カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

オプショナルが多いは、楽しい?

2019-10-31 | 雑記

 長野県は高地であることと、比較的首都圏と近いという土地の利をいかして、葉物野菜の栽培が盛んである。レタス農家なども多いと聞く。なかには、ものすごく成功している農家があるという噂も聞いている。産業として成り立っている素晴らしい地域であるのだろう。
 そういうレタス農家の人が話をしているのを見た事がある。会社形態にしているようで、広い農地に二毛作で野菜を作っているという。収穫の時期は大変な忙しさのようで、さらに葉モノは傷みやすいので、人の手で収穫する必要がある。結果的に機械化しにくい部分が多く残り、労働者の確保の必要がある。そうして実際にそういう労働を担っているのは外国人で、宿舎などをはじめ、そのような人材を集めて仕事をしている様子だった。
 そのような環境についてはひとたび置いておいて、その日本人社長さんの話で興味を引いたのは、農業はそのような手間や経費が掛かるために、基本的には儲からない、としながらも、やめられないものだ、というのである。それは、農業そのものが「オプショナル」が多すぎるためだという。天候はもちろんだが、実に様々なことが起こる。気が抜けないし、結果が見通せない。そうして忙しい。そうだからこそ、やれるうちはいつまでもやるしかない。やめられないのである。
 僕も曲がりなりにも農業はやるが、あまりそのようには感じていなかったかもしれない。やめられないのは浮世の義理があるためで、要するに地域性が強く、一ぬけたがしにくい。実際に何とか頑張ってくれといつも言われている。僕がやめると困る人たちがたくさんいるのである。参入してくる人はまれだし、だからと言って安泰でもないし、むしろ環境が厳しいから、先行きは不安である。幸い近年は人材が何とかなっているので、とりあえずはだいぶホッとしているが、しかしそれでいつまでも行けるのかどうかは、やはり未知数のままである。
 要するに結構現実は、つらいというのが身に染みている。オプショナルが多いというのは同意できるが、あの社長は、だから楽しんでいるのではないか。
 なにも楽して儲けようということではないが(そうありたいとはぜひ思うが)、日々はそうやっても楽しむことができるものなのだろう。いや、やっぱり長野は儲けているのではないか。そういう疑いは消えないが、もしそうであるなら、やっぱり頑張りがいがあるのにな。そういうことは、またやりながら考えなければならないようだ。
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ユダヤ人がポーランドで生き延びるには   二つの名前をもつ少年

2019-10-30 | 映画

二つの名前をもつ少年/ペペ・ダンカート監督

 原題はrum boy rum ポーランド映画。映像の最後に主人公のモデルとなった人物が出てくるが、要するに実話を映画化したものらしい。
 ユダヤ人の強制居住区から逃げ出した8歳の少年の逃避行が描かれる。ドイツ兵に捕まれば強制収容所に入れられ(僕らは歴史を知っているのでどうなるか知っているが)、どうなるかわからない状況で、飢えをしのぎながら逃亡生活を送る。子供でも農場などで労働がさせてもらえるらしく、そういうことをしながら食いつないでいく。森の中でサバイバルもする。名前を変えてユダヤ人であることを隠すが、立ちしょんなどをすると、ユダヤ教のしきたりで割礼しているのがバレたりする。なかなかたいへんなのである。
 何よりポーランドの冬は厳しい様子で、この極寒の地で野営して暮らさなくてはならない過酷さが凄まじい。これ、本当によく生き延びたものである。九州の人間なら間違いなく、誰であっても凍死しているはずである。
 子供であることと、その子供なりの賢さがあって、何とか庇護を受けながら、しかしその弱さから、同胞のポーランド人の大人から騙されたりもしながら生きていく。家族との訣別のいきさつなども、徐々に明かされていく。
 孤独でつらく厳しい戦争中の逃避行を描いて、たいへんに素晴らしいドラマになっているのではないか。人間が生きていく厳しさが見事に描かれている作品である。妙なお涙頂戴の反戦映画を見るより、数倍も有益な反戦映画といえるだろう。近年はこのような映画が増え、やっと冷静に戦争を振り返ることができるようになってきたと感じる。時代も変わってきたのである。
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人生相談に答えがあるのだろうか

2019-10-29 | 掲示板

 雑誌などに人生相談のようなコーナーがある。多くの雑誌にこれはあって、不思議なことに、それなりに人気もあるのではないかと思われる。何しろ名物のようなことになっている場合がある。
 しかし、この欄は、ほとんど読んだことが無かったように思う。多少活字中毒のようなところがあるので、まったく読んだことが無いわけではない。いつの間にか読まなくなっただけだろう。理由もよく覚えていないが、要するにあまり気に入らないからだろう。新聞の読者の投稿欄などと同じで、妙にくだらない気もする。相談するなら友達がいいんじゃないか。
 そうなんだけど、誰かが面白いとある人の相談の欄をほめている。そうするとちょっと読んでみるかと覗いてみる。
 それがやっぱり感心しないのである。俳優になろうとしていたが、時もたち、勉強もいろいろしたが目が出ない。年齢もあるので潮時かもしれず、諦めるべきだろうか? という。答えはおおむね夢を見る能力が落ちたのであればやめたらいい、というものだった。実は回答者は鴻上尚史さんで、僕は普通にファンというか、テレビでの印象は悪くない人である。でもこの答えはどうなんだろうか。まあ、分かるように詳しく書いているが、僕にはあまりよくわからない。演出家なので、このような相談が来たのだろうが、だいたいこんな質問よこすような神経が分からないのかもしれない。才能あるかないか、一度見てくれないか、というのならわかるのだけど。まあ基本的には自分で決めなさいと言っているわけである。答えとしてはそれでいい気もするし、実際それしかないとは思うが、だとしたら、演出家の僕であっても分からない、というべきではないのか。
 などと考えてしまうので、僕はこのような欄を読まなかったのではなかろうか。
 以前何かのエッセイで村上春樹が、相談事を受けてもアドバイスや忠告などはしないし出来ない、と書いていた。ただ、うーんとか、そりゃ大変だ、とかいつまでも相槌うって聞いているだけであるという。それは立派なカウンセリングの傾聴という手法だが、そういうことは書かずに、自分にはアドバイスする能力なんてないというような書き方だったように思う。恐らく知っててそうしているとは考えられるが、基本的には正解であろう。しかし村上はやはり、それとは別に紙面などでは、相談事に冗談で返して答えることをよくしている。もちろん、軽く楽しいことを言っているだけのことだが、忠告やアドバイスに変わりないし、それにその答えのセンスもいい。むいているのである。
 少し長くなりだしたのでやめるが、実はこの機会に、他の相談欄を読んでみたりして比較している。上手いといえば上手い回答をひねり出しているケースがそれなりにあるし、精神的に楽になるような根拠を引っ張ってきて、為になる回答をしている人などもいる(すごい)。個性があるから妙な回答をしてそれらしい人もいる。なるほど、だんだんわかってきたが、そのように読むコーナーだったのだな。要するに当たり前だが質問は選ばれていて、回答が楽しければいいようである。まあ、それしかないわけだが、ラジオのようなものなのかもしれない。それを紙面で読みたいというのがあるんでしょうね。これは、もう少し続けて解析してみようかと思い始めている。
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棺桶からは、容易に出られない   リミット

2019-10-28 | 映画

リミット/ロドリゴ・コルテス監督

 男が棺桶のような箱に閉じ込められた状態でどこかに埋められている。多分中東のイラクかもしれない。箱の中には携帯電話とライター。男は外部とこの電話で助けを求めるよりない。だんだん状況は分かってくるが、何か運送の仕事のためにやってきたが、テロで拉致されて埋められたようだ。電話で米国のエージェントを通して救出を依頼していくわけだが、同時にこの電話にテロリストから身代金要求の条件も出されるのだった。真っ暗な棺桶の中で、必死の交渉をやりながら、救出へ望みをつないでいく男の物語である。
 究極の一人芝居(電話の相手はいるが)で90分引っ張る演出である。正直言って、そういう映画だから人を選ぶはずである。観て後悔する人もあろうし、感動する人もあろう。確かにそれはそれですごいけれど、映画としてはどうなんだ? という思いもあろう。若く体力のある人なら、観ていて感心するかもしれない。
 そういう演出なんだから、そういうことに終始して観るよりないが、とにかく僕はイライラしたかもしれない。いつかは違う場面もあるかもしれないと勝手に思っていて(情報がなかったか、忘れていたか)、それがないことに不満があったかもしれない。結局終わってしまって、もっと早くあきらめて観なければよかったと思った。観てしまったものは仕方ないけれど…。
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携帯の電話するより悪い使い方

2019-10-27 | culture

 車の交通事故で一番件数の多いものは何でしょうか? 答えは「追突」なんだそうだ。全事故数の40何%とか言っていて、半分近いということだったか。前の車がブレーキを踏んだのに気づかず、もしくは気づくのが遅れてぶつかってしまう。車間距離が短いとか、数台前を含めた急ブレーキなども原因にはなるが、要するによそ見が多いということなのではないか。
 近年のそのよそ見の原因の第一と考えられているのが、他ならぬ携帯電話やタブレットなどの電子機器である。さらに以前は電話をして注意がそがれて、ブレーキのタイミングが遅くなるといわれていたが、現在は原因が通話ではない。要するに携帯のアプリやゲームをしていて、前方不注意に陥る場合が多いのだという。一秒でも目が離れると、車のスピードだから数十メートルは移動している。さらにブレーキの制動時間も含めると、ぶつかるまで止まれないものらしい。
 最近は、運転を補助する様々な機能が新しい車にはついていて、全体の事故件数は減少傾向にはあるらしい。それなりに車の性能で事故数が減らせているという成果がみられるとはいえるだろう。一方で人間のミスはひどくなっているというか、意識の問題としてもモラルの問題としても、低下傾向にあるのではないか。運転中にゲームをするという感覚はちょっと分からないが、LINEなどのアプリの反応があるものをちらりと見るようなことは、習慣として、いかにもありそうなことではないか。
 事故を起こした人間の疑似ドラマを見せられたが、本人は逮捕されて留置所の中だから、奥さんや親が被害者の家族に土下座をして謝り罵声を浴びせられる。手紙を書くが受け取ってももらえない。ゲームの為に家族が殺されたのだと考えると、被害者家族はとてもそのようなことを正気で受け止めることなどできないということだ。
 交通事故で人を殺めても、だいたい二年半くらいの刑期になるんだという。そういう罪の軽さというのもあって、被害者感情が加害者を寛容することが難しいとも考えられる。許す許さないで人の命が救われるものではないが、まったく不幸の連鎖が深まる思いがする。運転中ゲームをしたからといって必ずしも人を殺める結果になるとは限らないまでも、そういう運も含めて、やはり罪深い行為であろう。
 歩道橋などで携帯電話の取り締まりをやっている人を頻繁に見かけるが、原因としてこのような背景があるのは間違いなかろう。警察の取り締まりとしても、やはり致し方ない手段ということなのであろう。
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何度やっても負ける戦い   昭和16年夏の敗戦

2019-10-26 | 読書

昭和16年夏の敗戦/猪瀬直樹著(中公文庫)

 先の大戦前に、いわゆる若い日本のエリートを集めて日米大戦のシミュレーションを行った。その結果は、現実の大戦とほとんど同じような展開を見せて、敗戦となるものであった。その報告を受けてもなお、東条首相は(負けると分かっている戦いを)避けることはできなかった。陸軍相としては、軍の後ろ盾から開戦論をぶっていた東条だったが、開戦を避けたい意向だった天皇の指名を受けて首相となり、何とか米国との戦いを避けるよう模索する。しかし、正式な討議をしてもなお、開戦に追い込まれていくしかない日本の政治の姿に、あらがうことはできなかった。戦後は東条のような軍部出身の政治家などは、すっかり悪人に仕立て上げられ、その責任を一部の人間に背負わされてしまった。そうして現代も、そういう歴史観というものが、日本の根底にはあるように思われる。しかしそれは、国民一般の自らの戦争責任の回避の精神の表れなのではないか。
 緻密な取材と資料を駆使し、克明に描かれる開戦当時の日本の姿を見事に浮かび上がらせている名著である。少なくとも僕の東条の印象は、180度といっていいくらい変わってしまった。また、日米開戦においては軍部の暴走だけでなく、日本の国民世論自体が強力に後押ししていたということは知っていたが、日本の知識人の多くが、その軍部の人間を含めて、無謀な戦いであることは事前に認識していたことを改めて知ることになった。最後の最後まで和解の道を模索していたものの、結局は米英蘭の強い抵抗を受けて、日本はどんどん追い込まれていく。歴史にifは無いといわれるが、状況は無謀な道を模索する以外に、やはりなかったのかもしれない。愚かであるが、話し合いの道が閉ざされている国になってしまった当時の日本という状況は、限りなく不幸だったのかもしれない。
 別段右翼的な人々がいう、開戦やむなしという虚栄歴史観をひけらかしたいわけではない。それでも開戦は避けるべきだったという答えがありながら、そうならなかったという事実を知ることに、意義があると思うからこそ紹介するのである。読み物としても大変に面白い。日本国民必読の作品であろう。
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ボクサーより若い女

2019-10-25 | 

 映画のロッキーでシルベスター・スタローンが、生卵を何個も割ってコップで飲むシーンがある。この影響は非常に大きくて、マネする人が続出した(たぶん)。僕ら子供も当然真似をして、世界中の卵の消費量が爆発的に伸びた(ウソ)。
 もともと日本人は生卵を飲む習慣はあったし、僕の友人はオロナミンCをコップに入れて生卵と溶いて飲んでいた。風邪をひいたら玉子酒(あれは厳密には生ではないが)を飲むし、卵で元気になるというのは、いわば常識だろう。ラーメンにもうどんにもちゃんぽんにもカレーにも、みんな生卵を落として食べる。すき焼きに生卵が無ければ、何か悲しい食べ物になってしまう。卵一個で50円も百円も取られることがあるけど(もとは20円弱だろう)、みんなその卵のおかげでリッチでおいしく食事ができる。そうしてたぶん、力もつくような気もする。
 そう思って生きてきたのに、中国留学中に、中国人が生卵を食べる習慣が無いことに驚いた。さらに驚いたのは、一緒に留学していた諸外国(フィリピンやタイなど)の人々も、生では卵は食べないと言っていた。日本人はクレイジーだからそんなことをすると思われていた。日本は衛生状態がいいんだよ、と説明してもダメだった。何しろ日本は卵輸入してるんだろ、って言われた(確かにそうでもあるらしい)。
 ところがある本を読んでいたら、大学に留学している中国人が、日本の卵が安いので喜んでたくさん買う、という話があった。その子は女性なのだが、家にいておやつで、いつの間にか卵をいくつも割って食べてしまう(もちろん生で)というのだ。二十個くらい空になるときがあるという。
 昭和のいつの時代なのかはよくわからないのだが、卵が物価の優等生というような意味合いでの文章だったと思われる。
 ロッキーより凄い中国の留学生のグーニャン。もちろん、元気に勉強したんであろう(おそらく東大生)。
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気に留めなければ残念なまま   聖奈(まりな)の絵はコトバ

2019-10-24 | 読書

聖奈(まりな)の絵はコトバ/杉本聖奈(絵)、杉本香苗著(中央法規)

 副題に「聴覚障害+発達障害の子がイラスト作家になるまで」とある。まさにそのような内容で、障害を持った子とその母親の葛藤の生活が描かれている。
 生まれた当初は聞こえていないということに気づいてなかったようで(難聴で全く聞こえていないということも無かったのだろう)、三歳ぐらいから障害がはっきりとしだして周りの人と齟齬をきたすようになる。難聴というだけでなく(それが原因のものもあろうが)発達障害の方でパニックを起こしやすく、コミュニケーションのきわめて取りにくいお子さんだったようだ。母親も何とかしたいという一心から、かえってマイナスになるようなこともしてしまったというようなエピソードも素直に紹介してあり、ある意味で勇気のある手記だといえる。さらにページにはふんだんにご本人のイラストが交えてあるわけで、そのような状況をお互いに確認し、分かりあえたうえで、この物語がつむぎ合わされているということなのだろうと思う。まずはそういうところが素晴らしいのではないか。
 今現在聖奈さんはイラストレーターになられているようだが、表紙や巻頭にその作品がしっかりと紹介されている。非常に細かくなおかつ立体的で、漫画チックな柔らかい線と、緻密で繊細な細かさの伴った、非常に面白い作風である。多くの人物が細かく動き回るような躍動感があって、あえていえば統一感は無いが、ある意味ではそうであるからこそ、しっかりした世界が構築されている。こうした細かいもののうちの何かかが欠けても、成り立たなくなる世界観なのだろう。
 この本を読んでいくと、いろいろ困ったことのオンパレードであるわけなのだが、同時にこのような繊細な絵を描き出すことのできる感性が育っていくさまが、よくわかるような気がしてくるはずである。ちょっと一般的ではない素直な視点の在り方が、単に僕らには理解されないというだけで忘れられていて、そうしてそういうところが改めて絵となって目の前に立ち現れてくると、このような感動的な絵画となるのであろう。それは実は僕たちも普段見ることができている世界であるはずなのだが、特に注意してみていなかったことかもしれないのである。そうして障害といわれているものは、おそらくそのようにして僕らが気づかなかったり、無視したりしてやり過ごしてしまっているもの事なのではなかろうか。
 悲壮な話も明るいタッチで再現されていて、読みにくいものではない。実際に大変重たい内容もあるわけだが、そういう重さは、とりあえず吹っ飛ばしてしまえるのである。あえて楽しく読んで、何の問題も無い。むしろ、手に取らずにこれまで通りすれ違うだけの人ばかりだと、本当に残念に思えるのだった。
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予備のペーパーはサービスの怠慢?

2019-10-23 | culture

 外資系のキャビンアテンダントさんのブログをたまたま見てたら、日本のある飲食店のトイレに入って憤慨しておられた。それというのも予備のトイレットペーパーがトイレに据え付けてあることについてである。これは客にトイレットペーパーを換えろという意味で、たいへんに不親切だ、ということだった。こういうのは店員がペーパーを取り換えるべきことであるので、店側の怠慢に見えるということらしい。さらにこんな対応していたら、ふつう海外だと客にトイレットペーパー出しっぱなしだぞ、と怒られることになるぞ、とも(日本人はそんなこと言わないから甘えているという意味だろう)。そもそも海外だと出しっぱなしは盗まれるだろうから、日本は気持ちが緩んでいるのだろう、的なことも指摘しておられた。
 書いているのはどうも日本人らしいのだが、実に驚くべき指摘だ。こんな風に予備のトイレットペーパーのことを考えている日本人がいるなんて、考えたことが無かった。
 何しろ彼女(たぶん)のような考え方をする日本人なんて、ほぼ居ないだろうから。僕はトイレに予備のトイレットペーパーが無い方が不親切に感じるし、それでも店員はペーパーを定期的に取り換えているだろうことも容易に想像できる。実際にサービス業で使い切っていないトイレットペーパー問題というのがあって、そういうもったいないサービスをしている反省なども社会的には聞かれていることだ。それでも客のサービスの為に、そういう無駄をあえてやめられないのが現状だろう(ブログでは外国であってもそうだということが暗に分かる)。そういう過剰サービスはやめて、使い切ったら自分で入れ換えるように出来たら、本当に素晴らしいサービスだと心から思うが、そうさせてくれないゆがんだサービス業の客関係には嫌悪さえ覚える(そういう客に対してだが)。まあ、実際のところ、彼女(たぶん)が指摘している通り、予備があれば盗難されて経費が掛かることなどを懸念して、必要最小限に取り換えることをサービスとしている外国の現状があるということなのではないか。実際に外資系で働いて居ながら、そういうことも理解できないのだろうか。
 ともあれ、とにかくトイレのドアが壊れてないとか水がちゃんと流れるとか、そういうトイレがどこの国にもあるということになれば、人類はだいぶ平和になるとは思いますが。
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殺人という罪はどう償うべきなのだろう  教誨師

2019-10-22 | 映画

教誨師/佐向大監督

 大杉連主演。いわゆる遺作として話題になった作品。受刑者(死刑囚)と対話し、道徳的な説教をするような職業であるらしい。映画ではキリスト教の立場であるようだ。もともとキリスト教の信者というより、受刑後宗教に入った人に対峙してお話をするという役割らしく、そういう対話の場面が延々と続く。場面がほとんど動かないので、演劇のような感じもする。いわゆる演技合戦を中心とした演出なのかもしれない。
 しかしながら、途中から少し異質な感じに変化する。対話している受刑者に、ひねくれ具合が著しく偏った理屈をこねる人間が混ざる。ふつうに話ができていた人に、妙なひずみが生じだす。そうしてこの教誨師自体の過去に、大きな深い闇のようなものがあることが明らかにされる。幽霊も出てくる。
 個人的には、この映画を見る以前から、当然のように分かり切っているテーマではある。これが分かりにくいと思っている人限定で描いている世界観かもしれない。それが悪いとは言わないが、要するに今の人間社会の罪の罰し方というのは、偽善が含まれているのは当然のことで、死刑というのは代理で復讐していることと、そう変わりはない。社会がそのような死をもっての復讐を認めている訳で、そこに何らかの齟齬がみられるのは、当然のことなのではないか。そうしてそれが文化ということなのかもしれないし、人間の持っている原罪というものなのかもしれない。
 面白い映画ではないかもしれないが、大杉の遺作としては、何か思索的なものを感じさせられるかもしれない。
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UFOを見なくなったのは何故?

2019-10-21 | HORROR

 UFOを見た事がありますか? そういう話題になると、あんがいこれは見た事があるという人が居るのである。かくいう僕も二度ほどそれらしき記憶がある。いずれも子供のころのことで空を見上げたら、何か物体が浮いていたというものだが。
 一度目は良く晴れた真昼間に上空に何か浮いているというものだった。銀色の風船のようなもので、長時間まったく動かなかった。周りにいる人(たぶん友達)で、いったいあれは何だろうと言い合っていたが、風船にしては風に流されるわけではなく、何か金属のような銀色をしているけれど、はっきりとそれが何なのかは分からないのだった。数十分はそうやってワイワイやっていたが、なんとなく飽きて目をそらしたら、いつの間にか消えていた。動くところを見てないので、ぜんぜんUFOみたいじゃないけれど。
 二度目は夕方で、サッカークラブの活動が終わった後(おそらく土曜)みんなで靴の泥落として雑談しているときだった。夕日の雲の中に何か葉巻型の物体が浮かんでいる。これも全然動かないもので、いったい何だろうという感じだった。この時は、すぐにUFOだ、という声が上がって、大人も一緒に見ていた。いや、これはUFOだろうな、と皆で言っていた。ところがこれも忽然と動いたというより姿を消してしまった。雲と夕闇の光の加減で、見えなくなったといった感じだった。皆キツネにつままれたような気分になった。記憶があいまいだが、翌日の地方の新聞にはこのことが載ったという話だった。要するに写真に収めた人が居たようで、結構証拠のあるものだったのではなかろうか。
 もちろん見たからといって、事実それが何なのかは分からないというしかない。UFOが何だという議論のさきに、何者かの乗り物のような解釈があるが(例えば宇宙人)、このようにはっきり見える訳の分からない物体のようなものでも、それが何なのかは確認が必要だろう。はっきり見えても、見間違い(雲などの)である可能性の方が高いからだ。さらに二度も見た事がある僕ですら、大人になってからは見ていない。それが偶然そうなのか、何故見なくなったかの検証は必要だろう。どうやってやるのかは、分からないのだけれど。
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安易に殺してはいけない   いけない

2019-10-20 | 読書

いけない/道尾秀介著(文藝春秋)

 自殺の名所といわれる場所で接触事故が起こり、そこから殺人事件のようなことが起こる。そのまま犯人たちは逃げるが、警察の捜査が進む中、第二の殺人事件が起こる。など、の展開のあるミステリ。なんというかそれぞれの章で謎解きが行われ、意外なことが明かされることで読者をうまく出し抜くエンタティメント作品となっている。
 ある方から貸してもらって読んだ。なんで貸してくれたのか自体がミステリめいているのだが、思うに、だまされずに読んでみたら、という趣旨だったのではないか。正直に感想を言うと、ミステリに感心したかというより、読んだところで何の話か、よく分からなかった。記述的にミスリードするように書かれているわけで、最後にトリックが明かされているとはいえ、いわば騙されるのは当たり前のような気もする。さらになんとなく引っかかったのは、これらのトリックが成立するための殺人自体が、非常にまれなタイミングというか、偶然に左右される要素が混ざりすぎており、ちょっとあり得ないかな、という印象を受ける。さらに、たとえそうであっても、殺人に至る行動も、犯人が確信的にやるにしては、無理があるとも思う。実際にはおそらく成功しないだろう。そういうことを考えながら読んでしまうと、謎解きが行われても、だから何? という印象だろうか。さらに最終章でいろいろと明かされる事実についても、何か透明なものが混ざっていて、後でネットなどで解説文を読まなければ、分からない解釈が多いと思う。僕にとっては難しい本かな、と思った。
 ということなんだが、このような本は、謎解きが凄いとかいうことで話題になるのだろうけれど、読んでいるときに面白いかどうかということの方が肝心である。そういう意味では、非常に文章がこなれているという印象は持った。いわゆる読み疲れないし、分量的に冗長性がそれほどない。いわゆる密度が濃いということなんだろうか。そういう意味では、書いている側の工夫があるのだろうとは想像される。本が読まれなくなった昨今、こういう本が読まれる主流になっているのだろうか。そのようなことも、なんとなくミステリといえばそうなのかもしれない。
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キラキラを変えるか変えないかを決めるもの

2019-10-19 | ことば

 クロ現で名前を変える人々を取り上げていた。今日本では年に4000名を超える人が自分の名前を変える手続きをしているのだという。日本人のうちそれくらいしかいないのか、と驚くところではないようで、たくさんの人がそうしているという意味なんだろう。日本の人口に比して、ずいぶん少ないとは思うけどね。また、ちゃんと手続き上戸籍の名前を変えるということに、何か世間的な抵抗もあるという感じなんだろうか。生活上勝手に名前を変えている人なんて、それこそごまんといるだろうからな。
 名前を変える人の大半は、いわゆるトランスジェンダーといわれる人らしい。性も変わるのだから、当たり前という気もする。もともと親は、生まれた時点では同一性でないことは分かりえないのだから、後に自分で変える必要はありすぎる理由だろう。また、名前には性と結びつくニュアンスが当然あるので、よりそれらしい響きの名前にするのは、生活上も必要になるということではないか。
 もちろん問題がありそうな人もいて、それは家族との関係が悪くなったため改名したいというものだろう。親との関係が悪くなると、親からつけられた名前自体が、いわゆる呪縛的な呪いのようなものになる。親の支配であるとか、家族の束縛から逃れるためにも、過去の名前を変えるという気持ちになるようだ。
 また犯罪歴のある人間が名前を変える必要があるということも言っていた。現在のようなネット社会だと、検索しても過去の事件が簡単に検索できる。新たな生活を始めようとしても、芋ずる式に過去の事件が洗い出され、暮らしにくくなる場合があるのだという。なんとなく、この問題だけは引っかかるものが無いではないが(性犯罪者など)、更生して社会生活をやり直す足かせであるのなら、幾分は理解できるかもしれない。
 あえて最後にあげるが、いわゆるキラキラ・ネームを大人になって変えるというのもあるようだ。紹介されていた人の過去の名は「王子様」というのだそうだ。親にとっては、そういう大切な子供という意味で名付けられたようだが、大人になってまで、自分の名前で親が馬鹿だと皆に教えているようで、嫌だったという。これは、もともとたいへんに話題になった話らしく、いかにもという感じだ。一般的なキラキラネームへの嫌悪感は、まさにそのような身勝手で馬鹿な親に対するものであろう。
 ただしである。現代の子供たちのほとんど大多数は、すでにキラキラネームばかりといっても過言ではない。フリガナなしに正確に名前が読めるようなケースの方がまれなことかもしれない。それくらい現代の若い親は馬鹿になったのかといえば、多少はそうかもしれないという可能性はあるものの、要するに少子化が進んで、子供を大切にするあまり、凝った名前を付ける傾向にあるだけのことであるらしい。聞くところによると、過去であっても長男などの最初の方のこどもには凝った名前が多く、実は一郎より二郎、三郎の方が数が多いのである。たくさんになると、あえて面倒になるのか、名前はいい加減になる傾向にあるらしい。
 そういうわけで、親からちゃんと名前の理由を聞かされて、愛情たっぷりに育った子供は、たとえキラキラネームであったとしても、その名前を将来変えたいということには至らないらしい。いくらひどい名前でも、親子の関係が悪くならない限り、そう簡単には改名しずらい、という気分はあるのだろう。ある意味それは、幸福なのか不幸なのか分からない話ではありますね。
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青春は今を生きる   Relifeリライフ

2019-10-18 | 映画

Relifeリライフ/古澤健監督

 原作は漫画があるようだ。アニメ作品も。海崎は就職したものの会社との折り合いが悪く、五か月で退社、その後もニートで生活を送り、いつの間にか27歳になっていた。そういう海崎に声をかけてくる若者がいて、人生をやり直すプログラムを一年間受けるだけで(その間の経費は持ってくれる)、就職のあっせんもしてくれるとのこと。そうして薬を飲んで若返り、高校生活を一年送ることになるのだった(こういうあたりはファンタジーというか、一応SFらしい)。
 そのような理由で紛れ込んだクラスは、受験はあるものの、青春まっただ中にある高校三年生なのだった。生徒たちは様々な葛藤に悩みながらも、人との関係性に悩み、非常に楽しい学生生活を送っていた。そういう中に若いとはいえ、実際は27歳というおじさん(とはいえ、若者だが)が紛れ込んで、さらに熱い青春の日々と格闘することになっていく。当然限定期間であっても、止められない熱い恋にも発展するのであるのだった。ところが彼女には、何やら秘密があるらしく…。
 全体的には健全な恋愛劇。人がどのように生きるべきかというような、ちょっと泥臭いことも言ってはいるが、基本的には青春の範疇で若者が思うことの数々だ。あまり落ちこぼれはいない環境だし、本当に親密になる仲間グループが、その青春の一瞬を精一杯生きようとすることの価値を、問うているといえるだろう。
 泣ける映画、ということなのかもしれないが、期間限定なので、残酷な話でもあるわけだ。いい話が、悲しい話になっていく。思いが強いほどそうなっていく。だけどSFだし、まあ、それでいいんじゃないでしょうか。
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病院に行きたくない病

2019-10-17 | 境界線

 もともと血圧は高いが、測っていると特に高い数字が出たので思わずフェイスブックにUPしてしまったら、たちまちコメントをたくさんいただく。皆さん心配かけてすいませんでした。というだけの話だが、こういうのはコメントしやすい話題なんですね。
 それというのもはっきり言って血圧が高くて異常だと思うからこそ、あげて一緒に面白がってくれないか、という趣旨だったのに、思惑とは大きく違う反応に感じた、というのがある。僕の健康を心配してくださるのはありがたいことだと思うけれど、ちょっと困惑する。病院に行けというのが一番多かった訳だが、こんなことで病院行っても仕方ないとも思う。いや、病院には定期的にかかっているのでいいというのは、自分だけが知っている情報だから不親切ではあるんだろうが、そういうことは、やはりいうものなんだろうか。血を流して倒れているとか、熱が高いとかいう写真をフェイスブックで友人があげていたとしても、僕は病院に行けとはたぶん書かない。そんなものを挙げている余裕があるんだから、本人がかってにすればいいと思うからだ。それで死んだとしたら問題かもしれないが、アドバイスしなければ死なないかという問題でも無かろう。だからコメントするとすれば、熱であれば氷風呂に入れとか(実際タイの友人からそういわれたことがある)、そんな感じになるんではないか。もしくはそういう表示のトリックを疑うとか。
 などと考えていたが、やはり人間関係のアヤとして、病院に行けというのは一般的なことなのかもしれない。皆は少ない情報で病気の状態を判断できないからだ。しかし病気をしたら病院に行くというのは、それは当然のこととしても、今は市販の薬もあることだし、そういうものを飲んで、まずは安静にするというのがあるのではないか。しかし、例えば学校や仕事を休むとかいう場合、周りを見渡してみると、病院に行くという人がほとんどなのだ。きつい思いをしてまで病院に行って風邪薬をもらって帰る。悪いことではないが、少なくとも僕には苦痛だ。風邪以外の病気ならともかく、病院に行く選択はちょっと考えられない。もっと具合が悪くなるに決まっているではないか。
 まあしかし病院の営業妨害を目的に書いているわけではない。病院はもっと調子の悪い人の集まる場所にして、風邪のような程度のものは、病院にかからないほうが他の重篤な患者にとっても、もっと時間がさけるようになっていいのではないか。ところが、こんなことを言おうものなら、重篤なものかどうか素人が判断すべきことではない、といわれてしまう。まあしかし、よっぽどこれはおかしいというのは、素人であっても分かることなのではないか。個人差もあることだし、運もあろう。まあ、僕のような血圧の高いのは、もっとややこしそうな問題は確かにあるが、高いなりにそんなに高くも無いわけで、とりあえずまだ死にそうではない(実際死んだら間違いだという証明になっていいかもしれないが)。そういうわけで、病院に行くべきかどうかという判断くらいは、各人が持っておくべきことであろう(わかるまでトライ&エラーの経験値の問題になりそうだけど)。
 でもまあ病院に何年もかかったことが無いような人間が、酷い病気一発で亡くなったりするという話は確かにある。そういうのは記憶に残りやすいので、人は保険のような感覚で病院に行くのかもしれない。そうして軽い病気だと判断されて、ホッとして帰ってくるということなんだろうか。そういうのは一種の病理でもあるようにも思うが、支持される考え方ではなさそうである。
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