カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

昼酒の愉快

2007-04-30 | 雑記
 Y田君の結婚式であった。人柄もあってか幅広い世界の人たちから祝福される姿を見て、素直に良かったね、という気持ちになる。別にそうでない人であっても結婚はおめでたいが、まあ、今回はそう思ったということ。僕の知らない一面があるのだろうな、などと当たり前のことを考えたりした。思うに僕自身もY田君とのつきあいもそれなりに長くなっているが、本当に全面的に彼を知るものではない。お嫁さんも初めてお会いした。きれいな上にしっかりした人だという。二次会の折の自然なカジュアルな感じも好ましいと感じた。きっといい家庭を築けることだろう。
 さて、結婚式なので昼真っからずっと酒をかっ食らっていたわけで、最終的にかなりひどい状態になりそうになりながら踏ん張っていた。自分でも酔っているなあと思いながらもういっぱい飲んでしまうのが悲しい。昼間なので外に出ると日の光がまぶしくて体がどくどくいうようなふらふら感に包まれる。少し正気に戻って、それでも焼酎を体に流し込んでゆく。
 本格的に酒臭いオヤジになって家に帰ると、子供がサッカーをしようという。こりゃ困ったね、と思うが、この後に出て行かないということは遊べると判断したものだろう。いつも早く帰るときは、その後また出て行くための準備のときである場合が多い。不義理なオヤジとしてはここは義理を果たさねばならない。もう自分でもどうにでもなってくれというようなふらふら状態でサッカーを楽しむ。心臓がバクバクいって何とか生きていると思いながらボールを蹴って遊んだのであった。
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輝ける休日群

2007-04-29 | 時事
 一週間程度の休みぐらいでゴールデンなどといって欲しくない、という話を聞いたことがあるけれど、無いより有ったほうがいいような気がしないではない。休みも給与のうちで、だから若い人には休みが少ない、のだと思う。休みだけれど堂々と休めない現実が病気であるし、権利だからといって困るように休まれるのも同じように病気だ。
 しかしながらこの時期は、いろんなイベントがたくさん組まれていることも事実である。多くの休みを見込んで商売をするわけである。休んだ人からサービス対価を頂戴する寸法である。だから結局ひどく忙しくなるわけで、このせっかく休めるチャンスをみすみす逃している。みんなが休んでいるときに同じように休んでも意味が無いといえばそうかもしれないけれど、ふうけもんのように休みに精を出さねばならない商売人のつらいところである。じゃあ平時に休んでいるかといえば、やっぱり休みにくいのである。かなり不公平を感じる。労働時間と報酬は基本的に比例する場合が多いので、これで豊かになってくれるならばいくらか不満も減るはずなのだが、そういうものと関係ない忙しさが増えることで、現状を何とか維持しているということが現代人の最大の不満なのではないだろうか。右肩上がりの終焉というのは、こういう先行き希望の消失なのかもしれない。現実的には既にかなり豊かにもかかわらず、豊かさを享受できないし実感を伴わない。日本で一番平均給与の水準の高いマスコミが格差社会を強調する世の中である。発癌物質をもっとも規制なしで撒き散らしている航空業界がもっとも喫煙に対して厳しい処置をしていることと同じく、単なる欺瞞に過ぎない。踊らされず平常心を保っていても、その姿のほうが狂気に見えているのかもしれない。
 というわけで今年はポーズとしての仕事はパスして、実質的な仕事と休みを半分半分にしようと思う。少なくともいつまでも仕事はしないし、同じくいつまでも休んでもいられない。今年まで何とかなれば来年からパスしていい話もあるようだし、考えてみれば気楽にやることだ。切実ばっかりでは、やっぱり疲れてしまった。
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取り返しがつかない

2007-04-28 | 雑記
 直前会頭のお話が大変いいということだったので、鹿児島に聴きに行く予定になっていた。当初僕は仕事の都合と重なっていたのでお断りしていたのだが、再三案内ももらっていたので何とかしたいと思い直し、シフトを何とか組み替えさせてもらって、やっと都合をつけることができた。ゴールデンウイークはさまざまな仕事の区切りで、イベントが数件重なっているし、本格的農繁期の始まりであり、利用者の帰省や行事も入っている。無理に無理を重ねてでも行く価値があるといわれていたので、こういう無理にも価値があると信じて無理を通した。そうして今日を迎えたが、バスに乗り遅れてしまった。案内してもらった出発時間ではなく、実際は71分も早い時刻が出発時間だったらしい。何かの間違いがあったのだろう。直前会頭とは縁が無いということなのだろう。あきらめるより無い。いまさら何も取り返しがつかない。散歩でもするとするか。
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風が知ってることさ

2007-04-27 | 雑記
 さて、午前の続き。
 北松浦は拡大一色の企画例会であった。僕も拡大関連でお邪魔したのだけれど、まあ、付け足し程度の役割だった。本当に意味があったのはそこでの建国君の講演であった。いやあ、面白かった。流石に実践の人の話はいいと思う。いちいち根拠があって説得力がある。やったことがあるという実績は、本当に人を強くすると思う。そこで地道に考えて言葉にしていく作業をしていった人には、一種の哲学が生まれるのであろう。すべての考え方自体が完璧な答えであるとは僕は考えないけれども、そもそもそんな狭量な世界では人は生きてはいない。どんな人でも青年会議所に入れるわけではないと考えているのでそう思うだけで、微塵も建国君の考えを否定するものではない。仲間からいい話を聞けて大満足であった。
 ただ、会の内向きの場では絶対に言わないけれど、万人にとって意味のある会は無意味だと思う。それでも拡大精神自体がまちづくり運動であることは間違いがない。己が何であるのかという出発点をクリアしなければ、己の属する会を人には勧められない。
 また、勧誘で僕が疑問に思っているのは、自分のPRに一所懸命になることは二次的でいいのではないかという思いである。これは事業でにじみ出てくれば理想だということである。もうひとつは、説得する側に問答的に答えを提供する必要が本当にあるのかという疑問がある。あなたのためにこれこれしかじかの利点があると説明するようマニュアルを作成するところなんかがあるけれど、ムダとはいわないまでも方向性は違うように思う。そもそも個人に提供型のサービスを行う団体なのではない。個人が能力を実践する場なのではないか。また、入る気のない相手の疑問に答えるというのは、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような意味のない疑問に答えることぐらい無意味でバカらしいことではないだろうか。
 訳の分からない団体には入れないという理屈は少し分かるが、分からないだろうけれど勧誘されているその時点であなたには資質があると見込まれているのである。勧誘の時点で青年会議所は人を選んでいるわけで、実はそれだけで十分条件だと思う。人の申し出を受けられないあなたは、私のことも根拠なく否定しているだけだということを理解してもらわなければならない。乱暴だけれど、青年会議所に入るということはそういうことではなかったかと今になっては思うのである。まあ、関係のない人には分かりにくいお話で申し訳ない。それぐらい特殊な団体であって、一般性は実はない。それは真実で、だからこそ意味があると僕は考えている。そして四十までしか続けられない。答えは自分の中にしかないのである。
 確かにそりが合わない人はいるだろう。しかし合わなくてもやれないわけではない。意義が無い訳ではない。

 まあ、しかし、建国君の話をみんなで聞こうではないか。ありがとう、僕は元気になりました。
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利己的感情は既に病気だ

2007-04-27 | 雑記
 案内など連絡事項が溜まりに溜まっている。ミスもいくつかあったようだ。作業が遅いことよりも、ミスを取り返すほうがロスが大きい。常々言っていることだけれど、自分もそういうミスを犯す。しかしそうだったかな、と今となっては原因さえ確定できない事項まである。こちらの勘違いか。特定できない判断ほど危ないものはないと僕は思う。つまり小さいミスだが危険度大だ。これが続くと事故になる。または誘発する可能性が高くなる。気を引き締めよう。

 日差しが暑い。シャツを脱いで窓を開ける。風が冷たくて気持ちがいい。

 午後からPTAの総会。淳さんが辞退したので議長に選出される。会場を見回してみると、たぶん同級生だった人がお母さんとして座っている。名前はなんと言ったっけ。頭のいい人だったなあとは覚えている。あとで挨拶しようと思ったが、散会したあとで見失った。
 組織表の説明で分かったことだが、多くの役員はやはりくじ引きで最終的には選出されたとのこと。もっとも非民主的方法で民主的なフリして組織された公平感に改めてうんざりさせられる。もうやめたらいいんだよ、こんな組織。やりたい人がやりゃいいとは思わないが、これだけ不公平だと子供がまともに育つわけないじゃないか。親がまともに背中を見せられないでどうするんだ、という怒りがわいてくる。はっきり有害だと分かっていながら止められないから病理なのである。僕の声は届かない。

 終了後北松浦JCの例会へと向う。ドライブは快適。僕の軽バンはちっとも走らないけれど、それはそれでいいのである。音楽はホープウェルがいい感じだ。サイケなミック・ジャガーという感じか。

 例会前に懇談の場がある。PTAの話題になり、本当に今の親は利己的考え方の集団になってしまったものだという意見が出た。僕もまったくそう思う。子供のこととなると、親は利己的になるのだろうか。僕は子供のことは遠慮がちになる。子供は損得ではない。むしろ僕の仲間達も同じような感覚の人が多いようにも思う。だからこそどうにもこの利己的な感覚が理解できない。急に出現するこの集団はいったいなんなのだろうか。
 おっと、時間がなくなった。続きは午後へ続く、たぶん。
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あきらめの悪さ

2007-04-26 | 雑記

 なんとなく疲れの取れない疲れを抱えている感じだ。首を回しても肩をゴリゴリ回転させても、しこりのような感じがぬぐえない。散歩でもするか。
 新聞を読んでも本を読んでもブログを閲覧してもなんとなく気分は晴れない。風呂にでも入るか。鼻血が出るぐらい熱いお湯にジンワリつかるといいのかも、などと夢想する。しかしのぼせるのは結局つらい。体の張っている筋のようなものが、みんな伸びてしまわないものだろうか。ダラーンと伸びきった感じは、実際に気持ち良いのだろうか。

 留守電がたくさんあって、申し訳なかったなあと思う。電話を置いていたのである。続けて返事をしてだいぶ長話をする。つれあいに迎えに来てもらっても、そのまま車に乗り込んで話し続ける。もともと何の話をしていたのか忘れてしまった。
携帯電話で話していると、いつの間にかその場をうろうろ歩き回ってしまう。自然に散歩に出てしまうこともある。歩いているといろいろ考える場合とまったく考えていない場合がある。電話しながら歩くと方向性をあまり考えていないようだ。電話の話が済んで、なんでこんなところにいるのだ、と驚くことがある。そういう意味では、やはり運転中の電話は危険だともいえる。しかしその論を持ってくると、やはり恫喝に違いないとも思う。個人差もあろう。発展すると運転中の会話そのものも駄目だろうし、音楽を聴く行為も限りなく疑わしい。実際のところ運転中のラジオや音楽も危険なのだろうか。
 ピアニストは演奏しながら料理だってつくれるという。同時に別のことを考えることができる。つまり両手は別の動きを別の思考で行っている。ファインマン先生が書いていたが、数字を頭の中で数えながら別のことを考えることができるようだ。脳の部分で別の思考を同時に動かすことができるという証明であろう。実際に僕もできるようだ。スピーチの時など話しながら次に何を話したら良いか同時に考えていることもあるようだ。話している途中で急に自分なりのオチがひらめく時がある。ユーレカ!である。ひとつのことを集中して考えることも大切だが、同時にいろいろ考える利点もありそうな気もする。
 偏見だが、女の人の多くはどうもそういう視点で物事を普段から考えているような気がする。時々とんでもなく飛躍した発言が飛び出るが、発言者本人に矛盾はないようだ。誰からの発言から誘発されて、同時進行で思考展開したのではないか。
 あれこれ考えて結論が出なくても、それはそれでいいのかもしれない。それなりのストレスではあろうけれど、思考のレッスンになっているはずだろうからである。それにいつもいつも答えが出るとは限らない。多少しつこく忘れられなければ、何かの発見につながることもあるかもしれない。人間あきらめがよいばかりではよくないようだ。
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シンクロとシュール

2007-04-25 | 散歩
 福江にて魂の伝承を受けた翌朝に無理やり朝食を詰め込んで散歩に出ると、猫にリードをつけて散歩している人を見かけた。なかなかシュールな光景であったが、帰りのタクシーの中で話題にすると、運転手さんは「そういう人は何人かいます」といっていた。この島の文化ということなのだろうか。猫をつないで飼う習慣のある国もあると何かの記事で読んだことがあるが、この話題にはTきちゃんも同じものを読んだという。はて、このシンクロの出所はどこなのだろうか。いろいろと疑問が解消されないまま帰路に着いた。家では大盛りチャンポンが待っていて、その満足感で胸までいっぱいになった。正直に言って気分のリハビリはまだまだだが、せっかくだからズドンと落ち込んで這い上がってやろうと思う。無常にも忙しい毎日は続く。転がり続けるしかないではないか。

 どういうわけか最近はミューズの大げさな曲が好きになりました。落ち込んでいるときに聞いているとなぜか笑ってしまいます。ある意味で素直なトム・ヨークという感じがいいのかもしれません。
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何とか切り替えました

2007-04-23 | 時事
 かなり残念であると共に、呆然という感じになってしまった。経過状況を聞いて途中で少し苦しいかもしれないとはチラリと思いはしたのだが、気を取り直して結果を待っていた。いろいろ分析できないではないが、最大の運の無さはやはり天気であったろう。最悪の状況の中、むしろ健闘しているというのが客観的見方なのかもしれない。意外に思う面もないではないけれど、組織の勝利という図式は揺るがなかった。まさにそれが選挙なのだ。嘆いても仕方がない。旧来の図式をかなり否定してこういう得票があったという事実も、それはそれで評価できる。しかし、結果は厳しかった。
 僕は比較的ドライな性格で、現実を前にしてとりあえずはそのことを受け止め、感情を切り替えるということはできると考えていた。しかし今回は、あたかも中学生のごとく、時間が逆回転してくれないかと思った。現実を受け止めたくないと思った。根拠が薄くとも楽観していたのだろうか。いや、少し感情的になっていたのだろう。素人だと自認していたくせに、素人を指摘されるとそれなりに意地になるような感覚があった。人前では口に出さなかったけれど、今回はぜんぜん駄目だという玄人筋からの指摘は受けていた。そういう話を聞く度に、正直言って鼻を明かしてやろうじゃないかと思っていた。自分のことならそんなに口惜しくならないが、正直言ってかなり口惜しい。しかし歯がゆいがどうにもならないのだ。受け止めなければ始められない。
 負け惜しみではないが、勝たなければ意味はないのかもしれないが、勝てば良いというものでもないと思う。それこそ勝つためならば人を殺してでも、ということは容認できないからだ。僕にとっては、あえて結果はどうでもいいことである。基本的にそういう考え方は、不思議と変わっていない。であるからには、旧来のものを認めて行動すべしというものの考えには今後も与しない。世の中は自分の力では変えられない。自分が変わるよりないからだ。僕はたまたま多数になることはあっても多数派ではない。つまり世の中の流れには乗れないし、今後もたまたまでない限り乗ることもないだろう。そういう無常観も変わらない。別に頑固ではないけれど、納得できないものを受け入れるほど器量があるわけではない。
 ともあれ一旦の区切りがあって再スタートだろう。多くの人にはお世話になり、大変にありがとうございました。もう一からではない。それだけは確かにいえる財産である。活かすか食いつぶすか、それはこれからの行動にかかっている。僕にとってのリアルとは、そういうことなのである。
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うーん、雨ですね

2007-04-22 | 雑記
 いろいろと終わったが、あとは天命を待つのみ。しかし外は雨ですね。先ほど投票を済ませてきたが、続々と投票に訪れる人があって少し安心するともに、年齢層から考えて必ずしも有利とはいえない現実になんとなく落ち着かない。それでもこればっかりはなんともならない。だんだんと嵐のような雲行きで雷まで鳴り出した。なんというか、何もいうことが無くなった。長い一日にはなりそうで、あわてても仕方が無い。何人かは投票に行ったという電話をくれている。そういう連鎖の力を信じるしかないではないか。

 月曜にクモ膜下出血で倒れた利用者の方が亡くなったという。そのまま意識が戻ることはかなったが、本当に残念なことだ。感情の激しい人だったけれど、手先が器用で、単純な作業など、仕上げるスピードが格段に速かった。おしゃれもユニークで、どでかいイヤリングや何重にも首に巻いたネックレスを自慢していた。作業場に出てこないので心配して迎えに行くと、口に手を当てて、誰にも内緒だというようなゼスチャーをするのだった。まあ、サボるぐらいいいかと、僕は引き下がって帰るのであった。憎めないというか、かわいらしい人であった。
 心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。

 落ち着かないが本を読んで蕗の皮をむいてテレビを見たりした。なんか文章を書くと何とかならないかと思ったわけだが、なんともならないようだ。アヅちゃんの寝顔でも眺めて過ごすことにしよう。
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共振してほしい

2007-04-20 | 時事
 久しぶりにちゃんと風呂に入ろうと思って帰ったが、すぐにビールを飲んでしまってその野望も潰えた。タカトシ君も酒を断って戦いに臨んでいる。しかし僕は、いつかは風呂にには入ろう。

 街頭演説は何度か聞いている。今日も二本聞く機会があったが、格段に良くなっている。多くの人にこの話を聞いてもらいたい。僕としては直接この声を聞いて政治家を判断してほしい。どういう動機で投票するのかはまったく個人の自由だけれど、縁故者という判断だけで狭い地域の人を選ぶ営利が本当にまちづくりなのだろうか。どういう人を選ぶという自分の判断にゆだねる最大の材料は、まずは政治家としてのあふれ出る言葉からではないのか。残念ながら当選しなければその行動は判断できないわけで、特に新人においては、彼の発する言葉こそ、命だと思う。そこで賛同が得られるなら、投票という行動で連動させてほしい。動機が無いのに投票に行くなんて難しいことだ。せめて声が届くことを願うばかりである。
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情に訴えること

2007-04-19 | 時事

 冷たい雨と嵐のような風である。葉っぱが舞って、玄関にたまる。自動ドアが開くと、ダーッと廊下に濡れた木の葉が入ってくる。
 選挙運動の車が通る。事業所のある集落は世帯数が少ない。もちろん目的は我が事業所であることは間違いない。事業所の前では止まりそうな速度で(もちろん他に通行する車などないので、誰も迷惑しない)いちだんと強烈な音量のアナウンスも聞こえる。利用者の人たちもこの騒ぎは喜んでいる。まあ、選挙というのはお祭である。盛大にやってくれればいい。もちろん僕に異論があるはずは無い。
 この町内は特殊で、候補者は軽トラックの荷台に乗って手を振ることが常識である。もちろんよその選挙区では禁止されていることであるけれど、伝統的特例なのだという。公職選挙法がいかにザル法であるかという証明ではあるけれど、はっきり言ってこういう天候では非常に過酷な選挙戦という様相を呈している。雨風をまともに受けるので、髪のある人は天然オールバックになる。支援者もまともに支援すると、大抵は体調を崩してしまう。車に揺られて荷台で倒れて怪我をしたという話はごまんと聞く。ご高齢の方には、大変なリスクである。面白いから続けてもかまわないけれど、嫌な人は止めればいいのに、と思うが、このスタイルでないと支援者が許さないという話も聞いたことがある。この地区の候補者は気の毒だと思う。
 夜に事務所に寄ってくれたA塚君と話していて、結局情に訴える事がいいのではないかという話になった。今日のような雨の日にびしょぬれで街頭に立つことで、がんばっているというアピール効果が得られるのではないか。深夜にわたって街頭に立って手を振れば、仕事で遅く帰る人には共感が得られるのではないか。などである。僕にはそういうものかな、という感情も無い訳ではないが、自分自身に鑑みて考えると、かなりナンセンスであると思う。僕個人にはそういう行動はまったく響かない。台風の日に屋根に上って作業をしようとするお年寄りがいるが、見ているだけで迷惑を感じる。僕の目はそういうお気の毒な感情しかない。ましてやそういう人に一票を投じるのは危ないことではないか。
 いや、やめよう。それでも一票というのがまともな人の感覚なのだろう。僕自身も、何とかもう少しでも、ということではがんばっているのである。その感覚には共通項があるには違いない。僕は大の祭り嫌い(個人的には盛り上がるより湿気たイベントが好きだ)だが、ずっと祭りの実行部隊でがんばってきたではないか。嫌いこそものの上手なれ。好きな人には分からない問題点をクリアできるのは、僕のような人間かもしれない。そういう意味では、普遍性のない僕に乾杯しよう。
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結局は転がり続けろ、だ

2007-04-18 | 雑記

 選挙がらみ来客など。タカトシ君が気になるが、僕の事業所は選挙区が違う。それぞれに関係者は切実なので、ないがしろにもできない。また、微妙に僕も無関係ではない。世話になっているといえば確かにそういう人がお願いに来るわけであり、会うまで何とかしたいという心情があるので、結局会うほうが早いのである。せめてお願いされた分はこちらもお願いするのみ。
 後半戦に向けてしらみつぶしという感じだろうか。電話できるところはしておく。できることは、やはりやるよりあるまい。いろいろなところの話で、票を読むということがどれぐらいむつかしいことなのか改めて思う。既成の概念で戦っているわけではない。従来なら読めるものが簡単に読めるものではないという仕組みがよく分かる。状況は混沌で、後半がどうだ、という判断は僕にははっきり言ってよく分からない。それでよいのかと怒る人は怒るけれど、そういうものだという戦いなのではないのだから申しわけありません。

 仕事以外のトラブルもあり、精神的にイライラしているのだろう。はかどらないというか、大きく時間をとられてしまう。詳細は書けないが、世の中には困った人達がいる。この人たちは人を困らせることで生活を営んでいる。困らせたいのだから、こちらが困らないことがなによりの防御法である。付け込まれない用心は必要だし、根気強く対応していくが、基本的に最小限の反応しかしない。すっとんきょうに驚いて判断をしないことだ。
 長崎のテロも同じことだ。仮に証言のみが動機だと仮定すると、まったく意味のない逆恨みである。人間はベランダから落ちた植木鉢にあたっても死ぬことがある。人が死ぬというのはそういう一見意味のない無常ということでもあると思う。生きている人はそれですまない感情があるけれど、その感情を動かそうと不条理をはたらいているのである。反応すればするほどテロは目的を達成したといえるのである。連鎖を防ぐ最大の方法は、テロの無意味化である。残念ながら日本に限らず、政治ではテロは大変に有効である。人の死はやはり感情を動かしてしまう。そうであるからテロリストはできるだけ非情であるという手法をとるのである。せめてこういう行為も人間が内包している性質であると理解したほうがいいと思う。粛々と行動するよりないだろうと思う。

 さてしかし、理事会の方はいい感じではあると思う。議論の筋もいい意見が出ていると思う。言いっぱなしや、不条理な一方的な批判も少ない。内容の先を読んで、つぶすところをつぶし、広げるところと期待するところがあるという考え方もよく分かった。答弁の空回りもないではなかったけれど、本当に意味が分かっていないということではなさそうだ。技術論であれば身につければいいだけの事である。スキルは必ず身につく。その前の考え方こそ大切なのである。理事の自覚が高いということであると思う。そういう精神がなにより尊いことなのだ。こういうサイクルがどんどん広がると、まちだって変わっていくだろう。悪いことも連鎖するが、いいことだって連鎖するのである。転がり続けるよりないではないか。
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いつまでも閉じこもるな

2007-04-17 | 雑記

 朝は面談とか相談ごととかいろいろ。詳細は省略。継続審議である。

 昼はぬいて高速すっ飛ばして県庁へ表敬訪問。まあ、金子知事は正当な政治家(これは皮肉)であると確認。ミもフタもない話とはこのことだろう。好意的には先輩として素直におっしゃったと解釈しておく。しかし、まさにイノベーションの対象ですな。

 ブロック大会の現地視察。別の大会などで来たことがあるけれど迷いそうになる。こんな構造だったっけ。アリの行進のように後ろからついていくだけ。
 ホテルの会場も見るがただ唸るのみ。想像以上に狭い。実際の動員はかなり厳しいとは分かっているが、それにしてもである。もちろん長崎さんががんばって準備してくださっているので単純に批判めいたことばかり言ってもいけないことは分かっている。僕はなんどもブロック大会を経験しているけれど、たぶん今迄で一番設定しているキャパが狭い。物理的問題はあんがい大きい。
 グラーバー園へ移動。修学旅行の生徒さんもチラホラ。たぶん数十回は来たことがあるはずだが、こんな感じだったっけ。記憶力が悪いのだろうか。今後はまじめに観光しよう。
 それにしても僕らの世代は「お蝶夫人」といえば「エースをねらえ!」だが、長崎では元祖三浦環である。昔の日本人は国際的に有名な人が多かった。本当は僕もよく知らなかったんだけどね。しかし、「ある晴れた日」を聞くと長崎人はちゃんぽん・皿うどんを思い出す。宣伝効果抜群である。
 さて話を戻すと、移動問題もかなり不安に思った。100人単位が個別に移動するにはかなり無理を感じる。時間的余裕でカバーするというのは、単に期待をしているだけである。ここに来てどう考えをまとめるかは正念場であると思う。今まで散々言ってきたという主張はコンコルドの誤りと同じ構造だ。もしくは旧日本軍か。現時点ではっきりいえることは、各LOMの専務理事は当日ものすごく苦労するだろうということだ。それを当然と考えることは、配慮ではないし、友情ではない。厳しく言うとそう思う。

 また移動して役員会。なんと閉館9時まで。ここでの議論も厳しかった。いや、なんと言うかちょっと呆れました。何かベーシックなものをちゃんと伝えなくてはならないのかもしれない。経験がすべてとはいえないが、吸収することも大切だ。今まではそれで通ってきたということだけでは通らないのである。変人はけっこうだけれど、そこはどうしても理解して欲しいところだ。自分が乗り気じゃないことで他人は説得されない。自分が乗り気になるまで自分をたぎらせなければどうにもならない。僕もずっと斜に構えていたのでよく分かるが、だからこそそこはなんとしてでも乗り越えて欲しい。自分がやらなければ誰もやらないのである。頼まれたからやっているというホンネはあるのかもしれないが、立場というのはそれでは通らないのである。いい加減に相対的な関係性の上での自分の姿を直視すべきである。
自分の思う自分は本当に自分なのではない。それは大きな勘違いだ。他人から見てどうだというのは、絶対的にリアルな自分の姿なのだ。他人が自分を理解していないのではない。自分が自分自身を見ていないだけなのである。
 もちろん勘違いしたままでも生きてゆけはするだろう。しかしそれは、限定されたスモールワールドでの話なのである。だから殻を破れというわけだ。いづれ気づくが、ブレークスルーした別世界は、本当に壮大だ。この世界こそ、人間が本当に自由に活躍できる舞台なのである。ある意味では本当に開かれた無限大の世界だ。そこまでたどり着くために、本当に真剣にがんばって欲しいと思うのである。
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いいスタートと、個人的に爆発

2007-04-16 | 雑記
 いろいろありすぎてかえって何にも書けない。ものすごく速攻で書くには密度が濃すぎる。ああ、書けないね。とてもそんなことは。
 ぜんぜん選挙のこととは関係ありませんので、そっちの話はご心配なく。想像以上にいい感じですよ、タカトシ君。サイクルはいい。しかし気をひきしめよう。
 そういうわけで、ちょっと休止かな。
 個人的には外山さんの動向も気になるところだが、うまくいきそうでなによりです。皆さんごきげんよう。
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無責任な感想

2007-04-14 | 時事

 長崎で会議。役員会なので活発な意見が出る。つまり少人数だと議論になりやすいという単純なことである。しかし、僕の感覚としてそれぞれが少し主張しすぎかな、とも思う。まあそれなりの地位の人ばかりなので仕方がないのだが、自分の話に持ってこようとしすぎるのである。もともと権力のある人が力を振り絞るとそれなりのパワーを発揮する。そういう単純なことがよく分かる。つまりこういうのは政治的である。たとえ一部であろうと、発言力が強い方が勝つ。良い悪いではない。ロジックでもない。議題にもよるけれど、提案されている趣旨と微妙にずれてゆき、遠くにいってしまった。まあ、それでもいいか。最終的に金に絡む話もあって、僕は遠慮しよう、と思った。それに僕のところでは少しハードルも高いようだ。
 金といえば、ある心理実験というのを思い出した。会議の席などで会場にお金を印象付けるレイアウトをするとどうなるか、というものらしい。札束の写真を飾るとか、お金の形をした意匠的なものをテーブルに置くとかするわけである。そうするとそういう場で議論される話がどういう展開になると思いますか。
 こたえはそれぞれが非協力的になっていくんだそうである。利己的傾向になるということか。一緒にやろうという意見が出なくなるのだろうか。具体的には忘れてしまった。
 しかしながらなんとなくそうかもしれないな、とも思う。損得はお金で考えるとシビアである。そういう勘定をしだすということか。しかしながらマルチの勧誘などは、露骨だけれど協力しようなどと呼びかけるよな。あれはどうなのだろう。畳み掛けるように押し付けられてものすごく苦痛なんだけど…。結局逃げ出したくなって契約したりするということか。いづれにしても恐ろしい。

 終了後飲みに誘われるがパスして、車を飛ばして佐世保へ。市長候補のローカルマニフェスト討論会を見にゆく。
 神吉さん以外だとどうなるかというのをよく見ておこうと思ったが、田村さんはあんがいおとなしく控えめだと思った。見る分には神吉さんのあおりのほうが面白くはありますね。良いか悪いかは別として。佐世保さんはうまく運営していたと思う。お疲れ様でした。
 三人だけれど事実上の保守一騎打ち。言葉では対抗する場面が少なかったが、なんとなくそういう差異が見られないのは残念でもある。争点が分かりにくい。まあ、単純化ほど危ないものはないが、これでは選択はむつかしい。
 関係のない前川さんは、かえってやる気がないようにも思った。まあ、面白い人なのかもしれないが、こういう場面で人を食っても仕方ないだろう。マニフェストもぜんぜん分かっていない。結局都合どおりにはなかなか行かないということだろう。かなり道半ばだな、というのが正直な感想である。まあ、関係ないのに選挙に出ようという気持ちもそもそもよく分からないことではある。背景は知らないが、それも佐世保の民意なのだろうか。複雑なまちなんだな。どこも何かの問題がないではないが、実感は外からは分かりにくい。
 米国みたいにディベート的に展開する必要もありそうだな、とも思う。僕はそういうもの自体を好んでいるわけではないけれど、日本もそういう方向へ行きつつあるのは必然だろうとも思う。アジア的な政治縮図の典型が日本政治だけれど、有権者は既に西洋化した思想を自然に持っている。遅れているとはいえないが、政治家の抵抗がどこまで続くのか、というのが正直な現実であろう。変わらないのなら、僕を含めて、眠るより仕方ないゾ。正直に言うとそれが結論。既にだいぶ国民を寝せてしまった政治の責任は重いと思うのである。
 まあ、政治家だけの責任でもないか。マスコミみたいな無責任なことを言ってしまって申しわけありませんでした。
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