カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

不法投棄と弁当を持った…

2013-08-18 | HORROR

 前の地主さんは自殺だったらしい。それは聞いて知っていた。借金苦らしいということも聞いていた。地主として土地があるというのはあるが、切り売りして返済に回しているということはあったのだろう。しかしながら多くは農業振興の土地であり、個人の土地とはいえ簡単に切り売りできなくなった。会社勤めの傍ら農業をやっているとはいえ、生産性が簡単に上がるものではない。機械化して効率を上げようとすると、さらに借金はかさむことになる。結局はそういうことが積み重なった上に、会社の早期退職のリストに自分の名前があるらしいということを気にしてノイローゼに陥り、裏山にロープを張って首をくくって自殺したらしいとのことだった。近所の人の話では、木の枝に、まるで蜘蛛の巣のようにロープを張って、足元にはきれいに食べた弁当がおいてあったそうである。ぶら下がった枝を切って遺体を下さなければならないのだが、ロープが絡まってなかなか上手くいかなかったということだった。なかなかシュールで、妙な現場だったらしい。
 僕が気になっていたのは敷地内に捨てられている、不法投棄らしい品々だった。陶芸に使われる器具らしいことは分かっている。産地が近いので、このあたりでもこのような仕事をしている人は多い。型とりのための石膏の、断片であったり使い古しであるものがほとんどだった。多くの石膏は、雨が降ればいつかは溶けだしてしまう。それでも不法投棄されていることには変わりなくて、困ったものだと思っていた。
 ある時敷地に面した道路に軽トラックが停められているのが目に留まった。道の斜面の下には、僕の敷地の中に捨てられているような石膏屑が新たに捨てられているというような跡がある。もちろんその車から捨てられたという確証はないが、あまりにもそのような現場くさいおもむきがある。しかしながら車の主は乗っていない。不審ではあるが、こんな山道に車を放置してどこに行ってしまったというのだろう。
しばらくあたりを見回してみたけれど、運転手が戻ってくるような気配はない。いつまでも待っているわけにもいかないので、職場に戻ってしまった。
昼休みか何かの折に、不法投棄かもしれない車の話題をそれとなく職場の同僚に話をしてみた。
「あ、見ましたか」といったのは、開設当時から勤めているある女性だった。
「私は時々見ます」と続けて言う。なんでも死んだはずの彼は、田んぼの畦を弁当をもって歩いていき、そうして藪の中に消えるのだとか…。このあたりでは有名な話らしく、ほかにも誰それがやはり見たという話もあるという。いわゆる見える人には見えるということらしい。藪の先には首をくくった木のある場所にも通じているのだそうだ。
その後、不法投棄は時折あるようなのだが、しかし僕がその現場を目撃するようなことは一度もない。いわゆる僕自身は、何も持っていないということなのかどうなのか…。見つけたいような、やはり見つけないほうがいいのか、自分でもよく分からなくなっているのであった。ちなみに自殺した地主さんが勤めていた会社は、陶器製作兼問屋さんだったらしいのであった。
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葬儀の時に聞いてもらいたい曲

2013-08-18 | 音楽

 親戚の葬儀に出席。待ち時間に葬儀場に流れている曲は、故人が自分の葬儀の時にかけるよう指示して置いたものだそうだ。癌だったそうで、死期を悟っていたということなんだろう。クラシックの落ち着いたものが多く、なるほどという感じもする。聞いたことがあるようなものもあるけれど、曲名までは知らない。
 考えてみると結婚式などの選曲は、普通にやることかもしれない。これが好きで何度もするような人は居ないだろうけど、自分の選んだ曲がしかるべきタイミングでかかるというのはそれなりに快感かもしれない。また、自分の好きなものを他の人に聞いてもらいたいという欲求も、人間には本来的にあるのかもしれない。自分自身を知ってもらう、もしくは少しばかりの自慢ということもあるかもしれないが、気分的なものを共有してもらうという場合には好きな曲を聞いてもらうというのはあんがい手っ取り早い手段かもしれない。
 葬儀の時はどうしたものだろう。自分の葬儀に参列するような人々だから、何らかの所縁のある人々であるに違いない。自分をよく知っている人なら、なるほどな、と納得する人もいるのではないか。また、(自分の死を)悲しんでくれるような人だから、そういう死の悲しみを和らげるようなものがいいのだろうか。もしくは、葬儀という場面にふさわしく、そういう気分が自然に現れるようなものがいいのだろうか。
 死を前にして考えることとすると、あんがい選曲をするという作業は心を落ち着かせるという作用があったのではなかろうか。死んでしまった後は、たぶんその曲は聞く事は叶わない。しかしながら、本当に家族が自分の希望通り曲をかけてくれるとしたら、ひょっとしたら生きているようにその場を共有することだって可能かもしれない。
 まだ本当にはそういう気分は分からないのかもしれないが、死の選曲を言うのは、そんなに不自然な行動なのでは無いのではなかろうか。
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