カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

鰻とは距離を置いていたが

2022-08-31 | 

 隣の市は鰻が有名なので、子供のころから鰻は身近である。とはいえそんなに頻繁に食べられるものではないので、ごちそうだったことは間違いないが、しかし結構食べさせてもらっていたかもしれない。今考えると、うなぎ屋ばかりとは限らなくて、それなりに家でも食べていたので、鰻を買ってきて焼いて食べていたのだろうか。今のように毎日スーパーで買えるようなものだったかどうかまでは知らないが、弁当などに鰻の切れ端のようなものがある場合もあったし、宴会のようなとき、鰻が付いているものもあった。地元の料理屋でも鰻を出すところはあって、そういうものを食べさせてもらったこともある。さすがに子供同士で鰻を食べに行くというのは無かったので、高かったのかもしれない。
 鰻をさばいてくれる専門の小屋のような店があって、今考えてみると、養鰻屋がそのまま分けてくれていたのかもしれない。とにかく父に連れられて、買い物がてらそれを眺めていたものだ。鰻に電気ショックを与えて弱らせたものに、くぎのようなものを打ち付け、包丁を入れてさばいていく、実に見事なもので、それを何匹か買って、家で調理してもらっていたのではないか。そういう時に父は楽しそうで、しかし持ち帰ると母は大変そうだった。そういう鰻は確かに旨かった。
 しかし基本的には、鰻はお出かけに行って食べるものである。鰻屋で食べる鰻は値段も高いし量も少なかった。しかし鰻なのだから、それでいいのである。鰻屋で腹いっぱいになれるような成長期の子供はいない。だから段々と、ありがたいながら、うなぎ屋でなくてもいいかな、とは思っていた。蕎麦屋なら蕎麦湯をたくさんもらって腹を膨らませられる。ウナギを食べてカツ丼を食べるようなことは、なんとなく邪道で許されるものではない。
 大人になってから、というか、若い頃にはお金が無いので、しばらく鰻を食べていない時期があった。選択肢に鰻が無くなってしまったのである。でも無理をしていたということではなく、特に食べなくてもいい時期ということだったのかもしれない。そうすると鰻のことは忘れてしまっていて、特に食べたくも無くなる。そういう時期がしばらく続いて、何かの折に鰻を久しぶりに食べてみると、何かこれはずいぶん味が濃いものだったのだな、と思った覚えがある。鰻自体は実際は味はたんぱくなもので、たれをつけて焼くと、淡白ながら脂が乗った身にたれの味がまんべんなくしみ込んで、おいしくなるのだろうと思う。さらに諫早などはこれを蒸して、身をさらにふっくらと柔らかくする。店によっては焼くだけのところもあるが(九州のよその店は、そういうところが案外ある)、基本的にお店で鰻を売りにしているようなところは、蒸してあるのが普通ではないか。ああいう柔らかさとともに、鰻の至福感はあるようにも思う。
 ということで、特に大好物ではないのに、高級でありがたい食べ物の代表が、鰻のような気がする。時々出張で鰻屋の看板に惹かれることがあるが、一人で食べるのはずるいというかもったいない気がして、諦める。鰻というのは、そういう食べ物なのかもしれない。
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読書会は遠い

2022-08-30 | 雑記

 読書会の本を読んだことで、読書会というのは体験したことが無いし、なんとなくそういうものに興味がわいてきた。とりあえず地元での読書会なんてものがやってないかな、とつらつらネットで検索したのだが、これが無いのである。長崎市内で開催されたものはあるようなのだが、今のコロナ禍ということの所為なのか、休止している様子だ。それにその読書会のスタイルというのが、一冊の本を読んで語り合うものではないらしく、自分が読んだ本を持ち寄って、内容を紹介するなど(いわゆるプレゼンという感じかな)で語り合うスタイルのようだ。ネットで開催されているようなものは全国的にあるようだけど、そういうものも、やはり一冊の課題本で語り合うというスタイルが見つからない。ネットで語り合う難しさが語られているブログなんかもつらつら読んだりして、なるほどそういうものかもしれないとも思う。また出会い系のような、交際目的はお断りというのがあって、そういえばそういうことも視野に入れたやり方もあるのかもしれないな、と逆に考えてしまった。そういう語り合いにおいて、いいきっかけになる可能性も皆無では無かろう。ふつうに世代がバラバラなものだと勝手に思い込んでいたので、ちょっと意外な感じもする。本で読んだ読書会というのは、最初はだいぶ高齢者の多いものだったようだし、三十年の時を経て、メンバーが入れ替わったかもしれないが、若い女性ではない人たちなのではないかという感じがにおわされる。そういうものだろうと勝手に思い込んでしまったのかもしれない。
 学生時代には友人と読んだ本のことについてよく語り合っていた。当時は同じ本を読んでいるような人というのはそれなりにいたもので、共通の物語について、文体について、そうして登場人物の考え方について、しきりにいろいろ話を交わしたりした。これが結構盛り上がったりして楽しかったのだが、知らない本の話を聞くと、さっそくそれを読んでみたりして、再度その話を持ってきて盛り上がったりもした。若い頃には体力もあるというのはあるし、少し背伸びをして読むというのもあって、実はけっこう難解であったとしても、無理やりゴリゴリ読み進んで格闘するようなところがあった。それで本当はよく分からないところがあったとしても、かまわずに読めたりして、その時はよく分かっていなかったが、あとでふと思い出して、あれはこういうことじゃないか、などと考えるのだった。そういう本を読んでいる友人の存在というのが、また、次の読書意欲にもつながっていたのではないか。
 本当のことを言うと、今後も続けて読書会のようなものに参加したいわけではない。ちょっと面倒な気もするし、僕の読書傾向からして、文学作品ばかり読みたいわけではない。もっともそういう本選びの時点で気の合う人を選びあうようなことも必要なのかもしれないが、そういう人がこの地域で見つかるのかは心もとない。読む速度や開催される頻度に合わせた生活スタイルが整うとも考えづらい。読書会というのは、ある程度の人口のある都市部での娯楽スタイルなのかもしれない。
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本を深く読むという行為   読書会という幸福

2022-08-29 | 読書

読書会という幸福/向井和美著(岩波新書)

 著者は翻訳家でもあり司書でもあるそうだ。最初は翻訳の師匠から誘われて読書会に参加したことから始まって、それから三十年を超える歳月、ほぼ毎月読書会を開いて集まっているという。「チボー家の人々」とか「失われた時を求めて」など箆棒に長いものは、数年にわたって読んだりしている。基本的にはそのような古典的な名作の海外文学(翻訳家が数人いるようで、そういう関係もあるのだろう)を読み込んで語るという、純粋な王道読書会のことが語られている。また、翻訳による本の読み方や、司書としての仕事の延長として、若い人の読書の手引きのような読書会の様子などもある。実際に読んだ本の書評のような読書会の様子や、当時の読書会そのものの記録もあるし、巻末にはこれまで読んだという課題本のリストが付いている。
 読書会があったから読めたという作品も多いらしく、一人なら途中で投げ出してしまったかもしれないとっつきにくい文章とも格闘したのだろう。しかしそうやって読み終えて、皆と作品について語り合ったからこそ、本当に深い読書の喜びがあったという。またそのように深い読書体験が、自分の人生そのものを形作ってきたということらしい。
 確かに深く読書をしたということで、さまざま事も同時に深く考えるよすがになっていることも見て取れる。時折自分語りがあって、親子関係や夫婦間など、著者は少しそのあたりの人間関係に悩んだ人生を送ってこられた様子であり、そういうことに対しても読書によって救われるような思いを抱いてきた様子である。特に文学作品というのは、単にストーリーを追って面白いということだけでなく、その中にある心のありようを読み取るということで名作として生き残っているものが多いのだろうと思う。そういう人間のこころというものと、自分の心のありようというものを、同時に読みながら考えていくことにつながっていったのだろう。ただ一人で読んでもいいのかもしれないが(読書というのは基本的には一人の体験であろうが)、読書会という場で本を語り合うことで、本当に自分だけでは読めていないものまで読み込めるということなのだろう。
 これはいわゆる新書による読書会という紹介なのであるが、中身については、それそのものが文学作品のようなたたずまいが感じられる。ちょっとのめり込み方が尋常でないところも含めて、面白い作品なのではなかろうか。
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僕の政治信条は遺伝の結果なのか

2022-08-28 | Science & nature

 池谷裕二のエッセイを読むと、政治信条は遺伝的であるという可能性があるらしい。少なくとも25%は双子で相関がある。さらに、大人の投票結果と比べると、子供が投票しても70%結果が一致するという。もっとも子供に選挙のポスターをみせて、自分たちが乗る船長を選んでもらう、という設定だったらしいが。これをもって大人たちが政治信条などをもとに選んだ人とほぼ一致するという結果において、政治信条が遺伝的であると類推されるということらしい。政治家と船長が同じようなものなのかどうかはよく分からないが、舵取りを取るようなことを政治家が本当にしてくれるのならば、そうなのかもしれない。それに大人たちの政治信条が、その子供たちにも影響しているから同じになるという考え方だが、実際はポスターなので、ひとは見た目で候補者の善し悪しを判断している可能性もある。そういう傾向が大人と子供との判断を同じくしているのではないか。そうであるならば、政治家のポスター撮影というのは、いくつも他と比較させて最善のものを選択するだけで、投票を有利にできるのではないか。
 そういうことであれば、僕の場合は親と政治信条が同じである可能性があるか、思い出してみよう。ところが父は学生のころに友人が共産主義だった影響もあって、しばらくは共産党から出る人を応援していたようだ。それは一種のしがらみかもしれないが、僕が成人したとき、誰も応援してないのなら、その知り合いに投票して欲しいと言われたことがある。最終的にその人は落選してしまい、その後はそういうことは言われなくなった。その後父が政治信条的に共産党に投票していたとは考えにくい。これは過去の問題であり、現実的ではないと考えていたフシがある。戦争を経験しているので、敗戦後、大人たちが保守的な考えからがらりと左転換したことにショックを受けて、世の中のことをあまり信用していないと言っていた。結局経営者になったので、あまり労働組合的な考え方を好んでいなかった。現実的ではないとよくぼやいていたので、何か苦労させられたのかもしれない。
 さて僕の方だが、僕はロック少年だったので、言葉の綾として反体制がカッコいいと若い頃には考えていた。そうしてそういう発言をよくしていてかもしれない。みんな大人が悪いと言っていれば、責任もないことだし、平和である。ラブ&ピースである。しかしながらものの本は読むし、論理的に考えて正しいというのが好きになると、音楽家は浅薄な人が多いし、責任感の強い人なんて少ないことを知る。政治的なことを強く言っている人が、何か正しい根拠をもって考えているかといえば、まったくそうではないようだ。単に無知だからそうなっているようにしか見えない。彼らは考えていないから大きなことを言えるのだ(それだからいい歌になるのだろう)。それに比べて働く人々は、苦労しながらも社会を構成することに責任を感じているらしいことも知る。メディアは対立さえすれば満足のようだし、つまるところ何をもって判断するのかは是々非々である。結局しかし人間関係は大切で、僕は保守的なアナーキスト(これは矛盾があるが)になってしまい、結局気の合う友人たちの同調で判断している。これはいったい遺伝的と言えるのだろうか。結局友達などを大切にしたいという考え方は、遺伝している可能性を感じる。
 さて母のことだが、完全にノンポリである。さらにテレビにも影響される。しかし政治判断というのは、もうすでに分りかねる。以前は誰に強制もされず自分の考えを投票には反映できると言っていたが、おそらくそういうのをかっこいい言葉として覚えていただけのことだろう(と思う)。これは遺伝性がよく分からない。片方だけから遺伝したわけではないだろうから、僕と同じいい加減であるということは言えるのかもしれない。
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観るのが苦痛だが   異端の鳥

2022-08-27 | 映画

異端の鳥/ヴァ―ツラフ・マンホール監督

 ユダヤ人であることからナチスの迫害を恐れ、親元から離れて田舎に預けられた少年だったが、その後少年を預かっていた老婆は死に、辺境の地をさまようことになる。しかしながら行く先々で、差別や迫害に遭い、凄まじい虐待を受けながらなんとか生き延びていくのだったが……。
 東欧の旧共産国などを舞台にしている様子は分かるが、実際何処であるのかは明確でない。言語も人工のエスペラントの一種を用いているようで、もともとなんだかわからないが、字幕でも複数の言語が使われているらしい雰囲気だけ分かる。原作はホロコーストで生き延びたポーランド人が書いたものを土台にしているらしいが、映画的に着色しているらしいとも見て取れる。一貫したストーリーということではなく、少年のいく先々での人間の地獄の風景が続くという感じだ。敵も味方も普通の人々もほとんどすべての人が悪人で、少年も時には罪を犯す。壮絶なサバイバルにおいては、そうしなければ生き残れないのだ。
 それにしてもこれほどのことを少年にしなければならないのか、という残酷なことが続く。力のない少年は、失敗も多く、ひどく叱責される。そのたびに激しく殴られたり、鞭うたれたり、つるされたりする。肥溜めにも落とされる。少年は言葉を失い、じっと大人たちの様子を伺い、生き延びていく哲学のようなものを学んでいるようなところもある。しかし性の悩みもあるし、ひもじくもあるし、寒さにも耐えなければならない。不条理なユダヤという迫害は、ナチスだけが持っている感情ではない。時に救いの手を差し伸べてくれる人もいるのだが、ほんの一時の休息を得られるだけのことで、さらに危険な状態が待っている。心はねじ曲がり、おそらく壊れていく。そうして終戦を迎えることになるのだったが……。
 ずいぶん評判のいい映画で、しかしクセモノだというのは聞き及んでおり、なんとなくわかっていたつもりもあったのだが、観ている時間はかなりつらいものがあった。何しろ迫害続きで、ひどいことばかり続く。白黒なのだが、荒廃した様子はよく伝わり、映画の題名のもとである色を付けられた鳥の場面など、印象的である。おそらく特撮もあるとは思うが、いろんなものが死んでいく。命とはいったい何なのだろうと思う。思うがどうにもならない。それが戦争であり、大衆の差別なのだ。
 気持ちが悪くなるだけでなく落ち込んでしまうが、それも映画の醍醐味である。苦しみながらのマゾ体験であるが、鑑賞をお勧めいたします。
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夏は焼き鳥を焼く

2022-08-26 | 掲示板

 今夏、とあるLの会において焼き鳥を焼かせてもらった。三年前は裏方だったうえ、用事があって、フルで活動していない。だからほぼ未経験と同じなのだが、そういう僕が焼いてよかったかどうかというより、人数等の問題があって、そうなってしまったかな、という感じだろうか。ともあれ、うだるような暑さの中焼き鳥を焼く体験というのは、それなりに貴重なものであった。
 実は最初から焼き方になるとは思っていなかった。組織なので毎年のことであって、序列があるわけではないものの(しかし長老は比較的裏方が多いのだが)、以前のように下準備をすることになるのかな、とは考えていたのである。さらに初日は準備の時間にさえいけないことは分かっていた。あとからのこのこ参加して、そういうポジションにはならないだろう。
 でも何となくやる気はあったのかもしれない。それというのも、事前になんとなく焼き鳥動画を見ていたのである。そういえばもうすぐ祭りで、Lの会では焼き鳥だよな~、とか考えていると、いつの間にか見ていたのである。世の中には焼き鳥動画というものがけっこうたくさんあって、名店の本格炭火焼きの様子だとか、家庭で手軽にグリルで焼くものなど、実にたくさんの焼き鳥を焼く風景の映像がある。僕の職場の祭りでも焼き鳥を焼く場合があって、焼き鳥を焼く道具だって倉庫にあるはずなのである。焼き鳥なのにフライパンで焼くというのだってあるし、世の中には実にたくさんの焼き鳥の焼かれ方がある。そういうもので勉強しようと思っていたのかは定かではないが、なんとなく眺めて予行練習していたのかもしれない。
 Lの会の焼き鳥では、基本的に仕入れたものを焼いている。それもモモとバラの2種にフランクフルト(これはシュシュのです)。ビールやジュースやお茶も売っている。モモは甘いタレにつけ込んでいるもので、ちょっとドロッとしているあれである。バラは豚のバラ肉で、関東ならヤキトンである。これは生焼けを防ぐためと時間短縮のために、先にボイルしている。冷凍で仕入れるために、そのような下ごしらえをするようになったと思われる。2日目に準備中でも待っているお客さんのために、生の状態で焼きだしてみてわかったのだが、当たり前だがボイルしないものにはそれなりに時間をかけてじっくり焼かなければならなかった。ちょっと台から高く網をセッティングしたにもかかわらず、やはりそれなりに焦げる感じになった。そこまで焼かなければ、安心できない感じだった。
 焼き鳥屋さんの職人さんは、炭火などでも素手で焼いておられるようだが、僕らの場合ガスの焼き台であるが、これは熱くてとても素手で連続して焼き続けることはできない感じだった。僕は軍手をしていたが、それでも少しだけだが火傷した。それにやはり時には熱い思いを何度もする。職人さんも火傷しているはずだと思うが、負傷しても焼き続けておられるのだろうと思う。それだけでも凄いというか、マゾ的である。
 実をいうと最初はもう一人の方について補助的に焼いていたので、焼き上がり等の所作はその方の見まねだけでやっていた。所用があってその方が抜けた後、ほぼ一人で焼き続けたのだが、(2日目は一台・二人で焼いた)正直言って、それなりに試行錯誤を重ね、だいぶしてからコツをつかんだ感じだった。
 ボイルしてあるので基本的にそんなに焼く必要は無いが、ちょっと焦げ目というか、焼き色を付ける必要があるようだ。ボイル後の焼き台では、網も火元にかなり近い。それなりの火力があるので、バラ肉の脂が出るとすぐに火が付くようになる。並べ方によっては火が燃え上がりすぎて、相当に焦がしてしまう。当然だが焦がしすぎると失敗感がかなりある(それでも売るが)。そうならない加減のようなものを、いわゆるタイミング的につかむ感じがあるのだ。よく出来たという瞬間があって、それはよく分からないが、おそらく数秒の間という感じだ。味付けは味塩コショウだからそこまでこだわっていないが、掛けすぎは当然よくない。かかってないと「さぶなか(味が足りない、という感じ)」ということになってしまうが、これはかなり一発勝負的だった。味塩コショウを振る高さと手首の返しのようなものも、だんだんとコツをつかんでいった。これもうまくいくと気持ちがいいのである。
 しかしながら二日も焼いていると、夏の暑さと焼き台の熱との板挟みになっていて、これはもう苦行以外のなにものでもない。お仲間の女性会員から冷やした首巻を途中でしてもらったりもして生き返ったが、すぐにまたくらくらする熱地獄に耐えるしかない。今年のお祭りは時間短縮になっていて例年より一時間早く店じまいになっていて(それでも三年ぶりだが)、もしそうでなかったら、本当に倒れていたかもしれない。それというのも店じまいで片づけるときには、体が上手く動かず足がもつれたのである。疲労困憊とはこのことで、以前はお祭り自体を運営していた身としては、これはもう若くなくなったのだと痛感した。もう以前のように働くことは不可能である。あの頃は確かに若かったのだ。
 ともかくフラフラになりながらもやり切って、しかしこれはこれで楽しかった。これでも詳細は書けなかったが、実にいろんな人が活躍して盛り立てていた。そういうのが素晴らしい訳で、それでつらくても楽しいということだ。
 でもまあ、これは若手にすぐに受け継がせるべきことではあるな、とも思う。ずっとやるのは無理である。
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どうして他人(ひと)にも読んで欲しいのだろうか

2022-08-25 | 読書

 本を売るためのうたい文句だろうけれど、「泣ける本」だとか、「感動に震える」だとかいう言葉は確かに氾濫している。映画なんかだと「全米が泣いた」とか書いてある。そんなことがあるはずないが(北朝鮮ならあるかもしれないが)、こういうのを見て、「そうなんだ、凄い」ってことになるんだろうか。
 しかしながらこういうのは安易すぎるのではないか、と憤慨している文章を読んだ。本などを読んだ後に、個人的に泣ける場合は確かにあろうが、そういうものを読む前から求めて読んでいいものか、ということらしい。本を読むというのは、それなりに読むことの葛藤があって、時には苦労しながら読み進んでいかなくてはならないこともある。安易に事前に泣いたり感動を求めて読むなんて言う精神性がよこしまなことであり、見返りを期待する読書などは邪道だという。さらにお手軽に報酬を求めすぎているのはどうなのか、と嘆いておられた。
 言われていることは分かるのだが、思わず笑ってしまった。そんなに苦労して読書する必要なんてそもそもあるんだろうか。お手軽な人がいても仕方ないし、そもそも読書なんてしない人の方が普通であるなら、それでもいいじゃないか。確かに苦労して読んで良かった経験もたくさんあるのは分かるし、実際そういうことはある。ちょっとノレなくてつらいな、という読書はある。しかし先に何かありそうな期待のようなものがあって読み進められる場合もあるし、単に暇だから惰性で読み進めることもあるし、読まなくてならない義務感の時もある。結局そのまま面白くない苦行に終わる酷い経験もあるわけだし、そういうものが必ず報われるとは限らない。放り出してしまうことだってあるだろうし、そうなってしまっては、本当にその後がどうなったなんてことすらわからない。しかし、そういう体験も含めて読書であるわけで、自分なりにそんなものは決めて読めばいいだけのことである。
 もちろん、そういう経験もいとわずに本を読んでもらいたい、という気持ちがあるのだろう。本を読んで感動する体験を、読まない人にもしてもらいたい、ということか。そういうものは実際に本を読んでもらわない限りは経験できない訳で、地道に頑張って欲しいのだろうと思われる。
 でもまあ、本を読んでみたいけど読めない、という人の話を聞くと、時間が無いとか、読んでいるとつらくなるとか、他にやることがあるとかいう。まあ他にもいろいろ理由があろうが、要するに本を読んでみたいという漠然とした思いは嘘ではないかもしれないが、優先順位としてそれがあまり上の方ではない、ということではないか。そういう人が無理に本を読んだところで、さて、泣くまでどれくらいに道のりがあるのだろう。
 でもまあ実際の読書というのは、読みだせばいつの間にか読み進んでしまうというのが実情で、つらい時間も確かにありながら、やはりその苦行も含め、どうにも先が気になるというか、この難しさを理解したいというか、とにかく止められない自分がいる。上手くいかなくて途中でやめたとしても、また手に取ってしまうような自分がいる。要するになんだか気になるのである。そうすると何時間も要しながら、結局はつまるところ読んでしまっている。読書家の多くはたぶんそんな人たちばかりであり、少なくとも僕はそんな感じかもしれない。しょうもない習慣だとは思うが、また本を手に取って読んでしまうだけのことである。もちろん寸暇もなく忙しかったり、別のことをしていたら本は読めない。でも気が付いたら、本というのは手軽に手元にあるものだ。この中毒性から逃れる方が難しい。そこまで感じられるほど本を読みたい人というのは、やはり限られたものではないか、というのが、実感なのである。
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重要なものを先に選択なんて面倒だ

2022-08-24 | 境界線

 利根川進は著書「精神と物質」の中で、「アゲハチョウの模様がどうして地域によって異なるのかは面白い疑問かもしれないが、本当に重要な問題かどうかはよく考える必要がある。そのような小さな疑問に対する研究をいちいちしていたのでは、とても時間が足りない。もっと本質に迫る研究をするべきである」と書いたそうだ(著書は持っているが探すのがめんどくさい。今回は孫引きなので)。利根川先生は偉い人だとは思うけれど、ちょっと残念な印象も持つ。もちろん人間の時間は限られており、研究には時間がかかる。本質的で普遍的なことを証明するだけでもずいぶん骨の折れることだろう。だからこそ研究テーマを選ぶというそのものが、非常に大切なのだという本来の意味はよく分かると断ったうえで、やはりちょっと面白くないものも受け取ってしまう。それが事実であるし人生であるし人間の社会であると分かったうえで、そういう研究だけではダメなのではないか、と考えてしまうのである。
 もちろんこれは研究者に向けた言葉である。ひとの役に立つような研究というものは尊いものがあり、そういうものの優先順位を見極めることは、非常に重要という人間の立場がある。また研究費というのも、そういう目的に沿って優劣がなされている現実もあるのだろう。
 また、ダーウィンなどの先人であっても、彼の場合奥さんの側の資産があって、一度も就職することなど無かった。仕事をしなくて済むので、一生を研究に充てることができたともいえる。ダーウィンは特殊だが、しかし多くの科学者には、いわゆるパトロンが居たというのは、当然すぎる話だ。市井の研究者もいないではないが、いわゆる金のかからない研究を地道に自費で行っていたのだろうと思われる。また、生前には見返りなど無かった人も多いことだろう。そういう人の原動力となったのは、おそらく好奇心であって、時間がかかったり難しかったりつらいことなどもあろうけれど、それでも続けられたのは、研究そのものに面白みを感じていたからではないか。そういうものから逃れられない性質の人々だから、その後の発見等につながる功績を残せたはずなのである。
 もちろんそのこと自体を否定しているわけではない話なのだが、要するに無駄のようなものに見えることでも、面白ければ没頭してやればいいのではないか。マッドサイエンス的なものは困るのだが、そういう倫理的なことと関係ないのであれば、面白ければGO!という感じが無いと、研究なんてやってられないのではないか。
 幸いというか、毎年のようにイグノーベル賞の分野では、日本人研究家が選ばれている。外国人にとって理解しがたい分野の研究をしているということもあるんだろうけれど、日本にはそのような許容のある社会性がそもそもあるのかもしれない。それとも単に変人が多いということだろうか。個性なんてものは勝手にあるものである。周りの目なんて気にせずに、みんな頑張っていきましょう。
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誤りから学ぶことの多き事よ   子どもに学ぶことばの認知科学

2022-08-23 | 読書

子どもに学ぶことばの認知科学/広瀬友紀著(ちくま新書)

 テストの珍誤答というお笑い分野があって、ネット上にもたくさん見られるが、書籍化されたものも多い。本人はまじめに書いたかもしれないが、いや、むしろそうであるからこそ、激しい笑いを誘う分野である、著者の息子さんも小学生のようで(現在は中一)、失礼ながら誤答の名手と言っていいほど面白い誤答を書く人物のようだ。そうしてお母さんが認知言語学者だった所為で、こうして研究材料にされて、書籍化されてしまった。これはもう一緒に笑うしかない。
 ところがこの本は、この誤答がどうして生まれたか、という謎解きがメインである。著者は息子をかばうためにそういう言い訳を書いているわけではなく、そのように誤答を生み出してしまう、日本語のシステムのようなものを分かりやすく解説してくれるのである。息子さんが必ずしも特殊な能力の持ち主であるということではなく、子供が言葉を習得していく中で、その言葉をどのように捉えたためにこのような回答になったのか、ということが分かるのである。それは学習の過程でそうなる場合もあるし、そのように捉えられるような文法があるのかもしれない。また言葉の性質にそのような多面性があったりもする。言葉のやり取りの範疇にあって、その局所的には的外れだが、そういう意味が含まれている場合もある。詳しくは読んでもらうしかないが、誤答にも、必ず意味があるということなのだ。そうしてそうであるからこそ、言語がどのように伝わる性質があるのかも見て取れることになる。
 大人になってしまったほとんどの人は、もうすでにそういうプロセスを認識することすらできない。もう「そういうものだ」としての正解しか知らないからである。
 ところで近年は、主にネットのスラングとして、日本語として強引に言えてしまう新語がたくさん生まれている。もともと若者言葉などでは、強引ないいまわしとして、面白おかしく日本語をかき回してしまうということが起きている。僕の息子も大人になった今でも「ムズイ」というし、これは聞いても分かりやすいので僕の前でも発しているとも思われる。また一般の人でも、写真スポットなどでは「バエる」とふつうに使っている。こういうのは特にインスタグラムでないSNSであっても「バエる」訳で、意味は即座に理解できる。「バズる」と言われると、やっぱり「ググって」みなければよく分かりえなかったけれど、まあなんとなくそういう拡散系なんだろうな、という予感はある。そういうことにそもそも関心がありそうな文脈でなければ聞かれることの無い言葉だからである。言葉というのは、そういう前後の文脈から、知らなかった言葉でも推察することが可能だ。しかしそういう能力は、おそらくそれなりにその母語に対しての習得度とも比例する。これは日本語のみならず、外国語でも起こっている現象なのだろう。
 言葉についてはいろいろな間違いを経てきたものだな、と改めて感慨深い思いがすることだろう。特に勉強が目的でなくとも、そういう言葉が何故こうなってしまうのかを知ることは、会話などを二重にも三重にも楽しませてくれることになるのではなかろうか。
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お勧めの本を選んであげる

2022-08-22 | 読書

 なかなか本が読めないし、何を読んでいいかわからないので、何かいい本が無いですか? と聞かれることがある。そんなこと聞かれても困っちゃうな、という感じなんだが、そもそもいったいどんな本のジャンルをさして読みたいのかくらいは範囲を教えて欲しい。そういう人に限って、なんでもいいから面白い本がいい、などという。面白い本は、それはごまんとあるけど、あなたが面白がりそうな本の手がかりが欲しいのだ。美味しいお菓子だとか、面白いお笑いタレントだとか、そんな感じで聞いているのかもしれないが、それだって答えるのはそれなりにむつかしいことだし、ましてやノンジャンルで、なかなか本が読めないような人が面白い本なんてものがあるのかどうかさえ分からないのだ。できれば何とかしたいという思いがあるからこそ、勘弁してほしい。
 で、過去にどんな本を読んで面白かったのでしょうか? と聞いてみたりすると、題名を聞いても知らないのである。詳しく聞いてみると、いわゆるライトノベルとかケータイ小説と言われているような分野の作品らしい。そういうのが好きならそういうの読めばいいじゃん。と思うが、それ以外のもので、という意味なのだろうか。でもまあ小説は全く読まない人よりは読むかもしれない程度のもので、そんなに読まない。それに一般的な文学作品なら、いくらでも紹介しているところがある。それにベストセラーのたぐいなら、いくらでも本屋に平済みされていることだろう。近年は競争も激しくて、面白さという点では、そんなに外れもないのではないか。
 ところがそういうのを買っても、どうせ読まなかったりすると、(お金が)もったいないので、出来れば持っている本で面白かったものを貸してくれないか、というのである。図書館もあるのに、なぜ個人から借りようとするのだ? それに僕が何を持っていて何を貸してくれるのか、それすらわからない時点で、僕が面白いと思う本(おそらく小説)を、読まなければもったいないから買わない人に貸してしまえる勇気があると、何故考えるのだろうか。もちろん貸したっていいとは思うが、もしも返さないとしても平気でいられるような距離感の人なのかどうか、そういう見極めさえできていない。だんだんとそういうものを考える以前の問題のような気もしてくる。
 けどまあ、読んだことがあるミステリで口当たりも良かったかもな、というのを適当に見繕って貸してしまうのだけれど、やっぱり戻ってこなかったりする。一度珍しく以前にお借りした本を返すと言って持ってきてくれた人があったが、感想を聞くと、ずいぶん以前の話だから内容を忘れたし、私には難しかった、というようなことを言っておられた。お勧めの本なんてものは、所詮そういうものなのであろう。
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休んだらもっとストレスが溜まる問題

2022-08-21 | net & 社会

 連休が取れたとしても、基本土曜祭日は休みになったら保育所も休みだし、結局育児でどこにも行けない。育児を伴う休みは親には負担が大きい。結局みんなが同時に休んでしまうと、インフラが使えずどうにもならない問題である。という話を聞いた。確かにそうだろうな、という思いがあるのと、この捉われ方の行先は、子育て支援の保育所を自由に使えるインフラにしたいという思いがあるのかもしれない。
 そもそもは休みの使い方の議論が前提にあって、休みの日にはどうしようって話だったのだが、いきなり来たな、という感じか。語りは柔らかいのだが、今きつい(つらい)のは自分だけ? ってオーラもあるし、核家族なので、おそらく夫の協力が無いなどの不満というのもあるかもしれない。でも、よく聞くと夫が無関心ということではなく、やり方が不十分で、結局は任せられるレベルじゃない、ということのようである。居ても戦力外なわけか……。
 子育て負担は、生んだものの責任だけ(それもそれなりに長期)というのが、想像以上に社会に対する不満につながっている様子もうかがえる。自分の所為だけじゃない筈なのに、放って置かれているような疎外感のようなものがあるのだろうか。そうして本当の願いは、子供を放っても遊びに行きたい自分にあるという葛藤なのではないか。そうであるから仕事から解放されるはずの休みであっても、リフレッシュできない。結果的に働きづくめになってしまう。そういう自分を助けてほしいが、誰が助けてくれるというのか。今の状態そのものが絶望で、それは、社会が悪いんじゃないの。言わないけど、「日本死ね」ってことなんだろう。 
 週の中間に休みが一日あっても、ただぼーっとして過ごして終わりそう……。そういう休みにどれだけの意味があるの? ってことか。ぼーっと過ごすこと、それのどこが悪いのか、というのは素朴な疑問だ。翻訳すると一日なんて言わず、もっと休みをくれ問題かもしれないし。中断して休まされるより、ずっと働きたい問題なのかもしれない。何しろ仕事なんて休んでられないほどたくさんあるんだから。仕事のことなんて忘れてしまえるほど休みが欲しいし、仕事が多すぎるので何とかならないの。というのがごった煮になってしまっているのだろう。そうしてちょっとした休みをもらったくらいじゃどうしようもない、という更なるストレスを産んでしまっている。
 ということなんでした。こういうのは誰かが通ってきた道だったとしても、解決策は諦めだったりする。これは選挙に行かなかった先輩たち元若者が悪いのか、こんなことを考えてしまう自分たちが悪いのか。まあ、その両方かもしれないが……。
 さて僕は休みはどうしようかな。休む前というかすでに休んでいる前の夜に、飲んでいるのが一番楽しい。刹那的かもしれないが、その刹那がずっと続くといいのにな。
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ロシヤ大衆はおとなしい

2022-08-20 | HORROR

 ロシヤ人は、ウクライナ侵攻について、実のところどんな印象を持っているのだろうか。それは率直な疑問であり、もっと実直に取り上げられてもいいのではないかと思っていた。もっとも報道規制などがあって、ロシヤの報道上は、プーチンの主張が支持され概ね受け入れられたものであるとは伝え聞いては居た。また言論規制もあるし、デモ規制もあるために、自由な言論はそもそも封じられていて、確かめることすらできないのだとも。
 そういう中にあって、なぜそういう状況において少なからぬ不満のあるロシヤ国民は、暴動などを起こすことなくおとなしくしているのだろうか。少し前までは、西側諸国と同じように、冷戦の終わった自由な環境を謳歌していたはずではなかったのか。日本にも多くのロシヤ人はやってきていた。働いている人もいるはずだし、テレビにもロシヤ人は出ていた。そういった人々はいったいどこに行ってしまったのだろうか。本当に彼らは口をつぐんだり、国外へ、お国のロシヤに帰ってしまったのだろうか。少なからぬ人は国外逃亡したとも聞くのだが、それは金持ちや著名人などの一部の人にとどまっている感じもする。要するに大衆というのは、ロシヤ国内で、どのような心情でくらしているのだろうか。抑圧された大衆は、また冷戦時のように、押し黙って国の粛正におびえながら暮らしているのだろうか。
 もちろんそんなことは無いらしい。だいたいにおいてロシヤ人は諦めているのだ、という話を聞いたのだ。その原因というのが、そもそもの話、以前からのロシヤの報道そのものを信用している人の方が少数だからという。どういうことかというと、ロシヤの報道というのは、たまに正しいことを流すこともあるのかもしれないが、基本的にほとんどがフェイク・ニュースなのであって、起こっていることが正確かなんてことを気にしていたら生活できないのだ、という。天気予報はどうなんだ? と突っ込んでみたい気もするが、チェチェン進攻の時なども、ロシヤ側に都合のいい報道がなされ続けていたことを含め、どうせそういうものばかりのことであるし、今回のことも、まあそういう流れの一つに過ぎなくて、大きく気にしているような人というのは、少数派ということなのかもしれない。またそういうのを糺そうというようなことを考えるのも無駄そうだし、プーチンがどうだというよりも、ロシヤという国そのものがそんな感じだということは、分かり切っているということかもしれない。経済制裁でジワジワ影響があるだろうという不安はあるのかもしれないが、まだ冷戦時代のように物が枯渇してしまうという状態ではない。生活が苦しくなると言っても、経済が破綻しているわけではないのだ。
 さらにロシヤというのは、貧富の差が歴然としている階級社会のようだ。もと共産主義の国がどうして? という感じもするが、確かに大金持ちが存在するものの、それは庶民とはかけ離れた大富豪であり、新興財閥にしても、政府の息のかかったエネルギーなどの限られた分野の人々である。絶対に手の届かない世界であり、望むことすら愚かしいのかもしれない。新興富豪の中には、愛人の数が100人を超えるような人間ばかりいるとのことで、それら愛人は愛人になれることで満足もしており、今後も暮らしていけるように富豪に尽くすのだという。それは貧富の差の裏返しのでもあり、生きていくうえでの仕方のない知恵である。そのような社会にあって、国がどうだのと言ったところで始まらない。そういう事を望むことがいかに無駄か、ということなのかもしれない。
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魔女狩りやいじめに加担するのは悪いことである

2022-08-19 | culture

 僕は民放はほとんど見ないので事情が分からないのだろうとずっと思っていたのだが、ついにNHKでも特定の議員を名指しの上で、あたかも統一教会との癒着があるような報道をしているのを見た(ずっとこんな感じといえばそうだったかもしれないが)。ふつうに考えてこれは魔女狩りであり、社会的な制裁をくわえているいじめである。これは、そこまでやっても良いという、放送側が判断してしまったということで、世論の後押しがあるとふんだためである。日本社会の世論が、このような集団いじめを支持するだろうと確信を持っているということだ。嘆かわしい限りだが、現実がそうである以上、情けなさを感じながらも眺めているよりない。これほど卑劣な社会が日本だとは、とても信じられないが……。そうしてこれこそが、国民が戦争を選択するような世論と類似するんだろうな、とも思われるので、先の戦争の始まりの情勢は、こんな感じだったのだろう、という空気を忘れないでおかなくてはならない。
 しかしながら、どうして日本人というのは、それほど愚かで頭が悪くなったのか、というのがなかなか分からない。北朝鮮ならそうなのかな、と思っていたが(あちらは命がけだし)、どうしてひとをいじめてよいと信じ、かつ喜んでいられるのだろう。子供にはダメと言いながら、大人社会がこれでは、何の示しもつかない。旧統一教会が悪いと言っても、それはずいぶん前から言われていたことだし、オウム問題でヒステリックになり、すでにそのような悪さなどできないような監視の目があると思われる。山上の母親が病的なのであって、おそらく実際そのような傾向のある人であるだけかもしれない訳で、彼らを救済すべく働きかけるのが人情である。それに統一教会にうつつを抜かしている者がいる家族の方がびっくりして、これまでも多くの信者を強制的に拉致している事実は無視している(延べ数千人いると言われている)。それほどに攻撃されてもなお、これの信者が居ることは驚くべきことだが、迫害を受けていることで、逆に燃えるような心情になる人もいるのかもしれない。反対されて駆け落ち心中してしまうようなものだろうか(違うと思うが)。
 ひとつ言われていることは、他人を断罪して非難するのは、快楽だということだ。性交の快楽と同じ快感があると言われているので、これを喜んでみている人は、要するに公衆の面前でセックスをしているのである。許せないという怒り方をして、やめられないのはそういうことらしい。
 もう一つは、やはりテロの理由を簡単にわかりたいという欲求もあるのだろう。これほどのことができるほど、実際の話は母親からとはいえ、旧統一教会から卑劣なことをされたと本人は思っている犯人に、同情というよりも、怒りの矛先がそのままねじれてしまったようだ。犯人の山上の妄想に過ぎないシナリオでは納得がいかず、結局は山上の思惑通り(山上の犯行の目的は、統一教会を貶めることである。やり方は間違っていたはずなのだが……)、テロの成功につながる行為を図らずも支援している事実に気づかない。他のテロを誘発する危険すらあるわけで、大変な社会悪だ(なぜなら現実的には、実行したテロを支援してもらえるのだから)。もちろん現在も反社会的で恐ろしい活動を政党や政治家が支援しているのならば問題だが、そのような事実は今後も見つからないだろう。何故ならばそのような思惑などみじんも持たなかったからこそ、彼らの支持を受けると判断したのだから。危ない団体とわかっていたら、断っているに決まっている。それは自分にとって何の利益もないことである。彼らも人間なのであって、この騒動で右往左往するような、何も考えていない一般大衆のように、勝手に忖度して糾弾するような精神性とは無縁なのである。だからこそ決定的な政治悪などは見つかるはずもなく、いつまでもキャンペーンを続けられる(彼らは何か隠している。嘘をついているかもしれない、と)。結局安倍首相が生前に、執拗にマスコミからいじめられた構図が生かされているわけだ。
 ということは、なんだ、これまでと一緒で何も変わってなかったのか。
 ということで、やっぱり日本人なんだな、という結論になってしまって、なぜか同じ日本人のはずの僕のような人間が、どよーんとしてしまう。いや、他にも目が覚めている人はいるはずなので(実際はいるが、無視されている)、この教訓は胸に刻む必要がある。彼らには反省という言葉がないので、今のことをケロリと忘れて、新たなターゲットを探すに違いないのである。そうしてその延長で、僕らを戦争みたいなものへと、引きずり込んでいく。まさに今の公開のいじめのようにである。この恐ろしさは、彼らの一時の快楽にほかならない。そういうものに付き合わないものだけが、目覚めていられることができる。僕らは戦争に巻き込まれるのはごめんなのである。
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ドラマ:みおつくし料理帖/今頃になって観る

2022-08-18 | ドラマ

 原作小説は長く読まれたベストセラーであるらしく、未読だが、おそらく力のある作品なのだろう。著者の髙田郁(かおる)は、この作品で作られた料理を実際に自分で作ってみて、各エピソードの終わりにレシピも載せたという。ドラマの方でも、毎回料理の作り方を主演の黒木華が手ほどきしてくれる。一緒に二枚目の料理人(柳原直之という人らしい)も最後に出てきて、一言でもう一品の指南をしてくれる。そういう仕組みもたいへんに楽しいのだった。
 ドラマとしては民放で先に作品化されていたらしく、そこでは北川景子が主演だったそうだ。それは未見であるから比較しようが無いが、NHKのこの連続ドラマは、黒木華の演技が、なんと言っても冴えている。けな気さと力強さの強弱を見事に演じ切っているのではあるまいか。
 僕は先に紹介したように、映画の方から観てしまったので、それでも面白いとは思ったものの、このドラマを観た後では、その出来栄えの差にこちらに夢中になったという感じである。きっかけとしてはありがたいのかもしれないが、ふつうはこのドラマの方を観るべきなのである。その出来栄えの差は歴然としている。
 何しろ原作小説がそれなりの長編であるようで、流れやエピソードも豊富なのだろうと考えられる。大きな筋としての掴み方はともに同じものが使われていたにせよ、その細部にわたるちょっとした布石のようなものが、どうしても映画の尺では描き切れなかったのだろう。もちろんドラマでもそのあたりは端折っているはずなのだが、いくぶん余裕をもって、男女の機微などを描くことができたのではないか。料理とともに重要なのは、やはり澪自身の恋愛感情の物語であることは間違いない。
 好きになってしまったのは侍の小松原だったが、この侍も澪のことを気にかけている以上に思っているらしいことは見て取れる。これに若い町医者の源斉が静かに横恋慕しているという構図がある。源斉としては、澪の気持ちを知っている以上、踏みとどまざるを得ないという感じだろうか。小説ではもっとふくらみのある展開になるらしいが、ドラマではそのあたりの差配が微妙なりに上手くいっているのではないか。
 さらにもっと重要なのは、幼馴染であるが花魁になってしまったあさひ太夫との関係なのである。女同士の友情の美しさに、素直に心打たれることになる。恋愛以上に相手を思う心の強さと、間に立ちはだかる社会的な障壁の大きさに耐えるつらさが際立っている。時代小説だからこそ描ける人情噺なのである。
 ついでのようだが、音楽もいいし、その時代はそういう感じなのかな、という小道具などの使われ方もいいと思う。実際には知らないことだが、これまでの時代ドラマでは、あまり気にしない細部に気が使われている気配があって、物語を引き締めている。悪人もたくさん出てくるが、さらにそれらのすべてに明確な復讐などもされない割には、カタルシスとしての心残りも少ない。全部が良くならなくても、おそらく続きがあり、そうして澪は前向きなのである。料理を作るというのは、毎日完成品を作り上げることでもある。そういうあたりが、一種の潔さの表れなのかもしれない。
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この国が買われていくらしい

2022-08-17 | 時事

 ハウステンボスの売却の報を受けて、地元では動揺が広がる、というような報道を目にしたことはある。親会社が海外旅行を中心に事業を行っている会社だから、コロナ禍で苦しくなったことは目に見えている。買ってくれるという会社が香港の投資会社とのことで、外資が救ってくれたということなんだろうな、と思っていた。日本にも景気のいい会社も無いではないが、ハウステンボスを買って運営して利益を出せるようなところは、見つからなかったということなのではないか。もっとも最近は業績を回復させているということなので、こういうものの相場がどれくらいなのかという見極め方を知らないが、比較的高く売れるからこそ売却に踏み切ったということなのではないか。さらにIRの計画もここで進められているわけで、もちろん抱き合わせて盛り立てていこうという思惑もあるに違いない。香港の会社だから、もちろん中国からの旅行客を持ち込める強みも感じているだろう。お互いにとって悪くない話だからこそ、大きな取引にも応じられたと考えられる。要するにこれは、いい話なのかな、という印象が僕にはあったわけだ。
 ところがこれが問題だとする人の声を聞いて驚いてしまった訳だ。さらにその理由が、香港と言ったら中国であり、要するに日本が乗っ取られる布石になるのではないか、という不安らしいのである。具体的にどう乗っ取るのか、というのはちょっと分からないのだが、北海道のリゾート地も中国人が買い占めて大変なことになっているらしく、南の、それも長崎から、そのような事態がさらに展開されていくに違いない、ということらしい。
 北海道の問題はまったく知らないわけではないが、要するに地元の商店などが潤うことなく、リゾート地を買い取った中国企業のホテルや店舗などで完結して観光客を取り込むシステムになっていて、儲かっているのは会社のみであり、ますます過疎の町が衰退することになっている。という図式のことをさしているのだろう。まだまだ中国などのアジアの会社などは、団体客、団体行動の海外旅行客が多いためにそうなっている可能性があり、この機会に個人旅行客を取り込めることにつながるならば、もう少し様相は変わるはずである。もっとも中国人だけの団体客が押し寄せる場所に、他の人たちが来るのか? という問題はありそうだが。まさに昔の日本の団体旅行客(外国人がノウキョーという言葉を覚えたとされている)が海外から批判された時代の裏返しのようなことである。
 さてハウステンボスだが、IRはカジノだけの問題では無いにせよ、基本的にインバウンドを見込んだ事業展開が望まれているわけである。そういう中で香港(要するに中国)資本を取り込めるというのは、話としてはまっとうで、さらに打ちスジ自体が悪くない。税収を含め地場産業の相乗効果も、それなりに見込めることなのではないか。もちろんこれまでの付き合いのあったところとの関係の見直しなどは起こるかもしれないが、そういうことも含めチャンスと見るところも多いはずである。ただのハコがあれば事業が成り立つものではない。税金を含めた多くの投資が集まる先には、その事業そのものが盛り立てられる必要があろう。日本が乗っ取られるとしたら、それだけ日本に力が無いだけの話なのではなかろうか。この先買ってももらえなくなるような国になるよりは、はるかに良さそうなんじゃなかろうか。
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