三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『慶北新聞』にたいする記事訂正要求(日本語訳文)

2014年09月04日 | 木本事件
 以下は、きのう(9月3日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が、『경북신문』(『慶北新聞』)に送った公開質問と記事訂正要求書の日本語訳文の全文です。

          三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会 佐藤正人


■『慶北新聞』貴中

  公開で質問するとともに、記事の訂正を求めます。

    
      2014年9月3日

      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
                      http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、『慶北新聞』に掲載された「91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き合う」と題する記事(入力: 2014年9月1日17:21)について批判し質問をするとともに、『慶北新聞』に記事の訂正を求めます。
 新聞記事を書く場合には、関連事項をできるだけ調査するのは当然のことです。
今回の記事を書くさいに、たとえば、Google.koreaで「熊野 木本 虐殺」を入力して検索すれば、最初に「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」がでてきます。
      http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/koreahibun.html
 「三重県 虐殺 朝鮮人 労働者 李基允 裵相度 追悼碑」を検索すれば、最初に「中国海南島 '朝鮮村' – 京郷新聞」がでてきます。
      http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201007111734425
 これらのどれを読んでも、記者は容易に正確な記事を書くことができました。

 以下に、記事のあやまりを具体的に指摘するとともに、どうしてこのような大きな過ちが数多い記事が書かれたのか、その原因を明らかにするとともに、訂正記事を発表することを求めます。
 このような誤った記事の社会的悪影響は大きいと思います。このような記事を書いた김희동 기자とそれを掲載した『慶北新聞』に社会的責任があります。

■1:「木本町には、いまも朝鮮人労働者が働いた現場がそのまま残っている。軍事用道路を作るためにトンネルを掘る工事であった」と書かれていますが、労働現場はそのままのかたちでは残されていません(1972年に内巻補強)。また、このトンネルは、三重県の県道であって、「軍事用道路」ではありません。

■2:「1920年、朝鮮人を強制的に連れてきて作業道具なしに素手で穴を掘らせた 」と書かれていますが、木本トンネルを掘った朝鮮人は、強制連行されてきた人たちではありません。「作業道具なしに……」というのも事実と違います。맨손で岩盤を掘ることはできません。朝鮮人たちは、襲撃されたとき、工事用のダイナマイトで反撃しています。現在も、トンネルの入り口付近の岩盤にはダイナマイト用の穴が残っています。

■3:「ささいな言い争いの果てに検票所の職員は彼を刃物で刺して殺害した」と書かれていますが、このとき朝鮮人は殺されていません。

■4: 「この時逃げる朝鮮労働者裵相度さんと李基允さんを銃で撃って殺した」と書かれていますが、裵相度さんと李基允さんは銃で殺されたのではなく在郷軍人あるいは消防組などによって、銃剣あるいは鳶口で刺殺されました。

■5:「最近、人影が少ない山で、数十年にもなった白骨が発見され、管轄警察が調査し、‘木本町事件'時の朝鮮人だと判明した」と書かれていますが、そのような事実はありません。

■6:「この事件をどの資料より詳細に記録しているのは‘熊野史誌’だ。この記録文には関東大地震2年後国家権力によって行なわれた事件だと断言している。木本町誌は熊野(區役所(區廳))で発見した国家の刊行誌だ」と書かれていますが、『熊野市史』という本はありますが、'熊野史誌'という名の本はありません。
 「木本町誌は熊野(區役所(區廳))で発見した国家の既刊誌である」という文は、この記事全体のデタラメさをよく示しています。「木本町誌」は実在しないだけでなく、町の歴史書が「国家の刊行誌」であることはありえないことです。
 これまで、木本虐殺についてもっとも詳細で包括的な論文は、1988年10月に発表された金靜美さんの「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」(『在日朝鮮人史研究』18号、在日朝鮮人運動史研究会)です。これは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会創立の契機となった論文であり、朴慶植さんが1978年に発表した「思想団体 北星会、一月会について」(『海峡』八号、朝鮮問題研究会。事件を、三重県木本町における「日本人町民らによる朝鮮人労働者虐殺事件」と規定している)と1979年に発表した「三重虐殺事件への抗議」(『八・一五解放前 在日朝鮮人運動史』三一書房)に続く論文でした。
『熊野市史』では、木本虐殺を「地元の住民の誠に素朴な愛町心の発露」であったとし、朝鮮人虐殺を正当化しています。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、創立いらい、長い間、熊野市と熊野市教育委員会に『熊野市史』の書き換えを要求する民衆運動を続けています。
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/b5c52f062e0be5923f3ccb5e7c7e8107
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/feb9d1cc77e3ef66c5c6334be7c98281
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/92185c35854e3c42489c756324a3a74f
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/082801567dbb1ecaa75e15541eb118bf
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/63a1b82dbdf3d80a786e6320dd66d980
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/12598fae7819e9333b8b28f3052a56d0
     http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/8b284398d4437b55ef58c45430244d46

■7:「昨年11月9日、金文吉教授は木本町で毎年開かれている朝鮮人虐殺追慕祭に参加して近隣現場を調査した」というのはいくらか事実を反映していますが、■8:「20年前、金教授は共同墓地に安置されていたのを発見し、毎年意を共にする日本人と제사(祭祀)を行っている」というのは、まったく事実ではありません。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、20年前の1994年11月20日から毎年秋に追悼集会と現地調査に開催しており、昨年11月9日に開かれた追悼集会と現地調査に、金文吉さんが参加したのは事実です。しかし、金文吉さんは、そのときはじめて参加したのであって、「20年前、金教授は共同墓地に安置されていたのを発見し……」ということはありえないことです。■7の記事内容と■8の記事内容は矛盾しています。
 「金教授は……毎年意を共にする日本人と제사(祭祀)を行っている」と書かれていますが、追悼集会(「제사(祭祀)」ではない)を毎年おこなっているのは、朝鮮人と日本人の民衆組織である三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会です。

 
 問題点はまだまだ多いですが、全体として、『慶北新聞』に掲載された「91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き合う」と題する記事は、木本虐殺の歴史的責任を問い、犠牲者を真に追悼する民衆運動の広がりと深まりを妨害する記事だと考えざるをえません。


 李基允氏と裵相度氏を追悼する碑文は、つぎのとおりです。

 一九二五年一月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじめられました。この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで二〇〇人の朝鮮人が働きに来ていました。
 工事が終わりに近づいた一九二六年一月二日、朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました。翌一月三日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏が殺されました。さらに木本警察署長の要請をうけて木本町長が召集した在郷軍人らの手によって、裵相度氏が路上で殺されました。
 そのときから三日間、木本町や近隣の村々(現熊野市)の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を追跡し、とらえました。
 木本トンネルは、地域の住民の生活を便利にするためのものでした。そのトンネルを掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民がおそい、ふたりを虐殺したのです。さらに、三重県当局は、旧木本町に住んでいたすべての朝鮮人を町から追い出したのです。
 李基允氏と相度氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした。
 朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流もうまれていました、裵相度氏の長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよい友だちもできていました。襲撃をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かったひともいました。
 わたしたしたちは、ふたたび故郷にかえることのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました。

    一九九四年一〇月
    三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
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