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「「反日」掲げ爆弾投げた日本人…49年たっての自首、死に際に残した言葉」

2024年02月16日 | 抗日・反日闘争
「The Hankyoreh」 2024-02-13 11:12
■「反日」掲げ爆弾投げた日本人…49年たっての自首、死に際に残した言葉
 日本の戦犯企業に対する「爆弾テロリスト」の生と死

【写真】東京の警察署前に貼ってある桐島聡の指名手配ポスター=東京/EPA・聯合ニュース

 「最期は本名で迎えたかった」。
 1970年代、「爆弾テロ」という日本の過激派武装闘争で世間を騒がせた「東アジア反日武装戦線」の組織員だった桐島聡は、指名手配から49年たって自首を選んだ。胃がんを患い、死をわずか4日後に控えた時点だった。事件当時21歳の大学生だった桐島は、「内田洋」という偽名で半世紀にわたる逃避生活をする間に70歳の老人となった。神奈川県鎌倉市のある病院に入院していた彼は、先月25日、病院関係者に自分が「桐島聡」であると知らせ、警察に通報するように頼んだ。自首の理由は、偽名ではなく自分の本名で死にたいということだった。
 「内田」という偽名を捨てた桐島は、先月29日に息を引き取った。日本の警視庁公安部は、彼が死亡する直前、医師の立ち会いのもと短い取調べを行った。桐島はその場で「(1970年代に犯した)事件について後悔している」、「他の組織員とは一切連絡せずにずっと一人で暮らした」と供述したという。
 警視庁は正確な身元を把握するために、桐島のDNAを複数の親族と照合した。結果は予想通り「親族関係であることに矛盾なし」というものだった。警察はより確実な物証を得るため、今月2日に桐島が住んでいた神奈川県藤沢市の自宅を捜索しノート1冊、証明写真、財布、月給明細書などを確保した。自宅からは半世紀前の武装戦線と関連した物品は出てこなかった。
 桐島は49年前、「日本帝国主義反対」を掲げて爆弾テロを行った東アジア反日武装戦線の組織員として活動した。この団体は、日本の植民地の責任を強く求め武装闘争に乗り出した、日本でも非常に異例な組織だ。強制動員被害者賠償問題によって韓国で「戦犯企業」と非難される三菱重工の東京本社ビルを、1974年8月14日に爆破した。8人が死亡し、376人もの人が負傷した。彼らはテロから1カ月後に発した声明で「三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である」と明らかにした。彼らの爆弾テロは、1975年5月に主要組織員らが逮捕されるまで、三井物産、大成建設など日本の「戦犯企業」へと続けて拡大した。組織員らは大学生や会社員など平凡な人たちだったため、さらに衝撃を与えた。
 桐島は1975年4月、東京の銀座にあった韓国産業経済研究所の爆破事件に関与した疑いで指名手配された。同研究所は1966年、日本生産性本部の傘下機関として設立された。武装戦線は、同機関が戦犯企業に韓国に関する情報を渡す拠点だと判断した。朝日新聞は「(桐島は)この事件への関与は否定し、他の爆破事件の関与を示唆した」と報じた。しかし、桐島が死亡したことで正確な事実関係は明らかにできなくなった。
 桐島の存在が世の中に知られると、世間の関心は彼が半世紀近い歳月をどのように生きたかに集中した。彼は指名手配の期間の多くを神奈川県藤沢市に暮らし、近くの土木会社に勤めた。日本各地に写真と共に「身長は160センチ、ひどい近視、唇が分厚く大きい」という人相が説明された手配リストが貼られたが、東京からさほど離れていない首都圏で平然と暮らしていたのだ。
 ただ、身元を確認しなければならない携帯電話、健康保険証、運転免許証などは所持していなかった。通帳を作ることができなかったのか、現金だけを使うなどアナログな生活をしてきたものと推定される。約1年前に胃がんの診断を受けたが、健康保険の恩恵を受けることができず、まともに治療を受けられなかったことが分かった。居住していた家もかなり劣悪だった。3坪ほどの大きさの部屋にはろくな家具もなく、使い捨ての弁当の容器などでいっぱいだったという。
 だからといって、桐島の人生が完全に孤立していたわけではない。家の近くの行きつけの飲み屋の関係者は、日本のメディアに「桐島は音楽、特にブルースが好きだった。うちの店でライブをする時は最前列に座って楽しんでいた」と証言した。銭湯の店主も「よく笑い、親切な人だった。悪い人には見えなかった」と話した。
 このような事実が知られ、桐島が自分の属していた武装戦線の1974年の教本を参考にしたのではないかという指摘も出ている。教本には爆弾製造だけでなく組織員の行動方針などが出ている。その中には「居住地で極端な秘密主義、閉鎖主義はむしろ危険だ。表面上は極めて普通の生活人として活動すること」などが記されていた。
 桐島の登場に非常に当惑したのは警視庁公安当局だ。時事通信は、「桐島は『国外に逃避した』という有力な情報があった。(公安当局は)正直日本にはいないと思っていたが、神奈川県に住んでいた。当局の大失敗」だと伝えた。これに先立ち、共犯である企業爆破事件の容疑者2人が国外に逃亡したことが確認された。しかし、容疑者らが逃亡したことで桐島は永遠に手配から逃れられなくなった。共犯の国外逃亡によって桐島の時効が停止となったからだ。
 桐島の親族は遺体の引き取りを拒否した。この場合、死亡した地域の地方自治体が火葬した後、無縁仏として寺に埋葬することになる。
 桐島の自首と死亡の火の粉は思いがけないところに飛んだ。今月1日、殺人未遂で指名手配中の暴力団幹部が匿名の通報で3年6カ月ぶりに長野県で逮捕された。今回捕まったのは警察が貼った指名手配ポスターで桐島の左隣にいた人物。日本の新聞やテレビなどは、桐島の顔が載った指名手配ポスターが連日報道されその隣りの人物も自然に露出した結果だと指摘した。日本の警視庁幹部はAERAに「指名手配された容疑者は大半が一般市民からの通報で捕まる。この逮捕は『桐島容疑者』のニュースが大きく報じられたことと関係が強い」と述べた。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-02-12 18:50
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