カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

落ちこぼれの嫌いな校長先生   祝砲の挽歌・刑事コロンボ

2017-11-29 | コロンボ

祝砲の挽歌・刑事コロンボ/ハワード・バーク監督

 硬直的な経営がたたってか経営難に陥っている陸軍養成学校の校長は、元生徒でもあった理事長(そういう後援組織お偉いさんの孫にあたるらしい)と経営方針で敵対している。創立記念日においても大喧嘩して、そのケンカの成り行きを利用して式典の大砲係を理事長に託し、暴発させて殺すことに成功する。一見事故と捉えられたそのトリックを見破るのが、コロンボの役割である。古い砲台の暴発後から掃除のボロキレを見つけ、掃除当番をしていた落ちこぼれ生徒のアリバイを立証し、学園内でこっそり流通しているリンゴ酒事件などを絡めて校長を陥れていく(逮捕ですね)ことになる。
 校長は学校のことを心から愛している。だから行き過ぎていいとは言えないまでも、古き良き学校の在り方について、どうしても譲れないものがあるのだろう。しかしながらそのような良さを守って学校は経営難に陥っているとも考えられる。男女共学にし、短大として広く生徒(学生)を受け入れて経営を立て直すときに来ているのかもしれない。少なくとも実質的な経営者である学校の理事長はそのように考えた訳で、そちら向きに対する説明不足とも考えられる。説明しても理解できる人物とは思えなかったのだろうけれど、だからといって殺すことは無い。彼がちゃんと経営して、曲がりなりにも学校が立ち直ってしまうことも許せなかったのかもしれない。多くの人に理解されないことであっても、あるべき姿と良いものは良い。そういう教育者としての矜持が、このような迷惑な殺人に繋がってしまったのであろう。
 落ちこぼれの僕としては何の共感の無い話だが、このような特殊な学校でなくとも、経営難になるところはあるだろう。経営的に立て直すことも大切だが、しかし学校の存在意義として守りたいものがあるのであれば、そのまま退場しても問題ないのではないか。まあ、生活には困るだろうけど。
 校長役のパトリック・マクグーハンは、ピーター・フォークとも親交が深く、コロンボ・シリーズでは4度の犯人役を演じている。監督作も5作ほど撮っているらしい。冷たく冷静な性格を演じることが多いけれど、とぼけた役もこなせたという。コロンボと対峙してもあわてることなく威厳を保ちながら落ちていく様が、コントラストとして印象に残る演技と言えるだろう。
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コロンボ、葉巻をやめる?   自縛の紐・刑事コロンボ

2017-11-21 | コロンボ

自縛の紐・刑事コロンボ/バーナード・コワルスキー監督

 フランチャイズのスポーツ・ジムを経営する男が、その経営の不正を暴かれそうになり殺人に至る。首を絞めて殺した後に着替えさせ、ベンチプレスが首に掛かって窒息したように見せかけたのだ。アリバイ作りに電話録音のトリックを使ったりなどもあるが、この事故死に見せかけたトリックをどう覆すか、というのが基本の路線になっている。
 犯人はスポーツマンで鍛えている。コロンボも捜査の関係上ジムに通って葉巻も酒も止めてしまう(と言っている)。スエット姿になって汗だくになって頑張ったりする。思ったよりすらっとしていて、あんがいピーター・フォークも若々しいものである。また、犯人を怒鳴りつけたり、なかなか激しい気性も表す。実際この犯人はいけ好かない奴で、ビキニ姿の秘書なんかもついている。でも奥さんはアル中で病院に入っていたりするが。基本的には金儲けがうまく行ったら、外国へ高飛びしようと思っていた。もう少しでやり過ごして逃げられたところ、予定が狂って殺人を犯してしまったという訳だ。そのような身勝手さにコロンボが怒るのも無理はない。
 しかしながら靴ひもを自分で結ぶ時と他人が結ぶ時と結び方が違う、なんてことをクドクド説明するというのも、確かにそうなんだが証拠としては弱い気もする。ベンチプレスの窒息とヒトが手をかけて窒息するのは、多少違った跡が残るのではないかという気もする。まあ、実際追い込んでいてお互いイライラしていて、ちょっと強引に幕を引いたという印象の残る作品であった。
 しかしながらコロンボがカミさんと電話で話をするシーンもあるし、何かものすごくローテクなジョギング・マシーンでトレーニングするシーンもあるし、昔のアメリカの生活もなんとなく楽しげである。トレーニングしてジュースを飲む。何が楽しいのかよく分からんんが、現代人とおんなじである。ダイエットに成功した方がカッコいいもんね。そういう意味では、みんな楽しんで苦労している人間模様は、あんがい今も昔も大して変わらないものなのかもしれない。
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コロンボをよく知らない上司   権力の墓穴・刑事コロンボ

2017-10-30 | コロンボ

権力の墓穴・刑事コロンボ/ベン・ギャザラ監督

 今回の犯人は、何とコロンボの直属の上司。この人の向かいに住んでいる友人から妻を殺したという相談が来る。警察の友人に相談したというのは事実上自首のようなものの筈だが、この上司は友人をかばって殺人を物取りの犯行にすり替えようとする。アリバイ工作をして、逃げる犯人を目撃したと自ら証言する。その上で、何と今度は自分の妻を殺してしまうのだ。物取りの連続殺人事件として、自分の妻殺しを一緒に処理しようという大胆な犯罪に及ぶのだった。
 お話は評判も高くトリックの完成度も高く、更にコロンボの仕掛けた罠も見事に決まるカタルシスも高い作品。まさにその通りという気もするが、あえて考えてみると一番不思議なのは、このような自分に関わる事件にもかかわらず、上司である犯人が優秀なコロンボを捜査に指名して窃盗犯人を追わせている点にあるかもしれない。いわば勝負を賭けている感じもするし、逆に過小評価してしまうほど愚かな上司という気もする。上司といえども警察組織の役人で、赴任してきたばかりでコロンボのことをよく知らなかったのかもしれない。そう考えるとつじつまは合うようだが、捜査方針を強引にコロンボに従わせようとするところが、かえって苦しい展開を生んでいるようにも見えるのだった。警察組織の人間であるコロンボは、その指示に従って物取りの有力犯人に近づき、そうして逆にこの泥棒と一緒に手を組んで上司を落とし込む罠を仕掛ける。非常に皮肉が効いている訳だが、そんなことやっていいのか、という倫理感が、ちょっと日本の警察とは違うような感じだ。
 また、コロンボの愛車(プジョーらしい)が既に15万キロも走っていることと、下取り価格が80ドル(今とは為替レートが違うが、せいぜい1万数千円という感覚ではないか。要するにはした金。それも冗談としてのサービス料金かもしれない)ということも明かされる。コロンボ・ファンとしては、そういうところでも楽しめる内容である。バーでは多くの人間が、つまみも無いビールをちびちび飲んでいる(あんまり景気は良くなさそう)。当時のアメリカ社会の描き方も、やっぱり楽しいコロンボ作品と言えると思う。
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二人は朝鮮戦争に行った(ことがある)   白鳥の歌・刑事コロンボ

2017-10-18 | コロンボ

白鳥の歌・刑事コロンボ/ニコラス・コラサント監督

 新興宗教に染まっている妻をわずらわしく思った(ほかにもいろいろあるが)歌手が、自家用セスナを墜落させて殺害(一緒に関係のないコーラスガールまで殺してしまう。かわいそうじゃないか?)。自分はパラシュートで逃げて、現場に戻って倒れて助けられるという演技をしている。そのトリックをコロンボが徐々に見破っていくという話である。
 犯人の歌手を実際のカントリー歌手のジョニー・キャッシュが演じている。日本だと加山雄三のようなものか。いや、南こうせつの方かな。カントリーだし。
 という事だが、けっこうアクロバティックなトリックだし、最後はコロンボの罠にまんまとはまる犯人が哀れでもある。途中ギターを弾いてる姿は、やっぱり上手いな、とは思ったが。
 この犯人は前科があって、宗教活動家の妻から保釈金を積んでもらって釈放されたことがあるようだ。いわば恩がある。しかしそのために新興宗教団体への寄付という圧力があって(女性関係の弱みもある)、せっかく音楽で稼いでも報われない思いがあるようだ。要するになんとなく同情できる立場なのである。飛行機事故に見せかけるトリックなので、具体的に手をかけて殺すような印象も薄い。悪いには悪い奴であるけれど、捕まってしまうのは、少し可哀そうではないかという気分にさせられるのかもしれない。近年はそのような犯人が必ずしも悪人ではないと思わせられるような設定というのはありふれているが、当時の世相において、このような犯人像というのは斬新なものがあったのではあるまいか。
 コロンボ・シリーズでは、比較的最初からコロンボは犯人に目星をつけている場合が多いが、今回は流れの中で、なんとなくコロンボが確信を深めていくような感じもある(それでも結構早くから分かっていた風にも考えられるけど)。最終的には罠にはめて捕まえる訳だが、コロンボも特に犯人を悪者扱いにしている訳では無い。妙な哀愁の漂う作品なのであった。
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考えてみると犯人の自滅だが   歌声の消えた海・刑事コロンボ

2017-09-28 | コロンボ

歌声の消えた海・刑事コロンボ/ベン・ギャザラ監督

 懸賞で当てた船旅に夫婦で乗り込んだコロンボだったが、運の悪いことに船内で殺人事件が起こった為に、単独鑑識などの組織の無い中で捜査をする。しかしながら犯人の巧妙な手口により、犯人として既に別の男が捕まっている。歌手の女性を殺したと思われる証拠があって、同じバンドの男が疑われている。そして、すでに船長らによって監禁されている状態なのだ。基本的に、だから同乗していた警察のコロンボに、ちゃんと捜査をしてこの犯人であるという裏付けをもらいたいという事になっている。しかし、もちろんコロンボは、最初からバンドマンには目もくれず、真の犯人である自動車ディーラーの男に目をつけており、どうやって犯行のトリックを解いていくか、というおなじみの追い込みをかける作品になっている。
 コロンボシリーズの常で、犯人のトリックは、見ている側は既に知っている。問題はコロンボが、どうやってその謎に気付くか、である。この回は、ずいぶん最初からコロンボは犯人と接触しており(なんと犯行前にも会話を交わしている)、苦労して仕組んだトリックも、わりあい早くからその矛盾に気づいている。しかしながらその根拠になっている証拠の品が、犯行をかぶせているバンドマンの男のために仕組んだものだ。だから船長をはじめ周りの人は、ちゃんと犯人が挙がったと確信している。そこでコロンボは、真犯人を挙げるために、新たな証拠を作り出すために、犯人自らをけしかけて陥れようとするのだった。
 最終的には船を降りた後の捜査によっても、この犯人は捕まったかもしれない。時間をかけると分かり得るものだったかもしれない。歌手にゆすられている状況は、彼女の別の交友関係からも明らかにされそうな気もする(つまり、動機は分かるのではないか)。しかしながら、観ている側にとっては、この船の中で事件が解決するかしないかで、ずいぶん印象は違うだろう。コロンボが意外と器用で、鑑識などの手を借りなくても、鉛筆の芯を削って、アナログな手法で科学捜査をやるというのも観ていて楽しい。さらに犯人を落とし込むのに、なんだかバカンスを楽しむように罠にはめていく。豪華客船の船長らも、一緒になってコロンボの手法に舌を巻いたに違いない。最初は事件をかく乱している張本人のような男が、大逆転で尊敬を勝ち取るような、カタルシスは見事である。その鮮やかさは、シリーズ中でも特に際立っている作品ではないだろうか。
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こんなことじゃいずれ破綻するよ上院議員さん   刑事コロンボ・野望の果て

2017-08-19 | コロンボ

刑事コロンボ・野望の果て/ボリス・セイガル監督

 上院議員選挙を控えた候補者ヘイワードに脅迫状脅迫状が届く。実はこれ、作戦なのだが、これに乗じて警備が手厚くなっている中、選挙参謀から愛人と手を切るように言われて面白くないので殺すことになる。警備の手の込んだすきをついて射殺しアリバイをつくる。妻の誕生パーティに乗じて計画的に犯罪を構想していたものらしい。ところがこの計画性を見事に発くのがコロンボで、事件が突発的でない状況証拠をそろえて、ヘイワードを精神的に追い込んでいく。そこでヘイワードは脅迫する犯人団から襲われる演出を思いつくのだったが…。
 展開としてよくできているのは認める。しかしながら僕がなんとなく納得いかないは、最初の犯罪は曲がりなりにも成功しているにもかかわらず、さらに危ない橋を渡ろうとする犯人の心理かもしれない。それは自信過剰で行動的な性格であるということは出来るかもしれないが、まだまだ状況証拠とだけとしたら、犯人の特定がされている訳では無い。その上ほぼ選挙では勝利が確定しかかっている。コロンボは確かに目障りだが、コロンボ自身はぼろを出す次の証拠の為に根を張っている状況なのだ。
 いずれにせよ愛人問題で家庭は破綻しそうだし、選挙に勝っても難題は続いていくだろう。せっかく奥さんとの関係も改善しかかっているのに、自分の器用さに酔うところがあるのだろうか。
 途中に挟まれたコロンボエピソードも面白い。同じイタリア人移民らしい歯科医から治療を受ける。イタリアを言えばマフィヤとばかり考える人々に愚痴を言う。コロンボのボロいプジョーの所為で警察からいろいろ言われる。警察署内のコロンボの同僚との会話も多い。コロンボの弟のエピソードが聞ける。などなど。結構本人にミステリの多いコロンボ像が、それなりに語られる回ではなかろうか。
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マジックの種まで証拠から分かる   汚れた超能力・刑事コロンボ

2016-08-27 | コロンボ

汚れた超能力・刑事コロンボ/レオ・ペン監督

 国防省の超能力者のテストにインチキで受かっているマジシャンの男が、元マジシャン仲間だった(今は超能力者のトリックを暴く仕事をしている)過去の恨みを晴らすためギロチンのトリックで殺害する。自殺か事故に見える男の死だったが、当然コロンボは様々な証拠をもとにトリックを覆していく。そうしてついには超能力に見せかけているトリックさえも、自分自身が会得していくのだった。
 今作が新シリーズの最初の作品ということで、確かに旧シリーズと比べると、目新しさが見られることと、日本版の吹き替えが、小池さんから石田さんに変わったことでも話題になった。しかしまあ、言われないとすぐには気付かないくらいに見事な吹き替えであるとも思う。
 今の感覚からすると超能力は確かにオカルトだから、国が真面目に調べているような時代というのが既にかなり古い感じはするが、実際のところは、そのような現象が本当にあるのかどうかを真面目に取り合っているくらいに純粋なところのある時代だったともいえるだろう。むしろ最初から取り合わないとか、無視するような時代の方が、ある意味で人間的には冷たいのかもしれない。とはいえ、マジックの世界のトリックも、今は格段に進歩しているように見える。ほとんど超能力に見えるがあえて超能力とは言わないところに、本当は世の中にはもっと不思議なことが起こっても良いのではないかという期待さえ感じさせられるほどだ。でもまあ、普通は信じませんけど。
 マジシャン同士の戦いは、負い目のある方が一気に攻められ一方的に殺されてしまう訳だが、相手の心理も読み間違うほどの人々のトリックというのは、やはりコロンボの手にかかってはひとたまりも無く暴かれるということになるんではないか。犯人はいつものようにどんどん追い込まれていくが、なす術も無くユーモアを交えてやられてしまう。今回は結構悪い奴だったので、それなりにカタルシスはある。このような詐欺で生きていくより、刑務所の生活の方が、彼には居心地がいいのではないかと、勝手の想像したことであった。
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カミさんとの性生活は謎のまま   幻の娼婦・刑事コロンボ

2016-07-27 | コロンボ

幻の娼婦・刑事コロンボ/ジェームズ・フローリー監督

 心理学者でセックスセラピーで著名な女性が主人公。マネージャーの男性を恋人としていたが、彼が浮気をしていることを知り復讐として射殺する。その時に娼婦の服装に変装して犯行を行ったために謎の女が生まれた訳だが、このトリックを最初からコロンボは疑っていて、仕方なく再度変装してコロンボに罠を仕掛けるべく行動するのだが…。
 女性の側からセックスの話題を赤裸々に語る事で、女性の精神的な開放を訴える先鋭的な女性であるという設定である。今でもそんな人はいるが、当時のアメリカであっても、やはり先鋭的な進んだ理想の女性像であるという感じだろう。しかし恋人はそのような自分をある意味で利用して、若い別のマネージャーと情交していたということだ。性的自由を謳っていた立場としては立つ瀬がないし、やはり本当に愛していたということと嫉妬も大きく許すことが出来なかったということだろう。
 性的な話題になるとコロンボがタジタジとしてしまうというあしらいも上手く、殺しのための仕掛けもそれなりによく考えた末であったが、あんがいあっさりコロンボが仕掛けに疑いを持つために困惑して追い込まれていく。シリーズとしては当然の流れだが、このシリーズは普通自分の地位を保つために犯人が苦労するわけで、この女性は殺しの犯人とはいえ、復讐の理由としてはある意味でまともだから、なんとなく気の毒である。そういう意味で、感情的に歯切れが悪く感じられるようなところがあったのか、シリーズではあまり人気が無かったらしい。殺しを隠すという心情のみが良くないという一点で、コロンボの正義の推理が成り立つということである。浪花節的にはダメでも、トリックを暴く展開としては、そんなに悪くは無いのではないか。
 また、実はコロンボがチューバの名手であり、いきなり演奏しながらパレードしたりするサービスショットがあったりする。本当に演奏しているのかは知らないが、ちょっと意外過ぎたのか、その後コロンボが楽器を演奏したとは聞いていない。まあ、詩も書くし絵も堪能でさまざまな才能がある人だから、その多芸ぶりを踏襲して作られたエピソードなのだろう。
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シリーズ最終、斬新作   殺意のナイトクラブ 刑事コロンボ

2016-07-17 | コロンボ

殺意のナイトクラブ 刑事コロンボ/ジェフリー・ライナー監督

 シリーズ69話目で、最終回。WOWOW版では「虚飾のオープニング・ナイト」という題名で放映されたらしい。ピーター・フォークもさすがに老けて完全に白髪になっていて、日本なら当然定年ということになるんだろうが、年齢差別の禁止されている米国では現役でもいいということなんだろうか。オープニングのタイトル文字の現れる映像からコロンボらしからぬ斬新なものになっていて、番外編のような趣がある。むしろコロンボの新シリーズの始まりのような予感さえ覚えさせられる。しかしこれが最終話。主人公の年齢から致し方ないが、制作側の思惑としては、実はこの後の意欲もあったのではないだろうか。
 新しい店をオープンさせるために資金を借りている相手を殺してしまって、まずこの殺人を偽装させるのだが、しかしこの犯行を別の人物に見られておりゆすられる。結局第二の犯行となるわけだが、そこまでやってしまうといろいろとつじつまの合わないことをコロンボに次々に見破られるということになってしまう。もっとも早めに諦めてもらっては、コロンボのも活躍できないし、最後の大きなトリックが見破られる醍醐味も味わえない。結構映画的にテンポのいいサスペンスになっていて、娯楽作としてのコロンボの古臭さが無くなって、良くも悪くもコロンボ的でない妙な感慨の残る作品になっている。
 日本でも寅さんシリーズなんかは、やはり後半少し痛々しい感じになって、肝心の恋は甥っ子に譲って話が展開されるということになっていた。しかしながらさすがアメリカという感じがするのは、コロンボは白髪になっているにせよ、活発に動き回ってかえって若々しい印象もある。若者に混ざってディスコのような場所を闊歩するコロンボは、あんがいまだ若い女性からも人気があったりして、現役感もある。そういう社会の違いのようなものも感じられて、文化的には面白い作品だと思った。
 なお、これは観たにもかかわらず過去に何故かブログにUPしていないような気のする作品である。探したけど見つからないだけかもしれないが、再掲することにする。ネットというのは自分でもよく分からんです。コロンボ・シリーズと同じく長く続くといろいろ整合性の無さのようなことが起こるのかもしれません。
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男はあきらめで達観する   刑事コロンボ・別れのワイン

2015-07-21 | コロンボ

刑事コロンボ・別れのワイン/レオ・ペン監督

 名作と人気のある本作品。僕はなんだかんだで4,5回は観ているかもしれない。しかしながらレコーダーに入ってたので改めて鑑賞。大筋は覚えてはいたものの、やはり久しぶりでいくつかは新鮮だった。物覚えが悪いって、人生を楽しくします。
 腹違いの兄弟である弟から、金欲しさに父から受け継いだワイナリーを大手の酒造会社に売却する計画を聞かされ、逆上し鈍器で頭を殴ってしまう。気絶した弟を密閉できるワインの貯蔵庫に閉じ込め窒息死させ、自分は一週間の旅行に出てアリバイ工作。帰宅後既に死んでいる弟にスキューバダイビングの装備をつけさせ、海に流して事故に見せかけるというもの。
 まあ、最初からいろいろ無理はあるが、とっさの考えとしてはなかなかのトリックかもしれない。しかしながら誤算というのは一週間留守にしていた天気。雨も降った上に記録的な猛暑になったということが、犯人の思惑を大きく狂わせてしまう。結果的にワインにかける情熱すらも、悲しい海の藻屑としなければならなくなってしまう。
 この物語が面白いのは、さらに秘書として信頼のおけるパートナーであった女性に、助けられることを条件に精神的に追い込まれてしまうことだ。自分の命運を握っているほどの助け船を出してくれるのだが、これが大きな弱みであり、自分の将来を暗くさせてしまう。静かに助け舟と脅迫をかける秘書の恐ろしさも見事である。
 ワインのうんちくについては、あまりにも神がかりすぎていてかえって胡散臭い。これが作品の一定のトーンになっており、格調が高い作品のように思われているようだ。しかしながら僕のように胡散臭く思ってしまう人間にとっては、ちょっと滑稽な感じもする。さらに言うならばコロンボの取っている行動というのは、犯罪であるばかりか、人間としてルーズに悪すぎてとても共感のできるものではない。イタリア人はいい加減なところがあるという偏見があるが、こんなことがそもそも捜査とはいえ許されるはずがないのである。
 そうではあるが、女の恐ろしさが描かれているところが大変に良くて、僕はそこを買うのである。どのみち逃げられない不幸なら刑務所へ行こう。そういう達観のような余韻が、納得の作品なのではないだろうか。
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コロンボは弱肉強食社会を描いている   死者の身代金・刑事コロンボ

2015-02-19 | コロンボ

死者の身代金・刑事コロンボ/レオ・ペン監督

 犯人の殺人の目的が徐々に明らかにされる訳だが、いわゆる強欲で、出世欲というか弁護士界の大御所を使ってのし上がるために計略結婚をし、いらなくなったので殺した、ということになるんだろう。さすがという気もするし、しかし既にもともとやり手という感じで、いらなくなって殺したりしなくてもいいんじゃないかと思えるのだった。何しろ年の差があって、それなりに夫は良い人だったようにも見えて、策略で結婚できたなら、それはそれで許してくれた、というか、普通に離婚も出来たのではなかろうか。何も悪いことをしたわけでもないだろうけど、慰謝料のようなものだって支払ったかもしれない。
 もちろんそれでは殺人は起こらない。殺人が起こってからの謎解きが問題なのだから、そんな意気地のないことを言っても仕方があるまい。誘拐事件にのこのこついてきて、地元の殺人事件容疑が上がるまでお預けを食らうコロンボの姿は滑稽で楽しくはあるのだが…。
 結局どのように殺したかというようなことは、すべてコロンボが推理で解いているということは、娘の行動などから推察される。証拠が無ければ逮捕できないというようなことなんだろうけれど、十分論理的に落とし込めるレベルだろう。しかしながらそうであっても、相手を貶めてギャフンと言わせなければ爽快感が無い。そういうミスをちゃんとやってくれるという計算が、ほかならぬそのような強欲さのある女ならではだからこそ、ということなんだろう。しかしながらそれなりに負けず嫌いなところも見せている女性が、負けを認めるように娘に譲歩するのかというのは、やはり疑問にも思う。彼女だって目障りな娘をギャフンと言わせたかったからに違いないからだ。それともその復讐は、後に取っておこうという魂胆だったということなんだろうか。
 コロンボのような推理ドラマが面白いのは、やはり犯人が悪いに越したことがない。人間というのは共同体を作る生き物なので、裏切り行為というのが許せない習性があるのだろうと思う。裏切り者に制裁を与えることは、だから感情的に娯楽なのである。できればそれも効果的にやってもらいたい。コロンボの相手を欺いてまで復讐を遂げるような捜査のやり方は、だからこそ支持を受けるものなのかもしれない。さらにこの狡さは賢さの証明でもある。西洋人というのは、あくまで弱肉強食の社会なのであった。
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ねたみを晴らすのは娯楽だ   殺人処方箋・刑事コロンボ

2015-02-02 | コロンボ

殺人処方箋・刑事コロンボ/リチャード・アーヴィング監督

 記念すべき第一作。改めて観るとコロンボが若い。後のコロンボより淡々としている演技だけど、しつこい面談と細部のこだわりの基本は最初からである。服や髪形は割合にしっかりしているし、吸いさしの葉巻は比較的長めである。そうして静かな口調ながら、犯人を挑発する科白はむしろきつめである。そんなこと言いきっちゃって本当に大丈夫? という感じ。さらに良く考えてみると、アリバイを工作する工夫はなかなかではあるにせよ、リスクが大きすぎるし、印象付けるためとはいえ目立ちすぎるので、そういう客を呼び止めない航空会社が本当にあるものかも疑問に感じる。死亡推定時刻の問題も、ある程度の科学調査でもう少しズレが生じることも分かりそうなものだ。証拠の品を後で出したり、愛人関係がバレているのだから尋問可能レベルではないかとも考えられる。そういうことなんだけれど、やはりコロンボの登場がそれなりのショックだっただろうことも分かる水準の高さもあって、後の探偵ドラマへの影響の大きさもよく理解できるのではなかろうか。
 このようなドラマを当時の日本人が観ていろいろ驚いたということも、今の日本人の目から見ると、少しわかりにくくなっているかもしれないとも思う。当時のアメリカ社会にあってもコロンボの犯人たちは大変な金持ちには違いなかろうが、アメリカのお茶の間でこれを観た感じと、当然日本のお茶の間の反応というのはショックの度合いが違うのでは無いか。文化の違いとも相まって、すさまじい豪勢な印象を持ったのではないか。撮影用のお宅の豪邸もさることながら、オフィスにウイスキーを隠して飲んだりしている。あんなものを飲んで車を運転して帰るというのだろうか! 秘書が電話番をして部屋の外に待機していたり、家にはプールがついている。今の日本にも当然金持ちはいるが、プールのあるお宅だってあるだろうが(残念ながら僕の友人でもない)、当時の日本人でそういうお宅があったり、ましてやそんなことをする金持ちであったりする人が何人いた事か。いや、驚くべき金持ちもいただろうけれど、少なくともこのようなスタイルでは根本的に違うだろう。コロンボの面白さとともに、人々の興味というのは、そういう部分も大きかったのではないか。僕は大人になって初めて気づいたが、コロンボはそういうアメリカのインテリの金持ちの鼻持ちならない犯人たちを懲らしめてねたみを晴らす意味があったらしいのだが、日本では、そういう対象の暮らしを覗き見る娯楽でもあったことだろう。
 一作目のみの教訓ではないが、共犯者はやはり慎重に選ぶべきだと思う。さらにアフター・フォローを含めて。このようなひっかけ捜査が正当なものかどうかは知らないが、卑怯なことをするコロンボが卑屈に描かれていないのは、実はねたみ側の偏見かもしれない。変なヒーローかもしれないが、人間のねたみは恐ろしいのである。
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IQはなんとなく厄介な背景だ   刑事コロンボ・殺しの序曲

2014-10-31 | コロンボ

刑事コロンボ・殺しの序曲/サム・ワナメイカー監督

 IQが高い人が入会できるクラブというのは、実際に存在するらしい。コロンボではシグマクラブという名前だったけれど、本当のはメンサクラブというらしい。もちろん日本にもあって、活動もしているようだ。何をしているかは会員じゃないから知らんけど、まあ、集まってみようという気になるくらい、自意識としてIQが高いことに自らの関心があるだろうこともわかる。人間というのは平均があって、そのラインに一番人が多いわけだが、平均より特に低い人がそのようなクラブを作りたがるとは考えにくい。そこのあたりが人間的に面白いとも思われるわけだが、まあ、楽しければ勝手にやってくれればいいと思う。
 さて、コロンボの相手がそのような頭のいい人であればどうなるか。このストーリーは、まさしくその構図の興味によって発案されたのではなかろうか。見てみるとわかるが、当然コロンボも天才と引けを取らない頭脳の持ち主であることがわかる。どうしてIQテストの上位者じゃないのか(もしくは試験を受けないのか)という問題はあるにせよ、難しい問題であっても、高い知能で解き明かすことが当然できる。まあ、天才問題の割にそれなりによく知られたパズルではあるのだが、ドラマを見ながら解くには少し余裕が無いのかもしれない。コロンボには時間があったわけで、これで天才と判断するにはちょっと難があるかもしれない。
 トリックはかなり練られたものではありそうだけれど、犯人が逃げる音問題などは、割合普通に最初から多くの人がわかりそうなものである。また傘問題などのように、捜査で部屋のものが見つけられないということも考えてみると考えにくいわけで、そもそも問題としては、犯人はある程度運が良すぎたのかもしれない。さらに天才集団が集まっても、結局は皆が騙されてしまうというのがおろかそうにも見えてしまう。そのあたりのパラドクスめいた展開も愛嬌といえばそうなのかもしれない。犯人の無邪気さも含めて、妙な味わいではあるわけだが…。
 結果的に思うのは、やはり天才に対しての何か批判めいた感情が、僕の中にあるということかもしれない。以前東大卒業の女性を集めてインタビューか何かする番組を見たことがあるのだが、東大卒の女性であるとわかると、特に男性は急に横柄になって難しい社会問題についてコメントなどを求められて困る、というようなことを言っていた。何か皆、そのような頭の良さに対してのコンプレックスがあるということなんだろう。たいして頭のよくない人間でも、あえて天才にそのような感情を持つとしたら、人間というのはなんとなく悲しいものだということも言える。また、犯人は自分の頭の良さをあえて隠してきた過去の話などもする。頭が良くても悪くても人間が不幸だとしたら、知能という物差しはいったい何のためにあるというのだろう。
 ということで、まったくいろいろ考えさせられる変な物語なのであった。
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コロンボの国際貢献   刑事コロンボ・策謀の結末

2014-10-25 | コロンボ

刑事コロンボ・策謀の結末/レオ・ペン監督

 日本でも詩人はいないわけでない。それは当たり前だ。詩の朗読会のようなものも、地味だけれど、行われてはいるだろう。何かのサークルのような活動もあろうし、詩の発表の場もそれなりにありそうだ。そうなんだけれど、特に現代において詩だけで食っているような人物は、学校の先生を別にすると、谷川俊太郎くらいのものだろう。マイナーという以前に、これに金を払う人がいないだろうことが原因だと思う。もしくは課金のシステムに問題があるのかもしれない。
 主人公は詩人のようだ。それもかなり人気があるらしい。寄付を呼び掛けているという資金の集め方ではあるが、相当の集金力を持つ人物のようだ。それは、言葉を操り、詩で人々を感動させる能力があるからだ。もちろん詩で感動するのは分かる。分かるのだが、その力でテロ組織を支援できるほどの資金力を持てることが、やはりどうにもわからないのかもしれない。財団の支援があるようだけれど、そっちの資金のみでなんとかする方が、自然の流れなのではなかろうか。それにわざわざ有名詩人が武器の調達までをやる。財団の組織力が疑わしく思えてしまうではないか。
 そうではあるが、言葉のやり取りをコロンボとかわす。そういう遊びは、面白くはある。肝心の詩の内容は、日本語に翻訳されたのちに感心できるか、という問題はある。それのどこが面白いのか。いや、面白そうは分かる…、止めておこう。要するにコロンボには詩の素養があるらしい。なんで刑事なんかやってるんだろう、というような天才を誇示する材料として、詩を採用したのではないか。おそらく詩の才能というのは、あちらではそれなりに尊敬を集められるものなのではないか。中国などでも即興で詩を詠むなどというのは大変に重宝されたようだし、まさにそのような教養ある娯楽の王様の位置に、詩人というのがいるのではないか。少し残念なのはこの詩人、単なる思想的な二枚舌ということなのであるけれど、エンタティメントとしての才能がいかんなく発揮された人物として描かれている。そしてやはりコロンボはそれと同等ということなのだ。
 楽しいお話だし、演出としてサスペンスの描かれ方も工夫がしてある。よく考えると演出なしには変なトリックの謎の解き方ではあるんだけれど、犯人逮捕だけでなく国際的なテロまで未然に防げたような偉業を成し遂げている。やはり、刑事というのは才能がなければならない。それは平和への貢献でもあるのだから…。
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アメリカ的合理主義サスペンス   秒読みの殺人・刑事コロンボ

2014-10-18 | コロンボ

秒読みの殺人・刑事コロンボ/ジェームズ・フローリー監督

 短い時間差を利用してアリバイを工作するトリックで、自分を裏切った恋人を殺すお話。裏切られたことはもちろんだが、それよりも自分の出世欲で殺したとみるべきだろう。利用できないと思えば殺す、もしくは自分の思うように工作して実行する。作中に番組をしかたなくすり替えるエピソードも、そのような自己中心的な作戦を練って実行し、結果は失敗するにしても、思うようにやり遂げる姿が描かれている。番組を作るセンスはともかく、やりくりは何でもソツなくこなすという凄腕の女性ということになるのかもしれない。
 もっともそのようなことが出来ながら、素人目にも後に問題になりそうな明らかな証拠を残し過ぎるという印象は最初からあった。手袋を捨てるあたりや拳銃を隠す場所など、ああ、これは必ずコロンボに拾われるに違いないと最初からわかってしまう。詰めが甘いというか、ちっとも完璧じゃないというか。ミス以前の失態といっていいだろう。しかしこれがやはり物語の伏線になっていることも間違いなくて、それは演出的な問題だったのだろう。謎解きとこのエピソードにまつわるサスペンスは見事で、なんとかつかまらないようにもがく犯人の心理を、ひやひやしながら観ることが出来る。見ている方は罠に落ち、生活も破滅に陥る人間の姿を残酷に眺めるわけだ。それでも強がってめげないところがいかにもアメリカの女性的で、悪いながらもこのような女性像が、やはり望まれる姿なのかもしれないと思わせられる。まるで「風と共に去りぬ」のやせ我慢のようではないか。
 この作品の詳細は失念していたわけだが、フィルムを取り換える目印の話はよく覚えていた。その後何度か映画館でこの目印を目にして、コロンボの話はホントだったんだな、と思ったものだ。また、それまでは一度として気づいたことがなかった現象だったのに、からくりを知ってからはたびたび目にするようになった。知識というのは世界の見え方を変えてしまう。そういうことを身を持って知ったということもあったかもしれない。
 他にもコロンボのむちうちのオープニングや、いつも悪い喫煙のマナー。撮影現場の様々な仕組みや操作の仕方など、いろいろと変なエピソードの多い作品でもある。一見無駄にも見えるそのような遊びがあって、しかしそれなりにスジは一本通っているという感じだ。サスペンスの緊張感もあるし、アメリカ的競争社会の風刺めいた考察さえある。「男はつらいよ」が日本の記録映画的な意味があるという話があるが、まさしくコロンボもアメリカの時代を見事に記録しているシリーズということが出来るというのは、こういうことだと思うのであった。
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