カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

タイムマシンの可能性?

2011-09-30 | 時事

 最近「光より速いニュートリノ発見。相対性理論破綻。タイムマシン可能かも?」という感じのニュースがあった。もし本当にそうなら、確かに光より速い物質は無いとされているので凄いことなんだけど、それでどうなるかの解説は残念ながら少なかった。特にツイッター世界ではこれが酷くて、何が何だかさっぱり分からない。タイムマシンの可能性から発展してドラえもんの話になるのがせいぜいだった。
 結果的に「時計を正確に合わせろ」という結末になる可能性の方が高いような気がしないではないが、光より速い物質があるというのは確かに面白い。
 もちろん現在でも光に限りなく近い速度で移動すると時間が遅く流れることから、何年も高速で宇宙旅行をして帰ってくるような人にとっては、地球上の僕らは未来の人ということになる(何秒、何分かは知らん)。つまり既にタイムマシンは物理的に可能である。また、人間が通るくらいの穴のようなものでは今のところ不可能だけど、ごく小さいものであれば、時間が戻ったりすることは実際に物理的に起こっている。たぶんありふれてさえいる。そういうことを考えると、何をいまさらという問題であるような気がしないでもない。
 しかしながらタイムマシンという言葉から多くの人々が想像しているのは、たぶんドラえもんの机の中にあるような乗り物のことなのだろう。藤子不二雄が悪い訳じゃないが、罪なことである。まあ、しかし、光より速い物質が時間をさかのぼって過去に行くということになると、いろんなことが起こってしまいそうな気がしないではない。
 また有名なものに「親殺しのパラドックス」というのがある。タイムマシンで過去に行き自分の親を殺すと、自分は生まれないことになる。しかし、自分が生まれないということは、親を殺す人もいなくなる。実際はどうなってしまうのか。
 タイムマシンは夢の機械のように見えて、やはり悪魔の発明になりそうな気がする。もちろん可能性として、人類はいつかそれを作ってしまうのかもしれないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マリコ/マキリータ 

2011-09-29 | 読書
マリコ/マキリータ /池澤夏樹著(角川文庫)

 短編恋愛小説集と言っていいと思う。男女が出会い、恐らく恋に落ち、そして別れる。日常でもありふれているし小説でもありふれているそのような営みは、しかし人が生きている証でもあり、そして悲しみでもある。むしろこの小説集は、男女が出会ったからこそ生まれる喪失感というようなものを描いているようだ。別れてしまったのは仕方無かったのかもしれないし、実はそうでなかったかもしれない。しかし何かが損なわれ、あれだけ親密だったものは完全に損なわれてしまった。
 惹かれあう理由を後で考えると、自分と似たところであったり、逆に自分に無いものであったりするわけだが、共通しているのは、やはりその時は何だかよく分からないということではないだろうか。そうして、たぶんそのような違いや共通の愛おしさは、失ってからこそ強烈に意識する。手にとれる場所にあるときは、その大切さが良く分かっていない。もちろんその喜びは感じているのではあるが、その自分にとっての大切さや重みが良く分かっていないのかもしれない。本当に分かるのは、やはり失ってからなのだ。しかし、当たり前に残念なのは、それでは何もかも遅いのである。
 淡々と語られる恋愛劇は、日常とはかなり違ってどこかシュールである。シュールであるが、リアルで無いわけで無い。夢のようだが現実的なのである。海外のよく知らない場所ばかりなのだけど、何故かデジャブであるような、時には子供の頃の懐かしい情景のようにも思われてくる。
 そういえばひとり旅など長くして無かったな、などと思う。特に一人旅をしたいというようにも思わなくなってしまった。それは、ひょっとするとこのような喪失に懲りてしまったせいなのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

使えないから有用(その場だけ)

2011-09-28 | 雑記
 実害ないからということかも知らんが、経営論になると長時間持論をぶつ人が多いなあ。他人事だからいえるだけであって、実際の当事者にどれくらい響くものかは甚だ疑問だ。
 というところ僕にも振られて、厚顔ながら持論をぶったりするわけで、経営論なんてほんと、どうでもいいです。
 それにしても現状が厳しいのはどんな業界も一緒らしい。ほんとにサバイバル化しているわけで、実害無いだけの理論武装の人がいてくれるだけで防波堤になっているかもしれませんね。もちろん僕のところも生き残れるものでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

視線から逃げる

2011-09-28 | 散歩

 信号待ちの車の並ぶ交差点のそばを杏月ちゃんをつれて歩いていると、かなりの視線の集中を感じる。当たり前だけど、僕ひとりで歩いていたら、とてもこんなに視線は集まらない。僕は特に自意識過剰な方では無いとは思うんだけど、たとえ視線が僕の足元の杏月ちゃんに注がれているにしろ、なんだかとても落ち着かない気分になる。ここでいきなり杏月ちゃんがうんこなんかしだしたら、いったい僕はどうしたらいいんだろう(もちろん拾いますけど)。そういう意味では当人である杏月ちゃんは心臓が強くて、熱心に植え込みのマーキングを確認したりしている。そうして雌のくせに片足をあげてマーキングのまねごとをしたりする。しかしながらおしっこの方は、すでに散歩の最初の頃に使い果たしていて、ほとんどお印ていどになるんだけれど。オスならマーキングの配分を考えて膀胱に一定量の尿をためておくのだけど、そういう塩梅には無頓着なのである。しかしながらある一定のテルトリーを守ろうという精神があるのかどうかは知らないが、杏月ちゃんは雌なのに偉いなあ、と僕は感心しながら見ているのである。感心はしているものの、やはり視線が集まる場所に長居するのは落ち着かないので、どうしてもそういうところから脇の路地の方へ入り込んでしまったりする。お陰さまで交差点そばの路地については、結構僕は詳しいのではないかと思う。赤道のように上手く抜けられるところであったり、実は幹線道路と並行して元来た道を戻ってしまったり、決して効率のいい通り道とは限らないけれど、まあ、そういう回り道が散歩の醍醐味でもあるのであります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カナダ人も好きな

2011-09-27 | 

 たしかCWニコルだったと思うけど、カナダ人の国民的な食べ物はハンバーガーだと書いていたような気がする(記憶違いかもしれない)。日本人の僕からすると、ハンバーガーはアメリカ的な食べ物の代表のような気がして、たいへん意外な感じがしたものだ。
 特に知り合いというのでもないけど、以前カナダ人と少しばかり話をしていて、ついついアメリカの風俗や話題をあげる度に(たとえば野球だとか、ロックバンドだとか)、厳しく訂正をされた。彼らにして見ると、当たり前だけどぜんぜん違う国なんだから心外ということらしい。日本人からアメリカ人?と言われるのが一番嫌なことだとも言っていた。「カナダ人はみんなアメリカが嫌いなのに」なんだそうだ。
 もちろん個人的な意見だとは思うものの、隣国というのは何かと問題があるものなんだなあ、などと日本と隣国関係のことなんかも考えさせられたものだ。
 しかしながらカナダ人はハンバーガーをこよなく愛しているらしいというのは、なんだか複雑な感じもする。嫌いな国の文化食が、自国の国民食でもあるというのは複雑な心境にならないのだろうか。まあ、旨いものは旨いというので良いんだろうね、きっと。
 ちなみに僕は、ハンバーガーで昼食を済ませるのがなんとなく嫌である(サンドイッチなら可なのだが、話が複雑になるので割愛)。そんなに好きでは無いのもあるが、なんとなく貧しい生活をしている気分になるのかもしれない。かといって金持ち生活をしているわけでもないのにね。もちろん佐世保バーガーみたいにボリュームたっぷりなものもあるにせよ、日本で売ってるハンバーガーは、ちょっとしたスナックのようなものという偏見があるのだろう(その割に高い!)。酔うと旨いので、ラーメンのようなものだろうか。
 ところでハンバーグというのはドイツのハンブルグ風のステーキということらしい(その起源はさらに中央アジアに端を発するそうだ)。それをバンズというパンで挟んだものがハンバーガーなんだそうです。ということでフィッシュバーガーだとか日本のライスバーガーは、たぶん言い間違いというか勘違い商品名なんでしょうね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

様々な都合と労力

2011-09-26 | net & 社会

 そういえばこの間ある会議で、複数の人たちで資料を共有したりやりとりしたいということになって、予算も無いことだし、普通にメールでもいいし、フェイスブックなんかだとやりやすいかも、ということにもなった。まあ、ミクシーでもなんでもいいんだけどさ。
 ところが会社の都合で本名などでそういうソーシャルネットワークが作れない人も多いので、結局は封書などが必要になるという意見がでた。うーん、まあ、そういう人にはそうでもいいんだけど、そのメンバーだけにでも分かる偽名でもいいんじゃないかな、と思った次第。本名って言うけど僕の名前なんてごくありふれているし、天然の偽名みたいなものなんだけどな。同姓同名で物凄く有名な人も複数いるから、めんどくさくて特に名を秘しているくらいのものだし、ましてやなりすまして何か悪さするような人が現れても、ひょっとして迷惑かもしれないけど、事実として僕とは違う訳で、本当に困ったりするのかな。
 封書を選別して送る事務局の人の労力に比べてということを思うと、その一言がなんだかな、感の漂うもののように思えて力が抜けたのであった。

 一方で以前確か作家の森博嗣だったかが、名簿など一切名前を出さない努力を積んで、現在はダイレクトメールなどはいっさい来ないということを書いていたように記憶する。絶え間無い努力の成果で個人的な達成感はあったことだろうし、それは良いことではあるけれど、まあ、そういう個人の存在が孤立する程度の成果しか期待できないのだな、とも思った。特にネット時代になって様々なノイズの中で生活していかなければならない現実を思うと(毎日メールを削除する作業を強いられているわけだし)、孤独こそは価値のあるものになるのかもしれないですね。中にはそれで寂いしい人もいるわけで、社会というのはバランスが悪いです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縁の無い人も居ていい

2011-09-26 | net & 社会

 友人のターボ君がフェイスブックとは何か、と質問してきた。彼の事務所にパソコンがあったのでそれで覗いてみると、メールアドレスを思い出すのが難しいし登録するのが煩わしいという。それでは、ということで僕の携帯電話から画面をみてもらう。ふーん、それで?という。なるほど、意味が分からないらしい。こういうのは厄介だなあと思うし、正直めんどくさい。
 いきさつとしては、僕とターボ君の共通の友人イトウシャンと僕がフェイスブックで友達になったということを、イトウシャンから聞いたということらしい。まあ、そのまま、そういうことだよ、というと、やはりポカンとしている。だからやっぱり自分で開設して見ろよ、というと、やっと「こういうのが出会い系なんかと関係あるんじゃないの?」ということだった。やっぱりな、とは思ったが、益々めんどくさい。その通りともいえるし、ぜんぜん違うともいえる。
 まあ、知りたくなかったら知らなくてもどうでもいい話だし、本当に知りたければ分かるように努力したらいいんだけど、その前段階で余分な偏見のある人にはそれがハードルになるようだ。
 なかには仕事に使ったり、また、そこから派生して怪しいことも出来ないではないのはそうだろう。出会い系だって実際の話、必要な人には楽しいものに違いないし、ひょっとしたらそれが縁で本当に結婚できた人もいるんではなかろうか。それだけがゴールとは限らないわけだけど。だいたい最初からネガティブに考えすぎなんだよな。むしろリアルの怪しい紹介サービスの方が怖い感じがするんだけどね。本買えば勝手に広告が入ってたりするし、ゴミになって仕方がない。それに近所のお見合い好きばあさんの方がもっと厄介じゃないかな。いや、実際には知りませんけど。
 雷に打たれたり、ハブにかまれたりする人が日本中に何百人といるなか、それはそれで大変に不幸なことには違いないが、それが心配で外出しなかったりすることって、本当に合理的というか、賢い選択なんだろうか。出会い系なんていくらでも無視できるし、ひょっとすると危ない魔の手に引っ掛かりそうな人も実際いるんだろうけど、それが直接自分と関係あると本当に思えるほど危険なんだろうか。翻って見ると、そんなにあなたは弱く、いいたかないけど愚かなんだろうか。そんなこと言ってたり本気で信じてるのって、みのもんたが好きなお茶の間信仰主義者たちくらいのものじゃなかろうか。かなりの偏見だけど、それくらい偏った考え方だと気づかないだけのことである。
 まあ、そういう訳でターボ君には、いまのところ縁が無いようだ。もう少し年を取って人間が丸くなったらやってみるといいよ。もしくはテレビに毒されないくらい健全な精神になったらね。また、世の中には楽しいことがたくさんあるから、わざわざそういう選択を増やして迷わせるのも迷惑だろう。まあ、正直な話、本当に切羽詰まって忙しくなると、ぜんぜん僕もかかわらないわけで、今のところ暇つぶし程度のことではあるわけだが、暇が楽しくつぶせるものって、あんがいそんなにたくさんあるわけでもないような気がする。だいたい人のつきあいって、そういうものじゃないのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体温乱高下

2011-09-25 | HORROR
 講演会の話を聞きながら、失礼ながらちょっとつまらないのもあって退屈してしまって脈を計ってみると、どうも1分間に100近くあるようだ。ちょっとというか、かなり早い。時間的にぎりぎりだったのはあったけど、特に急いで来たわけではない。昼飯もおいしく大量に食ったし、思い当たるフシがぜんぜん無い。確かになんだか具合は悪いような気がするし、おそらく熱もありそうである。今になって気づくなんて、ちょっと不思議だ。
 それでも何とか二時間程度やり過ごして帰宅すると、体温計は37度9分である。明日は運動会なのでマヅイのである。這ってでも行かなくては。ちょっとのあいだ布団にもぐると、手足が冷たく感じて寝付かれない。急激に手足の節々や腰が痛く感ぜられる。
 夕食に降りていってまた熱を測ると39度まで上がっている。驚いたね、こりゃ。まるで子供時代だ。
 ビールを断念してごはんで食事を摂り、買ってきてもらっていた葛根湯を飲む。藪医者に葛根湯。頼む。
 あんまり早く寝てしまうと夜中に目が覚めてしまって朝方さらに具合が悪くなりそうだったので、撮り貯めしていた番組を見て時間をつぶす。宇宙の神秘をすっかり堪能し、9時過ぎまである意味ボーっとしていた。
 ようやく布団に寝ると、昔会ったことのある知人から食事を勧められる夢などを見て、さらに夕焼けの風景やらなにやらを断片的に見て、朝を迎えた。夢をたくさん見たというより、何度も汗をかいて目を覚ましていた。そうして着替えて熱を測るとかろうじて36度9分である。これで何とかなるだろう。
 駐車場係とか受付をちょっとだけやったり、生徒の行進などの採点をしたり、再度見回りなどをしていると昼になり、つれあいが持ってきていた体温計で熱を測ると35度2分である。なんだか下がりすぎてかえって具合が悪いのであった。
 というわけで万歳の音頭の時ろれつが回っていなかったのは、たぶん低体温の所為であったのだろう(言い訳)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タナカ君より電話

2011-09-24 | 雑記
 見知らぬ電話番号から電話がかかってくる。取るといきなり親しげに話し出してくる。「すいませんがどなた?」と聞くと、「俺の番号消したのか!」と怒られる。まあ、友人らしいのだが久しぶりなのだろう。怒られてもまったくわからん。タナカだよ、タ、ナ、カ。という。知っている田中の声なのだろうか。っていうか、顔がぜんぜん思い浮かばない。うーん、と言葉に詰まっていると、やっと本名を明かしてくれた。
 どうして電話の記録が消えたのかは昨年末に電話が壊れたからだ。このいきさつもめんどくさいので「携帯、水に落としちゃって」ということにしている。やはり7~8年前に水に落として壊したことがあって、そう言うと多くの人は瞬時に理解してくれる。前回壊れたのは、飛行機から降りて電源を入れたら、突然熱くなって画面が白くなって…、という展開で、つまり説明がめんどくさい。結果的に記録が消えたというところまで行くのに枕がいくつか必要だ。
 子供が僕の言い訳を聞いていて、「携帯は水に落ちて壊れたんじゃなかったんじゃない?」と問われる。
 うーむ、携帯のトラブルは説明がめんどくさいです。
 結局マエダ君の用件は寄付のお願いで、なけなしの一万円、振り込んでおきましたよ。ついでにタナカで登録しておこうかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第十七捕虜収容所

2011-09-23 | 映画
第十七捕虜収容所/ビリー・ワイルダー監督

 始まってすぐに脱走劇だとは分かるのだが、段々とスパイ劇になっていく。いけすかないように見える奴が実は主人公であるようで、なかなかのひねりである。捕虜なので虐げられた生活ではあるが、しかし日本の戦時中よりはよっぽど自由である。そこのあたりはあんまりリアリティは無いのだけれど、狭い社会を映画として楽しみながら見せるという工夫としてはやはり見事な娯楽作と言えると思う。ひとことでいって上手いのである。最終的には結構偏見もあるのだけど、それなりのカタルシスのある物語であった。
 脱走劇というのはよく作られるジャンルだと思うが、普通は苦労を重ねて成し遂げるというのが普通であって、このような行き当たりばったりのように見えて、しかし見事などんでん返しというやり方はアメリカ的だとも言えるのではないか。そういうしたたかだけどしてやったりの開放感というのが、大団円として見事なのである。もっともよく考えてみるとこれが多くの人のしあわせで無いところが、やはりアメリカ的なエゴだろうか。頭のいいやつが抜け目なく生き延びて、そして尊敬も受ける。日本社会には生まれえないヒーローを生む土壌のようなものが、考え方の基本にあるということではあるまいか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キムジョンギリア

2011-09-22 | 映画
キムジョンギリア/N・C・ハイキン監督

 最近は後継準備のため様々な整備がすすめられ建設ラッシュに沸くという噂も聞く。北欧なんかにも衣料品を輸出しているみたいだし、曲がりなりにも比較的難しいとされるプルトニウム型の核開発をやれるくらいには科学技術があるらしいし(その割に実験の爆発規模が小さすぎて失敗しているという噂もある)、日本だってしょっちゅう失敗しているロケットも飛ばすには飛ばす。まさに脅威ではある国である。
 僕は個人的に数人友人がいたんだけど、今はどうしてるだろうな。中国系の朝鮮人なのでいろいろ商売をしてるらしいということだったけど、やっぱり苦労してるんだろうか。中国の日本輸出向けの下請け企業も相当あるだろうし、日本と一蓮托生の国家であることは間違いないのだけど、直接には交流が無いから、実のところはよく分からない事ばかりだ。このようなドキュメンタリー映画をみると、やはりそうなんだろうな、とは思うものの、西側に属する僕らの視点からでは、たぶん本当の北朝鮮というのは限りなく偶像に過ぎないのも事実なんだろうと思う。北は西側を捏造するにせよ、それはある意味で同じようなものの裏返しなんだと思う。いや、行ったこと無いし、そう思うのだってかなり怪しいこともまた確かなんだが…。
 人間というのは生まれた瞬間にこそ、大きな格差を背負うことになる。僕はたまたま日本に生まれたけど、北で生まれていたらどうなっていただろうな、と思うことがある。自分の力だけでは恐らく生きていけないだろうし、自分の性格的なことを考えると、今の年まで生きのびているとは思えない。同じようなことは時代や世代を超えて考えることができて、例えば戦時中ならやはりすぐに殺されていただろうし。こちらにいるから特にそう思うのだろうけど、日本に生まれることができたそれだけのことで、ものすごく幸運だったのだなあと思わずにいられない。驚異の国であると同時に、日本人のしあわせを改めてかみしめられる為に貢献している国なんだよな、と素直に思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小琳ちゃん、逝く

2011-09-21 | 感涙記

 思い起こせばいろいろあり過ぎる。小さい頃はGTSみやげのタイの枕の狭い面積の上に寝ていたりした。当たり前だがまだ顔も丸く日本犬のようだった。ミニダックスだから体も長いのだけど、顔がだんだん長くなるのもなんだか不思議だった。お袋はそれが不満で、もう長くならなくていいと言い聞かせていた。
 気まぐれなところが多くて、散歩に行く前はぴょんぴょん跳ねて喜ぶくせに、家から離れていく道を選択すると、ごろんと横に寝て拒否した。抱っこして僕が散歩するという感じになって、長時間になると重かった。リードを外すと逃げ出すが、追いかけると途中で諦めてごろんと横になった。降参という意味らしい。
 食べ物に対する執着は強く、テーブルの上にも何とかしてよじ登るようだった。一家の晩御飯が全滅することもあったようだし、しかし食い過ぎると吐くのだった。ゴミ袋も漁るし、ティッシュを細かく千切ってまんべんなく部屋を散らかすのも得意だった。叱ると逆切れして唸った。ライオンのような顔になり恐ろしいのだった。トイレは何度も教えたが、結局最後までまともに覚えることができなかった。上手くいきそうになっても体が長いためか、トイレの的を外してしまうのだった。いろいろ飼ってきたけど、そんな犬は初めてだった。頭も良くなかったのだろう。もちろんお手などの芸も、すべて出来なかった。
 血管の病気があるらしく、体が弱いらしいと後で知った。考えてみると運動はそういう訳で得意じゃなかったのかもしれない。最近は階段から落ちたりしていた。寝起きにフラフラして足元がおぼつかないことがあった。僕の鞄の中に入って寝ようとして大事な書類を破いたり、中にあるものをかき出して、僕が忘れ物したりした。しつこく舐めるので却って煩わしくなり邪険に扱うこともあった。なんだか済まなく申し訳ないと、いまさら思う。元気な頃は手首にかみついてじゃれて遊ぶのが好きだったが、そんな遊びもいつの間にかしなくなっていた。手羽先などを食べていると、寄こせという意味だろう、激しく吠えて要求した。もちろんその期待には応えられなかったのだが。
 朝から様子がおかしく、いよいよかとは思っていた。帰宅すると息が荒く目を開いたまま舌を垂らして寝ている。さすってもろくに反応が無い。嫌いな爪切りもさせるがままだったのだという。昏睡というか、意識は無かったのではあるまいか。
 息が苦しそうになると体をさすったり体位を変えたりして見たが、だらんと力無く張り合いが無かった。足を伸ばして口を半開きにし、最後は目玉をむいて息切れた。9時1分頃だった。次男坊が帰ってくるまでもたなかった。見開いた眼は硬直してもなお、なかなか閉じることができず、見ているのがつらいのだった。
 朝から隣の畑の蜜柑の木の西側に穴を掘った。雲行きが怪しく、雨になる前に埋めた方がよかろうと思った。畑にはいろいろと花が咲いていて、手向けるのには不自由が無かった。土を掛ける前に体をうずめるように手向けてやった。パンダの小さなぬいぐるみと、口元にドッグフードも置いた。
 小琳という名前は、大切な玉のように貴重だという意味がある。もちろん音の響きもかわいいので、女の子だしふさわしいと思ってつけた。犬にとってどのようなあの世が待っているのかは知らないが、どこに用を足しても怒られないようなところだとよさそうである。
はっきりと冷たくなったので自覚しているはずだが、そしてこの手で埋めたのだから間違いないのだが、本当に家に居なくなったのかは怪しいような気がする。たぶんしばらくはこの寂しさとつきあいながら暮らさなくてはならないのだろう。


 追記:家人から、小琳ちゃんだって芸を教えたら覚えたはずだ、と苦情があった。芸など教えるなと言ったのはあなたであって、小琳ちゃんはその機会を失ったのだという。まったくその通りで、何も覚えなくていいとは思っていたし、あえて教える必要など無いと言っていたのは間違いが無い。人間の言うことを聞かない犬であろうと、それでいいと思っていたのかもしれない。そういう訳で、芸が無かったのは僕のせいです。小琳ちゃんの名誉のために訂正しておきます。また、お座りくらいは出来たんじゃ無かったかな。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉まん・豚まん

2011-09-20 | ことば

 移動中にラジオを聞いていたら、豚まんを頼んだら「肉まん」のことですね、と笑われて恥ずかしかったと言っていた。別に恥ずかしいこととは思わないし、そう感じない方が健康的だと思うが、ともあれ、「ぶたまん・にくまん問題」というのは確かにある。
 肉まんというのは、僕の子供の頃に井村屋の肉まんというのがあった頃(今もあるんだろうけど)に、一気に混乱したように思う。それまでは長崎界隈ならどこでも豚まんの方が主流だったろうし、年配の人たちは肉まんとは牛肉なんだろうか、などと言っていたような記憶がある。一気に東の文化がテレビで流入したということのように思う。僕の家は流れものなので東の文化が主流でもあり、中華料理なら豚まん、市販のものなら肉まん、程度の認識だったんじゃなかろうか。
 大阪に遊びに行くと普通に豚まんで親近感があるので、やはり僕は西の文化圏の人間なのかもしれない。肉まんより豚まんの方が本格的、という感じかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裸の島

2011-09-19 | 映画
裸の島/新藤兼人監督

 ほとんどサイレント映画。ひたすら水を天秤棒で運んでいる。坂道を登ったりして本当に大変そうだ。まあ、よくやるなあ、という感じ。雨の降る日もあるようだし、雨水をためる工夫をすべきじゃなかろうか。
 島で生きるという厳しさと、現代社会の狭間にある境界の中で家族の楽しみのようなものも描いている。食うのも大変だが、現金の乏しい生活も大変だ。船で渡ればそのような暮らしがあるが、しかし土地の問題だろうか、島に執着してあえて厳しい生活をしているようにも見える。そうしなければならない理由というのが今一つ分からないが、そういうつらさを背負ってなお、諦めることで活路をみるという、逆説的な絶望感がある。長男を失い未来への希望さえ失いかけたように見えるが、この土地でしか生きられない宿命的なものに耐えるより他に道が無いということなのだろうか。これだけのことに耐えられる人間なら、もう少し活路を見出すこともできそうにやはり思えてしまって、なんだかなあ、という気分になった。
 しかしまあ、水は大切だということを教えるには、いい教育にはなるのかもしれない。またはお手伝いを良くする子供の見本とか。色々言ったが妙な面白さもある映画で、ついつい見入ってしまった。つらい毎日かもしれないが邪悪なものはあんまりなくて、それはひょっとすると生きていくにはいいのかもしれない。僕にはまっぴらごめんだけれども。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斜陽だから本物の世界

2011-09-19 | 掲示板

 昨夜は純米酒の宴イベントでありました。企画段階では若い人が多いので結構ラフな会だったのだけど(僕は単純に話し合い後の酒目的だった)、当日は気合入りまくりの大盛況でした。手前みそだけど、良いイベントになったなあ、と思いました。
 並んだ蔵元さんたちも壮観で、お客さんも多くてまた壮観。酔ってよれよれになった人は約1名ということで(後でよく見ると僕も以前からまれた事のある有名人でした)、多くの皆さんはフレンドリーで良かったですね。特に格式張らずにいつでも友達になれるな、と思いました。昔と違って日本酒を飲む環境は大きく変わったものだと感慨深いです。もっとも一スタッフだったので会場では飲むのはおあづけ。これは何だかつらかったぞ。僕は自己中なので早くハネて飲みたい一心でありました。
 ということでハネた後、参加蔵元さんたちと一緒の打ち上げも楽しい時間でありました。仕事をやり遂げた共有感もあって、いろいろ面白い話も聞けたと思います。しかしながら根本的には日本酒の環境は斜陽であることは確かであって、そういう危機感の中だからこそ真剣に酒に向き合っているということもよく分かって、なんだか力づけられる思いでした。しがみついているのではなく挑戦している。そういうものだから今の純米酒は旨いのだ、ということなんであります。理屈屋の僕が理屈でなく理解できた良い夜になりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする