カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

良い面だけを見る食べ物

2018-08-31 | ことば

 ふと翻訳ソフトに「親子丼」って言ってみた。でも「oyakodon」ってかえって来た。つまらん奴だな。でもまあこれは説明の仕方だろう。チキン&エッグ・(ライス)ボール(bowl)とでもいうのかもしれない。調理の仕方を説明する場合もあるだろうけど、複雑なのでパス。
 それでは、ってんで、やっぱり目玉焼きですよね、気になるのは。まあ、一般的にはフライド・エッグでいいらしいけど、日本的に片面だけを焼くのならsunny side upっていうらしい。これは太陽に似ているってのがあるようだが、何と言ってもsunny sideっていえば、良い面だけを見るって意味ですよね。太陽の当たる面だけを見ている感じが、なかなか面白い。目玉焼きの意味はぜんぜん通じてないけど、これはもう考え方の問題なんで、日本人には面白い発想に感じる。
 ちなみにだが、固焼きの卵焼きのことをhard boiled egg という。良いですね。非情な卵。もちろん素直な英語なんだけど、日本語的には面白く聞こえるところがいいです。実際に食べるなら、半熟の方が好きだけど…。
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やっぱり偉大な変な人   水木先生とぼく

2018-08-30 | 読書

水木先生とぼく/村澤昌夫画(角川書店)

 作は水木プロダクションとなっている。村沢さんという人は、水木しげるの下で40年もアシスタントをしている人だという。もともと漫画家になろうとして(賞も取っているようだ)いたが、勉強も生活もあるので修行のつもりで働くようになった。そうしてそのまま水木しげるの魅力に取りつかれようになって、漫画家になる夢を忘れて四十年居た、ということであった。
 水木しげるの生活のエピソードや、一緒に海外旅行に行ったことを、淡々と紹介している。水木さんの下で40年居たというだけあって、絵の感じというのは、ほとんど水木しげるそのものである。水木さん自身が描いたといっても、信じてしまう人も多いのではないか。師匠の影響を受けるのは当然という感じもするが、そういう意味では本当に分身のような存在になってしまったのではないか。
 もちろん水木さんは既に故人である。この本は昨年末出たらしいが、いまだに水木プロは存在するだろうし、村沢という人も、いまだにいるのだろうか。さすがにアイディアのようなものは、水木本人が居ないのではどうしようもないが、生前の使われてないネタのようなものであれば、村澤画で再現が可能なのではないか。もっともこのような水木さんエピソードの作品であっても、十分に面白い訳であるが。
 作者の方に水木さんへの愛が感じられることはもちろんだが、水木さんという人は、アシスタントに対しても、何か愛のようなものがあったというのが感じられる。変わっているだけの人ではなく、そのような人間的な魅力があって、そうして素晴らしい画力と作品を生み出していたらしいのだ。水木さんそのものが作品として成り立っているのは、そういう理由があってこそである。水木さん作品はもちろん今後も残るとは思うが、古典化して本当の意味で理解できる人は減ってしまうのではないかとも思う。それはとても残念なことだけれど、しかしその魅力が本当に減ってしまうという事では無い。今では多少わかりにくい面もあるとは思う反面、そのような人物が普遍的に残るものでは無いかという思いもまたある。
 水木作品を単なる妖怪や社会批評と考えている人があるならば、もう一度水木さんそのものを見て欲しい気がする。何か強烈にメーセージを伝えるような作品ではないが、水木ファンにはたまらない人物描写なのではなかろうか。
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夏時間やるくらいならやめちまえ

2018-08-29 | net & 社会

 夏が暑い所為で、東京で開催される予定のオリンピックの天候も懸念されているという。日本の暑い夏の時期にオリンピックを開催することは、過酷すぎるのではないか。様々な国からやってくる選手たちの体調を守ることも大切なことだし、そもそも炎天下で最高のパフォーマンスが出せるはずがない。事故防止も大切だし、気を付けたとしてもそれは最高のものでは無いのであれば、本当に残念である。
 そういう感情論が盛り上がってのことというのは分かる。そういう条件で戦うのがスポーツであるとはいえ、程度問題はある。ではどうするのか、というのに、もの凄く残念な議論が生まれている。
 サマータイムのことである。あまりにも馬鹿げているように見えるし、何故? という疑問は素直にもつ。無理にやると混乱ばかりで何もいいことは無い。そもそも夏時間にしなくとも、競技時間を考えるだけで済む話ではある。それを無理にごり押ししてしまう安直さはなんだろう。良いアイディアだと思う神経が理解できないのかもしれない。
 僕自身は中国留学時代にサマータイムの経験はある。さらに若い頃なので時代も違う。当時はそれなりに面白がる気持ちはあったが、やはり移行期はつらかった。もちろん今は中国でも夏時間は廃止されているらしい。コンピュータ時代でもあるし、健康への悪影響問題などもあるわけだし、賢明な処置だろう。いまだに夏時間を実施している国はあるにせよ、慣習的なものであるとか、高緯度の問題などもあるのだろうと思われる。
 日本が過去に夏時間を実施していたことは、わりに知られていない。もちろん昔過ぎて記憶にあるような人も少ないことだろう。結局日本においての夏時間は、早出させられて就業時間が増えるだけであるという結果に終わったためである。いまだにそうであるとは必ずしも言えないまでも、国の労働の在り方がサービス業中心にシフトしている現状を見ると、さらに酷い結果になることは明らかだろう。
 それだけでも普通なら議論は終わりである。しかし一番疑問に思うことは、やっぱりなんで国がこういうことを決めたがるのかという事である。始業時間や終業時間は、各自が勝手に決めて実行したところで、何の問題も無かろう(個別には不都合のある場合もあるが)。そういうことが自然であり望ましさである。オリンピックを国の行事のようにするのも気に食わないのに、さらに何故そのことにつき合わされなくてはならないのだろう。ほぼ仕事をしている人たちにとって、そのような祭典は関係が無い事が健全なのである。
 もうオリンピックは、日本は辞退してはどうだろう。ただでさえ金にまみれた汚らしい大会である。スポーツは青少年の育成にも害悪がありすぎる。もっとも東京でやることだから、関係ないと言えばそうではあるが、こんなに嫌な思いが待っているのなら、中止になった方がずいぶんマシではなかろうか。

 というのを書いていて、どうしてまた僕はこんなに怒っているんだろうと思った。一日置いて少しばかり頭が冷えてくると、単に国の間違った政策に一方的に従いたくない自分がいることが分かる。法律などある程度のルールなどについては、そりゃあもう従っても秩序の為には仕方がないとは思うものの、夏時間というのは、本当に打ち筋が悪いと思う。夏時間についてテレビで討論しているのを見たが、肝心な予想されるデータについての議論は少なく、感情的にやれる面白さを語る人などが居た。本当に意味のない徒労感を覚える。もう少し真剣に検討をして、実行に耐えるものでなければやる意味は無い。そもそもオリンピックの為に議論を始めるべきなのでもない。オリンピックの事情であるのならば、その委員会で開催時期や時間などを検討し直す方が肝心だろう。
 夏時間になったとしても、その決定に従いたくない人たちで、旧時間で過ごすというのはどうだろうか。混乱は激しくなるだろうけど、そのような馬鹿げたことが起こり得ることを証明したい衝動にも駆られる。それでも従ってしまう日本人が多いとしたら、本当に情けないことだなと思う。もっとも本当に実行するような判断がなされるとも考えにくいのだが、これを推したい感情論が強ければ予断を許さない。やっぱり怒りの多い問題であることには変わりがないようだ。
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男にはできない生き方   悪女について

2018-08-28 | 読書

悪女について/有吉佐和子著(新潮文庫)

 戦後の混乱期にわが身一つで大富豪となる、女性実業家の富小路公子という人物がいた。彼女はどうも謎の死を遂げたようだが、生前はいったいどのような人物だったのか、マスコミでは悪女とセンセーショナルに騒ぎたてられたようだけれど、そのかかわりのあった人27人の証言から、この女性の真実に迫っていくという筋だての物語である。基本的にそれぞれの証言はモノローグになっており、本当に一人の人間を語っているのかさえ疑問に思えるような顔が浮かんでくる。その不幸そうな生い立ちや、事業に対する成功のあらまし、そうして男性遍歴に至るまで、富小路公子という凄まじい女の一生が明かされていくのである。
 大変に面白くて、ほとんど一気読みしてしまった。いったい何という人が居たものだろうか。正直に言って、こんなことが出来る人間というのは居ないだろうとは思うのだが、しかし女である。このような女の姿というのは、実は多かれ少なかれ存在できるのではないかと思えてしまう恐ろしさがある。いわば本当に努力を重ね、必死に生きているひたむきさもある。しかし同時に非常にしたたかで、本当の自分をまったく隠し続けている姿もある。どれもたぶん本当の話で、しかし同時に一人の人物であるというのが凄まじいのである。肝心の悪女かどうかというのは、僕にはよく分からないのではあるが、気の毒の面も多々あって、そうして実は、被害を受けながらも先を見越して、現在を必死に生きているという実感も伝わってくるのである。成功して派手な生活を送ってはいるものの、内実は本当に充実して満足していたものなのかどうか、そのミステリを考えるだけでも興味が尽きず、楽しめるのではなかろうか。
 既に死んでいることは最初から示唆されていて、いわば物語は終わっているところから始まっているはずなのに、その時々の証言による臨場感のようなものがあって、時には見えていなかった裏側が急に明らかになって、アッと驚く展開が何度も続く。最後にはとても解けない謎の死の真相まで、はっきりとは分からないはずなのに分かるように描かれている。実に見事なエンタティメント作品といっていいだろう。何にも考えずに夢のようなドロドロした世界を堪能する。妙な娯楽があったものだが、面白いので著者の勝利なのである。
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記号の名前って味気ない?

2018-08-27 | ことば

 前を走る車がワーゲンでTSIと書いてある。後で調べたら、ターボチャージャーなんとかかんとかというエンジンのシステムの略文字であることが分かった。気になったのは、それなら仕方のないことだが、なんとなく速そうじゃないな、と感じたからかもしれない。
 日本車の場合は、SとかRとかZのような文字がくっ付く場合がある。何の意味かは実はよく知らないが、なんとなく速そうな印象があったりする。おそらく日本人にとってそれらのアルファベットは、そういうクオリアがあるのだろう。ドイツ人にだってそういう感覚はあるんじゃないかと思ったのだ。
 さらに思うのだが、確かにドイツ車というのは、このアルファベットの使い方が、なんとなくそっけない。ベンツのくせにCクラスとかLとかいうのがある。実際はどうだか知らないのだが、なんとなく程度が低そうな印象が無いか。これはドイツ合理主義の所為だという話であるが、そうなのか。ヨーロッパ車には数字(ナンバー)の場合もけっこうあるようだ。そっけないし覚えにくい。子供のころは911とか928とか言っていた気がするが、あれは昆虫採集のような物覚えの良い時期の為であるようにも思う。覚えている人はいるが、覚えにくい人もいるのではないか。
 名前を付けると輸出をする際にその国での印象が良くないという事があるという。日本車が米国で販売されるときに違う名前になったりする。それはなんとなくめんどくさそうだが、別にかまわないような気もする。日本でも米国でもドイツなどは数字やアルファベットで通すのだ、というような頑固さがあるんだろうか。いや、これは頑固なのか。
 記号や数字でも意味を知りたい。またその印象も知りたい。どうしてそのようなものに、感覚が伴うのだろうか。また、これには男女差もあるのではないか。
 僕はブランド名がほとんど読めないが、そのようにローマ字読みなどで分からない文字を、そのまま日本で売っている感覚がよく分からない。ルビを振って欲しいな、と思うのだが、それじゃだめなのか。
 まあ日本車だって「トヨータ」と言われたり「ハンダ」と言われたりしても、通じてはいる。日本人だってよその国ものをちゃんと発音できているかは怪しい。数字やアルファベットは、そういう意味では無難なものなのかもしれない。
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ヒトラーというのは単純な悪では無い   顔のないヒトラーたち

2018-08-26 | 映画

顔のないヒトラーたち/ジュリオ・リッチャレッリ監督

 ドイツ映画。ニュルンベルク裁判は割合知られていることと思うが、ドイツの敗戦後13年経過した後のアウシュビッツ裁判がドイツ人の手で行われていたことは、比較してそれほど知られていないのではないかと思う。
 いわゆる戦争犯罪を自国民でどれだけ裁くことが出来るのか、という問題に正面から向き合って、時には向き合いすぎて混乱する話である。ナチス・ドイツの組織的な戦争犯罪という側面から考えると、誰もが何らかの形で戦争に加担していたわけで、いわば仕方のなかったという考えがある。しかし、それだけでは割り切れない残虐行為が見過ごされたままで良いのかという良心の問題もある。被害を受けて、その傷が癒えず苦しんでいる人も少なからずいる。終戦を機に、何らとがめられずに、普通の生活を送っている加害者が存在しているし、時には逃げ回っていて捕まえられることさえ困難になっている。法の立場で自国民を裁くという事に、この国の未来もかかっていたのかもしれない。
 主人公の検察官は1930年生まれ(なんと僕の父と同い年だ)という事で、この大任を担うことになる。本人は戦時中ナチスに加担していない潔白さがある。しかしながら例えそうであっても、自分の家族や恋人の家族であっても、戦時中の立場を考えると、必ずしも潔白だとは言えない。捜査を進めれば進めるほど、本人は苦悩の中に放り出されることになってしまう。疑心暗鬼になり、さらにまわりの人間がすべて敵のようになり、さらに自分が裏切り行為をはたらいているような気にもなっていくのかもしれない。
 東京裁判やニュンベルク裁判には、戦勝国の立ち場で一方的に裁く、いわば茶番劇的な要素が強かったが、たとえ戦争といえども、被害者が自国で生活しながら何も手を出せないことに向き合う司法の苦悩の姿が、そこにはある。自分の問題を自分で浄化できるのかという考え方もあったのかもしれない。戦争で仕方のなかったという事だけでは割り切れない犯罪行為が、そこには存在したのではなかったか。また数々の証言や証拠が、その時点であれば検証可能だったのではなかったか。
 多少潔癖症過ぎるところが強調され過ぎているきらいはあったが、苦悩しながらも圧力に屈しない為に戦わなければならないこともあったのだろう。映画としては現代人の単純さがあるようにも思ったが、これは大変に困難な試みだったことは理解できた。おそらくそれでも、清算が出来ない問題は含まれている。敗戦国のみの苦悩で済んでよい問題なのかも疑問に思うし、見向きもしない西側諸国もある事だろう。戦争は終わったが、何らかの形で向き合う必要を感じている人たちには、このようなことから逃げてばかりは居られないだろう。難しい問題だからこそ、単に裁くというだけでなく、検証は行われなくてはならない。
 面白い映画ではないが、戦後が終わらない訳もなんとなくわかるのではないか。責任を取るべき時期は既に逸しているとは思うものの、現代人としては観るべきものがあるのではなかろうか。
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末尾に姓だけは失礼です

2018-08-25 | ことば

 宛名の話で思い出したが、最近メールをいただく際に、特に事務的なものに限って、文章の最後に、自分の姓だけを書いてくる人がいるのである。それも、そんなに少なくは無い。
 これはおそらくなのだが、書いている人は、案外へりくだって書いているつもりであるようなフシがある。姓名まで記すほどの者ではありません、と言いたげな雰囲気なのである。何故かというと、そういう人に限って、本文は事務連絡にしては結構丁寧だったり遠回しだったりする場合が多いのである。いわゆる失礼の無いようにという意識が、過剰な感じかもしれない。そうして自然に最後には、姓だけの人間になるという事ではないか。
 しかしこれは、本来は大きな間違いではある。姓だけ書くような人は、実は自分が目上であるからそうする訳で、目下の人間に親しげな雰囲気を出すためにそうする訳である。それくらい君とは親しい間柄になったね、という感覚であろうか。姓だけ書いても当然相手は自分のことを詳しく知っているのだからかまわない、というような気やすい感じからそうするのかもしれない。
 さらに実際に困るのである。まだそれほど親しくもなっていないような、さらに返答が必要な文面であるにもかかわらず、これを平気でやってしまう事務方の人が困るのである。メールを返す際にこちらとしては、相手の姓名を書かなければ礼を失するという感覚がある。確かお逢いしていたはずであれば、名刺などを引っ張り出して探さなければならない。また、相手側の他の記録などを探して姓名を探る場合もある。もともと面識も無くて、上司からの命令で書いてくるような人もいる。これではどうにもならないので、あえて相手側の事務局の担当者様とことわりを書いて、失礼を承知で姓だけを書く場合もある。電話などで確認するより、急を要する場合があるからである(まあ、面倒だし)。
 何を言いたいかというと、迷惑だという事だ。こういう事務連絡こそ、正確に必要最小限のことを書くべきだ。文面などを特に凝る必要などなく、自分自身の名前くらい、正確に記すべきなのである。特にそのような面倒を相手にかけることになり、大変に失礼であるという感覚を持ってほしいものだ。まあ、それくらい偉い人なのかもしれないが。
 よく分からないのだが、そういう間違った礼儀を教えるところがあるんだろうか。まあ、僕は礼儀などは、あんまりどうでもいいのだけど、仕事をしやすい感覚をお互いに持って欲しいと思うだけのことである。また、本当にへりくだるのなら、姓では無く名の方だけにすべきなのだが、また話がややこしくなるので止める。素直に両方書いて下さればそれでいいだけのことなのである。よろしくお願いします。


追記:末尾に苗字だけでいいのは、例えば同じ会社内の案内などはそうだといえる。総務部の斉藤が他の部署の上司に向けて文章を書く場合は、それでもかまわない。いわば身内だから。しかし同じ業界の他の会社へ、共通の案内だからと言ってこれをやるには注意が必要だ。礼というのは内と外は厳格な感じがある。
 役場などが市民向けの案内の末尾に担当者の性だけ書くのがあるが、これも厳密には悪い見本だろうと思う。ひょっとするとこういうのが、この問題の蔓延の元かもしれない。
 行政の文章には、一般社会の礼儀からすると、非常識なものが多いように思われる。これを見本にするのは、危険が多いと考えた方がいいだろう。
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卒論読む先生も(たぶん)驚く作品   六の宮の姫君

2018-08-24 | 読書

六の宮の姫君/北村薫著(創元推理文庫)

 芥川龍之介の作品に同名のものがある。私は卒論に芥川を選んだのだが、この作品についてバイトで出版社で働いている折に、文壇の大御所から「あれは玉突きだね。…いや、というよりキャッチボールだ」という謎の言葉を投げかけられる。この作品が書かれた背景に興味をもった私は、その執筆当時の芥川の交流のあった作家や作品を巡って、さまざまな文献にあたることになるのだった。
 また円紫さんもこの作品の背景は当然知っていて、ちょっとしたヒントももらう。文学部出身の人たちが皆このように書肆探偵を日頃やっているのかどうは知らないが、ちょっと博識すぎる人たちばかりで呆れてしまう。これだけ本ばかり漁っていると、生活はどうなってしまうのか。読書というのは改めて害毒の多い試みだという事が、身につまされる作品になっている。まあ、楽しいのだから仕方ないが。もっとも僕自身はこのような作品背景にはそんなに興味がある訳では無い。いわばゴシップの類でもあって、それが面白いんじゃないか、という声もあるだろうけど、基本的には作品が面白ければいいとも思う。思い入れが強くなって、そればかりでは物足らない、という人がいて、このような探偵がなされている訳ではあるが、ネット社会にあるとはいえ、いまだに東京に住んでいないと、このような探偵は出来ないかもしれないな、という事も分かる。文学というのは、ある意味で一種の芸能だから、東京に住んでいなければ、楽しめない一面があるという事なのだろう。
 謎を見つけるために読書を続けて、そうしてその謎の核心に近づいたときに、自分一人だけ大きな喜びがある。そういうたぐいのミステリというのは、一般的にはなかなか作品にしづらいのではないか。そういう意味でも見事な作品で、なるほど、このような読書の深みというのがあるんだという驚きもある。まったく凄いもので、このようなことを文学世界の人々は、多かれ少なかれ知っているという事なのだろうか。
 本来は先生が生徒や学生にものを教えるという形では、このようなミステリのやり方はあったのかもしれないが、生徒自身がここまで成長していると、泳がせてもここまでたどり着けるという事かもしれない。そういう教え子が居たとしたら、先生というのは舞い上がってしまうのではなかろうか。優等生がかわいがられる理由がよく分かる作品ともいえて、よくできた学生は、私を真似て卒論を書いたらいいのではなかろうか。

 実は過去にこれは読んでいたようにも思う。アマゾンに過去歴があるし、ところどころ記憶があった。しかしながらいつものようにたいした記憶力も無いので、楽しく読むことが出来た。そういう意味でも読み返しが可能な作品かもしれない。もちろん博覧強記の人以外のことだろうけれど。
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先生と言われるほどには…

2018-08-23 | ことば

 ちょっと前にどこかの大学の先生が、学生からのメールで自分に対して苗字に「様」をつけてよこしたことに立腹して、単位をやらないとツイッターかなんかで書いてしまって、炎上していた。
 反応として、先生とはそんなに偉いのか、ということや、この先生自体が、何か変な人であるという事ではあるらしい。まあ、場所が悪かったというのはあるようですね。
 しかしである。この問題は、あんがいこの先生の方が正しいとはいえる。本来は先生に対しての宛名というのは、様であるのは失礼であるのは当たり前だからである。いや、当たり前だったというべきか。先生はそんなに偉いのか、という問題は、今の先生は偉くないという前提に立って考えているので厄介で、本来は先生というのは、教わる側からすると、それくらい偉いという前提の方が当たり前なのである。手紙の作法においては元来そうすべきであって、もう廃れてしまった風習であろうかとは思われはするものの、どちらかと言えばこの変な先生の方が正しい反応かもしれない。
 ただし、これは先生方が愚痴る場合だけの限定の話で、自分自身でそうすべきだというのは、なかなか難しい場合が多い。実際そうしない人が増えているにせよ、そうすべきだとまわりの人間が諭すべき問題だったのかもしれない。それが手紙などの一定のマナーだったのは、そう遠くない昔からの話である。
 さらにしかしであるが、実は僕も以前は年賀状などに、先生と書いていた時期あったのだが、大人になってから止めてしまった。失礼は承知ながら、やめたのである。それというのもある先生の話で、古風に先生と書かれるより、様でかまわない、というお話を聞いたことがあるからである。受け止める先生の方で、そのように感覚が変わっている現実があるのだという事を知って、なるほど、と思ったからである。実際のところ現実としては、ほとんどの場合様書きに変化していることだろうと思われる。いくら先生の方が正しいと言い張ったところで、もはや少数派に過ぎないことだろう。もちろん正しいのは先生の方だから、そうしたい人はそうすればよろしい。そういう問題に変わってしまったというべき問題になってしまったのではなかろうか。
 さらに思うことは、先生という言葉は、教師という言葉から逸脱して、少しばかりいかがわしい響きが含まれているようにも感じられる。いわゆる媚びるというようなニュアンスが混ざってしまって、敬称として現代では通じない偉すぎる感覚かもしれない。
 教師以外にも先生と言われる職種というのがあって、そういう場合の先生の質が、全体的に下がってしまっていることもあるかもしれない。
 僕なんかでも時折先生と言われることがあるのだが、そういう場合には余分に金を払わされるような感覚になって、精神衛生上よろしくない。いや、そうでない純粋な人もいるが、出来れば止めてもらいたいものだな、とは思う(これは一部僕らの業界の古き習慣がある為である)。もちろんこちらからは言いにくい問題だ。実際にものを教えるような場面もあるかもしれないが、いわゆる教師として教えることは無いし、それで収入を得る訳でもない。厳密に言ってそういう立場であれば、もう先生で無い方がいい。
 また、外国のことはよく分からないが、国際的な水準のような語感でも、もはや儒教的に先生という敬称はあまりないのではあるまいか。一部の芸能の世界であればいまだにそのような感覚はあるかもしれないが、このような序列が自ら廃れないような業界というものも、近い将来は、なんとなく廃れるようにも思われる。まあ、関係ないからかまわないだけの話であって、先生の継承としての地位というのは、そんな感じになっているのではなかろうか。
 恩師からお叱りと受けるのは恐縮ではあるが、そんな人間であるのは、分かりきっている問題であろう。ならば失礼でもかまわない。そういうものがあるのではないか。
 もっとも炎上問題は、そのような葛藤は微塵もなく起こってしまったように見える。偉い先生にはとっては、もはや受難の時代から逃れられなくなっているのではなかろうか。
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東京オリンピックに間に合うといいですね   ひるね姫

2018-08-22 | 映画

ひるね姫/神山健治監督

 自動車整備工場をやっている父と二人暮らしの女子高生ココネは、育ち盛りの所為か、とにかく眠たいので頻繁に昼寝(というかうたたねも含む)してしまう。その時に夢を見る訳だが、その夢の中のある王国で持ち上がるトラブルが、何故か現実生活とシンクロして行って大変な騒動になる。女子高生の置かれている立場と過去とも関係があるようで、何も語らない父がそのカギを握っているらしいこともおいおいわかるのだが、何しろ父はある嫌疑をかけられて警察に拘束されている始末である。四面楚歌におかれているかに見えた状況は、夢の世界とあいまって思わぬ展開になっていくのだった。
 最初に疑問に思うのは、いくら子供のころに母親が亡くなったからといって女の子が料理を作れるようになるはずはないのではないか。さらにいくら自動運転だからって乗っている人間がまったく気づかないような事があり得るのだろうか。などがある。他にもいろいろありそうだが、だからファンタジーなんだって、という事である。シンクロしている世界観は、ジブリだったり攻殻機動隊だったりする。そういうことは、観ている立場としては分かりやすくていいかもしれない。アニメらしく女の子のスカートは短すぎるのにかなりアクティブである。設定なんだから仕方ないが、日本を代表する企業の隠れた孫娘が、その業界に知られてないはずがないとも思う。こういう世界はオタクがいるので、いくらでも調べる人が出てきそうである。また言ってしまった。まあ、そういうリアルさのようなものが混在してなくては面白くないので、たぶん気になるのだろう。
 ただし、面白くない訳では無いのである。いやこれは言い方が悪くて、大変に面白いのである。自動運転という事に関しては目新しくないし、いくら夢の世界だからといって巨大ロボットを人間が動かすことにはかなり違和感があるにせよ、さらにそういう偏見のような世界観で悪人が闊歩する単純さはどうかとも思うのだけれど、そういう世界観を表すための設定で、大いに騒動を起こしていくという展開自体には、観ていてワクワクさせられるものがある。父親がどうして自由の身になっているのかはとても不思議であるにせよ、カッコいいことは確かで、ヤンキーで頭がいいというのもどうかしているにせよ、恐らく基本的な理念は死んだ母親だったのだろうかなどと勝手に想像して物語を補完して観る分には、特に問題が無い。実写映画では、たぶんつまらないことになってしまうだろう、アニメならではの、見事な世界観と演出なのではなかろうか。
 でもまあ、夢の世界とシンクロするためには、女子高生にも何かもう少し仕掛けがあっても良かったかもな、と思う。いわゆる母親が実験か何かのためにチップのようなものを人体に埋め込んでおいたとか。平凡な人が戦うためには、何かもうひと工夫あると、観る方にも力がわくのではなかろうか。
 後で気付いたが、アニメの声優陣では無いにもかかわらず声の演出も良かった。そういうのも珍しい作品ではなかろうか。
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占いに苦情をして欲しい

2018-08-21 | net & 社会

 占いの類を馬鹿にしているのかもしれないが、その前にあまり好きでは無いというのがあるように思う。見ている時間がもったいない。そういう気分があるのかもしれない。Eテレでたなくじを見ている癖に何を言う、という人もいるかもしれないが、あれもまったく信じてはいない。しかし多少自分の選択があるような感じもあるから、それで見るのかもしれないが。
 子供のころの長崎新聞の運勢欄は、干支だった。僕は未年だが、同級生だって多くはそうだ。学校に行って一塊の運勢が同じだとは面白くない。つまらない新聞だと思ったことである。今はいつの間にか違うようだが、そのような不満が他にもあったかどうかは知らない。それに別にとってない新聞なんで関係も無いが。
 運勢については、以前は少女漫画を読んでいたので、目にしないことは無かった。星座が多いようだが、これもなんとなく胡散臭い。いやそういうものだからいいのだが、やはり読む人がいて必要性があるんだなというのが、いつも不思議だったのかもしれない。あれって女の子らしい感性なんだろうか。どうも信じがたい。
 民放やラジオなんかで、一定の時間を使って運勢の放送をやっている。あれに苦情がなんで来ないのか、と思うことがある。その時間が苦痛だからだろう。つまらないものを長い時間かけてやりやがって。それにスポンサーがつくなんてどうかしてるんじゃないか。
 でもまあ風水なんかをやっている人がいて、それはそのひとの趣味だから仕方ない気もする。親戚に居なくて良かった。それは本当に幸運なことだ。何かこちらに介入があるようなことがあると、もの凄く厄介な感じがする。それは他ならぬ災いの陰かもしれない。
 神社にはよく行くが、一人なら参拝まではしない。写真に撮ってさようなら。何もお願いすることは無いし、したからといって何かある訳でも無かろう。ただ建物がどうだとか、その周りの風景がどうなのか、という事だけは興味がある。またどんな人が建立し、どんな人がやって来たのか。そこに自分は最初からない。人間に神社は必要かもしれないが、そこに僕は含まれていない。
 さらに運勢はあるかもしれないとは思うが、それはそのようなものが決めている訳では無い。単なる確率の問題で、その構成員として僕がいるかいないかの問題だ。バチが当たったとしても、僕は気付いてないかもしれない。
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連鎖するのは負だけでは無い  ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち

2018-08-20 | 時事

ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち/マテイ・ミナーチュ監督

 ドキュメンタリー映画。ナチス・ドイツの迫害迫るチェコスロバキアで、子供の里親先という事でユダヤ人の子供をどんどん英国へ出国させた人がいた。この手の美談はいくつかあるようだが、実際に時代背景を考えると、本当に危険を伴う困難なことだったようだ。また、当のニコラスという青年は、事業が成功してヨーロッパに遊びに来ていたものだったが、友人が慈善活動をするのに忙しいということで、スキーを取りやめて手伝ったことがきっかけになって、このようなナチスの惨劇を知り、ユダヤの子供だけでも救えないかと急に思い立って行動を起こしたものらしい。様々な国に受け入れの打診をするが、ナチスを警戒してほぼ受け入れは皆無。それでものめり込むように救出に翻弄して子供たちのリストを作り、他国の里親先を探すのである。唯一ニコラスの母国である英国が理解を示し、しかしたくさんの補償金やナチスの国外への多額の通行料などを支払いながら数百人ずつ列車に乗せることに成功する。
 ユダヤ人の親についても、実際はどんなところに連れて行かれるのかさえよく分からないまま、せめて子供たちの命だけでも何とかしたいという一心で、いわば勇気をふるって子供たちを手放していく。途中列車では検閲もあり、子供たちだけでその恐怖に耐えながら出国し船を乗り継ぎ英国へ行く。港についても里親が迎えに来なかったりする。
 結局数度にわたる渡航を成功させたのち、数千の計画を残しながら大戦がはじまってしまいこの計画もすべてながれてしまった。ニコラスはその後も忙しかったことと、残りの計画は流れてしまったことで、その子供たちのファイルは屋根裏部屋にしまいこんで、誰にも明らかにしてこなかった。多くのユダヤの子供たちが戦争前に英国に逃れてきたことは知られたことではあったようだが、それをいったい誰が中心となってやっていたかは、長い間謎になっていたようだ。
 ところがニコラスの妻が50年後にこの屋根裏の資料を発見。この子供たちは今どうしているのかを探すことになり、これにテレビ局などが絡んで、このような大きな話になって行ったというドキュメンタリーであるようだ。
 669人の子どものうち200何人かは身元が判明。そうしてニコラスとの再会を果たす。皆それぞれに子供や家族を持ち、5.000人を超えるニコラスファミリーに成長していたということになる。
 普通のドキュメンタリーなら、ここでお話は終わりだが、ニコラスに助けられて者や、その家族(子や孫たち)は、すこしでもニコラスのように人を助けることが自分たちにも出来ないかと考えて、さまざまな活動をしていることが分かる。ニコラスにできたことの少しであってもやってみようという気持ちになっているのだ。その活動は様々で、そうしてとても広い広がりを持っている。ニコラスの精神は、このような家族を増やしていったという事だったのである。
 何度も泣けて困った。困難な状況にあっても恋愛の女の子のことが気になったり、美人のスパイに誘惑されたり、また逆に男の子たちの気を引くために女の子たちも作戦を練ったり、困難で緊迫した中にあっても、子供たちはいわば純粋に物事を考えて行動していたのである。669人という人数は少なくないかもしれないが、数千という計画は同時進行していて、そうしてまだまだ増えていきそうだった。しかし結局どうにもならなくなってしまう。助け出された子供たちは終戦後に、結局は家族とは会えることは無かったようだ(殺されたから)。また、それぞれ事情があって世界中に散らばり、今はどうなっているか追跡不可能な人々もたくさんいるようだ。
 自分に何ができるか、そうして不可能だと思われても、何かやれることは無いのか。純粋さで突っ走ってしまったが、結果的にその思いは、とても強い新しい社会を作り得るのである。こんな感動作ってちょっとないよな、という作品であった。
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独裁の三人

2018-08-19 | HORROR

 ドキュメンタリーの映像の世紀で、独裁者の三人を観た。ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンである。
 もともとヒトラーはムッソリーニをたいへんに崇拝していた。また彼は禿げ頭ながら凄まじいカリスマで、肉体を晒して強さを国民に見せ、多国語を駆使して見事な演説をした。いつも自信にあふれ、まわりの人間を従わせることが出来た。そうしてヒトラーのことを馬鹿にしていた。今でいうとまるでプーチンみたいだが、ロシアというのはそういう土壌があるのではないか。
 しかしながら次第にヒトラーは勢力を拡大し、ドイツは力を増していく。対比してムッソリーニのイタリアは窮地に陥り、ヒトラーの援助を仰ぐようになっていく。
 ドイツに手を焼いている英仏などの国は、ソ連とドイツを戦わせようと画策する。ヒトラーもソ連と不進攻の条約を結んでいたが、一方的に破棄し進攻してしまう。当初はドイツも優勢だったが、ロシアの大地の寒さになかなか上手くいかなくなっていく。また、ソ連は曲がりなりにも大国なのであった。
 三人の独裁者たちは、基本的に独裁体制に入ってから我儘になっていくのだが、その権力を掌握するまでに、多くの民衆から支持を受けていたことが改めて分かる。時代や国が必要としていた人物こそ、独裁者なのだ。
 いろいろと面白いエピソードが満載で、見どころが多かった。
 ムッソリーニにファンレターが20万通も来て、その中でも熱烈な文面の14歳の少女が、後にムッソリーニの愛人になったりする。
 ヒトラーは特にシェパードが好きで、見事な芸をするととても喜んだ。純血の種が優れているという喜びがあったのかもしれない。
 レーニンの後継者は、実際はトロツキーという国民的な英雄だったが、スターリンは権力を掌握して、トロツキーを国外追放した上で、暗殺させる。この時代には少なくとも450万が粛清される。その前に経済成長のための農民の犠牲が1500万人だったり、ウクライナ人は300万人も餓死する。共産主義は、戦争よりもたくさんの人を殺すのである。
 このようにはっきりとわかりやすい悪であっても、権力の前に人々は簡単に屈してきた。現代にも独裁的な国家は存在している。そうして苦しんでいる人もまだたくさんいることだろう。
 多くの国は民主的な手続きをするようになっているが、その為にやはり何も決められなくなっている。その閉塞感のために、強いリーダーシップを欲しているようにも感じられる。その状態はもはや平和ではないが、仕方のないことなのかもしれない。やっぱり政治は、AIにさせるべきなのかもしれない。
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デートより馬鹿な友と   スコット・ピルグリムVS邪悪な元彼軍団

2018-08-18 | 映画

スコット・ピルグリムVS邪悪な元彼軍団/エドガー・ライト監督

 無職のバンドマンのスコットは、東洋系の17歳の娘にも好かれている(はっきり付き合っている)。それにもかかわらず髪を青に染めた別の女の子に惹かれていき、そうして何故か彼女とつきあうためには、邪悪な以前の付き合っていた彼氏(恋人)と戦わなくてはならなくなる。はっきり言ってハチャメチャで、現実とゲームが融合してバトルを繰り広げる変な映画。ついていけない人はいるかもしれないが、いわゆる若者の素直な心情をゲームの世界を含めた投影世界が描かれている。音楽もいい。
 映像の使い方が、ポップカルチャーとも関係があるのかもしれない。原作もあるようだし、さらに使われているゲームにも、恐らく決まった展開なんかもあるんだろうと思われる。むしろ映画的に作られていない作品を、大胆に解釈して再構築したようなことになっているのではなかろうか(想像)。そうしてこの監督の得意の映像と音楽との融合があり、話の展開を越えた面白さとなっている。
 外国の若者の会話もよくできていて、意味のあるものと、当然よく分からないものがたくさん混じっている。心の葛藤がバカバカしい会話の中にも見て取れる。単純化して唐突感がある中、しかしそれは何も考えていないという事では必ずしもない。若者らしい妙なこだわりと、人間的には未熟なわがままさが、なかなか変な気分にさせられる。こんなんでいいのか時には不安にさえなるが、まあ、こういうのがツボにはまるとたまらない映画になるんだろう。バカバカしさも突き抜けると、実に爽快なのである。
 本監督であるエドガー・ライトの「ベイビー・ドライバー」にいささか失望した僕に、Dいさんから紹介してもらった1本。さすがツボを外しておらず、文句なしの快作であろう。人生を変えるとか、思わず泣けるとか、腹抱えてひっくり返るような衝撃を受ける訳では無いが、このような青春映画こそ、もっと愛されてしかるべきだろう。でもまあデートで見るより、バカ話出来るオタクの友人と一緒に見に行った方がいいかもしれないが…(うちの妻はいつの間にか寝てました)。
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酷いとは思うが、面白いのでつい見てしまうもの

2018-08-17 | 感涙記

 高校野球は感動産業と言われる。そのように揶揄して言われるほど、日本人の多くはそのような視線で、高校野球を見ているのではないか。何か特殊な出来事としてそのように考えている人も多いように思える。その理由は既に終戦に関する本の書評で明らかにしたので繰り返さないが、球児というのは、そういう意味では気の毒という気はしている。
 そもそも野球というスポーツは、興業のためにあみ出されたものであるから、観ていて面白いというのはある。本来はピッチャーを替えて毎日やるのが目的だが(だからメジャーなどのプロはそうしている)、高校の事情によっては、いいピッチャー過ぎるのがいると連投させることになる。それでも勝てるようなことがあるので、本人も意思としては望んではいるとはいえ、無理をして将来的には困るようなことが頻繁に起こってしまう。プロの世界で長く活躍する投手というのは、実は控えの選手が少なくない。又は選手層が厚く二枚看板などができるチーム出身者でなければ、なかなか怪我なしでやっていくのは大変なんだそうだ。産業なのだから犠牲になって仕方がない。皆がそう思っているので、これまではそうやって来た。もちろんそれではダメだと考えている指導者は多いが、やはり勝負のためには仕方ないとも考えてもいるだろう。そのチャンスが巡ってくるのは、そうとうに容易なことではないからだ。
 甲子園に行くことが、すでに大きなチャンスをつかんだと考えているところも多いだろう。全国制覇するような力というのは、さらに容易では無い。相当の素材をもって、さらにそうとうに鍛える必要がある。ときどき調子に乗る高校も無いではないが、完全にまぐれだけで勝てるような場ではなさそうである。もちろんボールゲームだから、運の作用はぬぐえないけれど。
 この間テレビを見ていて驚いたのは、いまだに甲子園の土を必死で持ち帰っている人たちがいたことだ。そういう習慣があるらしいことは聞いたことはあるが、現代人の若者が、いまだにそんなことをやっている。そうしてそのような選手を、必死でフラッシュをたいてカメラにおさめている集団がいる。泥棒現場なのに誰も咎めない。
 もちろんその気持ちを多くの人が理解しているからこそ、大目に見ている訳だ。僕はそのことが大変に良くないと素直に思う。ゴミを拾って帰るのなら偉いと思うが、たとえ土であっても必死にもって帰るべきでは無い。そもそも教育上非常によくないことだ。もともと高校野球は、教育的には問題が多いものではあるが…。
 甲子園の土と同じものは、実は通販でも買えるらしい。商売ならいいと思うが、やはり欲しがる連鎖あってのものだろう。そうすると甲子園で主に負けた選手たちの行為は、そのような販売への購入意欲をかき立てるものだともいえる。宣伝効果である。面白い現象だから、甲子園に行った貴重な体験の人に対して、甲子園の土を見せて欲しいと考える人もいるに違いない。せっかくだから正直言って僕も見たいかもしれないが、まあ、泥棒であることには変わりない(実は甲子園は、持ち帰りを許可しているらしい。もちろん結果的にそうしているという事かもしれないが)。この時期になると、つくづく妙な国に生まれたものだな、と思うのであった。
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