カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

日本が貧しくなった原因の一つ   Winny

2024-05-31 | 映画

Winny/松本優作監督

 いわゆるウィニー事件と言われる、ファイル共有ソフトWinnyをめぐる顛末を描いた作品。ウィニーというソフトを使って、著作権のあるものを違法に流出させる人が続出したため、警察は開発者である金子勇という人物を、著作権侵害幇助の罪で逮捕するに至る。しかしながら安易に逮捕するに至った警察の捜査はいびつで、金子に罪をかぶせるために、脅したり言いくるめたりして調書をつくり、金子を追い込んでいく。そうしてついに、一審では有罪にさせてしまう。しかしながら弁護団も頑張って、この冤罪を何とかして晴らすべく、奮闘することになるのだった。その経緯で、日本のいじめのような社会の硬直的な在り方や、現在の停滞する経済状況の結果などを、考えさせられることになるのである。
 実際に金子という人物は、一種のソフト開発の天才的な人であるようで、典型的なオタクでありながら、新しい可能性を秘めたソフト開発がやめられなかったという事らしい。結果的に悪用される問題のあるソフトを作ってしまったものの、このような誤った認識によって有能な人物が逮捕される事態になり、日本の技術停滞が起こったのだ、とする見解を示している。実際に拘留されたことや、その後自由にパソコン操作をすることも禁じられ、ウィニーの脆弱性を改める開発さえできないありさまだった。そのことで警察は被害を拡大させたともいえるかもしれないのだ。無罪判決後すぐに金子は心筋梗塞で亡くなってしまった訳で、さらに大きな悲劇へ導いてしまったように見える。警察の介入が人為的になされたことで、金子個人や日本社会に与えた影響は、決して小さくなかったのである。
 映画ではドキュメンタリーでは無いが、それなりに克明に顛末が描かれ、金子本人の人物描写や弁護団の個性的な面々も、それなりに面白く分かるようになっている。もちろん映画なのでフィクションもあろうかとは思われるが、日本の警察の考え方のずさんさや、この事件の社会的な重さというものが、よく分かる仕掛けである。実際に日本ではその後イノベーションが起きづらくなったともいわれていて、日本人全体を貧しくさせた警察の罪は、非常に重いものがあったということになる。日本人の貧しさは、そのような精神性であるということになるのだろうか。
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社会問題をコンパクトに   夜明けまでバス停で

2024-05-30 | 映画

夜明けまでバス停で/高橋伴明監督

 昼は自分で作ったアクセサリーの販売(そういう作家さんということらしい)をして、夜には住み込みで居酒屋の店員をしている女性がいた。ところがコロナ禍になってしまい、無能な上司の判断もあり失業する。この女性は頼るべき人が無い人のようで、そんなことでいきなりホームレス状態に陥ってしまう。スーツケースをガラガラ押して、夜はバス停でそのスーツケースに体を預けて眠る。顔は公園で洗う。みんな世間が悪いんや、ということである。しかしながらホームレスの先輩がいて、なんとか飢えをしのぐことができるようにはなったのだが……。
 コロナ禍とはいえ、上司のパワハラやセクハラ問題、女性としての生きにくさ、社会的弱者に対しての妙な偏見など、さまざまな要素をちりばめてある。それらはあんがいに分かりやすく表現されていて、外国人労働者の悲哀なども、日本が抱えているある種の冷たさのようなものが、浮き彫りにされる。我々は何も見ようとしていない。日本人は、自分の見たいものだけしか見てこなかったのではなかったか。様々な問題を盛り込んでいる割には、物語はコンパクトにソリッドにまとめられていて、なかなかに手際よく料理されている感がある。気持ちの置き所の整理がつかないままの問題もあるが、それはそれで宿題という事か。女たちは現実を見つめ直し、再出発に懸けていく、ということなのであろう。
 評判はいいのだが、なんとなく地味な作品で、広く知られてはいないのではないか。そういう意味ではちょっともったいない感じもする。いい映画は多くの人に見られるべきである。悪い奴は憎らしく、しかし改心した人はいい人だ。そこらあたりの葛藤もあって、いい出来栄えなのである。見落としていた人は、ぜひ気にしてみてください。
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結局ミステリのような物語   ストーリー・オブ・マイ・ワイフ

2024-05-29 | 映画

ストーリー・オブ・マイ・ワイフ/イルディコー・エニェディ監督

 これからカフェに入ってきた女性と結婚する、という冗談のような賭けをして、実際には行ってきた女性が美しかったのでプロポーズしてそのまま結婚に至る男女の物語。始まりはそのようなきっかけだったが、男は長期に家を空ける船長さんで、不在の時に浮気をしているのではないか、と悩まされることになる。妻は美しい女性で、さらにミステリアスなところがあり、夜な夜な外出し、何を考えているのかよく分からない。しかしながら愛しているとは言うし、セックスはしている。
 船長は自分も浮気はするし、しかしコントロールできない妻の行動に悩まされすぎて苦しむ。終始この船長である男目線で物語は語られ、妻のことが分からない男のイライラをずっと見せられることになる。尺も長いので、いったいこのわがままな男というのは、何なのだろう? と思わせられるのであるが、いや、物語は実際はそうではないのかもしれない。
 監督さんは女性のようで、この一種の苦しみの物語を男への復讐のために作ったのではあるまいか、とさえ思ってしまった。しかしながら真相はたぶんそうではなく、これも女から見ると、単に馬鹿な男の話ではなく、女性の深い愛の話なのかもしれない。ちょっと身勝手なのだが、そういうものなのかもしれない。
 演じている女優さんは美しい人だとは思うが(個性的だが)、僕も同じような立場になると、やっぱりごめんだと思うかもしれない。それとも、やはり抗えないものなのだろうか。船長さんとしても、必ずしも有能だとは思えない行動をとるので(結果オーライに見える)、さらに訳の分からなさはある訳だが、本当に観たとおりの話だったのか、なんとなく自信が持てなくなってしまった。最終的にはファンタジーのようにも感じる。男女の恋愛の駆け引きというのは、やはり男目線では、足りない事ばかりなのであろう。
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夢を見ない人

2024-05-28 | 雑記

 たまに夢を見ない、という人がいる。本人が言うので、それを別の人間が否定するのも何なんだが、夢を見ない人間はいないと思われる。しかし夢を見ないのは、夢を見ているときに目覚めていない習慣の人である、という可能性の話になる。夢を見ているときに目覚めないというのは、そのタイミングで起きている、何かの要因があるのではないか。
 一般的に夢を見ているのはレム睡眠時であるとされている。レム睡眠は比較的に浅い眠りの時で、脳の一部は起きて活動している。寝ている人を観察すると、瞼がぴくぴくと動いている。そういう状態がレム睡眠だ。うちの犬を眺めていても、そういう状態で寝ているときがある。やはり夢を見ているようで、足をバタバタ動かしたりすることもある。夢の中で走っているのだろうか。こういう時に起こすと、なにか夢を見ていたと教えてくれるだろう(犬だからできないけど、相手が人間ならば)。内容を上手く教えてくれるかどうかは分からないが、要するに夢を見ない人は、その時に起こされるように誰かに頼むと、夢を見た例を作ることができるのではないか。
 しかしながら深い眠りであるノンレム睡眠時にも、夢を見ることがあるのだという。そういう時の夢は、あまりストーリー性はなく、なにか突発的な、単純で思考的な夢であるらしく、(覚醒後に)記憶に残りにくい夢であるという。夢を見ないと感じているひとは、ひょっとするとこの状態の時に目覚めてしまい、夢を覚えていないのではなかろうか。
 レム睡眠とノンレム睡眠は周期的に繰り返されており、一般的にそれは90分周期であるともいわれている。しかしながら個人差もあるので、その周期がひととは違う人ももちろんいる。目覚めが楽なのは、当然浅い眠りのレム睡眠(その直後が最適とも)時であるとされていて、要するに目覚めやすいので、多くの人は夢を見た記憶があるのだろう。目覚めにくいときに起きる習慣である人は、なにか目覚ましなどで無理に起きているとか、原因があるのではないか。自分の寝ている周期は、自分なりに工夫して実験するよりないが、寝る時間や起きる時間を工夫して、楽に起きられる自分なりの周期を見つけるのも、一つの手かもしれない。もっともこれも、お酒を飲みすぎたときとか、なにか寝つきが悪かった時など、習慣的に同じ状態とは必ずしも言えないことが起こるので、合わせにくいことかもしれない。
 ちなみに僕はふつうに夢は見ている。確かによく考えないと覚えていないが、気にもしていない。若い頃に、確か筒井康隆が、夢日記をつけていると書いていて、試しに僕もそういうことをしていた時期がある。これは慣れも必要で、一定時間続けていると、かなり思い出せるようになるようだ。しかしながら、やはりもやもやしたところが多いもので、思い出せそうで思い出せないのは、ちょっと苦しい感じもした。話の展開が、あまりつながっていない夢もあって、空を飛んでたのに誰かと会って、喧嘩したりするなど、唐突だったりする。何か意味のありそうなものもあるが、昼間に観た映画の影響があったり、やはり昼間に心配していたものごとが再現されていたり、という分かりやすいものは別として、ほとんどは意味不明という感じだった。思い出せないのが苦しいことが多かったので、だんだんつまらなくなってやめてしまった。夢なんか、苦労して思い出す必要など無いのである。起きているときに平和なのが一番で、夢を見ないのもまた、問題ないと言えば、その程度のことなのかもしれない。
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妙な人が多い夜のまち   モナ・リザ アンド ザ ブラッドムーン

2024-05-27 | 映画

モナ・リザ アンド ザ ブラッドムーン/アナ・リリ・アミリプール監督

 精神病院に隔離されていた女が、ある日人を操る超能力を使えるようになり、監視の職員を傷つけて脱走することに成功する。夜のまちには不良がたむろしているのだが、奇矯な行動をとりながらも、何とかスナック菓子を食べながら乗り切っていく。しかしながら追手が迫っており、何とかして町を抜け出す必要が出てくる。そういう中いろいろと頓智を働かせながら、逃げていくことになるのだったが……。
 精神病らしいのでコミュニケーションがうまくとれないのだが、不良の中にもいい奴がいたりして、奇妙なバランス感覚でその場をやり取りしている。結果的に様々なところに入り込むことが出来て、妙な人間関係が出来たりする。意味するところはあまりよく分からないのだが、それぞれのエピソードがちょっと歪んでいて、そういうところを楽しんでみる映画のようだ。実際妙なものを観ている気分は確かにあって、このまま一体どうなっていくんだろうという不安とともに、楽しんでみられる映画になっている。いわゆる起承転結のようなものがはっきりしていなくて、演繹法のような感じで物語が続く。警察に追われる中で、ある刑事が執拗に追ってくる。彼も彼女のことは怖いのだが、正義感が強いのだろう。果たしてこの物語は、本当に破綻しないのだろうか。まあ、それは観てのお楽しみである。
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スマホの脅威を最大限に語る   おとなの事情

2024-05-26 | 映画

おとなの事情/パオロ・ジェノベーゼ監督

 仲間同士のホームパーティのような集まりがあって、三組のカップルと一人の独身男が一緒に食事をとっている。実はもう一組いつもは参加しているのだが、浮気がバレて別れてしまったという(だから不参加)。そこで皆で携帯をテーブルにおいて、かかってきたメールや電話を見せ合うゲームをしようと提案される。何も秘密が無いのなら参加できるはずだという言葉に、皆は従わざるを得なくなり、そうしてかかってきた内容に、それぞれが一喜一憂することになっていくのだった。
 基本的に一つのテーブルを囲んだ会話劇で、フラッシュバックなど過去の出来事に飛んだりすることはない。おそらく舞台でも再現可能、といったところだ。実際この映画は様々な国でリメイクされているらしく、その国の事情も交えて、会話を楽しむ仕掛けと言えるだろう。
 実は告白すると、僕はラストの意味が分からず、もう一度見直してしまった。確かによく見るとその意味するところは分かった訳だが、なんだかキツネにつままれたような感覚を味わってしまった。基本的にはコメディというよりホラー色の強い展開で、正直結構心理的に怖かった。もちろん携帯に関する秘密なので、一定の方向性は予想出来ていたのだが、まさにそれ以上、といった展開になる。イタリアでもそうなるのか! ということと、やはり彼らは感情が凄いともいえる。日本版もある訳で、内容が分かったうえでまた観るべきものなのだろうか。あの場の修羅場的な臨場感に耐えられる人って、あんまり居ないと思う。日本人同士だと、その感情が強くなるものなのだろうか。よく分からないが、要するに脚本の勝利とも言えて、確かによく出来た物語である。
 一つだけかなり違和感があったのは、娘と父親の会話かもしれない。いわゆる素晴らしい父親かもしれないが、やっぱり国が違ってもそれは無いのではないか。父親が娘に教えられることは、あんがいに限られている。ものすごくいい話なのだが、やはり幻想ではなかろうか。
 まあ、そういうことで、ありそうな話ではありながら、やはり想像力の産物かもしれない。だから映画になり、リメイクされていったのだろう。そう信じたいだけかもしれないのだが……。
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時間の浪費を楽しむ   インフル病みのペトロフ家

2024-05-25 | 映画

インフル病みのペトロフ家/キリル・セレブレニコフ監督

 えらく評判だけはいい映画で、しかし、そんなに面白くないだろうとは予感させられる芸術作品であることは、そもそもの問題として見て取れていた。なので一度はマイリストから消去していたこともある。時間は無駄にはしたくない。そうであったのだが、やはり映画好きなら観ておくべきだという意見も聞かれ、そこまで言うのなら、ちょっとだけ観て、長尺なので途中で断念する訓練をしてもいいか、と思い、あえて時間のないときに断片だけを観たわけである。最初はやはり訳が分からないので取っつきにくかったが、図書館の後半あたりからなんだかおもしろくなってきて、三日に分けて観ることができた。
 インフルエンザの熱の所為なのか、よく分からないことが立て続けに起こる訳だが、要するに本人が苦しい中に幻想を見ているらしいことは、だんだんと分かる。だから辻褄が合わない唐突さで、次々に妙で不条理なことが連続していく。それらの断片が単に断続しているだけの話で、しかし最後は少しだけ繋がりのある種明かしもある訳だが、いわゆるたいした意味などはない。面白いかと言われれば、面白い訳が無いのだが、しかし途中はそれなりに盛り上がってみていたことも確かで、この断片のつながりが癖になるというか、変なものを観ている実感があって、凄いなあ、という感じだろうか。どうしてこうなってしまうのだろうというのは、要するに幻想だからなのだが、裏と表のようなものがあって、なるほどと思わせられたりも、一部はする。もっともぜんぶでは無くて、たんに分からなかっただけのことかもしれないが、それはそれで気にしなくてもいいと思う。気にしていたらとてもこの映画は観続けられない。だからちゃんと観る必要は無くて、ノッてきたら集中したらいいだけのことである。何しろ無駄に長いので、ずっと集中は無理だろう。難解というか、そういうところは確かにあるが、謎解きを楽しむものでもない。なんだか変だけど、どうしてもそうなっちゃうんだな、くらいに思っておけばいい。そうすると、このへんな人々が、もっと変に見えて愉快になるという感じになる。見返したくなる場面もあるので、中毒性もあるのかもしれない。こんな変なものをよく作ったもので、商業的にどうなのかは疑問だが、しかし一定の支持はあって当然だとも思う。つまりなんとも言いようが無いところが、この映画の魅力と言えて、だから観て見るより仕方ないという脱力感のあるお薦め方をするしかない。分かる人には分かる映画なので(実は分からないはずだが)、そういう人が自分で判断するよりないじゃないか。ただし必ず退屈するところもあるはずだと思うので、そういうのはすっ飛ばしてもかまわないから、お気に入りに場面だけ楽しめばいい。どのみちたいしたストーリーなどは存在してないのだから。
 しかしながらこれが良いと思うのは、いわゆるビョーキである。そうとしか言いようが無い。まともな人は、観ても時間の無駄である。そもそも映画なんて、大いなる時間の浪費なのである。
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詐欺にもあわず幸運にも見放された人

2024-05-24 | net & 社会

 橘玲のブログ読んでたら、フィッシング詐欺の文面が、どうしてこうも馬鹿っぽいのかの解説がなされていた。
 SNSにもメールにも、何かの当選であなたが選ばれたとか、荷物が届いたとか、契約を急げとか、お金をあげるとか、まあなんとも色々あるにせよ、実際のところこんなものにいったい誰が引っかかるものなのか、疑問に思える文面が多いことに失笑していたわけだが、実はそういう文面だからこそ、意味があるというのだった。
 要するに詐欺行為は、詐欺に引っかかる人をひっかければ成功なのである。引っかかりにくい人を思考を凝らして騙そうとしても、その労力に見合う成功は難しい。要するに引っかかるような馬鹿を探せばいいのである。そういうバカを対象にするために、いかにも馬鹿っぽい理屈で引っかかる人間に当たればいいのである。もちろん犯罪グループが外国人で、日本語が拙い、という文面もありそうなのだが、むしろそれでも引っかかる人がいるからこそ、そういうものがはびこるのだ。馬鹿を探すには馬鹿目線で、ということで、一定の成功する事例があるからこそ、ネットやメールという無差別でコストのかからない手法に添えて、このようなバカな文章を量産して送っている訳だ。迷惑極まりないものの、それにもかかわらず引っかかる人が絶えないので、さらにその成功事例に基づいて、馬鹿な文章が量産されているということなのらしい。たまに被害届が出るのだろうが、既に相手は閉鎖するなどとんずらしている。そうして次の馬鹿を探している訳だ。
 オレオレ詐欺などもそうかもしれないが、引っかかる人はまさか自分がそうなるなんて思いもよらなかった、などと言っている。国際ロマンス詐欺などもそうなのだが、被害者はお気の毒だという側面もあるものの、むしろそういう被害にあうはずもない普通に見える人であっても、引っかかったりしている訳である。ひとえにそれは、馬鹿では括れないものがありそうにも感じられるのだが、要するにそういう事態に遭遇してしまった人間が容易に馬鹿になれるような習性が、ひょっとするとヒトそのものには備わっている可能性があるのではあるまいか。そのような境遇に自分が置かれているという、いわゆるスペシャル感のようなものが、自分に巡って来ると信じられるような……。もちろん引っかからない人には、そのような冷めた現実感から抜けられない悲しさのようなものが、逆にあるというだけのことかもしれない。どっちがしあわせなのかは僕には分かりかねるが、詐欺にもあわず幸運からも見放されている現実は、まさにひとの日常ともいえるのかもしれない。
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シリアスな中にコメディあり   偽りの隣人・ある諜報部員の告白

2024-05-23 | 映画

偽りの隣人・ある諜報部員の告白/イ・ファンギョン監督

 韓国の過去の民主化運動や、実際に大統領候補(金大中)が誘拐後軟禁された事件をモチーフにした映画だという。全体的な流れとしては、そういう民主勢力を弾圧する与党勢力の暴力を描いている訳だが、どういう訳なのかコメディタッチのサスペンス描写が多くて、ちょっと変な感じの娯楽作になっている。良くも悪くも韓国映画で、感情はひどく揺さぶられる訳であるが……。
 そのようにして自宅軟禁している大統領候補の家に、盗聴器を仕掛けてその会話から情報を聞き出そうとしている諜報機関の一員に、ある男が抜擢される。当初は国の責任ある仕事として張り切ってやっていた(とはいえ盗み聞きという卑怯な任務だが)わけだが、実際にこの政治家家族は家族愛が強く、特に民主勢力の政治家は志が高く、真に国民のしあわせを願うような立派な人物であることがだんだんと分かっていき、逆にシンパシーを感じるようになっていく。しかしながら国家権力は強大で、なおかつ韓国であるから卑劣で残酷な手をいくつも仕掛けてくる。それを黙ってみていることしかできない自分の役割に、だんだんと疑問が出てくるという訳だ。
 何人かは韓国俳優として見たことがあるような人は出てくるわけだが、僕のふだん見ている韓国映画の系列とは、また別の布陣という感じもする。脇役や悪役は知っているが、主役級はよく分からんというかんじ。コメディ描写が多いので、そういう俳優の演じる意外性が自国韓国の人ウケ狙いはあるのかもしれない。内容的にいうと、これだけの政府側の悪事が続くのであれば、後の民主化も当然という流れである。しかし現実社会を見ると、あちらの民主化は結局権力闘争の力の行き来なのであって、王様がどう変わるかだけの事のようにも思えるが……。日本のように民主と政治が無関係なのもどうか、というのは置いておいての話になるが。
 いわゆるてんこ盛り映画で、楽しかったり悲しかったり忙しい。結末は分かっているけど、水戸黄門みたいに楽しむというのが、基本的なスタイルなのかもしれない。まあ、娯楽作というのは、多かれ少なかれそういうものなんだけれど……。
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パラレル・マザーズ、僕のネタバレの感想

2024-05-22 | つぶやき

 映画「パラレル・マザーズ」を観終わった後、ちょっと気になってこれを観た人々の感想をググってみたわけだ。普通ネタバレはあんまり書かないけど、ネタバレしなくては書けない内容が多いので、ここに分けて感想を書こうと思う。この映画を観ようと思う人は、ご注意を。
 他の人の感想で一番驚いてしまったのは、ジャニスの行動の意味について、僕と多少解釈が違うようなのだ。ジャニスは子供の取り違えを疑いDNA鑑定をする。そうして自分と娘のセリシアが生物学的な親子でないことを確信して、悟る。当たり前だがジャニスはひどくショックを受けて、知っている弁護士に電話するが彼は不在で、慌てて後で自分から掛けるという。ここで病院にかけるべきではないか、という感想を持つ人もいたようだが、基本的に弁護士だろうと病院だろうと、同じ意味であると考えるのが自然だろう。法的な処置その他のことを知る上では、弁護士の方がより適切で、その後に病院に問い合わせるという手順を踏むのが、いわゆる一般的に過ぎない。まあ、そこはいい。
 それから彼氏に掛けるが、途中でやめる。そうして本当の自分の子を育てている可能性のある、母親のアナに掛ける。しかし子供を風呂に入れているとかで、本人は電話口には出られない。その後彼氏から何の電話だったかという電話が来るが、誤作動か何かだろうと嘘をつく。そうして翌日には、自分の携帯電話の番号を変えるのである。
 これらの行動で明らかなのは、自分の血のつながっていない目の前にいるセリシアを、なんとしても自分の子供として傍に置いておきたい、という気持ちの現れのはずである。
 ところが多くの人の感想は、ここで何としてでも元の自分の子供を取り戻そうとする行動を取った、と考えているらしいのである。混乱したようすはよく分かるが、取り乱した後に改めて子供を抱いて自分の電話番号を変えたのだから、これはやはり身近にいる血のつながっていないものの、深い愛情を注いている赤ん坊を手放したくない、という行動であるはずなのである。何故多くの人は、これを読み間違ったのだろうか。
 その後しかし、自分がどうすべきなのかはっきりとは決められないまま、いや、その戸惑いを胸に秘めたまま、その他の関係のやり取りをしているのである。それは彼女の苦しみだったはずだ。そうだったが、やはり真実を話すべき時が来たと考えた時に、アナが育てていた生物学上の自分の子である可能性の高い娘が死んだことを聞かされる。ここでもかなり動転するが、しかしだからこそ、もう少し慎重に、後になって自分の子がこのアナの子であることを確かめるのである。それからもしばらく、複雑な恋愛のやり取りなどがあって、改めてアリシアは、実はアナの子であると告白することができる。僕がこの映画で最大限驚いたのは、それを知ったアナは、アリシアを抱いて荷物をまとめて出ていくのである。自分の気持ちをちっとも考えない身勝手なジャニスだと罵ってまで、そのような行動をしてしまう(もちろん嫉妬心が混じっている、複雑な心境なのだが)。その高圧的な行動を、ジャニスは許さざるを得ないのである。しかし普通に考えてそれはあり得ないことで、観ている僕からすると明確な誘拐である。少なくとも許しがたい暴力だろう。アナはジャニスを愛するがゆえに、まだそこまで愛してもいないアリシアを奪って復讐しようとしているだけのことである。ふつうの見方をするとそうなるように感じるのだが、これも多くの人とは感じ方が違ったようなのだ。何故なのだろうか。
 結果的にこの映画は、一度は同性愛も受け入れはしたが、そうではなかったからこその大団円ということにはなる。それはなんとなく都合が良くて驚いたが、そうでもしなければ収まらなかったというべきだろう。
 そのような感想が、僕の正直なところである。結果的に不倫の勝利という物語なわけだが、そういう風に捉えると、さらに理解がこんがらがることだろう。映画を観るという事や、物語を追うということは、そういう事なんだと僕は考えるのだが、実際はどうなのであろうか。
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過去を隠さず生きていく   パラレル・マザーズ

2024-05-21 | 映画

パラレル・マザーズ/ペドロ・アルモドバル監督

 写真家のジャニスは人物写真の名手のようで、その時代の話題の人を写真で表現するのに長けていた。そうして被写体の一人の男と肉体関係を持ち妊娠してしまうが、妻子ある男なのでシングルマザーで育てる決心をしている。もう一人の十代で妊娠しているアナは、家庭に問題があるようで、いわゆる望まれた妊娠ではない様子だ。夫となる男はよく分からないありさまだ。病院で意気投合して友達になるが、いったんライフスタイルの違いで離ればなれになる。
 ジャニスの娘セシリアに会いに来た元恋人は、自分の娘とは思えない、という。確かに褐色の肌で、親戚にも似たような人物が思い当たらない。ジャニスとしてはその時期に付き合っていた人は一人であったため、まるで浮気の嫌疑をかけられたような不機嫌に陥るが、やはり似ていないのは気にかかるところである。それでDNA鑑定を受けてみると、果たして娘と自分は親子である確率は極めて低いことを知る。ひどくショックを受けて携帯の番号を変え、知人との連絡を絶つのだが、引っ越しまではしていなかった。すると、アナが住んでいるアパートの前の喫茶店で働いているところに出くわす(要するに会いに来たが、不在だったので、ついでに前の店で働きだしたということだ)。話を聞くとアナの娘は病気で他界してしまったという。それはつまり自分の本当の娘である可能性の高い赤ちゃんであって、ジャニスは更に混乱し、自分の娘がアナの娘である可能性に、言及することができなくなってしまうのだった。さらにそのままジャニスの家でベビーシッターとして働くことになったアナには、同性愛の気があって、二人はそのような関係にも導かれていくようになってしまうのだったが。
 まあまあ、どうなってしまうのか、ということなのだが、つまるところ、この映画はそういう流れの中にあって、実は映画が始まる当初にあったスペイン内戦に関する、人々のつながりと記憶の物語なのである。それはずっと示唆され続けていたものであるが、赤ん坊の入れ替え問題を通して、スペインの負の歴史をたどる旅に、皆が巻き込まれることになる。そのような精神の再生において、あってはならない子供の入れ替え問題を象徴的に扱いながら、人間が過去を隠し通していても、平穏には生きられないのだということを言いたいのではなかろうか。こういう結末でいいのかどうかまでは僕にはよく分からないのだが、なんとなく皆は傷を抱えながらも、未来というものを見据えられるようになる。たぶん、そのような希望のある映画なのだと思うのだった。
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本格推理小説の入り口   そして五人がいなくなる

2024-05-20 | 読書

そして五人がいなくなる/はやみねかおる著(講談社文庫)

 三人姉妹のお隣の洋館に住んでいる夢水清志郎は、名探偵である。夏休みの遊園地で、天才と謳われた各分野の子供たちが、何故かフランス語を扱う伯爵と称するマジシャンに、次々と消されて誘拐される事件が持ち上がる。この謎をすべて解いた、という割に、名探偵夢水は何にもしないのだった。いったいそれはどうしてなのだろうか?
 という物語。途中で謎というか、事件の動機は分かる。児童文学というか、いわゆる子供向けのミステリ小説で、随所にユーモアと笑いがちりばめてあり、そういう仕掛けの文章を楽しむものであるようだ。三人姉妹のキャラクターや、名探偵夢水の行動も面白いし、刑事さんも犯人も皆ユーモアたっぷりである。あえて言うとわざとらしいのだけど、そういう世界観なんだから仕方ないのである。
 著者のはやみねは、たくさんの著作があるようだが、本作品が本シリーズの最初のもので、当時は小学生の先生をやりながら執筆していたという。本作品などが読まれたことから、専属になっていったのだろう。僕より少し年上の人らしいので、僕にはなじみが無かったのは、僕の子供時代には無かった所為だろう。なので、若い世代の子供時代に、人気を誇った作家さんということらしい。
 巻末に解説以外に、本人が読んできたブックガイドがついている。著者は子供にもっと本を読んでもらいたいという思いがあって、自分でも書いたということのようだ。まさに読書の入り口にある人であるのかもしれない。僕は遅れてやって来たということになってしまうが……。
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30年たっても名作は色あせない   パルプフィクション

2024-05-19 | 映画

パルプフィクション/クエンティン・タランティーノ監督

 これは久しぶりに観た。94年の映画だが、ビデオで観たはずだからその数年後だったのだろう。しかしそれでもやはり25年以上前には違いない。数々の映画賞をとったことでも有名だが、いわゆる名作映画の枠外ともいえる。確か当時ニューヨークタイムズの記事で、こんな映画が世に出る奇跡があるから映画を観るのがやめられなくなるのだ、と評されていた記憶があって、まさにその通りだと膝を打った覚えがある。映画賞以上に、それだけ人々の熱狂を買った超傑作なのである。そしてタランティーノは、今考えてみると、つまるところこの作品を超えるものは作りえていない。それなりの役者がいることは確かだが、それほどの金をかけることも無く、だべっている内容はくだらないの一言だが、しかしこれが面白い。中毒性があると言える。そうして強烈なギャグが炸裂する。強烈すぎて笑えないのだが……。さらにこの構成の妙である。後の映画は、このやり方をこぞって模倣することとなる。しかしながらこのチープでうさん臭くて完璧であるタランティーノ節を、再現するのは簡単ではない、という証明にしかならなかったのだが……。
 久しぶりに観て意外に思ったのは、今の映画の方がかえってえぐい表現が増えているかもしれない、と感じたことだ。当時はひどいマフィアがいたものだ、という一定のリアル感があったけれど、今となってみると、やっぱりパルプ的なチープさもあったのだな、という感じだろうか。タランティーノはギャグ感を出すために、あえて遠慮しているとさえ感じる。さらに肛門に隠し続けたという時計の逸話の部分は、もっと長い場面だとばかり思っていたが、案外あっさりしたものだった。僕はこれでクリストファー・ウォーケンの大ファンになったのだったが(彼のダンスは最高だ)、それくらい印象的で、実際に後のブッチ(ブルース・ウィリス)の行動のリアリティを支えている部分である。リアルだけどおかしく面白くて、下品な人間心理を実に巧妙に捉えている。そこに命を懸けるのか、という冗談が、きわめて抗いがたい人間性なのである。
 まあ他にもいろいろあるが、妙に説教臭いヤクザの世界だが、それでも死ぬときは死んでしまう。映画だからギャグだけど、神妙にしてたら生きてはいけない。他の人生だってきっとそうだろ、ってことなのかもしれない。まあ、そうでは無いのかもしれないけれど。
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だいぶ変化した女子高生事情   放課後アングラーライフ

2024-05-18 | 映画

放課後アングラーライフ/城定秀夫監督

 一種のアイドル映画。原作小説があるらしい。いじめにあっておそらく神経症になってしまった女子高生が、父の仕事の関係で田舎の学校に転校する。そこでは友達も作らないようにして、再起をかける気持ちでいたが、クラスメートに声を掛けられ、友達同士だけのアングラ活動と称しての釣り同好会のようなところに入らされてしまう。またいじめ生活が始まるのを恐れながら、気に障るようなことを極力避けて却って不自然なふるまいを繰り返す主人公の女子高生だったが、やはり仲間関係の中に同性愛が混ざりこんでいる複雑さのある人間関係の中に、どっぷり入りこんでいくことになるのだった。
 そこそこいい感じのお話だということは分かるが、主人公の女性は、明らかに化粧の感じも何かのアイドル系だとわかるものだし、周りの配役は悪く無いものの、仲間内で盛り上がるときは練習を積んでいる感じも否めない。よく出来すぎているのである。ファンタジーであるからそれでいいとはいえるかもしれないが、変な感じがあるのなら、自然に変だと伝えあうのが友達というものである。まあいいけどね、という友だち関係があって、いつまでも敬語使ってんじゃねえよ、と言うべきなのである。それをすっ飛ばした大人の関係というのは、すでに子供社会ではないのではあるまいか。田舎の人間だから寛容だというのは、大きな間違いのもとである。
 しかしながら、釣りを通して長い時間を共有したり、あるいはそれは無言の時間も含めてのことだろうから、精神の療養にとっては、それなりに期待できそうな感じもある。そういう治療があるのかどうかまでは知らないけれど、あっても良さそうな感じはある。実際まわりの人間にも、それなりに問題のある家族関係なんかも示唆されており、女生徒たちも、それなりにそういう事と向き合いながら、仲間としてのコミュニティを形成していく必要があるのかもしれない。それは確かに濃密な青春の一コマであり、成長物語なのかもしれない。
 特に素晴らしいというような作品では無いのかもしれないが、アイドル映画としてもいいものがあるかもしれないし、この年頃の関心であるはずの男性を排除した物語のありかたには、それなりに現代性があるということかもしれない。同性愛も示唆されているわけだし、今風なのである。学校の授業風景も、以前とはだいぶ違うなあ、という理想形みたいな感じだし。女子高生の集団というのは、時代の影響を受けやすいものなのかもしれない。
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これはもう呆れるよりない素晴らしさ   RRR

2024-05-17 | 映画

RRR/S・S・ラージャマウリ監督

 時代はインドが英国の支配下に置かれていた頃のもののようだ。民衆は強大な軍事力のもとに屈しており、英国人との明らかな差別のもとに置かれていた。そうした中に、その軍事の下に組織されたインドの警察官として活躍する男と、ある村で英国軍に騙されてさらわれた少女を救うためにやって来た男とが、不思議な縁で友情を結び、しかし時代と立場に翻弄される姿を描いている。まじめに書くとそんな感じが一応あるが、インド映画である。いわゆる部分的なミュージカルにもなっているし、CGも多用した大スペクタクルにもなる。そのアクションのやりすぎには限度が感じられず、思わず笑ってしまうレベルである。まさにそれこそが、この映画の魅力であるわけだが……。
 英国に抵抗した時代の英雄が実際二人いて、その二人が出会っていたら、という着想を得て作られた物語らしく、この異なった境遇で英国支配下と対峙するインド人の青年の友情が、大きな柱となっている。ところがある事件を境に、二人の間には大きな溝ができてしまう。前々から地道に計画して反乱軍を形成しようとしているラーマに対して、自分の妹を取り戻そうとだけ画策しているビームの行動が早急すぎて、今はまだ英国を防御する立場にいるラーマとしては、対立せざるを得ない状況である。したがって親友を裏切り、捕らえるばかりでなく拷問にもかけてしまうのだ。それは将来の国家のために致し方ない判断だと思っていたが、ビームのあまりに実直な想いと勇気に感銘を受けて、結局は脱走を手伝ってしまう。そうしてその為に反逆罪として、ラーマの方が死罪に処されることになってしまうのだったが。
 反英国という時代背景にありながら、その圧倒的で残酷で差別的な支配の在り方に、国民の怒りが沸騰している。そうした背景をもとに、二人の激しいアクションと踊りが繰り広げられる。なんでもありの活劇ファンタジーの世界なのである(それこそがインド映画だ!)。ミュージカルと言ってもいいかもしれない。それらの歌無しに、民衆のカタルシスは無く、この物語を気分的に明るくしているものでもある。
 強靭な軍隊をものともせずに二人で対峙し壊滅させようとするアクション描写は強力で、あまりに凄すぎて唖然としてしまう。人間や超人という枠に収まらず、宇宙人でも難しい神業が繰り広げられる(実際の宇宙人がそうなのかは知らないのだが)。そうしてそれでいいのである。大仰かもしれないが、それらのアクションを支える様々なものを使った演出も素晴らしく、ため息が出るようだ。美的な感覚も備えていて、アクションが決まると絵にもなっている。歌舞伎の美がそこにある、と言ってもいいだろう。もうなんだか無茶苦茶なんだけれど、これは酔いしれるための舞踏なのであり、なにか考えたら負けなのである。ただただ、素晴らしいのである。
 という映画で尺も少し長いのだが、ちょっと疲れること以外は娯楽作すぎる娯楽作である。もう参りました、しばらくは離れていよう。
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