カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

お互い死のロードを乗り切ろう

2014-11-30 | 掲示板

 既にちょっと前から忘年会シーズンに勝手に突入している。分かっちゃいるけど、まあ、楽しいことも多いんだが、正直言ってロードも長く、苦しいです。
 こういうときだけ気を付けてもしょうがないが、出かける前におにぎり一つ、ゆで卵一つ、サンドイッチひとつなど、少し口にして行くとずいぶん楽になるというのはある。最初のビールの味が少し落ちるが、そもそも夏場の豪快な爽快感は望めない。さらにちょっと酔いのペースが落ちるので、それなりに落ち着いていられる。これは中国の友人から教わったやり方である。酒飲みはどこの国でも苦労しているらしい。
 ハイチオールCを飲んでから乾杯するというのは、とりあえず最強である。ちゃんと酔うけど二日酔いの確率はかなり下がる。これは定番だから常備しておこう。
 食い方を考えるのもいい。枝豆が理想的で、あとは豆腐(おんなじようなことだが)なんかでもいい。宴会場にはもずく酢がある場合があるが、とりあえずこれを食うというのもいい。酔いがかなりマイルドになる実感がある。
 おちょこの回し飲みに巻き込まれたら、いくら少量とはいえ、数回に分けて飲む、というのがある。くいっといって先方に速く回したい欲求はあるが、とにかくだらだら戦法をとるのが吉である。また、早くから水割りお湯割りに変えて、僕はこれですから、とアピールするのも自分のペースを守られていい。つきあいは悪いに越したことがない。ペースが乱れるから自分でも計算が出来なくなる。自分を失うのはその時は楽しいが、連日はやはりつらい。いつまでもダッシュし続けられる人は居ないのだ。
 二次会のタイミングに電話をしながら逃げる手もある。あいつは付き合いが悪い、と言われても、その場限りで、だいたいは忘れられている。翌朝の商談が大切なら、消えるのがマナーだと思った方がいい。
 絡んでくるのがいると、とりあえずトイレに逃げるか、支払がはっきりしなくても、適当に置いて途中で帰る勇気も必要だ。繰り返すが、それこそが本当の勇気だ。まわりも場がしらけるし、消えたら解決する場合がほとんどだ。酒の席だから調子に乗る人がいるわけで、酒の席でなければ、無事なのだ。残った人に悪いというのがあるかもしれないが、残った人は間が悪かったので、仕方ないので諦めよう。
 それでも酔って帰ったら、とにかく水を飲むべし。コップ一杯程度で諦めず、しつこく飲んで布団に入ろう。体に良いわけは無かろうが、翌日の頭痛の苦しさを長時間味わうより、一時の努力である。
 苦しくても、明日は来る。でもいつかは終わりが来る。頑張って生き延びてくださいませ。
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さてはて、論争は別にいい雰囲気の娯楽作   レッド・ライト

2014-11-29 | 映画

レッド・ライト/ロドリゴ・コルテス監督

 超常現象や超能力といわれるもののトリックを暴く学者の二人と、まさに強力な力を持っているらしい超能力者との戦いの物語、と略して言うことはできる。前半はとにかく超常現象というものを科学的に解き明かすテクニックが光っており、しかしそういう中にあって、大御所の最大のライバル超能力者の出現から、がらりと雲行きが変わっていく。先日読んだ「ガダラの豚」みたいな話ともいえるが、まあ、少し違うな。また、最後にはアッというどんでん返しも待っており、ネタバレは絶対知らないままに観るべき映画だろう。後でネットで確認したら、それなりに不満のある人も多いようなのだけど、少なくとも僕自身は、それなりに感動できた。よく考えてみると伏線もいろいろあったわけだし、騙されちゃって快感だったわけだ。分かりにくい部分も多いといわれるとそうかもしれないが、まあ、ラストがこれなら、仕方ないでしょう。
 そういうわけでタネは明かせないけれど、オカルトというのは、テレビや映画ネタとしては、やはりオイシイということは昔も今も変わらないことかもしれない。しかしながらこれが興行となって、いわゆる金儲けだったり、病気を治すということになると、やはり問題は大きいといえる。特に病気の人なんかは、藁にもすがる思いがあるわけで、オカルトや宗教めいた詐欺にあたってしまうことは、大変に不幸ということは言えるだろう。映画の中ではオカルトを暴く学者の青年に、一学生の女の子が、「(そんなことをすることに)意味なんかあるの?」と疑問を呈している。いわゆる営業妨害をしているわけだし、オカルトを楽しんでいる人の失望を仕事にするより、他の研究に没頭すべきではないかという合理主義的な疑問ということかもしれない。しかしながらこれは、明確な害悪や詐欺を暴いているわけで、そもそも論としては社会的に大変に有意義であることには疑いが無い。むしろ学生の疑問というのは、たぶん一般の人であっても漠然と疑問視してしまいそうなことに、大きな問題があるということが言えるのではあるまいか。要するに安易にオカルトに取り込まれる人間性ということについて、今一度個人的にも考えてみる必要があるだろう。
 それにしてもやはり映画の中でも、超常現象対学者の討論番組というのがあった。テレビなどのメディアでは、この討論が成立するという前提で、娯楽としてのバトルを楽しんでいるわけだ。お互いに有る無いでケンカをしているだけのことだが、最終的に信じる信じない論争になったりする。そうなると、そもそも有る無いの話ですらない。不毛であるばかりか、意味すらないと思われるし、オカルトと科学の対立があるという幻想すら抱かせてしまうミス・リーディングである。よくオカルト側が科学でも証明できないことがこの世の中にある、という言い回しをするわけだが、オカルトが現実に存在するならば、すなわちそれは科学的に証明が可能であるに過ぎないわけで、論理自体が詭弁である。オカルト現象が科学に証明できない分野であるという前提は、そもそもまったくの誤った出発点に過ぎなくて、科学でないから、現実に存在しないから、科学が取扱いさえしないだけの話であろう。ここのあたりが一般の人にはそもそも理解していないところのような気がして頭が痛くなるわけだが、しかし映画であれば、オカルトは存在して結構なのだ。ということを人々は了解しておかなくてはならない。まあ、これを観て勘違いするような人は居ないだろうから、単なる老婆心でありますが…。
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アイドルの才能の爆発

2014-11-28 | 音楽
テイラー・スウィフト - 「シェイク・イット・オフ」(日本語字幕付)



 最近何聞いてますか、と聞かれて、まあ、REMとレッチリかなと、とっさに答えてしまったが(それはそれで事実だが)、実はテイラー・スイフトも聞いている。隠してそうしたわけじゃなくて、そういえば聞いてるよな、と自分でも驚きというか…。顔の可愛いアイドルだから恥ずかしがる気持ちもあるし、なんとなく言い訳したくなる気持ちがあるのも確かだ。これがシェリル・クロウだとさらっと言えるんだけど、オジサンとしては誤解のもとという感じかもしれない。素直に聞いて楽しいというか、いいというか、メロディ・メーカーとしての彼女は素晴らしいのではないかと思うのだ。それに今回はさらにポップさに磨きがかかっている。ちょっと演技がかってはいるけれど、明確に自分がどういう存在かをわかりきっている感じだ。おそらく女の子たちの支持が高いシンガーだと思うが、そういう女の子の共感をがっちりつかんで、さらにいい気分にさせている。もともとカントリーでデビューして、そっちでも成功していたようだが、可愛いのでロックの方でも話題になって僕らも知るところとなった。というか、今ではすっかりポップシンガーの女王的存在だろう。
 しかしながら人前では、レディ・ガガなら素直に言っていると思う。育ちがいいくせにストリップダンサーだけあって、自分の露出と過激さを見事に融合させて、さらにシャレの名前でも通じるように、下品でチープだけど、メロディは美しい。これはロックだなあ、ということで、普通に遡上にあげられる。
 テイラー・スイフトだと説明がいるのは、そういうアイドルへの反発があるのと、音楽としての距離感というのがあるのかもしれない。本当のところは知らないでいうと、彼女はこういう路線が必ずしも本意では無いのではないか。やはり普通にカントリーを歌いたいのだけれど、自分の器用な才能もあって、こういうこともできてしまう。さらにそれこそが世間で求められている自分なのだ。そういうことをきっちり割り切って、それでいながらぶっ飛んでしまうこともできてしまった。そういう感じがするのである。それはそれでロックじゃないかな、と思ってしまうわけだ。本当に力強くて圧倒されるような感じで、ついつい聞いてしまうというわけだ。まあ、実際のところ、単純に僕がミーハーなだけのことなんだとは思うのだけれど…。
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せからしか感覚

2014-11-27 | ことば

 飯食う番組見てたら、「いわゆる、ざっかけない店ですね」というコメントがあった。なんじゃそりゃ、と思ったら、東京地方の方言らしい。かざらない店、庶民的、みたいな感じらしい。まあ、在京の放送局が他の地方に配信して時間つぶししているのだから仕方のないことだが、テロップはやたらに過剰に流す癖に、そういう配慮は気づかんもんなんだろう。
 しかしながら、方言でないとその地方の人にはしっくりしないという表現は確かにあって、これこれこういう意味ですよ、と翻訳してしまうと、微妙にニュアンスが違うような感覚になる場合も結構ある。単語として、ぺちゃがメンコで、というのならまあそうですか、だけど、形容詞だとそんな感じだけどね~、みたいにしっくりしない。僕は地方出身者だけど地元のネイティブじゃなくて、本当のニュアンスを子供の頃からしっかりつかんでいるわけではないのだけれど、それでも時々は方言は訳さない方がいいなと思うことが多い。通じなければしょうがないけど…。
 つれあいの実家は隣の少し先のまちで、江戸時代には藩が違ったので、方言のニュアンスがマイタウンとは少し違う。代表的なのは「きんしゃった」というのがある。誰それがやって来た、ということだが、正確には、少し尊敬語的なニュアンスがあるらしい。しかしながら厳密には「お見えになった」ほどかしこまってもいない。親戚のおじさんとか気安く知り合いだけど、威厳がある場合とか。だから友達が来たら、きんしゃったとはちょっと違うようだ。
 僕が時々感じる言葉は「せからしか」。ちょっと発音には個人差があるが、しぇからしか、という感じに発音するおじさんも多い。似たような「やぜか」「やぜらしか」とは違うし、意味としての煩わしいとかめんどくさいとかうるさいとかごちゃごちゃしているとかいうことであるのは、まあそんなような感じだとはいえるけど、やっぱりせからしかはせからしかだよな、と思う。バッテン荒川も言ってたので、熊本でも言うんだろう。まあ、あの人はせからしかけん、面白かったともいえるわけだが。
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新たな次元の高みへと

2014-11-26 | 感涙記

 白鵬があの大鵬とならぶ32回目の優勝を果たした。まさに偉大な記録であるし、本当に歴史的な大横綱が生まれたと言っていいと思う。その時の事情はたいして知らないが、大鵬が32回の優勝を果たしたときは、怪我に悩まされた後に復活して成し遂げられたというし、その後ほどなくして引退したということであるから、いまだに全盛を極めている白鵬とはまるで状況が違う。取り口を見れば歴然とわかることだが、力が強いというだけでなく、相撲の上手さや切り口の速さは素晴らしいものがあり、間違いなく角界では現在でも最強である。年齢はいまだに30前ということで、ひょっとするとまだ相撲自体は上手くなる可能性さえある。休場もほとんど無く、金星の配給も少ない。優勝する力があるままどれくらい土俵に立てるのかということだけが課題と言え、それが少なくとも数年、もしくは5年以上続く可能性すらあるかもしれない。本人の美学で引退するという可能性のみということもいえ(もしくは大けが)、大記録は今後伸びると考えるほうが自然だし、おそらくそうなっていくだろう。まったく偉大というか凄すぎという大横綱なのである。
 この状況を、周りの力士の不甲斐なさと批判する向きもあるようだが、まったくの見当違いだろう。歴史的なタイムリーさということもあるが、歴代の名横綱が揃っていたとしても、白鵬の強さには揺るぎのないものがあっただろう。もちろん強くなりだしたころに朝青龍がいたということも大きいだろうし、朝青龍がまだまだ相撲が取れたのにかかわらず世論の圧力に敗れ事実上引退追放になったということも大きいとは思われる。白鵬が大横綱になったことは間違いなかろうが、少なくとも優勝回数においては、後数年は遅れて達成されるということになったかもしれない。
 白鵬が強いのは間違いないが、今の他の二人の横綱についても、強いことには間違いが無い。大型化する角界にあって、特に軽量でありながら上り詰めた相撲の上手さがあり、力強さもある。白鵬が強すぎるということは言えても、彼らが特に弱い横綱だということは言えない。
また、日本人力士が居なくて寂しいという感情は、少しは分からないではないが、入門制限があってもともと数が少ないにもかかわらず、ちゃんと確実に強くなるモンゴル人勢力の事を思うと、差別を受けながらも各界の圧倒的な存在感を示しているわけで、ふがいないどころか、何とか政治的配慮で生き残っている日本人がいるということが正しい認識と言えて、寂しいどころの話なのではない。
 もっとも相撲というものを極めているモンゴル人力士という偉大さもあって、まさに今こそ相撲という素晴らしさを見ることのできるしあわせを普通の相撲ファンは感じているものと思う。このような時代にこそ次の新しい強さが生まれえるわけで、今後もさらに楽しみは増えている。事実、これ以上の強さが無ければ、角界ではのし上がれない。今の時代に生きていることは、そのような真の意味での高みをタイムリーで体験できることに他ならない。偉大な横綱が生まれたことは、同じ時代に生きた人間に、そのような体験を共有させるということも意味するのである。
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合理的判断の理由とは

2014-11-25 | HORROR

 誰もが好んで外科的な手術をするわけが無い。または注射や苦すぎる薬であっても、苦痛を我慢できるのは、それが必要だという認識があるからだ。今の日本の状況を考えると、まさに増税というのがこれに等しいと考えられる。政治家は票が取れない恐怖に先送りするわけだが、世論調査では増税に国民世論の80%は容認しているとみられている。今回選挙になるにしても、与党自民党はもちろん、野党すべてが消費税増税先送りに賛成の立場を表明している。つまり世論の受け皿を担うところが皆無なのである。これが民主主義の正体ということで、選択が無いのに選択の機会があるのみという状況だ。争点はだから誹謗中傷ということになり、何の意味があるのか分からない人の方が正常だろう。アベノミクスの是非といったって、代案が無いのだからこれも意味が無い。もちろんアベノミクスは普通に考えると失敗しているが、どのみち選挙を経ても訂正できないのだから、どうしようもない。
 ということで、財政破綻が見えてきたわけだが、これはいつになるのか誰にも分からない。近いと言ったって、来年なのか10年先なのか。ハイパーインフレになるということも無いではないが、スーパーなインフレ、年率10%、20%でも、相当な破壊力がある。具体的にどうなるかというのは僕も知らないが、もちろんそれだけ物価が上がって、持っている資産の価値が下がるということを意味する。たとえば、今まで100円で買っていたリンゴが120円になる。来年は144円になる。100万円貯金があったが、80万円になり、来年はそのまま預けっぱなしにしていると64万円くらいの価値になってしまう。使わなくても損だけど、物を買うにも減るのが早くなる。要するに今の水準から貧しくなっていくということのようだ。
 多くの会社はつぶれたり経営不振になる。国民の多くが貧乏なので、モノやサービスが簡単には売れなくなるし、収益がどんどん悪化する。失業者が増えて、犯罪率も上がる。公共のサービスは停止もしくは質が悪いくせにひどく高くなる。水道や電気料金はすさまじく上がるだろう。そうであるにかかわらず、断水や停電が頻繁に起こるかもしれない。一番の打撃は物流になりそうで、モノが不足したり、そもそもの人の移動も制限が加わるかもしれない。多くの大企業は、おそらく優秀なところから、外資企業に買われるだろう。外資と一口に言っても親会社と子会社の関係が変わるところも増えるだろうから、お隣の中国や韓国あたりの会社が一番日本企業を買うかもしれない。明日からは外国人の上司と付き合う日本人が大半になるだろう。それでも失業するよりまし、ということだ。
 もちろんいち早く資産を海外に移したり、自分自身が移住したりする人も相当いることだろう。しかしながらそういうことが出来るのは、やはり情報と資産を持っている人の方が多いことだろう。逃げようのない人は、等しくこれは受け入れざるを得ない状況になる。みんな悪くてみんなよい、ということだけが人々の精神的な救いになるわけだ。考えてみたら現段階で財政健全な水準にするために必要な消費税率は、ほぼ30%くらいだといわれている。10%でも無理な状況でそんなことが断行できるはずがないので、懲罰的にインフレにして借金をチャラにするより方法が無いだけのことなのかもしれない。だったら政治家は現実的な判断として、やれないことをやるよりも、現実の責任を先送りすることの方が合理的だと言える。残念なのは、この状況に怒りを表明することもできない、受け皿としての若い世代だということなんだろう。
 
追伸:僕が消費税増税判断の先送りにもう一つ納得できないのは、経済状況を見て判断するという条件の内容だ。当時の三党合意において先送りにするような経済状況は、たとえば震災被害のようなことが起こるとか、リーマンショックのようなものを指していたはずなのだ。それ以外の好不況は判断材料にしないということが条件だったはずだ。何故この点をマスコミをはじめ各党は争点にしないのだろうか。今となっては野田元首相というのは本当に偉かったな、と思う。日本の不幸というのは、そういう偉い人がいても、結局は消えてしまうことなのかもしれない。
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ゆるくて緻密な人類滅亡の日々 エンド・オブ・ザ・ワールド

2014-11-24 | 映画

エンド・オブ・ザ・ワールド/ローリーン・スカファリア監督

 小惑星が地球に衝突することがわかり、人類滅亡の日々を描いた作品。それで誤りはないはずだが、そういう映画としてみると、少し騙されたと思うかもしれない。いちおうそういうことになっているという日々において、ゆるく恋愛コメディを描いているからである。まあ、いろいろ面白いわけだが、リアルさはあんまりなくて、でもそのシュールな感じは、実はリアルかもしれないという変な感覚である。人々は避妊を忘れて奔放になったりするんだが、エロ映画でもない。いちおう暴動めいたことも起こっていて、まあ、そういう危険度においての緊張感が無いではないが、パニック映画でもない。あくまでゆるい恋愛であって、コメディとしてもなんとなく笑える。いわゆるいい映画でもあるが、そういうことを狙っているということでもなさそうだ。いや、中にはそんな風にとらえてもらってもかまわないとは思ってそうだけど、やはりこういう雰囲気が楽しいのではないかというアイディアを、それなりに調理したということだろう。考えてみると人類の最後に一緒にいる人こそ最愛の人であってほしいわけだが、冒頭いきなり奥さんに逃げられるところからスタートするのである。完全に虚無的になって当然だが、そこから恋愛を始めなければならないわけで、こういうストーリーはあんがい本当ではないかと思わせられたりする。でもやっぱりありえないわけで、まあ、そこが笑どころなのである。そういう意味で実はそれなりに緻密にゆるいということがわかり、観客はしてやられたぜ、はははは…、ということでハッピーな訳だ。
 ありえない話だからありえない仕掛けもありということになるが、そういう部分はそんなにやりすぎてもいない。ありえないけど、少し特殊な人々ということを、個性として表現している。地球が滅亡する段階になっても、まじめにつまらない仕事を続ける人もいるし、他人の為に働く人もいる。だからなんとなく世の中は成り立ったりしているが、たとえば警察が働いたりすると、迷惑になったりもする。何が功を奏するかは分からない混乱があるわけだ。ちょっとだけファンタジー的に救いなのは、楽しもうとする人が、滅亡で悲観的な人より多めに描かれているということだろう。だからこれは最後はバットエンドのはずなのに、ハッピーになれてしまう。まあ、これにつきあいきれないと、なんだそりゃという気分になる人もいるかもしれないが、まあ、どうどう、という気持ちのセーブも大切に観てもらいたいものである。ちなみに僕は酔って二度も観て、それなりに新鮮だった。雰囲気に乗れると、いい映画という見本のようなものであろう。
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痛みが無くても忘れないこと

2014-11-23 | 散歩

 何度か書いてきたことだが、僕はもともと腰痛肩こりが以前からひどかった。十代の頃は肉体疲労からくる(体育会系だからしょうがない)ものだったから、あちこちが故障するように痛かったわけだが、20代の後半頃からは、明らかに生活の不摂生からくる腰痛肩こりだったと思われる。肥満もあるし、生活の荒れも修正は不可能だった。無理に改善するのは、若い人間の選択には許されるものではなかっただろう。ひたすら耐えるということが出来たのは、それなりに丈夫な面もあったのだろうと思う。
 あの頃を特に反省したところでどうしようもないのだが、さらに一部方面に対しては営業妨害になりそうではあるんだが、体が痛くてたまらなくなったり、本当にぎっくり腰などで動けなくなったりすると、仕方なくその方面にお世話になったものだ。まさに様々なところに駆け込んで、それなりの処置をしてもらった。どうにもならなくなってからお世話になるのはいいのだけれど、時間があれば、定期的にお世話になるということもある。その時は気持ちいいし、回復したような気分になる時もあったが、根本解決ということはやはりなくて、その場しのぎだったことは間違いなさそうだった。でもまあ忙しかったので、それはそれでやり過ごすしかなかったということだ。
 でもある飲み会の時に、誰が言ったのか忘れてしまったのだが、腰痛なんてのは単なる運動不足に過ぎないんだよ、というような話を聞いた。まあ、そうだよな、ということは思っていたにせよ、なんだかその時は、心打たれたというか、心に引っかかったということだろうか。そうしてまた、たまたまというか壮年雑誌のようなものをぱらぱら読んでいて、農協の会長さんだか誰かが、散歩のしすぎで愛犬を殺してしまいそうになったというのを読んだ。犬と一緒に散歩するのだが、一日2時間を日課にしているらしくて、炎天下歩いていたら犬の方がまいって倒れてしまったらしい。面白い人もいるもんだと感心した。で、2時間も歩いていると、いつの間にかダイエットできてしまうし、腰痛肩こりとは無縁だ、とも書かれていたわけだ。この人はある意味で、ちょっとファニーだとは思うわけだが、これを自慢しているわけで、さらに本当に実行しているらしいという偉さもあって、さすがに2時間はどうかとも思うが、30分くらいなら僕にもできそうだと思ったわけだ。
 実は20代の中盤に、仕事の終わりに特にやることが無くて、毎日1時間以上犬と散歩していた時期があったのである。外は真っ暗だが犬を連れて山道をひたすら歩いた。当時は父がシェパードを二匹飼っていて、これを引き連れて歩いたわけだ。彼女らは一日10キロくらい運動しないと運動不足で人を咬むかもしれないという話を真に受けて、一日10キロくらいを目標に歩いていたように思う。たぶん2時間弱くらいにはなっていたのだろう。そうして考えてみると、あの頃は腰痛なんて確かに無縁だったではないか。
 だから人に出会うとダイエットです、と答えていたのだが、本当のところは腰痛治療の為に歩き出したわけである。外に出るのはいつも億劫なんだが、歩き出すとそれなりに楽しい。最初は歩いても腰のしびれはあるし、本当につらいというのはあったのだが、歩き出すと楽しいというのがあるから、いつの間にか続くようになった。買い物でも駐車は店の入り口から遠いところに停めるようになる。飲み会にもなるだけ歩いて出向くようにする。そういう感じに楽しくなって、気が付くと腰痛が消えていた。2,3週間か、ひょっとするとひと月くらいだったろうか。本当にいつの間にかという感じだったので、忘れていた。そうして現在に至るというわけだ。
 残念ながら歩くだけではダイエットになるほどでもない。運動の消費カロリーなんてのは知れているということだろう。しかしながら腰痛が無いというのは、無いというだけではありがたみが薄いかもしれないが、腰痛で苦しんでいた時期のことを思うと、これはもう素晴らしいことである。いまだに仕事が激しく忙しくなると少し痛み出して不安になることも無いではないが、決定的にどうにもならないほどにはならなくなった。やはりそれは、歩いているためだろうと勝手に思っている。
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食うべきは食い飲むべきは飲む

2014-11-22 | 

 酒飲みは酒を飲んでいればしあわせというのはあるが、飲むには当然アテもいる。というかふつうは飯時に飲んだりするわけで、腹が減っているというのも当然前提としてあろう。そうなんだが、そんなに大食いをしながら飲んでいると、やはり酒の味を楽しむというか、不味くなるという表現もあるが、要するに量の方が少し落ちる感覚がある。かまわずガンガン飲んで食う人も居ないではないが、ちびちび飲んでちょびちょび食っている、要するにだらだらして楽しんでいるようなのが、一番理想形という感じかもしれない。
 ということで酒のアテにはそれさえあれば十分なんだよ、という話はよく聞くものだ。代表的なのは、豆腐があれば、とかスルメがあれば、とか。中にはキャベツがあればとか、塩さえ舐めていれば、というのもある。流石飲兵衛、かっちょええ、という感じもある。まあ、かっこつけているというのはあるが、分かる分かる、という輩も多いのではないか。基本は酒に向き合って飲めたらいい。酒の味を確認するために、アテがあるようなものが理想というわけだ。
 しかしながら僕は、そういう話にはそれなりに気分として同意しながらも、やっぱりアテはいろいろ美味しいなあ、というのが本音である。おんなじものばかり毎日食べて飲みたくもない。まあ、ある程度同じでもかまわないが、季節であるとか、生活の節目とか、いろいろ違うものを食い、飲んだ方が楽しいではないか。まあ、そういうがめつさがあるから、太ってしまうのだろうけど。
 実際の話、酒の席でそのようにブツ人であっても、あんがいいろいろ食っているものである。やっぱりホントは、気分的なものに過ぎないのではないか。
 しかしながら、やはり本当に目の前のサカナにはほとんど見向きもせず、ほぼ飾りとして箸をつけずに飲み続けるという人も、見たことが無いわけではない。というかそれなりに知ってもいる。まさに酒豪というか、驚くべき酒飲みという尊敬のまなざしを向けたくなるわけだが、ことはそんなに簡単ではない。それというのも、そういう人もそれなりに問題がある場合が多いように思うからだ。そういう飲み方は酒飲みの矜持としてカッコいい姿ではあろうが、だいたい体に良い訳が無い。ある人はそのまま連続飲酒に陥るアル中だし、ある人は、そのあとクダをまく大トラだ。さらに先輩の酒飲みでそのような傾向のある人々は、ほぼ若くして鬼籍に入ってしまった。家族はたまったものではなかろうな。
 まあ、武勇伝はいいとして、極端な飲み方から素直に脱する方が、体にも心にも良いのではないだろうか。
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みんな健さんが好きなんだ

2014-11-21 | なんでもランキング

 高倉健が亡くなってから、世間は高倉のことをいかに偉大だったか競って語っているように見える。戦後の日本を代表する二枚目スターだったこともあって、それはそれで当然だということも言えるが、その紹介される高倉の「いい人」ぶりというのは尋常ではない気もしないではない。気遣いがあり、プロ根性にも優れ、優しく、そうしてプレゼント魔だったようだ。酒も煙草(これはやめたらしい)もやらず、ギャンブルさえしない。離婚したが、不仲だった訳でもないそうで、江利チエミの死後も命日の墓参りを欠かさない。義理堅く、多くの人に慕われ、さらに尊敬もされている。英語も堪能で友人も多く、気さくに話が出来、冗談も上手い。変わったエピソードも多いが、謎めいたことも多く、体を鍛え、ストイックだった。また、食事を摂る姿はあまり知られていない。甘いものを撮影の合間に食べてはいたらしい。
 個人的には高倉を見たという人を知っている程度にしか知らない。謎が多いし離婚後再婚しなかったこともあり、同性愛説があるくらいしか、影っぽいところは見られない。しかしながら実のところは、大学卒業後に就職できず、失意のまま俳優を進められ、嫌々ながらも売れていくことに戸惑いがあり、大いに苦しんだようだ。そのようにしてスターになったことで、実際にはしっかりした演技の下積みが無いことで後ろめたさのようなものを持っていたようだ。役者として本人がしっくりしだすのは40の半ばを過ぎてからとも言われている。成功したスターのような存在でありながら、実際には失意の気持ちを抱えながら、ようやく迷いが無くなるまで大いに時間がかかった人間のようだ。それ自体も好感のもてる人には違いが無いが、ある意味で変わった苦労の仕方をした人のようである。
 実は高倉健は僕の父と同年ということで、まったくタイプの違った人間であったにもかかわらず、なんとなくだけれど気になっていた人だった。演技が上手いのか下手なのか、確かによく分からないようなところのある俳優さんだが、やはり演技に心打たれて何度も泣かされた。それはいわゆる、大変に上手い人だったのだということだと今になって気づいた。初期のやくざ作品は、正直若すぎてその良さがよく分からないし、そんなにたくさん観たわけではないから評価できないが、後半になってからはそれなりにやはり観ているようだ。偏っているだろうけれどお勧めを三本だけあげておこう。

幸福の黄色いハンカチ/山田洋二監督
 これは武田鉄也の情けない演技も素晴らしい。名画座のようなところで再度観る機会があって、隣に座っていた見知らぬオジサンが号泣していたのが印象深い。
駅STATION/降旗康男監督
 こんな男に憧れない人は少なかろう。最初のいしだあゆみの演技も有名。脚本は倉本聰。
居酒屋兆治/降旗康男監督
 変な物語だが、高倉健だから臭はぷんぷんしている。大原麗子の不幸ぶりが見事である。
 考えてみると全部同系列といっていいかもしれない。やはりハンカチが偉大な映画なのだろう。

 ちなみに面白いのは、ゴルゴ13のデューク東郷も演じている。これだけは、たぶん自身も封印したかったのではなかろうかと推察する次第である。
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火傷するものには注意

2014-11-20 | net & 社会

 ネットの炎上というのは繰り返し起こることだが、一定の傾向というものはある。懲りてない場合や、あえて炎上して楽しんでいる場合を別にすると、残念というのがまずはあるんだろう。まあ、失言というのが第一にあるにせよ、認識不足をたしなめられたり、立場上いかんでしょ、というのもある。偉そうなのもあるし、へりくだり過ぎもある。タブーというのも少しあるが、右翼系や左翼系過ぎると、あんがい人々はスルーする。あんまりアレでも関わりたくないというのがあるせいだと思うが、だから炎上のさじ加減というか、面白さ加減が絶妙でないとならないということだろう。無名すぎてもいけないし、無名であっても痛すぎてはいけない。
 ということだが、男女問題やマナーとか、実は本音じゃないかというのもよく炎上する。ほんとはみんな思っているかもしれなくて、しかし口が滑っちゃったか、もしくはそれを自慢げに言うとか。子供問題なんかも、マナーということになると、途端にきな臭くなる感じかもしれない。子供がうるさいというのは当たり前だが、公共の場ではどうなのか、というのがある。そんなことはその場にいなければどうでもよさそうなことだが、ネットでは炎上する。あんがいそういう現場では何事も無かったりするんだろうけど…。
 思ったことを書いたり言ったりすることは、もちろん場によっては良かったり悪かったりする。ネットというのはその垣根があいまいで、だから公共の場という認識があるんだろうと思う。今ではホテルの廊下をあえてスリッパで移動可という温泉ホテルなんかもありはするが、以前はホテルの廊下は公共の道路なんだから、それなりに歩くのも注意が必要だという話をよく聞かされたものだ。友人の部屋とを行き来するだけのことだからうっかりスリッパだと、たまたま通った人にとがめられるということがあるんだろうか。まあ、そういうのとネットの言動は似ているのだろう。
 確かに関係のない話でも目にすることがあると見苦しいということはある。自意識やリテラシーを持てということになるんだろうが、やはりやっていることはおしゃべりであったりする。当然気が緩んでしまって、火がついてしまうこともあるのかもしれない。普通はマッチを擦って落としたとしても、廊下が炎上することはありえない。やはり下に何か塗ってあったり、たまたま藁の上に落ちてしまったようなことなのかもしれない。火のつくようなものは、そもそも扱いに注意がいるということになる。火のないところが面白いとは言えないわけだが、火傷をするよりはましだということになるんだろう。
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他にもたくさんあるらしい地球を探せ

2014-11-19 | 境界線

 宇宙がとてつもなくでかいという話は聞いている。だから常識としてというか、なんとなくの感覚として宇宙のどこかには知的生命体がほかの星にもあるはずだということは理解していることと思う。しかしながら実際の話としては、どこにいるのかは皆目見当もつかない。広い宇宙のどこかという感覚のみの理屈である。
 ところが、やはり天文学というか、宇宙に関心のある科学者にとっても、これを調べている人というのは当然いるようだ。ただ、探すのは簡単な話ではなくて、探し方すら正確には分からない状態なので、確率として本格的に手を出している研究者は、そんなに多くは無いのだという。研究しても結果を出せる確率が低いので、要するに金が出ないということもあるんだろう。関心もあり実に夢のある題材でも、金が出なければ食っていけない。地球人の悲しい現実である。
 生物が時間をかけて進化するらしいということも分かっているから、地球外生物を探すには、長い時間をかけて生物が生存できる環境の星でなければならないということになる。そういう環境にある星というのは、やはり宇宙ではそれなりの偶然にある星であるらしい。でもまあ探すのは簡単ではないにせよ、まさに地球がそれなのだ。それだけものすごい偶然が重なって地球環境というものがあるらしいので、以前には地球唯一論というものもあったようだ。大気があって液体としての水があって、適当な重力があり有機物を生み出す物質もそろわなくてはならない。さらに隕石の衝突で恐竜が絶滅したとされるように、巨大な災害の無い長期的なスパンの時間も必要になる。そうではあるが、火山活動などで生物には脅威になるプレートテクトニクスのような地殻変動のある環境でなければ、星の安定した気温を保つこともできないという。だから理屈の上では火星のように過去に諸条件が整っていた星であっても、生物がいるのかどうかさえ分からないわけだ。いわゆるファビタブルゾーンといわれる惑星の回っている距離の条件に合った場所にあって、さらに多くの条件が整わなければ、地球のような条件が揃わない。また月のような衛星があることの恩恵も地球にとっては大きいと考えられているので、たまたまそのような過去を歴史的にも持っている必要もあるのかもしれない。そうなると、いくら広い宇宙といえども、やはりそうそう同じような地球的環境は整わないというわけだ。
 しかしながら本当の問題は、やはりそういう星をいまだに探し出せさえしていないということにもあるかもしれない。現在は他の惑星に生命体がいる可能性のある星を、候補として探し出せるようになった段階らしい。確率の上での捜索が可能になったということで、その星で生命がいるかどうかを確認する術は、今のところかなり難しい。さらに距離の問題があって、そういう星があるというのを実際に見えるようにすることさえ、かなり難しいハードルがありそうだ。もちろん人間の目で見るという理屈を超えなければ、数千光年という距離のハードル自体は、どうにも動かすことなどできないわけだが…。
 もちろん、そういう現実だからこそロマンだということはできる。ここまでわかっているだけでも素晴らしいことでもあるだろう。また、やはりいつか人類はそのような方法さえ見つけ出す可能性はあるだろう。そのためにもまずは、夢に金を付けるアイデアが必要かもしれない。霞を食べては生きていけないのだから…。
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キレのいい残酷な娯楽   まっ白な嘘

2014-11-18 | 読書

まっ白な嘘/フレデリック・ブラウン著(創元推理文庫)

 このようなブラックな笑いというのは、外国の話だからいいというのがある。日本人だと生々しすぎて、そのどぎつさのコントラストがつらくなる感じだ。映像の世界じゃなくてもそうだから、映像だったら尚更だろう。さらに習慣的な違いがあって、そんなもんかな、という冷めた視線も加わることになる。カラッとブラックな笑を楽しめるわけで、いわば東洋人の特権ということかもしれない。逆に言うと、本当にはこのどぎつさというものを理解しえないところもあるかもしれない。僕にとってはこれでもすでにいい感じだと思うけれど、著者としては、読者にそれなりのショックを与えたいと思っていたかもしれない。そういう切れ味としてのうまさがあるので、読者の側で適当にかわしていかないと僕のような小心者にはつらくなるのではないか。ちょっとだけだが、そんな風にも思った。
 以前はやっぱり、西洋人というのは肉食ってるから違うのかな、などと思ったりしていた。たぶんそれも誤解の範疇の言い訳に過ぎないが、血に対しては容赦がないような感じがあるのかもしれない。この小説の小編の中にも少しだけそういう表現があるが、殺し屋などにナイフを使う快感のようなことを言う人がいる。殺す道具はいろいろあるが、ナイフで肉をえぐる感覚が無いと、どうも殺していてしっくりしない、というようなことを言ったりする。それは恐ろしさの演出であったり、そういう個性を出すための科白なんだとは思うものの、やはりそういう感覚こそ、殺すには不必要じゃないかと、僕なんかは思うわけだ。できる限り血や肉の感覚を味合わず、殺した方が楽ではないか。やったことは無いけれど、たぶんそうじゃないかと思うからだ。できれば殺したくないけど殺さなければならない。それこそが精神的なリアルさがあるが、殺しを実際に楽しむ人には、もっと別のリアルがあるということかもしれない。それが恐ろしさの本質になっていて、やはり心から恐ろしい。
 実際にはたいしたスプラッタ表現があるわけではない。しかしなんとなくそういう派手な血しぶきが飛ぶのを、勝手に想像してしまう。それが書き手のうまさであり、読後の印象になってしまった。まあ、面白いので気軽に読んでいいのだけど、人間の娯楽というのは、なかなか複雑なものなのである。
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褒めて伸びるのは真実だ 「奇跡のレッスン」

2014-11-17 | 感涙記

 子供を褒めて伸ばそう、という話は実に一般的で、共感の強い方針という気がする。しかしながら現実は…、というのが実情なのではないか。褒めて伸ばすのが難しいから、もしくは本当に信じられてはいないから、実際には褒めて伸ばされている子供は少ないのではあるまいか。
 さらにスポーツ界の実情というものがある。クラブ活動などで強豪といわれるチームでは、指導者の力量で左右される要素は強そうだ。また、強い子は(親は)、そういう指導者を求めてチームを移動したりする。まあ、それについては合理的行動といえるが、そのような強豪チームの練習は、当然ながらそれなりに厳しい。まったく褒めていないとは言えないが、強豪チームの指導者というのは、教育の名のもとに、実に素晴らしい指導のできる人が多いように思う。僕はもともと体育会系出身だから実情としても知らないわけではないが、優れた指導者の多くは、やくざだって近づきたくない迫力の人が実在する。そういう人に喜んで子供を預けているんだから、親は不安ではないかと思うのだが、やはり結果がすべて。実際にそういうチームは、全国的に常勝だったりするんである。
 まあ、考えてみると、成長期の子供で、運動能力の高い子が、多少やんちゃな性格であるほうが自然といえる。力を持て余しているような子というのは本当にいて、実際そういう子と言うのは、指導がよかろうが悪かろうが、実にぐんぐん才能を伸ばすものである。僕なんかは後輩からどんどん抜かれる体験が多いからよく分かっているが、やはり運動能力や性格の悪さというのは、スポーツが強くなる必須の条件のように思う。また、疲れても食欲が落ちないような強靭さがあるから、厳しさにも耐えられるわけである。
 要するに、子供だってまともに付き合うと、それなりのパワーを必要とする。厳しい指導でそれにあたるのは、当然といえば当然。合理的といえばそのようなものである。時々行き過ぎた指導で叩かれる指導者がいるが、誤解を恐れずいうと、単に周りが隠し切れなかった氷山の一角に過ぎないだろう。
 という前提が長すぎたが、僕はあるドキュメンタリーを見て、正直かなり驚いた。本当に褒めて伸ばしているのである。そういう人がいたのである。そうしてそうすることで、本当にぐんぐん子供たちが上手くなったのである。それも実に競争の激しい、少年サッカーの話なのだ。
 結構前に見たNHKの番組で恐縮だが、BSで「奇跡のレッスン」というものだった。その指導者はスペイン出身のフットサル日本代表監督のミゲル・ロドリコさん。子供の指導は一日2時間、それを一週間だけなのだ。
 最初は練習を眺めるだけ、もちろん今までの練習を見て瞬時に問題を把握し、一週間の残りの時間を自分の指導通りにするだけのことなのだ。
 驚くのは、実にすぐに変化が現れたことだ。課題をどんどん出して、変化を付けて、外国人としての大袈裟さはあるが、ポンポン褒める言葉を発しながら、まさに子供と一緒に遊んでいるようにさえ見える。そうして求めているのは、素早く自分で考えて、自分なりに答えを出すこと一点なのだ。今まで指導で禁止されていたような法則めいたやり方は一切ない。サッカーのセオリーと思われるような行動も、ことごとく否定してしまう。今まで指導してたコーチたちも、まさにあんぐり、という感じ。でもそれは否定される怒りや呆れではない。子供達がぐんぐん力を付けるその姿に、衝撃を受け感動しているのだ。
 テレビ放送ということもあるかもしれないが、そういう子どもたちの練習を見に、親たちも駆けつけるようになっていく。お父さんたちまで、仕事を早く切り上げて、練習を見ようとするのだ。そうしてミゲルさんは、そういう親たちを集めて、家でも褒めるやり方を伝授する。子供を叱らなくてはならない場面においても、どのように接するか細かく質問にも答えていく。親として本当にそういうことが出来るか半信半疑の人もいたことだろう。しかし、やはりのびのびとサッカーに打ち込む子供が、目の前に証明としているのだ。
 いろいろエピソードはあるのだが、なんと指導を受ける期間中に家族旅行を計画していた親子がいたのだが、そのサッカー少年だけはどうしても練習に出たくて旅行をキャンセルしてしまうのだ。ミゲルさんの指導が楽しくて仕方がない。そうしてもっとサッカーが上手くなりたいに違いないのだ。
 自信の無かった子供は自信をつけ、横柄で自己中心な少年は献身的なプレーに目覚める。相手のプレッシャーにも平気になり、予想もできないトリッキーなプレーまでできるようになっていく。
 一週間後に地元の同レベルのライバルチームとの試合をする。ここまで書いて結果がわからない人がいるはずがないと思うが、これこそがまさに奇跡の試合なのだ。
 このドキュメンタリーは、絶対に再放送すべきだと思う。僕はミゲルさんに会いたいと思う。そして、そういう指導者に若い頃に出会いたかった。僕は過去に戻りたいと思うよう人間ではない。そういう僕が、少年に戻りたいと思ったのである。もちろん、ミゲルさんに会うためである。なんだか混乱して訳が分からないだろうが、これが真の「褒めて伸ばす」素晴らしさの、生きた証明だろう。
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寿命も縮む

2014-11-16 | HORROR

 先日大変な緊張に見舞われる立場でスピーチをしなければならなかった。実に数日前から嫌な気分というものがあって、一所懸命気を紛らわそうと、別のことに励んだりしていた。しかしふっとした気の隙間に時々これが表れて、閉口した。
 いろいろ対策があろうことは知らないではない。あたかもメタ視点で、自分のそのような緊張している姿を客観視して口に出して語る、またはそれをメモするという方法がある。俺は今ビクついている。緊張感で具合が悪い。など、素直に口に出してみたりする。まあ、おまじないというか、それでいいのかどうかはよく分からない。
 逆にポジティブに成功イメージを頭に描くというのもある。大成功して拍手喝采、なんてのもいいかもしれないが、これは幻滅してしまうような不安がある。なんとなく僕には向かないと思って、途中で諦めた。
 大変怖がりで小心者であるとは、そう簡単に治るような性格ではない。自分を否定しても仕方がないし、ある意味自分でいいカッコして偽ったところで、そういうものは自分に素直に跳ね返ってくるだけのことである。それは経験上というか、いつものことだし、抗っても逃げられるものではない。
 実は一番効果のある方法は知っているのだ。だが、これがやはりそう簡単ではない。怖がって逃げている自分と向き合うと文章では簡単に書けても、実際にそうできるかは別問題である。だからやはり葛藤するわけで、そうして悪循環で緊張もする。要するに、地道に準備をして、その物事に備えるということしかない。今回はスピーチだから、しっかり練習さえすれば、やはりそれなりになんとかなるはずなのだ。しかし日常は別の誘惑がいろいろある。忙しい時期とも重なってしまった。弱い人間はどんどん言い訳を準備して、とにかくそのような備えから逃げてしまうのである。
 そうすると今度は本当に時間を失って、さらに別の焦りというものと闘うことになる。その上に後悔である。悔やんでも時間は戻らないから、さらに自分が追い詰められていく。時間というのは残酷で、しかしその時は着実に近づいてくるのだ。
 それでも本場に備えて、一応は原稿も書いたし、車を運転しながらアウトラインの話の練習はする。声に出して読んではみたが、大した原稿ではないことと、やはり読んでいるという抑揚に力が無い。何より読み出したら読まなければ不安だ。マイクの位置のこともあるし、行を見失ったりしたら焦りそうである。字が見えなくなったらどうしたらいいだろう。持っている紙のことが気になって、ろくにほかに気が回らなくなるのではないか。
 そういうわけでもうこれは見ないようにすることに決めた。持っていると保険になりそうなものだが、やはり頼りそうなので開くのも止そう。自分でハードルあげてどうする、という思いも無いではないが、退路を断つというのは、逆に度胸も据わるものである。
 なんてことを考えていたが、やはり本番前にはなんとなく目の前がくらくらするような気分に襲われる。逃げていいなら本当に逃げたい。思っていたより雰囲気がさらに厳かである。当然と言えばそうだが、こりゃちょっとしんどすぎる。そういえばトイレにも行ってなかった気がする。もう今更遅い。まさか壇上で漏らすなんてことはしないだろうか。いや、そんな取り返しのつかないことをしてしまうと、さすがに息子も学校に居りづらいだろう。なんとしてもそれだけは避けなければ。そうするとなんだかもう逃げるより早く済んでほしい。てっとり早く前の人は話を済ませてくれないだろうか。起立、礼なんてまどろっこしいことは省略できないのだろうか。
 というような状態であいさつに臨んだ。僕は元バンドマンなので、マイクで自分の声を聞くと、なんとなくやっと落ち着いた。どうやら足も震えてないらしい。これはあんがいラッキーだ。そんなことを少し考えた。
 まあ、上手くいったかは特に考えない。済んでしまって席に戻ると、ぜんぜん尿意が無いことに逆に驚いた。とにかく済んでやれやれである。少し興奮しているのか、今になって震えがくるような、そういう感じがしている。恐怖が過ぎたのにまだ安心を信用していいものなのか。そんなような、どこか不安も残るのだった。これがいい体験と言えるのか分からない。少なくともちょっとくらいは、寿命が縮んだのではあるまいか。
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