カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

基礎とは当たり前である以上のこと

2012-03-31 | 雑記

 オフト元日本代表監督の日本滞在記を見た。焦点として、ドーハの悲劇といわれる試合を経て日本はワールドカップへの出場を逃した後、結果的には生まれ変わったように強くなり、実際にはワールドカップの常連になりつつある。まだまだサッカー先進国といわれる国々とはそれなりに差があるものとは考えられはするが、国際的にはかなり上位に位置するまで上り詰めているように見える。そのような現在の日本サッカーの姿を見ると、ドーハは悲劇では無かったのではないか。
 もちろんあの経験が活かされて勝負というものや、勝つためのサッカーのスタイルというものが変わったとは考えられる。なでしこジャパンは世界一になったが、佐々木監督はオフトサッカーの信奉者であり実践者だったということも明かされる。ドーハ以降如実にその果実は実っているのだ。
 しかしオフトは安心していない。日本でさまざまな人物に会って自分の考え方を伝えようとする。移動中に偶然に目にした少年サッカーの連中に注文をつけたりしている。次の世代を絶え間なく育てる。栄光はそのようなことでしか続かない。絶え間無い連続でしか、強さは育たないのだ。
 教えている内容は、日本ではいわば基本的なものというように思われるものばかりだ。三角形でプレスをかけ、攻撃と防御の両方をこなす。速いパス回しでチャンスを作り、空いたスペースを活用する。いまや少年サッカーの選手ですら理屈では誰でも理解していることのようだ。しかしオフトは日本ではそのような練習がなされていないと感じているようだった。そして基礎プレーが大切なのですね、と問われると怪訝な顔をして、実践に役立つ練習が必要だというのだ。日本のサッカー人が大切にしようとするものとの違いがあるわけではないのに、基礎であるとか実践であるとかの垣根を考えずに、常に試合のために練習をするということを考えているにすぎないようなのだ。
 以前日本代表のバスケットボール選手と話をする機会があったのだが、バスケットの先進国から来るコーチが来て教えてくれるのは、実は戦術的なことはほとんど無いのだという話をしていた。テクニックや複雑な戦術は日本のコーチの方が研究をしていることが多いのだが、外国人監督は精神面や心構えしか教えてくれないと言っていた。いかに気持ちを強く持つべきなのだとかばかり言うので、正直煩わしいとさえ言っていた。
 求めていることとやるべきことは違うのかもしれない。オフト自体は精神論をぶつような人物ではないようだったが、日本がやるべきことは、今でも見えているのかもしれない。日本が強くなるということは、本当はいまだに理解できていないかもしれないそのような当たり前のことの中に、隠されているということなのだろう。
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偽善者であるという告白の連鎖

2012-03-30 | 時事

 最近なんだか嫌だったのは、堰を切ったように瓦礫受け入れ決議をする自治体のニュースだった。
 もちろん瓦礫受け入れは賛成だし、ある意味で当然すぎる判断だと思う。受け入れない状態が続いたことで、被災地は本当に苦しんでいることだろう。一日も早い復興を願う連帯感なんて、結局偽善に過ぎなかったという日本国民の情けなさもあって、悲しさを通り越して呆れてしまっていた。
 今更という気持ちもあるが、しかし、今の受け入れ連帯感は、単に今までの恥に対する隠れ蓑のようなものだろう。偽善的にやっているだけのことで、相手のことなど微塵も慮ってなどいない。地元住民の良心に対して説明がつかなくなり、自分らの保身のためだけに決議を急いでいるだけのことだ。しかし臆病なチキン・ハートだけは動いており、独自の安全基準などと嘯いている。リスクがあるから英断なのであって、むしろそのような考え方が被災地をさらに苦しめているだけのことだ。
 日本はどうしてここまで落ちぶれてしまったんだろう。今となってはそういうことを検証すべきところに来ていると思う。日本に限らずそういうものだという議論もあると思うが、早い段階で英断を下そうとしていたところだってかなりあったはずなのだ。そうしたものをあくまで空気で弾圧してしまう民族性は、先の大戦の頃と何ら変わっていないという証左でもあろう。日本がまた暴走して戦争など起こさないものだとばかり思っていたけれど、その可能性は極めて低いというべきなのかもしれない。
 こんな国に生まれてしまった醜さに、いたたまれなくなるような醜態をさらす自治体の多さに、暗澹たる気分にさせられたのであった。子供たちには早い段階でこの国に見切りをつけるよう、忠告すべきなのだろう。それがせめてもの良心というべきかもしれない。

 とまあ、以前怒りにまかせて書いて、文章をあげることはしなかった。基本的に怒りの気持ちは変わらないが、それでもやはり、少しは前進だということも、感じられはすることだ。そういう可能性には期待したいし、自らもそういう気持ちをもつことは大切だと改めて感じる。今自分自身に出来ることは少ないが、あきらめちゃいかんなと思っているところです。怒りの記録は残しておくが、失望から諦めの気持は変えていこうと思う。何故なら僕自身もここに生きている当事者だということだ。他人のせいにばかりしていては、やはり卑怯なんだろう。冷静に気持ちを改めたいと思います。すんません。やれることを少しずつでも実行していく。本当に今からも、それしかないのだから。
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雪の日に高くなるもの

2012-03-30 | 境界線

 テレビでやっていたサンデル教授の授業で、大雪の日にシャベルを高く売るのは間違いか、というような議論をやっていた。倫理観からするとずるいということを言いたいのかもしれない。しかしながら高くても売れるのだろうから、これは単純な市場原理という気がするだけの問題に思える。
 山小屋のビールや水の値段が高いだろうことも、普通に当たり前の話である。また、コンビニの商品はほとんど定価だろうけれど、スーパーで安売りされているものがほとんどだから、事実上価格を上乗せしてあるのと同じである。近くであるとか深夜であるとかに手に入る適正価格であるという了解があるのだと思う。
 足元を見て値上げした店は客が覚えていて、雪が溶けたら買わなくなって損をするというような事も言われていた。そういう考えの客もあるだろうが、多数とは考えにくい。大雪の時に周りのどこの店よりも値段が高いなら売れない、というだけの話に過ぎない気がする。値段の適正なんて、店と客との妥協点にあるにすぎない。値上げしないべきだというのは偽善的な気がする。
 雨の日に折りたたみ傘をもっているという準備によって、傘を買わずに済むという節約方法もあるし、あえて持たずにその都度買えばいいという合理性もある。雪は降ればその時に困るわけだが、効率が悪くてもシャベルを使わない選択もあってよい。倫理の問題には不適切だと思える。むしろ家がつぶれそうになっていると分かっている人が、助けて雪下ろしをするのかしないのか、というのなら倫理問題になりえる気がする。このような問題に倫理的なルールを作りたいと考える方が、人間的な倫理観が足りないのではなかろうか。
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お引っ越し

2012-03-29 | 映画
お引っ越し/相米慎二監督

 親の離婚を子供がどの様に考え、抵抗し、そして理解するのかというお話。まあ、そういうことになるんだろうな、という感じはするが、女の子と男の子の場合だとかなり違うことになりそうな感じもした。この映画では女の子で、最初は多少の中性的な印象も受けたが、しかし限りなく少女性の強いものだった。やはり女でなければ描けない世界はあるもので、ちょっとだけずるいと何故か思ってしまった。訳のわからなさもあるけれど、たぶんそれでいいのだろう。
 子供だって辛抱しているのに親が辛抱しないのはおかしいというが、別れてしまう方が自然というのだってやはりあるんだろう。一緒にいた方が地獄ということだってあったはずで、辛抱しない生き方の方が、結果的に前向きになれるという気もしないではない。もちろん、どのような選択をするのかは、やはり親が決めるより無いだろう。
 あえてぎこちない演出でリアルさを出しているのだろうとは思ったが、いろいろと映画的な出来事も多くて、玄人は感心するのかもしれないが、どうも中途半端な印象も受けた。やりたいことはやりたいこととして、見る方が楽しいということも、もう少しあってもよかったのではなかろうか。まあ、極端につまらなくはないのだけど、燃焼しきれないもどかしさのような印象も受けたのだった。
 時代もあるんだろうけど、桜田淳子のヘアースタイルが面白かった。演技は良いが、彼女はこの映画を見返したくないんじゃなかろうかと、他人事ながら思ってしまった。
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ねえ、知ってる?

2012-03-28 | 感涙記
All mameshiba episodes! [english sub]


 つい豆知識が増えちまったぜ。
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実際には年長者に不公平な思想

2012-03-28 | culture

 近年の日本人が既に忘れているようにも思われているようでいて、しかし特に韓国や日本以外の国の人からは特異な文化だと思われているものに、長幼の序というのがあるようだ。日本社会には根強く残っているように感じられるようで、不思議に感じるところも多いらしい。文化なのだから仕方のない面もあるのだけど、しかし外国人の多くは、この考え方を不公平なものとして捉えている人が多いらしいというのもよく聞く話だ。まあ確かに若輩者にとっては不公平に感じることの多い面もあるとは思うし、事実客観的に見て横柄な年配の人にとっては都合のいいことに利用される場面が多くて、不合理で不公平であることは確かなのだが、やはりこれがそう簡単に変わりそうにないこともまた事実であり、ある一定の合理性があるのもまた確かそうであるから、日本のような近代化した社会においても、根強く生き残っているということにもなるのだろうと思われる。
 というか、このような儒教的な思想は、実は前近代というよりも、原始よりも合理性を重んじて、採用されているようにも感じる。ほとんどの場合近代的な合理主義的な考え方であるために、知らない人には理解されにくい概念なのではなかろうかとさえ感じられる。西洋合理主義より遅れているというより、彼らは単に知らないからその合理性を理解しないだけの話なのだろう。もちろん好き嫌いから言えば、僕自身は誤解している人の多い部分において儒教嫌いではあるが。
 ところがやはりこの不公平について、年配者だからといって、自分より知らないのに上であるというのはおかしいし従う必要が無い、という理由で批判しているアメリカ人を見ていて、やはり傲慢というか、そういう発言自体が幼稚なうえに無知に見えた。西洋人に多いのはこのような言い分で、じつは単に差別主義であるという告白であることが多いのである。従いたくないのは、人間の能力の差が、元から備わった人種や階級などによって決まっているという習慣上の偏った思想があるためである場合が多いのではなかろうか。
 儒教的なものの考え方は、人間というものの平等性についての信頼のような考えが基本になっているように思う。人間は誰もが平等であるという信頼があるから、年長に重きを置くことが出来るというのが真相なのだと思う。人間の能力というものには確かに、差のようなものがあるのかもしれない。それは実際には年齢とは何の関係も無いのかもしれない。しかし、そのような力の差は、実は元から持っている才能によって差が開く訳ではなく、経験によって磨かれるものである場合が多いのではあるまいか。そう言った経験上のものを、徳というようなものとして積んでいくと考えるならば、年を取るごとに、ある一定の考えを積み増していかなければ、人間の成長は無いのではないか。
 もちろん年を重ねても、そのようなことを知らない者もいることだろう。そういった人間を重んじる必要などは何もないとは言えるが、しかしチャンスがあってもいいとも考えられる。その時その徳に気付かない者に対しても、一定の礼をもって教育してやれるならば、後からその愚かなものであっても、その徳が備わった人間でなければならないことを悟るきっかけにもなろう。
 長幼の序というものは、若輩のものに対する教育というより、年を重ねたものにより厳しい要求を強いている考え方だとも考えることが出来る。
 問題はそういうものの足りない年配者が増えてしまったことに、最大の欠点が出てしまったことなのだろう。誰もがそのような徳を積み増すことをしないまま、むやみに寿命ばかりが延びてしまった。そのことが、この思想の廃れかかっている元凶なのであろう。
 このような序列が単なる誤解でもって世にはびこったために、不公平なもののように捉えられる機会が増えてしまった。年寄りに厳しい社会に、もはや日本は耐えられないナイーブなものの考え方になっているのではあるまいか。年長者に礼をもって理解させる機会を奪うことで、若者自体の成長の機会も止めているとしたら、やはりそれはそれなりに不幸なことなのかもしれない。
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人の目を気にして生きるなんてつまらない事さ

2012-03-27 | 音楽

 カーペンターズのドキュメンタリーを観た。
 当時は売れている絶頂期にあって、ほとんどの音楽誌や批評家に酷評されたということだった。いわゆるアメリカの時代の空気にぜんぜん合っていないにもかかわらず、売れに売れまくったからである。時代に合っていないのに売れるというが彼らの実力の高さを今となっては証明している訳だが、何しろ当時はマリファナ吸いながら強烈なことを言わなければ面白くもなんともないし、過激な時代批評なしに歌を歌うことはくだらないこととされていたらしい。
 僕はまだ小・中学生だったから何となくしか分からないが、そういう過激さが日本に足りないから不満だったくらいで、確かにカーペンターズは町中に流れて知っていたものの、若い僕は何の興味も無かった。どう考えてもツェッペリンの方が数段かっこいい。同級生の連中は、なんでこのカッコよさがわからんのだろうと、本当に心配してたくらいだ。
 まあしかし僕がカレンに感心したのは、実は彼女がドラムを叩きながら歌うのを見てからである。なんとカッコいいんだろう。ドキュメンタリーでは本人は歌うドラマーという認識があったらしく、歌に専念するのを大変にためらっていたそうだ。しかし周囲の要望がそのような希望を許さず、仕方なく徐々に歌だけに専念せざるを得なくなる。実にもったいないことだったとつくづく思うのであった。何しろリズム感やテクニックが、非常に抜きん出ているではないか。
 後にカレンは摂食障害(拒食症と過食症を繰り返したりしたらしい)がもとで亡くなることになるのだが、親子関係や若いころに少し太めだったことを気にしていたことが、その症状を引き起こした原因になったのではないかといわれている。
 しかしながら僕はこのドキュメンタリーを見ていて、彼女の周りの要求に合わせるという性格が、そのような症状となって自分自身を苦しめたのではないかと疑いを持った。カーペンターズが世界中で愛された一番の要素は、彼女のストレートな歌い方だったようにも思うにせよ、カーペンターズそのものの核となる才能は、やはり兄のリチャードによるものだろう。兄のあり余る才能に感化され、尊敬もし期待に応えようとして、さらに自分を完全な形で表現しようとしていた妹の姿が、手に取るように感じられるのである。
 実際に期待以上に才能を発揮し、兄自身も実は妹のシンガーとしての偉大さに嫉妬に似たようなものも感じていたようにさえ思われた。ピアノプレイヤーとしてだけでなく、曲を作ったりアレンジしたりする人より優れた才能があるという自負を持ちながら、もし神様に何か一つお願いが出来るならば、シンガーとしての才能を欲しいと願っていたと告白するのである。
 暗に、この兄の強い願望が、妹のカレンを逃げ場のない苦しみへ追い込んだのではないだろうか。ドラムが好きな歌の上手い女性が、人々の要望のままに歌に専念せざるを得なかったのである。ドラムをたたきながらだから自由に表現できた歌が、不自由な姿勢で歌わざるを得なくなるということになってしまったのではなかろうか。
 摂食障害になるのは、圧倒的に女性が多いのだという。自分をどの様に見せたいという考え方とも関係があるのだろうけれど、ある意味で自分自身をどの様にかするというのは、人目に対する期待にこたえるという、自分をある意味で曲げるような行為を含んでいるとは考えられないだろうか。自分自身の食べたいという欲求を捻じ曲げてまで、必要以上に見た目を気にしすぎるということが、病的な摂食障害を引き起こしてしまうのではなかろうか。
 つくづく人のための人生を送るというのは、やはり本当には自分のための人生では無いのかもしれない。もともと他人に迷惑をかけるからこそ、人が生きていくという正直な証となるのかもしれない。もちろん程度問題はあるにせよ、そのようなことを許しあえる人間社会でなければ、個人の幸福など実現できないような気がしたのであった。
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少し前のMDを聞いていて

2012-03-26 | 音楽
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 少し前に録音していたのをぼんやり聞いていて、やはり思い立ってCDを買ってしまったバンド。個人的にはアークティック・モンキーみたいでかっこいいと思うんだけど、どうだか。映像では洗練されてなくてかえっていい感じではありますね。若いってのはカッコイイだけじゃつまらないですから。

 アルバムには「ホッキー」と日本語表記してあるんだけど、ホッケーなんじゃないかとも思う訳で。いや、別に発音は詳しくないんだけど、ヤーヤーヤーズだっている訳だし、日本ではそういうことになったんだと言われると、知らなかったよ、というしかないです。
 別に盛りあがって無いので聞き流してくださいませ。


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もう少しサービスを落とすべき感

2012-03-25 | net & 社会

 最近めっきりツイッターではつぶやかなくなってしまった。携帯でツイッターを開くこともめっきりまれになってしまった。タイムライン自体を追わなくなったので、世間にも疎くなっているようにも思う。トレンドは時々見ることがあるけど、おおむね興味のあるような事は少ない。知らないものだけちょっと確かめて、フムフムというのはあるけれど、世間の興味と僕個人の興味の乖離が激しいということを確認するにすぎないようだ。僕は十分俗な人間だとは思うけど、世間はまた別の俗な欲求を持っているらしい。
 代わりにフェイスブックはよく見るようになっているようだけど、最近の改良でつぶやき自体が携帯では見にくくなってしまったのが残念に思う。誰彼が同じく誰彼に良いと思うのは勝手だけど、そういうものまで連動すると肝心の知り合いの発言まで閲覧するのに時間がかかってしょうがない。適当なところで諦めて、自身の関連のコメント関係以外のものは見る時間が少なくなってしまったように思う。こういうことが続くと、フェイスブックも足が遠のきかねないという感じさえする。
 おそらくそのように感じている人も多いらしく、またミクシイが復活しているという話も聞く。僕は仲間が少なすぎる上に、ミクシイ上で発言がなされる機会ももともとそんなに無かった所為で実感がわかないのだけれど、今のような感じでは、まんざら嘘ではないのかもしれない。
 過渡期というのはあるんだろうけど、どんどん使いにくくなっていくのは僕自身が変化に対応できにくい体質になっていることもあるんだろう。求めている面白さのベクトルが微妙に変化することで、自分の不満の方が先に立ってしまうのだろう。
 もちろんそのようなことがあるのは自然なことだから、離れたらまた別のことをしたらいいのだと思う。拘束力が無いからこそ、自ら面白さを作り出す世界こそ、SNS関連の最大の魅力なのだから。
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猫を償うに猫をもってせよ

2012-03-24 | 読書
猫を償うに猫をもってせよ/小谷野敦著

 正直に生きるというのはあんがいつらいことではないかと思う。正直に生きていきたいという欲求は美しいことのように思われるだろうが、実際に正直に生きていくは大変なのである。
 著者の文章や行いは、多少のユーモアもあるのは分かるが、時々なんだか少しつらそうな気がしないではない。歯に衣着せぬ物言い、という言葉があるが、まさにそういうことを素直に表していて、痛快さもあることながら、しかし敵も作ってしまう。結果的になんだか意固地になってしまうようで、痛いというか、つらくなる。読んでいる分にはそういうことも含めて面白い訳だが、ご本人は楽しいばかりでは無かろうと、何となく同情してしまうのかもしれない。
 実を言うと僕自身もつまらないことに拘泥して意見を言ってしまう性質で、たまに衝突を起こしてしまう方である。飲みに行く前には、つれあいからくれぐれも喧嘩をしないようにたしなめられる。僕が時々人の意見をまったく聞かないのは、実はその場の平和のためなのである。遮断しなきゃやってられないこともあるのだ。
 ある意味でそれは僕が嘘つきだということでもあると思う。僕は自分に嘘がつける程度には大人になっている。そういう部分は大変に汚いものだと正直に思うが、平和の手段のために人間は汚さに染まらなければならないこともあるということだ。そういう使い分けが社会生活ということもできるのではなかろうか。
 最後の方のエッセイで、著者の母親のことが書かれてあった。著者の性格に母親の考えが影響しない訳が無い。まさに彼の正義感というか潔白さというのは、母親譲りの合理的な公平感からきているのかもしれない。世の中の偽善に対して、たとえ生きるのがつらくなろうとも、我慢がならないこともあるということだろう。
 それにしても、返信はがきの「行」を消して「様」と書く慣行を、偽善的だと思う感覚には思わず笑ってしまったが…。まあ時々「行」のままかえってくる葉書を発見すると、僕などは本人に連絡すべきが考えてしまう方だが、偽善に染まってしまうと疑問にさえ思わない社会慣行に染まってしまうということかもしれない。
 正直者は何となく滑稽だけれど、笑われるほどに真剣になれるというのは尊いことだとも、同時に思うのであった。
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期待にこたえられない人

2012-03-23 | 境界線

 飲んでいて禁煙の話になった。喫煙者は旗色の悪い世の中になったので、禁煙には苦労している人も多いことだろう。個人的にはせっかく始めたものを途中でやめるのはよくないと思うが、根性の無い人は止めざるを得ない。社会的な暴力に屈したものでなければ禁煙は上手くいかない。
 ところで僕も、いつの間にかタバコをやめて11年くらいになるようだ。途中無理やり吸わされたことだとか、愛犬のローラちゃんが死んだときにあまりの悲しさに涙を止めたくて吸ったことがあったくらいで、連続喫煙というものはほぼ壊滅的にしなくなった。また吸いだしてもいいのかもしれないが、禁煙のつらさを考えるとめんどくさいのでもうこれからも吸わないだろうと思う。年齢的には吸った方がかえって健康や自殺防止にはよさそうだけれど、話が飛ぶのでここでは止めておこう。不健康であるのは健康を意識するよりは格段に健全なので、少しくらいリスクがあっても生きていくには仕方が無い。
 前にも書いたかもしれないが、このように長い間煙草を吸っていないにもかかわらず、道行く人に火を貸してくれと言われることがたまにある。最近は喫煙所というか、そういうエリアにたむろして煙を吐いている集団があるけれど、特にそういう場所にいて声をかけられるということではない。話の都合でそのままついて行って近づくことは無いではないけれど、基本的には用は無くなっている。
 ひとつは僕は散歩が趣味で、あちこちうろうろしているということがあるんだろうと思う。つれている犬を見てにこやかに近づいてきて、火を持ってませんか、という具合にいわれることが基本形のようだ。こういうケースは圧倒的に女の人が多くて、犬を連れてぼちぼち歩いているおじさんには火を借りやすいという気分になるのかもしれない。
 仕事や販売などで知り合って、しばらく雑談などして、ところでと言われることもある。これも女性が多い。営業関係の女性は車で吸う人も多いのかもしれないが、ひょっとすると少し打ち解けるということで煙草を吸いたくなるのだろうか。残念ながら既にライターやマッチを持ち歩いてはいない。要望にこたえられない自分が無能なようで、大変に申し訳ないことである。

 ところで最近はライターのつけにくいものが増えてしまって困っている。僕は障害者の支援を仕事にしているのだが、彼らが簡単に火をつけられないのである。旧式のチャッカマンなどを使って顔をやけどしたり、実害も出ているようだ。ブランド物のガスライターをなけなしのこずかいで買った人もいる。しかしおそらくすぐ壊すので、出費も馬鹿にならないだろう。人々の生活を不便にする規制というのは、社会的な正義の仮面を着た馬鹿げた圧力である。こんな変な国に住んでいることを、こういう時に情けなく思うのであった。
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呪術的生活

2012-03-22 | 境界線

 オセロ中島問題というのがあるんだね。僕はカミサンから聞いて何となく知っている程度だったけど、世間的にはこれは結構普通に知られていることらしいことをいまさらながらに知った。いわゆる洗脳話としてこれが怖いということのようであるが、僕にはそんな人の方が少数だろうと思えて、いったい何が怖いのかよく分からなかったのだ。
 ところがよくよく話を聞いてみると、占いに頼る精神性というのは、案外普通の人にも見られることであるということのようだ。確かに僕もおみくじ程度で何となく嬉しいという感覚も分からないではない。子供の受験に際して御守りも買ったくらいには、ご利益は期待しているのかもしれない。
 僕が朝から民放を見ない大きな理由に、運勢などの占いを見たくないというのがあるかもしれない。単に時間がもったいないというのもあるけど、不快というのもあるかもしれない。楽しみに見ている人がいるらしいからこんなコーナーがあるんだろうけど、基本的にちょっと不思議ですらある。ラッキーカラーを身につけるより、気にいったものを使った方が快適である。
 新聞にも運勢欄というのがあって、ある新聞には干支で運勢を示してあるのがあった。僕はこれを小学生時代に読んで、かなり疑問に感じた覚えがある。クラスのほとんどが自分と同じ運勢にあるなんて信じる方がどうかしている。これに頼るような生き方はとてもできないと子供ながらに悟ったという訳だ。
 験を担ぐというのは、スポーツ選手なども多いようだ。靴をどっちから履くだとかうるさい人もいる。実力世界のようで、そのようなちょっとした機微で物事が変わるように感じているのかもしれない。
 所得の高い人に神棚や仏壇に習慣的に手を合わせる割合が高いというデータも聞いたことがある。しかしながら所得格差は年齢とも関係あるので、ご年配の人が信心深いという相関関係ということもあるんじゃなかろうか。
 あからさまに呪術的な行いは現代人は信じていないように見えて、やはり生活の中には深くそのような信仰は残っているということかもしれない。そのように不合理ながらも信じてしまうような心理が内にあって、オセロ中島問題は注目されていたということなのだろうか。
 問題はそのような信仰というだけでは無くて、依存問題であるということも聞いた。行動の規範を相手にゆだねてしまう。この場合占い師のいうことに従ってしまうことなのだろうが、そうなると師の教えということに従順な人間に問題があるような気にもなるのかもしれない。高校球児などは多かれ少なかれ洗脳された結果強いチームになっているケースも多いとは思うが、そんなような事を言っているのだろうか。
 僕が学校が嫌いだったのは、多くの場合先生の言うことが嫌いだったからで、自由に個性的にのびのびやれと言いながら自分のいうことは聞けという矛盾が、ご都合主義に思えたからである。
 僕のような人間はつくづく洗脳には向かない。いや、それでも地球は回っていると信じているので、既に洗脳されているのかもしれないが…。
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ラーメンと愛国

2012-03-21 | 読書
ラーメンと愛国/速水健朗著(講談社現代新書)

 タイトルは何となく変な印象を受けるかもしれないが、結論から言うと、確かにラーメンでこの国の愛国を語ることに成功している。日本に根付いたラーメン文化というものの歴史的考察と必然性からひも解いて、最終的には現代日本人論にまで展開していく。強引なこじつけや無理な結びつけをすること無く、ラーメンと愛国心が見事に絡んでいく展開に、十分納得したうえで目から鱗も落ちることだろう。
 ご多分にもれず僕もそれなりにラーメンを食べてきたということもあるけれど、ある時期から何となくつきあえなくなってしまったような個人的な歴史がある。ラーメンの味がどうだというよりも、ラーメンにまつわる環境が変わっていくのに疲れてしまったということなのかもしれない。単にダイエットのことだったり、自分自身ラーメンを食べた後に胃があれるという体質のこともあるのかもしれない。何となく自分で整理できずにもやもやしたものがあったのだが、そのような気持ちもこの本を読んで見事氷解できたようだ。
 そういう意味では普通にラーメン好きだし、ラーメンに何の恨みも無いのだが、ラーメンによる自国文化論については、少々鼻につくというか、何となく嫌な感じがしないではなかった。されどラーメンというのは分かるが、やはり、たかがラーメンの方が根本的なラーメンの姿としてふさわしく思えるのだろう。
 また、時々繰り返して言ってきたことではあるが、出張や旅行などで現地の人(特に若者)に地元の特産やお勧め料理屋店などを尋ねると、近年はかなり高い頻度でラーメン屋を紹介されることが多くなった。それは確かに純粋なご当地自慢であるのは分かるのだが、少なくとも僕らより上の世代においては、何となく寂しいというか、貧しいお国自慢の響きを受け止めざるを得ないのであった。この感覚は純粋に紹介してくださる方には悟られてはならないもので、誠にめんどくさいのである。ラーメンを自慢しなくてはならない程度に、画一的な近代化、若しくはもともと何にも無いところでは無いはずなので、ラーメン文化が確実に、ある種のご当地の魅力を変化させてしまっているのだろう。そこのあたりの事情も詳しく書いてあるので、仕方のないことながら納得するより無いのだろう。
 ラーメンに対する作り手の情熱のようなものは、日本的な文化と本当に関係があるのだろうか。実際は貧しい日本だったからこそラーメンという食べ物が普及したのだが、ラーメンの持つ日本的なものが、広く世界中に広がりを見せるということから、偉大な食べ物へ変貌してしまった。将来的には結局は日本のものという側面は薄まって、細分化されていくものとは考えられるものの、最終的には発祥の国として、顕彰されることもありそうな気がしないではない。それを単純に日本の誇りと思うのか、悲しい現実と思うのか、少なくともそのような複雑な思いを理解するというのが、まともな国際理解なのではないだろうか。そういう意味での日本の先進性は、恐らく他国の将来を占うことにもなるのかもしれない。
 経済的には先進国の日本化が(衰退の象徴として)語られることの多くなった昨今、ラーメン文化のようなものも、他国においても日本と同じようなことが起こりうるような気が少しだけする。もともと日本独自であったというより、日本が先に体験してしまった歴史ということなのではあるまいか。もちろん僕は預言者じゃないので、外れた方が平和だという気もしないではないが…。愛国心に満ちた国なんて、やはりどこか衰退したノスタルジーのようなもののような気がするのである。
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勝負決まらず延長戦みたいな気分です

2012-03-20 | 感涙記

 今年は自分の母校の卒業式に三つ出た。ひとつは大学(僕の頃は短大だったけど)。自分の頃はこんなだったっけ?などと不思議な気分だった。なんか行きがかり上出ることになってしまったのだけど、なかなか面白いとは思った。僕らの頃とは全然違うセレモニーになっていて、そうして少しばかり洗練されたようにも感じた。来賓の中国総領事さんの挨拶が、何となくよかった。大学生の卒業式だから、ある意味で大人になっているようにも見えるが、やはり大部分の人たちは若くて、まだ可愛らしいなあという感じだった。社会人になっても頑張ってください。
 二つ目は中学校。これは来賓祝辞を言わなくてはならないので仕方なく出た。朝からトイレでスピーチの練習をして臨んだので、本番もまずまずしゃべることが出来た感じでよかった。目の前に座っている少年が数名、終始けっこうケタケタと笑いながら僕を見ていて、なんだか大して面白い話をしている訳でもないので、不思議な子たちだなあ、と思いながらしゃべっていた。終わったらホッとしてちょっと足がガクッときた。やっぱり緊張してたんでしょうね。終わっちまって良かったぜ。
 三つ目は小学校。来賓として呼ばれるのはたぶん最後だから、自分の母校に行くことにした。やはり祝辞には目がいくもので、会長さんは僕の同級生でもあるので、なおのこと注目してお話を聞いた。なかなか立派なだけでなく、そんなことがあったのか、と少しばかり驚くようなエピソードも交えたいい話だった。やはり気合を入れて考えたんだろうね。お疲れさまでした。
 僕らの頃と同じような別れの言葉のやり取りがあったけど、よく聞いてみると、微妙にエピソードや言い回しが違うらしいことも分かった。歌っている歌もちっとも知らないものだ。このような雰囲気が好ましいという教育界の考え方というのが段々と分かってきたけど、僕もしかしこのような世界からはおさらばである。そう思うとやはり段々と感慨深い気分がわいてきた。僕も同じように卒業しますって感じかもしれない。
 実を言うと、完全にこのようなやくざな世界から足を洗うことは叶わないことが決定してしまった。本当に悲しいけれど、役割だから仕方が無い。でもまあ、また卒業式は見るような機会があるということかもしれない。特に好きなセレモニーってわけでもないけど、役割から卒業できなかったということで、僕がまだまだ未熟だという証拠なのだろう。勉強が足りないならまだやるのみである。延長戦だと思って適当に頑張ります。
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体験ないけどノスタルジー

2012-03-19 | culture

 先日何気無くテレビを見ていて(いつも何気なく見ているものなんだけど)、何となくしっくりこない気分になった。よく目を凝らしてみてみると、西洋人(たぶんフランス人)が肩を寄せ合って日本の銭湯に浸かっている映像だった。日本の文化になじんでいる外国人ということなんだろうけど、なじんでいても違和感は消えないものだな、と思った。もちろんこれは僕自身の経験の少なさと偏見だから、もう少し時間がたつとこのような感想なんてもの自体が意味の無いことになる可能性はある。
 外国の人が日本の文化を面白がるのはよくわかる気がする。銭湯というのはまさにそういう場所なんだろう。
 僕の家はさいわいというか、子供の頃から内風呂があって、わざわざ銭湯を利用する機会はめったになかった。風呂が壊れたとか、何とか言う理由で銭湯に行ったことはあったようだが、特に感慨というものもない。というか記憶がおぼろ過ぎる。今はその銭湯すらホームタウンには存在しない。どこにあったのかさえ、ほとんどはっきりしない。
 親戚のおじさんの家(祖父と祖母の家でもあった)に遊びに行くと、そこは立派な五右衛門風呂で、スノコに上手く乗らないと入れなかった。子供は体重が軽いので、スノコをひっくり返して熱い思いをする。五右衛門風呂は、恐怖以外なにものでもなかった。
 今はぜんぜん真逆だけれど、子供の頃は風呂自体が嫌いだったようにも思う。肩まで浸かって数を数えさせられたりした所為だと何となく思っているが、のぼせるのが怖かったのかもしれない。出来るだけ避けて通りたい一日の儀式で、今では激しく気持ちいいと思うものの、そういう気分がまったく理解できていなかった。経験を積まなければ良さの分からない、大変に複雑なものだという気がする。
 それに風呂に入れと言う母の指令は、本当にめんどくさいものなのである。きょうだいが多い家庭だったので、順番に入らなければ後がつかえてしまう。母としては仕方のないことを言っているにすぎないのだけど、どうしてまた、一番入りたくない時に順番が回ってくるんだろう。見たいテレビの時間とか、読んでいる漫画の面白い時に、実にタイミング良く入れと言われることになっている。不思議といえば不思議な気がするようで、だいたい入りたいタイミングなんてほんの数秒しか無かったのであろう。
 以前欽ちゃんがどこかのメーカーの湯の花の宣伝をしていたのだけど、他のテレビの談話で、実は風呂に浸かるのは嫌いでもっぱらシャワーばかりだと言っていた。ちょっとした詐称疑惑があるようだが、そんなもんかもしれないな、と思ったものだ。風呂の似合いそうな人間が風呂好きとは限らない。日本人だから銭湯好きとも限らない。
 でもまあ銭湯にはノスタルジーの象徴みたいなところがあって、古き良き日本を語る上で欠かせない場所なのかもしれない。僕にはその古い部分をしらないだけだから、単に嘘ついて語れないだけのことである。僕にとっては、銭湯は未知でなおかつ新しいものであって、外国人の興味と何ら変わりはないもののようである。
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