小さな双眼鏡

2014年10月14日(火)
小さな双眼鏡

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昼休みの散歩に出て駅前の中古カメラ屋を覗いたら、ガラスケースの片隅にミノルタカメラ製の 8×18 双眼鏡が出ていた。

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ミノルタはカメラだけでなく双眼鏡も作っていたが、カメラ部門をソニーに売却した際、双眼鏡部門をケンコーに売却した。この機種は売却前、ミノルタとコニカが合併した頃に作られたらしく、本体は MINOLTA と書かれているが Konica のストラップが付いている。

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視野が円形ではなく矩形に見える構造により薄く、左右に伸縮する構造によってコンパクトにできている。この時期ミノルタが出していた屈折光学系デジタルカメラのような雰囲気がある。

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デジタルのコンパクトカメラに 30 倍ズームが付くような時代になったので、望遠鏡を持ち歩かなくなって久しい。親たちの介護が始まってから、日常を忘れるような旅をする機会がなくなったせいもある。

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久し振りに双眼鏡を覗いたら、望遠鏡や望遠レンズと違って、立体視ができる双眼鏡の楽しさを思い出した。台風通過後の強風でゆさゆさ揺れる樹木の中に鳥の姿を探してみたら、動く葉の重なりという奥行きある世界にゾクッとした。

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寿司の気持ち

2014年10月13日(体育の日)
寿司の気持ち

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買い物がてら散歩する近所の商店街は、はずれまで行くとシャッターが下りていて開いている店のほうが少ない。学生時代は移転した国立大学キャンパスもあったのでもっと賑やかな街だった。

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巻き寿司や稲荷寿司やおにぎりを作って売っている店があり、台風接近中の祭日とも重なって、人通りがないのに頑張って店を開けていた。店頭に小さな台を並べて詰め合わせを売っており、いろいろな組み合わせでひとパックどれでも320円。心細そうな寿司の気持ちが思い遣られ、売り上げに協力したくなったので帰りに寄ってみた。

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帰りに寄ったらなんと往路で見たとき6パックあったのが残りふたつになっており、そのうちひとつを買ったので残りは一つになって、めでたく完売が近い。人の気配はなくとも、どこからか人が現れては買っていくらしい。

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帰宅して食べてみたらたいへん美味しい。小豆おこわの炊け具合、太巻き寿司の品の良さ、稲荷寿司の揚げの煮かたなど、どこをとっても非の打ち所がない。こういう店が近所にあったら昼食は毎日これでもいいな、こういう店が近所にある人は幸せだなと思ったが、考えてみたらそういう幸せな人たちがささっとやって来ては買っているわけで、意外に人気店なのかも知れない。

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賜死と分裂

2014年10月13日(月)
賜死と分裂

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質問攻めの上手い妻と NHK 大河ドラマを観ていたら、利休賜死(しし)の原因について真偽を問われたので、そういう説もあるらしいねと答えておいた。諸説の存在は知っていても、その真偽については知らない。

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諸説の真偽を知らないかわりに、自分で自分の身体と心の繋がりを断つ行為について余分な話をしようかと思ったけれど、ドラマの話が佳境にさしかかっていて煙たがられるのでやめた。

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諸説の存在は知っていても、その真偽については知らないという事態は、自我が自分そのものであることは確信していても、身体のすべてが自分であることは疑わしいのに似ている。

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生命の存在を損なう病気を宣告されて、なぜそんな部位の病気で自我が損なわれなくてはいけないのかと思った時、出来得るなら人は身体の部分切除を選択する。外科手術による自我防衛。

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究極の自我消滅という危機に直面した時、人は生物学的生命である身体全体を失っても、自我の存続に賭けることがある。自らすすんで生物学的生命を断つという、永遠の生への情動とはそういうことだ。

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そのまま話さずに寝てしまい、目が覚めても話そうと思ったことは覚えているのでここに書いておいたが、それでちょうど良い程度の話だ。以上、余分なことながら(司馬遼太郎風)

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キッチュとマジ

2014年10月12日(日)
キッチュとマジ

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"キッチュ (ドイツ語: Kitsch) とは、「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」を積極的に利用し評価する美意識である。" とウィキペディアにあるが、言っていることがよくわからない。

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簡潔に言えば、キッチュというのは直喩による隠喩である。ある場所に違和を生じるようなあからさまで露骨な直喩であることで、実はそれに隠喩が含まれているということを気付かせる表現様式のことである。

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表現様式なので表現される場が変われば、ある場所でキッチュであった表現物も、別の場所に置かれればキッチュたり得ない事態が生じるわけで、そうなったものを若者風に言えば「それってマジじゃん」ということになる。

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マジであることを許さない仲間うちだけでキッチュという “美意識” を感じるキッチュ愛好趣味のことを、ウィキペディアはキッチュそのものの定義としているわけだ。マジで受け取ってはいけない。

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野立

2014年10月11日(土)
野立

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昭和の時代の汽車旅で深く刻まれた記憶として、自然の中に据え付けられた野立て看板がある。今でも眺望がきく新幹線車窓から、化粧品メーカーなどの野立て看板を見かけるあれだ。略して野立(のだて)と呼ぶ。

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東京オリンピック前の東海道本線は下り電車に乗って大船あたりを過ぎると、車窓風景は田んぼばかりで、窓を開けて風を入れると野ツボのにおいがした。日暮れて着く辻堂などは、暗くてひどく寂しい駅だった。

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線路沿いにまだ住宅がたて込んでおらず遠くまで見通しがきくので、田んぼの真ん中や山の上にはたくさんの野立て看板が据え付けられていた。よく見かけたのが「ふとん」や「わた」の大型看板で、尻の痛い汽車旅に効果的と考えたのだろう。

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田んぼやその背景にある里山に、巨大な文字看板が忽然とあるのは不気味なものだ。そばで見たら驚くほど巨大な看板を、いったい誰があんな場所まで運んで立てたのだろうと思うと、背筋がゾッとするような不気味さがあった。

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高度経済成長で家庭に電化製品が急速に普及した時代、一番不気味に思えたのが鉛筆のように細長い家を模した立体看板で、屋根の上にはテレビアンテナがあり、側面には「テレビはナショナル」などと書かれていたように思う。

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そんなことはあり得ないと思っても、その家型野立て看板を見るたびに、寂しい田んぼの真ん中に立つ鉛筆型家屋の中に、一人ずつナショナルの社員が入って、立ったままテレビを見ている陰惨な仕事を連想してしまうのだった。

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野点(のだて)に風趣を感じるように、野立にも喚起される想念がある。野立て看板は、金儲けを希求する情念をむき出しにして景観の中に据え付けたもので、なりふり構わぬ高度経済成長期にそれを嫌というほど見たので、今でもひどく不気味なものだと思う。

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金属製看板のある山沿いの道

2014年10月10日(金)

金属製看板のある山沿いの道

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編集会議で静岡帰省した(2014/10/08)。わが家の墓がある清水区大内の保蟹寺は、山裾の崩落危険地域にあるので、台風18号の被害がないか、ちょっと心配になって墓参りに寄ってみた。

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保蟹寺入口前の小道は何代も前の東海道とも言える古道で、山さえ崩れなければ水のつきにくい場所なので、かつて入口脇には高部村役場、その奥に高部小学校の前身があった。水害の模様が全国ニュースで報じられた大内地区だけれど、この古道と山側はやはりぎりぎりで冠水を免れていた。

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今でも当時の古い石積みが、ずっと高部ゴルフの方まで古道沿いに残っている。先ごろ、保蟹寺は駐車場を整備したが、このあたりは石積みの技能を持つ人が多くて、整備工事もすべて檀家の人たちがやってしまったと住職が話していた。

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そういう古い道なので、昭和の時代は人通りがそこそこあり、商店もあったことを覚えている。道沿いの建物には、古い金属製看板が残っていて、今はもうない掲載主が多く、清水市繁盛記の物言わぬ語り手となっている。

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ただいま

2014年10月9日(木)
ただいま

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生まれ故郷に帰省すると「ただいま」と言いたい気分になる。実家に母親が生きていた頃は「ただいま」を声に出して言うべき場所がちゃんとあった。実家も母親もなくなってからは、声に出せなくなったので心の中で呟いている。

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清水駅に着き、橋上駅舎改札を出て正面に富士山が見えると「ただいま」の思いが溢れるし、そうでなければ江尻口のロータリーに出た時、もしくはみなと口を出て江尻船溜りの岸壁に立った時、自然に「ただいま」の言葉が心に浮かぶ。

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清水ではなく静岡駅が帰省先になるときは、足が自然に南口へと向いてしまう。おにぎりの『まるしま』に行って「おにぎりセット」を注文すると、そこに「ただいま」の置き場所がある。

|好きなおにぎりを二つ選び、味噌汁とお新香が付いて300円。お米が美味しい(2014/10/08)|

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昔ながらのテーブルと椅子で食事をしながら奥の座敷の仏壇が見えると、中の仏さまのことは知らないけれど、心の中でチーンとリンを鳴らし「ただいま帰りました」と手を合わせたくなる。

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言葉に出して書いてしまうと馬鹿馬鹿しくも恥ずかしのだけれど、見ず知らずの家に上がり込んでまず「仏さまを拝ませていただいてよろしいでしょうか」などと言う寅さん的な心情が、自分の中にも極めて日本人的な感性としてあるのだと思う。

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任意の住居

2014年10月8日(火)
任意の住居

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ヴァレリーがテスト氏の住まい、家具付き貸部屋を見て、その調度の素っ気なさに驚き、“まるで観念的存在のように置かれているだけ” だと言う。

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“それは任意の住居であった。数学でいうところの任意の点と同じ意味の、——そしておそらくそれと同じように有効な、任意の住居。”

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そして “これが自分のついの住処かと思うだけで慄然としたものだった” と言う。こんな純粋にして平凡な場所で無限の哀しみに耐えることなどできそうにないと。

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自分に引き戻してみると、幼い頃知り合いをたらい回しに預けられて過ごしたので、どんな場所でも自分の居場所と思い定めて暮らすということに慣れている。調度などそもそも借り物であり、床さえ確保できれば人はなんとかなる。

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刑務所やカプセルホテルや仮設の住まいでも、そこが居場所と思い定まれば、たとえ恣意的な暮らしの痕跡によって孤愁への防御ができなくても、漂う任意の点として生きていける気がする。

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昔、大規模災害で家を失い、仮設住宅で暮らす欧米人をニュースで見たが、仮住まいに対する不満の詳細が日本人と大きく隔たっていることにびっくりした。日本人はもともと任意の住居に対する耐性が高い民族なのだろう。

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“やれやれ! この地球はどこもかしこも標識が付いている。ありとある国旗が、ありとある地所に何かひとつひるがえっている…… 残るはわがベッドのみ”(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳)

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「あなたも、ですよ」

2014年10月7日(火)
「あなたも、ですよ」

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夕暮れの郵便ポストに文庫本、ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳が届いていた。

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未明に目が覚めたので最初の一編をちょっと読んでみたらおもしろくて、傍線引きと書き込みをしながらもう一度読んでしまった。

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なんでポール・ヴァレリーを読んでみる気になったかというと、中井久夫が若い頃、医者になるかヴァレリー研究者になるか迷ったという話を読んだからで、中井久夫が迷うほどなら読んでみたいと思ったのだ。

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ムッシュー・テストはヴァレリーが作り出した自分自身の分身で、自分を二人の人間に分裂させて対話することによって、答えの出ない不可能な思索を可能にしている。

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 “「ひとりの人間に何ができるか?…… ひとりの人間に何ができるかというんです!……」彼はわたしに言った、「自分が何を言っているのかわかってない、ということがわかっている人間!──そういう人間がひとり、あなたの知り合いなんだ!」 ” (ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳)

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 “自分が何を言っているのかわかってない、ということがわかっている人間! ” という、人間が神のみぞ知るような究極の真実を突き詰めて考えるとき、必ずぶつかる矛盾が「私と分身」の関係によって乗り超えられているように読めてしまう。

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 “彼は言いそえた。「照明があの連中をつかまえている」
わたしは笑いながら言った。「あなたも、でしょう?」
彼が答えた。「あなたも、ですよ」
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳)” 
うまい方法を考えたものだ。

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違法の黄色い靴(チューリップ風)

2014年10月6日(月)
違法の黄色い靴(チューリップ風)

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黄色い雨靴が気に入ったので買い、雨降りなので履いて出たら、自転車に乗って通りかかった警官に呼び止められ
「そういう靴は軽犯罪法に抵触するおそれがあります。今回はまあ大目に見るけれど、今後は履かないようにしてくださいね!」
と言うのでびっくりした。びっくりした勢いで
「はぁ」
と頷いてしまい、警官はまた自転車を漕いで行ってしまった。

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駅に向かって歩いていたらだんだん腹が立ってきたので駒込駅前の交番に行き、
「さっき通りかかった警官に、この靴は違法だから履くなと言われたんですけど、そんなバカな話がありますか?」
と聞いたら、交番の警官が腰をかがめて覗き込み、
「ははぁ、失礼ですがもう18歳以上になられてますよね?」
というので、バカにするのもほどほどにしろと怒鳴ろうとして目がさめた。

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あめとからすとにちようび

2014年10月6日(月)
あめとからすとにちようび

ひねくれあめのふるなかを

ひねくれおばばのすむいえに

ひねくれかさをてにもって

ひねくれながらむかいます

ひねくれからすがあめのなか

ひねくれわらいをするように 

ひねくれながらないてます

ちいさなひねくれにちようび

ひねくれたいふうせっきんちゅう


(「マザー・グース」風)


 

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流れを変える

2014年10月5日(日)
流れを変える

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久しぶりに清水の実家に帰ったら、アリが室内に巣穴を作っていた。穴を覗き込むと、虫の死骸などを運んでいるアリたちが見える。

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家の中を歩き回られては困ると思い、脇にある小川の流れに、拾った瓦で堰を作ってやったら、水が勢いよく巣穴に流れ込むようになった。

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突然の浸水に驚き、慌てふためいて逃げ惑うアリたちを想像すると胸が痛む。小さなアリたちにもかけがえのない命がある。

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だが、こうなったのも元はと言えば室内に巣穴を作ったアリの方が悪いのだ。そう思って気持ちの流れも変え、アリのことはもう考えないようにする夢を見た。

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はいアリナミン

2014年10月4日(土)
はいアリナミン

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床屋に行くとさっぱりして気持ちがいい。気持ちがいいのだけれど、子どもの頃はシャンプー後のマッサージだけがこそばゆくて嫌で、それはやらなくていいですと言うのも悪いので、奥歯を噛み締めて我慢した。

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最近はそのマッサージがひどく気持ちよくてうっとりし、もっともっとやってと言うのも悪いので、目を閉じて我慢している。テニスの試合中に臀部の痛みを訴えてマッサージを受ける錦織圭選手を見るとひどく羨ましい。

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そういうジジくさい人間になってしまったのは歳をとったせいばかりでもなく、どうやら飲酒によるビタミン B1 欠乏で関節や筋肉が弱っているらしい。

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そういえば静岡県清水市で飲み屋をやっていた母親はよくアリナミンを飲んでいた。毎晩酒飲みの相手をするので、これを飲んでおくといいと薦められたというのだが、どうやら客の中に武田薬品清水工場勤務者がいたらしい。

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そんなわけで母親が上京する際の手土産には、いつも大量のアリナミンがあった。疲れがたまったら「はいアリナミン」、体の節々が痛くなったら「はいアリナミン」、風邪をひきかけたら「はいアリナミン」、二日酔いにも「はいアリナミン」という、なんでもアリナミン万能論者になっていた。

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毎晩酒を飲んでいるので、最近は朝起きるときなど「いてててて…」と声が出る。母親が健在ならすかさず「はいアリナミン」のはずなので、初めて自前でアリナミンを買ってみようかと思う。

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過熱そして冷却または忘却とやりくり

2014年10月3日(金)
過熱そして冷却または忘却とやりくり

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難しい本を読むと眠くなるのは、パソコン内部で CPU が過熱して冷却ファンが回るのに似ている。陰暦の月初めに見える細い月、新月とはどういう現象かを図解なしで説明する文章を読んでいたら、いまもスイッチが入って頭の中でファンが回っている。

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人にはそれぞれ思考の見通しがきく範囲、パソコンで言ったら処理能力の限界があり、その範囲を超えた内容に出会って負荷が高くなると急に眠くなる。眠いのを我慢してページ数を稼ぐと、読み終えてもほとんど頭に入っていないことが多い。眠気の中を強行突破するのは暴走に等しいのだろう。

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むかし、パソコンオタクの象徴としてプロペラがてっぺんについた帽子をかぶったハッカーたちの写真をよく見かけた。プロペラヘッドといって、頭の回転の速さを誇示しているという説を聞いたけれど、「冷却ファンが必要なほど」と考えると理解できる。

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眠くなったらいったん本を離れて休憩し、冷却が終わったら理解可能だったあたりまで数ページ戻り、改めて読みなおしてみると眠くなった時点を無事通過していることが多い。頭の中でもパソコン同様に解放や統合が起こって、なけなしの能力を有効活用するやりくりが試みられているのだろう。歳をとって物忘れをするようになるのも、記憶力のやりくりという、自分を守るありがたい仕組みなのかもしれない。

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読書と密室

2014年10月2日(木)
読書と密室

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未明に目がさめて寝転んだまま本を読むのは、身体を起こして、その状態を保持する分のエネルギーが読書力に振り替えられるので、エネルギー効率がよい。またそういう余勢を借りないと読み抜けられない本というのがある。

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昼間は自分の外側と内側の騒音が邪魔して、どうしても集中して読みにくい本もあり、そういうのは密室向きの本なのだろう。読みかけて密室向きだと判断した本は、電子書籍版があればそちらも買いなおしている。たとえば開高健の本は自分にとって密室向きである。

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眠っていることは死んでいることに近くて、眠ってしまうのは死んだふりをすることである。眠くなったらいつでも眠りに逃げ込める体勢だからこそ読める本もあり、哲学の本はほとんどが密室向きである。哲学などしているのは死んでいるのに近い。

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密室向きの本は電子書籍リーダーに突っ込んで枕元に置いて寝ることにしている。時々外出時のカバンに突っ込んで持ち出してみるけれど、やはり密室で横になってでないと読めない本ばかりで明るい外の世界では読めない。生きているときにするべきことがほかに多すぎるのだろう。

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