カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

冷却期間

2008-03-31 | 雑記
 ちょっと家族旅行に行っておりました。疲れからか風邪気味で体がだるい。いろんな面白いことがあって網羅的に書くとしたらとても止まらなくなりそうなので、あきらめたほうがいいと勝手に思っております。まあ、家族の備忘にしかならないわけですし。それはそれで僕個人には意義深いことですが、やはりだるいので後で考えます。

 今回は自由度の大きい大変にラフな計画で臨んだわけだが、結果的に時間を持て余すことが多かった。その場になって何かしなくては、という思いにかられたわけだが、後で考えてみると、これは気持ちの貧しさということでもあるな、と反省している。なんというか、せっかくの機会だからという気持ちが先立って、本当に気持ちの余裕というかゆとりを失っていたのかもしれない。ちょっとしたことでイライラしたりする。僕は何でもテキパキしたことをするわけではないくせに、非常にせっかちである。自覚しているので普段はのんびり風にふるまっているわけだが、たとえばビールのお代りが遅いだけでかなりの怒りを覚える。手も震えんばかりの怒りをため込んで、かろうじて噴出を抑えている感覚である。そうして、しばらくして自己嫌悪に陥るわけだ。落ち着いてみると今はそういう感じが少しあるのかもしれない。楽しかったけれど、まずは反省してしまう。案外自分でも変なところは真面目なものだなあと不思議な気分である。具合が悪いので、気分まで悪くなることは忘れて切り替えようと思う。怒っていたのは小さな事ばかりで、楽しかったのは大きな事ばかりだったのに。その楽しさをかみしめる余裕が持てるまで、ではまた、ということで。
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尻尾を振ってうれしいか

2008-03-27 | 時事
 地球温暖化懐疑論は無責任だとする進歩派の意見をたくさん読んだ。現在の科学的立場の90パーセントが二酸化炭素による温室効果での温暖化を認めており、10パーセント程度の懐疑論である科学的立場で未来を棒に振るのは賭けごととしても不利だという。それもその根拠がウィキペディアである。うう、恐ろしい。
 科学は賭けごとではないし、どちらが正しいというようなことは基本的に確率ではない。たとえ1パーセントの意見であっても正しいものは絶対的に正しい。それでも地球はまわっているように。現在の温暖化といわれているものが人為的であるという根拠がよくわからないというのは極めて科学的な立場であり、人為的だと言い張る態度はすでに科学ですらない。何故なら本当に分かっていないからである。まあ、推進派はそれでももしも人為的であった場合はどうなるの? ということが気になって仕方ないらしく、どうしてももしもの可能性にかけたくて落ち着かなくなってしまうものらしい。つまり結局は科学じゃなくて政治なのである。多数決で物事を決めようとするんだから、どうしても政治的にならざるを得ないのだろう。政治なんだから科学的根拠なんてものを持ち出さないでほしいものだが、やはりそれは根拠として科学がほしいということなんだろう。勝手に混乱してくれるものだ。回答はわからないが正解なのに。しかし、わからないと言ってるのに無理やり根拠を引っ張り出してくるのはその為で、だから温暖化の根拠が増えてくるという算段である。馬鹿じゃなかろうか。人為的温暖化を信じているから科学的根拠が増えてきて、事実と整合性を持ってしまう(だってそういうケースを拾ってくるんだから)。そうして悪者は懐疑論者なのだからたまらないものだと思う。王様は裸なのに…。
 まあ馬鹿らしくはあるのでなるだけ避けて通ろうかと思っていたが、なんだか久しぶりにこの状況の閉塞感に頭が痛くなってきた。もうどうにもならないところまでこの政治的科学の根拠の判断が決してしまっているように思えてならないからである。炭酸ガスによる温暖化という政治的思想を食い止めるすべがなくなってしまったようなのである。つまり懐疑論ではなく、あくまで否定論でなければならない。しかし否定論を持ち出した時点で科学ではないわけであるから、否定するには政治でなければならないのである。もう勝手にやってくれであるが、しかしそれで強制的に僕らの行動を制限させられる上に金を巻き上げられるのである。腐るぐらいは許してほしいものだ。
 まあ、元々後進国といわれる国々の発展を止めるための方便で考え出された政治論なのでこうなってしまうわけだが、最初にこういう意見を聞いてしまうのは従順な日本のような犬国家なのである。すでに個人レベルで独国人の4分の1しか二酸化炭素を出さない日本人が、独国のエコロジーを見本にしているような変な状況に既に陥ってしまった。これで商売をしている一部の人たちの懐が潤ってゆく。結局それが政党政治なのか。日本の政治が二流であるというのはわかっているが、そのおかげで多くの欧米人が助けられている。アホを通り越して情けなくて悲しいばかりだ。これは植民地である宿命ということなのかもしれない。日本に生まれてきた不運を恨むより仕方ないのだろう。
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机の引っ越し

2008-03-26 | 雑記
 職場環境をいろいろと変えていて、僕の普段居る部屋の机を運び出した。重いどっしりとした立派なダイニングテーブルともいえるもので、十年以上ここに居座っていた。僕にははっきりした覚えはないが、父がどこかの展示会に顔を出して、衝動買いしたものだと思う。足の部分などに物々しい文様が施してあり、ちょっと中東風の雰囲気があるが、台湾製である。こういうものの値段の見当は得意でないが、十万で買ってきたと言って喜んでいたので、それ以上するような感じの机なのだろうと思う。木目も鮮やかで大きな机なので、来賓の人と差し向かいで話をする時など、それなりに重宝したとも思う。しかし日常で使っているときはいつの間にかいろいろなものがそのスペースを段々と埋めてゆき、ついには小高くなってゆくのであった。机は頑丈らしく、それらのものがいくら積まれても黙ったまま存在を誇示していた。
 しかしながらいくらなんでも宝の持ち腐れということらしく、坂の上に新しく生活支援棟というようなものを建てたので、そこのダイニングテーブルへ栄転ということになった。
 運び出して空いたスペースにはまた新たな机が入る予定だけれど、カタログでみるとシンプルで主張のない事務的なもののようだ。実は玄関に既にその物体のようなものは運ばれてきているのだが、ネジが八本足りないとかで、その全容は明らかではない。
 今までそこにあったものがない状態の部屋というのはなんだか妙に寂しいもので、とてもこころもち落ち着かない。落ち着かないでのほかの部屋に遊びに行って、そこで作業をすると妙に計算がはかどったりして、はて、慣れていないほうが勝手がいいとは不思議なものだと思った。僕自身が引っ越したほうがいいのかもしれない。
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面白いどころか

2008-03-25 | 時事
 オリンピックを前に、中国への報道が過熱している。もちろん中国共産党という存在がまいた種が実を結んでいるに過ぎないわけだが、なんだか本当に騒然としてきた。チベットは独立する気は本当には無いようだが、それでも盛り上がり次第によっては引っ込みがつかなくなるかもしれない。それにしてもここまで強硬に出てしまう中国政府は、事実上ダメ出しという感じがしないではない。いくら政治に長けた漢民族でも、この難局をどのような言い訳で乗り切れるものやら…。もともとその場限りの逃げ切り言い訳能力が長けているにすぎないのかもしれないわけで、とても持たなくなってきた現実が膨れすぎているように思われてならない。オリンピック後に崩壊するといわれているのは、単なる西欧諸国と日本の願望だったわけだが、これで現実味を帯びてきたようにも思える。確実に言えることは、今のままの中国ではこれからの中国を支えることは無理になったわけで、以前に戻るのなら(戻れるものなら)話は別だが、どう考えたって破綻するより道はないだろう。聞くところによると、ひと月で何万社という単位で会社がどんどん倒産しているらしい。いくら労働者が豊富な状況にあろうと、とても支えきれるものではないだろう。既に国際社会は中国の問題だけで済みそうにないから、僕らの生活にも大きな影響があるだろう。中国を代替えしても支えきれる国が他にあるかというと、結局は中国と同じような経過をある意味では経たうえで成長してくる以外にない。混沌状態はしばらく変わりなく混乱していくのであろう。
 ところでオリンピックをボイコットすべきだとかいう政治的発言もあるのだが、僕個人的にどうでもいいのではあるが、政治意識を持った人ほどぜひ参加すべきではないかと思ったりする。日の丸の代わりにチベットの旗(というのがあるんだろうか)をひらめかせたりするような嫌がらせを大々的にできるほうが、はるかに政治的に効果が大きいだろう。まさかその場で射殺もできまい。いや、中国ならやるだろうか。改めて恐ろしい国だということは認識を新たにしたわけである。
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特例を一般化できるか

2008-03-24 | 時事
 福岡、田川郡の中学生の事件を見ていると、あそこまで荒れているのはどうにもなる問題じゃないと素直に感じる。モンスターどころか、単なるヤクザである。いくら教師の中にやる気があっても、教育できる程度の問題を超えている。
 しかしこれが世間一般の荒れている中学の現状なのかというと、かなり疑問に感じる。いくらなんでもあれほどひどいのは、かなり特殊なケースなのではないか。
 逮捕は誠に遺憾だとかなんだとか地元の教育委員会のコメントがあったけれど、やはり教育現場というのは認識が甘いものだなあ、と思う。これほどの凶暴さは、今まで逮捕されなかったほうが異常だったのではないか。やっとまともに逮捕できたのだから、教育の勝利である。ジャンジャン損害賠償など圧力をかけて、この子供と親を駆逐すべきなのである。校長や教頭が休職するほどなんだそうだから(これもある意味で異常だが)もう少しまともに恐喝などの犯罪が摘発できそうだが、これを徹底できない教育という現場は、すでに死んでいると考えたほうがいいと思う。
 ある意味でこれほどの生徒を長期間のさばらせたということでは、この学校と教育現場の責任論はあるとは考えられる。無法地帯を作ったということが、一番の敗因だろう。最後まで自分たちの手で何とかしたいという考えもあったのかもしれない。しかしそれでも何とかならないのであれば、やはり違う手法でやるしか無かろう。日本が法治国家であるということを、どこで忘れてしまうのだろうか。臭いものにはフタをして、いつまでも逃げ切れるという体質があるのではないかと疑ってしまう。
 また、報道にもかなり疑問を感じる。未成年か何か知らないが、顔などは一切モザイク映像であった。あからさまな暴言や暴力行為を映像で流せない現状に、ジャーナリズムは何を思うのだろうか。事実を報道し悪を叩けない姿勢に、ジャーナリズムの存在意義があるのか自問しないのだろうか。
 人権がどうだという人もいそうだが、人権とは、強者や悪人を助けるためにあるのだろうか。仮に顔など報道されて精神的に傷ついたなど訴訟になったとしても、十分戦えるだろうし、そもそも映されるようなことをしているほうが悪いのであって、わからず屋の法律家が無茶な判定をしようとも、断固戦ったほうがいいのではないか。もちろん世論も圧倒的に支持するだろう。つまらないことで怖がって逃げてばかりで、何がまともなジャーナリズムだと馬鹿にされるよりましである。

 僕は「たかじん」の番組を見てそう思ったわけだが、他にも中学生の万引きの認識についての話もあった。ある女子中学生と思われるコメントで「買うのが損だから(万引きする)」というものがあった。ショッキングな発言に大人たちはかなり動揺してしまったのだった。けれど、どう考えても万引きして捕まったほうがかなり損である。動揺してしまうのは仕方がないようにも思うが、その程度の認識の子供はちゃんと補導して損をした感覚に馴染んでもらうよりなかろう。倫理問題以前に損得勘定がへたくそ(計算できていない)な頭の悪い子供というにすぎないわけで、たぶん軽く言ってみただけだろう。多くの中学生の代表選手に選ぶには、あまりのミスキャストであっただけでなく、報道が選んだ空気の読める子供であった可能性もある。万引きは粛々と捕まえるというだけで、こういう子供は自然に減ってゆくことだろう。
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実は正常な流れ

2008-03-23 | 雑記
 実はパソコンを新しくしててんてこ舞いしている。画面がでかいので目が疲れるし、微妙に操作性が上がっているせいで勝手が違って使いづらい。移し変えたソフトが上手く動かなかったりしてとにかく戸惑う。業者さんも長い時間かかっていろいろやってくれるが、説明してくれるときにちょうど誤動作したりして、結局「出直してきます」という日々が続く。ただでさえ外へ出る事が多くなっている時期なので、帰ってきてはまた連絡しなおす、というタイミングの悪さである。年度末にこういうことをすべきでなかったのではないかと改めて反省するところである。
 
 政治の方は相変わらず空転しているようである。「ねじれ国会が問題だ」と声高に言う論調があるが、この状態は久しく日本が体験してこなかっただけの話ではないかと僕は思う。事実、二大政党制の国ではよくある話だし、むしろ普通である。大変なことになると危機感をあおっているのは、思うようにならないとイライラしているだけのことであろう。子供なだけである。官僚の調整が自民党にしか利かなくて、野党ともども相手にしないせいだという分析もある。日本の制度は軋みぬいているということで、いい経験をしていると考えた方がいいだろう。

 夜になって二回目の42んの会の会合。煙にまみれてホルモン食って、二次会にも繰り出したが、11時には解散。ああ、年を取るって帰宅が早くなることなのだろうか。

 新聞を読んでいると杉並区の中学でPTAを廃止するとのこと。
 例の「夜スペシャル」を実施している学校らしい。保護者には前例踏襲型の「PTA」を嫌う人が多く、参加者が減っている。活動を維持するための参加啓蒙が難しいため、意欲のある地域住民(大学生を含む)で組織する、既につくっている「地域本部」と統合する方向らしい。交通費や謝金など有料で実施することも検討しているようだ。
 なんだか田舎の住民にとっては夢のような話だが、実際のことを考えると、都市型の学校から順に、この方向がトレンドになっていくように思えてならない。
 来年度全員強制参加型の共産主義的PTA運営に頭を痛めていたせいで、少し活路が見えた思いがした。役員決めは最終的に「民主的」にくじ引きで選出する方向で話し合いを進めている現場を思うと、既にPTAは田舎でも崩壊しているといえよう。行政が建前で作り上げているPTAの存在に、親はもう付き合いきれないと悲鳴を上げているのだと思う。僕はこういう動きこそ、本当の日本の活力に繋がるものではないかと期待しているのである。ま、抵抗は大きいだろうけどね。
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ギャンブルの必要性

2008-03-20 | 雑記
 会議漬け毎日から一時脱却。ああ、やっと終わった。おんなじ内容を繰り返し聞かされて順次会議をこなしていく。もちろん必要があってやられていることなのであるが、付き合う個人という立場であるとなかなかつらい時間でもある。時として進行役になったりもしたので、まったく退屈で困るというだけではなかったのだが、現場を離れてこういうことをしていると、結局職場を放棄して時間を使っているわけであるから、事実上の仕事はため放題にして時間を浪費しているということはいえるのかもしれない。もちろん、人の集まるところには情報も集まるので、まったくの無益ではないが、効率を考えると非常にまどろっこしい時間であることは間違いがない。
 いろんな人の意見が出て有益であるという考え方をする人がいるけれど、いろんな人が意見をいうと、結局どれだけの調整能力があるのかということの方が重要であることが分かるはずである。共通部分だけを取り上げて調整するので、様々な意見が出るほど、逆に常識的なまとまった方向へ行かざるを得なくなる。会議を綿密にやるほど、やる前から分かっていた内容へと収斂されざるを得ないのである。最終的には前例を踏襲したかわりばえのしない、クソ面白くもない企画が決定されることになる。会議に参加していてもっとも無益な脱力を覚える瞬間である。
 それでも時々意見を差し挟みたくなったり、面白い意見に啓蒙させられることもないではない。おおっと思わず身を乗り出すような気分になると、決まって危険論へ話が展開していく。そんなリスクは当然じゃん、と僕は内心思うのだが、多くの人は当然とは思わないらしい。いや、そんな煩わしいことは他の人が手をつけるべきだということなのかもしれない。
 そういうリスクをとりうる人はどんな人か。それはつまりやる気のある人で、誰かがリーダーシップを取るという強い意志が固まると、事態は一気に動くということになるのだろう。
 残念ながらやる気のある人は、大抵困った人であるという現実もあって一概にいいことであるとは言えない。しかしリスクをとるのだから成功したときのメリットも逆に大きくなるということではある。掛け金が一気に上がった状態といえるだろう。負けが大きくなって荒廃してしまえば、それはそれで改革するよりない。今はギャンブルするときなのかもしれないと個人的には思っているところである。
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国際性とだからこそ大切な方向

2008-03-17 | 雑記

 ちょっと更新の危機です。ま、忙しいということで。まったく無理じゃないとはいえ、物理的に無理しないと無理なんです。ネタとしては腐るほどある感じはするけど、長くなるとそれなりに億劫だし、そういう苦労しても受け取る方は誤解するだろう内容も多くて、やっぱり断念してしまうのかもしれない。世論なんてほとんどは思い込みだけど、そういう思い込みそこ経済の明日を作る最大の要素な訳で、真実なんて誰も欲してないし、僕は真実を本当は知らないかもしれない。悩みと言うのはそういうわけです。忙しいけれどほとんどは時間を拘束される会議で忙しいだけなので、僕の精神を拘束するなにもでもないわけでありますから、僕自身はあくまで自由であります。そういうことをこれからも訴えていければ、僕の精神性と一部の利益にはなるはずなので、そういう路線で、これからもよろしくお願いいたします。しかし面白いのも一番だから出来るだけ面白いと思ったことを取り上げるよう努力したします。
 ああそういえば、今後は外国人労働者が大量に国内に入って来るという方向で行きそうですね。僕は悪い意味で言っているわけではない。この場合近い人は気づいていないが、日本語ということがなにより大切なキーになってくると僕は考えております。それこそが唯一の大切な保険のようなものです。さて、しかし受け入れ側の主たる日本側のほうが、外国語の方へ走りませんように。もちろん世論さんの方にもよろしく。
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出来れば楽な道

2008-03-15 | 雑記
 このところ会議の準備に追われていた。というか少し優先順位を上げて取り組んでいたので、外の仕事がおろそかになっていた。そうやって準備した会議も無事に終わってほっとしているのだが、机の上を見てみると、うんざりという感じの仕事のたまり具合である。しかし今は開放感に浸りたいので、客のための準備した茶菓子をつまんでお茶を飲んでゆっくりした。完全には無視できないが、一時は忘れて開放感を楽しんだ。
 来週も会議の連続だ。責任のあんまりないものもあるので、やり過ごしても乗りきれるだろう。馬鹿らしい会議は馬鹿にして立ち向かうとそんなにストレスにならない。真剣になるからさらに疲れるのである。手元の資料の空白を使ってマインドマッピングしていろいろと空想の世界を旅する。現実逃避の時間の使い方である。自己防衛といっていいかもしれない。いつか自由な身の上になったとき、このときを懐かしいと思うことがあるのだろうか。

 最近のニュースは僕にはよく分からない。米国の景気の先行き感が悪いというので円高になっているという解説を聞く。しかし日本円が高くなるとさらに日本製品は輸出の上では不利になるだろうから、逆に日本の先行き感が悪くなって円の価値が下がるということには何故ならないのか。食糧自給の問題はあるにせよ、円が強くなると安い輸入品の恩恵を受けるのは日本国民である。事実米国は長い間高いドルのおかげで消費を謳歌し、他国の供給を受けて借金を膨らましても平気であった。ああ、そうか。これからは米国式格差社会には都合がよく円が上がるということなのだろうか。事実上日本はパラダイス鎖国の状態でサービス業中心社会にならざるを得なくなるだろう。生産は他国で行なうよりなくなるだろうし、高い賃金の業種に群がるようにサービス展開をするより無い。既得権益業種より、まったく新たな業種がいきなり高利益を生み出すようなことにもなるだろう。実のところ悪いばかりの話ではないのではないか。

 新聞を読んでいると諫早高校の松元監督の話が書いてあった。趣旨として近年の子供をかばいすぎる親のことを嘆いている。厳しい環境下でないと本当に強い人間には育たないということらしい。ごもっともだと思う。
 たしかに以前に比べて子供は大切になりすぎているような気がする。子供が宝だというのは以前の人の認識にも当然あったはずである。しかしだからこそ子供自身の事を考えて、他人には厳しくしてもらうという考えがあった。厳しく扱ってもらうことに感謝さえしていた。「かわいい子には旅をさせよ」というのは、旅行させて見聞を広げさせるという意味ではなく、厳しい外の社会にもませるという意味であろう。しかし今は自分の大切な子供を他人も大切に扱うように要求する。これはつまるところ子供のためでなく自分自身のためだけを考えている行動(言動)なのではないか。
 しかし一方ではいじめられた子にも悪いところがあるなどと弱い人間は突き放す。バランスとして世論はどうしても極端すぎるもので困るのである。
 子供もそうだが、自分自身を厳しく律することも難しい。まあしかし苦行も快楽も望んで行なうのであれば同じようなものだと誰かが言っていたらしい。僕は楽な道を歩いていきたいとはやはり思うので、他人のことなど言えたものではない。
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見えない育児方面

2008-03-14 | 雑記
 普段はワイドショーの類は見ないのだが、昼休みにつけっぱなしになっているテレビで広末涼子を見た。そういえばこのあいだ彼女が出ていた「バブルへGO」とかいうような映画は観た。そのときにつれあいが彼女には子供がいるということを言っていたので、そういえばそうだったのかと思ったばかりだった。僕は学校はどうしたんだろうと、ふと思ったぐらいだが、たぶん古い話なのだろう。懐かしい人には違いないが、27歳だというのはずいぶん若いなと思うので、本当に古い話なのだろうか。
 それにしても他人事なのでどうでもいいのだが、こういうことでもいろいろ取り上げられるという立場は、やはりセレブという人たちの宿命なのだろうか。ちなみにセレブとは有名人のことだろうから、日本のそういう部門の代表は三浦和義(ロスのほう)だろうか、と思うが、僕が思っているようには世間は思っていないのがいつものことなので間違いだろう。
 僕は広末の映画を見て、その天然のわざとらしさも健在で、まだまだ生きていける人じゃないかと思ったわけだが、こういう騒ぎはそういうこととも関係があるのだろうか。報道ではやはり軽々しく離婚する芸能人というニュアンスと、子供の将来という倫理的な問題として考えているようではある。結局は不仲になったのは、浮気だとかなんだとか、もう少しドロドロしたものがあるに違いないという予測と、倫理にかこつけた一種のざまあみろ感というものを報道から読み取ることが出来るのだが、受け取る僕の問題なのかもしれない。いや、僕は素直にこれからも大変だろうなあ、と少なからず同情しているので、そういう報道姿勢になんとなく反目も感じているのが正直なところである。
 もうひとつはやはり女優というのは、はたらく女という位置づけとはちょっとばかり違うような感じがあることである。今後の仕事と育児の両立というようなことに言及しているのだが、一般の勤めというイメージの仕事とは、恐らく違うものだろう。著名人は露出し続け、支持され続けないことには仕事が維持しづらいのではないかと予想されるが、既にある程度の著名度を持っている人間、いわゆる格付けのようなことであると、これはそれなりに仕事を選んでもいいのかもしれない。
 しかし、一人の女優というものは、いわゆる商品でもあるわけで、彼女を取り巻いて生活している多くの人をも支え続けなければならないのかもしれない。個人の自由や裁量で生活スタイルをどうこうすることは難しいのではないか。ああ、なんだか分からなくなってきた。やはり具体的な生活がよく分からない。しかし彼女はいわゆる個性派とか演技派というような人ではない気がするので、芸能生命というものが長いものなのかどうなのか、ということも考えなければならないのではないか。他人事といいながら考えてみると厳しいものだなあ、と思う。
 まあ、これが一般の離婚であっても、慰謝料がどうこうという前にほとんどの慰謝料は全額支払われることはまれだそうだから、既にある程度は金を持っているだろうと思われる広末より大変だということはいえるのかもしれない。女の人が生きていくというより、子供を持つリスクのようなものの大きさを思うと、少子化問題は個人問題で片付けるには、あまりにも社会的な要因が大きすぎるように思える。今後は出来ちゃった婚以外で子供を持つようなことのほうが、まれなケースになっていくのではないだろうか。
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飲み物をつくる

2008-03-13 | 雑記
 送別会で挨拶して役割を終えてホッとして、宴会に入って飯を食いながら隣の若いスタッフと話をしていたのだが、しかし彼女はおとなしい性格でちっとも会話が弾まない。もともと口数が少ないのです、とおっしゃるとおりなのだが、何というか共通の話題も見つからないし、仕事関係の話をするにしても妙に説教くさくなっていったりしてなんだかなあという気まずい時間を共有するのみなのであった。彼女は酒も飲まないようすだし、焼酎のお湯割りを作ってくれるのはありがたいが焼酎から入れるので、また細かいこととは思うけれど、次につくるときはお湯からにしてくださいと説明しなくてはならない。ほかの人の水割りをつくっているときには今度は水から入れていたので、これも「氷からです」と横から慌てて口を出すことになってしまったけれど「氷は頼んでいるのにまだ来ていないのです」ということで、いやだけど氷を先に入れないことには話が始まらないわけで、こういう暗黙の取り決めを説明する難しさを痛感するのであった。
 結局うまく作り方を伝授できないまま宴会はすすんで行き、号泣ありの大団円になった。
 二次会になってまたお湯割りや水割りが作られる場面を見ていると、件の彼女は降格人事となったらしく別の男のスタッフが飲み物を作ってくれた。まあ安心というか、結局伝統技能の伝授は今回は見送りなのである。
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モチベーションの減退

2008-03-12 | 雑記
 最近は寒すぎたり雨が降ったりしてなんとなく散歩意欲が減退していたが、ものすごくいい陽気になって外が気持ちよかった。たまたま業者との打ち合わせなど外での作業が続いて、もう建物の中に戻って仕事をしたくない気分である。ついでにちょっとだけブラブラしたり風景を眺めてみたりして、ああ旅行に行きたいなあ、と思った。たぶん今が一番いい季節で、ちょっとばかり風がつめたくて、しかし陽射しはぽかぽかして本当に気持ちがいい。本当にたくさんのいろんな種類の鳥たちがさえずりあっていて、森の中がうるさいぐらいだ。昆虫達もきっとうごめく様に活動を始めているに違いない。

 職場では昼食を抜いていて、基本的に昼はあんまりとらないことが多い。しかしなんとなく腹が減って落ち着かない。事務所の冷蔵庫を物色したりして食べ物を探す。いつのものか分からない食べかけの食い物がいろいろあるが、流石にそういうものには食指が動かない。確か月曜から入っているみやげ物のさつま揚げがあったのでひとつ頂き、茶菓子用の箱の中に入っているキャンディをひとつ食べた。紅茶を入れてのんだらだいぶ落ち着いた。外に出て散歩すると完璧に食欲のことを忘れた。しかしやはり戻って見るとまた食欲を思い出すのである。モチベーションがかなり下がっているようだなあ、と思う。三月までは何とかがんばって、区切りを入れる時期に入ってしまったのではないか。
 もともとある程度下がったので一度中断して仕切りなおしたのだが、ちょっと中途半端な気分も残っていたのだろうと思う。大きな目標であった70キロの壁を突破して、そんなに変わらない生活を続けているようなのにそれからちっとも落ちなくなってしまった。苦しいというほどまでではないが、ちょっとつらい。もういいかな、という弱気な気分と、張り詰めていたような気合がどうしてもわかない。気がつくとごく普通に食っている自分がいる。楽しかったダイエットの事を忘れてしまいがちなのである。

 寝る前に何気なくテレビを見ていると、コメディアンが科学者に食って掛かっていた。明らかに自分の無知を棚に上げて批判している。分かりにくいことを分かりやすく説明したり解明することが科学者の使命なんじゃないかということらしい。なんとなく腹が立ってきて消してしまったが、一般の人の代弁者という立場ではそのように考えるのは仕方の無いことなのかもしれない。しかし、もともと難しいことは簡単にならないから難しいのである。誰もが専門家になれるわけでもないし、その必要なんてものもはない。興味がないのであれば、自ら知ろうとしないものであれば、むしろ分からなくて当然ではないか。そういう当然の自分というものを無視して、消費者として科学者を批判して、いったい何の意味があるというのだろう。ある程度の理解と啓蒙がなければ予算がつかないというのは悲しい現実かもしれないが、そういうものは科学の本質とはまったくべつの問題である。無知というのは本当に恐ろしいものだなあ、と思うのであった。
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仕事をやり残す心づかい

2008-03-11 | 雑記
 客の多い日。まあ、月曜はそういう日が多いようだ。打ち合わせとか何とか話をしているうちにあっという間に夕方になる。ボチボチブログを書いて終わりという感じ。実質的に何もしていない気もしないではないけれど、終わったものは仕方が無い。終わりなんですよ、明日ですよ、と考える。
 よく「仕事を残さないようにすべし」というような話を聞くことがあるけれど、前からなんとなく違和感を持っていた。そんなことを言われても納得できない。というか承服できないというか。つまり毎日の連続性の中で仕事を残さず済ませるなんてことが出来るのだろうか、と考えてしまうからだ。もちろん意味としては、一日の目標とする分量をやり遂げるということを指していっているとは思われる。投げ出さずにやるという美点であるという考え方なのかもしれない。そういう部類の仕事というものもあるとは思うが、実際どこで区切っているというのだろう。
 そう、たぶんその区切り方というものに、納得がいかないのかもしれない。一連の流れが一日で完了する仕事というのは実は少数で、一日の仕事はいろいろな用件や案件を複数連動しながらこなしていくものなのではないか。書類の作成や現場の介助や農作業や仕入れや発注や納品や打ち合わせや何かかにやといろんなことがたくさんあって、どれも必ずしも区切りよく一日を終える段階に達することなど無いのではないか。いつも中途状態を維持して毎日を送っている。そういう状態こそ普通なのではないか。どこまでやってもきりが無いし、すべてきりのよい状態に保つ方が至難の業ではないか。
 そうはいっても区切りよくすべきだ、という意見もあろう。しかし、それも僕には疑問だ。区切りよく仕事をすることが、果たしてそんなにいいことなのだろうか。
 実は仕事をやりかけて明日に残すというのは、大変に重要なのではないかとさえ思っているのである。仕事は区切りよく終わらせない方が、仕事のはかどり方が明らかに違うのである。「なんで?」と疑問に思う向きもあろうが、実際にそうなのだから仕方がない。やりかけの仕事いうのはあんがいしっかりと覚えているもので、途中であってもすぐに手をつけやすいのである。つまり仕事に戻るときにすぐに体が動かせるというか、実行できるのである。そういうものから手を付け出して調子に乗ってきてから、改めて新しい仕事をやった方が能率が断然違う。新しい仕事は先行きが未知数だからそれだけ段取りに気を使う。まったくまっさらからはじめるにはそれなりの気合が必要だ。そういう気合を入れるためにも、やる気要素を充電しておく必要がある。そのウォーミングアップというか暖気運転には、やりかけ仕事を片付けるというのが一番いいように思う。結果的に全体的な効率を上げることにもなっているのではないか。
 なんというか、読書も同じような傾向があって、いろんな本を少しずつ読みかけていたりする。戻って読んでもあんがいすぐにその世界に溶け込めるものである。そのまま調子がいいと読み続ければいいし、駄目なら素直に浮気して別の本を読めばいい。結果的にはこの方法が一番たくさん効率よく吸収できるというわけである。趣味の読書もあるし、仕事上読んでおきたいものもあるし、新に勉強したいものなど分野というものは幅が広いものである。仕事であっても同じようなものであって、確かにいっぺんに同時に片付けるわけにはいかないが、並行してこなしているのが現状なのである。まったく問題ない上に逆に合理的で効率がいい。「仕事は区切りよく片付けない」ことが大変に大切な心得なのである。
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選挙

2008-03-10 | 映画
選挙/想田和弘監督

 特に凝ったつくりをしている映画ではない。ドキュメンタリーなのだから当たり前だといえるが、選挙運動そのものを坦々とつづっているのみである。街頭演説から事務所での雑談、友人との会話、住民と打ち合わせ、夫婦の会話など、実にそのまんまフィルムにおさめられている。途中で気付いたが、まったくナレーションによる説明すらない。実際にはしっかりした構図で撮られたプロの作品なのだが、なんとなく素人がそのままビデオ撮影したものをついでつくったような感じすらある。
 そういうドキュメンタリーの狙いはずばり当たっていて、これが実に面白い。生生しい現実がそこで繰り広げられ、日本の選挙の現実がまざまざと浮かび上がってくる。ものすごく真剣に選挙運動が繰り広げられているにもかかわらず、ものすごく滑稽なコメディになっている。最初から悲壮な空気はあったけれど、最後には絶望的な悲壮感に包まれたブラックユーモアになっている。よくもまあこんな映画を撮られたものだ、という同情にも似た複雑な気分になった。
 この映画の主人公で実際に選挙で戦っている山内和彦氏という人物が、何よりいいのかもしれない。この人は初めて選挙で戦うまったくの素人である。演説(自分の名前を連呼するだけだが)にしろ話し振りにしろ、滑舌が悪くて気の毒になる。いろいろと協力してくれる政党の議員や後援会の人たちと比べても格段の無知であることが一目で分かる。本人は怒られながら愚直に従いながら日々選挙で戦ってゆく。人がいいくせになんとなく空気が読めない人のようで、見ていてまどろっこしい。そしてこういう映画に撮られているにもかかわらず、ついつい本音を漏らしてしまう。こんなことを言ってしまって大丈夫なのだろうかと、半分子供の僕でさえ心配になってしまう。自民党の公認であるという以外、東大卒であるという自分のブランドだけで、まったく何にも売るものが無い。ただ党の方針で落下傘候補として選挙に立っているだけである。そういうコマとしての立場ということだけは分かっているようで、党の方針に愚直に従うしかないのかもしれない。しかし、従いながらも消耗して行き、だんだんと選挙に対する自分の違和感のようなものがにじみ出てくる。そういう中で夫婦での会話シーンが出てくるのだが、人間として本当に率直な不満や疑問が語られていて、当事者でありながら被害者のような様相を呈していくのである。
 この映画での監督の勝利は、この主人公に限らず現場の人間の思わず漏れ聞こえる本音を逃がさず捉えきれたことであろう。政治で戦っているにもかかわらず、主人公を人とも思わず選挙に利用している政治家や取り巻きや事務所の人間を見ていると、怒りを通り越して脱力してしまう。ああ、これは典型的な日本の村社会の構図である。
 しかしそういうものが見えてしまって、今後この人たちはどうなっていくのだろう。他人事なのだが、こんなものを見てしまった後は、山内氏や自民党の後援会は普通の生活が送れるのだろうか(まあ、送るしかないだろうけど)。どうせこの映画は広くは伝わらないものだということで済んでしまうのだろうか。
 いやいやどうして、こんなに面白い映画を見逃す手は無い。海外ではものすごい反響になって、結局日本でも上映されることになったいわくつきの映画らしい。それも当然という感じもするほどよく出来た映画になっている。ノンポリも含めて、選挙をいろんな視点で楽しんでみてはどうだろうか。
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カエルだって逃げるのに

2008-03-09 | 雑記
 千葉に行っていた。
 一日目はまじめな話し合い。昼過ぎから延々といろいろなことを忌憚なく話して、気がついたら6時過ぎていた。事務局が「実は晩御飯を予約しているので…」ということで席を移したのだが、一部アルコールが入ってさらに突っ込んだ意見になり、また寮のようなところに戻っても話は尽きなかった。結局10時過ぎまで話し合いは続き、電車の都合があるという人がいてお開きになった。もちろん時には雑談も交えての時間帯はあったけれど、ほとんどは会務についてのまじめな討論である。この会以外ではまったくお付き合いのない間柄であるが、ひとつのテーマでもいつまでも話が出来るものだと思った。いや、問題は多すぎる。
 しかしもうひとつは、関東に行くと時々思うことだが、九州とは明らかに違う厳密さがあるせいだとも思う。細かいことも、問題が起こる前に予想しようとする。結局は分からないことなのだから、そこのところはどうなのか、と思わないでもないことまで、一応という感じで提案として上がってくる。そこで皆ウームとしばし考え込んでしまったりするのである。
 これを関東の人は精度をあげるためにやっているという意識があることが分かってきた。明らかに混乱させるという意味でなく、意図的に話を飛ばして細かくしている。また、そういうところまで気づく人が能力の高い人と評価されるようだ。だから次に来る人も同じように細かい人が出世してくる。事務能力は大変高いが、決定がいつまでも先延ばしになっていくように思う。結局は少し強引過ぎるような人が、その上に座るようなことになっている。そういうバランス感覚なのかもしれない。
 翌日になってこういう感じの会議ばかりだと大変だと素直に話していたら、事務局をしている人の上司の人は「夕方5時からがはじめて自分の仕事になる、といつも言っています」とのことだった。自宅が遠いので、ほとんど泊り込んで仕事を続けているらしい。うへーっ。
 過労死が問題になったり、自殺者が多くて平均年齢が下がっているといわれているが、根本的にこういう効率の悪さが大きな原因なんじゃないかといいたくなる。池田信夫が言っているように、ジョブスのように失敗が9あってもひとつの成功が全体を救うような事業をやれないと、次の世界は開けていけないとも思う。日本の閉塞感というのは、突き詰めれば会議の効率性かもしれない。進んで失敗したくはないが、チキンハートでは生きていけないのではないか。
 関係無いが、カエルを水から温めていくと、沸騰するまで気づかず死んでしまうという話がある。実際にはカエルは熱くなる前に逃げ出すそうだ。カエルには出来るが人間には出来ないことがある。日本という集団にも本当に当てはまる話になるのかどうか…。
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