カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

不法投棄の憂鬱

2011-10-31 | 雑記

 テレビで不法投棄の問題についてのリポートを見た。
 実を言うと僕の職場の周りは不法投棄の名所がたくさんあって、あちこちにテレビや洗濯機やタイヤや瓶缶などが散乱している。道路を走っているとあちらこちらに不法投棄に対する警告の看板が立っているが、その看板の周りはゴミだらけという感じである。ゴミが捨てられているから看板が立ち、看板が立ったところを目印にゴミが捨てられているんじゃないかと思えるほどだ。自然豊かな里山の風景と、このゴミ捨て場という社会問題は、密接に絡んでいると言うことなのかもしれない。
 僕も個人的に山林を持っているんだけど、時々役場から電話が掛かってくる。お宅の山林にゴミが捨てられているので処分してほしい、と言うことらしい。この間見に行ったら、大きな犬小屋と、なにやら柵に使われるような金属棒のようなものがまとめて捨てられていた。実に腹立たしく悲しいことだが、捨てた人が見つからない以上、捨てられた土地の人の負担でゴミを処理しなければならないのだそうだ。処分しなければ新たなゴミの投棄を誘発することにつながり、地域住民に迷惑が掛かるので何とかしてくれ、などと脅されたりする。まさに泣きっ面に蜂である。
 一度職場のスタッフが、不法投棄の現場を発見したことがあるらしい。その方は実は職場のご近所の人だった。やかましく叱ったそうだが、あれは常習に違いなかろう、と話したことだった。
 実はその方が体調を崩し長期入院を余儀なくされて車の運転ができなくなってしまった。そうすると、ある一部の場所の新規のゴミは増えなくなった。
 ゴミを捨てるような人は、実は多数と言うわけではなさそうだ。一部の心無い人が常習的にゴミを捨ててしまうのだろう。一度捨ててしまうような行為が成功(見つからなかった)すると、おそらく罪の意識もそんなに感じることも無く、捨て続けるということになるのではあるまいか。
 それと山間部の不法投棄に限って言えば、車で移動すると言うことも大きな原因とも思われる。窓からポイっと山林に投げてしまえば、ほとんど見つけるのは不可能だろう。
 電化製品の製造番号から持ち主を割り出すこともある程度は可能かもしれないが、実際上そこまでして犯人を割り出しているとは考えにくい。過疎の進む里山のゴミが減ることは今後も考えにくいようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形もカッコよかったです

2011-10-30 | 雑記

 今回の出張の合間に、都合3度ほど新幹線を利用した。
 僕の住む街にはまだ新幹線が通っていないし、新幹線の議論になると結構ナーヴァスなことになったりして面倒なんだけど、こうやって新幹線に乗ってみる機会があると、やっぱりこれは便利だなあと思う訳だ。空港は比較的近所にあるからその恩恵を受けていて、新幹線なんて必要ないね、なんて言えることは言えるわけだが、やはりその利便性においては飛行機とはまったく別の次元で良いと感じる。
 飛行機でまず気に食わないのは、あれこれと手続きがうるさいことだ。最近はだいぶ簡略されたとはいえ、荷物がどうだの搭乗手続きがどうだの、ペットボトルがどうだの、金属がどうだの、お荷物を横にするからどうだの、時々ピーっと探知機が鳴ったりして脅かしたりだの、優先搭乗がどうだの、席順が何番目がどうだの、様々なアナウンスを慇懃にいちいち聞かされてイライラさせられる。人に不愉快な思いをさせる為にわざとやってるんじゃないかとさえ思える。
 そうしてやはり座席も狭く(ファーストやビジネスを買える身分になっても、恐らく躊躇するに違いない。そういう違いって、なんだか嫌ですよね)、通路側の席じゃないとトイレに行くにも気が引ける。落語を聞けるのはそれなりにいいけど、たいてい行き帰り同じ航空会社ということが多いから、月をまたがない限り二度も同じのを聞いたりはしない。
 お茶のサービスも随分前には楽しみだったけど、なんだかもうやらなくてもいいんじゃないかと思ったりする。しかしせっかくだから頂戴しますけど。
 新幹線は事前にチケットを購入する場合だって出来はするけど、基本的に駅に着いてから買うというのがまず第一に好ましい。直近になって心変りしてもいいという余裕があるせいだろうか。そうしておもむろに時刻表を見て適当な時間の列車に乗ればいい。混んでそうならグリーン車を選択しても、そうものすごくスノッブな気分にもならない。そうして混んでたらそれなりに不快もあるだろうけど、座席もおおむね広々しているし、足元が広いのでトイレで失礼するのもそう気が引けない。弁当食うにも困らないし、逆に楽しみだったりする。仲間と話もしやすいし、まわりの人にも気遣いがあんまり必要ない。新幹線がやってくると、いろいろあるけどやっぱりいいよなあ、などと思ってしまう。
 そんなことを言ってたら、まあしかしそれなりの料金だから当たり前ですよ、と言われてしまった。例えば福岡に行くにしろ、料金から考えてバスを利用する(それなりに快適だし)だろうし、特急列車と乗車時間がそんなに違う訳でもないのに料金はかなり違うのではなかろうかという。東京・名古屋あたりということになると、やはり時間的には飛行機の方が拘束される時間が短いという利点も大きそうだということだ。その上なんだかんだ言っても航空料金はそれなりに安くなっており、新幹線は贅沢だということに変わりはなかろうというのだった。
 確かに今回飛行機が苦手な人がいて、その方は往復6万以上かかったようだし、一方で僕らは早割で2万ちょっとである。なるほど違いますね。そう考えると当たり前という訳か。
 その上地元の負担金は税金として徴収されることになって云々という話に戻ると、やはり新幹線問題は又厄介なものに戻ってしまう。単に選択の恩恵を受けるのは、比較的お金に優位のある人という視点がどうしても絡んでくるもののようであります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今のところ作り話ばかりだが

2011-10-29 | 時事

 TPP(環太平洋経済連携協定)に参加するか否か、という議論が活発になっているようだ。いや、活発化しているというより、反対派の声が神経質にでかくなっているだけなのかもしれないが。農業が壊滅的被害を受けるとか、医療の安全が脅かされるとか、アメリカの陰謀にはめられているとかだそうである。
 推進派は当然それらを否定したり、それ以上のメリットを強調しているが、まあ、実際に影響があるのは確からしそうには見える。しかしながら実は米国の農業団体は日本の参加を望まないという声明を出しているし(アメリカだって不利益は多いのだ)、したがってアメリカ陰謀説なんて話の方が胡散臭いし、言葉の壁がある医療の現場への影響が大きいとも考えにくい。怖いのは今までとは違う予想しがたい変化ということなのであろう。米国としては日本の参加を歓迎すると表面的に言っているが、日本のようにいつまでも決定できない相手が加わって交渉が難航するのは望んでいない(つまりむしろ迷惑がっている)というのが本音のようだ。
 総生産に占める農業の割合の低さに対して、今までの不平等な協定を飲まざるを得なかった産業界への壊滅的な影響や被害、また、それに伴う空洞化の懸念についても逆に先鋭化した話にもなっている。だからと言って農業が被害を受けていいというのは受け入れられない話であるとも言われ、泥試合の様相を呈している。またひとえに農業と言っても、成長する果物などの分野は別で、コメを中心とする穀物だけの被害にとどまるということであるらしい。生産者には酷でも消費者のメリットの大きさを考えると、低所得者の救済をどうするのかという話まで出ている。
 そうすると、実は日本というのはTPPの影響は少ないという説が出てきて、影響が無いのなら参加してもしなくても同じという話まで出てきた。しかしながらはっきりしているらしいのは、参加できなければ野田政権の無力さの証明となり求心力が落ちるということと、逆にしばらくは選挙が無いとはいえ、参加したならば政治的に力をもつ既得権益団体からの突き上げに耐えられないかもしれないということであるらしい。極めて政治的な判断だから当然であるが、政治的にはどちらも地獄に変わりがない。
 また、中には推進派であってもいっそ参加しないで国の破綻を早めた方が、長い目で見た日本の再生には早道だという乱暴な話まで出ている。行きつく先は焼け野原という同じ風景しかないということなのだろう。あーあ。

 実はコメのことだけを考えると、日本のコメは国際的には4,5倍の値段であるといわれる。じゃあ全部が例えば5分の1になるのかということはあり得ないにしろ、多くは立ち行かなくなるのはそうなるだろう。しかしながら高値で売れる日本にコメを流すために、途上国の食糧事情がさらに悪化するということにもつながっていくかもしれない。総体的な食料の高騰に悲鳴を上げるのは輸出国であるのかもしれない。
 しかしながら日本の食の欧米化の最大の原因は、主食と思われていた米の消費量の低下にあることは間違いがない。総体的に高くなっている米を買い続ける事が出来なくなり、結果的に洋食を中心とした食事を取らざるを得なくなっている側面もありそうである。安価なコメを手軽に買えるようなことになると、日本食の復活というか、いくらかは欧米化への歯止めにはなるということも考えられなくはない。
 食の欧米化によって日本人の生活習慣病のリスクも比例して高まった、というのは定説である。そうすると農業団体と医療団体が共同して反対する図式は理にかなっているということになる。

 少なくとも現在は日本という特殊事情を支えるために、国際的にはいびつな状況を放置していることは間違いなさそうだ。もちろん日本よりも特殊に閉鎖的な中国という大国に対しての、日本の取るべき共同路線という視点も当然あるわけだ。
 そういう訳で実際はもう結構前から持ち上がっていたTPP問題の議論が活発化することは、それなりに包括的かつ有意義なもののようにも思える。もちろんそれで何もまとまらずに停滞してしまうようないつもの日本であると困るわけだが、ある程度問題が精査されるのは悪いことばかりではなかろう。もちろんこのことで新たなチャンスが掘り起こされる期待もあるわけで、悲観論を面白おかしく問題化して棚上げする態度こそ、もっとも問題視すべきなのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水の時計

2011-10-28 | 散歩
Osaka Station City Fountain Monument


 出張帰りあんまり時間の余裕がなかったので観光は断念。とは言え前から気になっていた大阪駅の新駅ビル南側の水時計を見てきた。
 水の模様はトンボだったり銀杏だったり秋の季節のものになっていた。
 僕らが見ているときも小さな子供が数人かぶりついて観ていた。それと何故か外国人の立ち止まり率が高かったように思う。一通り模様を見てしまっても飽きることなく見続けることが出来る感じだった。キリが無いから移動しようかというまで見ていた。もちろんこれを見ただけで大阪に来てよかったと思った。


 実はこの噴水を探すのに苦労した。時計だったよなあ、という記憶しか無かったから案内板の「時空の広場」というところまで登ってしまって、当然そこには無かった。そこでたまたまお巡りさんに聞いたところ降って反対側としか言われないでさらに迷って、デパートの売子さんに聞いたらそんなところは聞いたことが無いといわれ不安になった。結局外に出て音が聞こえたので探し当てる事が出来た。僕が知らないだけかもしれないけど、もっと話題になってもよさそうなのにな、と思ったことだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐怖の報酬

2011-10-27 | 映画
恐怖の報酬/アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督

 今の感覚で観ると、ちょっととっつきにくいかもしれない。長いし、まとまりがあるともいえない。本当に撮影してるんだよな、というようなライブ感もあるが、一方でこれはわざとらしいというのも結構ある。ニトロがそんなに危ないのなら、そもそもトラックでは無理だろう、という疑問もあるし…。
 しかしながら、そういうのをひっくるめても結構よく出来ているのは確かだ。貧困のけだるさや、駆け引きの緊張感もなかなかである。怪しいながら、貧困から抜け出せない閉塞感と、石油会社の一攫千金話に命を掛ける動機も理解できる。男たちの対立や、友人の選び方には何となく釈然としないものを感じるが、そういう話もひっくるめて、いろいろ伏線の変化を楽しむことも可能だ。結果的に人物像が後半になってがらりと変わる印象があり、そういう物語の意外性も、なかなか面白いのだった。
 ただ、結果的に執拗ないじめの末に友人をなぶり殺しにしてしまうという展開もあるわけで、これは何だかどうなのか? と考えさせられてしまった。そういう葛藤というのが物語を盛り上げているのも確かだし、今の時代からの視点からこういうものがつくられなくなったということもあるわけだが、そういう人間の残酷さを描く時代性というものも考えさせられるのかもしれない。このような貧困世界も、当時の人にはあんがい身近に理解できたのではなかろうか。映画というのは難しいものである。
 とはいえ、現実には現代社会においても、国によってはこのような状況は日常であるのかもしれない。むしろそのようなものが見えなくなってしまっているからこそ、素直に物語にのめり込めなくなっているのではあるまいか。そうして、そういう人たちが僕らの生活を陰で支えているということでもあるわけで、見えなくしている構造的なものがあるのかもしれない。普段は陰謀というものはあんまり信用していないが、ひょっとするとそういう背景もあぶり出したかったのかもしれないのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿の惑星・創世記ジェネシス

2011-10-26 | 映画
猿の惑星・創世記ジェネシス/ルパート・ワイアット監督

 出張中空き時間が出来て駅前のシネコンで観る事が出来た。ただし時間帯の都合で吹き替えだったが。
 映画の進行のテンポも良く、ほとんどダレることなく最後まで一気に観ることができる。娯楽作としてはなかなかよく出来ている。ほとんどCGであることは明白だけれど、改めてその技術進歩は素晴らしく、今や当たり前だが違和感もない。むしろサルという動物の逞しさに、本来のサル(チンパンジー)のサイズさえ忘れてしまったほどだ。また熱帯のジャングルではむしろ少ないであろうセコイアの大木を好んで登るとも考えにくいような気がしたが、どうなのだろう。単に高い木に登らせたかっただけなのではなかろうか。
 そういう訳で細かく見るとかなり怪しいのだが、過去の「猿の惑星」世界を無理なく説明できるだけでなく、新しい価値観での娯楽作を作り上げたということも言えそうである。普通に鑑賞に堪える娯楽作に徹しているということなのだろう。
 しかしながら、同じく同作品を見たというオバケンさんと話をしていて、アメリカ的なご都合主義や、デフォルメされた単純さと深みの無さがあったのも確かであった。仕方のない面もあろうが、善悪の垣根や描き方がステレオタイプすぎて、本当にそれでいいのか疑問を持つと、物語にのめり込めなくなる可能性はありそうだ。そういうタイプの映画では無いと割り切る必要もあるのかもしれない。
 同時にしかし、このテーマはなかなか考えさせられるのも確かで、人間という生きものの立場というか、エゴというか、そういう根本的な問題についても考えるきっかけになることは間違いがない。単なる可哀そうだとか、そういう発想だけでは無い複眼的な思考の材料には十分なりえるのではなかろうか。
 また、猿の惑星というオリジナルの発想の裏話など、掘り返せばどんどん面白いネタも拾える。このように歴史もあり人気もあるエピソードが繰り返し作られていくことで、時代を反映した考え方をいろいろと考えていくことにもつながっていくのだろう。
単純にも深読みにも楽しめるということでは、古くて新しい名作映画であるという証明でもあるだろう。
恐らく続編も作られるだろうけれど、また以前のような粗悪品の量産にならないように願うばかりである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説明責任って、こういう場合には言わないのだろうか

2011-10-25 | 時事

 本当は全然興味の無いことではあるんだけど、落合監督は今季限りで辞める(させられる)らしい。確か中日はほとんど歴史的と言っていい見事な逆転劇でペナントを制したわけだ。最大10ゲーム差を逆転したというのだから本当に見事だ。今年の9月くらいに、この事を予想できた人がどれくらいいたことだろう。また、これで中日は、球団史上初めての2連覇を達成したのだという。落合監督がチームを率いた8シーズンで4度目の優勝なのだともいう。
 まあ、いろいろあるんだろうね。そのいろいろはよくわかんないけど。監督といえども球団に雇われているわけで、球団に嫌われるようなことをすると、仕事の上で役割を果たしても辞めさせられるという訳だ。
 ただ、こういうのを、内状をよく知らない人達がどのように感じるのかというのをよく考えていないらしいことは、実にシビアに感じ取れるわけだ。
 将来的に中日という球団の黄金時代が続くものなのかどうかはよく分からない。ただ、そういうところで長くいい仕事をしようと考える人が増えるかどうかというのは、かなり疑問だ。そして、ことは単なる中日という球団のことだけでは済まないような気がしないではない。このような組織が、もしも日本的なものだという捉え方をされてしまうようなことになると、その影響は社会にも暗い影を落とすことにもなるんじゃなかろうか。
 それにしてもそれだけのマイナス要因でありながら、逆境をバネにした(反発して)ということであるのなら、それくらいの気位をもてば、いろいろな事を成し遂げられるのだという教訓にもなるのかもしれない。そのようにやったとしても報われはしないようではあるけど…。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乳母車

2011-10-24 | 映画

乳母車/田坂具隆監督

 父に愛人がいるという噂を聞き、さらに子供までいると知る。年頃の娘としてはそれなりにショックなのだが、それを知って咎めない母親にも嫌な感情を持ってしまう。気になって妾宅行ったところが、愛人さんはもちろんその弟と知り合いになる(これが裕次郎)。赤ん坊をめぐって頓着を起こして、逆に仲も良くなっていく。
 いろいろと倫理的に難しい事を考えるようでいて、決定的に現代と違う時代背景もあって、なんだかどんどん不思議な論理に迷い込んでしまう。困ったことになったのはそうなのだが、実は愛人を持った父親はたいして困った風では無い。一方、娘に責められた母親は自立のために出ていくし、それを知った愛人も自立を目指して援助を自ら打ち切る。弟君と娘は、やはりそれでは赤ん坊が可哀そうだということになって、みんなを集めて相談するよう画策するのだが…。
 赤ん坊を連れまわして疑似夫婦のまねごとをしたり、なんとなく禁断の愛のような趣もあるのだが、しかしながら子供のためということと倫理問題ということがなんだかどうにも整合性を欠く様な事になっていって、これで良かったのかなあ、というような変な感想をもたざるを得なかった。まあしかし、倫理観なんて時代とともに変化するわけだし、これはこれで先進的な考え方ということなのかもしれない。所詮制度なんてものは建前上作られて定着したものかもしれないし、しかし人間社会においてはこんなようなことがあるから、段々と現代のような倫理が生まれていくのかもしれないし。

 確かに裕次郎は好青年なのだけど、どこか軽薄である。これも時代ということなのかなあ、などと思ったりした。しかしながら芦川いづみの方は、現代にも通じる可愛らしさがあり、そういうものはあんがい変わらないことなのかもしれない。
 それぞれの立場の人が、妙に理屈っぽいのもなんだか静かに面白い映画である。感情的になるような問題を静かにすると、このようなことになってしまったのかもしれない。そのような騒動が無いことで、妙にシュールな味わいのある映画になっているのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破滅を期待される人(たぶん)

2011-10-23 | 境界線

 録画してある番組を見ていたら西村賢太が出ていた。そういえばこの間も子供の見ているバラエティにも出ていたような気がする。小説ではかなり偏屈な人物のようにも思えるのだが、結構まともである。まあ、いつも暴れているわけにもいかないし、実際の生活のこともあるし、ブレークしたんだからそれでいいのだけど。
 その番組では私小説を子供に書かせていたのだけど、ただしかし、課題として「ダメな自分を書いてみよ」というのはどうなのかな、と素直に疑問に思うのだった。いや、趣旨は分からないではないし、彼の書いている私小説では自分の駄目さ加減をさらけ出す迫力が作品の面白さを支えているのはよく分かるのだけど、誰もが自分のダメさ加減をさらけ出すことに何かの意味があるのかはよく分からない。飾り立てた自分じゃないものを考えるという姿勢も、なんとなくNHKっぽい感じもしてどうなのかとも思った。NHKの番組なんだからそれでいいということなのか。
 それというのも、その課題自体があまり成功しているように見えなかった事が大きい。もちろん失敗してもそれはそれでいいのだけど、考えてみると最初から難しすぎるのではないかと思えたのだ。特にテレビで告白するようなダメなことということになってしまって、誰もがその程度のダメさ加減を選択せざるを得なくなるように感じた。結局、寝坊するとか、お金を使いすぎるとか、そんなようなかわいいダメさ加減に収縮されて行ってしまう。確かに一人の児童は、親からお金をくすねてしまう告白をしていて、西村はそのことをもって素晴らしいと評価していたようだ。僕もその児童は偉いなとは思うが、素直なのであって素晴らしかったのかどうかは分からなかった。
 結局そのダメさ加減がショッキングだったからこそ彼は評価されたのであって、誰もがショッキングな事を赤裸々に書いてしまうと、逆に彼の存在意義などは無くなってしまうのではなかろうか。実際は小説なのだから、いくらでも創作でひどい話は書けてしまうのが現実の話だが、しかし西村賢太は私小説として、どうも自分の体験をかなり本当のこととして書いているらしいという背景があるからこそ衝撃的なのである。ひょっとすると嘘も混ざっているのではないかという疑いが少ないからこそ作品が評価されるという、極めてまれな人物ということが、まずは大前提なのだと思われる。
 そういう人間は、本当に生きにくい世の中なのだろうな、と思っていたのだが、あんがい西村賢太はもっと賢い人物なのかもしれない。もっとも、今まで被害を受けてきた女の人たちに償いをする気分になっているのであれば、それはそれで仕方がないが。
 結局自分の内面のことより、他人の不幸を喜んでいる人間がいるからこそ私小説は評価されるのではあるまいか。そういう悲しい迫力を西村賢太が失ってしまうようなことになると、小説が書けなくなってしまうのではないだろうか。まあ、いらぬ心配なんだけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小琳ちゃん暴れる

2011-10-22 | HORROR

 小琳ちゃんが死んでウチではいくつかホラー的な現象が起こった。電気が勝手に点いたり、天井にある扇風機(ファン)が勝手に回りだしたりした。誰もいない部屋から音がしたり、戸がガタガタいったりした。つれあいが「誰?」と声を掛けても当然返事は無い。点け忘れや風などの悪戯でないのは、例えばファンを回すには一度蓋を開けてからスイッチを入れなくてはならないことからも明確そうに思われる。停電していて電気が通ったということでも無かった。
 もっとも小琳ちゃんは犬だったから、もともと電気をつけたりすることはしなかったし、出来もしなかっただろう。そこのところは不可思議なのだが、小琳ちゃんが死んでからこのようなことが続けて起こったので、僕らが勝手に関連づけているのかもしれない(実は以前にもそんなことがあったらしいが、煩わしくなるのでそのことは省略する)。
 もちろん小琳ちゃんで無い可能性はあって、そうであるなら話が厄介である。こちらの対話に応えてくれない以上分かりはしない問題だが、こうなれば是非とも小琳ちゃんであってくれなくては困る。
 また僕はお釈迦様の影響ではないにしろ、死後の世界はどうも信用はしていない。彼の教えの通り、人は死んだらたぶん生まれ変わったりしない。もちろん犬の小琳ちゃんだって同じではなかろうか。
 しかしながら小琳ちゃんの死後は、小琳ちゃんがこのような形で何か悪戯をしていると感じる。矛盾や不条理を感じはするが、しかしそれは同時に自然な感覚なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とって置きたい

2011-10-21 | 雑記

 時々頭がこんがらがると、図にしたり絵にしたりする。僕自身はたいして絵心が無いから当然へたくそである。しかしながらそのへたくそな絵なり図というものが、なんとなくいとおしくなったりする。文字だけのメモは簡単に捨てられるのに、絵とか図になるとなんとなく捨てづらい。もちろんとっておいても何にもならないとは思う。下心なんてまるで無い(どんな下心がうまれようか)。それでもそういうものはなんとなくたまってゆき、かさばってしまう。中身を見ないようにして捨ててしまうのがいいのだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーディ

2011-10-20 | 映画
バーディ/アラン・パーカー監督

 ベトナム戦争と青春思春期の苦悩と精神病問題という感じか。
とにかく鳥になりたいらしいのは分かるが、そしてそれは自由の象徴というのは分かるが、なんとなく偽善的な気がしないではなかった。なんというか当たり前すぎるというか、そうしてその想いの強さが当たり前すぎないといおうか。
 ちょっと前にラジオを聞いていていたら、あるAV女優の人が、文化系の男のタイプで一番残念なのは、(本当は女の子に興味がありながら)ぜんぜんそんなこと興味がありません、という方向に行ってしまう人だと言っていた。手の届かない葡萄は酸っぱいという奴で、さらに逃避が進んでしまったものらしい。確かにそれはどうしようもないものね。
 この映画にもそのような場面がたくさん出てきて、その気になっている女の子にはたいへんに失礼な奴だとは思うのだが、それがこのタイプの青春と言えばそうなのかもしれない。相手が怖いばかりに自分にも臆病なのだ。
 もっとも、映画としてはそれすらも超越した男として描いていることは承知している。しかし、そうではあってもそのように見えないのである。それって既に人間からも超越しすぎているんじゃないか。
 そのような人間だからこそ鳥になれるということが言いたいのかもしれない。極端な話にせよ、このような形で反抗し文化を作っていこうという時代だったとはいえるだろう。
 ちょっと昔の人は気難しいものである。それほど社会的にどうにもならない閉塞感があったものということはあるのだろうけど。ひょっとしてこのような考えが現代にも共感が得られるとしたら、今の世も同じようなものだということの証明にはなるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勉強法が変わる本

2011-10-19 | 読書
勉強法が変わる本/市川伸一著(岩波ジュニア新書)

 実は子供の夏休みに思うところがあって僕が読んだ本。どのみち僕のアドバイスなんて聞きもしないのだから無駄と言えば無駄だが、無駄こそ身に付くこともあるので馬鹿にならない。というか、あんがいそれなりに飲み屋のウンチクに役だったので元はとったかな。何より堅苦しい勉強本という感じでは無くて、それなりに心理学的に合理的な勉強本であった。
 当たり前だが勉強するのは苦行するためではない。物事を理解するためというのがまず第一なのだろう。つまり分からないところをやるという当たり前のことが一番合理的だ。ただしかし、その当たり前が難しいのは、自分が分かっていない、もしくはよく飲み込めないところである可能性が高いからだ。そういうところにはいろいろと格闘する技術が必要だ。よく読み込んでみたり、図にしてみたり、とにかく手をつけないことには始まらない。そのように手をつけないことには、やはりその分からなさ加減の程度も良く分からない。人に聞こうにも、その分からないポイントがはっきりしないのだ。分からないからそこから目を背けたくなるのは人情だけど、そうやって苦手なものは克服がさらに困難になってしまう訳だ。
 もちろん、それは理屈だという人があるかもしれない。しかし最初からノーベル賞的な難問に取っ組み合う訳ではない。素直に紐解いて理解を積み重ねるより、勉強の王道は無いらしい。
 読みながら何故か思い出したのはアントニオ猪木の言葉である。猪木は自分が誰よりも強いという自信があるという。しかし如何に強いその様な自分であっても、何人か束になった相手と戦っても勝ち目はない。あくまで一対一の勝負をすることが必要だ(大意)。ということであった。別に猪木のように強くない人間であれば尚のこと、ひとつひとつと取っ組み合うより無いではないか。
 まあ、他にも色々書いてあるわけだが、幸いなことにいまさら網羅的に勉強をする必要などなくなってしまった。もちろん受験が無くとも勉強しなくてはならないことはたくさんあるわけだが、ちょっと意味合いは変わっている。そういう時にはやらなくてはならないことでも、逃げずに向き合うより無いのかもしれないということだ。いや、むしろ素直に向き合うことが実は一番の早道であるということを知っているだけでも、何とかやる気になりやすいのかもしれない。
 勉強法がどうだというより、合理的にやるべき時にやることをやるというシンプルな考え方を身につけることなのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬も歩けば、ラッキーか?

2011-10-18 | ことば

 「出来るだけウロウロするようにしている。犬も歩けば棒に当たると言うじゃないか」という話に「なるほど~」などと頷いている人の姿を見ていて、めんどくさい性格なので「それでいいのか?」などと思ってしまうのである。
 もちろんそのような使い方は何ら間違いでもないし、当たり前の会話なのだろうけれど、「犬も歩けば~」ということわざは本当にめんどくさい言葉だと思う。
 もともとは、犬がウロウロしていると棒で叩かれることがあるように、じっとして余計なことをするな、ということなのだろうが、今はその正反対に、ウロウロしていると時には幸運に出あう、というように使われることの方が多い。そのようなまったく正反対の意味を持つ言葉というものが普通に流通してしまっていることが、本当にめんどくさいと思うのだ。
 もちろん、現実的には後者の使われ方をする場合が多くなっているということなのだろう。前者の意味に使う場合は「もともとは~」などと講釈する必要もあるのかもしれない。そうなるとことわざを使う意味など無くなるから、最初から使えないということになりそうだ。

 以前に加藤恭子さんという学者の本を読んでいて、finders.keepers.という言葉と考え方を知った。落し物は拾った人が所有者になる、ということらしい。西欧の人たちにはこの考え方は共通のものであるようだ。もちろん日本においても同じような状況になったとも考えられるわけだが、僕の印象だと、いまだに警察に届ける人も相当居るのではなかろうか。
 確かに100円落ちているくらいなら「ラッキー」ということでポケットに入れる人の方が多いだろうけど、例えばそれがどこかの店の中だったり、電車やバスのような乗り物だったりすると、店員さんに渡したり運転手さんに渡したりする人も増えると思う。少なくとも拾った瞬間に自分の所有という感覚にはならないのではないか。
 しかしながらそうはいっても、現代においては多くの人は、馬鹿正直な子供の時代を過ぎてしまうと、落し物は自分の物、と考えている人が増えつつあるのではないか。そして、一瞬で落とした人の心情を忘れ去ることもできるようになったのではあるまいか。
 これは大きな考え違いかもしれないが、僕はそのような考え方の変遷と、「犬も歩けば~」のことわざの解釈の変化にも、ある種の影響があるのではないかと思う訳だ。黙っていると禍に合わないという消極的な戒めよりも、能動的に行動した者に幸運が降りてくる方が合理的である。
 更に「棒に当たる」という表現も、棒は何のたとえ(以前は禍だったものが)はとりあえずなんだかよく分からず、「当たる」の方の、例えば懸賞に当たるなどの幸運な響きに引きずられて、良い方の語感と捉えてしまったのではなかろうか。
 あたかも幸運が道に落ちていて、それを拾うというか、出合ったものの勝ち、というか、そういうものの考え方が浸透するにつけ、それにふさわしいことわざの解釈を必要としていったのではあるまいか。

 そういう訳で、僕はこの「犬も歩けば~」のことわざ自体に、なんとなく嫌な感じを拭い切れずにいる。意味を知っている以上使いにくい上に、そのような利己的なしあわせを無自覚に望む心情が、あんまり望ましいものではないように思うのだろう。
 まあ、今時そんなに古臭い人間が生きていく方が面倒なのであって、犬はかまわずウロウロして良いのではあるけれど…。あんまり嗅ぎまわって顰蹙を買うというのは、やはり普通にあるとは思うわけで、そういう意味では、以前の意味が残っている方が、やはり使いやすい言葉なんだろうけどな、とは思います。


追記:棒が当たる、というのはブラック・モンブランのようなアイスもそうだな、などと思い出した次第。確かにあれはラッキーですね。犬がウロウロしてありつけるものではないにせよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザ・コミットメンツ

2011-10-17 | 映画
ザ・コミットメンツ/アラン・パーカー監督

 この映画とは直接関係ないのだが、先日ディープピープルという番組で音楽プロデューサーの鼎談を見た。秋元康と小林武史とHIROという人が話をしていたのだが、自分自身が主で無い(HOROという人だけは当人がグループのリーダーを兼務しているようだったが)他の主体を、むしろ自分自身が動かしているという風景に、なんだかむしろ違和感のようなものを覚えた。もちろん世の中は複雑である。音楽産業という巨大な事業をやる上では、バンドも興行として組織だって動く必要があるのだろう。厳密に言うと僕が考える音楽プロデューサーにいちばん近いのは小林氏だったわけだが、それ以外の二人は、ちょっと世界が違うもののようだった。
 というか、なんといっても秋元氏か。AKBというのが音楽団体だったというのがちょっと驚きだったのだけど(考えてみるとぜんぜん驚く必要ないけど)、まったく音楽的に出来る人で無い人が、自分のイメージを屈指してスタッフを動かし曲の細部まで決めているということは、いったい何だろうと思ったわけだ。
 と言う前フリが必要なほど、この映画には違和感が付きまとった。映画自体が悪いというのではなく、主人公の青年が、自らは最初からバンドメンバーで無く、まさしく最初からマネージャーなのである。音楽性には一家言あるようではあるけれど、基本的にバンドを演奏しているのは自分では無い。客観的な立場でバンドを育てるという意味もあるのかもしれないが、そんなことをやっていったい何になるんだろう。などと思ってしまう訳だ。それは僕自身がアマチュアながらバンドをやっていたということもあるのかもしれない。演奏やスタイルなどについて仲間からいろいろ言われる分にはむしろ嬉しいことはあるにせよ、バンドのメンバーでありながら演奏家で無い人の話を真面目に聞くなんて事があるのだろうか。むしろそういう態度について、やってられない気分になるんじゃなかろうか。
 お話自体はアイルランドの屈折した若者の青春を描いた秀作だとは思うが、こういう人間関係で上手くやっていく方が難しいよなあ、と素直に感じながら観ていたのだった。まあ、青春とはそんなもんか。
 好きなことを一所懸命やって、結果的に成功する。なんてことを僕らは夢見てたんだろうね、きっと。少なくともバンドをやって楽しいって言うのは、そういう感じなんじゃないか。それはプロとの垣根かもしれない。しかし売れる売れないということが自分の力でどうにかなるというのも、やっぱり何だかどうでもいい感じがしてしまうのであろう。そういうことを秋元氏もこの映画も何も言って無いが、屈折した僕自身はそんな感覚をいまだに持っているということなのだろう。食っていけないはずだよな、まったく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする