カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あなたがどんな人間かわかるかも

2009-04-30 | 映画

リンガー!替え玉★選手権/バリーWブラウシュタイン監督

 日本だと不謹慎ということで、制作会議にあげられることさえないだろう。製作できないという前段階で、問題意識にさえ上がりもしないことだろう。実際の内容についてもベタベタに馬鹿にしながらコメディとしてつくられているので、笑う以前に不愉快になったり、実際に怒り出す人もいるんじゃないかと思う。確かに褒められた作りじゃないのかもしれないが、僕はこの映画をつくる姿勢には、ある種の崇高ささえ感じられたのだった。そしてその偉さを越えて、ちゃんと下品に面白い。この意味が分かる人が少ないだろうということが、何よりこの映画の先見性だとも言えるだろう。
 知的障害者のスポーツ大会というのがあって、米国ではそれなりに人気があるらしい。主人公はある事情でどうしてもお金が必要で、以前に陸上競技で鳴らした実力もあるために、知的障害者になりきってその大会に出て勝利を目指そうとする。ついでにこの大会に出ている障害者を献身的にお世話をしているかわいい女性にまで、立場を利用して仲良くなろうとする。しかしながら演技なので、途中で知的障害の仲間たちにはその嘘がばれてしまう。それでいったいどうなるの?というストーリーである。普通そのような説明を聞いても、単に不謹慎だし観に行きたいと考える人も少ないのではないかと思われる。僕だって普通はそのような背景だけなら観たいとは思わなかったかもしれない。
 実はこの映画の製作は、下品コメディーの大御所ファレリー兄弟である。しかし彼らは何でそのような人々の逆鱗にふれるようなタブー・ネタを使って映画を撮ろうとしたのだろうか。
 実はファレリー兄弟の友人には、実際に障害を持った人がいるのだという。そしてその友人から、お前ら映画人は障害者を普通に映画に撮ろうとしない臆病ものの偽善者じゃないか(大意)と言われたことがあるのだという。確かに映画やテレビの世界での文法では、障害者はお涙頂戴のダシに使われているのみで、普通に登場人物として演じられることは皆無といっていいのかもしれない。それならそういうタブーを破るような映画を、一丁つくってやろう、ということになったのかもしれない。しかし彼らはとことん下品なお笑いが得意なのだ。本当にそんな映画をつくってしまっていいのだろうか。
 正直にこの映画の感想を言うと、本当にこんなことをやっちまってるなあという気分が先に立ったことは確かである。そして、まあ、痛いながらにも面白い。家で観たので僕の息子達も一緒に観ていた。そして障害者を馬鹿にする場面で、一緒になって笑った。うーむ、教育的にはアウトだなあ、と思う反面、まあ子供は素直だなあとも思う訳で、笑っちゃいけないことって面白いんだなあ、とも考えた訳だ。そして、やはりこのようなことからいつまでも逃げているから、結局何にも考えない大人が増えるのかもしれないとも思わずにいられなくなったのだ。この映画を製作した人たちというのは、本当に人間の根源的な偏見と闘おうとしているのかもしれない。そして、非難を受けることも含めて笑い飛ばしたいというたくらみがあるんじゃないか。
 この映画はちっとも素晴らしくない下品映画だからこそ価値が高い映画である。そういういう逆説的なことを成し遂げたということが何より素晴らしい。アメリカ人は馬鹿な人たちもたくさんいるけれど、本当に何かをやろうとする勇気を持っている人だってちゃんと活躍できるのである。僕はそういう意味では日本より遥かに住みやすいところなんだろうなとも思う。日本でこんな映画をつくることができるようになれば、僕は日頃から機嫌が悪くならない可能性がある。そしてやはり日常では口をつぐんでしまうわけだ。特に政治家には観てほしいものだと思うけれど、彼らの多くは意味が分からないまま楽しんでしまう可能性はあるとも思う。結局観る人間の人間性が試される映画ということなのかもしれない。
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腕が僕の意思に従わない

2009-04-30 | 雑記

 右腕が上がらなくなって困っている。いや、今は上がるようになったのだが、首筋を揉んでしばらくすると上がらなくなったり物を持つのが不自由になる。このパソコンの文字を打つのも指の動きが重たい。
 医者に行ってレントゲンを見てもらうと、何も悪いところはないらしい。薬をもらったがビタミンB12だから筋肉の疲労回復ということだろう。また来週というのはどの程度回復しているのかということなのかもしれない。長い人で一年というのもあるけど、三ヶ月くらいというのが多いようですよ、とのこと。まあ、しばらくは不自由ということなのだろう。言葉も普通に発音できるので、特に別の検査をする様子もない。寝違いがなかったかどうかしきりに気にしている様子もあって、そういえば思い当たらないではないこともないので、話をあわせたというのはある。
それにしても昨夜はまったく腕が上がらない状態になって、鏡の前で観察してみたのだが、肩のところからあがらないということはよくわかった。親指の先がしびれているのはわかる。脳の指令が届いていないというような不思議な感覚があって、非常にもどかしい。今はそれなりに違和感がありながらも動くので、まあいいかと思わないではないが、モノを持ったり、本のページをくくったり線を引いたりするのに、動きがまどろっこしくなる。多少イライラもする。
 しかし首筋の筋肉の一部が張っている感じが残っていて、触ると痛いが、その痛みが気持ちよくもあり、なんとなく暇があると揉んでみたくなる。また腕が動かなくなるかもしれないというのも、怖いようで楽しみである。車の運転がないようなときにじっくり揉んでみようかなと考えている。
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反則ありの快感映画

2009-04-28 | 映画

ウォンテッド/ティムール・ベクマンベトフ監督

 基本的には少林サッカーのような荒唐無稽なアクション映画。しかしこれが痛快なのは、女のアクションヒロインがわきを固めながらダメ男が成長するというサクセス・ストーリーであることが何より大きい。アクションもあり得ないが、そのありえなさのアイディアがなかなか面白くて笑える。物理現象をことごとく無視しているくせに、死だけが現実的なのもなんだか不公平だ。まあ、そうしなければ収拾がつかないということだろうが。
 なんだかドラゴンボール。そんな感じもフトする。ありえない段階まで脱皮する如く成長する。そのありえなさに付き合いながら、どんどん自分の気持ちが高揚していって、ある高みに達しても、いわゆるピークが見えない。
 言い方はおかしいかもしれないが、僕にとっての成長物語は、ちばあきおの「プレーボール」である。「キャプテン」の続篇だからキャプテンから読むべきかもしれないが、僕は「プレーボール」から先に読んだ。すでに谷口君はハンディを背負っており、負のスタートである。しかしその才能(努力の)が他のナインに伝わり、結果的にチームが強くなる。
 映画としてはまったくの脱線話だが、おそらく他国の人もであっても、成長物語は好きなのではないかと思った。それも共感できないほどのダメ男。実は才能があるというだけなのもご都合主義だが、そのダメさぶりが情けないからこそ、成長していく期待も大きい。
 怪我をしても回復するという、これまたありえない設定もあって、マゾにはたまらない場面も多い。死なない限りいくらでも再生できるというのであれば、また違う世界ができるのではないかとも考えてしまったが、それはこの人たちのみが知っている裏技であるということが、必要な了解条件なのだろう。
 また子供の頃から行方が分からないという父親という存在の敵に対して復讐心があるという感情も、よく考えるとよく分からない。まあ、取り上げればきりがないのかもしれないが、ダメ男だけれどちゃんと性的関係にある彼女もいるし、苦労はしているが肉体労働ではない仕事にもついている。いじめられているが友達もいる。預金残高は少ないが、借金はないようだ。これはダメなりにそんなにダメな人間ではもともと違うのかもしれないとも思う。心臓がたくさん打つからスローモーションに見えるのなら、きっと寿命も短いのではないか。ああサイボーグ009にも加速装置というのがあった。自分が早く動けるからまわりが遅く見えるのか、それとも見えるだけで動きは関係ないのだろうか。うーんやっぱりこんなことを気にしだしたら、とても映画にはついていけないということだけは確かである。すべてが漫画より漫画的で、そして実際には成立しない設定が多すぎる。
 それでもやはり面白いのは、どこまで話の展開に追い付けばというスピード感を超えるトリックが満載だからだろう。先にどんどん進みながら、実は過去にも遡る。無感情に人が死ぬかと思ったら、ある時は目をそむけたくなるほど痛みがリアルに伝わる。強弱の付け方が極端で、映像はスタイリッシュである。実際にストーリーがこんなものでいいのかなあと思いはするものの、まあ面白かったし良かったジャン、というような軽薄な気分にもさせられて、気分よく映画は楽しんでみることができたのだった。少なくとも大人になりきれていない男にとっては、夢のようなめくるめく快感の物語なのである。
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魂を売って生きられるか

2009-04-27 | 時事
カポーティ/ベネット・ミラー監督

 作家のトルーマン・カポーティといえば「ティファニーの朝食」という連想があるのではないか。厳密に言うと日本では、その映画の原作者として有名ということも大きいのかもしれないが。どちらかというと洒落た文章を書くカッコいい小説家というイメージだろうか。もちろん最初は米国でも新進作家のころはそういうイメージで売れていたらしい。若いころは天才としてということもさることながら、写真集まで出るような美青年だったようだ。しかしドキュメンタリーノベルといわれる「冷血」を書いていたころは、この映画のような感じの人になっていたようなのだ。

TRUMAN CAPOTE (ENG)


 何も映画のための演出のためそのような人物に描かれているということではないようで、そんなに容姿が似てるとは思えないフィリップ・シーモア・ホフマンが見事に演じているために、実物を知らないものにも、カポーティのそのものの人物が分かるようになってゆく。実物と比べて見ても、確かに上手く特徴をつかんでいることが分かる。

Truman Capote on The Dick Cavett Show ( Pt 1 of 2 )


 ホフマンはこの演技で、アカデミー主演男優賞をはじめ、さまざまな賞をとったらしい。
 また、「冷血」というドキュメンタリー小説は、今だに非常に評価が高く、この映画はそういう意味でも意外性が高い。村上春樹は明らかに「冷血」のようなドキュメンタリーを作家として書きたいという欲求があったものと思われる。「アンダーグランド」という地下鉄サリン事件を取り上げたインタビュー集は、そういう作家的姿勢を体現したものだと言われている。
 この映画はまさにその「冷血」という作品が描かれた時代のドキュメンタリーのような映画に仕上げられていて、いや実際には演技なので本当はどうなのかということは厳密にはフィクションではあるにせよ、なかなか見事な仕上がりの映画になっていることは間違いがない。
 先の背景にあるように、最初はずいぶん意外な感じが鼻につくような違和感があったのだけれど、カポーティが単なる興味から事件にのめり込んでいくにつれて、どんどん狂気に陥っていく感じがさりげなくも恐ろしい。相手を利用しながら作品が見事に仕上がっていく手ごたえを感じているのだが、相手から信頼され頼られるようになることがどんどん重荷になっていき、ついには自らも深い共感を得ながら利己的に相手の死を望むまでになってしまう。作品を仕上げるという使命を越えて、自らがその葛藤の中で落ち込んでいく様がサスペンスのような様相を呈していくのであった。
 作家にとって作品というものは厳密に言って商品であることには間違いがなかろう。それで生計を立てているわけだから、完成度の高い作品を書くという純粋な欲求もさることながら、評価されるという意味で売れることも大変に重要だと思う。そういう評価を得る(売れる)ために努力をするというのは、必ずしも悪い事であるわけはない。しかし作品を読む人間のために、何かを犠牲にしなければならないということもあるのだろう。そのために犠牲にするものが、まさに自分自身を削るようなことを含んでいるのかもしれない。多くの人はカポーティのような作家ではないにしろ、魂を売って生きていくような事をする人間は、多かれ少なかれこのような体験をしているのではないか。そういうことになった人間とはどうなってしまうのか。
 カポーティという人物を批判するのは簡単なことかもしれない。しかし彼はそのための代償が大きかったことも十分に理解できたはずである。そしてそれは取り返しがつかないことなのだ。彼自身は厳密な意味で何の罪も犯していないのかもしれない。しかし、人間という生き物は、刑罰以上の罪を背負うこともある。結局自分の本当に大切な魂を売ってまで生きていくことはできないのだ。少なくとも、本当に人間らしい生き方をしようとしたらならば、この選択に悩んではいけない。改めて恐ろしい作品だったと思わずにいられない映画であった。
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嵐が丘

2009-04-25 | 音楽
Kate Bush-Wuthering Height


 今これを見ると「ヒット・エンド・ラン」と言いながら踊っている女の人(調べたら鳥居みゆきというらしい)みたいにしか見えないが、ケイト・ブッシュは当時は一応アイドルとして一世を風靡したらしい。僕は中学生の頃に聞いていたので既に古い人には違いなかったが、後の実験的な音源よりやはりデビュー当時のデイブ・ギルモア演出のものが良いような気がする。しかしこの曲以外はパッとしないが。
 中学時代の音楽の先生(確か橋口先生といった)が、「君たちはロックミュージックをすぐれた音楽と思っているのかもしれないが、クラッシックと比較したら、どんなに劣っているのかということを知らないのだ」というようなことをおっしゃっていた。「僕を納得させるような素晴らしい楽曲があるというなら、ぜひ聞かせてほしいものだ」とまで提案してくださったので、何故か僕はこの「嵐が丘」をテープに入れて学校に持ってきた。先生は音楽の時間を割いてみんなと一緒にこの曲を聴いてくれた。そして感想を一言「これが良いと思っている君の情熱は分かったが、曲がいいのかどうかさえ分からん」と、おっしゃった。先生は正直な人だなあと思ったことだった。素直にツェッペリンを持ってくるべきだったとも思ったが、どうせそこまでは分からんだろうという配慮の末の落とし所がこの曲だったのだ。まあしかし今考えると、確かに選曲をミスったのかもしれないとは思うのではあった。まさに今さらなのだが…。

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幼稚な世界にはまらないしあわせ

2009-04-24 | 散歩

 総会を出るタイミングが良く分からなくて、体育館で長居をしてしまった。そのなんとかいう二つ目の総会は、息子がクラブ活動をしているので結局は出なければならなかったのかもしれないけれど、なんとなく身が入らないまま聞くともなしに審議が進められている様子を見ていた。しかし暇なので資料をよく見たりしていると会計処理の項目が不適切だということを発見してしまったりしたが、手を挙げて質問するようなこともけだるいので止めにして、黙って椅子に座って体育館の中に迷い込んできて天井をウロウロと飛んでいる鳩を眺めたりしていた。
 よく見ると先生方の椅子の座り方が不自然に姿勢が悪かったりして、教育者といえども、ある意味では普通の悪い部分もある大人なんだなと思ったりした。地が出るというのだろうか。考えてみると総会の折の議事進行にしたって、決算の承認の後に監査報告があったりして、普通に考えると無事に終了したとはいえないのだが、まあ、そういう空気ということと、形式上無事だったということが、大人の対応として喜ぶべきことなのかもしれない。
 しかし座っているのも西日が射してきて暑いなあと思っていたら、幸いなことに電話が掛かってきたので、ちょっと席をはずして体育館わきの廊下へ出た。電話の用件はすぐに済んだが、そこにはたくさんの生徒たちが僕らの総会の終わるのをたむろして待っている様子だった。一人の男の子(という感じの生徒さん)に
「いつもならクラブ活動の時間なの?」と聞くと
「僕は一年生だからわかりません」と言われた。
「ふーん、でも、終わらないね」というと、何故だかにっこりと笑顔を返してくれた。僕の息子も一年生だが、この子はずいぶん幼い感じだなあ、などと勝手に感じいってしまった。一年生といっても、当たり前だがいろいろなのだ。
まあ、そんな感じで残りの時間は廊下から眺めていたら、無事に終わったようだった。
 しかし職場に帰るには微妙な時間である。また夜には懇親会があるらしく、結局はとんぼ返りをしなければならない。先ほどの電話の用件も仕事のものだったのだが、まあ、済んだといえば済んだと考えていいだろうと勝手に解釈し、いったん家に帰ることにした。少なくとも懇親会なら車で行くには不都合だろう。
 つれあいが懇親会会場まで送ってくれるということなので、せっかくだから少し読書などして時間をつぶして、上の息子がクラブ活動から塾に行くついでに乗せてもらって、学校のそばに降ろしてもらった。せっかくだから少し歩こうと思ったのだ。
 家に帰った折に草君のニュースのことを聞いたのだが、実は総会前にもネットをチェックしていて既に知っていた。素直に変な事件だとは思うが、やはり僕のような人間でも知っている国民的な有名人だから、それなりに騒がれることになっているのだろう。なんといってもキャラクターの意外性ということも大きいらしく、どう考えても単に面白いニュースが面白いで済まない様相を帯びている。場合によっては、タレント生命さえお終いなのかもしれない。
 なんというか気分転換も兼ねて歩いているのに、妙に草君のことが引っかかるというか、なんだかんだと考えてしまった。そういう社会的な背景というものは、きっかけは確かに本人にありそうだとは言え、勝手にうごめいて決められていくのかもしれないと思うのだった。なんとも幼稚な世の中になったものだと思う。しかし僕自身の草君の印象はかなりアップしたことも確かで、彼のような人間と一緒に酒を飲んでみたいものだとも思う。僕は飲んでもたぶん裸にはならないが、そういう行動はいい人間の証のような気もする。彼のように人間らしい人が芸能人だというのは大変に好ましいことだと思うのだった。
 懇親会会場のまわりをいい加減にウロウロしていると、段々と懇親会参加者らしい女性集団が目につくようになった。まあ、僕らはしあわせなのかもしれないと改めて思うのは、このような無名性にあるのかもしれない。多くの人は僕のことなどほとんど知らない。これってほんとうに自由の第一歩なんだろうなあ、などと考えながら会場に入ったのだった。
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宴会だから痩せるチャンス

2009-04-24 | 

 昨日の宴会のおかげで少し体重が減っている。前にも書いたように宴会では食事の量が減る。それは酒をついで回る所為があって、他人の席では食べることができないからだ。それじゃあ宴会が続けば体重が減っていいじゃないかということになるが、しかしながら財布の中身も減るわけで、合理的とは言えない。また、昨日のように、宴会場のそばにラーメン屋が見当たらないというのも条件としてよい。家に帰るとかなりの空腹感だが、家人も寝ているので僕のような人間にはどうしようもない。しかし翌朝には充実感が待っているので、それだけが心の糧となる。
 さてしかし、このような宴会で食うポイントもいくつかあるのも確かだ。それは乾杯後少しは食っておくことだ。だいたい刺身のようなものをつまむだけにするのは必ずしも適当ではない。つまみプラスサラダにしろ焼き鳥にしろ、ちょっとした固形物をとっておく。できれば揚げ物はパスしたいが、こういう宴会料理には必ずといっていいほど揚げ物は中心に占めている。食べては駄目だと決めつけるとかえってストレスになるので、少しかじって置いておくということをする。要はいっぺんに食べてしまわないことだ。一つ食うともう一つというテンポが生まれて、思わぬドカ食いへ発展しかねない。齧って置いておくと、そのテンポが狂ってしまう。しかし揚げ物は食ったという満足感はそれなりに得られるので、一石二鳥なのだ。第一の皿が片づけられて、さらに料理が追加されようとするような時期に、おもむろに席を立って会場を回ることにする。この中断が何より大きくて、通り一辺倒すべての人についで回るようなことはせず、一人の人にじっくりと腰を据えて話をすることを心掛ける。こっちがそういう態度だと、相手もほだされるのかいつの間にか話が展開していく。そういうことを何人かでやっているだけで、あっと言う間にお開きの時間になる。後から来た料理はすべて反故となり、食い物はお腹に捨てられることもなく、ダイエットは成功するというわけだ。
 偉い人はここで帰るということができるのだと思うが、悲しいかな僕自身はそれなりにアルコールを分解する能力が高いらしく、この程度では急激に酔いがさめてしまう。二次会に行ってもう少し脳細胞を麻痺させなければならないわけで、後はひたすらちびちびやるわけである。このときやはり気をつけなければならないのは、〆にドカ食いしたがる人がいても、確実に帰るという意思だろう。そういう雰囲気になったら、タクシーなり代行運転なり呼んでおく必要があるかもしれない。呼んでしまったものは仕方がない。それくらい物分かりのいい人たちであるという運をくぐりぬけてこそ、その夜は完成しないといえる。
 要は少しだけ食うという道は険しく遠い。人が集まる所に容易に食い物は付随する。結局は食べる前の心がけがどこまで続くのかというモチベーションの戦いというだけのことなのかもしれない。しかし宴会での成功体験を一度でも積むことができれば、それは自分にとって大変に大きな財産になることだろう。
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食料自給率と真の勇気

2009-04-23 | ことば

 息子が友人たち(中三)と車中で雑談をしていたのだが、北朝鮮と米国が戦争をしたら(この設定自体が僕は気に食わないが、まあ脱線するので別の機会に譲りたい。だいたい何でこんなことを中学生が発想するようになったのか、日本の教育の罪は重いと思う)日本は食料の自給率が低いのだから、たちまち困ったことになるというような事を言っていた。口をはさむのもなんだか大人げないような気もして、適当に聞き流してしまったのだが、このような刷り込みで考えが縛られている人が中学生でも多いのかもしれないというのは、実に嘆かわしいことだと改めて感じいってしまった。農水省や農協の謀略は完全に国民の思考を支配したということも言えるわけで、この国が政策を自然に誤るのは、だからこそ避けられないことであるのだろう。
 日本が食料自給率が低いというのは、本当に常識になっているのだろうか。普通の感覚の常識人がそのような感覚を持っているなんてことはちょっと考えられない気がするのだが、やはりそんなに簡単にだまされてしまうのだろうか。さらにカロリーベースの自給率なんてインチキを真に受ける人がそんなにいることなのだろうか。あんまりアホらしいので正確に覚えていないけれど、仮に他国(主に欧州)の金額ベースの自給率で比較すると、ほとんど同じ程度の自給率(70数パーセント)である日本が、ものすごく自給率が劣っているとする曲がった主張を通すために勘案された捏造のデータを、何故人は信用したがるのだろう。あまりにも馬鹿らしいデータなので、まともな人は誰も取り合わないというのが実情だと思っていたが、やはり時々NHKなんか(たまたま見たテレビという意味)がそのような論調で話を進めるのでギョッとすることはある。国民をなめてるなあ、とは思うが、お年寄りなどは騙されるのかもしれない。オレオレ詐欺のような悪質な思い込みを助長することで、さらにニュースを増やしたいとでも思っているのかもしれない。
 前提が気に食わないにしろ、仮に米国と北朝鮮が戦争になったとしても、おそらく日本が餓えるということはあり得ないだろう。食料の高騰はあるだろうにせよ、物流がストップすることもないし、ましてや問題の自給率が低わけではないことから、食料が枯渇することもあり得ない。そういう意味では金満ニッポンは恵まれすぎている。仮にその戦争で高騰するとする食料の影響を受けるのは、日本ではなく発展途上国といわれる国々である可能性が高い。今は統計上自給できている国であっても、金額ベースで国民が購入する能力が低い国こそ、一気に飢餓が加速する。何故なら食料といえども、基本的には商品だからだ。したがって問題にすべきは購入能力であって、自給率ではないのである。
 また貧しい国のほとんどは、実は農業国なのではない。先進工業国といわれる国のほとんどは、実は農業生産力も高い。もちろんそういうことで考えた場合に初めて日本の問題は出てくるわけだが、高い潜在的な生産能力を持ちながらそれを阻んでいる問題の方が日本は深刻なのである。事実耕作可能な土地はありあまっている。日本は国土が狭くて農産物を生産することができないというのは単なる幻想だ。農業をやる上で、あまりにも規制が厳しく、条件に合わない不合理が多すぎるために、生産性を阻害されているというのが、実にまともな現状把握なのである。それでつくってもとても割に合わないので、農業は放棄されていっているわけで、結果的に将来性の低い衰退産業ということなのだ。あえて言うなら、その言い訳の材料として自給率(それもカロリーベースの)というマジックを使って、さらにその衰退産業に補助金というバラマキを行うことを目的として生きている人たちがいるということなのだろう。そのほんの一部の人たちを守るために国民の多くが加担している構図が、先の中学生まで刷り込まれてしまった日本の危機感なのかもしれない。
 実際のことをひらたく言うと、日本のダメなところを探して嘆きたい人のためのはけ口になっているのが、今の農業政策というものの姿のような気がしてならない。嘆きたい欲求は分かったから、せめてもう少しまともな現状の問題点をあげて嘆いて欲しいものだと思う。間違ったものを取り上げて騒ぐから、真面目な中学生まで間違った心配をしなくてはならなくなる。またタチが悪いのは、その間違いにさえ気付いていない愚かさだ。騙された自分を認めたくないので、さらに強弁を通そうと躍起になって先鋭化していく。問題意識に敏感な適当に頭のいい人ほどこのジレンマに陥っていく。間違いに気づいたなら、方向転換をする勇気こそ本当に必要なことではないか。騙されたということは被害者なのであって、罪を犯しているわけではない。騙されて加担すると初めて罪が生じる。今の国民に必要なのは、そういう意味でのリテラシーと勇気なのだと思う。
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ヒロインに酔っているだけなんだろうけど

2009-04-22 | 時事

 和歌山カレー事件の判決が出て、おおかたの予想通り林真須美被告の死刑が確定した。マスコミとしては裁判員制度の始まるわずか前という時期と重ねて、この死刑判決を問題視する姿勢を見せているのが特徴である。そのことの根拠として、林被告が一貫して無罪を主張(最初は確か黙秘だったけど)していることも大きく、状況証拠と推論のみで死刑判決が出たということも異例視されているようだ。もっとも林被告こそ犯人であると一貫して問題提起してきたのは他ならぬマスコミだったことも今となっては都合よく忘れているようだけれど、これはいつものマッチポンプ的な報道姿勢なのであるとは思いだすべきだろう。実際に事件の報道経過を俯瞰すると、逮捕前からカウントダウンが始まっていたと捉える方がむしろ自然な感覚だったろう。もちろんその流れを受けて、世論としても早期の逮捕と判決を望む空気が醸造されていたと考えた方が妥当だろう。僕自身はこの流れに対して早い段階で林被告以外の犯人論というのをどこかの記事で読んだ記憶があって、かなりびっくりして経緯を眺めていたということもある。もちろん結局その別の犯人とやらは現れることもなく、このような魔女裁判化していく様相に違和を感じていながら、林被告のかなり特異な性格と動向を鑑みて、たとえ冤罪であっても死刑判決はやむを得ないとまで思うようになってしまった。彼女は抹殺されるべくして登場した人なのであろう。
 いやいや、ちょっと行き過ぎた意見になってしまったが、この件を冤罪と絡めた死刑廃止論に絡む議論に発展させることに、やはり異議をもっているというのが正確なところなのだ。ましてや裁判員制度において林被告に対する自白無しの姿勢に理解を示すマスコミや世論に、もっと嫌悪を覚えるというのがあるようだ。彼女はたとえ殺人を犯していないにしろかなりの悪党であることは間違いなさそうで、この件で死刑にできないのであれば、さらに事件を重ねる可能性が極めて高い人物だろう。それでも今件で殺人犯でないのならば、死刑判決は不当であるのは確かだ。しかし罪を犯した人間でないという証拠の方が当然ながら希薄であり、性格的に危険であるからこそ否認をするような人格者であるという状況証拠が積み重なっているという見方も妥当性があると考えられる。当事者であるなら事件の真相を知っているというのが普通の感覚であるにせよ、死刑判決を前に刑を認めないというのも人間心理として当然ありそうなことであって、自白を重視するという判断基準こそ、やはり改めるべき時期に来ていると考える必要もあるのではなかろうか。それに自白がないから死刑でなく、無期懲役などの刑が妥当であるという判断も、それはそれで根本的に論理性に欠ける。
 これだけ後味の悪い結果を残せる林真須美という人物は、やはりマスコミ的においしい人であるということだけは言えることで、なんだか振り回された僕らが割を食っただけだという気がしないではない。人間が人間を裁くという倫理性に訴えるのが、はからずもこのような人物であったというのは、極めて日本的な事件であるという気さえする。本当の善人ならば静かに死んでいってしまって、何の問題提起さえできなかったのかもしれない。今となってはこの存在こそが人間性の真のダークサイドのような気がして、大変に複雑な思いをするのであった。
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あきらめるな

2009-04-21 | 読書
独学という道もある/柳川範之著(ちくまプリマー新書)

 人の一生というものを決定づける条件とは何か。今となっては思い出せないのだが、僕が高校の頃に読んだ何かの本で、外国の何とかいう学者が、日本の若者の一生は18歳で決定づけられるというような事を書いており、僕なりに「へえ、そうなのか」と思ったことがあった。そう思っても僕は違うとおぼろげながら思っていたことは思っていたようだから横着な若者だったと思うが(今も変わらないけど)、考えてみるとそのころと今とはさらに条件が厳しくなっているようにも思える。昔から未来はそんなに明るくなかったようでもあるし、今の若者の心情がさらに厳しいというのもよく分かる気がする。本当は18歳で決定づけられるなんてことは厳密にありえないことだが、しかし多くの場合というか大多数の人は、その選択をかなり限定した形で決定づけられると感じるはずであろう。もちろんある程度の目的が達成されたと勘違いして遊びまくる学生が増えることで、そうでない別の若者にもチャンスが巡ってくるのかもしれないが、最短距離としての約束の道は、確かに受験で決するというのは言えるからである。
 日本というのはそういう意味で若者に厳しい社会と見る見方ができてしまうのかもしれないが、よく考えてみるとそれは違う。実は若者を含めて既得権益に甘い社会で、脱線したりするアウトローに厳しい社会なのである。脱線して実力社会で生きようとするものは、必要以上に力を発揮して、ようするにねじ伏せるような圧倒的な力がない限り這いあがれない。ひと頃のキャリアウーマンが男以上の実力を必要とされたように、もともと公平な勝負の舞台に上る条件から外されてしまったということが実情なのだろうと思う。つまるところ受験戦争といいながら村社会の入会条件の一つしか機能していない実力主義が、本当の意味の受験の問題なのではないかと思うのであった。
 さて、しかしその村社会を解体するというのは難解なのであるけれど、もともと社会を変えようとかいうようなことをする労力に比べたら、実はもっと簡単な方法があることはある。簡単とは言ってもそれなりに簡単でないハードルがあるのはあるけれど、要は発想を変えない限りどうしても打開できないのは仕方のないことである。実際に社会を変えるということよりも、個人問題としてそこで諦めてしまっては、やはりどうにもならないということはあると思う。自分を諦めるための言い訳として社会が悪いと思った時点でそれは自分の可能性を自ら殺してしまったということになってしまう。たとえ相手が強力で巨大で手ごわいといえども、絶対に歯の立たない怪物であり続けているわけではない。自分の実力がないうちにいくら挑んでも、それは力が足りないので負けるのが当たり前だったということも言えるわけで、つまるところ社会が悪い前の時点で自分が悪かったということに気付かなければならない。針が固い生地でも通す力があるように、一点で突破できるということはやはりありえることであって、やってみる価値は十分にある。またそれを信じられる人がそれなりにいるということになると、生地自体が穴だらけになって後に続く人も出てくるというものである。
 世の中成功する人だけが偉いわけじゃないが、多かれ少なかれ現状を打開するような事をやり遂げた人たちは、実際には独自の道だったからこそ成し遂げることができたということもあるのではないか。大多数がそうであるからということに自分自身の真理が反映される保証など、ある方が不思議なことだ。無論むちゃな道が成功の早道であるはずもないのだけれど、自分自身がそれなりの納得の上で進むのであれば、結局は早道になるということはあることかもしれない。いや、運も実力ということも含めて、そういう意味で自分が会得するということが何より重要なことなのだということが、この本を読んでも納得できるのではないか。著者は確かに学者としてかなり異質な道筋を歩んだということも分かるが、あんがい多くに人にとっても、現在の立場というのは紆余曲折あったという感慨を持っているのではなかろうか。そういう意味で、実は独学の道というのはまっとうな道であって、特段特殊な事情なのではないのだと思う。もちろんそれが日本の今の閉塞感を打開できるまで自由度を獲得できているかということは別の問題のように思えるだけであって、そのように風通しのいい働く場が日本社会に足りないというのは、問題提起として誤っていないだろう。個人の例で打開できるのかはわからないが、誰もが独学という道を地道に歩んでいくことでそのような社会を築きたいという願望には共感するし、また励みになったことは確かだ。つまるところ日本はやはり不公平だ。是正されるべき問題があるというのは、日本の将来性でもあるのかもしれない。もちろんそれを阻害するのは何か。変えられるのはおそらく若い人(僕を含めてと考えたい)にかかっているのであろう。
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外圧の前に変わる可能性だってあるのである

2009-04-20 | 読書
この国の経済常識はウソばかり/トラスト立木著(洋泉社)

 格差社会という認識がまず大筋で間違っている前提であるというのは、世間的にはしかし、理解されていないことなのかもしれない。厳密に言って格差があるのは事実であるにせよ、その結果は果たして不公平によるものなのかどうかということが問題視されるべきことである。しかし、日本で格差が少なかった時代はいつであったかというと、それは間違いなく敗戦後しばらくであったことだろう。特に東京は一面の焼け野原で、みんな押し並べて貧しかった。だから格差社会を問題視するどころではなかった。実際差がないのだからそのような発想が生まれようがない。そうして時代を経て高度成長を経験し、国内的には平和であったからこそ富の蓄積が自然となされていった。持つ者と持たざる者を分けるのは、蓄積された時間が長いほど当然ながら開きがでる。これがまず日本における一番の格差であるのは、統計上明らかになっている。年齢別に格差を語ると、年配者ほど富の格差は開きが大きい。日本は平等に平和であったから格差が広がったのである。
 そういう背景があるにせよ、今後も公平であり続けるのかということは保障されていない。すでにかなり不公平な結果になることがわかりきっているのは、実は税の問題である。この国の負債の累積は、すべて次世代の負担であるということは明確である。上の世代が使いきったものを返済する時代に入ると、当然次世代の手取り所得は大幅に減らされざるを得ない。日本の年配者は若者を食い物にして既に引退した。そういう意味で、今から始まるものこそ本格的な格差時代である。日本は国の政策によって、若者には希望を持つことを困難にしてしまったのだ。計算上は僕の世代くらいから徐々に被害を受けることになる。借金の総額から考えて、尋常な方法で返済することはほぼ不可能である。ハイパーインフレであるとか徳政令であるとかいう方法が残されているとはいえるにせよ、それは壊滅的な対処法であることに違いはない。暗い将来を前にして、希望を持てる人間はただのアホだろう。だから無気力の若者を責めるのはお門違いだ。これからの若者は自己責任で貧しさを選択しているのはない。自分の立場を正当化するために、強引にフリーターなどのライフスタイルを満喫しているふりをしているのだろう。彼らは戦わずして敗北しているのである。
 真面目に考えたり道理をきちんと理解できる人ほど、事の深刻さとこの国の救われない現状を嘆くよりないのだが、そういう当たり前のことを理解できる人はあんがい多くはない。実際に今は不況といわれるさなかにあって、さらに自分の首を絞める行為を嬉々として支持する人たちが多いことでもそれはよく示している。問題は今必要ということと、将来がどうなるということの天秤のかけ方に問題があるわけで、将来のことは現在と比べると切実でないという判断が、ますます将来を暗くするわけである。しかしながら当然将来の希望があるからこそ、今現在を充実させることはできるわけであって、この間違いは早い段階で共有されないことには、つまるところ何の打開策を講じる手立てが打てない。支持のないままに方向転換はできないのである。将来が少しでも明るくなる目途を立てられるだけでも、今現在の幸福は格段に違ったものになっていくだろう。たとえ戦後すぐが絶望的な焼け野原からのスタートだったにもかかわらず復興できたのは、おそらくどん底にありながら明日の希望を抱く人が少なくなかったからに違いないのだ。そういう意味でも荒療法である危険が大きいにしろ、早い段階でこの国は破綻した方がいいのかもしれない。今の閉塞感で豊かさの実感をもたないままジリ貧を突き進むより、明日の希望ある貧しい(貧しくなってしまった)現在の方が幸福かもしれないのだ。
 上の世代をいくら恨んでも仕方がない。今の僕たちが、真剣に自分のことをどうするのか選択できるようになるだけも、この国の将来は違うものになっていくだろう。今まではその選択すらある意味では放棄してきたわけで、僕等は世代間闘争の敗者のままでいるわけにはいかないのではないか。この国の舵とりをしてきた人たちはずっと最悪だったけれど、これからも最悪が続くということなのではない。それだけが唯一の希望というのも情けないが、ほぼ確実になったのは、このままではもちろん続くわけがないということなのであった。
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一石二鳥のブラックユーモア

2009-04-19 | 読書

亜玖夢博士の経済入門/橘玲著(文芸春秋)

 論理的なものを感情的に理解できるかというと、感情を論理的に考えても癒されないことでもわかるように、やはり難しい問題だと思う。感情で経済が動くということを数理的に解釈すると解けるように言われて違和感を持つのは、そのような理由ではないかと思う。感情で動いているように見えるのは、気まぐれに見えるほど複雑だからではないだろうか。
 最初の話にあるように、借金というものの麻痺についても、目先の千円を失うことの重大さより多額の借金自体に精神的には鈍くなるということは理解できるような気はする。しかし、やはりそれなりの借金の額が膨らむと、そのために首をくくる人などが出てくるわけで、無反応に陥るということでは必ずしもない。確かに買い物などで考えると、生鮮食品などは十円単位の差が購入に際する大きな決め手になったりするが、家を購入する際に付属の備品が万円単位になっても気にしなくなるという現象は起こる。だが、それは使う総額に比例して判断するためであろうから、比較することがそもそも無理のあることなのではないかとも思うのである。
 この本の内容は経済論理を通して行動する人間の姿を元にした小説なのだが、結果的にかなりの荒唐無稽な騒ぎになってしまうのは、やはり経済論理の実践が、それなりに漫画的なのだという証明なのではないだろうか。このような論理上のことを人間の行動で説明すると、やはり最初の段階で前提となっている条件をかなり限定せざるを得ないという問題がまずは重要だからだ。ところがその限定条件が、当然人間の感情の非常にまれなケースにならざるを得なくなるということにつながってしまうのではないか。人間の感情が生まれるシステム自体がものすごく複雑なことなので、本当に条件に当てはまることなのかということが、やはり疑問に思えてくるのである。
 小説を通して解説されている経済論理が間違っているということを意味しているわけではない。経済論理というのは、たとえそれが正しいということであっても感情的に理解されづらいところがあるのはそのためなのではないかと僕が考えているからだ。政治家(または官僚)が経済問題を扱うときに、経済論理を知らないわけではない人たちが経済政策を間違ってしまうのは、つまりそのあたりに原因があるのではないかと思ってしまうのだ。いや、経済学者といわれている人たちにおいても幅が広くて、正反対のことを平気で議論しているようにも見えるし、また実際にそのような言論は日常のものだ。遠くから眺めると滑稽だしきわめて漫画的だ。それなら小説にして笑い飛ばしてしまえというのは、著者のきわめて真面目な態度なのかもしれないとも読める。またそのように読んで論理を理解できるのであれば、確かに一石二鳥なのであった。
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将来はやっぱり現在次第なのだ

2009-04-17 | 読書

情報革命バブルの崩壊/山本一郎著(文春新書)
 昨年から雑誌の廃刊が相次いでおり、当然その背景にネット上の情報の無料化という問題があるように言われている。もちろん僕もそれは実感としてあり、特に若い世代(おおむね40歳以下)で漫画以外の雑誌(その漫画雑誌さえ部数はかなり落ちているが)を買うことがまれだという話も聞いたことがある。雑誌を買って読んでいるというのはほとんど高齢者で、次の世代が連続して買うようになることがないために、当然発行部数が落ちていく。しかしネット上の情報を見ていると、ほとんどその売れなくなったと言われている雑誌を基にしたものが多いというのはまた事実である。雑誌に限らず新聞記事をそのまま載せてあるものも多く、このコンテンツを生み出している媒体がなければ、ネット上の情報というものはどのように供給されるのだろうと常々疑問には思っていた。個人が提供するものが、そのままネット上のニュースソースに乗るというのは、現在においても極めてまれなことであって、供給サイドが壊滅的になっていくにしたがって、おそらくこの情報供給の質というものも低下せざるを得なくなっていくのではないか。事実ネット上のニュースというのは、スポーツ速報などを別にすると、極めて物足りないものが多い。もっとも週刊誌などの記事にはもともと無内容なものが多かったといえるにせよ、とても読んでためになるとは言えない(むしろむなしさや徒労や怒りがこみあげる)悲惨な状態が続いているとは言える。結局は客を釣るための餌であり、知らなかったが収益性も極めて低いために、刺激的に数を稼ぐよりないというのが現実だろう。こんなものに将来性があるはずはなく、いつまでもつのかという消耗戦を展開しているということにすぎないのであろう。しかし消耗戦で体力が続くうちは、つまり現在は、まだ当たり前のようにこのような世界がネット上には展開され続けている。もう少しつぶれるまでは持つということなのであろう。
 まあそういう内容だけが書いているということではないが、ITといえば成長産業で次世代を担う産業の花形だというのは、すでに崩壊寸前のバブルであるというのは、多くの人が薄々気づいているのではないだろうか。いや正確に言うと、気づいていないのであればかなり危ない状況なのかもしれないとさえ思う。僕自身も正直に告白させてもらうと、WEB2.0という世界を信じ切っていたし、吹聴してまわっていたオオカミ少年だった。何しろ僕自身が信じていたんだから罪の意識すらない。そしてある程度そのように世界は構築されつつあるようにすら見えていた。最終的にはお金すら電子的な決算の方が貨幣を駆逐する可能性すらあるような気がしていたくらいである。しかしそれでは税金も取れないだろうし、本当の意味で儲けがどうなるのか分かったものではない。また競争の結果がある程度の寡占状況を作り出すのは仕方がないにしろ、今のウェブ上の寡占というのは時間の速さと規模が大きすぎる。結果的に本来のビジネスが始まる前に逃げ出す企業の方が多いのではないか。そして勝者である寡占後のビジネスが本当に収益が高いものかは未知数で、投資で集めた資金を有効に活用できるという保証すらない。あるのはあくまで将来性であって現在の優劣なのではない。それは結局のところバブルというものであるということであるのだろう。
 この本は経済学の本なのではないが、極めて経済学的な知見のように将来を考える基本的な考え方を得ることにつながるだろう。フリーランチは無いということを、極めて常識的に教えてくれるからである。ヒトは将来のことになると平気で無責任になる。現在の経済政策が将来の子供たちのことを無視して暴走し、自分だけの利益を得ようと躍起になっているように、ヒトというのは現在を簡単に見誤ってしまう習性を持っているのかもしれない。問題は現在がどうなっているのか、何が問題になっているのかという単純な現状把握から始めなければならない。間違った処方を行っても何の治療にもなりはしない。もちろんやり玉に挙がっているソフトバンクのような企業が、ものすごいウルトラC(古っ)を出して生き延びる可能性はゼロではないにしろ、かなり正確に将来の危機は読むことができる。タダ乗りといのはルール違反だし、ウェブであろうと政治であろうと幻想にすぎないということなのである。
 実を言うと購入してしばらく積読していたわけだが、もっと早く手にしておくべき本だった。この本のいわんとしていることは古くならないのかもしれないが、しかし時間の経過とともに、今の危機を乗り切る切り札はどんどん減っていくだろう。つまりドボンとなって終わらないためには、単純に脅しだけど、早く読んで目を覚ましておこう。著者が言うように北風と太陽の寓話のように、一方的に太陽が有利な条件で勝者が決まるというルールの方が、極めてアンフェアな社会にすぎないということなのである。少なくとも僕らは公正なルールを作って将来に備える必要がある。不公平な世の中が幸福なのは、ほんの限られた人たちにすぎないのである。
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仕事はちゃんと最後までやり遂げよう

2009-04-16 | 映画

ワルキューレ/ブライアン・シンガー監督
 多くの人が思ったであろうことは、直接的にこの話を知らない人でも、結果的に史実として結末が分かっていながらサスペンスを楽しむという状態がどのようなものなのか、ということを確認するような映画である。ちょっと違うといえば違うけど、コロンボなんかが先に犯人の正体をばらしておいて、どのように追い詰めるのかというのを楽しむということは今までもあったことはあったのである。しかしこの物語は成功するのかしないのかというような緊張感あふれる展開が素直になされており、いや、だからこれって失敗するはずなんだよねえ、などとどうしても脳裏から離れない緊迫が、やはりなんとなく邪魔することはあるように思えた。登場人物の人たちはその通りなのかもしれないけれど、神の視点のように史実を追ってしまう観客はどのようになるのかというのは、自分自身が興味深かった。
 最後の方は当然後味が悪いのだが(映画の作りとしてはだから僕は好感がもてたが。作品としてこのような良心こそ大切だろう)、人間のミスというものを考える上で、その痛みが何とも哀れで、ああ、確実に仕事をすることって、このように大切なことなんだなあ、などとつい仕事のことを考えてしまったりした。少なくとも他人を確実に殺そうと思ったら、最初から自分の命を鑑みることをしてはならない。自爆テロリストが結果を確実視して死ぬのは、かえって効率のいいことなのかもしれない。またシュミュレーションや実験とかリハーサルというものは、このような極秘の作戦であっても、十分に行う必要がありそうだ。その間にバレたら元も子もないという心配はあるにせよ、本番で失敗するのはやはり痛い。まあ、テロが失敗するのはこういうことだというのは分かるので、テロリストは参考にしないように。
 歴史というものの中で、ヒットラーとかナチスドイツというのは、現代の視点から考えると大変に異常な姿のように思える。しかしながら近代国家の民主的手続きでヒットラー政権が誕生したことは紛れもない事実だ。確かに現代の民主国家(名前だけでない)において第二のヒットラーが誕生する可能性は極めて低いが、しかし政治がポピュリズムに迎合するのは民主主義の宿命であることもまた事実で、ヒットラー的なものが近代の政治形態だからこそ生まれたものであることは考えてみることは必要だろう。しかしそうであるからこそ、ドイツ人の良心として、すべてがヒットラーを支持していたわけではないことは当然である。その根拠として実際に暗殺計画が実施されたということだ。ただこの映画がハリウッド作品であることでも分かるように、どうしてその良心をドイツ人が語ることが難しいのかという問題もある。これは同じ敗戦国の日本にもいえることだと思うが、当時のドイツなり日本なりの姿を正当化する姿勢でないことが明確であるのに、そういう悪意も良心をもつという複雑性を受け入れる土壌が、おそらく現代社会においてもまだ足りない所為もあるのではないか。またこれがおそらくほとんど戦後の人たちの手だけによって語られるというのも、戦後という時間の経過の途上において、ある種の生々しさを克服することが難しかったのだということもあるのだと思う。特に映画としての娯楽性を考えるとき、この映画を当事者のドイツ人が受け入れることができるのかという問題もある。結果的に史実にのっとったなかなか良くできたサスペンス映画ではあるにせよ、本当に難しい映画をつくってしまったものだと思う。いや、やっと語られるようになるほど、先の大戦は遠くに行ってしまったということなのかもしれない。この映画を新鮮な感覚で受け取れる人が多くなったのであるなら、脅かすようだがそれはそれで驚異の時代への示唆であるような気がしないではないという複雑な気分にはなったのであった。
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嫌なものでも楽しめる

2009-04-15 | 雑記
 中学校のPTA役員会の後に懇親の飲み会(親父会)。
 初参加の僕の放言を聞いて頂いて大変にありがとうございました。基本的に熱い議論というのは楽しくて、そして僕の性格もあるんだろうけど、持論をついつい強弁してしまうのは悪い癖だと思いました。今考えると確かにグレーゾーンの見解もあるので、実際は僕の間違いが多いのではないかと反省しております。具体的には思い当たるフシもある方には分かるでしょう。また、今後も(懲りてなかったら)議論してみましょう。それにしてもひどい二日酔いで、もう少し早く帰る努力はしたいですが…。

 PTAだけの話じゃないんだけど、僕は本来任意団体の組織というものを信用していない。なんでかというと、その多くの団体において僕は役員をする機会が多いからだ。もちろん自分からなりたくてやっているものや、入りたくて入ったというようなものは今まで一つとして存在したことがない。むしろ嫌悪しているから誘われたとしか思えないようなものばかりだ。その団体という組織そのものが、自ら必要とされて組織されたかどうかさえ怪しいものだとも思っている。人間というのはそのような怪しさを好む社会的な生物なので、放っておくとどんどん団体というのは増殖していく。そのような悪魔的な習性で出来上がったものが、善意というもっとも邪悪な意思で維持されていく。しかし本当は邪悪なものだから、本来は誰も近寄りたくないものなのだ。その証拠として僕のような人間が必要とされるということが何より怪しい。つまりは、平たく言うと、どうでもいいから僕が役員になってしまうわけだ。まあ僕も年だけは大人になったし、ある程度は分別をもったふりもできるから、表面的には確かに無害ですけどね。
 PTAに限定して言うと、この団体そのものは、あってもなくてもどうでもいいものだといいきっていいだろう。あえて必要なのは先生のためであるというのは明確だ。何故なら個別に親が何の脈略もなく学校とかかわろうとすると、迷惑するのは先生だろう。とてもやってられないから泳がせる場をつくってやろう。本来の起こりというものを平たく説明すると、そんな感じだったろうと想像する。もちろん親だってこの複雑な世の中で生きていく上で子供に教育が必要なことに異論はないし、学校という場所が子供の成長にとって合理的な必要悪だというのは理解している。その上で人質をとられているわけで、反対するわけがない。まかせきりというのも後ろめたいし、かかわるということで安心できる。相互の利害はその点で一致する。
 だからいいといえばいいのである。基本的に僕は適当だから。多少の犠牲であろうとも、だから僕は我慢が出来る。そしてこんな単純な真理だって、どうしても理解できない人は理解できない。卵を投げられることが分かっているのにいう必要はない。世の中は偽善だからなりたっているのかもしれないのだ。そして僕は(表面上は)黙って団体の構成員になるのである。
 本来はそのようにして平和に暮らしているわけだが、時々本音を言ってしまう。だから相手は理解者だと分かっているからなのだ。分からない人には話す意味がない。それが僕の昨日の姿だったのかもしれない。結局言い訳がましいが、僕だってそんなことを日頃から意識するのはつらいのである。敵は善意だと知っているからこそ、近くにいながら染まらずに健全に生きていけるのだ。僕の中に二面性があるとしたら(誰にだって二面性はあって当然だが)、それは当然自分の防御のためだろう。僕がかろうじて社会的な人間として存在できるのは、そのような生命的な知恵といえるだろう。
 まあしかしいづれ終わりがあるというのはいいことだと思う。刑務所にも刑期があるから務められる。卒業がある学校というのは、人間の救いのシステムなのであろう。そして終わりがあるから救いがあるだけでなく、楽しいという感情も持つことができる。このような状況で僕が楽しめるのは、だから偽善なのではないのであった。
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