カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

銭洗いで金持ちに!

2020-02-29 | 散歩
 今回の出張は、いつものようで、ちょっと意外、っていうかんじですかね。


 実は着いたのは川崎。僕には死んだおばさんがここに一時期住んでたことがあるせいか、二十年以上前に来たはずの街なんですよね。でもですね、来てみると、まったく覚えがないというか、豹変してたんですよ。



 こんな感じだったっけ~、って感じばっかり。まったく初体験と一緒ですよ。


 地図アプリ見ながら歩いてますが、まったく見覚えがないことだけは分かります。


 再開発といいますか、そういうことがあったのかもしれませんね。JR駅なんて、見たことないよ、という世界でした。


 まちの変貌ってダイナミックですね~。


 まあ、新しいからいいってもんでもないですけど、こういう活力が日本らしいとも思いますね。歴史が古いとヨーロッパみたいにこだわっちゃって、うまく開発できませんからね。個人の感情ですけど、僕は古いものを盾にして守る姿勢で暴力的なのが大嫌いなのです。何でも新しいのがいいと言ってるわけではありません。前に進むという要素の中に、こだわりを捨てる自由さが大切なんだと思うだけなんですけどね。まあ、川崎がそうなのかどうかまでは検証する力はないわけですが。


 JR駅デカくなったなあ。


 で、平塚で乗り換えていったところはどこでしょう?



 工事はしてるけど、この間来た時と変わらない雰囲気ですね。僕のブログ見てる人にはわかるかもですね。


 いざ、鎌倉なんですよ。


 最初行こうかと思ってた店は休みだったようで、結局開いててよかったというお蕎麦屋さんで昼食でした。もうガラガラで、時節柄とはいえ、そうなんだなと、思いました。 
 でもまあ、そばは極細で、可もなく不可もなく。


 さてさて、連れの人が行きたいと言っているから付き合う感じを装ってますが、僕もだんだんと楽しみになってきました。


 トンネル先だというけれど…。


 さらに坂道上っていきます。


 洞窟みたいな、ここですか!


 うわー、おもしろいですね。ここは、よくわからないんだけど、線香とかろうそくとか買って、儀式に従います。



 ここは銭洗(弁財天)神社というらしくて、お金を洗うと増えるというか、そういう願いを素直にやるところみたいですね。増えるのはいいけど、そういう発想が面白いというか、凄いですね。


 まあ、洗って、期待しましたけど。


 岩をくりぬいて、洞窟みたいな場所作って、いいところだなあ、と思いました。楽しいですね~。

 ほかにも水神宮さんなんかもありました。






 七福神さんなんかもいたらしいです。



 また、トンネルくぐってさようなら、です。



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別の選択も確かにあったけど

2020-02-28 | 掲示板

 僕は青年会議所という団体に所属していた時代があって、まあ、一通りその場所で長い時間を過ごした。この件に関してはとても一言で語ることができないので、最初から言うつもりはないが、今回は限定的な話である。
 先日この団体の後輩と話をしていて、大筋で言うと、要するに、忙しくてつらいということだった。うんうん、忙しいだろうね、確かに。だからね、青年会議所というのは、もう僕のような年齢の人には、できなくなってしまうんだよ。体力的にも物理的にも、もう無理なんだ。そういうやりたくないことをやってるから、若くてえらいゆえんなんだ。
 ということであるが、さらに、特に役を頼まれるのがつらくて、うまい断り方は無いものだろうか? という話だったかもしれない。
 うーむ、これはもう痛いほどよくわかる話だ。僕も断れるものならすべてのことを断りたいくらいの人間だから、青年会議所に限った話では無く、断り方は大いに知りたいくらいだ。しかし、そんなことを僕が知っているわけが無いじゃないか!
 人間断るのがそもそもつらい人とそうでない人が居るだけのことである。断るのがつらいから断れないのではなくて、断るべき時は断ることも必要だ、という話なのだろうか。
 しかしながら、出来そうなくせに断って株を下げてしまう人間というのは、ごまんと知っている。本人は知ったことではないと思っているだろうけど、人間としてダメなら、もうその社会では、ある意味でダメ人間であるだけのことである。まあ、それも生き方だけど。人間は何らかの役割を担って生きている。だから、その場でダメでも、別の何かを担えばいいだけのことではあるんだけど。
 そういうことではあるんだけど、そういうことも含めて経験なんだろうな、と思う。何のつらさも無く、そうして何にも考えないで生きていて、それでいったい何が楽しいというのだろうか。いつでも楽しいというのはいいことかもしれないが(そういう人が居るとして)、何かの先にある楽しさというのは、それはまた格別のものがある。失ってしまうものもあるのかもしれないが、失うつらさも知らないうちにわかりえるものでも無いだろう。
 聞かれたところで、僕にだって答えはない。ただしかし、人間というつながりのある社会的な生物においての根源的な悩みが、このつらさの中に隠されていることは確かだ。そのうえで判断したことに、後から理由をつけて結果をあれこれ言っても仕方がない。出来る出来ないという問題でなく、やるかやらないかの問題なのであろう。
 まあしかし、別の人生もあったかな、とは少し思う。それはかなわなかったことではあるけれど、それに僕にはできなかったことだけど、後悔のない人生が無いように、それはそれで諦めるよりない。結局その中で、自分自身が何を選択してきたか、責任から逃れることはできないということなんであろう。
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冷たく寒い港町で燃やされたこと   マンチェスター・バイ・ザ・シー

2020-02-27 | 映画

マンチェスター・バイ・ザ・シー/ケネス・ロナーガン監督

 気難しい男は、仕事は一応できるようだが、いい加減にしか人と付き合おうとせず、不機嫌に暮らしている。そういう中兄が病気で亡くなり、その息子の後見人として、故郷に戻って世話をすることになる。こどもはいるようだが、何か過去に問題があって離婚しているらしいことは示唆されている。そのような過去が、徐々に明らかにされていく展開である。
 預かっている甥っ子はアイスホッケー選手でもあり、バンドもやっており二人の女の子と掛け持ちで関係を持っている。父の残した船にも愛着があり、叔父が後見人としてボストンに連れ帰ることに反発している。以前に別れて暮らしている母親との関係も模索するが、何かしっくりするものが無い。
 気難しい男の謎は、中盤一気に明かされる。男は自分の不注意で、娘二人を亡くし、なおかつ妻との関係がずたずたになってしまっていたのだ。何に対しても暴力的にふるまい、トラブルばかり起こしている。彼は故郷であるマンチェスター・バイ・ザ・シーという町にいること自体で、自分自身の苦しみに耐えながら生きざるを得なかったのである。
 静かな演出と繰り返される暴力が治まらない様子が描かれる。説明は少ないが、その心情は理解できることだろう。しかしそうであっても、このような男の生き方そのものが、肯定できるかは疑問だ。悪かったのはこの男自身だが、そうしてそれは、取り返しのつかないことだが、再生に向けては、自分の心を開く以外になさそうだ。そのチャンスは何度もあるし、またそのために周りの人間は心を尽くすが、傷の深さに自分自身も戸惑うばかりという感じなのだった。まあ、仕方が無いことかもしれないし、情けないものかもしれない。下手に簡単に心が治ったというようなことになっても、それはそれで問題があるのかもしれない。
 静かで冷たく、しかし美しい北米の港町の風景が、何度も流れる。そういう自然に囲まれながら、人は営みを行っている。なかには深い悲しみとともに、風景になじまないものだっているのだろう。たとえそれが、自分の故郷であっても。
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長命なる昆虫の神秘

2020-02-26 | Science & nature

 問題です。:
  1. モンシロチョウ  2.カブトムシ  3.ミンミンゼミ 
 このうち一番長生きするのはどれでしょうか。

 これはあるテレビ番組でやっていた問題。さすがにほとんどの子供は正解したが、答えは3.のミンミンゼミ 約7年の寿命があると考えられている。1.モンシロチョウは数か月。カブトムシは一年程度だ。
 しかし疑問に思うだろうことは、主に僕らから上の世代かもしれない。こどものころにセミの寿命は一週間程度(実際は1月ほどらしいが)だから、むやみに殺生すると可哀そうだ、という理由で変な大人たちから叱られたりした。でもまあ僕ら子供でも、セミの成虫というのは特殊な時期で、餌も食わないで生殖のためだけに生きているほんの一時期を指すことくらい、後で図鑑などを調べて知っていたものである。そんなことも知らないバカな大人に叱られる不条理に耐えながら、それでもせっせとセミを捕まえては、ひもに結んだりしていじめた上に、無駄な殺生を繰り返して遊んだものである。罪深いのは確かで、僕らは決して極楽へは行けないことだろう。
 そういう意味で、昆虫の中でもたいへんに長命を誇るセミたちであるが(中には17年生きる奴などもいるらしい)、このセミたちより長く生きる昆虫もいるという。
 それがシロアリだそうで、何と50年生きるものがあるという。
 これも実は特殊なもので、白アリの巣には一匹だけ王がいるのだが、この王が50年ほど生きるらしい。女王もいるが、これは自分のクローンで何度でも再生することができるようだ。そうしてたくさんの子供たちも生む。
 ともかく、自分たちの王国のために社会性を作って生活しているシロアリが、結果的にしぶとく長生きをする(繁栄する)というのは、興味深いことである。
 しかしながら同時に、アリクイなどシロアリを専門に捕食する動物もそれなりにたくさんいる。たくさんいるから主食として捕食の対象になり、食われる対象であるからこそたくさん生まれてくる必要もあるのかもしれない。人間にとっては厄介な生き物かもしれないが、シロアリが支える社会というのは、自分たちだけでなく、何かシステムとして巨大なものなのではなかろうか。
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諦めたくても諦めない   殺人者の顔

2020-02-25 | 読書

殺人者の顔/ヘニング・マンケル著(創元推理文)

 スウェーデンの小さな町で、老夫婦が拷問の上に虐殺される痛ましい事件が起こる。老婆が死ぬ前に残した言葉は「外国の…」といっていたようだった。外国移民問題で国民世論が過熱する中で、この発言がマスコミに漏れて、騒ぎはこの殺人事件のみで済まないものへと展開していくのだった。
 スウェーデンの警察小説として、たいへんによく読まれているシリーズの第一作目だという。人口が890万人の国でシリーズ累計200万部を突破するほど読まれているという。日本の人口は14倍なので、単純計算だと2800万部ほど売れたのと同規模とも考えられる(凄い)。また英語はもちろん22ヵ国語に翻訳されているという。まあ、もちろんそういうわけで僕も手に取ったわけだが。
 主人公のヴァランダー刑事は、休暇で不在の署長代理をするくらいベテランでやり手でありながら、奥さんとは離婚したばかりで娘ともあまり良い関係ではない。ボケかかった父親との関係もかなり良くない。そのような不安定な私生活を抱えながら事件に追われて睡眠不足で疲れ切っており、酒をのむと個人的にひどく問題も起こしてしまう。ぶつけたり転んだり落ちたりして頻繁にケガをし、死にそうにもなる。なんとなく情けないのである。物語の後半になっても、主たる事件の解決の糸口さえ見つけられないように見える。ほとんど諦めかけるが、何度も何度も行ったり来たりしながら辛抱強く捜査を続けていく姿自体が、たいへんに痛ましいのである。
 そうではあるのだが、これが笑えないコメディめいた味わいであることも確かである。社会問題も絡んで、たいへんに難しく複雑なことになっているが、そういう中にあって、単なる正義感だけで表立った薄っぺらな考えに悩んでいるわけではない。そのことで失敗もするが、警察としてだけでなく、一人の人間として、たいへんに共感のできる苦闘をしていると感じられるのである。正直言って女々しく情けないところもあるが、そういう感情があって当然であるとも考えられる。とにかく精神的に寂しくなるし、つらくもなるし、焦りを抑えられない。しかし残虐に殺された老夫婦を殺した犯人は、何としても挙げてみたいのである。
 活劇もあるし重厚だし、何より読みだしたら文章のうまさに引き込まれてしまう。これ以降の作品もボツボツ手に取ってしまうかもしれないな、という予感に、今僕は囚われているのである。
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果てしない暴力の連鎖(ほとんどマゾ)   果てしなき渇き

2020-02-24 | 読書

果てしなき渇き/深町秋生著(宝島社文庫)

 読んでいて、あまり共感の得られる主人公ではない。少なくとも僕には。考え方があまりにも違う上に、暴力ばかり。会話のやり方も、なぜこういう言葉から始まるのか、今一つ訳が分からない。感情が先走る情動的な人間であるというのは分かるが、だからと言ってそれで世の中を渡っていけるほど甘い世界に生きていたのか。小説世界は、現実世界とは別物ではあるし、そういう世界観を小説で構築できさえすれば、それはそれでいい問題だというのは知っている。しかしながらその世界観としてのリアルが、どういうわけか読みながら体になじむのに時間がかかってしまったのである。
 行方の分からなくなった娘を探す元刑事の物語と、いじめにあっている青年の話が同時進行して語られるスタイルだ。時系列が異なっていて、どこかで交わることになるはずだとは思いながら読むわけだが、少し世界観が違うような気もする効果を生んでいる。もちろん最終的にはバイオレンスを通じて交わるが。
 先に書いたように、共感はまったくできないまでも、なぜか読み進んでしまうような強烈な流れを持つ小説である。最後まで主人公の思考には、何の共感も無かったにもかかわらず、強引に物語に引き込まれるということかもしれない。こんなことをしていて、さらに先が望めるとはとても考えられないのだが、しかし先に進んでいくのである。追い込まれた上に、さらに追い込むような展開があって、普通なら精神がその前にどうにかなりそうなものだが、強烈な暴力の上に成り立つ強烈な設定が、なるほど読むものをアッと言わせる力になっているのかもしれない。物語全体がこのようなもので良かったのかどうか、いまだに疑問はあるものの、途中にあるいじめられた少年の置かれた選択の場面には、確かに凄い選択だと感心してしまった。以前究極の選択というゲームが流行ったが、まさにそういう究極のゲームなのかもしれない。逃げられない中で、自分ならどうなるのだろう。
 ということで、読むのは不快を伴うが、なかなかに力のある作品である。普段はこういう小説は読んだりはしないが、こういう娯楽もあるんだということである。実は映画化されているものがなかなか借りられなかったので原作を手にしたのであるが、もう映画は観たくなくなってしまった。こういう設定を、映像で見るのはつらい気がする。僕は暴力は嫌いなのである。
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この戦いの大義はわからん   ローグ・ワン スターウォーズ

2020-02-23 | 映画

ローグ・ワン スターウォーズ/ギャレス・エドワーズ監督

 詳しいことは、どこかの解説を読んでもらうと助かるが、いわゆる本編といわれるお話のスピンオフというか、別の外伝であるらしい。初代のデス・スターという星自体が兵器になっているものの設計図を、関係者であったものと帝国に反旗を翻す集団が奪おうとする物語。ちょっと複雑な関係があって文章に書くのがめんどくさい。よく分からないながら眺め観ていると、それなりになんとなくは分かるような映画である。僕の場合は、なんか知らない人ばかり出るけど、どこかでハリソン・フォードが出てくるんだろう(まあ年なんで、実際は彼役の新しい俳優という意味だが)とばかり思いながら観ていたので、終わってからやっと違う話だと気が付いた。我ながら間抜けである。
 そういうわけで、スターウォーズの重厚的な物語にあって、その背景を構成する人々のお話なのである。ダースベイダーのような人は出てくるけど、だから背景の人たちはあんまり知らない。何かと関係していた人もいるかもしれないが、もうだいぶ昔のことで、その関連性を思い出せるほどには思い出せない。
 今回は親子の関係や、無理に抑圧されて反抗を感じている集団の人々が、レジスタンスとなっても、連携しながら抵抗していくさまが描かれる。まさにイスラム原理主義者たちが、列強の西洋文明の抑圧から解放されるために抵抗しているような感じなのだ。時代背景が変わることで、見る側にもいろいろな錯覚が呼び覚まされる。実際の帝国というのはナチスらしいとは思うが、ナチスは帝国ではないし、実際は西欧に反旗を翻した側だったはずだ。戦後にナチスのイメージは繰り返し刷り込みがなされたものの、孤立して戦っていたことには間違いあるまい。戦略も下手だったわけだし。
 ということなんだが、スターウォーズは複雑化した背景を細かく描こうとすると、どうしても単純に言って正義とは何かと疑問を抱かざるを得なくなる。帝国側が不条理に暴力的であるという強調ばかりで、真の目的はよく分からない。困っているから戦うという大義のようなものも、反乱軍には何か物足りないものを感じる。実際に民主的な判断をしようとしていたお偉いさんの判断は、まったくの間違いとして描かれていて、民主主義だから正義で正しいという演出ですらない。戦いには狡猾に敵を欺いて、結果的に勝ったから正義であるという、正義とは本来的には何の根拠もないことで、人々が戦っているように見える。それは結果的には人間のエゴに過ぎないが、まあ、それは戦争の本質でもあるのだろう。
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戦う男でありながら、平和の象徴とは誰か

2020-02-22 | culture

 ボスニア南部にあるモスタルという町の公園には、金ぴかの等身大のブルース・リーの銅像がある。もちろんブルース・リーはかの国でも大変に人気が高かったこともあるが、彼が民族統合の象徴であると考えられたからである。そうした理由には多少の説明が必要だと思われるが、おそらくということで解説を試みる。
 ブルース・リーは親の都合でアメリカ生まれであるが、香港に帰って子役を含めた俳優活動のキャリアを積んだ。さらに伝説的な師匠のもとで、カンフーも学んだ。その後またアメリカに渡ってハリウッドで成功を目指したが、日本人役のカトーという準主役として人気を博すまでには成功するが、主役に抜擢されることは無かった。ハリウッドのアクションスターに、武術を教えるなどして糊口をしのぎ、自らカンフーの脚本などを持ち込んで売り込むものの、主役は白人に奪われるなどしたのである。
 香港で制作された映画では爆発的なヒットを飛ばして絶大的な人気を誇り、やっとハリウッド資本の映画で主役として出演を果たすまでになる。しかしその公開前に、脳浮腫で突然死してしまった。本人は生前に夢を果たしたことを知らなかったが、アメリカ社会、ひいては世界的な主役として、アメリカの白人以外での初の偉業を成し遂げたのである。
 更にそのような成功を目指していたことは確かだが、それは香港であるとかアメリカであるとかいうようなアイディンティティを主張したものではなく、そのような目に見えない壁を乗り越えることを目的としているような思想を語ることがあった。それがボスニアで、宗教や民族を超えて融和できるという夢に通じるものであると捉えられたのであろう。
 ブルース・リーが香港で人気を博したきっかけは、日本に占領されていた中国人の鬱積を晴らすべく日本人と闘う設定がウケたのがきっかけだった。しかしながらハリウッドをはじめ世界的に名声を得たのち、アメリカでもっとも有名な日本人といわれるなど勘違いされつづけた。本人は亡くなっているのでどう考えているのか知りようがないけれど、それだけワールドワイドな人物だったことは間違いが無い。要するに、ボスニアで銅像としてまつられるにふさわしいことは、間違いないことなのである。
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演技も引き立つ塚本ワールド   斬、

2020-02-21 | 映画

斬、/塚本晋也監督

 江戸末期の農村が舞台。腕の立つ若い浪人侍杢之進(もくのしん)は、農家の手伝いをしながら暮らしていた。そこに果し合いのために流れてきた腕利きの澤村という侍が現れる。杢ノ進が農民の青年と剣の稽古をつけていた場面を見て腕を見込み、動乱の京へ一緒に行こうと誘いをかける。そういう中、浪人侍達が徒党を組んで農村そばにやってくるのだった。
 ほとんど山の中か田んぼのような風景の中、少ない登場人物の緊張感のあるやり取りが続く。農家の苦しい生活や、ちょっとした暴漢に襲われたらひとたまりもない状況は、非常に閉塞感のあるものだ。そういう中で、いかにこの若い侍が頼られているかということが見て取れる。お国というか、世の中のために剣を役立てるという侍の思いは確かにあろうが、それは同時にこの集落を見捨てることにもつながりかねない。しかし、この若い侍には、実に大きな問題を抱えていることが後半に明かされる。物語自体がグラグラ揺らいでいって、衝撃の結末となるわけだ。
 監督の塚本晋也自身が、重要な役として腕利き侍を演じている。このアクセントが非常に際立っていて、池松壮亮とのコントラストを見事にしている。ほとんど意地の張り合いのようなものだが、こうでなければこの物語は成り立たないだろう。蒼井優は妙に突っかかるものだと思われたが、これも伏線として効いている。そぎ落としてシンプルなスジながら、重厚な味わいを出しているのではなかろうか。まあ、楽しい映画というわけではないのだが。
 塚本監督作品は、そんなに見たわけではないが、何というか、偽濁音の多いウゲーっといった場面の多い作風と勝手に思っていた。実際そういうのを見たせいもあるが、あんまり偏見をもって見ない方がいいかもしれない。もちろん、そういう感じのものも無いではないのだが、比較的ホラー度の低いものになっている。だからと言ってまったく怖くないわけではなくて、何とも言えない後味の悪さが残るのである。まあ、だからいい作家ということなんだろうけれど。これもまぎれもない塚本ワールドで、好きな人にはたまらない世界観なのかもしれない。
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ペンに束縛される人生

2020-02-20 | HORROR

 文房具マニアというわけではないが、文房具は好きかもしれない。特に筆記具に関しては、というか、ボールペンが好きである。格別高価なものを持っているわけでもないし、あらゆる書き味を試したわけでもない。しかしボールペンを使って文字を書いているだけで、それなりに快感のある場合もあるような気がする。文字を走り書きさせて、そのペン先のインクが紙に乗る状態に、いい感じを抱くというか。特に近年のボールペンの書き味は進化を見せていて、各社の書き味というものはそれなりに違いながら、僕の子供のころのそれとは、明らかに美しさとインクのノリが違うのである。まあ、その分インクの減りが以前より激しいようだが。
 そういうわけでインクが減ると、替え芯を買うことになる。しかしながら、これに多少の問題がある。それというのも、普段は基本的に三色など多色のボールペンを持っているからである。ほぼ黒が基本で文字を書いているようで、当然黒の替え芯の頻度が圧倒的である。だから黒をたくさん買っているのはいいのだが、そうやって替え芯をしながら使用すると、別の色だって減ってくる。だからめったに替えない別の色だって、時々買わなければならない。そうするとまた、黒をたくさん買って調整して、そのボールペン自体を長く使うようになる。近年のボールペンは耐久性もそれなりに優れているのであるが、数年単位で使用すると、取っ手のラバーの部分が、経年にともなって傷んでくる。そうすると、なんとなく書き手である僕の方の、負担が増えるような気がする。飽きも来るというのはあるし、実は予備のボールペン自体も、いつも持っているのである。そういう予備も時々使わなければならないというような強迫観念のようなものがあって、電話を受けた場合の机に常備してあるペンや、ポケットの手帳に書き込むときのヤツとか、広めのノートにアイディアなどを展開させる時用とか、単に机の抽斗に入れてあるものとか、鞄に入れてペンを忘れている人に貸すためのヤツとか(僕は自分の今使っているペンがなくなると、不安になって仕方ないので、人にちょっとペンを貸す場合でも、その短時間を埋めるペンを持っていたいと思っているのである)、とにかくいろいろのペンの替え芯をそれなりにストックする必要が出てくる。そうすると替え芯は残っているのに、使っているペンのラバーが破損して、使いたくなくなるということが出てくる。そうすると、この替え芯のために、新たにまたこの破損した方のペンを買い替えなければならないということになるのである。
 要するに、そういう具合に無限のループにハマるような感覚というのが、ちょっとだけ嫌なのである。もっと自由に生きていきたいものだな、と、思うだけのことなんだけれど。
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古典を再構築するということ   オリエント急行殺人事件

2020-02-19 | 映画

オリエント急行殺人事件/ケネス・ブラナー監督

 あまりにも何度も翻訳されている古典的な名作ミステリ作品であるばかりか、映画はもちろんドラマで何度も制作され、モチーフとして作品化され続けている物語である。要するに筋を知らない人の方が稀だろう。そういう作品を、いわゆるシェイクスピア俳優(監督もするが)であるブラナーが手掛けたということである。これもおそらくだが、これからもクリスティ作品を古典として再発掘するという意思の表れだろう。多くの人が演じたポアロ役を自ら演じることで、何か世に問いたいところがあるのかもしれない。
 という前提がどうしても必要な作品になるが、要するに古びた作品をどう解釈しているかというのが第一にある。結論を言うと、実にオーソドックスに作られていて、意表はついていないが、まあ、確かに彼はもともとシェイクスピアだもんな、という感じだろうか。結局古典が好きなんだろう。そういう意味では、かなり頑固な作品かもしれない。
 そもそもこのお話は、僕ら日本人の目から見ると、人間中心主義的な傲慢さのある作風だと思う。知られている話なのにネタバレになるといけないので言えないが、お話の結論も、さらにそれに至る殺人の動機も同じようにそう思う。これが許されると主張しているところや、許されるために幾重にも仕掛けられている伏線もしかりである。日本の大岡越前なら、どう考えるだろうか。まあ、比較文化ではないし、それはいいだろう。
 お話の成立のための前提にある話なのだが、そもそも護衛を頼まれているにもかかわらず、ポアロが断ること自体で、僕にはたいへんに胡散臭さを感じる。これこそが西洋的な自己中心判断だからだ。自然に対峙してもなお、自己が先に来るのである。それは、本来は欺瞞だが、自己弁護のためには必要な儀式のようなものだ。お話はそれで面白くなるということになるのかもしれないが(多少の後ろめたさも含めて。いや、それは日本人的な感情かな)、結局は神の視点である。そう、実際にはメタ視力的な神の許しが必要なのだろう。そのための言い訳が、この物語には詰まっている。謎解きは、そのためのストーリーなのだ。
 一応は批判めいたことを書いたが、面白いとは思う。今後も期待もしている。知っている作品なのに楽しめるというのは、やはり力量があるからである。古典を再演出する力である。そういう自信そのものが、やはり西洋的な力の根源なのだろう。
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頭が悪いからこその生きる道

2020-02-18 | 境界線

 もともとひどく不器用である。手先で何かをするというようなことを、そもそもやらないし、苦手意識があるからだろう、やろうという気持ちが起きない。やる前から何か、うまくいかないような予感がする。実際にあまりうまくいったという記憶も薄い。
 手先が不器用なのは、頭が悪いせいである。それは明確に理由としてははっきりしている。脳の機能の第一は、体を動かすためだからである。考える力や記憶力などから、頭の良しあしを語る向きは多いとは思われるが、それはある種の訓練の方向の違いのようなものであって、もともとの頭の良さとは少し関係のないことかもしれない。それらの頭の良さは、後天的なもののようであるのに対して、手先の器用さというのは、ある程度先天的な出発点がありそうだからである。もちろん、後天的に伸びしろはありそうだが、そういう部分も、脳の機能としての伸びしろのためだろう。そういうところは、考える力などと、何ら変わりのないものであろう。
 しかしながら、この不器用さのおかげなのか、失敗しながら時間をかけてやることに対して、じわじわと喜びが芽生えることがあるのも確かである。器用な人がなんでもなくやり遂げられることが、僕にはひどく困難である。失敗もするし時間もかかる。まったく嫌になって放り出すということも無いではないが、しかしやってみると、どうこうするというような試行錯誤ばかりの話になる。簡単なことが、簡単にすまないのだから、勝手に複雑化してしまう。そういうところが、なんだか段々と面白く感じられることにつながっていったり、ある種の達成の喜びにもなったりするのではないかと考えられる。要するにのってくるようになると、楽しくなるのかもしれない。
 まあ、始める前から楽しい予感など無いのだから、苦痛点からの転換が必要なことは難点かもしれない。それなりに時間的にそれらに割ける余裕が無ければ、不器用には生きる道は無いのかもしれない。時間的余裕と延長戦というのは、楽しむには必要な要素なのかもしれない。
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伝説の武人たちの半生   グランド・マスター

2020-02-17 | 映画

グランド・マスター/ウォン・カーウェイ監督

 カンフーファンには伝説の人として知られる葉問(イップマン)の波乱の人生と、彼を取り巻くカンフー社会の達人たちの様々な人生を再現した物語。カンフーには様々な流派があり、それぞれに勢力をもちながら世代交代を重ねていた。そうした流れの中にあって、将来的には廃れてしまうのを恐れて、それぞれの流派の素晴らしさを取り入れながら、統一したほうが良いと考えている大家の派閥があった。凄まじく腕は立ちながら、そのようなカンフー界の政治的な輪の中に必ずしもいなかったイップマンだったのだが、才能に満ち頭角を現した腕を買われて、その権力闘争の渦の中に紛れ込んでいくのだったが…。そのうち状況は戦火にまみれ、中国全土にわたり、きな臭く不穏な空気に包まれていくのだった。当然ながらクンフーたちは、その流れの中で、数奇な運命に翻弄されていくのだった。
 カーウェイ監督独特の形式美の生きた作品。科白は哲学的でかつ衒学趣味満載で、言っていることが正確には計りかねるわけだが、それがまあ、伝説的な人物をあらわすには好都合になっていた。凄い人たちのレジェンド的な輝きが、今にも伝わってくる内容になっている。格闘シーンもたっぷりとあり、素早く切れも良い。さらにスローモーションなど効果的に使われていて、その速さと遅さの強弱が見事だ。また、小道具が激しく壊れるなど、重厚感のある格闘演出がなされている。このような演出は、明らかにグリーンディスティニー以後の格闘技の映像美はとして定着したのだな、という実感があった。一種の芸術めいていて、実に感心させられる見事な映像美である。
 結局イップマンは、育ちが良く金持ちすぎたようだ。戦争に巻き込まれて、財産を失い困窮すると、家族も養えなくなり、生活力が無いまま破綻してしまったようだ。何とか自分一人だけでも生きながらえるために、カンフー自体を教えることになり、それがのちの映画界のスターを生んでいく、ということにつながったのであろう。後日談が語られているわけではないが、その一人がブルース・リーで、彼が後に半生を語るようになり、その師匠であるこの映画の主人公のイップマンが、再注目されることになったからである。
 イップマンだけの半生を映画にしたものではなく、多少群像劇めいているが、格闘家の技の伝承というものが、人生を翻弄することであるというのは、よく見て取れた。実際にこれまでも、実に多くの流派が、皆に知れることなく消えてしまったことだろう。そういう物悲しさも含め、感慨の深い作品なのかもしれない。
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お前はもうだめかも

2020-02-16 | ことば

 1940年代にアメリカのデュポン社の開発した新素材のナイロン・ストッキングが発売されると、爆発的にヒットして世界を席巻した。それまでの我々の生活が、激変したといえるのだそうだ。ちなみにナイロンの語源は、「now you lousy old nipponese.! (古い日本製品はもうだめだ)」という説があるという。少なくともアメリカでは、そのように揶揄して覚えられた新素材の名称だったようだ。
 まあしかし、実際の語感としては、日本人に対しての敵対心を直接的に日本人に向けていることがよく分かる。当時日本の絹製品がアメリカを席巻していたとされ、その後戦争で戦うことになるわけで、アメリカ世論が日本との戦争に向けて一方的に高まっていたということなのだろう。
 政治とは敵を作って叩くことだ、ということが言われることもある。日本のそれはどうかとも思うが、西洋的な考えは、そうなのかもしれない。また、そうである方が、強く物事を推し進めるには、何かと都合がよさそうだ。叩くだけで気分がいいわけで、まあ、大衆とはそういうものだということだろう。悲しい気分はあるが、だから政治は科学ではないのだろう。ジャーナリズムも、またしかりだが。
 しかしこの日本に混ざっている敵対心の中には、アメリカ自体の弱さでもあったはずだ。日本の絹製品をアメリカに売っていたアメリカ人だっていた筈だ。アメリカの自由があって日本製品がアメリカ人の生活に入り込んでいたはずで、その後そのために、日本をねたんだということだ。結局は自分自身のさもしさに過ぎないのである。
 いや、しかしこれは、アメリカだけのことを言っているのではない。何か似たようなものを、日本にも感じているのである。ナイロンのようなものができるのであればそれも良かろうが、それなしにさもしくなる人々が増えると、どうなっていくのだろう。それを考えると、なんだか気分が重たくなるのみである。
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タブーから目をそらさない映画   オアシス

2020-02-15 | 映画

オアシス/イ・チャンドン監督

 ひき逃げなどの罪(前科三犯であるようだ)で服役後出所した男は、家族からは歓迎されていない。自己中心的というか、おそらくだが、発達障害があるのではないか。そういうわけで疎まれているわけだが、ひき逃げの犠牲者宅にお見舞いに行き、ここでも追い返される。そこにいた脳性麻痺の女性が気になった様子で、花を届けに行ったときに家の鍵のありかを知る。それで忍び込んで、結果的に襲おうとするが、激しく抵抗された上に、麻痺の症状のためか女性は気を失ってしまう。驚いて水をかけて意識を戻させたが、怖くなって退散してしまう。しかしこれがきっかけとなったのか、二人は恋に落ちていくのだった。
 明石家さんまががっしりしたような男の行動は,終始妙である。しかし、それが彼の純粋さであることは、だんだんと見て取れるようになる。実際は彼を利用しながら理解できない家族に対する反抗や、結果的に罪を犯し続けているように見える彼を変態としか見ることができない警察などの関係者に対して、ささやかながら抵抗しているに過ぎないようだ。
 脳性麻痺役の女性は、演技であることは見て取れる。途中、演出的にそのことでファンタジー表現もある。そういうところが、映画的にもなかなかの力量である。それはミュージカル的でありながら、この映画のリアルさを損なわせてはいない。
 そうなのだが、ちょっとだけ批判的にみるのなら、二人は困難ながらも言語でもってコミュニケーションをしており、時間がかかっても女性の側の弁護は可能だったのではなかろうか。まあ、それを言っちゃおしまいなんだろうけど。
 もう少し短くできる映画だとは思うが、ショッキングな感動作であることは間違いない。そうして野心的である。これは世界的に、ずっと期待され続ける監督になったということであろう。
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