カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

文学作品だと思ってたら、どんでん返しが待っていた   めぐりあう時間たち

2020-09-30 | 映画

めぐりあう時間たち/スティーブン・ダルトリー監督

 解説を読んでわかったが、バージニア・ウルフの作品である「ダロウェイ夫人」をモチーフにして、バージニア自身の私生活のある日の出来事、そうしてその作中の人物らしい女性の夫の誕生日の出来事、さらに少し時代が下って、エイズに苦しむ元恋人に気を掛けながら、彼の書いた詩が何かの賞を受賞したパーティの準備をしているという各々の一日を、群像劇のように描いていく。それぞれに満たされない精神的な苦しみにさいなまれている女たちが、そのものにどのように向き合っていくのかということを丹念に、演技合戦を交えて描き出していく。
 観ている当初は、いったいどうしてこういう悲しい物語の群像劇なのか意味がほとんど読み取れないが、最後には驚くべき仕掛けが待っていて、世界がぐるりと一変してしまう。なかなか凄い世界観だ。
 バージニア・ウルフを演じるニコール・キッドマンだが、今演技でアカデミーを受賞する。その後、ベルリン映画賞では、各々を演じた三人の女優ともども女優賞をとった。まあ、観てみると分かると思うが、それくらいインパクトの強い名演技合戦の映画であることは間違いない。特殊メイクも効いていて、女たちのその時代の姿をズバリ印象的に表している。
 それにしてもだが、何か心の悩みが強すぎて、もう死んでしまいたい女たちというのは、それだけですさまじく恐ろしいものがあり、なんだか可哀そうだという気分より先に、とにかく怖いから近づきたくないような雰囲気を持っている。男たちは無駄に努力し、あるいはまったくそのことに気づきもしていない。それも対照的に描かれているが、当然残された男も可哀そうなわけで、そうして時代を超えて、避けられない深い悲しみは連鎖されてしまうのである。それは運命では無いのかもしれないが、かなしい道筋をたどってしまう出発点であったかもしれない。つまるところ悲しみを受け止めすぎた人間は、また死を選びたくなってしまうのだろう。
 文学作品をもとにしているせいか、とても文学的な作品である。性の形も錯綜しており、それは愛なのか何なのかよく分からなくなって戸惑う。いくら演技が上手いといっても外国人なので、僕ら日本人には演技だけではそれが何なのかよく分からないのだ。
 しかしながらそういう風に読み込んでしまうと、深読みしすぎて間違ってしまうのかもしれない。多少の間違いは個人の解釈だから構わないけど、多少読み幅はあってもいい作品だと勝手に解釈しておこう。
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まあ、僕らは運がよかったのだろう   理不尽な進化

2020-09-29 | 読書

理不尽な進化/吉川浩満著(朝日出版社)

 副題「遺伝子と運のあいだ」。基本的には進化論をめぐる随筆である。ひょっとしたらそれらを思索するためのブックガイドかもしれない。進化論というのは誰でも知っていることのように見えて、実際には多くの人が誤解している科学であり、学問であることが分かる。進化という言葉自体に、誤解を含みやすい語感があって、それに引っ張られて、進化を理解しているだろう人がたくさんいる。専門家であっても、時折間違ったりしているし、論争も多い。日本の進化論史はあえてここでは語られていないが、今西錦司という巨人がいながら、事実上敗北している(というか、ちょっとよく分からない)。進化論というのが厄介なのは、実験で実証しようが無いからである。それは壮大な歴史でもあるわけで、つまるところ科学としては一番遠いところにあるような不確定な運も含まれている結果でもある。結果だから目的があってそうなったようにも見えている事実がそこにあるが、しかしそれは目的があってそうなったのではない。狭い範囲で適応して残ったらそうなっていたわけで、進化そのものには、目的意識などは無い。しかし長い時間が経過すると、そうしてある時の大きな絶滅のトラブルなどがある中で、残ったものには、何か神の計画めいたものが感じられるのも確かだ。それは僕らが人間であるからで、そのような人間の思考の癖によって、考え方を揺さぶられるものが進化論なのである。
 進化論と進化論周辺のことで、これだけ様々なことを語り続けることができる。そうしてそれらの議論は、まだまだ終わりはしないだろう。いくらでも再生産されて、そうしてそのことが、今人間が生きていることと、人間など関係が無いことと、合わせて語られ研究される。まるで皆が進化論に憑りつかれているかのようだ。進化論は、その論理によって援用され、そうして自らが補完される。それはなるようにしてなった淘汰の歴史があり、その説明が、進化論自体を巨大化させて生き永らえさせるのである。それは、世の中にあるすべてのセオリーさえ飲み込んでいくかのようだ。
 そのようにして、時には人を困惑させ、そうして罠を仕掛ける進化論なのだが、まだまだ細分化されて、枝は広がっていっているように見える。誤解のことはさておいて、そのように先鋭化されたものは、さらにどんどん広がって、お互いの言葉が通じにくくもなっている。要するに面白いわけだが、もうそれらを網羅して俯瞰すること自体が、それなりに難しくなってしまった。そのようなことを、様々な思考を交えて考えていくと、このような本になる。そうしてこのような本を読むと、さらに自らも再生産された進化論を語りたくなるのである。この本のせいで、また関連本の数が増えてしまった。それは、沼にはまったということでもあるのだろう。
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霧のロンドンは本当らしい   ガス燈

2020-09-28 | 映画

ガス燈/ジョージ・キューカー監督

 何者かに一緒に暮らしていた叔母を殺され、悲しみの中ロンドンを後にするポーラ。その後著名なオベラ歌手だった叔母と同じく、歌のレッスンを積んで歌劇に挑戦しようとしていたが、レッスン中に知り合ったピアニスト(作曲家?)のグレゴリーと恋に落ち、そのまま結婚してしまう。グレゴリーは何故か新婚生活をロンドンで送ることを望んでおり、ポーラは叔母の記憶の残る家に帰る事に躊躇がありながら、愛の生活のためにロンドンのあの家に帰る事にする。みたところポーラは叔母の資産のためかたいへんに裕福らしく、夫のグレゴリーは女給を二人雇いポーラのサポートと称して、家のことを完全に管理しようとする。そういう中、何かポーラはもうろうとする癖があるらしく、いろいろとものを失くしては、思い悩んでいる。何か病気があるらしいということで、しつこく夫のグレゴリーからいじめられて生活を送ることになるのだった。
 妙な話なのだが、心理サスペンスであるらしい。主演のバーグマンはこの作品でアカデミー賞をとったらしい。確かに悲しみに暮れながら、時には気丈に明るく振舞おうとしたり、そのまま沈み込んだり、怒りに震えたり、なかなかに忙しい演技である。その頃の映画らしく、女優の美しさを見て楽しむという趣向があるらしいことも分かる。まあ、現代でもそういう映画はあるが、以前の映画はそういうことに露骨というか素直というか、そういう作りなのである。
 いろいろとおかしなことが起こる心理劇なのだが、考えてみると、自分不信に陥りながらも、周りを信用できなくなる過程で、一番疑いを持つだろう相手に対して無防備すぎるという印象は受ける。観ている方はそういうことでやきもきさせられるという演出なのだが、しかしながら、それはあんまりではないか。それは愛の盲目であるならば、相手は、実際にはそんなに愛がなかったことになる。結婚できた時点で、恐らく目的の多くは達成されており、そもそもこんな茶番はやる必要もなかったのではあるまいか。それとも若い女給と、将来は楽しくやるつもりだったのか。どう考えても尋常でない美しい妻を得て、そういうことを夢想するような男の方が、かなり病的である。いや、だいたい病的な映画なんだから、みんな病んでいるのかもしれない。
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アマゾンは不誠実な会社だ

2020-09-27 | つぶやき

 アマゾンから注文した覚えのないCDが送られてきた。誤配送ではないかと思って調べようと思うが、注文番号が書いてない。包装の表面に伝票番号はある。一応ネットでアマゾンの注文履歴や、メールなども確認するが、伝票番号なんて書いてあるところは無いし、いったい何の注文と取り違えているのか、まったく分からない。実を言うとアマゾンに商品を発注するのは僕だけではないので、職場全体で考えなければならない。それでも一応僕のクレジットカードで落ちる分ということの区別は、だいぶ後に分かるはずではある。現時点では何の商品と符合するのかを確認することが肝要で、それが分からなければ確かめようがない。
 しかしながらこれがアマゾンのもっとも不親切なところで、この問い合わせ先を探すのがとても難しい。仕方がないので、ネットで同じような体験をしたはずの人のブログなりを探して、その通りにしようとした。しかしそういう人が行った記録と同じような画面が、アマゾンには無かったりする。しょっちゅう更新するので、同じ方法での画面が、微妙に違うのだ。さらに同じような体験だとしても、やはり僕のようなたくさん発注する人間とは、微妙にケースが異なる。僕自身はその送られてきただろう時期の商品の数が、少なくとも5つ以上ある。また長い間送られてこないものもあるし、商品の履歴をたどっても、簡単には一致させることはできないのである。誤配送ということになると、ひょっとすると僕に送られてきた商品を、別の人が待っている可能性がある。そういうことを考えると、何とか見つけないことには申し訳ない気分もある。商品を返送するだけでは済まないし、そもそもその業者を割り出さないことには話が進まないではないか。
 アマゾンのチャットで問い合わせる方法があったので、それを試してみるが、誤配送であるかもしれない旨を問い合わせても、キャンセルであるとか、返金であるとか、そういうことしか答えてくれない。何度も何度も根気よく、間違えているだろう先を調べてもらいたい旨、こちらの伝票番号を頼りに聞いているのに、発注先に問えと返事が来る。その発注先がそもそも分からないのだから聞いているので、どうにもならないのである。最終的にそのあたりにある、未配のままの商品かもしれない業者に問い合わせたら、その件には返信の旨無くキャンセルとして料金を返してくれた。そもそもキャンセルしたいから連絡した訳でもないし、そんなことしなくていいのに、と抗議したら、そのまま返信は途切れた。そうしてその業者の正規の注文品は翌日に届いた。仕方ないので、その旨をさらにメールすると、そもそも伝票がうちのではない、とやっと返信が来た。それを先に聞いているのに……。
 結局いまだにこの商品が送られてきたのは、謎のままである。どこが送ってきたのかが分からないのだ。神奈川あたりだろうということまでは分かったが、そのあたりにある店が結局見つからない。次々に商品は届き、僕が発注したものとの誤配送である可能性すら薄くなってきた。ではどうして勝手に商品が送られてきたのか、それすらも謎になってきた。あいかわらず本元のアマゾンに問い合わせる方法がない。チャットのやり取りは、恐らく人工知能で、その意味が分からないのだ。

 追伸:ということで、かなり試行錯誤して、やっとアマゾンに電話連絡することに成功した。電話連絡のボタン押しても、すぐに電話できるようなシステムになってないんだもんね、これが。でもまあ何度も電話するのボタンを押して、そうするとこちらの電話番号を記入するようになっていて、それで向こうから電話がかかってきた。事情を話して伝票番号を伝えたら、すぐに理由が分かりました。二か月前に発注(ひとに頼まれて)したものでありました。そんなもの忘れてるよ!(70件も前の発注だよ、まったく) でもまあ、僕の勘違いには違いないのだけど、連絡出来たらこのようにすぐに分かるものなんだから問い合わせている訳で、それを問合せしにくいシステムして何としてでも拒む姿勢を見せ続ける会社の不誠実しか伝わらないのだった。おかげで多くの人に迷惑をかけたし、時間を浪費した。しかし料金を返金してくれた分は、どうなるのかね。連絡だけ来たけど、それがほんとに返金されたのかは、やっぱり今現在は分からない。ほんとに困ったシステムだよ。後で調べてこれも対処せねば。
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結末は言えないけど、たぶんアッと驚きます   情婦

2020-09-26 | 映画

情婦/ビリー・ワイルダー監督

 重病人でありながら何とか退院してきた敏腕老弁護士のもとに、富豪未亡人殺しの容疑者の男がやって来る。未亡人を殺したと思われる時間には帰宅していたというが、そのアリバイを証明できるのは、男の妻のみだった。その後男は逮捕される。問題の妻はドイツ人で、ちょっと変わった雰囲気を持っている。証言はするというが、何か夫を信用していないというか、敏腕弁護士は釈然としないものを感じ、証人としては見送ることにする。
 裁判は容疑者の男に不利なものばかりだったが、敏腕弁護士は何とか印象操作で決定打をかわしながら審議を進めていた。ところが検察側が容疑者の妻を証人に呼んで答弁を始めると、何と妻は夫が殺害時刻にはまだ家には戻らず、血の付いた服を着て遅くに帰ってきたと証言してしまう。これではほとんど死刑確定だと思われたのだが……。
 観た人は結末を観てない人に言ってはならない、というアナウンスがエンドロールで行われる。それくらい衝撃の結末であるわけだが、元の短編小説や、そもそも舞台劇だったということもあり、裁判所の中でバタバタとどんでん返しが展開される。それは確かに見事なのだが、いや、こんなことがあれば、さすがにいろいろ問題はあるよな、という気はする。また、わざわざ本人たちがその場でネタばらしをするというのも、考えてみると変である。見事すぎるけれど、そのために伏線がすべてほどけるのが、やはり妙でもあるわけだ。
 しかしながらこの映画は観たことがあったはずだが、けっこう忘れていた。ドイツ女を演じるマリーネ・ディートリヒが素晴らしいのだが、確かに見事に騙されてしまうのだから、演出がいいのだろう。弁護士も看護婦も容疑者も皆熱演で、多くの人が映画賞にノミネートされたのだという。確かに科白は多いし、表情は豊かだし、皆大変であったろう。
 改めてこの映画の魅力をいうと、やはりワイルダーの流れるような無駄の少ない展開のさせ方が、娯楽映画的に何より凄いという気がする。特に前半はまるでワンシーンで撮ったかのような一つの流れて、すべてが説明され、そうして多くの伏線が仕組まれている。回想シーンでの富豪未亡人と容疑者が知り合うやり取りや、ドイツで妻と出会うエピソードなどもいい。観ているものは、怪しい証拠ばかりの容疑者に、なんとなく同情的な感情を抱くようになるだろう。それこそが、この映画的に素晴らしいのだ。ワイルダー監督はめんどくさい人だったようだが、このような傑作を残したのだから、やっぱり偉いのである。
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短くても手ごわいものに変わりはない

2020-09-25 | 音楽

 再び村上RADIOの感想。今回は短い尺のクラシック特集だった。なんとなく聞いたことのあるメロディは無いことも無かったが、ほぼ知らないものばかりだった。
 確かにクラシック音楽を聴くことのハードルには、長く重たい、というのはあるかもしれない。いわゆる退屈なのだ。その退屈な時間を我慢して聞いて、そうして眠くなったり体がかゆくなったりする。牛やトマトに聞かせる人もいるというが、彼らや彼女らは音楽から逃げられない。いったいそれはどんな気分なんだろうか。
 ということで、5分以内だったら退屈する暇はないということだろうか。で、実際に選ばれた曲は、必ずしもキャッチーなものばかりでもなく、かなり希少な感じのするものが多かった。こういうのを集めると、やめられないコレクターになるというのがよく分かる。それにまあ、よくそんなものを持っているものである。
 最初の琴の演奏は、日本だからそういうものはあるのかもしれないとは思われるのだが、しかしたぶんそれなりに希少だろう。ちょっとコミカルにも感じられるし、日本人には受け入れやすいかもしれない。しかし次の象のための曲は、楽しいが、しかしちょっと空想を超えている。そういう曲を真面目に作ってしまうということが、面白い現象なんであろう。
 クラシック音楽を聴くだけでなく、奏でる人々の人口ってどれくらいあるのだろう。オーケストラは、大勢の人々が演奏しているので、多くの人がそれを目指して練習していることを思うと、凄まじい競争もさることながら、それだけ楽器になじんでいる人々がいるはずだろうことは分かる。しかし一般的に言って、ギターを弾くのとはわけが違う。我流の人がいないわけではなかろうが、やはりそういうものを始めてみようと考える人たちの環境は、そもそも何かが違うはずである。そうして逆に、それは少数者であるはずだ。でも競争は激しく、そうしてそのピークにいるだろう人は、壮絶に凄い人のように思われる。そういうものすごいテクニックのものがいくつか紹介されていて、たしなむ人は特に、深いため息をついたのではないか。僕なんかは関係ない人だが、それでも凄さは伝わる。それは曲芸的であり、畏怖の領域である。長い曲でやられると、何かが壊れるかもしれない。
 しかしながら今回の発見は、みじかくても退屈は退屈だということだ。特に知らない曲というのは、その知らない興味があったとしても、ポップソングばかり聞いている耳に対しては、やはり強引なキャッチーさが無い。そこがクラシック愛好者にとってはいいところであるはずなのだが、根気が足りない人には、やはり障壁であるはずだ。少なくとも僕は、改めてその壁の高さに呆れるところがあった。あるいは、それが凄すぎることで近寄れないのかもしれない。
 しかしまあ、本当に村上さんは音楽が好きなんだな、ということはヒシヒシと伝わった。その聞き方が、やはりすさまじく凄いのかもしれない。いったいどれくらいの時間を、音楽を聴くために割いてきたのだろうか。その厚みが背後にあるという迫力が、この短い曲の紹介には込められている。演奏者も時間をかけて練習し、素晴らしい演奏を実現している。聞く方だって、そういう熟練のための訓練を積まなければ追い付かないのだろう。それがクラシックを馴染んで聞くという態度なのかもしれなくて、だから短くてもとっつきやすいかどうかは、やはり別の話なのではないだろうか。
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親友って大切である   マイ・ガール

2020-09-24 | 映画

マイ・ガール/ハワード・ジーフ監督

 マコーレー・カルキンとアンナ・クラムスキーのキスシーンが有名な映画であるが、基本的には、少女が少女のままに様々なことに悩んで生活していることを表現した作品である。そうして、当時はたいへんにヒットした。今作品で完結しているけれど、続編も作られた。
 主人公のベーダの母親は亡くなっている様子で、父親は自宅で葬儀屋をやっている。普段は、親友で幼馴染のトーマスと自転車を乗り回していろいろな場所で遊んでいる。ベーダは活発でわがままで、さらに母を亡くしている心の傷のようなもののせいか、いろいろな病気にかかっていると思い込んで奇行を繰り返している。皆はそういうベーダに振り回されながらも、やさしく付き合っているということのようだ。そういう時に、露出の多い女性が、死体の美容師として採用される。そうしてそのまま父といい関係になっていく。母との思いの強いベーダは、面白くないが、邪魔をしても二人の関係は深まるばかりだ。ついには結婚ということになるということだった。
 幼なじみのトーマスは等身大の親友だが、ベーダにとっては子分のような、しかしなんでも受け入れてくれる貴重な存在だ。若い先生に恋心を抱いていて、いつか告白しようと考えている。母は自分の出産のときに亡くなったらしく、なんだかその責任は自分にあるような気がする。家が葬儀屋なので亡くなった人が次々にやって来るが、その死因となる病気が自分にもあるような気だけがする。医者も根気よく病気でもなんでもないベーダと診断してくれる。みんなベーダを深く愛しているのだ。
 映画の主人公を演じるアンナ・クラムスキーは、この映画で大ブレイクするが、後に学業に専念するために一時引退したのだという。その後米国ではドラマなどで復帰した。口の大きな独特の魅力のある女の子で、確かにいかにもアメリカ的な快活な女の子なのである。そういう意味では、その時期だけにある輝きが、多くの人々を魅了するに至ったということなのだろう。
 お話は、ベーダにとっては残酷な事件が立て続けに起こって終わってしまうのだが、しかし、それがどういう訳かさわやかな印象を残すのである。それはベーダの少女時代の終わりであることと、再生を意味するからだ。そのようにして一人の女性が、恐らく強い女性が生まれることになるわけだ。それを人々は、歓迎しているということなのだ。
 子役でブレイクした俳優はたくさんいるが、ここにも出ているマコーレー・カルキンのように、いろいろとトラブルに見舞われる場合も少なくない。そういう意味では、アンナ・クラムスキーは、その後シカゴ大学を出て就職もし、ドラマながら女優復帰し、結婚もして子供も育てている。いわゆる家庭環境にも恵まれた人なのかもしれない。まあ、それは、本当のところなど分かりえないのではあるが。
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居酒屋の話から清志郎へ

2020-09-23 | 雑記

 ちょうどフェイスブックで太田和彦の居酒屋の番組の長崎のヤツがある旨O畑さんがつぶやいていて、なんだろうと思って見た。BSに宣伝のあるテレビがあるなんてほとんど知らなかったが、とにかくちょうどの時間だったのでチャンネルを合わせたわけだ。
 それで太田和彦ってなんだか知ってるような気がしたんだが、それは知っているはずで本棚を見ると二冊持っていた。大全の方はおしゃべりのような内容で、居酒屋の酒はどうだとかつまみがどうだとか血液型別の飲み方だとか酒の名前がどうだとか実際の居酒屋紀行だとかが書いてある(それはもうほんとにいろいろおしゃべりしている)。そうして疾風篇の方で、確かに長崎で飲んだ話が書いてあった。番組で出て来た「桃若」にも行っている。太田さんが少し若い頃の話じゃないかと思われるのだが、同行の人と少し色気を求めて旅している感じもする。目的は太田さんのお母さんが大村出身だということで、代わりにご先祖の墓参りをしようとは思ったけど、結局長崎市内で飲んだという感じだったと思う。滞在時間の割には複数の店に立ち寄っていて、よく食うものである。たぶん若いのである。それに皿うどんに酢をかけて食べていて、やっぱり地元の人ではないな、という雰囲気だ。まあ酢を掛けるくらいは好きにしたらいいとは思うが、地元の人からは白い目で見られることだろう。
 それで番組の方では二件の居酒屋(という括りでいいのだろうか?)に入って、他の客がどうなったのかは分からないが、入店したときは賑やかにやっていた店内はがらりと静かになって、二店とも女将さんと二人で話しながら飲んでいた。お礼に自分が作らせた杯をプレゼントしていた。内容がどうこう言うようなものではなくて、ただ酒がどうだとか、つまみが旨いとか、それがどういう具合なのかはよく分からないまでも、酒飲みとしてのアテが素晴らしいのかもしれない。長崎に来て酒がどうだというのは僕にはよく分からないし(地酒はあんまりないし)、からすみは確かに長崎かもしれないが、そういうたぐいはやはり観光でないとなかなか食べない気がする。いや食べている人がいてもいいんだけど、長崎ってほんとにそんな感じだっけ? などと思いながら見た。もちろん二店ともいい店であるようだが。
 しかしながら太田和彦を知っていた理由はそこではなくて、つれあいが録画してくれていた清志郎の映像があって、そこに確かに太田さんが出ていた。実は太田和彦さんという人は、ずいぶん昔からRCのファンだった人として有名で、無名時代のライブハウスのようなところで頻繁にRCを見ていた人らしい。そうして楽屋に二級酒を差し入れしてくれたという話は、清志郎が本に書いてもいる。実際ライブハウスに行く途中に酒屋があって、太田さんはそれを買って、本人たちには会わず、ことづけて差し入れをしたのだという。いい話である。
 さらにいい話があって、というかなんと太田さんは勝手にライブハウスにラジカセを風呂敷に包んで持ち込んで、カセットテープに録音していたのである。いや、これは厳密には現代的にはやっていいとは言えないことなのだが、当時のおおらかさもあってそういうことができて、何とその貴重な音源がリマスターされて清志郎の死後に発売されたのを知ったのだ。もちろんクリックしてしまったが、ネットでもすでその一部は聞くことができて、素晴らしいのだった。僕はRCの活動以後の一定期間は興味を失っていたのだが、やはりもう大人になってしまって若い頃のことを思い出すと、清志郎のような天才の不遇時代の叫びのようなものがよく分かるのだ。なんとなくゴッホみたいである。
 という訳で、いろいろ副産物が出てきて豊かになった気分だ。僕としては太田さんのような感じで居酒屋を敬愛してないのだけれど(家で飲む方が数段いいし)、だからといって居酒屋で豊かに飲みたい欲求はあるから、その道を探求するような気分は分からないではない。まあ、ウンチクがらずにさらっと行きたいですけどね。ただでさえめんどくさい人物でしょうから。
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野球を知りすぎている女   人生の特等席

2020-09-22 | 映画

人生の特等席/ロバート・ロレンツ監督

 老メジャーリーグのスカウトマンであるガスは、ボールがバットに当たる音だけで、その打ち方や選手の技量まで見抜くことができる大ベテランである。一方時代はデータ野球になっており、眠っている全国の逸材を探すには、ビッグデータを駆使して確率的に且つ効率的に見つけ出す方法が台頭してきている。事実そのような方法でチーム作りを成功させている事例もあるという。ガスにとっては気に入らないばかりか、あまりにアホらしくて相手にする気になれないのだが、そうやってスカウトした人間をGM(いわゆる経営的な責任者)に紹介して、最終的なドラフトにかける選手を決める。球団としては、もちろん素晴らしい選手を獲得したいわけだし、そのような選手をみすみす他球団に出し抜かれるわけにはいかない。ドラフトで選手を選ぶというのは、将来的な夢のためというより、これから戦われるペナントを制する戦いの緒戦なのだ。
 一方都会では、娘のミッキーが弁護士として忙しく働いていた。今度の仕事次第では共同経営者になれるかもしれないと、張り切ってオーバーワークをこなす毎日である。そんな中であったが、ガスの仕事仲間で友人から、ガスは体力的に弱っていて、今度のスカウトの仕事に不安があり、助けてやれないかと頼まれる。仕事の山を抱えながらも、長らく疎遠になっていて、なおかつわだかまりの消えない父のもとへ、応援に駆け付けるのだったが……。
 母親を亡くし親戚に預けられて育ったミッキーなのだが、事実上父からの連絡はなく捨てられたも同然に思っていて、その理由は何かが気になっていた。一方のガスは、目の前に野球のことがあると周りにまったく気を使えない頑固おやじである。久しぶりに親子一緒にいられるとは言え、その溝は想像以上に深いのだった。ミッキーは仕事が忙しく、いつも携帯が手放せない、話は半分だが、野球の試合を見ていると、時折ガスは見えなくなった目ではなく、長年聞いていたボールの音、グラブの音、そしてバットがボールをはじく音で、選手たちがどのような動作でどのような癖を持っているかを、的確に言い当てるのだった。
 これに他球団の若いスカウトマンと娘の恋愛劇が絡む。もともと彼氏はいたが、早く返事が欲しいと電話口で訴えるせっかち男で、まだ答えられないという返事にカチンと来てサヨナラを返すような終わり方をする。そんなこともあって、そうしてお互いものすごい野球好きということもあって、二人は急接近していくのだ。
 そうして最後の大団円まで、それなりに都合よく物語は続く。どんでん返しではあるけれど、ちょっと出来すぎではあろう。まあ、こうでなくちゃ面白くはないわけだが……。
 僕はマネーボールという映画も小説も好きだったので、その話と相反するこの話が嫌いなのかというと、そんなことは無い。こういう理論は融合可能で、どちらかが優位な戦いで勝ち負けがはっきりしたものではない。まあ僕は現代人だから、結局はAIの方が人間より信用できるようになることが間違いないだろうということだけである。だからそれがどうであるなんてこと自体には、あんまり意味はない。現在は過渡期だから、人間にだって頑張れる余地がある。しかしながらそんなものは、ちゃんとなくなっていって、皆で楽しめる野球を作っていけばいいことなのだ。統計は野球を理解するカギだが、統計をやるコンピュータは、その野球を楽しめない。単にそれだけのことなのである。
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山を片付ける

2020-09-21 | 雑記

 これはコロナ禍とは本当は関係ない筈なのだが、書類の山が机の上に溜まっている。定期的には捨てているはずだが、溜まるスピードが上がっている気もする。まず、送られてくるものが増えている気がするし、自分で印刷しているものが増えてもいる。メールに添付してあるものは、一応印刷しておく、そうやっておいて後でパラパラ見返して、赤ペンなんかで印をつけるのが、日課といえば日課である。終われば電話したり、新しく資料をこしらえたりする。そうしない場合もあるが、ともかくそんなようなことが多いので、多少古いものや遣り掛けや、そうして手を付けていないものが、それぞれなんとなくの山の上に載っていく。
 他にも送られてくるものはたくさんある。やはり会議の資料が大半だが、郵便物から案内から冊子の類いも結構多い。定期刊行物もあるし、記念誌もある。案内文のみならず、感謝文やその後の経過のものなどもある。自分で買った刊行物もあるし、預かっておくものもある。これもなんとなく分類気味にして山に乗せていく。本や雑誌は少し別の場所に伸びていくが、これはすぐに山が高くなる。崩れるので移動はするけど、その前にどんどん重なっていく。毎日本は届くし、刊行物は出版が増えているのだろうか? いや、メルマガなどに移行したものが多数あるし休刊廃刊は数多い。しかし新しいものは生まれていて、そういうものが届けられるのである。
 そういうことで整理しなければ、と重い腰をあげて分類する。基本は捨てるが、ちょっと怪しいから取っておく山は一応ある。完全に取っておくべきはファイルするとかの作業が後からある。いろんな種類の山を作っていって、本当に面倒な気分になる。一つのヤマを崩すと小さな山が何十かできる。そうして次の山を崩していくと、また特殊な小さな山がいくつか増える。面倒だからもう見ないようにして、いっそのこと捨てるかな、と思ってエイヤっと捨てると、そのゴミ箱の中に何か保険の証書のようなものが見える。委任状っぽいものがある。まあ、要らないのかもしれないな、という思いがあるから、もう見ないことにしよう。飛び上がって困ったとしても、それは将来のことであり、現在の問題ではない。結局山が無くなりさえすればいいのである。
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もう取り返しはつかない   君に届け

2020-09-20 | 映画

君に届け/熊澤尚人監督

 原作漫画があるらしい。観ていて確かにこれは少女漫画かもな、という映画ではあった。
 長い黒髪で暗い印象のある黒沼は、貞子というあだ名を付けられいじめられている(そういう設定自体が結構古いな)。しかしそういう黒沼にひそかに恋心を抱いているクラスの人気者の男子である風早と親しくなることで、ちょっとヤンキーっぽい友達も出来、楽しい学校生活が送れるようになっていく。
 女子高生だから(という括りでいいのか、どうか分からないが)、とにかく周りは恋の関心ばかりである。ヤンキーがかっている友人は、それぞれ年上と付き合ったり、恋心を抱いたりしている、が、あまりうまくいっていない。自分がいじめられなくなるのは良かったのだが、そういう友人のことばかり気にして、肝心の自分の恋愛に前向きになれない、やさしい気弱な主人公ということになっている。そういうのはちょっとイライラするが、まあ、そういう設定が、自分主導の恋愛ではない巻き込まれによってハッピーになるという少女性に共感があるのかもしれない。
 そのようにおとなしい女子高生なので、家族(特に父親)もなんとなく過保護であり、それにあらがうことすら、自分ではできない様子である。好意を持ってくれている風早という男は、たいへんに辛抱強く、ちょっと男子高校生とは思えない大人ぶりのいい奴で、まあ、これが現代的は白馬の王子様なのであろう。
 ところでこの風早の役をやっているのが三浦春馬である。ちょっと前の映画にもかかわらず、それなりにタイムリーに観られている映画のようで、それはそういう理由である。評価もそれなりに高く、おおむねファンには満足度の高い作品なのかもしれない。正直に言って、作品が良い悪いというものではないと思われるが、演じている他の俳優たちも、現在はそれなりにメジャーであって、そういう比較も楽しめる。いい奴を、そんなに無理なくこなして演じられる自然な雰囲気を持っていて、確かに惜しまれる俳優さんであったと思う。残念だが、こればかりはもう取り返しがつかない。まあ、青春という断片も、同じように切ないものなのであろう。
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相撲と一緒で立ち合い勝負だったのかも

2020-09-19 | 時事

 菅政権になったことで、報道の量が政治部に限らずかなり分厚く取り上げられるようになった。関心が高まったことと、それなりに未知数(まだ始まりの始まりだし)なことで、いろいろ書きやすいというのはあるのだろう。おおむね安倍政権時代の継承とはみられるが、それが何なのか、菅色というものがあるとすれば、それが何かを探りたいということかもしれない。
 今回の菅総裁になるまでのドキュメントを見たのだが、安倍さんの辞任という直後に、ほんとに早い段階で菅さんが動いていた様子が明らかになっている。報道で総裁選に誰が出るのか、という議論になっている際中には、ほぼ菅さんの動きで勝負が決していたことが見て取れた。先手必勝というか、派閥に属さない菅さんが、政権の中枢にいて次は誰かという様々な思惑のある中にあって、いち早く決断し動いたことにより、それぞれの派閥の首領が、すぐに反応したと見て取れる。総裁選への出馬の意欲のあった人々が、あっけにとられる中、結局断念せざるを得なかった様子も見て取れた。岸田さんは、それでも少しの希望があった様子だが、すぐに形勢が不利だと理解はしたようだ。しかしながら、すでにもう引けなくなっている。その中で戦うという選択をあえて行い、苦悩しながら次を考えて戦ったということだろう。急に論調が抽象的な言動に変化し、細かい政策も語らなくなってしまった。石破さんも、地方にかける気持ちはあっただろうが、そもそも反安倍色を強く出し続けていて反発も強い。これも負けるにしても次だと舵を切り続けていたということだろう。結果はともに厳しく、特に石破さんは次点も取れなかったダメージが大きくなった。政治の恐ろしさが身に染みたのではあるまいか。
 しかしながらドキュメンタリーではとらえきれていない裏をさらに考えると、派閥の首領がそれぞれに誰にするかを決める基準だったのは(岸田さんと石破さんを除いてということだが)、組閣人事のことだっただろうし、その前に安倍首相の考えを汲んだというのがあるはずである。直接安倍さんが動いた様子は分からないように見えて、しかしこれは辞任前に複数の人に話をしていたはずで、電撃的な辞任の前に、安倍首相の後継人事に関する考えがあったはずだ。すでに早く決断したはずの菅さんも語っている言葉に、出来ればやりたくなかったが、自分がやらなければという後押しがあったために決断したようなことを言っている訳で、短い間に勝負が決したのは間違いないとしても、やはりその前の前に流れを決める動きがあったと見るべきであろう。
 こういう組織内の風というものは、その流れを理解させることと、目の前よりちょっと先までの予想と期待だろう。そういうものをいち早く動かすことができる素地を持っていたのが菅さんだったことは間違いなくて、なかなかにしたたかであることも見て取れる。若手議員が論戦で選択すべきだったなどとこのさなかに憂慮を語っていたが、彼らがいかに寝ぼけているのかというのが、象徴的に分かる総裁選劇だったのではないだろうか。
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理想の男を探すと複数化した   婚前特急~ジンセイは17から~

2020-09-18 | 映画

婚前特急~ジンセイは17から~/前田弘二監督

 映画の前日譚。今は5人の男たちと付き合っているチエは、高校生の頃は年下の男の子と秘密裏に付き合っていた過去があった。遊び友達とは、年下の男の子と付き合っていることを言えないでいる。皆がいる前では、男の子のことを無視したりする。大学生や大人たちとの合コンなんかで楽しく遊ぶ女子高生の自分たちにとって、純愛めいた、それも物足りない中学生とつきあうなんてことが、たぶん恥ずかしいのだ。
 しかしそもそもは純愛めいたものがそこにはあったらしいことが示唆されていて、男の子もそのようにあしらわれて傷つき、自分の同世代の女の子と付き合うようになる。それを見たチエは改めてショックを受けて、小説を書いているらしい大人の男と付き合うようになる。しかし社会人の男にはたくさんのしがらみがあって、ちょっと面倒なのだった。
 若い女の楽しさというのはあるのかもしれない。また多少の可愛らしさがあるとすると、男たちが放って置かない。次々に男は寄ってきて、驕ってくれるし好きなところに連れて行ってくれる。もちろん下心があってそうしてくれるわけだが、下心であっても自分の魅力で相手を振り回すことは可能で、まったく危険が無いとは言わないが、それなりの堅気を選んで、遊びぬくことくらいは、女子高生として学んでいく処世術のようなものなのかもしれない。
 そうやって疑似恋愛ゲームを繰り返しやってみて、そうしてすでに若いうちから、純愛的なやり取りこそ、一番難しく得難いものであることを悟るのかもしれない。本当に自分が欲しいものが分からなかったし、分かりかけてもそれをくれる男なんてめったの存在しないのだ。そうであるならば、もっともっと男達との付き合いを増やしていって、その経験値をいかして男を選択していくよりほかに道が無いのではないか。少なくとも一人ではそのような要素を兼ね備えている男なんてものは居ない。部分部分を集めていって、そうして結果的に複数の男とつきあうような選択をするようになった、チエの生き方の形成のされ方物語なのである。まあ、面白いが、やっぱりそれなりに器用で、けだるく、大変なのだった。
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万歩計が無ければ歩けない

2020-09-17 | 散歩

 夏の暑さには参る。だいぶ涼しくなったとの声があるが、日中に外出すると容赦ない日差しにさらされ、血液が沸騰するのではないかと心配になる。車の中は何℃になっているか。エアコンの効き具合によっては、そのまま死んでしまいそうだ。そうであるから、何とか建物の中でやり過ごして一日を過ごそうとしている。おかげさまでコロナ禍ということもあって、そういうこともそれなりに許されている。外に会議に出ないので、気分転換にはならないが、やっぱり仕事は内にこもっている分押し付けられることもあり、気分の重さに変わりはない。
 そういうことで太るというのはよく分かる。運動のみで太るということは無いのだろうが、体は確実になまる。そうして動かなくなると、手を伸ばせば食品にありつける世の中にあって、やはり結果的に太る、という付随現象も起こりうるのであろう。
 困ったことは万歩計の数値なのである。外に出ないので、歩数が増えないのだ。僕の場合は主に昼休みに外に出てぶらりと歩いて稼いでいたのだが、それがもうほとんどできない。一応外の様子をうかがいに出てみるが、25秒くらいで汗が噴き出てきて、結局戻ってきてしまう。頑張って数分粘る日もあるが、そういう日もあるということに過ぎない。
 さらに最近は、それなりに雨も多かった。炎天下であるか、雨天で、さらに荒天だったりする。それはつまり外に出歩くべき日ではなくて、屋内待機なのである。
 多少の雨なら傘をさして歩いてもよさそうなものだ。しかしこれも自意識のようなものが邪魔をする。雨の日にまでわざわざ傘をさして散歩するような人だと思われたくない。いや、どう思われようとかまわないはずなのだが、それは一種の酔狂めいた気分を帯びていて、そういう気分にはとてもなれないのである。
 歩かないと、万歩計の数値が伸びない。万歩計には一日の目標歩数というのがあって、僕は基本的に一日8000歩を目指すことにしている。1万歩といいたいところだが、当然歩けない日もあるのだから、少し間引いてある。それは他でもなく、万歩計というのは一日の平均歩数というのも分かるようになっているからだ。一週間の平均歩数、一か月の平均歩数、そうして年間、さらにはそのトータルとしての平均である。長い年月のものほど平均の歩数の変動は少ないが、連日歩かないでいると、一月の平均が8000歩を割るような事態を招くことになる。そうすると変動が少ないのだから、挽回も難しい。何日か数百歩なんて日が続くと、平均歩数を8000歩に戻すために、何万歩か歩かなければならない、などというデータが教えてくれることになる。それは簡単ではなく、やはり数日にわたって平均歩数を、例えば一万歩以上ということを続けていかなければ届かなくなる場合がある。その月の残り日数で割ってみて、その歩数が一万歩を大きく上回る平均値になると、これはもう毎日がたいへんである。サボってしまったツケであるが、本当にそれは、何か借金を背負わされてしまったような負担を感じる。
 結局のところ、僕は万歩計のために歩いているようなものかもしれない。しかしその強制力こそが万歩計の魅力でもある。人間は自分の意思の力のみを信用して自分を律するのは難しいのだ。万歩計という小さな魔力が、僕を今日も何とか外へ連れ出してくれるのかもしれない。
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すべては金で済むはずの怖ろしい家の話   ハウスメイド

2020-09-16 | 映画

ハウスメイド/イム・サンス監督

 題名の通り若い富豪夫婦の家で働くことになった二人目のメイドだったが、若奥さんが二人目(双子の男の子)を身ごもっている状態だった。夫は何か大きな会社で働いているが、帰ってくるとワイングラスをくるくる回しながら飲んだり、ピアノを弾いたりしている。先に働いているベテラン風のメイドは、ほとんど家の中のことを取り仕切っている主のようなおばさんだ。しかし料理なども上手く、そうして何かすべてに抜かりがない様子。
 ある夜ふろを掃除していたら主人がやってきて、そのメイドの様子に欲情したようで、後にメイドの部屋へ現れ性交渉を持つ。翌日合うと金をくれた。お礼というか、娼婦扱いというか、ともかくこの家では、なんでもお金で解決するつもりらしい。
 ところがこの時の情事で身ごもったようで、本人はまだ気づいていないが、主のメイドが感づく。妻の母がこのことを伝え聞き、若いメイドがシャンデリアを掃除中にわざと躓いて見せて梯子を外してしまう。宙づりになったメイドは結局階下に落ちて怪我をしてしまう。入院して正式に妊娠していることが確認され、怒った妻はメイドを叩いた上に金を積んで追い出そうとするのだったが……。
 こういう一連のゴタゴタは、ある意味若いメイドと血気盛んな主人との間で、起こりがちな物語のようにも感じる。まあ、こういう物語ならそうなるかもしれない、という予感はある。しかしながらその後の展開は、少し妙な具合のサスペンス風になる。義母も妻も、お家事情のためなのか、非常に殺気立っており、恐ろしい。普通なら金を積まれて出て行けばいいのでそうするように思われるのだが、若いメイドは、何か妊娠自体に戸惑いがありながらも、漠然とこの家にいるやさしく幼い娘の妹が欲しいと思ってしまう。もともとこのメイドである女は、おとなしいだけでなく感受性が弱いというか、ちょっとつかみどころがない。まえの職場で一緒に働いていた太った仲のいい女とも、なんとなく同性愛的な雰囲気がある。女として身ごもった立場で、やはり宿った命を生みたいという心情があるらしいことは見て取れるが、それに付随して金持ちの主人との愛人関係を続けていきたいものなのかどうかがはっきりない。いや、愛のある関係であったと思いたいような雰囲気はあるのだが、それは恋や愛というより、漠然とした女としてのささやかなしあわせな空気のようなものを欲しているということなのかもしれない。
 最終的には韓国映画らしい結末にはなるが、しかしそれで何が言いたかったかははっきりしない映画だ。その影響をこの富豪家族は必ず受けた筈であるという示唆はあるものの、いやそういうことは無いのだ、という意味も無いではない。妙な映画には違いないが、ちょっとした後を引くような印象の残る作品であった。
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