カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

歩数をのばす野望

2007-07-31 | 散歩

 僕は散歩が好きなので、暇ができるとその辺をぶらぶらする。最初はダイエットという不純な動機で歩き出したのは正直なところだけれど、いつの間にか減らす目的だけで歩くということではなくなってしまった。とにかく歩いていろんなものを見るのが楽しいし、面白いことを考えられるのも嬉しい。あまり激しく汗をかくと不快だが、それなりに気分がよくなって爽快である。もちろん結果的に体が締まればそれは儲けモノという感じだ。
 どれだけ歩けるかというのも励みになるので、万歩計を眺めるのも楽しい。ちょっと前にF岡直前ブロ長のブログにウォーキング・スタイルの最新の万歩計を購入したことが書いてあって、密かに憧れていた。古い型の万歩計を愛好しているので、買い換えるのに躊躇するものがあったのだ。それに新しい機種は、ネットに接続して歩数の全国ランキングなども分かるらしい。今もっているものは二代目でその上まだ十分使えるのだが、この楽しげな誘惑にはどうしても抗えなかった。
 そういうわけで使い出して実は二週間ばかりになるのだけれど、張り切っていたのに最近のこの暑さに歩数が伸びない。気持ちもなんとなくなえてきてしまった。
 全国で一番歩く人は月に170万歩以上、一日平均6万歩も歩いているようだ。僕の歩くスピードでは一万歩歩くためには一時間半必要である。トップと肩を並べるためには一日9時間歩かなければならない計算になる。
 だいぶ前にあるイベントで40キロばかり歩いたことがあるが、そのときの歩数でさえ7万歩と少し、時間にして11時間ぐらいかかった。毎日6万という数字は、そういうことを考えても、ものすごく恐ろしくすごいことなのだ。
 憧れというより、これではすっかりやる気をなくしてしまった。全国にはそういう異常レベルの人たちが相当いるようである。多くは70歳代のお元気な人たちのようで、家族とどのような生活をしているものか不思議でならない。ランキングで500位以内に入るためには、仕事を犠牲にしなくては不可能なような気がする。
 まあそれでも気を取り直してランキング1000位以内をめざそうと密かに闘志を燃やすことにした。県別ランキングというのがあって、長崎県の参加者は現在のところ13人と少ないのだが、ここでも7位ぐらいが大きな目標である。
 ちなみに現在の位置は2367人中1758番。長崎では11位である。ものすごく下位だけど、月総数がランキングの目安なので、参加して二週間の僕はまだまだ正式ではないのだ。どんどん順位を上げていくということでは、なかなかスリリングな闘志がわいてくるものと思われる。
 幸い夏越では強制的に歩かされる。過去の記録を見ても2万歩歩く日も少なくないようだ。炎天下の中よくやるもんだと思うが、どおりで毎回疲れると思った。この数日巻き返して全国に躍り出るチャンスである。全国のウォーキングファンの皆さん。僕の登場におののくがいい。
 それにしても仕事サボって参加するからできることで、やはり仕事しながらという課題は残っている。画板のようなものに教科書を広げて、歩きながら勉強する人を見たことがある。あれはあれで楽しそうだった。仕事もそういうスタイルを築ければいいのだけど…。今の仕事を辞めて、なんか歩きながらできる仕事はないだろうか。
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ちょっと先行き不安

2007-07-31 | 雑記

 忙しいんだか何なんだかよく分からないような日で、正直にだらけた時間もあって自己嫌悪に陥る日だった。まあ、こんな日もあるわけだが、できればないほうがいい。先にある忙しさの恐怖で足がすくんでしまったのだろうか。なんていうより、気持ちの方が中途半端なのかもしれない。やることが順調に片付いていたら、なんでもない日常であったに違いない。全部精神的なものなのだ。
 何をしたいとか明確な目標があると事は進めやすいけれど、どうしなくてはというものは精神的な縛りになるような感じがする。具体的じゃなく、ちゃんとしなくちゃというようなものが一番タチが悪くて、どうすればちゃんとしているのかというものをはっきりさせなければならない。例えば締め切りであるとか、どの程度の精度であるとか、具体化して目標を定めておく。できれば逆算のスケジュールなんかを決めておいて、作業の進み具合が確認できるようにしておくと都合がいい。今日はどの程度までという目安が、励みになるのである。
 今日はどの程度まで済ませるべきかがよく分からないらしい。夏越があけてどの程度ならいいのかというのが明確でないのだろう。そのときにどのような仕事が来るのかも、なんとなくしか分からない。そういう不安が手元を狂わせてしまうのかもしれない。
 まあ、分かっていたはずだが、原因も分かった。今考えても仕方がないのなら、考えてもしょうがない。一時忘れて目先のことをすればいいのかもしれない。勝負はもう少し先らしい。それが分かっただけでも良しとしておこう。
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意外とあっさり感

2007-07-30 | 時事
それにしてもおおかたの予想通りの選挙結果だった。これだけ予想が当たった選挙って初めてではないだろうか。だいたいマスコミは大げさなので、ものすごいことが起こりそうだと煽るものだけれど、そのあおり以上の結果になったような感じである。選挙といえば、どうせ何にも変わらないという絶望だけの体験しかしたことがなかったので、かえって拍子抜けしてしまう。これは勝ったほうも負けた方も感じていることであろう。もちろんこれでもたぶん何も変わらない(細川内閣なんて国民の70パーセントが支持しているのに崩壊した。政治は国民の支持で行われている営利ではないのである)のだろうけれど、以前の民衆とは違う民衆が誕生したような気がしないではない。日本という国は、何か内容的に変化している可能性がある。よりバカになった(いや、昔の人もそれなりにバカだけれど、深く考えていないという意味である)というか、単純化していることは日々感じていたけれど、子供が大衆化したのかもしれない。いや、成長できない何かの要因があるのではないか。今の若い世代がどうだというより、僕より上の世代がおかしいのではないか。大人のクセにやたらに幼い。マスコミに簡単に踊らされている世代は、恐らく投票に行った大多数の良識ある中年層以上の人たちなのだ。結局自己中心の若い世代が、政治でムーブメントなんておこすはずがないじゃないか。保守派といわれる人たちに何があったのか。保守ってムードに弱いのだろうか。このあたりのことは、いろいろ分析する人が現れるだろう。表面的なコメンテーターはパスして、このあたりに目をつける人に要注目である。
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望まれる機会平等社会

2007-07-30 | 雑記
 子供とプールにいった。公営のプールなので、昼の休憩時間というものがある。こういうルールを決めたがる姿勢はバカそのものだと思うが、言っても仕方がない。バカに馬鹿といっても始まらないのだ。そういうことで強制的に昼飯を食うことになって休憩する。
 子供がアイスクリームを食べたいというので百円持って並ぶ。長蛇の列とまではいかないけれど十数人は並んでいた。こういうのも休憩時間を決めるからである。まあ、それはいい。
 売店のアルバイトらしいいかにもなれないまどろっこしい動きの女の子のせいなのかどうかは判別しにくいが、遅々として順番がまわってこない。子供が多いので、選択の判断がむつかしいらしい。10分ぐらいしてやっと順番がまわってくる。直近に「ちゃんと選んでおけよ(注文を決めておけ)」といってあったが、子供はほんの少し躊躇したようす。その隙に後ろに並んでいたおばさんがいきなり口頭で注文を始めた。「なんじゃ」と思って振り向くと、そのまま前につんのめってきて一万円札を差し出した。こういう売店なので一万円札の処理に時間がかかる。横で子供が「僕が先だったのに」としきりに僕に苦情を言うが、じゃあ100円置いていこう、と提案しても、それは駄目なのだそうだ。ウチの子達はこういうところが融通が利かないというか、ひどくまじめなのである。しかしながら一万円の処理に頭がいっぱいの店頭の女の子は、子供の百円を受け付けてくれない。手に取ったままのアイスは、暑さで容器の回りがすっかり溶けてしまった。
 こういう列で並ぶというのは非常にむつかしい行動だと思う。
 先日つれあいがビデオ店のレジで並んでいたら、自分の前までは西洋方式(最近のキャッシュカードの列のような)で順番を待っていたのに、いきなり無視して空いたところにすばやくおじさんが割り込んできて(そういう形式で並ぶことを知らないらしかった)一気に列が崩壊したそうだ。結局一番最後に順番が回ってきたという。
 なんというか、こういう経験は僕の日常でもある。僕はこういう経験をさせられるために生まれてきたのではないかと思うほどだ。そのたびに殺人事件をおこしたくなる衝動にかられるが、今までのところかろうじて実行には至っていない。
 確かに並ぶことも苦痛には違いないが、並んで順番がまわってくることは喜びでもある。しかし、正当に順番がまわらない社会というものが現実なのである。競争社会自体を否定するつもりは毛頭無いし、競争に負けるということにもむしろ僕は寛大な方である。競争ということなら、それはそれでいいのである。しかし競争ではないにもかかわらず、機会の平等が保障されない順番待ちということに関しては、気持ちを寛大に持つことができないだけの話なのだ。子供の頃よりもだいぶましにはなってきたけれど、いまだに僕の順番は後回しにされるという暗黙の決まりにはかわりが無いようである。そういう社会ルールがあるのであれば受け入れよう。しかし、そんなルールは聞いていない。受け入れようがないではないか。
 僕はちょっとの間中国で暮らしたことがあるけれど、あの国に二度といかなくていいと思うのは、並ぶマナーがなっていないからである。弱肉強食の世界で、強いものだけがチケットをゲットできる。駅のチケット売り場ではちゃんと並ばない人は駅員に竹刀で殴られるのだが、それにもかかわらず、その竹刀をかいくぐってでもチケットを求める人が、窓口に群がって買うシステムになっていた。数限りない敗北を繰り返し、自分に鬼になる覚悟を決めて挑まなければならない精神的な情けなさは、二度と体験したくない行動だった。僕は既になんども魂を悪魔に売り払った。もうまともに死ぬことなど不可能だろう。
 日本は格差社会がどうだという人が多いようだけれど、機会の平等という意味では、整列こそ問題にするべきではないかと日々思っているぐらいである。それが平等になりさえすれば、格差などというのは瑣末なことなのではないだろうか。
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東のほうに氷をとりに行く

2007-07-29 | 雑記
 そんなに深酒をしたわけではないけれど、睡眠時間は短くなった。朝から炎天下で、体力が消耗する。それと寝不足はかなりつらい。つらいとテンションがあがって口は回るが手足がついていかない。僕がよくしゃべるときは、あんがい疲れているせいかもしれない。いや、もちろん本当に絶望的な疲れのときはしゃべることはできない。電球が切れる前に明るくなるような状態なのかもしれないと思った。
 行事のために氷を取りにいくが、製氷屋の側が、例の保険金殺人の容疑者の家だという。ベンツでなく軽自動車が停まっていた。Y光会長の話なので微妙ではあるが、変なことはよく知っている人なのでフムフムと思って眺める。立派といえば立派なお宅である。特に感想は無い。
 帰ってそういう話をしていると、このまちもすっかり全国区の有名なまちになったと誰かが言っていた。まあ、そういう喜びの声もあるのかもしれない。これより前に全国的な話題といったら火事でお年寄りが死んだことぐらいかもしれない。有名になるには事件の発覚が手っ取り早いには違いない。いいことなんて報道で売れないお話という気もするし、たまたまなんだから仕方の無いことである。
 そういえば小長井の殺人事件のときの容疑者が、和歌山の事件の感想を、私みたいな人がいると思ったらしいという話も聞いたことがある。日本では年間二万人ほど行方が分からなくなる(多くの人は後で見つかるにしろ)というし、千人以上の人が身元のわからない不審な死に方をしているということも言われる。まとめてみるとたいした数だし、そのほとんどは事故などで死んでいるだろうことはそうなのだろうけれど、中には逃げ切る殺人者もいることだろうと思う。
 しかしながら、保険金殺人などは海外でも多くて、特徴として、やはり何度も不審な未遂事件なども繰り返すらしい。一度味をしめるとやめられなくなるのかもしれない。変な言い方だが、一度成功してしまったがために繰り返してしまうのだろう。ギャンブルもそういう側面があるらしいし、負の成功神話が中毒的な連鎖を生むものだろう。泥棒や何かの犯罪も、最初から失敗するような人は、続かないものなのではないか。こういう才能に目覚めてしまわないように、摘発率が高まることは最大の抑止力になると考えられる。
 保険金殺人は、警察を切り抜けても保険会社がしつこく身元を洗うので、発覚しやすいという話もある。なんだか情けない話ではあるが、リスクの大きい殺人であるには違いない。殺そうと思ったら、できるだけ関係を断ち切ってしまうのがリスクが少ない。通り魔などが見つかりにくいのは、被害者との関連が無いからである。
 しかしながら、殺そうなどと思う人間が身近でないというのはかなり異常であって、殺意を抱くほど身近でないとなかなか実行などしないのかもしれない。人間が殺意を抱くことは比較的日常のことだと思うが、実行する人はやはり絶対数が少ないものと思われる。そういう才能が無い人が多いことを期待することにしよう。



追伸:失踪者数ということでは年間10万人を越えるらしい。皆さんちゃんと生きのびているのだろうか。
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ほんの少しだけの良識

2007-07-28 | 雑記
 総代さんのお宅に堤燈を配る。僕がまわらなければならないお宅は6件。記録にある電話番号の5件は違う家だったし、結果的に6件とも既に交代されていた。なんとなく古い資料だとは思っていたが、これほど使えないものだとは…。
 内一件はつかまるにはつかまったけれど、総代さんを代わったことは記憶にあるが、誰に代わったかすら忘れてしまったとのこと。思わず「何じゃこりゃーッ」と、ジーパン刑事になりそうになった。年配の人のおっしゃることで仕方の無い面もあるけれど、本当に愕然としてしまう。
 そういえば子供といったポケモンの映画でも「何じゃこりゃー」は受けていて、世代を超えるせりふなのかもしれないとも思った(これは見てみなければ分からん話ですな、すまない)。
 どうしても見つからないところは、電話ではラチがあかないので、ご近所の聞き取り調査。まるで探偵である。実質事務担当をしているお宅を紹介してもらって訪問する。
 自己紹介して説明しながらよく見ると同級生の人だった。ここが実家だったのね。
 丁寧に敬語を使って話していたので、改めて砕けた話し方になりにくい。お互い敬語のまま近況報告したりしてなんだか可笑しかった。そういえば誰彼の子供は何年生だとか、こども世代がだいたい近いということも分かった。世代というのは、こういうつながり方もあるらしい。
 考えてみれば人間というのはどこにでも住むことはできるのだけれど、ある程度の地域の基盤というものもある。子供の頃から変わらず住んでいる人たちというのも、変わらずコミュニティを維持しているものなのかもしれない。こういうものは保守的なものの元凶みたいに思われていることもあるようだけれど、むしろそういう定着というものは、地域の健全性の表れのような気がしないではない。人との出会いや仕事上の問題で移動せざるを得ない場合も多いこととは思うものの、移動せずにいられるありがたさというものも同時に感じるものである。それはそれでわずらわしい面も確かにあるけれど、すばらしいことなのかもしれないとも思うようになってしまった。僕自身も枯れてきたのかもしれない。
 さて、それでも最終的には一件だけどうしても探し出すことができなかった。仕切りなおしである。こんなもの配ることにたいした意味を見出すことなどできないのだけれど、簡単なことなのでやれといわれる部会長の言葉が頭に残っている。はっきり言ってかなり恨めしい気持ちにはなるのだが、今回まわったある一件からは、「よく回ってきてくださった」といわれたのであった。僕の行き場の無い気持ちも、実はその一言だけで何とか維持できている。もともと何のためになるものかという問題ではないのが祭りである。神様を祭り上げてはいるけれども、人間の所作として、いわば習性のようなものが祭りなのではないかとも思うのである。いづれにしてももう少し、不思議なものでつらいけれどそれなりに楽しいものである。
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平和度が向上した

2007-07-27 | 時事
 夏越と仕事でなんだかわけが分からなくなってきた。7月中に済ませなければならない仕事もあるようだけど、物理的にもう不可能である。仕方ないので不可能のお断りの相談が多くなる。これは結果的に二度手間で、仕事が増えることと同意である。段取りをくみなおし、この期間の欠席の埋め合わせの代わりに、新たな仕事の引き受けなんかも発生する。忙しいことで余分な仕事が増えていくのである。

 情報的にも少し浦島状態にも陥っていく。高校野球は県の代表が決まり、母校以外が勝つといいなあと思っていたのに母校が代表になってしまった。非常に残念である。これで寄付のお願いなどの手紙であったり、変な勧誘が来たりするのである。お金がかかるのは分かるけれど、勝手に盛り上がってもらいたいものである。
 こう書くと天邪鬼に聞こえる人もいるかもしれないけれど、僕は体育会系の人間なので、他のスポーツの発展のためにも野球部が負けることが好ましいのである。せっかく苦労して高総体などで立派な成績を残したり、県の代表になったとしても、野球部の勝利がすべての栄光をかっさらってしまう。中には全国で何位とかかなり上位の成績があっても、甲子園一回戦負けのニュースより扱いが小さい。僕ら野球部以外の体育部は、一所懸命母校野球部の対戦相手を応援したものである。今でもたぶんそうなのではないだろうか。

 サッカーは日本代表が負けたらしい。まあ、今回はベトナムが勝つといいなあと思っていたので、それなりに残念だが、それはそれでいい。
 決勝は中東同士ということで、盛り上がってほしいものだ。テロが起こったりして大変なようだが、中東がサッカーに熱中するのは似合っていると思う。彼らは熱狂的なので、観ていてほほえましい。拳銃をバンバン撃ったりして、嬉しがり方も非常に楽しい。どちらかが結果的には負けることになるが、負けて悔しがる姿もなかなか楽しい。大げさな人たちは試合をみるより見ていて楽しい。僕はフランス代表が負けたときの民衆の悔しがり方が面白くて、しばらくそういう表情を集めた写真を持ち歩いていたほどである。
 人間の感情を揺さぶるサッカーという熱狂が楽しいのである。日本はもう少し盛り上がらないところでがんばって、希望の光は他国に譲ろうではないか。

 保険金殺人なんかもあったとか。割りに近くなので身近な知り合いも多いらしい。見たことあるという話や、話したことがあるという話が飛び交っている。それだけ有名な人だったのだろうか。
 こういう事件が身近に起こったので、びっくりしたり興奮したりする気持ちはよく理解できる。しかしながらだからといって物騒で怖いという意見には同情できない。めったにないことだから、確率的にひとつ身近に事件が発覚したことで、これからしばらくはこういう事件が起こりにくくなった、ということになるのではないか。むしろ隠れている状態が怖いのであって、これで少し身近な世界が平和になったという気がして安堵している。少なくとも悪人(らしい人)が数人捕まったので、平和度がかなりの確率で向上したに違いない。平和そうな状態が一番怖いのであって、一度こういうものが表ざたになることで、今より将来が本当の平穏でいられる気がする。まあ、一時の安らぎなのかもしれないが…。
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カジノ・ロワイヤル

2007-07-26 | 映画
007・カジノ・ロワイヤル/マーティン・キャンベル監督
 いろいろな意味で斬新な感じがする。もちろんそれは、ジェームス・ボンドなのである。青い目で金髪。バイオレンスも血なまぐさい。翌日になっても顔に傷跡が残っているようなリアル表現もある。強がりだって切羽詰っている。ダンディのようで、まだまだ青く、女にのめりこむ純情さも見られる。しかししかし、実にかっこいい。僕のボンド像は、いっぺんにダニエル・クレイグ一色になってしまった。少なくともこんなに共感の持てるダメ男の似合う二枚目も少ないのではないか。
 賛否あるのはシリーズものの常で、以前との比較でイメージがどうのという意見が分かれるのは仕方のないことだ。もちろんそういう見方をして面白いということがなによりである。僕は水野晴郎のように熱心な007ファンなのではないので、特に思い入れが深いということではないけれど、子供の頃から親しんだ007という思い入れぐらいは持っているようだ。ちなみに水野はゼロゼロナナといっていたような記憶があるが、記憶違いかもしれない。もしそうなら、ファンとしてダブルオーセブンといって欲しい。さらに「銀河鉄道999」も本来はトリプルナインというべきではないだろうか。
 この映画の構成がまた実に凝っている。始まりからのスピード感で一気に度肝を抜いて、中だるみのような甘いロマンスから終盤への人間成長まで、何本かの映画を観たようなまとまりのなさまで感じさせるが、いや、それでも作品としてよくできている。ジェームス・ボンドが作られていくというか、誕生するにはこれだけの最低のドラマ無しではありえないのだろうと思うのである。終わってからのカタルシスで、新たな時代が来たことを観客は悟ることになる。
 以前は一級のアクション映画の王道であったが、類似作が次々に作られ、ハリウッドのど派手路線に影が薄くなりつつあったようにも思う。近年は少し盛り返しては来たものの、なんとなくB級感の匂いのするシリーズという感じも漂いだし始めていた。まじめに観れば観るだけ笑いがこみ上げてくる。まあ、007だからな、というか、現代人が見るとこうなってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。そういう諦めの気持ちさえ芽生えだしていたのではないだろうか。それがどうだというのか。今回の堂々の表舞台に躍り出た質感の確かさは、シリーズ最高傑作の誕生であることの確信へと変わったのである。
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新任スタッフ紹介

2007-07-26 | 雑記

 死んだ前任の光君(パグだった)の後釜に、新しい精神衛生課長がやってきました。しかし、まだ若すぎて巡回業務は無理のようです。
 名前の由来はお母さんが「なつ(漢字なのかは不明)」さんなので、季節と音にちなんで「小夏」ちゃんに決定。コーギーとなにやら分からん種類のおとうさんとの間に生まれたということで、ずいぶん短足ぎみではある。そういうことで、もう少しで短足の「タン」ちゃんに決まりそうな危機に陥っていた。いくらなんでも何とかならないか心が痛んでいたのだが、無事に危機も乗り越え、「小夏ちゃん」で定着しそうであります。
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僕の支持政党

2007-07-26 | 雑記
 きっこのブログで紹介されていた政党との相性診断「えらぼーと」というヤツをためしてみる。僕の結果は以下の通り。

自民党 36%
民主党 32%
公明党 30%
共産党 26%
社民党 29%
国民新党 38%
新党日本 39%

 この結果をどう読むか。平均しているともいえるし、すべてにおしなべて低いともいえるのではないか。言おうと思えば比較的保守政党よりといえるのかも。しかし実のところ新聞の政治欄はほとんどパスするので、国民新党とか新党日本というのは知らない政党である。これは革新系なのか保守系なのか…。
 しかしながらこれで支持政党アリと考えるのはやはり無理がありそう。僕は基本的にアナーキストなのでこうなってしまうのかもしれない。それでも保守よりという感じは、ちょっと不快だ。政府転覆が夢なのに…。まあ、安倍さんは笑顔がかわいらしいので嫌いではない。あれだけみんなで支持していたくせに、ちょっとの間に裏切る国民が多いのには呆れてしまう。僕は文章を読むのが好きなので、安倍さんのけなげな文章も好きである。しかし自民党は一番嫌いな政党であろう。というか、あれは政党なのだろうか。
 いえ、本当は政治が生活に関係ないというのが理想なのだ。今だってそうなので、理想に近い社会で満足である。あれこれうるさいことは、みんな任せます。人の意見であれこれ変わる社会なんて信用できない。そんなの大きな声だから正しいといっているようなもんだ。正しいは大きい小さいに関係ない。そもそも正しいと断定する判断自体を怪しいと思うのが僕のフツーの感覚だ。こういう僕には政治はできない。だから無関心でなく、かかわらないのである。まあ、あそびなんで、ためしてみてはどうでしょう。
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焼けてヒリヒリ

2007-07-25 | 雑記
 恒例の大型設営日。朝5時半から起きて個人的な心の準備。前の晩にも酒を飲んだのでシャワーを浴びたりなど体調を整えなければならない。なにより朝からトイレを済ませておかないと、一日戦士としてはたらくことができないのである。僕の体の都合なので仕方がない。
 そうしてまずは地清祭の清払い。
 写真の記録がないので分かりにくいという話があったけれど、実は昨年も一昨年も写真を撮った覚えがある。僕自身も初めて担当した時は、事務局の資料を引っ張りまわして写真で確認した覚えがある。記録は毎年残っているのだけれど、探すのが手間なんだと思う。これだけのそれなりの歴史があるので、資料として残っていないものなど厳密にはないと思う。ほとんどの場合、読み取れるかどうかという問題に過ぎないのである。そして誰がやるという覚悟の問題。これがむつかしいが、核心であろう。
 ご神木を神社に(当然のように)準備してもらった年もあるし、お供え物の内容も例年と違うわけではない。はっきりいえることは毎年同じじゃないということ。僕は権威主義が嫌いなので、こういうさじ加減でどうにでもなることは真剣にはならない。
 お祭は神事が核だ、などと夏越の場合はよく言われることである。意味としては分からないではない部分もあるけれど、そういうことをいうこと自体が既に神事が核でない証拠であり自己矛盾であると僕は思う。はっきりとした一部の神事関係者の批判になるが、自分達がいいかげんだからそんなことを言われるまでに成り下がったのだろう。大切なら態度にあらわれる。担当の神官でさえ遅れ気味であらわれる程度の態度で、何が大切なものかといいたい。もちろん面と向かってはいいません。僕はそうやってこの祭りをバカにしているだけである。
 さて、本当は文章ほどは怒っていない。僕が怒るのはどうにかなると期待している問題だけで、どうにもならない問題は考えるのも時間のムダである。現状としてこれはこれでいいのだ。一部引退おめでとう。
 さて無事終了したので大やぐらの設営へと移動する。沿道の提灯設営なども同時進行となる。僕はどういうわけか設営部会に配属されたことが一度もなくて、以前まではドンのいた大やぐらに張り付いた経験もない。まさに最後の初体験。何をやるのかというと、作業の進行を見守るのである。
 結果からいうと、やはりこういう役割も必要ではあると理解はできた。誰かがここにいなければならないということであろう。実状では僕はそこにいた一人に過ぎない存在であってドンの代わりをしたわけではないが、そういう時代もあってよかったのではないかと遠い目をして思うことはできた。
 Kま副理事長が、それはそれで楽しかったのだという話をしていた。僕はよく喧嘩をしたほうだと思うが、面白くはなかったが、いい思い出になった。思い出だから面白いのかもしれないな、とも思う。既にノスタルジーとして寂しい気分に浸って炎天下の作業を見守った。
 それにしても本当に暑い。うだるような暑さの中で時々は作業のお手伝いもして、頭の中まで完全にうだってしまった。汗でべとべとどろどろ状態でもある。もう長時間我慢比べなのである。
 さて大やぐらの提灯の数は1189で「イイヤグラ」といわれている。だが、実際はそんなにたくさんの提灯の数ではないということも言われているらしい。事務局のY里さんから、この機会に数えてみては、といわれたので数えてみた。いや、小学生じゃないのでとても1000以上数える根気はない。目の前のやぐらをにらんで計算してみた。
 天辺に一個少し大きめの(ぼろい)提灯。以下3個から始まって24個までの段がある。それぞれ4面あるので3個の段が12個。4個の段が16個というように4個づつ提灯の数が増えていく。順番に24段の96個まで足して行くと分かるが、こたえは全部で1189個である。そんなにないという説のほうが都市伝説でありました。破損部分も見つけてちゃんと足されていることも確認したので間違いなく1189個ありました。やっぱり「良い櫓」だったんだ。偉い。
 ずっと駅前にたむろしているのも疲れたので、夕方からMもっちの手伝いに横断幕張りについていった。Mもっちは「どうせみんな見ないのではないか」と愚痴っていたけれど、あんがい多くの人が見るのではないかと僕は思っている。それにこういうものは気分である。ああ、夏越なんだな、という気分。行ってみようかなという気分。そういうものが風物詩であろう。一部危険な場所などもあったけれど、着々と横断幕をはってまわって、僕ももうすぐという気分を充填していったのであった。
 さて、やっと夜になってやっと焼き肉で大型設営の打ち上げとなった。ビールをぐあーっと飲んで延々とホルモンを口に運んで生肉やキムチを食べて面倒なのでビールジョッキで焼酎つくって飲んでうたた寝する人がでるまで飲んで夜がふけた。T永委員長以外の人も、みーんな陽に焼けて真っ赤な蛸星人になっていたのであった。
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夏休みの希望

2007-07-23 | 雑記
 下の子はまだだが、夏休みの季節になった。なったとはいえ、まだなんとなくぴんとこない。先週は出張もあってほとんど一週間家にいなかったので、家庭生活の変化がわからない。週末に家にいるのは普通の休日であるからで、子供の生活の変化なんてまったく違いが分からない。梅雨がどうなったのかも分からないし、涼しかった東京から、流石に暑い地元に戻ったということしか、認識できないでいるのである。真夏が来るとは聞いていたので、それはそれで仕方がない。同意したくないが逃げられないので仕方がないのである。
 子供とどこかに行きたいなあ、という気分になって、まずは調査である。つれあいに聞くのが早いのだけれど、直接聞いてみたいものである。しかしながらまずは僕のいきたいところと折衷してもらわなくてはならない。いや、子供が楽しめばいいんですよ。ものすごく楽しいといいんだけど…。
 子供の友人には裕福な家庭の子もいるようで、既にハワイで夏休みを済ませたという話も聞く。なんで夏休み前に勝手に休んじゃうんだろう、と思うが、親の都合であろう。しかし同じようにハワイにいける境遇ではない。家族で海外となると五島とか壱岐対馬だろうか。いや、橋が架かっていても海外なので、平戸や大島でも何とかならないか。あれこれ考えてみてはいたが、たいして行きたいということではないらしい。ふーん。
 遊園地はどうか、ということで事故もあったけれど上の子も修学旅行で行ったことのあるスペースワールドはどうだろう、と提案するがあえなく却下。グリーンランドは一瞬目の輝きが宿りそうになるが、すぐにその灯は消えてしまう。理由はよく分からない。おばけ屋敷次第ということなのかもしれない。
 最近下の子は魚獲りに興味があるようで、釣りをしたい様子だ。オシオシ、じゃあ家族で行くとなると皆の同意の取付である。つれあいに聞くともうゴカイを触るのは嫌だそうだ。僕だってゴカイが嫌いだからつれあいを頼っているのである。駄目なら仕方ないな、疑似餌とかオキアミで何とかなる方法がないものか。蛸引きも楽しそうだけれど、船を持っていない。最近T永委員長が船を持っているという情報をキャッチしたので、彼の都合のいい時に便乗できないか。しかし、蛸でなく魚がいいのだという。むつかしい年頃だ。
 海釣りは楽しいのだけれど、日中は暑いし、糸が絡まるのも不快だ。車もくさくなる。これは次善の策としておこう。それに釣りやキャンプは夏以外がいいと個人的には思う。
 ずばり、本当に一番行きたいところはどこだ、と聞くと、お隣まちの「わいわいプール」なんだとさ。上の子は中学生に上がったというのに、親とプールかよ。オレの時代より現代人は5年は遅れてるな。いや、そうじゃなくて、これはウチに限ったことだろう。内心かなり心配になるが、不健全というわけでもなかろう。子供がいつまでも子供というのはしあわせである。炎天下のプールはかなり気がひけるけれど、時間をつくることができるだろうか。日曜とか盆には行きたくないのだけれど、何しろ一番の希望である。内心海外(国内限定)からするとかなり安く上がってそういう意味では申し訳ない気持ちもないではないが、プールを目標に目先の業務に励むことにしよう。
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たっぷり汗をかいたよ

2007-07-22 | 雑記
 天正夢祭りオープニングの設営のため、朝から汗びっしょり。滝のような汗というが、自分の体からどんどん吹き出る汗に感心してしまう。朝だけど暑いという証拠だ。セミがジージー鳴いて騒然とするステージ周りで、黙々とテントやら机や椅子を運んでいる。はっきりした監督さんがいなくて、仕事がはかどった感じが薄いのが早期の疲労へとつながっていった。
 実はよく把握してなくて、メモの時間に現地に来ただけだったので、設営をするということさえよく知らなかった。前日に設営が済んでいると思っていたのだ。式典に参加するんだから襟付きの服装がよかったのかどうだか悩んだのはまったく無駄なことだった。スタッフは青いおそろいのTシャツを着ていたようで、特にほしくなかったので、買わされるのではないかというひそかな恐怖感だけはあった。
 さて、開会の式典なのだが、特に何の関連があるという統一感が無くて驚いた。まあ、それはいい。某航空会社の添乗員(なのかな)のチアリーディングというか踊りがすばらしくて、そのせいでかえって浮いていたのが可愛そうだった。躍動感のある立派な動きなのに、客は保育園の児童とお年寄りと設営スタッフと主催関係者だけなのだ。しかしながら健康的な色気というのは自己矛盾があるなあとも思うわけで、もっといかがわしいところで披露するのも逆にかわいそうなのではあるが…。
 この催しの件についての怒りのコメントはK村君に譲るとして、ついでに夏越のほうも行政主導でやってくんないかな、などと不謹慎な僕が思っていたのは正直な感想である。これだけ動員をかけられるし、回りだってあきらめて同意するし動きやすい。何しろ大変ではあるにせよ、実力があってよろしい。市民も改めて認めることだろう。実は正論というかまっとう過ぎてそうならないだけであろう。
 僕らは設営部隊で頑張るなんて理想だ。朝からけだるいという気分は無いではないが、主催者じゃなくてお手伝いでたっぷりと汗を流すのであれば、僕はあんまり不満が無い。自分のためにじゃなくて他人の為だから気持ちがいいのである。わがまちの発展のために頑張る気持ちには、天邪鬼の僕にはなれない気分なのである。自分の利益のために働くのはボランティア精神でないような気もする。仕事の上では、生活の糧のために普段は汗水流しているのである。無料で働くのであれば、他人のためがよろしい。年寄りになると口ばかりになるので、若いうちは他人のために汗を流すのがいいのである。もともと金を出して他人のことばかりしてきたので、何にも言うことはないし、主導権などさっぱりいらなくなった。自分のまちが隣より悪くてもちっとも堪えない。他人よりよいというのは相対的に分かりやすいだけで、つまらない優越感だと思う。お隣よりよければいいという考え方でしあわせになれるほど、単純な世界に住んでいないのである。
 あまりに汗をかいたので昼間からシャワーを浴びた。冷水にして体を冷やすと、なんともいえない気持ちのよい季節になった。汗をかくのはいいのだが、すぐに着替えられる環境だともっといいなあ、と思う。
 夏越なら汗でべっとりした体のまま10時間以上耐久戦を戦い抜き、睡眠さえろくに取れない。それでいてボロクソに身内から文句を言われるのである。せめて洗い流せる程度になれば、自ら参加する人も増えるはずだと思う。今は歴史が邪魔をしている。もう少し起源のわからないぐらいになれば、身近な祭りになることだろう。しかしながらそうなるのは、僕が生きている間のことではあるまい。石を渡すのみ、坦々と歩んでゆこう。
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新人とベテラン

2007-07-21 | 雑記
 東京に来て大変に涼しくて過ごしやすかったのだけれど、最終日だけは少し気温が上がった。会議の会場は一箇所だけではなくて、少しだけだが移動がある。その少しの移動で汗をかく。背広姿なので汗をかくと長い時間不快なままである。早く年を取って引退したいと切に思う。秩序を重んじる大人社会の人間の世界は住みにくいのである。

 僕は都市部に行くとあんまりタクシーには乗らないのだけれど、今回は二度ほどタクシーに乗った。その一度目はタクシーに乗って二日目だという新人さんだった。笑顔はすばらしいが、あらゆる場所はちっとも分からないなどという。それは困ったことだが、乗ってしまったものは仕方が無い。いや、そんな人でもつとまる仕事なのだろうか。
 東京のタクシーは、だいたいの場所に行くためのもので必ずしも目的地に着くための乗り物ではない。特に行き先が分からないときに乗っては駄目で、しっかり調べて案内する自信が無ければ乗れたものではなくなってしまった。ホテルなどに帰るのには使えるけれど、どこかにいくのには使えない乗り物である。
 さて、道がぜんぜん分からないといわれても、こちらも道なんて知らない。あせらせても仕方が無いと思ったのか、同乗の仲間が世話話を始めた。運転手さんはもともとの田舎はどこですか。と聞くと、「田舎はないのですよ」という。「生まれも育ちも東京なもので…」ということで、話が続かなくなってしまった。何でそんな人に僕らが道案内をしながら乗らなくてはならないのだろう。やはり新人さんということなのであろう。
 それにしても指示を無視して通行止めの道に入ったり、目的の建物の前の信号で再度地図を広げるなどして笑わせてくれるので、なかなか楽しい時間をすごすことができた。何でタクシーの運転手に転職したのか、聞く気にもなれなかった。彼の人生も大変には違いないとは思われる。これからも大変なことであろう。
 しかしながら知らないなりに何とかこちらが説明できるのも、道路標識のおかげである。東京なら初めての人でも運転しやすいまちなのであろう。他にも間違ったかもしれないのだけれど、通行止めで遠回りした分として150円負けてくれた。さて、その金額で正当なものなのかどうかは判断できなかった。
 タクシーばかりも笑ってはいられない。今回は山手線の反対の方向に乗ったりしてしまった。正確には乗り場を間違えたのである。3番乗り場じゃないほうだ、と自分でつぶやいて3番に歩いていた。何か考え事をしていたらしい。暗示をかけるのには否定文では駄目だという話を聞いたことがある。日本語は最後に否定するので、最初の文で行動を起こした時に修正しにくいのであろうと思われる。
 しかしながら間違えた分余分に電車に乗ったのに、料金は余分にかからない。個人の時間のロスこそ大きな損失であって、物体を移動させた燃料のロスは不問になる。多くの人はそんなことをしないので損失が計上されないのであって、電車に乗ることだけが目的の人には大変に得な制度であるようにも思われる。もちろん電車は遊園地で走っているわけではないのでこれでいいのであろう。田舎の僕には不思議なだけである。
 二度目のタクシーの運転手は自分でいくらかベテランだといっていた。行き先を言うと、二通りの行き方を僕らに提示した。どちらが早いという意味ではない。せっかくだから有名な場所でも見ていきますか、というニュアンスである。同乗の人がじゃあ、と選択したときに、ちょっとやられたな、とは思ったが、あえて同意した。結果的に新人さんの場合より千円ほど高かった。なるほどベテランなのであろう。しかし僕らを降ろすときにホテルの侵入禁止の場所から失敬して侵入してしまったようである。その分として60円負けてくれた。東京での運転というのは、やはり難しい行為なのかも分からない。
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どうして死んだのカラス君

2007-07-18 | 雑記
 出張前なので片付けることがたくさんある。S木さんのブログを見ると朝からやるべきことを書き出して実行しているんだとか。早く済ませた日は、汗を流しにジムにいくのだとか。えらいなあ。かっこいいです。
 まあ、僕も似たようなことはしていて、とりあえずこれだけはやっとかなくちゃな、というヤツを出勤の車の中であれこれ計画して、職場に着いたと同時にダーッと書き出す。まあ、今日はいろいろあるけれど限度があるので欲張らず10ばかり書き出してはみる。そうして片付いたら赤ペンでザクザク横線を入れる計画である。
いざ実行の段階になるとすぐに気づくがこれの前にやるべきこととか、これを人に頼む前にどれこれの準備とか、ひとつの項目が枝分かれして仕事を増やしていく。電話もかかってくる。午前中にやるべきことと思っていたことのひとつと、午後に二つの処理をして既に夕方になってしまう。一日って短いなあ。人生も短いという感じだ。もちろん細かく見ると、こちらから電話した件数は20件以上あったわけだし、その前にちょこちょこ調べたことなどもあるにはあった。郵便物などの処理も30件ぐらいは片付けた。こまごました苦情のような処理も四五件あったような感じもする。まあ、いつもどおりではあるけれど、途中で少し遊んだりもしたことは白状する。これは自分に情けないけれど、息抜きも必要といえば必要なので許容範囲として甘く採点する。しかし暑くて散歩はパスした。これは充実感がない。個人的にはやりたかったことだった。
 結局あわてて今週不可能になってしまったことをどうするかということで、延期のお願いをしたり、保留のボックスに振り分けたりした。片付いてはいないけれど、視界は開ける感じはしないではない。
 いつの間にか暗くなっていたのだが、急に電気がとんだ。
 廊下に出ると非常灯の明かり以外全部消えているようだ。懐中電灯をもってブレーカを見に行くが、どれもとんでいない。この近辺の停電かもしれない。周りに家は少ないが、外に出て目の届く範囲は見渡してみる。日が長くなっているので薄暗くなっている程度なのではっきりと確認できない。地元のスタッフが自宅に電話している。そっちは大丈夫という声は聞こえる。電力会社に電話するが停電はないという。うーむ、ウチだけか。
 メンテナンス会社に電話して対応を聞く。もう一度電力会社に確認せよという。確認するが同じことだ。電力会社もこちらに来るという。メンテナンスも来るというが、どれぐらいかかることか。
 外に原因があるのだろうと思ってウロウロしていると、門柱の側の引き込み電柱の下になにやら黒い物体がある。近づいてみるとカラスである。白目をむいて死んでいる。触ってみるとまだ温かい。死にたてホヤホヤであるようだ。さて、カラスが何かしたものか。
 引き込みの電柱の上のトランスには赤と白のロープが張ってあって入りと切のスイッチだとか言うことは聞いたことがあるようだ。電気はよく分からないけれど、操作すると何とかなるのではないか。よじ登って固定してあるロープを解いて、引っ張ってみる。ガチガチと音がして、まあ、なんともならない。これじゃないのかな、とあきらめて電柱を降りた。
 またメンテナンスの人から電話があって、やはりそのトランスのスイッチをもう一度操作してくれといわれる。停電も長くなっているのでいろいろと困ることも多くなってきた。先ほどやってみたけれど、もう一度やってみよう。宿直のスタッフが今度は自分がということでよじ登って行く。「今度は思いきっり引っ張ってみます」宣言し、赤のロープを引くと街灯に灯が点った。振り向くと建物の明かりが復活している。思わず「万歳」という気分になった。あちこち電話をかけなおして、復旧の喜びを分かち合う。電力が無いと生活はできないというのは実感できた。災害の元ではこういう感じが続くということなのであろう。こりゃ、大変である。
しかしながら、復旧したのはよかったけれど、カラス君は何をしていたんだろう。たぶんびっくりする暇も無く死んだことだろう。事務長はこの屍骸を農作業の現場で使えないか、しきりに思案している。内臓を出すと腐るのが遅れるだろうとか、ぶつぶつ言っている。まあ、仕事熱心である。
 トランスになんかあったということは、たぶんそうだったのだろう。ロープ操作は僕自身もしたわけで、何でそれで電力が普及しなかったのか、よく考えると釈然としないものである。そのように僕の仕事というものは、中途半端なのだということなのであろう。出張前にまた反省させられたのである。
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