カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

静かにしないと暮らせない家  刑事コロンボ・ビデオテープの証言

2014-03-31 | コロンボ

刑事コロンボ・ビデオテープの証言/バーナード・L・コワルスキー監督

 まずこの家の仕掛けが特殊なのである。手拍子のような大きな音に反応してドアの開閉ができる。何でセンサーでの自動ドアでは駄目なのかという疑問はあるが、それはコロンボの謎解きのためである。さらにビデオカメラで家の中を撮影しており、管理人というかガードマンを常駐させている。もちろんカメラ映像は録画もしてある。いくら金持ちといえども警戒しすぎという気もするが、アメリカにはアルソックが無いのだろう。金の心配を金をかけて解決するなら、この家のような仕組みになる場合もあるのだろう。
 さて、しかし本当に金を持っているのは足の不自由な奥さんの家である。いわゆる婿として資産の恩恵を受け、会社の地位もある男らしい。目障りなのは姑で、実際に姑の権限で解任の危機である。受け入れられないのなら、殺すより他にないのだろう。奥さんをまったく愛してない訳ではなさそうなのだが、結構浮気っぽいところもあるらしい。相手の資産を利用して、自分にはおいしいところがたくさんあるわけだ。しかし、奥さんからは引き続き愛されているようなところがあって、離婚に至るような心配はなさそうだ。それでも欲が勝るということか、犯人は実行に移す準備を前もってしている。姑がそのような判断をすることが予想できるような頭を持ちながら、対策は最悪の選択をしてしまう。まったく人間というのは愚かなのだが、しかしそれだけこのトリックに自信があるという裏返しとも取れないことは無い。まったく相手がコロンボで無かったら、容易にこのトリックが崩れることも無かったかもしれない。
 ピーター・フォークは、個人的にもこの奥さん役のジーナ・ローランズとは友人関係にある。というか、その旦那であるジョン・カサベテスと友好が深いらしい。このコロンボシリーズでは旦那とも奥さんとも共演している。さらにカサベテス映画でジーナとはやはり共演している仲である。そういう意味ではアメリカ的な家族関係で製作が行われているらしいことがわかる。持ちつ持たれつを大切にするのは、何もアジア的な人間関係だけではないらしい。さらにこの友人関係が、観るものを楽しませることにも有効に働いているという幸運も兼ねている。
 実際にはこのトリックの成立のためには、いろいろ偶然や幸運を重ねる必要があったようにも思うのだが、そのような背景や仕掛けも含めてそれなりに楽しめる作品である。芸術作品をめぐっての、お茶目なコロンボの姿も見られる。マニア的な見方を楽しませる仕掛けにも凝るようになって行く、コロンボシリーズという方向性の中にある作品のひとつといえるだろう。
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人間の真実の残酷さを見る  カバチタレ!

2014-03-30 | 読書

カバチタレ!/原作田島隆・漫画東風孝広著(講談社)

 広島弁でいろいろ理屈をこねることを「カバチタレる」というらしい。理屈をこねるだけではどうにもならない訳だが、その理屈の根拠になっているのが法律にあるとすると話はまったく違ってくる。喧嘩というのは腕力が強ければそれはそれで大変に有利であるけれど、大人の社会においては法律をもってする以上に強いものは無いということが、この漫画を読めば一目瞭然なのである。もちろんそれは法治国家という国の成り立ちの根幹を支えるものである以上、実に当り前にゆるぎないものなのだが、どの場合にどのような法律を知っているかということで、人生を変えるような大きな喧嘩に勝つことが出来る。単なる机上の空論で無い恐ろしい理屈の世界を知ることになるのである。
 漫画なのでデフォルメはある。それは絵柄に限らずといえそうだが、この比較的下品な絵柄とは裏腹に、あんがいこれは実話なのではなかろうかというリアルな迫力のある内容も多いのである。法を利用してあくどいことをする輩も多いし、労使関係のトラブルも、どこかで聞いたことがあるようなものもある。残された遺産をめぐって家族がもめる話などもあり、えげつないが実にありえそうな話ばかりだ。実のところ人間というのは欲の営みを送っている生き物なのかもしれない。前近代的な人身売買まがいの行為も、金をめぐるトラブルにおいては本当にリアルに響いてくる。壮絶に残酷だが、それが人間の営みの根拠にある法律の解釈しだいなのである。
 考えてみるとお金というのは、現物よりも架空の力のほうが強い気がする。札束といっても、つまるところそれは紙である。ところが人間は、これを信用して動く習性を持っている。犬や猫やサルだって、この金でどうこうするようなことは皆無だろうが、人間だけはこの紙の力の前に屈服してしまうのだ。なんとも滑稽にも思える反面、非常に悲しい習性に思えてならない。しかしこの紙を否定すれば、人間生活には支障をきたす。いっそのことこれを拒否する生き方を選択すると、金による恩恵も受けない代わりに、人間としては何も手出しをすることが不可能になる。法律といっても、刑事的な犯罪で無い限り、結局は金による解決以外に道は無い。金の無い人間に法を使って何か金銭的な保証を求めても無駄なことに過ぎないのである。要はかねの取り合いのための道具として、法律という武器を如何に使うかというのが、本当に賢い人間の生き方であるかのようだ。
 人間の残酷物語を娯楽として読む。しかしこれが楽しいし、実際に大変にためになるような気がする。カバチたれる人生が楽しいのかは疑問だが、ある種の本当の人間ドラマが展開されているからだろう。金で買えないものがあるらしいのは信じたいが、本当の人間ドラマは金次第。それが限りなく真実であるのは、自分の目で確かめた方がいいのではないだろうか。
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裏切り者か、はたまた…   フォッグ・オブ・ウォー

2014-03-29 | 映画

フォッグ・オブ・ウォー/エロル・モリス監督

 マクナマラ元国防長官のインタビュー映画とも言っていいものだ。先の大戦からベトナム戦争に至るまでのアメリカの歴史の中で、政府にかかわってきた人間が何を考えて、そして今どのような感想を持っているのか、という告白の記録である。
 マクナマラは既に故人だが、この映画のインタビューでは85歳ということらしい。実にしっかりした口調だし、さすがに老けているが、元気そのものという様子だ。何より頭脳が明晰そうに見えることがさすがであり、インタビューの受け答えも実に巧みである。
 歴史を振り返ることもそうだが、このインタビューが何故衝撃的な意味を持つのかというのは、実は日本人には分かりにくいところがあるのではないか。それというのも、素直に見るのであれば、アメリカの持っている問題や反省を素直に語っているだけの事なんだけれど、これは日本の側からすると、まあ、そうだろうなという納得のいくことが多いからである。それで何の問題もないじゃないかと思われるかもしれないが、実はそれは大間違いで、マクナマラは、多くのアメリカ人や、さらに政府の行ってきた公式の見解と、まったくの真逆の意見を述べまくっているというのがあるからだ。これを見たアメリカ人は、おそらく椅子からひっくりかえるくらい驚いたり怒りを覚えたりするのではないだろうか。だからこそこの映画がドキュメンタリーの賞を受けたり、ジャーナリズム的に衝撃度の高いものであるということが出来て、実にアメリカの内情を暴露するという面白さがあるのだろうと思われるのである。それも政府の中枢に居たはずの人物自身が、ほとんど反省の弁としてこのことを語っている。今まで何にも悪くないと教えられてきた国民は、寝首をかかれたような居心地の悪さを覚えるのではなかろうか。
 まあ、本来はそのような楽しみ方をするのがまっとうなのだろうが、日本人としては少しばかり溜飲を下げるような気分になるのかもしれない。今まで虐殺を受けた民族でありながら、加害者として謝罪させられる側でしか話をさせられない立場であるしかないのだから、国内的に強弁をふるうしか方法が無かったわけである。もちろん、マクナマラがこのように語っても、彼個人の問題と米国の考えが同一のものではないのであるから、今まで通り退けられるだけの事ではあるのだが、しかし、その後このような考えが歴史の中に残ることは、大変に意義のあることのようにも思える。それが米国の懐の深さを担保することにもなるだろうし、本当に戦後の日米間の関係に未来をもたらすものにもつながっていくだろう。アカデミックな分野では既に米国の反省点は研究されているはいるが、民衆の意識下にそのような反省があるとは現在でも考えにくい。マクナマラの存在は、そのような一般人にもささやかながら影響を及ぼす可能性があるわけで、今でもこのように映像が残っていることにも、貴重さがあるわけだ。そういう意味では日本人が見て溜飲を下げるのみならず、長くアメリカの歴史資料として残るべき作品ということが言えるのではなかろうか。マクナマラが裏切り者なのか正直者なのか、彼ら世論が考えて決めればいいだけの事だ。もちろん、そういう判断が素直にできるようになる素地が、いまだにあるのかは大いに疑問でもあるわけだが…。
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日本人横綱は必要か

2014-03-28 | culture

 鶴竜の横綱昇進ということで、本当におめでたいという思いがする。寡黙で真面目な人柄のにじみ出ている好青年という感じもある。強いは強いが比較的地味なところのある力士で、聞くところによると、ここ数場所たいして稽古もできず苦しかったようなのだが、それでもけっこう勝ち星をあげることが出来たことで、かえって自分が本当に強いのではないかという自信がついて開花した、という話もあるようである。なんとなくそういうところもホントらしく聞こえるおおらかさも感じられる。
 さて、それは大変に素晴らしいことだと素直に思うのだが、巷間の話題や、いわゆるマスコミ関係で必ず付随して(もしくはそれが話題の中心かもしれない)語られるのは、日本人横綱不在の嘆きである。三横綱が全員モンゴル人でも何の問題もないはずなんだが(それこそが実力をちゃんとあらわしている結果だから)、相撲で日本人が不在というのが、形として良くないと考えてしまう人が多いのだろう。
 相撲を国技と考えている人があるけれど、これが国技なのか事態も怪しい。特に大相撲というのは明らかな興行で、基本的には人気が無ければ成り立たない庶民の娯楽だろう。野球や同じ格闘技のプロレスなどと、そんなに明確な立ち位置としての違いは無いのではないか。
 そうではあるけどそうではないとどうしても考えたくなるのは、やはりその歴史ということと、さらにその形式美というか、文化的なものがそうさせるということはあるだろう。文化として興行とつながっているということもあって、それは芸能や宗教とも関連があるようにも感じられる。神様への奉納として相撲を執り行っているものを、人間である庶民が脇で眺めるのを許されているという建前になっているわけだし、まあ、普段はそういうことを気にはしてない人がほとんどだろうけど、言い出せばいろいろとうるさいことになるのは、やはりそれは文化なのであろう。
 そういうものこそが日本人文化そのものだ、という背景が、日本人不在の現実に悲しさを醸し出すということだというのは理解できないではない。でもまあ、それでもどうでもいいことには違いないわけで、文化だろうとグランドチャンピオンは相撲の強い人でなければ不公平なのである。日本人をどうしても強くしたいなら、現に強いモンゴル人の分析をさらに進める必要があろう。いくら大相撲が日本の文化だとしても、日本人そのものが根本的に強さにおいてモンゴル人に劣るならば(その可能性がそうだけど)、いくら何を言ったところで、モンゴル勢力の隆盛が終わることは無いのではないか。
 しかしながら実際の話になると、相撲のような厳しい格式と格闘技という世界においては、人間そのものが強くなければ勝負に勝てないという現実の積み上げが、モンゴル人の強さを証明しているということは言えるような気がする。白鵬は体格的にもバランスが取れているが、日馬富士は幕内で二番目に軽い力士だし、鶴竜だって体格に恵まれている方ではない。それぞれが違うタイプでそれぞれに強さを発揮できるスタイルを持っているとは思うが、それだって必ずしもモンゴル人に有利な条件を持っていたようには見えない。しかしちゃんと三人とも強いという事実が、ゆるぎない三横綱時代を作ったというに過ぎないのである。これを打開するのは努力というあいまいな言葉でしかないというのが何より心もとないわけで、圧倒的に有利な立場にある日本人が力を出せないということに、もう少し力士の力量以外の事で考える必要があるように思う。実際には本人よりも、日本人を取り巻く背景の方が妨害していることがあるのではないか。稀勢の里があっさり横綱候補から脱落したのと対照的に、鶴竜は一発勝負を引き込みものにできた。運もあるとはいえなくもないが、これは実力以上の「何か」ではないか。ひょっとするとそれは、日本人力士が居なくて情けないという日本人の心理にあるのではないか。僕の疑いはそういうことで、いっそのこと精神的に関係が薄くなると、あんがい簡単に日本人横綱が誕生するのではないかと疑っているのである。
 自分のどうにもならないことを他人に期待するのは仕方のないことかもしれない。しかし実際には、本当に何の関係もないことである。過度の圧力が日本人に不利に働いている可能性があることは、他のスポーツにも言えそうな気がする。まあ、少なくとももう少しおおらかにモンゴル人横綱を祝福することが大切だろう。何よりそれは、日本の大相撲の横綱であることに変わりがないのだから。
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ポイ捨ては止めましょう

2014-03-27 | 雑記

 この間移動中目の前に火花が散った。なんだろうと思っていたら、タバコのポイ捨てだったようだ。以前は日常的なものだったから何とも思わなかっただろうけど、久しぶりだからびっくりした。
 まあ、それだけの事なんだけど、タバコを吸う人には受難な時代であることに変わりはない。頑張って吸わないことには維持が難しい時代かもしれない。世界遺産が残るかどうか、文化というのは残るのがむつかしい問題だ。しかし悪癖というのはそう簡単には無くならないものではあるが…。
 さて、しかし、僕はそういうことをどうこう言うつもりは毛頭ない。現代社会の中の議論としての話ではなくて、人間が犯してしまいがちな罪の問題として気づかされたということなのである。
 問題は実はよく知っている人が、携帯の灰皿を持ちながらこのような行動をしてしまったらしいということなのだ。酔っていたということは言えるが、ちょっと暗くなった路地に入って、タバコを投げ捨てるような行為に及んだらしい。
 要は見られていないという勘違いだろう。誰も見ていないという判断で大胆になった。さらにそのポイ捨てが、想像以上に目立ったという誤算だろう。
 先に書いた通り、ご本人は携帯の灰皿のようなものを首から下げている。そうして、たぶん普段でもそれは使用しているような感じはある。
 場所の問題はあるとは思うが、急に暗がりに入ったという通路だった。さらに路肩に側溝があった、ついついということで投げ捨て、火花が散った。
 結局人の倫理観というのは、他者との関係ということなのだろうと思う。まったくの匿名性も含め、他者との関係が明確でないものには、少なからずこのような難しさをはらむものではなかろうか。
 第三者を意識しない個人問題、それは自由かもしれない。しかし、自由とは他者への侵害があれば、停止する。見つからなければ良い問題というのは結局は破綻するということだ。発見されなければなかったこと…、そうではないからこそ、コロンボだって活躍できるのであろう。
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悪妻をどうするか…   刑事コロンボ・逆転の構図

2014-03-26 | コロンボ

刑事コロンボ・逆転の構図/アルフ・ケリン監督

 悪妻を持ってしまったら問題というのはある。歴史的に名を成した人に悪妻のある人も多い。いや、良妻が居るのなら悪妻だって居るわけで、悪妻だから名を成すことができたのかという根拠も無いわけで、たまたまかもしれない。しかしおそらくそのことで苦労しただろうことが想像されるというのが、なんとなく親しみ深いというか、楽しげと言うことかもしれない。しかしながら殺してしまいたいほどの悪妻ということになると、ちょっと話は慎重にならざるを得ない。その運を呪うにしても、果たしてその選択でいいものだろうか。悪妻を殺して背負う罪に見合うものなのだろうか。
 とはいえ犯人は殺してしまったのだから仕方が無い。コロンボの場合基本的にそういう設定になっているが、それなりの地位にある人が殺人犯になる。このリスクに見合う理由が大切という気がする。単に性格の悪い女と付き合っていくのが面倒なくらいで、普通は殺すまではしない。妻の地位というものがあるにせよ、もう付き合いたくなくなったのなら、それなりに別の方法を選択するほうが賢明だ。まあ、ことはそう簡単には運ばないのかもしれないが、女性が夫を切るより、男性が妻を切るほうが法的には難しいのかもしれない。そうするとこれは社会的な圧力に屈してしまった結果だろうか。殺人はある意味で身勝手だが、退路を断ったのが法的な問題なら、それなりに気の毒である。
 気の毒なのは犯人やその悪妻だけではない。この事件に巻き込まれて殺されてしまった人の良い受刑者である。せっかく更正の機会に一所懸命なのに、あえなく騙されて殺されてしまう。僕はこの人のためにコロンボに頑張って欲しいと願うのである。これは必ず犯人は挙げられなければならない事件になってしまった。人の正直な希望を踏みにじることが、それほど罪深いと思うのだろう。もちろんお話としてはトリックとしてこの人が殺されるという展開でなければ面白くないのである。それなら恨むべくは脚本家かもしれない。そういう見方でドラマを見ている人から恨まれるとは、よもや考えていないだろうけれど…。
 信用できない酔っ払いの証言の裏を取るために、コロンボが同じような立場の人間に間違われたり、物語の内容も、それなりに凝っていて面白い。そういうキャラクター遊びをするような人気が既に高まっていた証拠だろう。そういうことを語らずに面白かったものが、強調されて楽しまれるようになっている。後にピーター・フォークが、コロンボそのもののイメージの払拭が困難になり、それ以外の役を演じることが許されなくなったように、アイコンとしての確立が重層的に決定づけられていくのはこういうことなのであろう。
 それにしても犯人は、身を切って自分の被害者的な立場を演出する。実はこれが一番僕にはできそうに無いことだ。そんなことで感心しても始まらない話だけれど、自分の足を銃で撃って、その後に行動できると計算した根性は見上げたものである。まあ、そういうことがなければ成功しないトリックということで、本当は疑いを持っているということではあるんだけれど…。
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消失した食いしん坊の店

2014-03-25 | 

 いつも帰り道には閉店しているので気付くのが遅くなってしまった。しかし、やはり何か様子がおかしい。あるべきところにあるべきものが無い。いや、建物はあるから存在がなくなっているという違和感ではない。損なわれて戻らない何かがそこから無くなってしまったのだ。
 休日にいつもの愛犬との散歩コースを外れて遠回りして確認しに行った。そうしてやはりシャッターに張り紙がしてあるのを確認する。閉店する旨と、長らくお世話になりました、とそこには書いてあった。白紙にマジックで、少し引っかかりながら書いたような文字だった。痕跡はそれだけで、看板やその他のもろもろのものは、きれいにというか、全部剥ぎ取られてしまっていた。何の事情かは分からないが、その店は消失してしまった。
 特に通っていた店というわけではない。比較的ご近所だけど、歩いていくのは少し遠い。さらに駐車場が狭い。昼時に数台の軽トラックが停めてあることはあるが、普通車では二台停めたらもう一杯になったような狭い感じだった。バイクもあるので出前もあったのだろう。そういう近所の店として利用している人がほとんどだったろうけれど、少なからぬファンが居たことも聞き及んでいた。どういうファンかというのはだいたい決まっていて、いわゆる元気な人である。
 田舎の店ではたまにあるが、とにかくこの店の売りは量が多いので有名だった。何も言わないのにいつも大盛。常態化した特盛サービス。質より量とまでは言わないが、とにかく腹いっぱいに食ってもらおうという魂胆だったのだろう。
 店の名前は「とんとん亭」といっていた。これはうろ覚えなんで間違いがあるかもしれないが、なんとなく「トントン亭」だった時期もあったように思うし「豚豚亭」だった時期もあるような気がする。最終的には看板に「東東亭」と掲げてあった。確かめたわけではないが、そういう気まぐれっぽい紆余曲折があったのか、単に僕がそのように勝手に頭をめぐらせていたのだろうか。キティちゃんのマークを勝手にメニューに使用していたこともあったように覚えていて、これは後に修正したようで、誰かに注意を受けたのかもしれない。善良そうなオジサンオバサン(年齢少し高め)の二人で切り盛りしていたが、客はたいてい黙々と漫画などを読みながら何のつながりも無く食うというスタイルが多かった。
 時々一元さんが入ると、ちゃんぽんとチャーハンのような組み合わせをうっかり注文する。出てきて「うはーっ」となるわけだが、回りの人間はそれを楽しみになんとなく黙っているというのはあった。それでも無理して食うような客が、好ましい姿であったと思う。苦労して完食するような充実感が、味のひとつであったことは間違いあるまい。
 メニューの名前もユニークなものが多かった。スタミナ定食というのが比較的平凡で、男前定食とかルンルン定食とかヤング定食とか恥ずかしげな名前が並んでいた。横に括弧書きで(ジンギスカン)とか書いてあって、それなら最初から…、などとは言ってはいけない。まあ、そういう洒落っ気が正直に伝わらないようなガサツさも、またこの店のいいところだった。
 詰まるところなんでやめられたのかは分からないのだけれど、昼時はそれなりに繁盛していたようには見えた。学生街じゃないんだからむやみに多い必要は無かったのかもしれないが、やはりこういう無理のあるような特徴のある名店が消えてしまったことは、残念に思えて寂しいのだった。
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利己的な欲求の果て   刑事コロンボ・愛情の計算

2014-03-24 | コロンボ

刑事コロンボ・愛情の計算/アルフ・ケリン監督

 刑事事件の捜査であるとか、裁判における証言などは、身内のものは有力視されないという話は聞いたことはある。本当に有力なものだってあるのが当然だと思うけれど、やはり信憑性において、疑いをもたれるということはあるのだろう。身内はたとえ身内の犯罪を知っていたとしても、嘘をついてでもかばうものだ、ということなのだろう。それはいかにも本当らしい気もするし、しかしやはりどうなのかな、とは思うわけだ。
 身近な人間をかばうというのは、それは確かにあるだろう。それも程度問題とは思うが、僕が自分の身内の殺人事件を知ってしまったら、いったいどうするだろう。はっきりしているのは、さすがに警察より前に本人に確認するだろうとは思うわけだが、その後の行動は、やはりどうにもはっきりしない。ケースによっては、隠蔽を頼まれても断ることを選ぶ場合もあるかもしれない。僕が冷たい人間だという告白のつもりではなくて、誰だってそのことの重要性と、さらに逃げおおせるとしてもそれでよいか問題に悩むだろうからである。人が死んでしまうという事実というのは、絶対に変わらないものだ。そういうことの前に、本当に人間が耐えられるのかということに自信がもてそうに無いのである。
 研究をしている人間にとっては、最初に成果を出すということが重要で、さらにそのことを世に知らしめすための論文が重要になる。それはその世界でない人間でも薄々分かっているが、その成果を横取りして名誉を得るということだって、理屈上は可能のようだ。ジャーナリストのスクープのような性格のようだが、競争というのは多かれ少なかれ早いか遅いかが重要なことに変わりは無い。なんだか最近もそんな話を聞いたことがあるような気がする。このお話は昔のものだからタイムリーではない。しかし、今の時代にも繰り返しそのような事件は起こってしまう。つまり、このようなやり取りは実に人間くさい習慣のようなのだ。基本的な欲求といってもいいかもしれない。そうしてさらにその欲求の延長に殺人事件が起こったわけだ。
 子供のために犯した罪は、人のためになることなのだろうか。答えは極めて利己的な問題のようだ。倫理というのは人間の都合だが、しかしそれは欲求に反することなのだろうか。身内をかばったり名誉を得たり殺人を犯したり、結局は究極に自分のためのエゴである。自分がそうしたいと望む欲望というものから、なかなか個人は逃れられない運命にあるらしい。
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王様はおとぎ話では無く、現代にも居るんだよな

2014-03-23 | 時事

 クリミアのロシヤ編入のニュースを見ていると、僕が生きている現代においてもこんなことがあるんだなあ、と改めて驚く思いがする。ロシヤってソ連とは違うと思っていたのは、やっぱり幻想のようなことだったのかとも思う。プーチンはマッチョでなんとなく日本贔屓っぽいところもあるから、そんなにひどい印象は無かったけど(いや、国内的にはいろいろやってることは伝え聞いているし、善人で無いことは分かり切っているが…)、本当に現代の王様として君臨している人だったんだなあ、と感心することしきりである。世間的には国際的な大騒動ということになっているようだけど、事実上覆されることはなさそうだから、これで決定という事実がなんともはや呆れるほどの驚きだ。
 ところでこの編入については気になるところが2つほどある。一つは何よりクリミアという地区での住民投票で多数なのだからということだが、そういうところは案外他にもあるんじゃないかと思うことだ。今は反発しているところでも、やっぱり編入された方がいいと思ったり、そのまま独立を勝ち取ろうと考えている場所というのはありそうだ。有名なのはカナダのケベック州の様なのもあるから、飛び地だけどフランスになるということがまかり通るということを考える勢力も居るんじゃなかろうか。または日本のような国だって、例えば東京のようなところは独立してもやっていけるだろう。あそこだけ米国領になるよ、と国民というか地域投票をやって既成事実を作るということも、不可能とは言えないのではないか。
 もう一つは他らならぬロシヤの言っている理屈の歴史問題。もともとロシヤだったといわれると、そういう根拠を持ち出して論陣を張る地域というのはやはりけっこうありそうだ。特に東アジアにおいては歴史の長い中国という国がある。歴史的にみたら朝鮮半島はくり入れられそうだし、日本だって沖縄は取られそうだ。それどころか本土だって危うい。
 結局強い国はなにしたっていいということが改めて確認されているというのが何より凄いという感じだ。世界の警察たる米国の地位が対照的に低下しているという事実もさることながら、彼らだって歴史上は散々そんなことはやって来たわけだ。今になって紳士ぶってロシヤを非難してみたところで、時間的なスパンを長く見てみると、さきにやってきた連中は西側諸国のほとんどであるわけだ。面白いのは旧ソ連のさらにロシヤに近い地域だけが強い主張で更なる制裁をすべきだと呼びかけている点で、彼らの恐怖感の度合いというか切迫感の表れということもできるのかもしれない。もちろん、今述べてきたように対岸の火事だと余裕をかませるほど東アジアは安定してないんだけど…。
 結局強いわがまま国というのは、強ければどうにでもなるということだ。強い弱いは時期的なものがあるから、いつまでもプーチンが強いままであるとは必ずしも言えない訳だが、そうなれば後でこれが地雷になってしまうということは重々承知の上でだけれど、今は完全にプーチンの勝利ということが言えているわけで、まともな正当な政治家ならば、どの国であっても、やはり強い国を目指すという選択をするところが増えるんじゃないだろうか。地球の覇権争い(あくまで人間社会だけど)というのは、新たな局面を迎えているのではないだろうか。
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通勤コースを比較する

2014-03-22 | 掲示板

 職場が引っ越したので通勤にも変化あり。いろいろとルートは考えられるが、距離が短くて済むことと、やはり時間的に短いと思われるものを選択すべきところだろう。
 で、考えられる最短コース候補は、おそらく2パターンまで絞られた。広域農道コースと国道中心コースである。行きと帰りで比較することにした。
 行きも帰りも共通する部分は職場から国道205号と34号線を通って野岳入り口までの10.3キロ。これが夜だと14分、朝は15分といったところである。活きている信号機が10台ほどあるので、運によっては2.3分の違いがあろう。そのまま国道中心に自宅に向かうコースだと残り8.4キロ。信号機がおよそ22本でやはり14分を要した。合計で28分(+-2.3分)である。一方野岳入口を登ってレインボーロードを使うと8.7キロだった。時間的には朝であるのと、信号機が5本(ただし、少ないが確実に引っかかるタイムラグ設定が4本含むなのだ)、やはり14分といったところである。これも今回に限って言うと、合計28分に変わりが無かった。
 距離にして300mの違いがあるが、感覚的には距離の多いグリーンロードを使用したほうが、かなり時間は早いとは思われる。特に朝の国道の交通量と、点滅信号で右折する交差点などを含む部分、さらに方向によってはタイムラグの長い信号機もあるので、朝に国道コースを使用するのは避けるべきだろう(以前の職場で実験したところ3~5分も差があった。朝の5分は大変に貴重に思える)。
 しかし距離の300mといっても行き帰りの合計だと600m、24日程度出勤することを考えると14.4キロの距離の差が出る(年間だと172.8キロ!馬鹿にできない差だ)。当然ガソリン代には1.5リットル以上の差があることだろう(僕の車の燃費はリッター9キロ程度である)。さらに山間部と平地との差があるから、燃費にもそれ以上の影響がありそうである。
 結果、4月からの交通費の請求は、当然距離の短いほうにするけれど、朝は農道を使用し、夜の帰りは国道のままという折衷案が妥当なのではなかろうかと思われる。
 実際には交通事情があるので、時間帯によって通勤時間は大きく異なる可能性が高いが、僕が日頃通勤している時間帯は、ちょっとだけピーク時から外れているという幸運がある。もちろんそれを見越して習慣を変えているということはあるが、よっぽどのことが無い限り、今回の実験は平均値に近いものと考えられる。
 もちろん、これは寄り道を含まない純粋な距離なので、両方山間部を使用したほうが誘惑が少ないから経済的だという考えもある。コンビニの数でも4店舗国道には多く存在し、スーパーや商業施設とのアクセスも容易だ。一方で農道には狸を含め動物の飛び出しや、速度超過の危険もある。まさに一長一短の選択であることに変わりは無い。また大村湾を望む風景にも、湾岸線と農道には違った味わいがあるものだ。季節や気分によって自然に使い分けられることになるのは、当然と考えていいだろう。まさに恵まれた環境に感謝である。
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異常なのはまともな証拠だ   ハサミ男

2014-03-21 | 読書

ハサミ男/殊能将之著(講談社文庫)

 多重人格は基本的には自分自身である。自分の中の違った側面は、普通の人でも十分意識的に持っているものだろう。そういうものが統合されて一個人の人格がある。普段は物静かで落ち着いている人が、些細なことで癇癪を起こして驚かされたりするという話は、その意外性においては目を見張るものがあるが、しかしそれが異常であるとまでは言えない。人というのはそういうものなのである。
 しかしながら本当に完全に人格が分離した多重人格者というのが居るらしい。それがこの物語のいわば主人公である。比較的最初からそのような異常性のあることは明らかにされているのだが、何故なのかはやはりよく分からない。猟奇殺人を無差別にやれることで十分に異常者であることは間違いなさそうだが、多少偏った考え方をしているとはいいながら、ちょっとしたオタク的な人には十分見られる傾向のようにも感じる。自殺(未遂)願望にはまったく何の理解もできないが、それでもそれなりに普通の生活を送りながら殺人の機会を、そして準備を整えていることが理解できる。まさに淡々と自分の趣味を楽しんでいるということかもしれない。しかし、その実行が自分ではなく他の人が行い、さらにその被害者の第一発見者になってしまうという状況に置かれてしまう。犯人が自分ではないと明確に知っているという状況と、このままでは余罪として他人の罪を背負い込む可能性が高くなってしまった。警察とは別に犯人探しをせざるを得ない状況というか、さらに第一発見という状況から、警察も知りえない状況証拠も掴んでいるという立場にあった。そのまま自殺を成功させることも可能だが、警察よりも早く犯人を割り出せるチャンスも持っているということのようなのである。
 物語は大きく警察の捜査と、このシリアルキラーとの話が交互に展開されるということになる。文章がこなれており違和感が無くこの状況にもなじんでいく。殺した後とはいえ、女性の喉にハサミをつきたてるという行動が何故必要なのかはよくわからない。もちろん、これはトリックのひとつと考えてもいいのだが、気持ちが悪く冷めた描写というものを除けば、いわば物語に身を任せて、最後の驚きの種明かしまで、身をまかせっきりにして読んでいれば済むことなのである。
 僕なりに思うことはある。しかしそれ以上に、実に良くできた物語であることには脱帽するより無い。ミステリファンなら言われなくても即読むべきだろう。だた、僕が持った印象というのは、人間の壊れ方がそれなりに冷めたものなんだな、ということだけかもしれない。そのほうが物語の効果が高いことは分からないではない。しかし、おそらく周りの人間もそうなのだが、実際にこの状況がかなりおかしいことは、平たく言ってこのまま異常を保てるほど容易ではないと感じているのではなかろうかということかもしれない。僕の仕事とも関係のある所為かもしれないが、社会生活が曲がりなりにも普通に送れるのであれば、それはかなり異常ではない。殺人を引き起こすことは異常だとはいえても、精神障害の持ち主が、冷静に事件を隠蔽できるほどの理性を持ってなしえるとは、やはり抵抗を感じてしまうのかもしれない。繰り返すがそれではお話が成り立たない。だから多重な人格が冷静になれるという設定でなければならないわけだが、そういうものを現実で思い起こすと、アメリカのような広大な社会ならいざ知らず、日本社会での成立がなんとなく危うく感じてしまうのであろう。完全に個人の感覚に過ぎないが、もっと人は冷静に異常でないからこそ、冷酷な殺人が可能ではないのかというのが僕の感覚なのかもしれない。異常者は、もっと簡単に足がついてしまうというのが、実際には現実的なのではなかろうか。それこそが本当に怖い人間性だと、僕は疑っているのである。
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裏切ったわけ

2014-03-20 | net & 社会

 もう既にお仲間はご存じだろうが、結局スマホに流れてしまった。
 もともとは4年使っていた携帯電話の電池の持ちが悪くなっていたというのがある。あんまり通話してないのに一日やっという感じになって来た。ちょっとネットで遊ぶと、昼前に不安になる。一人でいる時間が長くなるとちょっとつらいかな、と思うようになった。いわゆる替え時である。
 さて、機種変更するにあたって考えるところがある。当然スマホ、という思いはあるのだが、周りの人間が格闘していることは知っている。僕もいつの間にか古い人間になっているし、そういう格闘の毎日におびえるのは嫌である。さらにやはりタッチパネルを触ってみた感覚だと、明らかにテンキーより扱いにくい。慣れの問題とは言われるが、こんなことに時間をとられるのは人生の喪失ではないか。そういう疑問が頭を巡って、機種変更の前にタブレットを先に買ってしまった。それで、携帯はガラケーにすればいいかと…。
 そういうわけで我が頑固さに一時は満足していたのだが、この携帯が実はお財布携帯に対応していないことが後に判明する。そんなに使うわけじゃないが、あれば便利だし、エディの残高が一万円近くある。ネットでいろいろいじってみるが、一度お預かりサービスに預けてしまったら、電話でないと受け取りができないようだ。困った。
 さらにタブレットを出張などに持ち歩いてみた感想だが、Wifi環境というのは、あんがい限られていて不便である。使用が大幅に制限されるうえにストレスがたまる一方だ。
 いつのまにかタブレットをいじるようになると、最初は戸惑っていたものの、それなりにタッチパネルにも慣れてくる。息子たちに協力してもらってLNEにも加入して、家族でやり取りしたりして遊んでいるうちに、これはこれで生活の中で面白くなってしまった。
 つまり、この誘惑に抗えなくなってしまったのである。人間というのは贅沢な生き物で、不足が解消できるのに、我慢してそのままの状態でいるのはさらにつらいことなのである。要するに目の前にニンジンがぶら下がっているまま、手を出せずに生きていくのは単なる拷問である。
 というわけで、改めてよろしくの人と、裏切ってごめんなさいの人とに言い訳しているわけである。いやあ、新しい環境になれるのは楽しいです。
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現役を続けられる人   人生の特等席

2014-03-19 | 映画

人生の特等席/ロバート・ロレンツ監督

 指摘している人もいるようだが、「マネーボール」への批判めいたお話ということはいえるようだ。実際に老練なスカウトマンにしか分からないようなことというのはありそうであって、しかし単純にカーブが打てないというのは情けないにしろ(明確なので対処しようがありそうだし)、データを重視しないほうが不公平だとは思うのだが…。さらに棚から牡丹餅みたいに凄い投手を獲得するという裏技まであって、痛快だが都合よすぎる。
 まあ、批判としては破綻しているものの、玄人にはクロウトしか分からんのじゃ、ボケーっという考え方に一定の共感があるらしいことは理解できる。実際にそういうことはあるわけだし、世の中に専門家が必要なことくらい常識である。それで飯を食っている人がゴマンといて、専門知識と素人との乖離が激しいものほど、要するにお金になるわけだ。そういう知識が陳腐化したら、いわゆる食えなくなるだけのお話であって、いくら郷愁をあおっても仕方あるまい。専門性の価値というのはそういうもので、結局は物語にして正当化しないと成り立たないような分野であれば、衰退して当然である。しかし世の中というのは必ずしもそのようにシビアに厳しいとばかりは言えず、結局既得権益に胡坐をかいている分野のほうが多い。そういうことと戦うほうが本当に厳しいのであって、現実を受け入れない勢力と日々戦っている現場の人間がいるというのが、リアルな世界観という気がする。もちろんでも、浪花節のほうが映画としては面白いのかもしれないが…。
 まあ、そういうお話でご都合主義的な展開も多いのだが、イーストウッドの存在感で、そういう疑問も払拭してしまうような力がある。大して演技して無くても、勝手に観る方が勘案して理解するということかもしれない。他のオヤジなら、早いとこ引退しなよ、と普通に思うところ、もうちょっとがんばってもいいんじゃないか、と思わせられるわけだ。
 実のところ引退というのは難しいもので、本人が潮時と思えばそうすればいいとも思うし、本人がそう思わないでも回りがそう思う場合が厄介だったりするわけだ。一昔前の相撲のような世界だと、ある程度のピークを保ちながら後進に譲る美学のような場合もあったし、最近の野球選手のように、ずいぶん高い年齢でもプレーを続けるような人が称えられたりする。まあ、人によるんだということになるとその通りなんだが、現役のプレーヤーならそうでも、肉体的な労働をやらない人だと事情は違うかもしれない。日本のように年齢で一律に定年のような引退が決められている社会と、アメリカのように定年という概念が無い社会と引退に対する見方というのは違うものがありそうだ。ただ、違うけれど現役とはいつまでか問題というのがあって、つまるところその人しだいなわけで、イーストウッドならまだ働ける、という映画だったということなんだろう。
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捨てるのは先送り

2014-03-18 | 境界線

 最初は選んでいた。捨てるべきか、残すべきか、それが問題だ。
 捨てるべきものは実に多い。この機会に捨てて良いと決断できるのは、それなりに気持ちがいい。どんどん選別して、袋に入れたり、紐でくくったりして、処分のためにせっせと運ぶ。量が多いとそれなりに充実感がある。なんだかその分身軽になって、自由になったような錯覚がある。よくもまあこれほどため込んでいたものよ、われながら呆れる思いだ。
 しかし、これはこれで余裕のある話に過ぎなかった。捨てられるのは余裕の表れだ。捨てられるようなものが溜め込まれているから捨てられるだけの話で、日常的に必要なものと混在している不要物というのは案外多いのである。さらに不要だったはずだが、不要の中に必要が混ざっていたという疑いもある。ときは年度末である。会議も多いし、案内などの連絡事項も多い。不必要の中に確認すべきものがあった可能性はぬぐえない。
 そうこうするうちに出張に出てくる。以前なら主張前ならある程度の放置で対応する。そうして帰ってからひも解いて対応するればいいだけだった。ところが今回は微妙に勝手が違う。来る先から判断を早くしていたので、出欠の連絡が済んでいると考えられるものは、早めに綴じたり、捨てたりしてしまっている。連絡があっても既に捨ててあるのか段ボールに入れてしまったのか定かでない。相手のあることだからこちらのミスだろうが、こちらが事務局に案内発送を頼んだものでさえ、自分の出欠が定かでない。妙な感じのちぐはぐ感。探している余裕はないし、さきに進まねば〆切は乗り切れない。
 結局はすべてを箱に詰め込むという選択を選ばざるを得なくなる。捨てているような時間的な余裕を排する。それこそが時間の節約に他ならないのである。とにかく持って行った先で、物を選別するより無いのである。
 物を捨てられないのは土地があるせいかもしれない。今までも置いておけるスペースがあった。さらに移転先はそういう予備を準備している。開かずの箱がそのまま残る可能性が高くなっているのかもしれない。いずれは場所は枯渇するだろう。そういう将来のために先送りをする。それが結局は王道の選択肢となってしまった。モノというのは捨てられない方が人間的なような気がする。
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騙され方も上手になろう   模倣の殺意

2014-03-17 | 読書

模倣の殺意/中町信著(創元推理文庫)

 ミステリを読む楽しみは、上手くだまされることによってその質の高まりは違う。考えてみると実にマゾ的である。逆にあまり楽しめないのは、上手くだまされなかったという自分の資質が大きいということも言える。幸い僕はだまされやすいという感じがあって、すなわちだからミステリは読んで楽しいということになる。上手な文章を読むだけで楽しいという人もいるだろうけど、そういうわけで、文章がそんなに自分に合わない場合でも、実際は大きな問題にはしないところがある。文章というのはぜんぜん自分に合わないというようなものというより、徐々に慣れていくようなことのほうが多いようだ。書いてある内容が馬鹿げていると途中で放り出したくなるけれど、だから文章に癖があったり感心しなかったりしたとしても、あんがいいつの間にか読み進んでいって慣れちゃうということになるのかもしれない。
 さてしかし、途中からなんだかちょっと違和感があったのは確かだ。なんかお話の錯綜の仕方にほんのわずかだが違いがあるようにも感じていた。それはおそらくトリックが隠されているのだろうという期待もあるし、ひょっとすると作者の勘違いや間違いが残ってしまっているのではないか、という疑いのようなものだったかもしれない。読みながら騙されるのが目的だから、謎解きを本当にしたいわけではない。トリックが分かってしまったら、読んでいた楽しみが台無しだ。しかしその前にお話自体に齟齬があれば、さらに残念だ。ちょっと嫌な予感のようなものを持ちながら読み進んだということかもしれない。
 そうであったのだけど、最後には安心できた。杞憂だったということかもしれない。なるほどそういうことか、それ自体が計算されていたんだな、ということだった。むしろ著者の読者へのヒントだったということもあって、あんがい著者は親切な心持の人なのかもしれない。実はもう物故されたらしいのだが、今になって再発掘されて売れているということも、なんだか少しお気の毒で、さらに人の良さのようなものも感じさせられる。
 よくできた物語であってもドラマにしにくい分野というものがある。以前ならファンタジー作品で映像化が難しいという意味でもあったろうけど、CGがここまで発達すると、あんがい低予算でも映像化が可能になった。残る分野はこのようなミステリということになる。つまり本を読まない人には、この分野を楽しむことすらできないわけだ。意味が分からない人もいるかもしれないが、そういう人にこそ手にとってほしいという意味である。実は古典的な作品らしいが、現代的にタイムリーなのは、このような作風が今では逆に求められている可能性がある。そういう意味では流行なのかもしれないが、時代はめぐって面白いものだな、と改めて思うのだった。
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