことを知るために、もっと勉強でいろいろ知りたいことがあったのだろうな、と読みながら考えていた。そういう欲求が、この物語を欲する読者層のあるように感じるからだ。つまるところそれは、上手く教わるからというより、その後自分自身でのめり込むより無いのだが、そういう初期段階での過程がよく分かる。それと、その前に、人間としての愛情を受けなければ、上手く育ちはしない。スミカは高校生で間に合ったが、果たしてみんな、間に合ったのだろうか?
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隔離された人間の狂気   9人の翻訳家 囚われたベストセラー

2020-12-28 | 映画

9人の翻訳家 囚われたベストセラー/レジス・ロワンサル監督

 全世界的に翻訳されているベストセラー小説の完結編の原稿がある。各国の代表的な翻訳家がある場所に集められ、隔離される。そういう特殊な状況で、同時通訳の作業を行い、世界的に同時出版しようという試みなのである。外部との接触が一切絶たれ、不自由な共同生活が始まるわけだが、警備は厳重な中とはいえ設備は充実しており、プールやボウリング場なども完備してある。おそらくギャランティもいいのだろう。そうやって、皆が毎日決められた分量を、少しづつ訳していくのだが、何者かが、情報を漏らしていることが分かるのだった……。
 実際の世界的なベストセラー・ミステリの「ダビンチ・コード」の続編「インフェルノ」が翻訳された際に、このような手法が取られたことがあるのだという。この映画は、その出来事をそのまま再現したわけではなく、そのことの背景をも含めた二重構造のアイディアを用いたミステリだと考えられる。
 翻訳家が9人もいるので、それぞれに様々な背景が隠れていそうで、原稿を流出させた犯人はこの中に必ずいるとは考えられるものの、何しろ隔離状態だし、ネットなどの通信方法は、どうなっているのか全く分からない。出版社側の社長はあせり、隔離状態を事実上監禁処置とし、翻訳家を追い詰めて仲間割れを含めて白状させる作戦をとるのだった。
 何か事情のあるらしい翻訳家たちが集められている時点で、ちょっと不穏な空気がある。誰が犯人なのかというミステリとともに、その事実が明らかにされていく後半のどんでん返しは、それなりに意外である。まさに、そんなことがあったのか! である。
 欺きあう演技合戦にもなっていて、俳優たちは、迫真の演技を競い合っている。舞台劇でもこのようなやり方はできそうで、あるいは、そういう手法の作品もあるのではないか。隔離物は、あんがいアイディア次第でそれなりに広がりが作れるので、面白い題材なのかな、という印象を残したのだった(怖いけど)。
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ワニさんの仕事は何だろう   Professional Crocodile

2020-12-27 | 読書

Professional Crocodile/by Giovanna Zoboli &Mariachiara di Giorgio(Chronile Books)

 外国の絵本。プロフェッショナルなクロコダイルってなんだ? という話なのだが、実はそのままのお話だったりするので、見てのお楽しみだ。
 ワニさんは、朝起きてトイレに行って、歯を磨き、朝食をとって身支度を整える。そうしてお出かけして、電車に乗ったりする。買い物をして、プレゼントなんかもして、最終的にどこに行くのか? という、一応ストーリーがあるようだ。一切科白は無いので、いわゆる読む必要はない。まったくの正統的な絵本というべきか。そうして最後に、なんとなくだが、驚いてしまう仕掛けである。まあ、小さく、という程度なんだが。
 水彩画のような絵で、しかし漫画チックにも書いてある。ワニさんの日常なんだろうな、ということが分かるし、ワニ以外にも動物は出てくるが、基本的に人間の中に溶け込んだワニさんなど、その他の一名、という感じになっている。冬の寒い都会の中で、人々は、ささやかながら、日常的にいろいろな楽しみを秘めて生活を送っている。そういう当たり前の事を、たとえワニであっても都市生活者として送っている訳だ。しかし彼には秘められた仕事があって、最後はその仕事に就くわけなのだ。おそらく、そうした生活を支えるために。
 いい絵本というのは、子供が見ても、そうしてその絵本を読み聞かせる大人が見ても、いいのである。そういう見本的な絵本なので、海外版しか売ってないけど、取り寄せてみてみたらいいのではないだろうか(そんなに高くないし)。
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HDDの残量が欲しい

2020-12-26 | HORROR

 僕は普段からたくさんのテレビ番組を、ハードディスクに予約録画している。朝からニュースを見る以外に、生で放送を見るというのは、ほとんどしない。何しろ録画で撮りためているものであふれていて、200時間程度は、見ようと思っている番組が、見られないままに収まっている。これらをコツコツ見ていくだけで忙しくて、とてもとても生の時間に追いつけない。これらを全部見たからと言って、生番組を見たいと思うのかは、よく分からないが……。
 多少のばらつきはあるが、週に40時間程度は、予約しているのではないかと思う。見たい映画のDVDも借りているし、オンデマンドの番組もチェックしていて、それらもちゃんと消費したいという思いがある。課金されているので、そっちが優先という感覚もある。でもまあ、撮りためている番組も、一応チェックしなおさなければ、とも思う。だから頭の部分のさわりだけ見るということもする。面白くて引き込まれたらそのまま見続けるが、まあ、後で見るか、と思ってまだ観てない次のヤツの頭の部分をまた観たりする。そうやって頭だけ見た事のある番組がたくさん並ぶ。そうしていると、いったい何が何だったか、ついには忘れる。そうするとまた頭を順番に……、なんてことをやって、自己嫌悪に陥る。もう頭にきて、見ないまま消したりする。酔っぱらって勢いよく消していくと、なかなか気分が良かったりする。そうして翌日はっと気が付いて、消してしまった番組の再放送をネットでチェックしなおして、再度録画予約をする。再放送が無いと、なんだかものすごく損した気分になる。取り返しのつかないことをしてしまったという焦燥感は、長く心に傷を残してしまう。
 でもまあ、物理的に録りためたものを全部見るというのは不可能だということには気づいている。だから、もう見ないだろうな、とか、これは見なくてもいいな、というのが決まると、エイヤっと消去して忘れる。この消去する基準というのがなかなか難しくて、いつも悩まされる。最近は面白そうだと思って録画して見てみると、何年か前の再放送だというのが結構ある。自分が興味のある分野だから面白そうだと思うわけで、見てみるとなんとなく覚えはあるが、結局面白く観てしまったりする。学習能力がないというのは改めて理解できたが、さて、この時間に新しいものを学習できたかもしれないと思うと、ちょっと残念である。
 結局見ないまま観るべきかもしれない、とか、もう再放送も無いだろうと思われるドキュメンタリーやナチュラルネイチャーものなどは、何年もハードディスク上に痕跡を残している。そうして新しく撮りためたが、もういいやと思うものをせっせと消去して、ディスクの残量を確保するのにあくせくしている。でも本当に見て消化できている番組なんてどれくらいあるのだろうか。そんなことを真面目に考えると非常に空しくなるので、やはり考えない方がいいのであろう。
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タブーというのは、触れてはいけないのである   お名前はアドルフ?

2020-12-25 | 映画

お名前はアドルフ?/ゼーンケ・ヴォルトマン監督

 もともとはフランスの舞台劇だったらしい。それをドイツで映画化したというのは、つまりお名前がアドルフだったからだろう。
 妻の弟夫婦に子供が生まれることになり、名前をアドルフにしたい、ということで、大混乱になってしまう。ドイツではとても許されない名前であるということなのだろう。日本だと英機でも裕仁でも特に問題になりそうにないが(ただし東条家はひどく迫害を受けたし、皇室の名前を付けるのは、ちょっと一般的ではないが)、ドイツにおいては、そうはいかないということがよく分かる。
 とにかく名前をめぐって、ここまで大混乱になるとは、とても思えない大混乱となる。せっかくの親しい間柄だけの楽しい集まりが、悪夢のような嫌悪感に包まれてしまう。ついには名前だけの問題では済まなくなり、凄まじい秘密が暴かれてしまうのだった。
 はっきり言ってかなり面白い。ちょっとスノッブなところが無いではないが、元が舞台劇ということで、実に科白の妙が巧妙に楽しめる。こんなことを言いあえるくらい親しい過去を、共有して持っている。それが決定的な伏線になっていて、だからこそ、このゲームのようなことが始まってしまったのだろう。結果はとんでもないことにはなるのだが……。
 悪酔いして、家族の間で本音を言い合って険悪なことになってしまうというのは、あんがい起こりうることなのではないか。実はこれを僕も時々やってしまう。家族というのは、相手の考え方の深いところまで知っているもので、それこそ人生の汚点のような、気になる部分も十分に理解している。それが攻撃に転じてしまうと、さらに相手を深いところで傷つけてしまうのだと思う。そういうことを繰り返してもなお、家族は家族である。つまるところ、そういうことなので、このような話が成立できるのであろう。まあ、出来るなら、そういうところにまで、気を付けて付き合うべきだとは思ってますけどね。
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更に極端なバカに呆れる

2020-12-24 | Science & nature

 男と女でどちらの方が優秀か、というようなことを言うような人がいて、管理職の割合で不平等があるのではないかという話がある。しかしながらこれは、男女に自分のことを肯定することに違いがあるらしいことが分かってきており、男の方が自分の能力を過大に評価する傾向がみられる為に、積極的に役職を引き受ける結果がある、ということらしい。男性の攻撃性のようなものが関連しているのかもしれない。
 また、会社組織などの社会においては、まだまだ男女比率がいびつなところもあろうし、そういう組織社会というのが、そもそも男性上位的な文化が残っていて、容易に女性が出世しづらいシステムがあるとも考えられている。女性で管理職に向くような人の推薦があったとしても、本人が頑なに拒否する場合も多いという。そういう環境下にあって、自分の能力が十分に発揮できないという懸念が、そうさせるのかもしれない。
 また、政治家などを見ていても分かると思うが、女性が極端に進出していない分野において活躍している女性は、見た目としての女性性は強調する傾向にあるものの、中身や発言などを総合して勘案すると、ほとんど男性的な傾向の強い女性が多いように見える。女性の代表というより、男性化した女性が進出しているだけのことなのではないか。
 男女の頭の良さの違いというのは、優位な差が出ていないにもかかわらず、相変わらず脳の違いで差があるようなことを言う人がいる。女性の方が理系が苦手であるようなことを言うが、厳密にはそのような差がはっきりしている訳ではない。苦手意識を表明していい分野であるだけのことかもしれないし、しかしほとんどの学問の現在ということを考えると、それほど明確に文系理系と分けることが困難になりつつある方が自然である。学問の科学的アプローチが進むということの方が現状なのだから、男女の差で向き不向きが明確にはならない。また、医学部で女性の方が高得点でない限り受からなかったという事件もあったように、選考する側の方に偏見が残っていて、女性側に不利な条件を課している場合も多いのかもしれない。
 これまで男と女の優秀さを比較する研究というのはそれなりにあるわけだが、不都合な事実が出てくるというよりも、むしろそういうバイアスがかかってきた文化的な側面の方が明らかにされていくようである。
 実際に僕の感覚としてこれまで生きてきた中で思うのは、間違いなくバカの多いのは男性側の方である。賢くない女性もいなかったわけではないが、極端にバカすぎる性格というのは、男の方が圧倒している気もする。女のバカというのは可愛らしさの演出である場合もあるから、一概に信用できない。そういうものを測る研究が待たれるところである。
 しかしながら、そうであっても女の方が男よりバカなのではないか、という話を聞いた。何故かというと、それほどのバカと一緒になるようなバカな女がいるからなのだそうだ。なるほど、それなら確かにたくさんいるような気がする。女たちよ目覚めよ、である。
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伝説の子役の晩年の姿    ジュディ 虹の彼方に

2020-12-23 | 映画

ジュディ 虹の彼方に/ルパート・グールド監督

 「オズの魔法使い」などで有名なジュディ・ガーランドの伝記映画。子供時代は主に回想で、今は中年で子供を連れながら、昔の名前で出ています的に有名さを利用して独自公演などして糊口をしのいでいた。しかしながら生活の荒れた様子があり、借金だらけで嘘ばかりの生活を送っているようだ。子役時代から仕事に追われ、忙しすぎて不眠症になっているようで、さらにもともと絶大な人気を誇った大スターであることで、妙なプライドが邪魔をしているのかもしれない。しかしとことん行き詰って、昔の夫に子供を預け(何度か結婚している様子)、心機一転ロンドンで再起をかけることにした。
 ジュディ役をレニー・ゼルウィガーが演じていて、アカデミーを筆頭に数多くの主演女優賞を受賞している。若い女性の共感に訴えるドジで現実的な女性を演じて人気だった女優さんだが、こんなに歌が上手かったのかと驚く演技をしている。ちょっと表現がおどろおどろしいところもあるが、ひょっとすると本物のジュディの物まねなのかもしれない。晩年の悲しげな、そうして病的なところも上手く演じていて、これなら受賞も納得のいくところだろう。
 ジュディは同性愛についても理解のある人だったといわれている(当時としては稀なことだった)。父親がホモセクシャルだったらしく、また自らも、いわゆるバイセクシャルであったという。劇中に同性愛カップルとの逸話があるが、なかなかにいい味の話ではないか。そういう意味でも象徴的な人で、悲劇的な晩年をおくったが、忘れがたい人物だったのであろう。
 最近の映画は、歌のショーの見せ方が素晴らしくなっていて、クライマックスの歌いっぷりは、さすがに映画ならではの迫力である。映画館で観るべき映画だったかもしれない。
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今年も高校駅伝楽しめた(あとは箱根ですね)

2020-12-22 | 感涙記

 毎年クリスマス前後の日曜になると、日本では高校駅伝が西京極で開催される。もうずいぶん前からこれが年末の風物詩として、楽しみなのである。それに今年は例のコロナ禍というのがあって、スポーツのイヴェント自体がふつうの形で行われない可能性が高かった。駅伝の方も、スタンドでの応援や沿道の応援自粛の呼びかけがなされたようだ。それでも少しは沿道にも人がいて、よかったな、と思った。声援というのは力になるはずで、いつもと違う雰囲気だろうが、走っている選手に影響があって当然だろう。
 駅伝の開催の前に、ここ二日ばかりは、このレースに関する情報が、けっこう新聞には書いてあるのである。今年は地区予選のことは、あまり情報を追ってなかった。仙台育英や神村学園がいい記録を出していたくらいしか、あまりよく知らない。長崎のことは、地元だから当然知っていたが、それ以外のことは、そんなにネットなどでも追っていなかった。そういうことで、改めて二日間の新聞をじっくり読んで吟味し、自分なりにレース展開の予想を立てて置いて見た。やはりこれが一番楽しい理由かもしれない。
 レース途中で誰かが転倒したらしいことは聞いたが、棄権ということではなく元気に戻ったようだった。ホッと一息だが、福井の鯖江高校の3区のランナーが、たすきを受けるときに自分のチームメイトの2区のランナーと足が絡んだようで、靴が脱げてしまった。あっと思って、同時録画している画面に切り替えて、再度靴が脱げた場面を見返した。襷を受ける瞬間に、自分の足のかかとに2区の選手が踏んだように見えた。そのままずるっと赤い靴が脱げて、沿道の方に転がった。3区の末本さん(後で調べた)は、一瞬躊躇した顔をしたが、さっと切り替えて走り出した。そうしてその片方の靴が脱げたまま、区間順位は守って走りぬいたのである。
 たぶんこれが一番のアクシデントのように見えたが、たくさんのランナーが走っているので、分からない何かはいろいろあったことだろう。最終五区で予想通り神村学園の留学生がトップに躍り出て、これはもう勝負があったな、と思っていたら、今度は世羅の留学生がスルスルと出てきて逆転して逃げ切ってしまった。後で女性の監督さんが、そうなると思っていたと語ったが、ふつうの人々は驚いたのではなかろうか。狙いのレース展開は、神村と同じようなプランだったようだが、さらに大砲がいたわけだ。
 男子の方は、これはそれなりに上位は予想通りに展開した。予想より凄かったのは洛南で、何と佐久長聖を上回っての3位という勝利だった。確かに上位二校をはじめ、留学生を要する学校の力は抜けているが、10位までの学校中、6校が留学生なしで上位に食いこんだのである。平均的にすべてのランナーがしっかり走りぬいた結果であるはずで、非常に高いレベルでチームを作り上げているということが見て取れる。上位の世羅や仙台育英、倉敷は、日本人も早いのに、さらに留学生も早いので勝っているのである。今回の優勝タイムも非常に早かったが、これから数年で本当に高校駅伝では、2時間の壁を破ることになるかもしれない。
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物語の力、絵の力   太陽のイヂワル

2020-12-21 | 読書

太陽のイヂワル/惣領冬実著(講談社)

 漫画の短編集。著者が女性なので女性向けの漫画かというと、ちょっとそういう感じではない。女性らしい感性のもとに描かれてはいるものの、それは果たして女性だけのものか、ということか。ちょっと不思議な感覚のお話が多いのだが、なるほど、そういうものかもしれないということはよく分かる。そこらあたりは、非常によく考えて作られているのだろう。
 確かに個性的な人ばかり出てくる。ふつうの生活の断片のようなものが語られていることもあるし、また、似たようなことも描かれているのかもしれないが、しかし、その個性の在り方は、ソリッドに際立っている。いわばそれはちょっと極端なのかもしれないが、でも、ありうる話なのかも、と思わせられる。
 例えば、ある新人作家は、子供のころから何でもできて、かわいくて正義感も強く出来すぎた友達のことを回想する。それをそのまま作品にして、賞をとる。その優れた友人は、その作品を見て自分のことだと気づいて会いに来る。それで……、という話だが、そもそもその出来すぎた少女は、確かに子供のころにクラスのどこかには居たのかもしれないが、やはりちょっと出来すぎの度合いが違う。そこまでの出木すぎは、やはり存在していないのではないか。それが物語なのだが、僕にはそういうのは気になるところだ。人間の考え方にしろ、今の大人の視点があるとはいえ、性格と交えて、かなりシンプルだ。
 まあ、そういうところは、表現が上手いので、際立って考えさせられるのかもしれない。少なくとも僕は男だったし、そんな風にして世のなかを観察して来なかったな、と思う。人がどんな風に感じたり、思ったりするということに関しても、もう少し無頓着だし、実際にわかっていないし。やっぱり女の人って大変なんだな、と思う。そういうことを言いたい作品ではないのかもしれないが……。
 この作品と作家は、テレビの「漫勉」で知った。ものすごく絵の上手い人だな、と感心して手に取ったのだが、お話もものすごく上手い。改めて、日本の作家の才能は、あるいは漫画家の方にシフトしているのかもしれないな、と思う。小説がダメだと言いたいわけではないが、これらの作品の力は、間違いなく国際レベルだろう。さらに絵の力で、その表情で、語られているものの世界が広がっている。僕らは豊かな時代に生きているんだな、ということが実感できるのではないだろうか。
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イノシシの自然を取り戻そう

2020-12-20 | Science & nature

 イノシシの問題を扱うテレビ番組を見た。今年はうちの田んぼでも大きな被害を出している。収穫前にやられたのでダメージが大きかった。結局それ以上のことを考えて、稲刈り時期を少しだけ繰り上げて対応してもらった。コメの質自体はまずまずだったので、担当者は返す返す残念がっていた。
 そういう経緯もあるからさらに興味深く見たわけだが、まずイノシシというのは多産である。5・6っ匹ウリ坊をつれているなんてことは珍しくないことで、まあ、ぞろぞろ連れて歩いているものである。当然それには訳があって、子供のころに天敵に襲われることや、事故などで亡くなることも多いために、ふつうは成人化する率は半分くらいといわれている。要するに減るのを条件に多産になっているのではないかと考えられている。
 イノシシは身体能力も高く、足も速くて小回りもきく、ジャンプ力も持っている。雑食性で何でも食べて、農作物の被害で悩まされている。さらに学習能力も高く、つまり頭がいい。ふつうの豚でも飼い犬よりは頭がいいとされているので、野生のイノシシなら、さらにそれより頭がいいのかもしれない。
 さて、そういうわけで、各地でイノシシは大量に駆除されている野生動物だ。それなりに大きな個体が駆除もされており、一定の効果が見込まれるはずだった。ところが駆除されたイノシシの骨格や歯を見てみると、実はまだ成人していない子供の個体ばかりだったという(それでもそれなりに大きい)。子供は経験も少なく、まだ人間の罠などにかかりやすい。そうして駆除された子供の状態を近くで大人イノシシが見て、もう二度と罠などにはかからない賢い個体が増えている可能性があるのだという。大人なのでこれまで通り変わらず子を産んで増え続けるので、駆除の効果があまりないのではないかということだった。
 では打つ手が無いのかというとそうではなく、これまで通り電気柵をちゃんとイノシシの鼻先の当たる高さにしっかり設置させ、その周辺の草はきれいに刈り取るということを地道にやっておく。イノシシの毛に電気が来てもたいして感じないけれど、鼻先は常時湿っており、電気の線にふれることがあれば、ちゃんと効果がある。さらにもともと隠れる場所が無ければ近寄ることもしないそうで(本来は臆病だから)、しっかり対策をしている地域は、被害もゼロなのだという。
 また、本来の野生のイノシシは、ふつうは木の根やミミズなどを主食としており、そのような粗食であっても、十分に栄養を取って生き延びることができるのだという。むしろに人間の食べるような農作物は、栄養価が高すぎて野生生物には不必要に栄養過多になりすぎるのだという。そういう食事を常時食べられることで、早く巨大化しさらに食べるようになる。そうして山に帰らず運動もせずに寝てばかりいて巨大化したイノシシは、また別の病気にかかるなど、野生とは別の受難があるのだという。要するに人間に近すぎる生活をする動物は、自然が失われてしまうのだろう。
 良くは知らないが、そのような餌付けに向く個体を買い続けることで、イノシシの子孫の一部は豚になったのではなかったか。ブタ化の初期状態が今なのかもしれず、人間界とイノシシ界の境界を分けない限り、今の問題は解決などしないのではなかろうか。
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呆れるほど恐ろしい   幼い依頼人

2020-12-19 | 映画

幼い依頼人/チャン・ギュソン監督

 父が新たに結婚した相手が、子供嫌いの虐待母だった。容赦ない暴力をふるわれ、姉と弟のきょうだいは、日本でいう児童相談所に駆け込む。そこでは法律を学んだが就職の決まらないやる気のない男が、新たに働き出したばかりだった。どうも子供からの通報では、結局親元に返して終わりということくらいしか法的に対処できないらしく、こういうところに相談したことがバレてさらにひどい虐待を受けるという悪循環に陥ってしまう。しかしながら相談所に遊びに来るきょうだいを無下に返すこともできない気のいいところのある男は、内心子供の面倒が迷惑に思いながらも、何故か気に入られていることで、仕方なく付き合う日々が続いていた。ところがソウルにおいて、思いがけず願書を出していた法律事務所勤務が決まって、引っ越してしまう。残されたきょうだいは、頼る大人が皆無になってしまい(何しろ隣近所は子供の虐待の声を聴きながらうんざりしながら聞き流し、学校の先生も見て見ぬふりなのだ)、さらに窮地に陥ってしまうのだった……。
 なんと、この物語は実話をベースに作られたものだ。この事件で韓国社会は大きく揺らぎ児童虐待法での処罰が強化されたという。しかしながら、この映画は韓国では興行的に失敗し、動員は芳しくなかった。事件を知っている大衆には、いささか重く生々しすぎるものだったのかもしれない。
 確かに継母役の女優も迫真の演技で、正直言ってかなり怖い。子役もなかなかの演技で、実際この虐待シーンで精神的に傷つくのではないかと、心配さえされたという。本当に見ていてつらい映画なのだが、だから悪いということにはならない。たとえこれがトラウマになったとしても、児童虐待の難しさを知る上では、非常に大切なものを理解させられる力のある映画になっている。大人たちの無関心さが、事態をどんどん悪化させていき、さらに子供たちを追い込み、そうして虐待する親を助長させていくのだ。これは韓国の事件だが、日本でこのような虐待が皆無であるはずはない。実は日々報道されてはいるものの、実態を理解しているものなどほとんどいないのではないか。娯楽作ではないが、観るべき映画である。
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愛される呆れた人生   さらば愛しきアウトロー

2020-12-18 | 映画

さらば愛しきアウトロー/デビッド・ロウリー監督

 日常的に銀行強盗を繰り返している男たちがいる。実は3人組の爺さんで、主犯格の男は、ほとんど人生を楽しむために銀行強盗をやっている感じなのだ。しかしながら実際は時々警察には捕まっていて、そのたびに脱獄して、犯行を繰り返している男だったのだ。
 これは実在の人物の物語で、映画の方も、だいたいにおいてその事実に沿って作られてはいるようだ。まったく呆れた話だが、最初から作り話として作られたのなら、ちょっとリアリティがない話かもしれない。破滅的な生き方をしていながら、紳士的で、悪いことをしているはずなのに、何か人に恨まれていないような強盗を成し遂げる。出会った女性にも愛されるのである。実際の人物は三度も結婚し、この映画のように仲も良かったのだろう。
 主演のロバート・レッドフォードの引退作として話題になったのだが、要するに彼の俳優人生と照らし合わせて楽しめる演出になっている。自分自身も、このように楽しんで映画人生を歩んだのかもしれない。稀代の二枚目役者だったが、さすがにしわくちゃな爺さんになってしまった。しかし、である。やっぱり科白はキマってしまうし、真摯なしぐさも洗練されてかっこいい。情けない状況に置かれても、何か憎めない愛らしさがある。それこそが大スターというもので、彼自身、その姿をしっかりと見せつけたかったということなのだろう。
 相手役のシシー・スぺイセクも、あの「キャリー」のいじめられっ子だった人である。ギャングの相棒もダニー・グローヴァーにトム・ウェイツである。みんなみんな年をとったものである。でも、やっぱりみんないい感じではないか。
 銀行強盗を繰り返す映画なのに、スリルと緊張を強いるようなものではない。むしろ、人生が残り少なくなって、なんだか少し寂しい感じもするような年頃になっても、ちょっと元気が出てくるようなお話になっている。まあ、呆れはするが、それが人生を楽しむということなんだから、いいのである。おんなじことはできないが、何か真似はできるかもしれない。まあ、それは自分の才能とやる気次第なのである。
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しびれは広がる

2020-12-17 | 掲示板

 二の腕のしびれの件は以前に書いた。その経過というか、実は右手の甲や親指にもちょっとだけしびれのようなものがあるような気がする。いや、たぶんある。
 もともと字はものすごく下手なのだが、なんだか最近さらに下手になっているのである。これも元々あったことだが、自分で書いた文字を判読するのに苦労する。何と書いてあるのか、ああだこうだと考える。それで思い出せればいいのだが、結局よく分からない。でもなんでそんなメモを残したのだろう。いつまでも考えているのも時間の無駄なので、適当なところで諦めるのだが、しかしこれが何度も続くと、自分なりに呆れる。これは困るので、ちゃんと落ち着いて書こうということを自分なりに決め直した。ところが、なのである。ちゃんとゆっくり書いているのに、字がぶれる。続けて書こうとすると、次の文字へ移行するときに、少しぶれが生じることに気づいた。手の微妙なしびれが影響しているのではないかと、やっと気づいたのである。いろいろ試してみると、縦書きよりも横書きの時の方が影響が大きい。左から右方向へスライドする動きに、何か少しだけ引っかかりのようなものがあるように思える。いろんなところをつまんでみると、部分部分でマヒらしき感覚がやっとわかる。なるほど、そういうところにも影響が広がっているのかもしれないな、と思われる。
 もうこういうマヒが改善するとは考えにくい。薬を飲んでいるので、痛みの方は少しはなくなっているのかもしれないとは思うが、二の腕の方は、意識をするとびりびりした痛みがあることは常時である。気にしてないだけのことで、もう意識から外しているだけなのである。今のところ手の甲や親指には痛みは無いのだが、動かす上においては、これから進行する可能性があるのかもしれない。ものすごく微妙な感じではあるが、ちょっと残念な感じもする。まあ、仕方ないですけど。
 そういうわけで、いろいろ動かしていると、数日後、今度は手首や肩まで痛くなってしまった。要するに急に使いすぎてコリが出てきたわけで、これはもう自業自得である。まったく難儀なことであるよのう、と自分に向かって思う。年を取るというのは、こういうことだったんですね。先輩方も大変だったのだなあ。
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