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2007年1月17日の産経新聞山梨版で、『「謙信公の塩」のお返し 新潟県民に特産品』という記事を読んで調べてみたら、山梨県観光振興協会ページに「塩のお返しプレゼント」の記事が出来ていました (このページはInternet Explorerでご覧ください、他のブラウザでは完全に表示できません)。

越後から送られた塩が松本に到着したのが、1568年(永禄11年)1月11日ということから、更に調べてみると、長野県松本市ホームページで、松本あめ市記事や、塩伝説に由来した伝統行事としての松本あめ市の紹介ページ、『上杉軍と武田軍に分かれ綱引き 松本あめ市で威勢よく』という2007年1月17日付けの信濃毎日新聞記事などが見つかりました。

「敵に塩を送る」と言う言葉は時々使われている言葉ですので私も知っていました。越後から山梨県まで届いたものとばかり思っていたのですが、松本までだったのだと、今回初めて知りました。松本から甲府まではどのようにして届いたのか、それはどのような方法で人々に配られたのかは未だわかりません。この史実が信玄堤のように人々の尊敬の源になっているかも知れません。引き続き調べてみたいと思います。


2007年1月21日の毎日新聞山梨版に、風林火山博のオープニングセレモニーでは、「敵に塩を送る」儀式も。武田信玄のライバルだった上杉謙信のおひざ元、新潟県上越市から「義の塩」が届けられ、初代当主が越後の国から甲斐の国に塩を持ち帰ったという吉字屋本店(甲府市中央4)18代目、高野総一氏が受け取った、とありました。
吉字屋本店ホームページには、以下のことが書かれています。

この際、武田信玄の命を受け越後産塩の取り引きに使いしたのが塩屋孫左衛門(初代)で、無事信州松本まで塩を持ち帰ったのが永禄11年(1568年)正月11日、甲府に帰着したのが同14日であったとされています。
 この越後塩移入の努めを果たし、国内の塩飢饉を救った活躍に対し、信玄公より当時の甲斐の国の通貨「甲州金」の裏刻印である「吉」の字を屋号として贈られ、「吉字屋」が誕生しました。

どうして甲府ではなく松本だったのかが、未だ分からないのですが、「国内の塩飢饉を救った」という点から読み取れば、荷駄か荷車かの一部が最初におろされたのが松本で残りが甲府まで運ばれたということかも知れません。そして以後は「戦時中」にもかかわらず人道的配慮により武田-上杉間の「塩の貿易」はビジネスベースで継続したという事が考えられます。



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