カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ちょうどタイムリーに見えたりして   にあんちゃん

2012-08-31 | 映画

にあんちゃん/今村昌平監督

 炭鉱で暮らす人々の暮らしを描いた作品。
 今でいうと在日の人と混在した生活を送る人々ということになるのかもしれないが、土地を持たない労働者というのは、そういう立場の人たちの集まりだったということなのだろう。それも歴史だが、今はその堺が無くなっているだけのことだろう。
 それでもその当時からこのような図式が問題意識として映画になっていることから、社会問題化できるという意識は当然製作者側の方にもあったに違いない。自然のことでありながら、はっきりと社会問題でもあったということだろう。貧しさだったり劣悪な環境の代名詞が炭鉱というイメージがあるのだけれど、それはこのような映画から生まれたものかもしれない。結果的に炭鉱というのはずいぶん環境は整えられたことだろうから、その影響は後世のためにはなったのではなかろうか。もちろんそれは炭鉱に限らず、後の労働者というものへも影響があったはずで、現在の目からは資料的な価値というものもあるだろうけれど、結果的にはやはり過去の一面のエピソードということになるのだろう。
 それにしてもただでさえ厳しい時代にあって、両親を失ったきょうだいの境遇は、やはり厳しい。厳しいが、炭鉱だから働くところがあり、そしてそういう場所でしぶとく生きていかざるを得ない力強い人間がいる。大人たちは乱暴だが、困るのはお互いさまで、やはり個人個人が強くなければどうにもならないのだ。
 そういう中で順番に働こうということになるが、まだ働けない年頃の子供はどうなるか。けなげだが、それでも何とかして生きて行こうとする。いわゆる他人にすがらなければ生きられないのなら、早く大人になればいいのである。無理をして上京して職を得ようとまで無鉄砲に行動してしまうのである。
 なんだかいい映画だったけど、この状況を土台にして今の日本があるということに、本当に納得のいく現代人なんてどれほどいることだろう。月並みだけど、自分を棚に上げて、やはりそんなような感想を持ってしまう。このようなバイタリティはもともと持っている資質ということではなく、本当にハングリーだからこそ育つ人間性だということなのだろう。
 貧しい生活を描いた映画というのは数が多いが、イタリアのような悲惨さということでもなく、ドイツのような閉塞感でもなく、アメリカのような恐ろしさというのでもない。南米やアフリカのような暴力で無く、中国やインドのような混沌でも無い。そういうところはやはり日本だったのかもしれなくて、そうしてそこには在日の人とも共存していた訳だ。やはり現代はどうなってしまったんだろうと思わずにいられない。いや、ひょっとすると、共存のヒントもこの時代にあったのかもしれなくて、その上やはり日本という国あっての環境だからこの状況が可能であった可能性もあるかもしれない。
 社会性のあるドラマだから、物語を追うだけでは無い事をあれこれ考えさせられる。名作といわれるものは、やはり奥が深いのである。
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手のひらを冷やそう

2012-08-30 | 雑記
 暑い日が続いて気になることがあるのは、対向車線で走っている車のドライバーがあくびをしている姿の多いことだ。暑さに疲れて眠くなっているのではないかと推察するのだが、なんだかやはり危なっかしい。若いころに居眠りで追突二回脱輪4回の人間の言うべきことではないが、そんなに疲れてどこに行く?である。
 確かに特に昼飯を食っての運転はけっこう危ないものがある。もう少しという意識が邪魔をして無理をしてしまうこともあるかもしれない。車を停められる勇気があればそれが一番だと思うが、眠くても走り続けてしまう精神性は、まじめな人ほど危ないと言えるかもしれない。
 ガムをかんだり、メンソレータムを眼の下に塗ったりするという話はよく聞く。それなりに効果のある場合もあるし、なかなかそれでは難しいという場合もあるだろう。
 許されるならば、ほんの少し寝てしまうのが一番だと思う。次に車から降りて背伸びするとか体操するとかも効果がありそうだ。可能であれば、運転を代わってもらえるのが何よりでもある。
 眠気というのはそう簡単に治まらない。いっそのこと危ない目に会うと一気に目覚めることもあるけど、それはそれで危険すぎる。
 これは僕だけの話かもしれないけど、トイレなどがあると手をよく洗うというが効果的だったことがあって、手のひらをエアコンの冷気などで冷やすと少しばかり効果があるような気がしている。夏のことではないが、手足が冷えると寝付かれないということはないだろうか。氷などがあればもっといいかもしれないが、特に手の平の親指に肉厚のところが冷たくなると、なんだか眠気が少しばかり飛ぶような気がするのである。
 高速道路など、簡単に車を停められない状況なんかに、エアコンの通気口に手のひらを当てて一所懸命冷やしたりして難を逃れております。もちろん個人差もあるだろうから、これで万能ということにはならないだろうけど、困っている状況になったら、ぜひお試しあれ。
 まあ、夜は早めに寝ておいた方が一番なんでしょうけどね。
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野生は恐ろしく危険なのだ

2012-08-29 | 散歩

 先日白クマ君をじっくり見る機会があって、心おきなく冷たい(おそらく)水槽の中で泳いでいる白クマ君の姿を見てすっかり堪能した。クマというのは体のバランスがなんとなくユーモラスで、とてもかわいい。
 その時は、その水槽を最初は上の方から眺めていて、餌を拾って食べる様子などを見ていた。その後通路を通って、分厚いアクリルだかガラスだか水の中からも見られるように工夫してある下の部分に移動して、さらに白クマ君を間近に見たわけだが、ものすごく顔が近くに寄った時に、不意に恐ろしいという感情がこみあげてきた。やはりなんといってもクマさんで、この分厚い仕切りがあるからこそ安心していられるとはいえ、間近で見るとそれなりの迫力がある。実際に野生の姿で対峙したならば、その恐怖はすさまじいものがあるに違いない。恐ろしくて逃げるどころか、その場に立ちすくんで、生きたままむしゃむしゃ食われてしまうのではなかろうか(どんな食い方をするのか知らないけど)。
 クマさんは姿や動きがユーモラスなのでまだなんとかなるのだが、ネコ科の大型獣というのは、その顔つき自体がものすごく恐ろしい。ライオンやトラさん(なんでさん付け?)などは、たとえ動物園の仕切りの中であっても、かなりの恐ろしさがある。目が合ったりするとドギマギしてしまって恐ろしくて仕方がない。ああいう動物に狙われる可能性があるというだけで、アフリカ大陸やアジアのジャングル自体が恐ろしげに思える。特にトラさんにおいては、人間はその恐怖に耐えられなくなって乱獲され、絶滅の危機に瀕しておられるのではなかろうか。

 実は杏月ちゃんと散歩中にも、時々猫ちゃんたちと遭遇する。たいていはあちらの方が気を使って逃げてくれるのだけど、時々堂々と寝そべったままであるとか、逆に反撃ののろしを上げるべく構えているような猫ちゃんもいる。こちらは犬なのでとてもかなうわけが無い。杏月ちゃんは何も知らないので興味を持って近づこうとしてしまうのだけど、危なくて仕方が無い。そういうときの猫ちゃんの顔はまちがいなくトラさんやライオンのそれである。身近にもそのような恐ろしい野性があるわけで、人間は安易に近づくべきではない。もちろん多くの犬たちにおいてもである。
 もちろんそのような恐ろしさこそ身をもって体験させるべきだという意見もあろう。しかしながら致命的な怪我をしてからでは遅い場合もある。少なくとも人間の保護下に置かれている生物においては、最初からそのような体験は過酷過ぎる可能性の方が高い。
 同じような理由で年頃の女の子などは、夜に一人歩きをしてはならないのだと僕は理解している。小さな成功体験がまちがいなく自分への危険度をさらに高めているに過ぎないのではなかろうかとさえ思っている。
 ということで、恐怖感というのは身内を過保護にさせる元凶なのかもしれない、と思うわけです。
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ある仮説の話

2012-08-28 | 掲示板

 風呂に入っていて何かアイディアというか、ちょっと思い出したり、風呂から出た後に絶対メモしなくては! と思うことは多い。多い、と書いたけど、それが何だったのか覚えていることは実に少ない。タオルで髪をゴシゴシ拭いて、体も拭いて、パンツを履いて体重計の上に乗って、フムフム今日は○○kだ、と思ったところで、「あっ」と風呂で考えていたはずのことを思い出そうとしても、大抵手遅れだ。どういう訳か、本当にぜんぜん思いだせない。これってものすごく不思議だが、あれだけ強いインパクトを持ってあがったらメモしようと思っていた意志さえ、すっかり忘れてしまっているのだ。
 そういうことの部類の一つなんだと思うが、僕は風呂に入っているときについでに髭を剃ることが多い。そうして髭を剃りだして「あっ」と気づくことも多い。「剃刀の刃を替えなくちゃならなかったんだ!」という事実に。
 剃りづらくなった刃で髭を剃ると、しばらくはチクチク痛い。そういう思いをしながら、替え刃のタイミングはなかなか思い出せないものなのだ。
 風呂の中で思い出したり、メモしなくてはと思うような「何か」は、そうやって繰り返し後悔している類のことが多いのではなかろうか。それは「剃刀仮説」という僕の謎に分類することにしよう。
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イコールではないめんどくささ

2012-08-27 | 境界線
 医者に日頃どんな酒をどれくらい飲んでますか? と問われ、
「発泡酒の350mを一本と、」と言ったら、
「発泡酒ってビールのことですか?」とさらに問われて、しばらく絶句してしまった。
 発泡酒はビールではないし、しかし、たぶんビールのアルコール度数と換算して酒の量を推計しておられるのだろうことを想像はするのだが、ここで発泡酒とビールの違いを説明するのは不適切な気がする。かといって素直に「ビールのようなものです」と返答するのは、なぜかフェアではないような感じもする。そもそも先生は発泡酒を知らないのではないか。いや、そんなものは飲んだことが無いという、ある種の主張が含まれているのではないか。そんなことを考えてしまって言葉に詰まってしまったようだ。
 しばし沈黙ののち、先生は「ビールを一本程度と…、」と勝手に話を進められたので、ああビールのようなものと換算する想像力はあるんだ、ということは判明した。
 しかしながら僕は、ビールの代用として発泡酒を飲み始めた経緯は認めはするものの、ビールの代用として発泡酒を飲み続けているわけではない。そのような確固たる信念のようなものは、同時にどこかに流れてしまったことを残念に思った。
 まあ、しばらくは控えめになるだろうから、そのあたりも悲しさの原因かもしれないが…。
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早起きは特に徳では無いと思う

2012-08-26 | 雑記
 4時前ころから目が覚めて、鎮痛剤飲んで読書して、パソコンいじったりしてたら本当に朝になってしまった、という感じ。
 足の痛みで散歩どころではないし、しかしまた寝なおすのも間が悪い感じだ。
 昼寝を楽しみにダラダラしてしまうのが、とりあえずの選択としておこう。
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パンダと日本の暑い夏の日

2012-08-25 | 感涙記

 訳あって和歌山に行って、さらに訳あってアドベンチャー・ワールドに行って来た。あたりまえだけど和歌山っていうのは結構広くて遠かったなあという感じ。やっとたどり着いて駐車場の車の数を見て、これは思ったよりえらいところに来たのかもしれないということに初めて気がついた。すでに3時過ぎていて、日光の力はまだまだ強力なんだけど、時間的に夕方に近づいているという時間帯にもかかわらず人々はどんどんここにやってきている。夏休みなんだなあということはあるにせよ、えらい人気の場所であることは間違いない。なんというか、まあ付き合いというか、気楽にやってきた身の上としては、なんとなく身構えてしまう感じだった。
 施設自体もそれなりに洗練された現代風の娯楽施設という感じで、入ってすぐに池の中でペンギンが泳いでたりする。動物園と遊園地が合体してディズニーランドとは違う空間を演出しているという感じ(どんな感じ)かもしれない。
 それなりに通路には屋根があるにせよ、とにかく暑い。吹き抜けに海風が通るとはいえ、熱気という感じでぜんぜん体が冷やされるという感じではない。そういう中をどんどん目的に向かって僕らは歩いて行く。というか僕はついて歩いている。なんとなく行きたい場所は分からないではないが、よく聞いてなかったのでそれほどまでの引力があるとは理解してなかった。どんどん歩いて行ってやっと目的の場所にたどり着いて、プラカードを持った青年の後ろに並ばされた。そのプラカードには「ただいま45分待ち」と書いてあった。パラソルが並んで設置されているとはいえ、ぎっしり並んだ行列には、まだらに強烈な日差しが射している。そうして最後列に並んだ瞬間から、その熱気の中で体温は温められ、額から背中からあちこちから、ドッと汗が噴き出してくる。列が少しずつ進んでいくのだけが僅かばかりの望みで、それ以外は何にも考えられない。ただ汗を流し時間をやり過して我慢大会に参加している気分になる。本当にこのままで僕の体力は持つのだろうか。思わぬ消耗戦に、先に精神のほうがどんどんまいって追い込まれていく。残されているわずかな体力で冗談を言おうとするが、ウケずにさらに消耗する。まったく悪循環だ。子供の泣き声と、若いカップルの小言などを聞きながら、つらいのは僕らだけじゃないと自らを励ます。そうだ、みんなつらいのに頑張っているのだ。このまま一生並んでいるわけじゃないんだ。終わったらきっとビールを飲んでもいいんだ。
 後は省略するが、とにかくに並んでパンダを見た。パンダは無邪気にゴロゴロしたり歩き回ったり、ただ寝てたりしてた。子供が生まれて一般公開された初日だそうで、それでみんなが集まって来たのだという。もちろん僕らもそれで来たんだって。人の話はよく聞かなくてはいけない。目的意識が薄かったのでつらかったのかもしれない。
 そういうわけで最大のお目当てのパンダの赤ちゃんだけど、母パンダが抱きかかえた姿勢で後ろを向いてガードを固めていて、まったく拝むことができなかったよ。みんな残念がっていたけどボードに写真が飾ってあって、まるでパンダというより毛の少ない鼠という感じだった。ある程度大きくならないと、パンダとしての可愛らしさは無いようにも思ったが、まあ、残念ではあった。
 でもまあ、そのような母パンダの姿というのは、ある意味で一所懸命このような心無い人間から守っているということでもあって、けなげというか感動的ではあったと思いました。そういう野生や母性は尊重してしかるべきだ。見られなかったことこそが、パンダ愛に出会えた証明ということにしておこう。
 いきなりメインは済んだので、後は帰る道すがら、イルカのショーを見たりペンギン見たりラッコ見たり白クマ見たりした。本当はもっと広いところみたいだったけど、痛風で膝は痛いし、歩くのやっとだったから、単に苦行という感じだった。エントランスの椅子に若いお父さんが荷物番をしながら、股を広げて爆睡する姿を見て、みんな大変なんだよなあ、と日本の暑い夏を満喫したのでありました。
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もちろん、最初に専門性ありき、だけど   崖っぷち「自己啓発修行」突撃記

2012-08-24 | 読書
崖っぷち「自己啓発修行」突撃記/多田文明著(中公新書ラクレ)

 もともと本を読まないライターが、いわゆる自己啓発本を読んで、その内容を実践、チャレンジしてゆく体験記。ライターなのに最初は本の内容の理解に苦しんでいるところは愛嬌だが、しかしこのような自己啓発本を読んでも実際にはほとんどの人が実践などに至らないだろうことを考えると、なかなか凄まじく偉い人だという感じがした。それに単純にそれらのエピソードが面白い。最初は多少まどろっこしいところで悩んでいる風ではあったけれど、どんどん本の内容を自分に取り組んで実行していく様は、ある種のサクセス・ストーリーだし、爽快な楽しさを感じさせられる。実際は苦労の連続でもあるけれど、そこのところも含めて、やっぱりそのような自己啓発本でも、役に立つ人には十分役立つということを自ら証明しているといえるだろう。
 何となく僕の書き方に疑問を感じる人がいるのではないかと思うのだが、実は僕自身は自己啓発本は微塵も信じていないということがあって、時間つぶしに精神薬として読むことはあっても、絶対に実践などしたことが無いというのが実情なのである。いや、ある意味で参考にはさせてもらうことはあるのだけれど、自己啓発本に感化されて何かを実行するような人は、そもそも成功などしないのではないか、という偏見があったからだ。確かに朝を制する者ビジネスを制する、などという話は、勤勉に働くうえでは大切な心がけだとは思うものの、そんなことで成功するほど世の中は甘くないと考えてしまうくらいひねくれている所為だろう。
 しかしながらそんな偏見で、せっかく読んで感化された事を実践しないということは、実はもったいないことなのかもしれない。著者はそこのあたりは愚直で(もともとは版元の企画であったにせよ)、ある意味で啓発本の良き読者であるというのが、何より偉いと思えるのである。啓発本を書いた著者たちにとっても、実に頼もしい存在なのではあるまいか。
 そうではありながらこの本の醍醐味は、やはりその実践的な部分であるとは思う。啓発本のエッセンスをもって実行するとはいえ、実際にぶち当たるさまざまな困難や問題を解決するにあたっては、それなりに自分なりに解釈を変えて、現状に苦しんだ末に自分で答えを見出しているように見えるからである。本を読んでそのままというのでは無くて、自分の考えを取り込んだ上で、さらに改良しながら自分自身の納得のいく事を愚直に実践に移しているというのが、本当には言えることだったのではあるまいか。この後本当に自己啓発本を読みあさり、更なる成功を収めていく物語というより、このような啓発本から卒業するという意味合いの方が強いような気がする。もちろん、本当に身に付いたからこそそういうことが言えるということもあるから、まったくの無駄であるとは言えないのだけれど、啓発本というのは、そういう役割があって役目を終えるものなのではないだろうか。
 お話自体は企画ものの実践ドキュメンタリーということかもしれないが、奇しくも本書自体が、本当に役立つ啓発本ということが言えるのかもしれない。やはり人間の行いこそ、血となり肉となる貴重な経験であるという証明なのだろう。
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恐怖と文化の違いを見る   ウエスト・ウイング

2012-08-23 | 読書
ウエスト・ウイング/エドワード・ゴーリー著(河出書房新社)

 一切科白なしで、意味は分からないが不気味な絵が、脈略もよく分からないまま続いて行く。じわじわくるものもあるし、何となく見ハマってしまう絵もあるという感じ。実態は何一つ感じられないが、いい気分にはならない。何か邪悪なものがその絵の中にあり、確実に見るものに何かを訴えようとしている。受け入れる受け入れないは関係が無い。ただそこに邪悪さがあるということが絵の中に閉じ込められているということだ。
 このような恐怖描写については国民性のようなものがある気がする。この絵の中で大きな役割を果たしているのは、建物そのものであったり、窓や壁のような背景であったりする。日本にもお化け屋敷というものはあるのだけれど、西洋のそれとはなんだか少し違う気がする。家をアジトとする化け物小屋がお化け屋敷なのだが、そのような洋館もあるにはあるが、しかし、西洋のそれは、建物自体が既に邪悪なのである。中身が怖いことは確かだけれど、それを包んでいる壁や石のような素材そのものが、何か人間そのものに働きかける力を持っているかのうようだ。
 森などの自然感も随分違うような気がする。日本には森自体は母なる自然ということで、もちろん畏敬の念や脅威は感じていても、基本的にはそこに住む動物や、もののけや、お化けまでも、人間と共存している、一種の仲間という意識があるような気がする。しかしながら西洋の森には、時にはその存在そのものが邪悪である場合があるように思える。それはその塊全体が、人間と対峙する存在なのである。
 そのような背景があってこの絵を考えると、人間と相対する、人間とはまったく次元の違う対象としての恐怖があるという感じがする。得体はしれないが、それが悪魔というような総体の姿なのかもしれない。
 実はオドロオドロシイのは確かだけれど、僕にはこの恐怖がそれほどピンとくる訳ではない。それは、はっきりとなじみの無い恐ろしさなのかもしれない。日本のお化けは、例えば「のっぺらぼう」のようなもので考えると、ある種の漫画的な滑稽さもあるくせに、やはりそんなものが出てきてもらっては大変に困るし、驚いてしまうという感じだ。しかし西洋の悪魔というのは、得体がしれないが、見てしまうと確実に命まで奪われてしまうような気がする。遊びが無く血なまぐさい。
 もちろんそのような印象には偏見もあるのかもしれない。その上単に無知なのかもしれない。
 日本の怪談はお盆の影響もあるのかもしれないが、何故か夏が定番で、そしてそのような文化で涼をとるというような事をいう。例えば英国などでは、つきもののような怪談話は、大抵吹雪の夜など、その環境そのものが凍えるような設定が多いのだという。南国の話を知らないのでバランスが悪いのだけれど、やはり嵐のような異常な自然設定が多いのではあるまいか。そういう背景などを考えても、日常と非日常の捉え方の文化差を感じさせられずにいられない。
 このような絵を見て怖がるだけでも、人間というのは結構めんどくさい。そういうことを考えながら、ぱらぱらめくって恐怖を考えてみてはいかがだろうか。
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壮絶な人間教育の書   血だるま剣法・おのれらに告ぐ

2012-08-22 | 読書

血だるま剣法・おのれらに告ぐ/平田弘史著(青林工藝舎)

 差別表現というレッテルをはられ、絶版回収の憂き目にあって長らく封印されていたという、いわくつきの貸本時代劇の傑作と言われている作品。
 単にエタとかヒニンという言葉を使っているだけ(復刻版は○○で書かれてあるが、間違いなかろう)のようにも思うが、解説にもある通り、むしろそのような差別を憎み根絶させたいという壮絶な思いがベースになっていて、これを読んで差別を憎むようになる人間は増えるだろうけれど、差別を助長させようと考える人間は根絶されていくのではあるまいか、と思えるような、強烈な印象を残す作品である。それにはっきりいって、名作であるということも含めて、たいそうお話自体が面白い。
 確かに絵が上手い上に壮絶な残酷描写のあるのも確かで、その印象が強すぎるきらいはあるかもしれない。しかしそうであるからこそ、物事の本質まで引き込まれてしまうことも確かそうで、少なくとも僕自身は、たとえ日本の過去の歴史にあったであろう事であっても、人間として差別というのは決して許されるものではないのだ、という思いをさらに強くした次第だ。このような漫画を子供時代に読めた頃の子供たちは、ハードではあっても、その後の人生に実りが多かったことは想像に難くない。むしろ今の軟弱そうに見える子供教育にこそ、これからも活かされるべき作品なのではあるまいか。もちろん、そのことを理解できなさそうな大人社会にあるからこそ、このような作品が封印されてきた訳で、理解もされにくく、今更手遅れでもあろうが。
 それにしても主人公をこれほどまでに病的にさせた原因こそが、やはり差別の根源だと言えるだろう。もしかすると、現代におけるいじめ問題にも通ずるところがあるかもしれない。その強烈な悲しみと怨念が素直に表に出てくると、このような人間をも生み出してしまいかねないのではあるまいか。もちろんこれはエンターティメントであり、フィクションなのだが、人間の受ける怨念の姿を絵画的に表現すれば、このようになってしかるべきだと思わないでは無い。そういった意味においても、人々はこの漫画を読んで考える機会を持つべきなのではなかろうか。力技ではあるけれど、かなり有効に人々はその悲しみに共感し、そして巨悪を憎む心が育まれるに違いない。
 読後感はむしろ最悪ではあるが、そこに人間的な皮肉も隠されている。狂気の終わりにホッとする人間は、差別の心やいじめの心から解放されたい人間ということのようだ。そのような心こそ、結局は根絶やしにするのが大変に難しいのだ。むしろ人間の本質に差別をするような心があるからこそ、人々は戦う必要があるのかもしれない。楽しい話で無いからと言って目をそらす事を繰り返すような事こそ、このような根源的な人間の罪を、忘れさせて隠してしまうことになるような気がする。この復刻によって名作を世に定着させることが、本来的な文化の役割と言えるのだろうと思う。それを人間の叡智というのだろう。
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かなり変だが雰囲気は出ている 1999年の夏休み

2012-08-21 | 映画

1999年の夏休み/金子修介監督

 家人から、また変な映画借りてきたな、みたいな顔をされながら観た。おいらも知らなかったんだよね、これだけ変だとは…。しかしながら、そのカルト的な雰囲気はそれなりに成功していて、少女マンガを読んでいるみたいな、そんな気分に浸れるいい映画だと思った。後で知ったことだが、萩尾望都の「トーマの心臓」が原案なんだとか。そう言われればそんなような話の展開ではあるようだけれど、やはり少しスジや雰囲気は違うのかもしれない。
 少年役4人すべてが女の子だということで、いわゆる美少年ファンタジーであるという倒錯した狙いは、まずまず当たっていると感じられた。映像や小道具の非現実的な美しさもあって、何か危うくも儚い時間という感じがよく出ていた。そうして妙に素人くさい科白回しだとか、閉鎖的でありながら何故か成り立っている生活だとか、よく考えてみると何が面白いのか分からないのだけど、ずっとこのままでいて欲しいような気分になるのだった。どんでん返しもあるのだけれど、そういうものを期待して成り立っている話という感じでもない。むしろそれはそうだけど、もっとどんどん危うくなっていくことを期待してしまうような、自分自身もこの変な雰囲気をいつの間にか楽しんでしまっているという不思議な感覚にもなるのだった。
 少年というものが、実際はこのような少女チックな世界では無いことは、元少年であった僕には確信を持って言えることなのだが、しかしながら少女漫画での少年の描かれ方を見ていると、彼女らが少年の中に、純粋な恋愛があるらしい事を夢見ている事が見てとれる。それは勘違いには違いないが、少女の中にある純粋さでは表わせえない種類の類なのであろう。それはたとえ少女であっても持っている性的な魅力を排したものであろうし、かと言ってその性愛の姿が本当に男女のものとは違うとは、はなはだ疑問だ。女性が感じているらしい性愛の無い愛というものを表現するためには、少年という姿が必要なのだということなのだろうか。繰り返すが、友情では無い恋愛感情としての男同士の愛というものが、男女のそれと違う事などほとんど無いのではないかと思われる。しかしそれでもそこに違いがあるように見えるというのは、この映画のように儚い幻想なのだと思う。しかし、たとえ幻想であろうとも、このように描かれうるし、求められてもいるということで、人間の欲求というのは、本当に不思議なものだというしかない。そうして妙な感動を呼び起こさせるのだから、たとえそれが幻想であっても、やはりそこには、妙な現実があるということなのかもしれない。
 何だかややこしいことになってしまったが、カルト的に需要のある映画なのではないだろうか。
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笑いながら笑われているのだろう   笑う子規

2012-08-20 | 読書

笑う子規/正岡子規著・天野祐吉編(筑摩書房)

 正岡子規の博物館があるらしくて、そこでは毎月替わりで子規の句を垂れ幕にして掲げているらしい。そうやって選んだものは、いわゆる子規の有名な句というだけのことでは無くて、むしろ意外な面白味のあるものという選考していたものらしい。子規は二万四千ほど俳句を残したそうだが、その中には、本当にこの本で紹介されているような、面白くもなんだか変なものもたくさんあるのだろう。有名な「柿食えば」にしても、なんだか分かるようでいてよく分からない、不思議なおかしみのある句である。そういう可笑しなことを時々考えながら、子規という人は俳句をひねり出す毎日を送っていたのではあるまいか。
 なんでも重い病と闘いながらも34歳という若さで亡くなったという背景もあって、また、子規の写真というのも、なんだか生真面目な感じのあの有名なものがある訳で、人々のイメージとして、子規の句というのは、ちょっとばかり気難しいものがあるように思われるかもしれない。漱石との友情物語だとか、野球が好きだったとか、いろいろと知られている事が多い中で、しかしやはりおかしな子規という感じでは、人々は彼を認識していないのではなかろうか。
 ところが、という意外性もあってか、この本におさめられている句の力の抜け具合というか、むしろのびのびと馬鹿をやっているというような、まるで落語の長屋で出てくるような変な庶民の姿を地で行くような、そのような子規の姿が浮かび上がってくる。
 子規の句の後に、解説ともつかない編者のコメントが添えられており、これがまた絶妙な子規への愛情も溢れており、同時に思わず笑わせられる。俳句のような短い文学というか芸能というか文字文化というものの、神妙なところを取っ払った上での奥深さがまたにじみ出ており。肩ひじ張らずとも、面白く胸を打つ言葉の不思議に感じ入ることになるのではなかろうか。
 それにしても普通に生活しておりながら、その時々に思ったことを、短い決まった調子で文字に残すだけで、どうしてこのような面白味が出てしまうのだろうか。それが俳句なんだといえばそれまでだろうけれど、本当に言葉というのは不思議なものだと思わずにいられない。そうしてそれは簡単なことでは無いのだろうけれど、やはり多くの人が、その世界に遊ばずにおられないということのようだ。現代人であっても、その世界に容易に入って遊ぶことができる。そのような時空を超えた共感というものが、この世界で遊ぶことのだいご味なのかもしれない。遊びながらその世界を垣間見ることのできる、なかなか鋭い本だということもできるのではなかろうか。
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見ているだけで踊れない   阿波DANCE

2012-08-18 | 映画

阿波DANCE/長江俊和監督

 見始めてすぐに嫌な予感がしたのだが、結局ずるずる最後まで見てしまって後悔してしまった。まあ、そんな程度の映画ではあったのだが、そういうことは経済学用語のサンクコストの証明ということでもあって、分かっちゃいるけど人間の生理としてなかなか改善できない問題なのかもしれない。
 そのようにつまらない時間を過ごしはしたのだが、つまらない映画を観ているとかえっていろいろ考えたりすることもあるので、すべてが無駄だったと思いたくないという合理化の精神が働いている可能性はあるものの、捨てたものではないという思いをすることがある。
 実を言うと阿波踊りというのは不思議な魅力があるのも確かで、踊れそうで簡単には真似して踊れないというもどかしさもあって、やはりあれは結構難しいものなのかもしれないと思う訳だ。盆踊りのようにその場で混ざっても、なかなか格好がつかない。もちろん必ずしもちゃんと踊れなくても総踊りに参加してもいいのかもしれないけれど、やはりある程度の心得を必要としそうなところがあるような気がする。同じアホなら踊らにゃソンソン、と言われたって、ハードルが高いのだから見ているより無いというのが、実際のところなのではなかろうか。
 また、映画の中では、ダンスというものについて、やはり本場の東京でなければならないというような主人公の思いがあったようなのだが、東京が本場であればある程、田舎でいる方が目立つことにおいては有利なのではなかろうかとも思った。激戦だから鍛えられるというような面は確かにあるだろうにせよ、例えば高校野球のように、出場校の少ない県の方が、比較的予選は有利である。もちろん徳島には予選すら存在しないということを言いたいのかもしれないが、そういう中にあるからこそハングリー精神がかえって育まれるということは無いのだろうか。それに言っちゃあなんだが、実際にものすごく上手いダンスに見えないところがこの映画の最大の痛さなのかもしれないと思った。最近の高校生ダンス・コンテストのようなもの(実際にちゃんと見たことは無いのだけど)を見ていると、本当にすごい人達がたくさんいるらしいことが分かっているので、映画のようなプロフェッショナルな所で、そのレベルに達してないように見えるというのは、そもそもの問題なのではなかろうか。
 お話としてはそれまで。それにしてもなんでこの映画を借りてしまったのか。そのきっかけが何だったのか。自分自信のミステリーは深まるばかりだ。
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少子化は若い世代が子供を作らなくなったせい?

2012-08-17 | culture

 結婚してもなかなか子供の授からない夫婦というのはそれなりに多い。若い場合は多少の時間的余裕もあるのだろうが、そうでない場合もあり、ただでさえ親戚などの圧力もあるだろうし、ご本人たちは大変なことだろうと思う。
 実際に子供が欲しいと思いながら子供が授からないカップルの割合はどれくらいだと思いますか? 僕はこれを聞いて少なからず驚いたのだが、なんと6組に1組の割合なのだとか。これは欲しくない場合を除いている数字だから、まさに驚くべきことではあるまいか。
 理由はいろいろある。
 第一は晩婚化である。これは女性の社会進出と比例するし、高学歴化とも当然比例する。先進国といわれる国は、押し並べてこの傾向にある。これを何とかしようにも、どうしようもあるまい。
 第二は、その結果に過ぎないが、女性の高齢での出産という問題である。さらにそうなってしまうと、卵子老化という人が増えて絶対的に自然の状態での妊娠が困難になるそうだ。
 卵子老化という言葉を聞くと、ずいぶんショッキングだし、本当に老化した女性を連想するかもしれないが、二十代でも卵子老化は進んでいるし、三十代を過ぎた時点でも、二十代よりも数段妊娠しなくなるのが普通らしい。三十代後半から四十代に差し掛かると、1%も妊娠しないというような状態になっている人もいるらしい。個人差があるとはいえ、そんな話はあんまり聞いたことが無いように感じる。
 さらに当たり前だが、妊娠しない原因の半分は男性の側にある。女性だけが検査をしたところで問題解決になりえないということだ。そこのところは偏見もあり、男性が受診したり検査したりするケースはごく稀なことだろう。
 第三は、今説明したことと被るが、社会的認知のなさである。ある研究だと、日本は特に世界的にこの認知が最低で、そのような社会的無知が妊娠自体を阻んでいる可能性が高いらしい。何を大げさな、と感じる人もあるだろうが、教育で卵子老化の実態を教えないばかりか、報道などで取り上げる機会もほとんどないのだという。結果的に家族や家庭やパートナー同士でこの問題を取り上げて語る機会のあると答える日本人の割合は、国際比較で断トツの最下位である。
 なんでも先進外国と比較するの左翼的で好きではないが、フランスなどは二十代カップルが一緒に産婦人科に受信することが当然だし(男性専用の受診科まである)、街中の声を拾っても、この問題を知らない人は皆無である。もちろん保険適用の違いなどにも原因はありそうだけど、基本的には少子化問題についての国民意識や国の取り組みの違いが、このような悲劇的とも言っていい違いを生んでいるものと思われる。
 もちろん一番の問題は国民性ということもある。子供をもうけるかどうかというのは個人に帰するという考えは、間違っているとは言い切れない。国がみないで問題ないという考えがあってもいいだろう。しかしながらそのような考えの根底に、若者に対する、弱者に対する偏見が生まれるということも、また起こりがちなことであるように思う。
 極端に少子化が進むお隣の韓国もそうなのだが(おそらく日本に似ている社会性が背景にあるせいだろう)、このような問題が放置されるということは、もう少し考えていいことのように思える。システムがどうだという前に、一般的に話題にすらせずに、個別の夫婦を指して問題視しても何の解決にもならないということだ。そもそも問題の原因が間違っているにすぎないからだ。
 これは日本の女性の働く環境に、問題が収斂することになるかもしれない。いや、実際は女性だけでなく労働環境そのものともいえるのだが、女性問題や家庭問題という見方では、妊娠や少子化を解決するような道筋は見いだせないことだろう。
 繰り返すが、それでいいという社会や世論なら仕方があるまい。しかし、それは単なる無知だとしたらどうだろう。
 もっと実態を問題視し、少なくとも世論で議論がなされる環境になる程度には、認知度を上げる必要があるだろう。要は日本らしい考えを作ればいいということで、考えも無いという異常性を何とかしようというだけのことなのではあるまいか。
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近道は避けるべきか   Short cut

2012-08-16 | 映画

Short cut/三谷幸喜監督

 長回しでおそらくノーカットで全編を撮影している異色ドラマ。舞台劇をロケで撮ったということになるだろうか。移動して回っているので、ドキュメンタリー・タッチとも言えそうだが、実際のセリフ回しは舞台のそれという感じの喋りまくりなので、演劇を見ている感覚の方が強いかもしれない。よくまあ科白を全部覚えたものだなあ、などと感心してしまう訳だが、舞台では無いので一度きりというのが、何となくもったいないような気がしないでは無かった。
 倦怠期の夫婦というかほとんど離婚の危機にある夫婦が、葬式だか法事だかの帰り車がエンコして仕方なく山道の近道から帰ろうということになって、道々さまざまな喧嘩をやりながら歩く姿を延々と撮影しているという感じ。まあ、そうではあるが次々にいろいろなことが起こって飽きさせないばかりか、さまざまな笑いを楽しめるという仕掛けである。主演の二人の演技がさすがだなということと、あえてこのような手法をとったという緊張感が伝わってきて、それなりに長い作品だけれどそんなに飽きることなく観ることが出来るのではなかろうか。個人的には中井貴一の三枚目ぶりが板についている感じがして、この設定の面白さで役者人生が伸びたのではなかろうかという気がした。
 喧嘩そのものは外野から観る分には楽しいのだけど、それなりに身につまされる内容も使われている。僕自身はこんなような喧嘩をした覚えは無いはずなんだけど、こんなことは起こりうる事のようにも思えて、なんともくすぐったいような感覚も覚えた。少なくともこんなことにならないようにしなければ、とても身がもちそうにない。
 特に今更ながらに自分の妻の意外な面や知らなかった物事に新鮮さを覚えるというような場面が多かったように見えたが、長年連れ添って知らない事なんて無いように思えていたものがまだまだ発見があるというのは、実はあんがい普通のことじゃないか、などと思ったりした。女の方がそのように思うことは稀だろうけど、男の方がそのように思うことは普通だということだ。それだけ本性を見せないということも言えるし、このドラマのように、実は少しばかり興味を失ってしまって知らなかったということもあるだろう。もちろんそのことを指して女は怒ってしまうのだけど、そのようなすれ違いが致命的になってしまうことも、決して稀なことでは無いのだろう。そういうところがやはり身につまされて、やはり笑える訳だ。
 都会の人間と田舎の人間の対比においては、何となく違和感のあるものも無いでは無かったけれど、おおむねそのような差異があることが、生活の彩りになりうるということだ。みんな違ってみんないいわけである。しかしながら結局は、本当にこの道が近道だったかはかなり疑問で、遠回りだったからこそ発見できることもあるのではあるまいか。見終わってお互いにお疲れ様、という気分になるような、そういうドラマでありました。
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