三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

4.朝鮮村

2006年05月28日 | 海南島
田独鉱山は、三亜市東方の郊外にあるが、三亜市北方の郊外に、朝鮮村という名の黎族の村がある。そこで殺害され埋められた1000人以上といわれる朝鮮人を偲んで村人が、解放後に村名を変えたのだという。『日軍侵崖暴行実録』には、日本軍は朝鮮の「政治犯」1000人を現在の朝鮮村にあった収容所で殺害した、と書かれている。
わたしたちは、海南島に着いた翌日、政治協商会議三亜市委員会の蔡文恵氏に案内されて、朝鮮村を訪れた。黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細氏(83歳)から話を聞かせていただくこともできた。周亜細氏自身も日本兵によって左足に傷を負わされたという。日本に戻ってから、わたしたちは、防衛研究図書館で、『海南警備府戦時日誌』(全30冊)をふくめ、数十冊の資料を点検したが、この事実の関係資料をみつけることができなかった。だが、橋正図書館では、いくつかの資料を探しだすことができた。その資料には、1943年から1944年にかけて、朝鮮から全獄中者の約1割の人びとが「南方派遣報国隊」の名で海南島に強制連行され、強制労働させられたという事実が示されていた(「南方派遣報国隊」は、海南島では「朝鮮報国隊」とよばれたという)。

さらにその後、わたしたちは韓国の記録保存所で、海南島に強制連行された獄中者に関する資料(名簿の一部など)を発見した。その名簿には、「治安維持法」違反の人も含まれていた。7月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、朝鮮村の虐殺現場のわずかな一部分を「発掘」し、7人の遺骸に対面した。取材班は遺骸を埋めもどし、祭祀をおこなった。

KBSの取材班をつうじて、わたしたちは、「南方派遣報国隊」の隊員として海南島に強制連行され、虐待され、朝鮮人虐殺を目撃した人が、韓国慶尚南道の固城におられることを知った。この人によれば、いったん「京城刑務所」に集められてから海南島に強制連行された獄中者のなかには、マラリアなどで病死した人も多かったという。8月31日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮のいのち」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。50年あまりがすぎたいま、ようやく海南島に朝鮮人獄中者が強制連行され命を奪われたという事実が、日本と韓国で明るみにだされようとしている。

5,民衆の持久的な抵抗とたたかい
日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、しばしば民衆を虐殺した。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、婦女暴行、掠奪、軍隊性奴隷強要……)のすべてを、日本軍は、1939年2月以降、海南島でもおこなった。抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。日本軍が海南島全域を占領・支配したことはなかった。1944年から、山岳部を中心に解放区が拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。
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