カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

放置したらツケがたまる

2006-07-31 | 雑記

 弟が倉庫に眠っているオートバイを引っ張り出してみたが、エンジンが掛からない。バッテリーが上がっているんだろうということで、諦めたらよかったが、あいにく僕のうちは山の上にあるので、押しがけをしつこくやると何とかなるんじゃないかということになった。キャブレーターを掃除してからの方がいいんだろうが、いろいろ部品をはずさなければならないようで煩わしい。まあ、それなりに長い坂道だし、エンジンさえ掛かればいいんだからやってみよう、ということになった。もちろんいい加減に勧めたのは僕のほうで、大丈夫かなあと不安になりながらも、実行したのは弟だ。責任は分散している。(と、思う)
 しばらくしたら帰ってきたので成功したものだと思っていたが、さにあらず。近所の通りがかりのおじさんに救助してもらって帰ってきたらしい。
 ふもとまで降りて問題のバイクをどうしたものか、だらだらと考える。てきぱき考えるには外気温度が高すぎる。大きなバイクなので、僕の軽のハコバンには入らない。とりあえず、バッテリーをつなげてみようということにはなったのだが、その前に、年に一回ぐらいしかエンジンをかけないし、そういえばそういうことが三年ぐらい続いたようだから、ひょっとするとガソリンも駄目なんじゃないかと診断する。そこで近所のガソリンスタンドに行くと、ポリ容器にはガソリンは入れられません、といわれる。実はそういわれるとは思っていたが、反論できない。そこを何とかとか粘るが駄目だ。若いのに頑固な野郎だ。そんなことじゃ出世できねえぞ、などと心の中で毒づくが、考えは変わらないようだ。まったく、過去の強盗事件の影響のとばっちりである。セルフもあるんだから、こっそりそっちで調達しようと思ったが、弟がじゃあこの車を満タンにしてくれと言ってしまった。おいらは日曜だから金を下ろしたくなくて金欠なんだからそんなの嫌だと抵抗したが、見栄を張って「俺が入れるんだからかまわん」などといっている。兄弟間で見栄を張っても、全体的な収支はマイナスになるわけで、そんな理屈もわからんのかと怒りたくなったが、スタンドの店員さんは既に給油を始めてしまった。
 現場に戻ってバイクのガソリンを抜く。通りがかりの人から不審な目で見られているが、たぶん後ろめたい気分もあるのだろう。抜かれたガソリンは炎天下なので簡単に蒸発してしまう。本当にガソリン問題なのか不安だが、蒸発したものは仕方がない。軽自動車からガソリンを抜き(これもかなり不審だ)ポリ容器に移して、再度バイクにガソリンを移す。結局こういうことになるんだから無駄なことをさせるスタンド店員野郎を思い出して腹が立つが、淡々とやるしかしょうがない。
 ブースターケーブルは持っているので、僕の軽のバッテリーとつなげてみる。火花はバチバチ飛んでいるが、スターターは二回転ぐらいしたら止まってしまう。元気がない。そのうち熱のせいか、ケーブルのゴムが溶け出したので断念する。
 やっぱりバイク屋に引き取ってもらうしかないな、と話していて、ふとK村君を思い出す。そこで、恐る恐る電話すると、すぐ来てくれるというではないか。いいヤツだなあ。休みなのに職場にいて、仕事道具の送迎車ならでかいバイクも大丈夫でしょう、ということだった。ハーレーだって積んだりするようだから、そりゃ安心だ。しかし、普段からそんなことしてるんだな。職権乱用だよな、などと助けてもらうのに考えていた。
 しばし待って近場のバイク屋まで乗せてってもらった。バイク屋さんはお休みだったようだが、家人がいて託ける。実はここのオヤジは、父の従弟(僕のおじさん)の同級生である。最初から思い出せばよかったよ。
 それにしても助かった。レッカー代ぐらいはお礼せねばなるまい。K村君何でも言ってくれたまえ。いや、本当は低姿勢で感謝しております。ホントです。
 僕は職場のトラックでも、このようにバイクでも、普段は押し掛けでエンジンをかける癖があるようだ。しばらく放置するのも悪いのだが、結局はいろんな人を煩わせてしまうようなので、やっと自重しなくちゃならないと気づいた。しかしオートマならこんなことは考えないよなあ、などと思う。古臭い道具は、融通がきいてたんだよなあ、と感慨深くも思うのである。いえね、反省したあとに思ったんですよ。今後はこういう事件も、あんまり起こらなくなるようで寂しいです。(起こらない方がいいんだけどね…)
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寺子屋からチャングムまで

2006-07-30 | 雑記

 少し早くから小学校に行って寺子屋の準備。既に校長先生、教頭先生は職員室で待っている。僕は早く来すぎたらしくて、なんとなくブラブラする。続々と先生方やPTAの役員などが集まってくる。
 恥ずかしながら知らなかったのだが、三年ぐらい前から夏休みでも先生方は学校に来るようになったのだそうだ。それはまあ、当たり前のような気もするし、なんとなく不思議な気もする。僕の子供のころ、先生たちは何してたんだろう。
 体育館に机や椅子の準備をしたり、ブルーシートを張ったり、家庭科室でジャガイモの皮をむいたり、かき氷の準備をしたりする。一通り作業をしたら、地区労の遊びの先生方も集まって、受付を済ませた子供と大人も続々集まった。
 寺子屋自体が始まると、特にやることもない。僕は煙草も吸わないので、時間をつぶすのも手持ち無沙汰である。暑苦しい日差しが照りつけるグラウンドを眺めてボーっとする。なんとなく、久しぶりに完全なるボーっとしてしまったような気がする。
 さまざまな教室で開かれている遊びを眺めて回る。我が息子たちも発見。授業参観さえしたことがないので、なんとなく新鮮だ。もうあっち行ってくれ、という表情をしだしたので退散。長居は無用だ。
 そろそろ午前中も終わって、かき氷をゴウゴウつくる。僕はメロン味を担当。みんなざくざく楽しそうに食べていて、作る僕らも幸せだった。
 午後には長崎で研修会なので、片付けは失礼して(申し訳ない)着替えに帰る。麻婆丼をかき込んで車に乗り込むと、着替えたシャツに汗が吹き出る。車のエアコンも音ばかりでぜんぜん不能だ。
 出席者の数から近所には止められないと踏んで、会場から外れた駐車場へ。圧力ある日差しの下を歩く。また汗。夏はこれだから嫌になるよ。営業の仕事の人は大変だろうな。心からお見舞い申し上げます。

 研修会の内容は行政からの恫喝であった。トマトかなんか投げつけようかとも思ったけれど、トマトは手元にはない。ま、しかし、日本の財政も破綻したわけで、彼も金を減らすように言われてるんだから、そう説明するしかないのだろう。メンツで物事を言ってはいけないが、メンツを感じるそうであるが、そのメンツは違う圧力で潰されることでしょう。なんて、願望もあるようですけど…。

 今日はお旅所の設営もなされていて、帰ってから確認する。いつもよりできているところとできてないところがある。喜んでいいものかどうかも判断しかねる。月曜に続きがある予定だが、備品なんかは日曜に準備すべきなんだろうか。判断はしたくない。帰えろっと。

 酒を飲んで飯を食って散歩。さすがに事務局の電気はついてない。しばし休憩、それがいいよ。なんて思う。迎えに来てもらって、離れで一杯。兄と弟が来ていたのだ。
 兄がチャングムに詳しいので驚いた。昔の朝鮮人は、さまざまな論理を屈指することに驚く。こうした合理性は、西洋人と通じるものだろう。封建社会の合理主義。なんとなく歴史も遠くにありにけり。
 日本人は、やっぱり半島から逃げてきたんだろうと思う。そうして、たぶん論理的な考え方を捨ててしまったのだ。僕は合理主義者だが、日本発で意味が違う。西洋でも東洋でもない私。そんなことを考えていた。
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暑くて鬱だ

2006-07-28 | 雑記

 自衛隊に打ち合わせに行ったら、おばけ屋敷の準備をしていた。このあいだ来たときは有事だということで緊急演習やら何やらをしていて皆汗びっしょりだった。今回も暑いことも確かにあろうが、マネキンに化粧などして汗びっしょりだ。
 それにしても守衛の部屋はクーラーが効きすぎている気がする。受付の時に窓から放出される冷気で一時の涼を取る。実は来訪者へのサービスだろうか。

 提灯配りは終わったが、いろんな路地があることを知る。車で入ると出られない。細い通りをバックで戻る。こんなややこしいところに人は住んでいる。それはそれで仕方のないことなのだろう。まちはいろんな地理の状態に影響を受けながら増殖する。それだけのことなのだろう。

 職場に戻ってみてふと考える。今から取り組んでも時間が足りないな。じゃあ、いつからだと足りるのか。やっぱり手をつけるよりないらしい。諦めが仕事の取り掛かりである。

 夕食に焼酎を飲んで、そのあとに散歩する。空港まで歩いてみる。えらく風が強い。車もびゅんびゅん走っていく。僕はとことこ歩いている。

 迎えに来てもらって、又焼酎を飲んでテレビを見る。料理人のエピソード。料理を出した後、こっそり廊下で評判を聞く。満足げな会話にホッとする様子。心臓が悪くなるぐらいのプレッシャーの毎日らしい。長生きはできないだろうな。クリエイターは、自己中でなければつらいのかもしれない。

 なんとなく目標喪失でつらい。目的がなくてはならないというのは幻想だとは思うが、ある意味で精神鼓舞には手っ取り早い。つまり何にもないと手っ取り早くないのだ。そういうわけで停滞している。夏の始まりは何故か鬱である。
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政治的配慮

2006-07-28 | 時事

 それにしても富田メモはどうして今のタイミングで出たのだろう。総裁選と関係があるんだろうか。そうだとしても、一般的には昭和天皇がそういう認識であったということは常識化していると思っていた。それをあえていまさら天皇がどうだからということなら、首相が従うのはまずいんじゃないか。天皇が政治に関与するような国は、民主国家ではないだろう。まあ、北朝鮮も民主国家らしいから、そういう意味の民主国家になるということか。日本はそういう国ではないということで成り立っているのであるから、外交的にも参拝しなければまずいということなのではないか。
 日本経済新聞社と財界のつながりはどうなのだろうか。思惑は単純に読めば靖国参拝反対で、それは中国経済であろう。中国の主張は不合理だが、それより商売はどうするということなのだろう。個人的にはどうでもいい問題だからそれでもいいけれど、そういう思惑であるなら無視した方がいい気もする。それこそ商売なのではないか。商売は政治なのだろうか。
 中国経済は日経の発表する数値の上では、貿易上既に日本よりでかい国のようであるが、大方の経済認識はどうなのか。中国政府発表のものを信用しているのは日経ぐらいのものではないか。中国財界と新聞社というのはうがった見方なのだろうか。
 谷垣禎一財務相が出馬表明したが、参拝はしないという。出馬したとはいえ勝算は無い訳だし、そうであるなら、どうせ関係ない人なのにそういうことをいうということは、どういうことなのか。僕にはぜんぜんわからない。それは小泉首相への牽制なのか。先のことなのでわからないけれど、今年はなんだか行きそうではないか。そのあとは知らないよ、ということなのか。安部官房長官は小泉継承路線だというが、靖国って、継承問題なのだろうか。小泉首相よりタカ派で知られる人なので、あんまり関係ない気もするが、思い違いだろう。
 行きたくないけどいかなければならない。そういう場合はこのメモの影響を受けることになるのだろうか。小泉首相は心の問題といったそうだが、こういう意見は心がないということなのだろうか。
 それにしても政治問題にしたがる輿論は不思議だ。たぶん政治がわかりにくいので、感情ゲームを楽しもうという趣旨なのだろう。
 中国との関係が悪くなることで得をする人は誰だろう。北の将軍様だろうか。ブッシュ大統領だろうか。どうして日本国民はどの場合でも得をしないように思えるのだろうか。ひょっとすると僕の不思議は世界の常識なのかもしれない。それが政治なんだろう。
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提灯配り

2006-07-27 | 雑記
 なんだか久しぶりに職場に行くと(って、一日ぶりだけど)机の上に書類が山になっている。うんざりして仕事はパスする。
 そうして抜け出し、提灯を配っているが、なかなかご在宅でないようだ。それぐらい簡単なことだといわれた人が、まずつかまらなかったりする。言うは易しなんだよね。既に三日もかけてこの有様。Sカズヤ君からも「どうしてもつかまらないんスよね」と電話あり。もう少し苦労してくれ、とお願いする。
 夜になって再度探して訪問。やはり連絡取れない人もいるので、いったん帰宅する。買物があるというので一緒に買物に行き、その足で又自宅を探す。職場のゼンリンも持ち出しており、言われた場所をピンポイントで探し出し、やっと訪問がかなう。子供も一緒だったが、夜の怪しい住宅街に車が進行していくのが楽しそうである。夏越も家族と共に取り組むべしだ。ちょっと苦しいですけど…。
 さて、あと一軒。しかし午後9時も過ぎてるし、既に電話して訪問するには怪しい時間帯である。つまり持ち越し。効率悪いです。しかしながら、その人なら知っているだろうという程度の人なので、ネットで検索して住所や電話番号などを確認する。こういうところは便利になりました。
 しかし、電話でつながる率というのは正確にはわからないが、だいたい2割というところではないか。これも愚痴だが、電話があるからすぐだとかいう人ほど、電話に出ない。まあ、僕も職場にいる時など携帯はつながらないし、不便な人の一人だろうが、電話というのは意外と不便なのである。そうして都合を聞いて、職場から車で50分(僕は隣町の人なんだよね)のところに昼夜を問わずお伺いしていると、相手から何にもされていないにもかかわらず、暴力を受けているような被害妄想が膨れ上がってしまう。
 それでも残り一軒。いろんな人を経由して、やっと本人さんの都合も聞けて、本日の午後にお会いする手はずがついた。せっかくだから、その折に自衛隊と神社との打ち合わせも入れた。どうせ往復で2時間つぶれるので、一時間仕事を入れてやるのである。なんだか、更に効率が悪くなるような気がしないでもないけれど、やけくそなのである。
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実は同類

2006-07-26 | 雑記
 早朝からどしゃ降りの雨。それでも遠くの空は晴れ間が見える。いける、ということで事務局へ行くと、事務局ビルの階段にお泊りのおっさんにびっくりさせられる。あんまりびっくりして悔しいから「なんだよおっさん」と怒鳴りつけると、あくびなのか「ウオーッ」っと叫んだので更にびっくりさせられた。頼むからこれからはちゃんと家に帰ってください。
 外に出てなぜかO部先輩とばったり出会うが、「なんや、朝帰りね」といわれる。早くから活動すると、階段のおっさんと同類である自分を発見する。自制せねばなるまい。
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何事も終わってから

2006-07-24 | 掲示板
 しばし更新滞るかもしれません。A山監事じゃないけれど、夏越よ早く終わっておくれ。いくら気合入れたって、僕にだって仕事だとかそうでないものも含めて都合があるのであるよ…。って、なんとなくことばも変だ。
 終わったら何しようとか、なんだかそれだけが楽しみだ。今年は遠方の友人達はいつ頃帰ってくるのだろう。長男が楽しみにしているキャンプは夏にできるものだろうか。個人的には虫が少なくなる頃が助かるが、単独キャンプより複数いた方が楽しいので、そうも言ってられない。お勧めサイトがあったら、誰かご教授下され。
 8月に珍しく出張がはいったり、後半に忙しかったりするようだ。平日に時間をつくるより平安はない。できるだろうか。いや、今こそ俺にラテンの血が必要だ。輸血してでも血をたぎらせてやる。そして鬼のように決行するのである。人の迷惑は僕の幸福だ。いや、その前にノー天気な気分だ。とか何とか考えてしまって、やっぱりちっともラテンじゃないよ。とほほ。
 ああ、そういえば、盆にはM田の手伝いに行くぞ。親戚等に不幸のなかった者は、一緒に船を担ごうではないか。有志よ、連絡を待つぞ。
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挨拶は不快だ

2006-07-22 | ことば

 二十年も前の話だが、バイト先で仕事に入るときの挨拶は、たとえ夜であっても「おはようございます」であった。へんてこりんだが、面白いので、それで従っていた。最初は「こんにちは」とか「こんばんは」とか一応は言っていたが、いちいち注意されるし、議論しても煩わしい。
 そこの社員にどうしてそうなのか聞いてみたが、風習というものはわからなくなっているから風習なのだと教えられた。その答えも面白いと思ったので覚えているのだろう。素直にわからないといえない性格は、チャーミングな人であった。
 ちなみにいろんな友人の就職先ではどうなのか聞いてみたことがあるけれど、客商売の裏方にこの挨拶が多いということぐらいしかわからなかった。工場などもだいたいそうらしい。夜の飲食店や、芸能界などもそうだという。
 早出遅出など出勤時間の不規則なためであるとか、仕事始めという意味であるとかいう説もあるが、なんとなくそれは怪しいと思っていた。実際一定の業界ですべてがそうとも言えず、医療業界などは必ずしも徹底されていない。僕の職場では早出遅出はあるけれど、そんなことは当然ありえない。少なくともそのようにしようと提案されでもしたら、激しく僕が抵抗するだろう。人を不愉快にする挨拶は、適当ではない。
 小谷野敦のエッセイを読んでいると、上下関係と関係があるのだろうと書いてあった。つまり「ございます」という丁寧な言い方は「おはよう」にしかない。芸能界などは上下関係が厳しいので、自然にそうなったのであろうということだ。僕にはそのような違和感を覚えたことがないが、単純にデリカシーがないのかもしれない。
 たとえば、目上の人に「こんにちは」と挨拶して「こんにちは」と返される場合に抵抗があると小谷野自身は感じるという。目上の相手が「よっ」などと返してくれると違和感を覚えないものらしい。
 なるほど。しかし、そういう意味では確かにうちの職場は民主的である。上下関係は当然あるが、だからといって人間的に偉いかどうかは別問題だ。人間偉くなったらお終いである。いや、偉い人間は存在するけれど、自分から偉くなった奴はどこかに落としてやりたくなるだけなのであろう。僕はそういう意味で性格が悪いと思う。

 挨拶といえば最近のスーパーなどでも元気よく「いらっしゃいませ、こんにちは(こんばんは)」などといわれるのが不快だ。もともと僕はコンビニでこれをやられるのが嫌で寄り付かなくなったのに、逃げ場を失った気分だ。こういう流通業界の上の人間は、おそらくくだらない人が多いのだろうと疑っている。店頭社員(パート)に平気でこういう言語感覚を強制できるほど、デリカシーがないのだろう。「いらっしゃいませ」という挨拶で十分に十分だ。ぜんぜん失礼じゃないし、昼も夜も関係ないし、だから便利だし、煩わしくない。「こんにちは」がつくと、無言でいる自分が恥ずかしい。客に恥をかかせるな。
 ところで朝からスーパーに行っても、いまのところ「いらっしゃいませ、おはようございます」はあんまり言われない。「おはようございます」は言われた気がするが、続けて言うと長ったらしい所為だろうか。

 僕は散歩が趣味なので、よく道をとぼとぼと歩いている。登山関係者は山道で人に出会うと挨拶する習わしのようだが、普通の散歩者同士には、そういう習わしはないようだ。ところが、時々挨拶をしてくる人がいる。たいてい元気のいいお年寄りで、これはなにか強い信念のようなものが感じられる。朝方出歩くとこういう人と遭遇する確立が高くなる。僕はますます早起きしたくなくなる。
 それとたいてい田舎に行くと多いのだが、突然子供が「こんにちは」と声を掛けたりする。町内で挨拶運動を徹底する人があるためか、もしくは、めったによそ者と遭遇しないので、警戒しているのではないか。
 子供というのは、うつむき加減に向こうから歩いているように見えて、いきなり大声で「こんにちは」などと怒鳴ったりするので、言われた当人は激しく動揺して、返事をする声が妙に甲高くなったりして恥ずかしい思いをする。知らない人には挨拶しなくていいと思う。知らないおじさんに変にかかわるのは危険である。僕のように気の小さいおじさんに対しては、挨拶は一種の暴力である。
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夏のジャンパー

2006-07-21 | 雑記

 会議を終えて食事に行く。食事中だが夏越の打ち合わせをしているので、関係各所に電話したりして忙しい。僕が電話中、前に座っていたO塚さんが突然席を立って外に出て行った。腹の調子でも悪いのかな、とも思ったけれど、そういえばトイレは店の中にあるようだ。テーブルの上には車の鍵とか、自分の携帯電話も置いてある。僕が電話中だとはいえ、突然断りもなく出て行くことはないじゃないか。
 電話の用件も済ませて待っている。目の前のニラ豚肉炒めを食うと、歯に挟まったニラと格闘したり、それなりに忙しいといえばそうなのだが、待っていて不安である。いつの間にか5分10分と時間が過ぎている。いっそのこと外を眺めに行こうかとも思うが、今席を立つと食い逃げと思われかねない。何しろこの店に来たのは三年ぶりぐらいで、尚且つ二度目だ。オヤジとは馴染みじゃないし、店員の顔つきも怪しい。
 そうやって店の中を見渡すと、女子高生二人を連れたおじさん(どちらかのお父さんなのだろう)がテーブルに陣取って、ふたりを無視してテレビを見ている。カウンターには常連さん風のとっつぁん達が三名、ビールと餃子を食っている。この人たちは僕らより前からいたようで、いったい何をしているんだろう。一人の頬は見事に赤く染まっていて、絵に描いたような酔っ払いである。奥の方では漫画週刊誌を顔の前に持ったままラーメンをすすっているお兄さんがいる。そんな格好でご飯を食べていたら、間違いなく家ではお母さんから怒られるに違いない。でも、店だから誰も注意しない。教育の危機である。
 だいたいこの店はなんとなく怪しい。なんで打ち合わせを兼ねた食事に、このような大衆食堂的なラーメン屋を選んだのだろう。僕は既に普通のビールコップにすすがれたお湯割り焼酎を二杯も飲んでいるし、店の連中とバランスの取れた怪しさをかもし出しているに違いないのだ。
 そうやって怪しく飲んでいると、やっとO塚さんが帰ってきた。帰ってくるなり自分の車の鍵を取ってくれといって、又出て行った。
 ちょっと間があって、再度戻ってくると、やっとボチボチ理由を説明してくれた。
 実は何年か前に工事の金を払わないまま消えた人物が店にいたらしい。なんとなくそうじゃないかと思ったが自信がない。店から出て行ったところを後ろから追いかけて、その人の名前を呼んだら振り向いた。やっぱり間違いないじゃないか、ということで、その時の金はどうしてくれる、というような話をしていたらしい。金は返すというが、今まで逃げていた人である。免許証をよこせというと、これは必要なので駄目。車の鍵をよこせというと、それもやはり駄目だといわれた。じゃあ何でもいいからなんかよこせ、ということで、その人の車の中からジャンパー(なんで?)を拝借したらしい。
 そういう話を聞くと、今の世の中は確かに不景気なのかもしれないなあ、と思う。大変だなあ、と心から同情すると共に、不謹慎ながら、この取立て騒動の今後の展開に興味が注がれるところである。
 しかしながら、ジャンパーで大丈夫なのだろうか。
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せっかちな時間

2006-07-20 | 雑記

 先方からある案件の相談の説明をしたいという話をもらう。ちょうど別件の用もあったので遠方だがこちらから出向くことにした。が、その状況はとりあえずいい。
 待ち合わせている時間より十分ほど早く着く。先方はお電話中である。目線でなんとなく相槌をうって、入り口で待っている。電話はなかなか終わらない。入り口の暖簾の文字を読んだり、壁にびっしりと資料ファイルが収納してあるその背表紙の文字を読んだりして時間をつぶすが、なかなか電話は終わりそうにない。その状況に気づいた横で打ち合わせかなんかしていた人が、とりあえずお座りくださいと空いている椅子を勧めてくれて、座る。そんな感じで待っていても、やることは何にもない。ただ座っているなんて、ものすごく間が悪い。
 目の前でパソコンに向かって仕事をしている男女がいる。男が上司で女が部下だろう。そして明らかにパソコンの腕は、女が上だ。男がさりげなく質問しているが、女がモニターを覗き込み、カタカタと横から手を伸ばしてなにやら打ち込んでいる。
「ふーん、そうやるんだ」
 なんて、男は動揺を隠して(いるように見える)礼も言えず感心している。女はそのままどこかへ行ってしまう。バカにしているわけではなかろうが、優越感はあるのではないか。
 そういうやり取りを眺めていても、まだ先方は電話で話している。たいしてしゃべっているようには見えなくて、腿の上にクリアファイルを広げてなにやら頷いている。深刻なのだろうか。
 そういえば手帳を持っていた。今週の予定などを確認して、どういう仕事をしなくちゃな、なんてメモを取る。考え出すと面白くて、いつの間にか手帳に文字がびっしり埋まってしまう。書くところがなくなると手帳の本来の機能が損なわれる気がするので、いい加減手を止めなくてはならない。しかし先方はまだ電話中。過去のところをパラパラめくって、もう関係ないと思われる事柄を赤インクで線を引く。ついでにこのときはどうだったとか、感想を書き出して、どんどん過去のスペースが埋まる。ほらね、こういう時の為にスペースは空けておく必要があるのである。
 そういう風に手帳の空白を埋めていたら、やっと先方は電話を切った。
 さて、本題の内容を説明してもらうが、ほとんど5分で終了。僕は感想というか、この件の問題点を十五分あまりにわたって指摘する。待たされた腹いせではないと、自分では思っているが、実は自信がない。
 帰りに駐車場から車を出すと、前の方でゴゴゴッと音がする。対面のタクシーがクラクションを鳴らして注意している。車を止めて降りてみると、区切りに置いてあったポールコーンを引きずって走っていたらしい。後ろから警備員が走ってきて怒られた。なんだかずいぶん動揺してしまった。僕に何が起こったのだろう。
 そうだ、みんな長電話が悪いんだ。僕はただ、心の中で叫んでいるのであった。
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誰が呼んだか親子丼

2006-07-20 | 
 昼は親子丼。
 考えてみるとこのネーミングの面白さは残酷だ。親子で殺害すると、法治国家日本では普通死刑であろう。しかしながら、鶏に対しては、人間は冷酷になれるらしい。冷酷に親子丼と親しみを込めた名前で美味しそうに感じるところまで来てしまっている。人間が考えた人情味のない冗談というか、なんと言うか。しかしそこのところがある意味では絶妙で、カツ丼と注文するより、親子丼と注文する方がなんだかかっこいい。いや、別にカツでもいいんだけど、食いたいんなら、正直に言えばそれでいい。僕は許す。
 親子丼ってなあに、と、連れていた小さい子供が質問してくれるともっとかっこいい。しかし、不思議とそういう場面は、ありそうで出会わない。なんでだろう。
 勿論セットでついてくる吸い物は、途中で吸わない。一気に食ったあとでなくてはならない。自然にそうであるなら、尚嬉しい。中に浮いたかまぼこは、紅白が好ましい。できればこれは物凄く安かったとしてもそれでいい。高級品だと、かえって落ちる。安っぽいから嬉しいものは、世の中で貴重である。
 ワケギのざくざく感が残っていると親子丼はさらに美味しい。そして、ご飯も美味しく食べられて、手軽で手っ取り早くて、がつがつあっという間に平らげられて、それだから、ダイエットの敵である。
 職場ではご飯は自分でよそおっていい。しかし、親子丼は注意しなくてはならない。できるだけ小さな器でと思うが、豪快さも旨さのうちで、悲しくなるのでいけない。短時間でかっ込んで、あとは忘れてしまおう。
 それだから、やはり親子丼は残酷なのである。
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教育=洗脳

2006-07-19 | 雑記

 僕は普段ガクモンを心がけているわけではないけれど、批判批評の類の論拠の誤りを発見するたびに、暗澹たる気分になる。しかしながらこういうことをいうと、必ず自分の潔癖はどうかということを言い出す人がいて煩わしい。煩わしいが、自分自身がいつも正しいかといえば、勿論そんなことはなくて、顔から火が出るような思いをしたことも数え切れない。しかしながら、そういうことを今棚上げするわけではなくて、そのことは又別に論じなければならない問題であって、つまりあくまですり替えに過ぎないことなので、目の前にある問題を素直に見つめて論じていく姿勢が大切だといいたいだけである。その上で、間違った論拠をもって批評していた場合は、素直に訂正すればいいことだと思う。別段その人の人格まで否定しているわけではない。人格と論理はまったくの別問題だが、論理について批評されている人は、(これは僕も含めてだが)自分の人格を否定されたがごとく怒ってしまう。何かを言うということは、そういう意味で大変に難しい。そして面倒くさい。たぶん、そういうことも含めて、人の誤りの噴出に気が重くなるのかもしれない。
 いっそのこと言わなきゃいいのに、という気分になる。なぜ言ってしまうのかというと、たぶん嘘が嫌いなのだろうと思う。勘違いであっても、それは自分が知らないだけの嘘である。マジックを見て楽しんでいるのとは訳が違う。騙されていて勘違いしている状態なら、少しばかり修正したほうがいいのではないか。
 ふと思ったが、そういう考えは、いくら正しいことであろうと洗脳と変わらないのかもしれない。ああ、そういえば教育とは洗脳であるということばも聞いたことがある。洗脳という単語自体は恐ろしげだが、教育というものは多かれ少なかれ洗脳であることは間違いない。先生が何故いるのか、という問題も、知識という危ないものの扱いにあるのかもしれない。確かに学問は突き詰めると自分で学ぶものではあるけれど、自分の中にあって行動に影響を与えるわけだから、自分の問題であるだけでなく人への影響もあるものだ。そうであるならば、知識というものは恐ろしいものだということを、まず知識として知っておく必要がありそうだ。話は大げさになりつつあるが、内田樹の言うがごとく、先生はえらい、というところから出発しなくてはならないようだ。
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悪い男/キム・ギドク監督

2006-07-18 | 映画
許容する女性に助けられる男
 
 待ち合わせている女性に一方的にひと目惚れして拒否され、諦めきれずに罠にはめて売春婦にし、真実の愛を勝ち取る話である。ちょっと省略しすぎだが、そういう話だ。
 なぜそうしなければならなかったかは、彼がヤクザという暴力の世界に生きているためなのかもしれない。ある解説にもあったが、映画の中では直接的にこのふたりは性的に結ばれる場面がない。男は何らかの理由で不能なのではないか、という憶測であった。なるほどそうであると、なんとなく話が理解できる気もしないではない。彼女を他人に抱かせることによって、精神的に結ばれているということなのか。マジックミラーはそういうことなのか。最後のトラックは生活のためだけでなく、そういう意味もあるのだろうか。
 しかしながら、自分自身が共感できるかというと、やはりそれは難しい。好きだから拉致されて家に帰ることはできない。その状況に泣き悔やんで暮らしたが、いつまでもそうやっていても仕方がない。本当に仕事に慣れたとはいえないが、嫌々続けられるものでもない。開き直って生活するうちに、諦めて好きになることを選択した女を理解するだろうか。いや、厳密にいうと理解するが、結局慈悲的に同情してしまうだけなのである。
 それは真実としてありうる話だが、そういう選択は普遍的な真実ではないと思ってしまう。だからこそ、この話はファンタジーなのだ。
 しかしながら暴力的に好きな女性を奪ってしまいたいという欲望が本来的にないとは、残念ながら男である僕には言えない。僕にはそういう欲望があったのだろうと思う。しかし本当にそういう行動をとるのかというと、よくわからない。つれあいだって諦めて付き合ってくれたようなものだし、拉致してどうこうしたわけではないが、似たようなことだったとも、いえなくもないのかもしれない。こんな映画は到底理解できない気がしていたが、否定したいという自分への反応なのかもしれない。信じたくはないが、その可能性はゼロではない。それを全面的に認められるほど、自分に謙虚さはないが、恐怖心はある。そういう男のことを女は理解できるだろうか。
 不快に思う人も多いと思うけれど、ファンタジーとしてよくできているとも思う。映像の美しさが評価されていることは納得できるが、ともかく、これだけへんてこりんな映画の評価が高いのも、人間の感情なんて不可解の極みだからであろう。

 横田めぐみさんが帰って来られないのは、国家がそれを許さないからだが、もし彼女が北朝鮮側の人間になっているとしても、その境遇を誰も批判できないのではないか。恐らくそういう立場で、彼女は生き抜いていく決意をしなければならなかったのだ。北は死んだといっているが、生きていれば、恐らくそういう立場にいるのではないかと気がかりだ。しかしながら、それでも幸せであるといいとも思う。欺瞞でも幸せになる方法があるとしたら、結局は許容する道しかないのであろう。
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ドッグヴィル/ラース・フォン・トリアー監督

2006-07-18 | 映画
ひとことで言うと変な映画だ
 
 面白い映画だけれど、面白いということに躊躇してしまう。悲惨な結末にカタルシスを覚えるほど混乱して観た。僕は悪魔に精神を売り渡してしまった。
 演出や設定が独特だということが、まず話題になっていた。この演出が成功しているというのは、あまりにどぎついからだと思う。この演出でなければ、最後まで観ることを断念する人も多かったのではないか。それでも観やすい映画なのではないが、そういう意味では確かに脱帽だ。演技力がさらけ出されるので、肉薄した精神がさらに迫ってくるようだ。心揺り動かされてつらくなる。それでも、目が離せない。自分自身が不安になり、人間不信になってしまう。
 正直に言うと、これは人間の本性だとは僕は信じていない。こういう設定で、こういう人間性が現れるというフィクションだと思う。もちろん真偽は分からない。可能性としてはありえなくもないということだろうけれど、その前に彼女は立場を告白するのではないか。隠し通す理由が、やはり希薄に思われる。
 確かに人類はアウシュビッツも日本軍も経験している。人間の暴力性はこういう傾向を持っているのかもしれない。しかし、隔離された村環境が、アウシュビッツになるかというと、かなり怪しく思う。もっと具体的に暴力がはびこるのではないか。そちらの方が先ではないか。
 しかし、映画もその映画の真実がある。この精神性は、やはり真実なのであろう。こういう人間性があるのではないかという後ろめたさも、もちろん真実には違いない。キリスト教では自慰行為に罪悪感があるという。空想してしまっても、罪悪感があるらしい。しかし、現実と空想は違う。空想を現実化することは、意外と簡単なことではない。そこの壁を越えることがこの映画にはできている。彼らの暴力に嫌悪感を覚えながら、不思議なことに共感も覚えるのではないか。そういう幻想を抱かせる女優がニコール・キッドマンというところも憎らしいと思う。

 と、実はここまで書いて間を空けて少し考えていたのだが、どうも自分が間違っているような気がしてきた。人間のいじめの心理というのは、リスクとも関係があるのではないか。自分がしてもらっているより多くのしてやっているという心理はどうであろう。ねたみはどうであろう。彼らは加害者でありながら、被害妄想がある。実際最後の反則どんでん返しがあるが、見るものにとってのカタルシスであるけれど、これが問題の解決なのではない。自分の力で問題解決ができない人間の弱さの為に、信仰が生まれていくのだろうか。信仰といわず倫理といってもいいかもしれないが、自分の欲望を抑える何か超越した良識を共有してしまえないとしたら、集団というものは破綻に向かって進んでいくものなのかもしれない。
 あまりに悪魔的な映画で、気分悪く楽しむことができた。気分は悪いが、お勧めなのである。ぜひ、この罪悪感を味わって欲しい。共感できないこともあるかもしれないが、この話を創造した人も、意地は悪いが人の子である。悪魔は人の精神に宿っているのである。
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動揺とファン心理

2006-07-18 | ことば

 週刊文春の楽しみである高島俊男のエッセイが終わるのだろうか。最近の聖書の文章批判なんかも関係あるのだろうか。体の弱そうな人なので、止めたくなったのか。最近の椎名誠の文章も歯切れが悪いし、文春の楽しみが消えるのは悲しい。相変わらず高い水準を維持しているのは李啓充のコラムぐらいだもんな。文春、僕は悲しい。竹内久美子とかはどうでもいいから、高島を引き止めてくれ。
 ことばのエッセイは以前から結構読んでいて、最初は丸谷才一だった。なんで知ったのかは忘れたが、そこで改めて大野晋、井上ひさし(週刊朝日だったね、あの頃は)なんかを読んでいた。福田恆存は最近知った(無知でゴメン)ばかりだし、白川静は読んでいない。千野栄一とか江川卓はそれなりに面白く読んだ覚えがある。が、これは言語学だ。同じく西江雅之は面白いが、言葉自体を語って面白かったわけではない。柳瀬尚紀も面白いが、少し飛んでいる。たぶん次元が違う。新明解はいまだに最初に引いてしまう。
 結局丸谷が発掘したかたちで高島は出てきた。そしてその批判の鋭さと世間知らずにアカデミズムはどうかしらないけれど、マスコミ系文学界は驚いたようだった。今は斉藤美奈子とか小谷野敦が面白いけれど、文芸評論ではなく、ことばそのものを扱うエッセイストが毀誉褒貶を売り物に爽快にいろんな人を斬るのが楽しかった。この人は「諸君!」の冒頭エッセイ(紳士と淑女というのかな)も好きだったらしいから、ある意味で正直だったのだろう。専門は中国文学みたいだが、思想的には右のようでバランスがわかりにくい。交友関係は知らないが、アカデミック方面関係は左の先生との付き合いで文壇に出てきたのだからどうなのだろう。
 まあ、そんなことはどうでもよい。とにかく面白いのだから仕方がない。
 どうして結婚しないのかも謎だが、私生活が特に秘密という人でもなさそうだ。もう少し若い小泉首相だって再婚しないのだから、それはそれでいいのだろう。ブレイクした人の割には対談などが少なかったのは、人付き合いが下手なのかもしれない。一度鼎談か何かを読んだことがあるが、かなり浮いていた。しかしながら人が遊びにきたことなど嬉しそうに紹介していたこともあるので、あんがい寂しがりやであるようにもみてとれる。雑誌の連載を止めてしまったら、編集者との付き合いもなくなるだろうから、なんとなく哀れである。いや、ひとつばかり仕事が減っても、かえってホッとするものなのかもしれない。少なくとも老後の心配は必要無いぐらいは既に稼いでいるはずだから、あとはいらぬお世話だが友人次第だろう。
 王監督の手術はうまくいったそうだが、やはり復帰しなくてはならないのだろうか。いつまでも期待されるというのはどういう心境だろうか。一方ではそういうことも思うのだから、ファンというものは勝手なものだ。少しぐらい休んだら、又気分が変わるものかもしれない。待ったり諦めたりすることも必要なことのようだ。
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