湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

県人材育成センター「産業人材育成フォーラム」分科会参加して/タオルケットは凶器です

2009-06-10 13:16:14 | 引きこもり
父のデイサービスの日だと言うのに寝坊をしてしまった。傾聴が3時台にあって、4時過ぎには終わるというか、息苦しい思いを受け止めている最中、父の呼び声が聞こえ、中断を余儀なくされてしまったのだった。これは傾聴の仕事にとっては一番いけない行為だった。命を搾るように語る方の告白を中断したときのダメージを考えてもらえば分かるだろう。

幸い今回は、古参旗の台君の通院などの事務的な近況報告を受けている最中だった。先方が事情を知っているので、謝って中断させてもらった。

父はベッド上で眠っていた。「何だろう、寝言かな」と思って近づいてみて慌てた。どの様に寝返りを打ったのだろう、汚れた毛布の代わりに出した、規格外に大きいタオルケットが、ひも状に足とベッド柵に巻きつき、丁度、柱に縛り付けられていたかの様だった。戦いをしたのだろう、巻きつかれていた足首の色が変わってしまった。

タオルケットをはずすのが、これまた大騒動だった。父は寝返り回転が出来ない。うつ伏せになれないのだった。そのためにタオルケットを緩める作業は、父の下半身の位置を持ち上げる必要があった。がむしゃらに足を引いて暴れるから、少し位置を変えても事態は元に戻ってしまうのだった。我慢して緩めていてくれれば、ベッド柵がはずせ、タオルケットがはずせると思ったのだった。ところが考えてみれば、ベッド柵をはずしたとき、父のがむしゃらの蹴りに左右への寝返りが加わり、介護者もろとも怪我をする可能性があった。

母を起こして父を押さえることも考えたが、母の力では押さえつけることは無理だった。思案の末、「これから危ないことをするから、ここのベッドにしっかりしがみついて!!」と緊迫した声を父に掛けて背中をこづいた。対角線上のベッド柵に父の関心をそらしたのだった。瞬間勝負だった。

タオルケットを挟み込んでいるベッド柵を全力で引き抜き、柵を抱え込んだ。私の腕を蹴る父。…何とかはずすことが出来た。父を落ちつかせて、タオルケットをはずした。

眼鏡が床に落ち、ねっとりとした暖かい液体が腕を伝わってきた。父の尿だった。私は父の介護をするとき、下着になることにしている。汚れるからだ。今回の格闘もそれがよかった。半そでだとひっかかれる可能性が大きいので、いっちょうらのTシャツを着込んだ。私はTシャツ文化圏外の人間なので、こういうことが起きる。

作業用の防水紙シートを父の腰周辺に吸水面を下に敷き、掃除用の使い捨てアルコールパッドを使って臀部を清拭。(油を取りすぎて肌によくないが、こういうときは、ぼろ布よりは始末がいい。)紙パンツ交換と着替えをさせて、次のシーツ交換のために、父を椅子に座らせようとして、はたと困った。長時間縛られていた足首の色が悪くなっていた。このまま立たせれば転倒する。このまま足首を放置してはいけない。そう判断し、私の上半身をアルコールパッドで拭いて、湯沸かし器から熱湯をくみ出し、茶の間から電子ポッドの湯の残りを継ぎ足して、湯が入ったバケツを2階に持ち出し、ボロ布をつかって、足首の清拭をしながら温湿布を行いマッサージを施した。さすがに父は抵抗しなかった。

騒ぎを感じ取り、母が様子を見に来た。緊張する父。母は感情的に父を叩くからだ。湯に足を浸け、足湯したらどうかと母。湯量が少し足らなかったが、座位を取らせベッド高を下げて足を暖めた。

ふたりいれば、椅子へと移すことが出来るだろうというところまで、足湯は時間をかけた。シーツ交換を済ませて、父を横たわらせる頃には4時30分を少し回っていた。汚物ゴミを庭先のペール缶に捨て、シャワーを浴びて、シーツと着替えを洗濯し終えたら5時を過ぎていた。

8時30分にはデイサービスのための階段介助のヘルパーさんが来てしまう。父の朝食の素材の下ごしらえを用心のために作ってから、仮眠した。

案の定、寝坊。下ごしらえ策成功で、ヘルパーさんが着替えをさせている10分の間に冷麺を作って、父に食べさせた。父が食べ終えた3分後には、「まもなく迎えの車が到着する」という電話連絡が来るという具合だった。父は興奮していた。「やってはいけない」と毎回制止している階段下の襖を握り締めようとし、手を押さえつけて、ひと悶着あったものの無事送り出すことができた。

墓石屋のCM電話が入ったり、介護用品屋の奇襲があったり、結局また眠ることができなかった。睡眠時間との気力の戦いが介護なのである。

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昨日は県人材育成センターの「産業人材育成フォーラム」があった。能開校系の企画。私は「不透明な社会で不安を抱える若者の対処支援プログラム開発分科会」に登録していた。いわゆる社会運動系とは違う、行政外注を請負うプロ組織の会合のようなものなので、場違い参加なのだが、分科会が「企業側のプログラム開発を目的とする」と狭く対象設定していることに対し、私は行政と行政協働の社会活動に対してもモデル提案していくという「相手を広げること」を主張し、参加している。

障がい者畑の方や、行政関係の引きこもり青年も担当している就労相談関係・大学心理カウンセラーの参加もあり、いわゆる企業コンサルや、産業カウンセリングの立場からはみだす方の参加があるので、空転ですべてが終わるとは思わないのだが、社会現象を「職場マッチング」・「心理歪み修復」に切り詰めることはおかしいのだが、「今、自分の出来る専門性」という言い方でこの点はすりぬけられていくことは、目に見えていた。しかし、分科会が対象とする相手を「実績の延長ではなく拡張していくべき」という論で話す価値はあると思っている。能開校のテリトリーが暗にあるのだろうが、そんな訳で、異分子が入り込んだ状態は昨年来ずっと続いている。

私は喫煙問題の始末を出先に相談されていた。美容師の希望を持って、縁故の店でバイトしながら、大学をやめて専門学校に移ろうとしていた青年だった。店の仕事中の喫煙が問題になっていた。「仕事中の禁煙が守れない位なら仕事は続かないから、この道、やめろ」と説教されたと怒りをぶつけてきていた。

私は応えずに、本校で会うことに。時間をかせいだ。私は狸。

それはそうと切り替えて、父の昼食の下膳を済ませて、とにかく家を飛び出した。新年度初回というのに、名刺を忘れた。しょうもない話。分科会も今年度初の20分遅刻となった。

分科会は、会の参加者の自己紹介と、会の目的と内容の原案確認とその修正議論で終わり、最後に座長を選出した。

第二部は「今どきの若者の活かし方~若者の気質とアプローチの仕方~」(大泊剛氏 人材育成学会副会長・(株)人事工学研究所所長)の講演会だった。「民間なんですよね」という雰囲気は私だけ。タイトルをみただけで、職業研修。不況で非正規の解雇、正社員の配転・解雇と連鎖倒産の圧力がかかる現場で、仕事のやる気一般をどう植え付け、企業にマッチングさせていくかという手法を、講演者は、あれこれ解説されていた。火事場の説教のような気がする。

行政外注職系の実情をまさに見聞している感あり。

母に電話。父の食事を頼み、(食事時間が)遅れるが、母と私の分は職場に立ち寄ってから帰るので任せろと伝えた。喫煙問題君と会うためである。

本校に着くと、すぐに喫煙問題君の母親から電話がかかってきた。柱を蹴飛ばしているから、そちらにはいかないと思うとの話。実は想定どおりだった。日録を書いて、タイムカードを押して帰宅した。

仕事を通じて「かけがいの無い他者」に出会わないと、本当にやりたい仕事といううものは出てきてくれない。幸い彼は適職のようなセンスを持ち合わせている。彼もそれに気付いているから蹴飛ばす。夜に電話しておいでと伝言を頼んだ。

夜間傾聴:旗の台君(仮名・中断陳謝)
     自由が丘夫妻(仮名・おひさしぶり)

(校正2回目済み)
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Big Issue を支える当事者自助団体「あすなろ会」会則が完成し/県人材育成センター研究会開始

2009-06-09 12:41:55 | 引きこもり
--- 昨日は体調不良で、作成を原稿途中で諦めました。今回の記事は、連続して書き足しています。

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父が帰ってくる。留守の間に始末してしまおうと思っていた家事は、必ずといっていいほど残ってしまう。いやなことは残る。だから実は時間があっても片付かないものなのだが、その辺は諦めが肝心。

母は完全に体調を崩していた。父が帰ってくれば、その日一日は後始末と父のふて寝対策攻防となる。この周期が嫌で、手術後の胃の内容物逆流か、朝、嘔吐していた。それにもかかわらず、無理を押して父の帰る直前にいつの間にか出かけてしまった。後になって分かったことだが、母は胃を手術をした大学病院で、足のつりや、ひどくなった肩のこりなどの後遺症の診察・検査の予約をしていたのだった。

父はそんな家族のことには無頓着。自分を通していく。階段の手すりにしがみついたときは、ホームヘルパーさんや私の指示は見事に吹き飛ばして、動き出してしまう。動かなくなった側の足の階段の踏み込みが浅いために、段を踏み外す危険があっても、介護者は、手綱のように支える「腕力の調子」の変化を通じないと、掛け声指示などは、父には意味を成さない。

階段昇降の冷や汗をかく回数が増えると、ベテランが介助に来ることが減る。代わりの新人さんは、技術はあっても現場の手順を知らない。その隙間を埋めるために、素人の私がテンポを取ることになる。その混乱の中、父が足を踏み外す。私が危険を予想して矯正的な力を加え、力技で崩れを防ぎながら階段を上っていく。

今回は、父の体調も芳しくないにも関わらず、父は焦っていた。ホームからの帰り、尿意を我慢していたのだった。それを私達は察知できたが、紙パンツの中にしても平気な尿取りパッドを加えてあったから、処理は2階ですませるつもりでいた。しかし父には、それは失敗でしかなく、周囲に尿をこぼしても紙パンツは濡らすまいとあがくのだった。

左右に身体を大きく崩しながら、加えて今回は1度、後ろに転倒しながら、父は無我夢中で階段上の歩行器にしがみついた。

ここで問題が起こった。父は無意識に周囲にしがみつく。階段手すりを握り締めたまま、効かない側の手で歩行器を握り締めた時だった。次の行為に移ろうとしたとき動けなくなった。手すりを持つその手を、なぜかはずすことができないのだった。奇妙な光景だった。父は身体を振った勢いで、手すりの手を振りほどこうとしていた。その結果、父の身体は崩れ、歩行器を引き倒しヘルパーさんにぶつかった。

危なかった。あと数段で上がりきる状態だったから、転落すれば落差が大きいので命の問題になるところだった。「一度立とう!」と声をかけた。父は手の力にすがり、足で立つことを忘れていた。効き足が踏ん張った。ヘルパーさんは、歩行器が階段を落ちていくことを阻止。私は投げ技を父にかけるようにして、体勢をたてなおした。

一度握りしめてしまうと、自分の意志で手を放すことが出来なくなるという場面を体験させられた。「一度立とう」という指示は、父の虚を突く意味で放った言葉だった。この指示は正しかったのか、父の腰に両手を取られている私が、父の手足にどう関わればいいのか、強引に解決した危うい場面のことを、今も場面を反芻して考えている。

父は歩行器を押し出すように使うが、歩行器は本来、一歩一歩、その都度「持ち上げて」進む。歩行器の足の車輪がついていないタイプは押し出せば抵抗する。歩行器を背の高いものにしたのは安定していて正解だった。歩行器を使う父は、前傾して倒れこむように使っていたから、背の高い歩行器になって、前傾姿勢が直ったのだった。

父はポータブルトイレの蓋をあけて戸惑った。U字型の手すりが、父とトイレの間を阻んでいたからだった。とっさにヘルパーさんが歩行器を抜き去り、私が父をトイレに近づけて、放尿は無事に終わらせることが出来た。

日々の容態の一進一退を重ねながらも、背後で進行するのが「老い」。父のあざだらけの臀部を眺めていた。父がそのままベッドに移動しようとするのを制止して、ズボンを上げる。とたんにヘルパーさんは、屁を浴びることになった。怒りと嘆きが拮抗しながら私達を通り過ぎていく。それに気付かない父。育児のケアとの距離はどうだろう。高齢者介護は、「送るためのもの」なのだと、偏屈に背を向けて横たわる父の背中を睨みつけた。

今回も無事に階段介助を終えた。ヘルパーさんは、危険な場面のとき、父は危険な事態に意識が向かっているのではなく、階段の天窓をぼんやり見ていたのだと教えてくれた。私は押し上げ屋、足に意識が集中し、父の顔面は見えない。私は「すみませんねえ」といいながら、歯を食いしばり、実に「機械的に」日録に印を押して手渡していた。

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Big Issue 販売再開の準備を進めている。16時に販売候補のTさんと待ち合わせていた。寝息を立てている父の傍らに、お茶とバナナを一房置いて、階段下にバリケードを築いた。そっと玄関に鍵をかけ、二階を眺めた。すでに非常用ボタンは首から下げているから大丈夫と、自分に言い聞かせながら、約束の茅ヶ崎サポセンに急いだ。

1時間もすれば、母が戻ってくる。父をひとりにしている旨のメールを母に送り、到着した茅ヶ崎駅前で、アル中の路上生活者++さんに会釈。Tさんに連絡ノートを手渡してくれたお礼の挨拶だった。

今日は、Tさんが名づけた当事者の自助団体「あすなろ会」の会則確認だった。文面が硬く、洗練されていないが、できるだけ風通しの良い規則を心がけた。たとえば、役員以外に「正会員」は設けず、企画に協力または参加する当事者、「企画会員」を「正会員」の位置に置いた。役員以外、住所はねぐらの住所の末尾に「路上」とし、名前も通称を許した。

そういう路上生活者の自助組織の芽が撒かれる。Big Issue のような具体的な日々の活動が無ければ、まず結集は無理だ。Tさんと話し合いながら、会則が誕生した。これを協力してくれたポルト湘南さんに届けることになった。ポルト湘南さんは、生活支援を行っている。山積する問題を聞くにつけ、底無し沼を感じている。ご協力に感謝。数日中にお邪魔することに。

併行して「あすなろ会」がサポセンの登録団体になる。私はTさんのバックアップに徹する。これで私の本来の畑「引きこもり」青年への活動に、**君の自殺後、消えかけていたネットカフェ巡回を再開することにした。Tさんの活動との接点でもある。これも「わーく」編集部の活動である。

Tさんとの話し合いを終えて、サポセンをでるところで、窓口スタッフの%%さんから、茅ヶ崎駅頭の女性の路上生活者の方の病状について情報をいただいた。この女性は茅ヶ崎駅頭の古参。事情があって路上に出てきているが、見守る以外にない状態が続いている。進言してくださったが手が出ないのが現状。%%さんにお礼を告げつつ、帰り道、Tさんが、もっとすごい状態のひとが、沢山隠れているのですけどねと語った。

昔は地域の空き缶ゴミ回収をすることができた。それも自治会費の財源だからと、拾うことが犯罪にされてしまう、丁寧に社会の隙間に目張りしてしまう閉鎖と排除の社会。路上販売も違反と追い立てリターンマッチの機会を奪いながら、やる気の無い脱落者のレッテルを貼り続ける生き方には組しないとつぶやいていた。

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家に戻ると、父の呼ぶ声がした。またかと2階にあがっていくと、どこから出してきたのかわからない昔の栄養剤の錠剤が部屋中に飛び散っていた。下半身は裸だった。パジャマのズボンが濡れて不快だから、部屋中を家捜しした。そのとき奥に眠っていたサプリメントを見つけ、蓋を開け損なったのだった。少なくとも二十年は昔のものだった。それを拾おうとして、周囲のものをしがみついて全部落としてしまった。

うんざりしながら、錠剤を拾っているとそれを呑もうとするので制止した。冷や汗をかいた。そのサプリがあった引き出しの奥には古い「解熱剤」と「風邪薬」が入っていたからだった。椅子の上に乗らなければ開けられない天袋戸棚を父は開けていた。天袋戸棚は手が届かないからと放置していた。椅子の上に立ったのは明らかだった。照明を直すとベッドの上に立ち上がって転げ落ちたばかりなのに、今度は椅子である。ベッドから立ち上がるのにふらついている人間が椅子の上に立つなどとんでもないことなのだが、危険行為を叱っても馬耳東風、全く効果が無い。事故が起きたとき横で危険回避法を説明しても、絶対に振り向かなかった。だから根負けしてしまうのだが、今回は失禁と着替え探しという動機が次々と危険行為を引き出していったことに注目した。古着を分かる位置においておくことにした。しかも1着。これは母と確認した。

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私の古い知り合いに教具作家がいる。彼に適任のような仕事が舞い込んでいた。彼も福祉施設の職員をしながら、作家稼業をしていた。彼はセンスがあり器用だった。私の論理は必要から起こされている。ところが彼の場合はその「必要」の手綱を断ち切ったところに仕事を作っていた。デザイナーの仕事とは本来そういうものなのだろう。しかし意図的にキッチュな世界を善しとするので、あざ笑えば足元に穴が開くと思っていた。

しかし作業を始めて早々限界を感じてしまった。専門書を時間の合間に読むときもそうなのだが、助走というか心の静穏を整える準備段階から抜けることが出来ないのだ。苦し紛れに類似品の過去メモを探して読んだ。アイデアメモである。ところが私のアイデアメモは、軽度発達障がい絡みの子を対象にした教材教具メモなのだった。今回は一般向け。勘所を知っている教員が使うものではなく、当人の自習用である。

私の限界は、個別の子の顔があること。誰々がどの場面で使うという教具なのである。彼ならこともなげに入口を引き寄せるだろうにと、うらやましくも思う。ともあれ、第一作メモを作り終えた。

私の夜間の時間帯は、こういう請負業や相模原の塾の教科授業計画を組んでいる。また進学資料の整理や、巡回の子の個別レポートを抱えている。その隙間に夜間傾聴が入り、活動関連書籍の読み込みや、情報収集、チラシなどの作成と、父の夜間対応が入っている。午前中にケアの仕事を入れて欲しくないのは、夜明けに眠る私の睡眠時間が断たれるからだ。ホームも訪問サービスも朝型で組まれている。憂鬱の種なのだが。

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朝食を出した。さっそく父は小便に立ち上がった。放置して階段を降りたら、大型家具が倒れた音がして、父の呼ぶ声がした。なんとベッドサイドからポータブルトイレを離したにも関わらず、ポータブルトイレの本体を遠くに投げ飛ばして父が倒れていた。仰向けに倒れそうになり、ポータブルトイレにしがみついたのだった。トイレの蓋が外れてしまい、尿の入ったバケツか父のすぐ横に防臭剤の青いシミを作って飛び散っていた。父は尻を打って、しぶきをあびて青い顔をしていた。衣類もびしょびしょである。

すさまじい音に母も上がってきた。現場を見るなり、「もう、いやっ!」とトイレットペーパーを父に投げつけて階段を降りてしまった。トイレの土台の15kgあるコンクリート土台がふたつ横倒しになっており、片方が父の足のうえに倒れていた。小指の爪がはがれて出血していた。まずい、糖尿病者の足の指先の怪我はまずいのだ。直らないので雑菌が入り,壊死して、足の切断などをすることにつながるのだった。

父を起こすのに、うつぶせになるように指示し、横でやって見せた。しかし振り向きもせず、椅子にしがみつくのだった。手を払い、床に両手を付かせたが、全くいうことを聞かずにつぎのしがみつくところを探すのだった。

青い尿シミが拡がってしまうので、古新聞を取りに階段を降りた。椅子が投げ飛ばされていた。無視することにした。火が付けば山火事状態になってしまうからだった。関係ないことを連想していた。父は戦争中、パラシュート降下訓練を受けている。受身をそこで覚えたのだろうと父方の叔父が言っていたことを思い出した。冗談ではないのだが。

父を清拭し、着替えさせ、床を拭いた。猛烈な匂いのトイレの修理を終えた。歯を食いしばっていた。その表情が父をいっそう頑ななものにしていた。父はおしぼりをTVに叩き付けた。ガス抜き!切れたら終わりである。

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今日から、県人材育成センターの官民協働研究会の引きこもり関連の分科会が始まる。昼食を両親に出したら、藤沢に出かける。帰りに「きずな」によって、そこから相模大野に出る。相模線経由の帰りになる。もう事件を起こさないでくれと天井を眺めている。


<気になった新聞記事から>
●「再就職後も生活保護支給 仏で新たな低所得者支援策導入」
●「プレhttp://www.schoolnavi-jp.com/ス工業も労働局から是正指導/朝日広島版」
●「ホームレス支援「積極関与を」 宮崎で講演/朝日宮崎版」
●「映画:四ノ宮浩監督「BASURA」高校生以下無料に--27日から公開/東京」
●「介護施設整備、計画の半分 補助減響く 06~08年度」
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モバイル社会シンポを斜目で見てきました(まっすぐでもいいんですが)/今日は家にいます

2009-06-07 16:46:40 | 引きこもり
父の2泊3日のショートステイが始まった。2泊3日と言っても、3日目は10時には帰ってきてしまうから、1泊2日と大差ない。昨日は父の見張りで、長時間かかる用事が溜まっていたので、母が出かけ、私も秋葉原駅前の秋葉原コンベンションホールの「モバイル社会シンポジウム」(主催:モバイル社会研究所)に参加していた。

私が「わーく」編集部の基盤と考えている「社会的困難を抱える青年」層は、この字面を読むだけで、成功しないからやめておけと忠告したくなるひとも多いだろう。それほどに霞んでいて見えない層だ。その一部となる知的障がいの本人活動の会にお邪魔したことがあるが、携帯電話の普及率は、健常者の青年のものと変わらなかったし、1:1の電話も頻繁に行われていた。違うのはどうやらメール利用者が少ないように思われたこと。

一方、精神障がい者や、社会的引きこもり層の青年たちは、携帯普及率は全く変わらないと思われる。ただ、利用頻度に違いが出るだろう。身体障がいの関係はむしろ外出の困難を補うツールとして奨励されている向きもあって、この「社会的困難を抱える青年」層の中では、よりテレコム的な利用が進められているだろう。

ところが、一般にモバイル・コミュニケーションとか、テレコムとかの話題に乗せる「若者」なる層には、全く無自覚に、鋭利な刃物で切り取られるように、「オタク」は出てきても困難層が出てこない。ものの見事に話題からはずされている。

今回参加した会合は、NTT DOCOMO 系の集まりで、電脳コイルの磯光雄氏やら、ゲーム系の重鎮飯野賢治氏などがユースカルチャーを語るシンポだった。始まる前のDocomo製デモ映像は、ウェアラブルコンピューティングの快適なテレコム社会が、快適放尿のように流されていた。このDocomoのデモでも分かるとおり、生活苦も仕事の苦労もない、にこやかな家族が余暇を満喫するいわば、人類が滅亡しても、この家族はゆとりを求め続けそうな、笑顔のエゴが蔓延しているものだった。技術に対する批判力など根こそぎ奪われていた。そういうスポンサーをバックに、テレコムのユースカルチャーをえぐっていく面々が参加しているのは、何とも奇妙でもある。

全体としては、健常者の青少年層の意識調査のような話題が綿々と続いていた。いないが常に隣にいるというような関係を、団塊の世代以上の年齢層から「人間関係の希薄化」と批判される、その状態をあれこれ斬って、若者文化を探すという試みには、私はそこに何かを期待しているわけではないのだ。逆に糞尿と土の匂いや、環境音を忘れた、イメージ的な自然願望や俗な物質文明批判の宗教的な匂いのする層からの若者カルチャー批判もまた、ろくでもないと思っている。

私がこの集まりに参加したのは、ひとつは茅ヶ崎の協働スペースが、就労支援を軸とした創造空間に育っていくためには、地理的な不利を超え、ひとを引き付ける磁場のような企画を、実際にサポートするコミュニケーションをどう作っていくかという課題を抱えているからだ。

口コミを活性化させる携帯・FAXネットワーキングという、テレコムのバックアップと独自展開が、スペース展開には不可欠と考えている。こうした企画触発のためには、従来の市民活動枠を超えて、勝手連的学生参加を進める必要があり、その学生をと言ったときに、実際的には、切れ味のいい教官のいる近隣大学の協力を掘り起こしていく必要があった。出かけた目的は、今回のシンポジストの中に、強烈に偏屈な個性を持つ知人がいたからだった。

あ、やられたと思ったのは、私の「社会の周辺層の青年を見失っている」という指摘を先手をうつように、その方がばっさりやっていたこと。しかし残念なことに右目の調子が最悪で、それを受け流す壇上の面々の表情が全く見えなかったこと。

帰りに食べたカレーのしずくが網膜色素変性症進む右目の眼鏡の真ん中についていたにも関わらず、それが全く自覚できなかったこと。爺さんが技術信奉の会にでてきても仕方ないよなあとぶつぶつ言いながら書いたアンケートは、全く手元が見えず字がかすんでひどい状態だった。戦場でベルトを締めていない情けなさを感じたようなもの。まあ呼びかけても、この場は場違いと諦めて退散したのは正解かもしれない。「コミュニケーションは即文化ではない」という警告もこの方が決めていたことでもあるし…である。反論の見せネタの準備不足だった。

でもその中古人間としては、「携帯を持ったサル」と主張する層も、「テレコムの素晴らしさ」を絶賛する層にも、「あんたの意見で世界を埋め尽くすな」と言おうと思っていた。テレコムといえば仮想空間ですべてを処理することと短絡して思う身近な偏見の壁を超えるためにも、物好きな学生参加が必要だと思っている。

しかし、今回はその近隣大の教官に声を出せないままで話が終わった。逆に、1から始めなくてはならない活動では、とても話を持ち出せるような状況ではなかったからだ。

会の終了後、キングジムのポメラが欲しくて、電気街を歩いた。雑踏の中、携帯を突き出して大股で突進してくる若い通行人をよけずに立ち止まってブロック、その結果激突し、ふたり彼ら自身の力で吹き飛ばしてきた。爺ぃがどくのがあたり前というのは失礼である。これも若者。ただ私はこの手の「若者」と手を携えることはないだろう。しかし彼が若者の代表であるとも思わない。そんな平板なレッテルこそ「若者」には失礼だと思うのだ。しかしまあ、カレー眼鏡にはへこんだ。

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帰りの電車の車中で、足がつり始めた。寝不足ははっきりしていた。母に電話を入れて驚いた。母も同様に足をつらせて早々に帰宅し、寝込んでいたからだ。父の介護が私達家族を蝕んでいた。小刻みな睡眠が原因と分かっても、こうしてショートステイを取り、仕事の始末ではなく、眠るために休む必要が出てきていた。

父の転倒と排泄の追いかけ始末は、姿を変えようとしている。父の半身麻痺が一層はっきりしてきたからだ。階段を降りられなくなったら、父を1階に降ろすことになる。このとき戦争が起こる。歩けなくとも這ってでもトイレ・厨房・風呂場を回り、火の扱いや、危険行為(勝手に入浴・つかまる襖障子戸の破壊・冷蔵庫あさり(体調管理破り)と、家具の隙間転倒・ところ構わぬ失禁等)を再開することになるからだ。どうしたらいいのかと悩む。階段を担架で降ろすとき、介護事業者は手伝ってくれない。自分も巻き込まれる危険を伴うからだ。では本人を這わせるか…。

そんなことを考えているうち車内で寝込んでいた。大船を過ぎたところで目が覚めた。薬局に足のことを相談するために、一度藤沢で降りて、ついでに買物を済ませて家に戻った。茅ヶ崎サポセンに寄る余裕は無かった。

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<気になる記事>
●「障害者の菓子プロが後押し/朝日埼玉版」
●「中学のいじめ放置を認定 藤沢市に124万円賠償命令/朝日」
●「親の暴言、子の発達を阻害 言語性知能が低い傾向/朝日」
●「39歳男性、自室で孤独死 空の冷蔵庫・所持金9円/朝日」
●「生活保護、過去最多の119万2745世帯/朝日」
●「県営住宅入居の失業者 今月末期限/朝日神奈川版」
●「菅家さん「事件が、家族も、人生もばらばらにした」/朝日」


<入手した書籍>
●「生活保護 法的支援ハンドブック」
●「虐待された子どもたちの自立」

P.S. Tさんをさがしている。会則を持ってポルト湘南さんを尋ねたいのだが。

夜間傾聴:******君(仮名)
     中延君(仮名)


(校正2回目済み)

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歩行補助支柱を探す/細切れ時間を使い込む(今後の予定)

2009-06-06 10:12:37 | 引きこもり
雨天が続いている。父の活動量が減った。昼間、寝てばかりいるが、「気に入らない」と避けていた歩行器は、やはり使わずに、夜間、つかまり歩きをしては、倒れていた。その後退理由のひとつが昨日判明した。

安定した大きな歩行器は「U」字形をしている。父が歩行器を使うのは、主にポータブルトイレを使うときだ。歩行器を使って、そのままトイレに向かえば、トイレと自分との間に歩行器が立ちはだかるのだ。つまり近づいたら一度立ち止まり、「歩行器を横に退けて」、そこからさらに「自力で近づき」、便なら「姿勢を反転させ」「座る」という動作を要求される。帰りも、ベッドに近づくと、ベッドと自分の間に歩行器が進路に挟まり、邪魔になるのだった。気付いて、愕然とした。

これなら通路につかまる場所を連続して置いた方が実践的なのだ。そこで従来通り椅子の背もたれを配置して、移動させてみた、といいたいが、お試し協力は拒否された。そこで、歩行器を遠のけ、椅子の背持たれを2箇所配置して部屋を出た。やがて父が動き出し、すぐに転んでしまった。椅子につかまり損ねたのだ。足に体重をかけることを指示しても、父は利き手で全身を立てようと寄りかかる。そのために支えきれなくなって、ころぶ。

一度床に腰を落としてしまうと立てなくなる。家具につかまって、家具を引き寄せるようにして立ち上がろうとし、質量のない家具を投げ出してしまうのだった。伝え歩きは、足で立つ歩行補助の歩き方をしなければ、危険が伴うのだった。

歩行器を使い、到着点で90°向きを変えて、歩行器から離脱する場面を誘導できないか考えている。レンタル業者さんと相談して考えているが、「トイレ脇に安定した支柱が必要」と仮定してみても、支柱は商品にはあるが、ベッドからの立ち上がり補助までであり、横に体重をかけられたり、手で引き寄せられたりすることには耐えられない。商品の手すりは、壁や床に埋め込むタイプを使わないと強度から父の行動の補佐をしてくれないのだった。支柱(手すり)の据え置き型は、土台が不安定であり、ベッドサイドやトイレサイドに置く場合、通路を遮断するように置くことは出来ない。つまり、利き腕の側とマッチングするかという問題を残していた。

この辺は実はPT(理学療法士)やOT(作業療法士)の課題であり、リハ科への相談が近道と思われた。ところがレンタル業者にはPT資格を持つ方がおり、商品がないという。ならば応答は同じだろう。国内ものを使う場合、アプローチから、トイレやベッド移動への姿勢変更の仲立ちをするにも、転倒の多い父の身体では、立ち上がりに流用すると、土台が動いてしまうのが難点だった。

ひとつ面白いタイプがあり、その柱は地震の補助具のように、天井につっぱり、皿を押し当てる方法を取っていた。しかしこれには安定した天井が必要であり、我が家の安普請の天井には無理と思われた。

あとは欧米もので、より重量級の自立型のものを探すか、両側に水平手すりを置く形の自立型通路をところどころ置いていくという方法を考えていく。これはオーダーメイドとなり、エレベータメーカーだけでなく、手すりメーカーのショールーム周りが必要になってきた。

これについて母は猛反対している。父の歩行できる期間は短い。大げさな準備をしても、すぐに使えなくなるというのだった。私はだからレンタル制度があると思っている。ところが安定した商品が無いという問題が起きている。

身体障がいの方の場合は症状が固定しているので、対策投資が出来るだろう。ところが高齢者介護の場合、速い症状悪化の流れに逆らう形で対策が打たれるために、常に流動的なのだ。しかし、身体障がいの方たちの知識を伺いたいと思っている。

父は足の萎えの結果、昨日は昼夜通し5回床に転がった。私達が歩行器を支えて自力で立たせたのは、そのうち4回。私達の気付かない「尻餅」が何回か入っていると思われる。立小便の失敗によるズボン交換が4回。紙パンツ交換が3回あり、現実的には「おむつ」の時期なのだ。排便のときだけ、その場で交換する形をとるのが理想、定時交換をしていく段階に入りつつある。

しかし、父は、紙パンツを濡らすまいと下げたまま、尻をむき出しにして毛布を掛けて横たわっている。その上、尿意に間に合わない事態が起きており、紙パンツを濡らさないという意地を通す限り、これでは「おむつ」は無理。尿と便まみれの転倒が日々続いてしまうのだ。その介護の労力に父が無頓着だから問題が起きる。

昨日はそのことで、巡回前、レンタル業者の営業所に立ち寄り、対策を話込んでいたのだった。

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平塚図書館の書籍は市行政出張所(行政センター)でも受け付けている。図書館は駅から離れているので、雨天のこともあり、始めてここで期限切れ間際の書籍を返した。

県立図書館は金帯出本のコピー依頼したデータの受取もあったので、紅葉坂に立ち寄り、横浜から相鉄線で海老名へ。

昼間一日中家を空けたので母が拘束されたと怒っていた。それはそうなのだが、母だけだと、父が転倒したとき身体を起こすことが出来ないのだ。動くに動けない細切れにされた時間を渡り歩く、そんな日々が再開されている。今は朝7時。まもなく父の食事。今日は2泊3日のショートステイに9時半ごろに出て行く。階段介助のリスクとの勝負が待っている。

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今日は、父が留守の間に、秋葉原の会館でポッドキャスティング関連の研究者の出る講演会がある。その神奈川県の関係者が来るので、「わーく」放送の人材固めに出かけ、帰りに介護用品の手すり関係のショールームに立ち寄ってくる。早稲田のそばらしい。

Tさんの会則原案が仕上がっているので、夜にサポセンに寄る予定。

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JHC板橋会関連の企画をもう一回考えている。
次回は

「クラブハウス サン・マリーナ」(上板橋)
「明学大・八木原研」(白金)

のいわば「本命」である。就労支援の形の「クラブハウス」のシステムと「学生参加」の可能性を追う。

以降、桜ヶ丘病院とACTの関連から、COMHBO(本八幡)を追っていく。おそらく、いずれも1~2名の見学会になると予想するが、若松町の協働スペースの大枠をどう作るかという課題、モデル化に関わる部分だ。過渡期の市民交流ショップ案とどう重ねていくかが思案のしどころ。あくまでも、主(あるじ)は「社会的困難者・障がい者」であり、地域住民でも市民一般でもないのだ。これは機会の差別を踏まえれば当然のこと。その「運営」が地域開放・市民一般参加なのであって、「就労支援をショップ展開を媒介に地域に開く」、この辺は見失ってはいけない視点と考えている。見学会はその「モデル作り」なのだ。

<参考資料>

●「「クラブハウス・プログラムの国際基準」2006」
●「日本におけるクラブハウス言説の潮流についての研究/三野宏治 論文」
●「ACT/IPS・リカバリー」
●「作品1リカバリー作品2 ACT ムービー/COMHBO-HP」

ACT(包括型地域生活支援プログラム)
IPS(個別就労支援プログラム)

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夜間傾聴:旗の台君(仮名・午後合流)
     小田急相模原君(仮名)
     中延君(仮名)

(校正2回目済み)
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JHC板橋会見学を終えて(2)「JHC秋桜」続

2009-06-05 11:32:38 | 引きこもり
「JHC秋桜」では、作業工程表をいくつも見せてもらった。更新を繰り返し、現場の問題解決を取り込んだ形跡があちこちにあった。元の流れに追加したり、迂回・削除などの手を入れていくと、全体像からすると洗練されていない印象をうけることが多い。このことは紹介者の方も自覚されており、「ひとつの項目に複数の内容が入っている」と叱られかねないと、防衛線をはられていたが、どうして、実践的な内容なのである。作業は経時処理と同時処理がある。順にしたがって行う処理が前者。これは作業工程をチャート(流れ図)化しやすい。ところが後者の場合は、複数の内容を一斉にかけあわせる作業のため、併記することになる。ところが人の作業の場合、意識を集中するところと、補助するところなどがあり、作業に主観的な比重の差や優先順位の差が生まれることになって、それはチャートには表現しにくいところとなってくる。描けば逆に解体再生した精密器具のように、動きの潤滑さが失われてしまうことすら起きてしまう。むしろ体験確認のような見直しの部分が出てきてしまう。

日々の全員参加の運営ミーティングは、こうした隙間を埋めていく追認の過程を伴っているのだが、実際運営していくのは負担が大きい。だから担当者の代表のミーティングと成果のチャート化が行われるのだが、こうした図式の困難や、図表を通じて作業者が自己の作業を修正していくところが、各人任せになって、消化しきれないということが起きやすい。

このことは、図表が作業現場の作業時に場面として見返し利用が可能か、意図的にチェックに利用されているかということと重なって、前述の図表と利用者の情報対話の構造的な限界が利用度に影響していく。

「JHC秋桜」の実践は、もうひとつの目、作業者さんの作業観察の目でも見させていただいた。もう少し時間があれば、お話をうかがうことも出来たのだが、今回は洗い場の作業をされていた当事者さんに、ちょっとお話を伺っただけで終わってしまった。

図表が掲示されていても、それを見てくださらなけれなければ、効果が出ない。そこには図表を見る効果が利用者に自覚化されている必要があるし、物理的な意味で、位置が見にくかったり、人数が多いために、図表に近づけなかったりと、様々なことが起きる。本質的に図表は熟練の深まりに反比例するように、利用頻度が下がっていく。

私が話しかけた方には、いくつかの質問に答えていただいた。

1)何の作業をされているんですか?>調理器具の洗浄
   ---- 見ての通りだよ、「しっかり」洗うのだ。

2)こちらにいらして長いのですか?>経験 作業の移り変わり等
   ---- きょうは(これは)そろそろ終わりだよ。
      え?これから戻ってきた(食器)やつを洗うのが待ってる。
      (ついに秋桜で働き始めて何年かという質問の意味が通じなかった。)

3)週に何回お仕事をされているのですか?>労働時間が周期化しているか
   ---- この曜日はいつも来ているよ。(周期化しているようだが全貌不明)

4)お仕事、面白いですか?>働くこと自体に価値を感じているか
   ---- 休まないけどね。(さぼってはいないよ。)

と、まあ、空転してはいたが、通うことに意味を置き、作業は副次的なことというような状態ではなく、自分は働いているのだという表明があったものと理解した。「しっかり」である。

自閉症の方の作業と異なり、厨房のなかの作業者密度は高く相互連携しており、自分のパートを連携してこなしていくという場面理解は、一般の厨房作業と比べれば移動量が少ないが、精神障がいの当事者さんたちの作業としては、場面の盛り上がりを感じるものだった。練れていない現場では、指導者が忙しく飛び交うものだが、流れに歴史というか蓄積を感じた。ただ、人の密度が高いために、チャート利用の障害がありそうだ。

私は入口を撮影するために、外に出た。商店街のはずれに位置していて、通りには大きな時計が目に入った。一時代前のこじんまりとまとまった通りには、ゆったりとした人の流れがあった。車の行き来がなく、ときどき原付が走り抜けていったが、通りで知り合いと出会い、立ち話の出来る雰囲気が生き残っていた。こういう環境のなかで、お弁当屋さん兼食堂を営業していく場合、偶然の出会いである通行人をキャッチするよりも、街の一部を構成する「お馴染みさん」相手の仕事になろうかと思ったが、昼食をいただいている最中、いわゆる「いちげんさん」が飛び込んでこられた。店を、ある条件で探している方(喫煙・和食等の目的)が飛び込んでくるという意味で、面白い場所にあるのだと分かった。

全体に新規開拓から、フォーマットが出来ている店への流れをくぐったお店という印象を抱いて、お暇した。ご馳走様でした。

(つづく)

(校正1回目済み)
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「あすなろ会」の小さな波紋/父の依存度の深まりの中で

2009-06-04 14:02:31 | 引きこもり
父の宗教関係の信者さんの家庭の介護話が流れてきた。重い認知症のご母堂が有料老人ホームに入所し一ヶ月がたった。徘徊と他害等の問題のために、連日ホームへの呼び出しがあり、ついに「退所」するようにといわれて、金銭トラブルと受け皿さがしに追われているという。他人事ではなかった。父は他害はないが、ものを壊す。足が悪いから、今のまだらに起きる幻覚と錯誤の状態が進行しても、遠出は出来ない。しかし、危険行為と指示無視、防御的暴力は、体力が衰えても続くだろうし、常態になってもおかしくは無い。

当人と職員ともに下手をすれば命と身体に影響する危険な行為を、指示を無視して平然と「やってしまう」ために、職員さんにとっては、日々責任問題が起こる。この点が信者さんの状況と似ているから、入所後すぐに退所を迫られかねない。リアルな話を聞いてしまったと、ここ数日母が落ち込んでいた。

見学会のあった一昨日、父は昼間寝続けた。食事を部屋に届けるとき、寝ているからと放置していたため、私が帰宅後、ベッド上はすさまじい状態になっていた。失禁して気持ちが悪いから、父は紙パンツをはずしてしまったのだった。その状態で再び失禁。毛布の下は防水シート上に水溜りが出来ていた。静かに寝ていたというより、動けなかった。その動かない判断がまだ出来るのだった。しかし失禁のことを食事を運んだとき母に訴えなかった、私の場合にも黙りとおすのだが。しかし母は介護の意欲を失っている。匂いがすさまじいのに、食事を置いて戻っていたのだから。母に聞いたが、もともと部屋が臭くなっているので、気が付かなかったというのは、本当のようだ。他の物事にも、敏感さがじんわりと失せてきているのを知っているからだ。任せきれない状態に入りつつあることを実感している。

今回はその時間が長かったために、背中に汚れが回り、全身の清拭が必要となった。夜の0時過ぎ、「風呂に入る」という父を言い含めながら、全身の清拭を行った。幸い水曜日はデイサービスで入浴が出来るので、洗浄剤を使わず山のように手ぬぐいを使って全身を拭いていったのだが、困ったことが起きていた。父はベッドから立った状態で1回転するようにダイビング転倒していたので、四肢は擦り傷だらけだった。そこが汚れて炎症を起こしていたのだった。病院なら消炎酵素剤の投与をしながら、手当てを行うところだが、古い鎮痛解熱剤を飲ませるかどうかで、母と議論になった。薬剤の目的が違うからだった。

私は消炎剤の入った軟膏を塗る程度に留めるべきだと主張、午前1時になろうとしているのに、軟膏を切らしていることが判明。思いついて母の化粧水を持ってこさせた。成分に消炎効果とあったものが2種類あったので、刺激の少ない方を、しばらく流した水道水で少し希釈して、脱脂綿で叩くように塗っていった。普段マキロンなどの傷薬があったのだが、ここ数日、私が会合にでかけていたので、薬を補充していなかった。

母が主張していたのは、昔、歯科から祖母の顎の炎症に処方されたポンタールだった。メフェナム酸カプセルである。比較的安全な薬ではあるが、やはり10年前の薬はやめたほうがいいということになった。

問題は防水シーツの交換の方だった。

椅子に座らせた父を母に見張りをさせて、交換するのだが、事前に尿取りパッドを利用して、尿溜まりを吸収させておく必要があった。私が交通事故で長期入院していた頃の記憶が役に立っている。病室のシーツ交換のときは、待合室に移動させられるが、私は邪魔にならないように廊下にいた。同室のふたりの輩の下世話な看護師の尻談義や相手の経歴詮索話が性に合わず嫌いだったからでもあった。しかし、シーツ交換の手際のよさには感心した。しかしそのことが実際に役に立つとは思っても見なかった。

私のベッドメイクの待ち時間にも父は部屋を歩き、便をしようとした。段取り通りには作業は行かない。終了して午前1時半。階段を降りたところでまた、歩行器の音がしていた。昼夜逆転かなと思いつつも夜間傾聴の待機を始めた。こうして一昨日の夜は過ぎていった。

昨日、デイサービスの際の階段介助の開始時間が遅れた、というより父の非協力で出発間際のつまづきがあったからだ。ところどころに打ち身の後遺症があり、それが重なって階段を降りる危険が増していた。

心配は現実ものとなり、父は悪い方の足を滑らせ落下、私の全身に体重がかかった。ヘルパーさんの咄嗟の判断で父を横転させた。危うく墜落するところだった。迎えのホーム職員の方に引き渡すまで、大人4人が父を抱え込むことになった。

父の留守の間に、部屋の掃除と買出しをするのだが、私自身も前日の見学会の徹夜が堪えていた。授業の応援を今回パスさせてもらい、1時間仮眠した。昼間は電話や訪問者があって、母が外出しているときは継続して寝ることが出来ない。

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掃除途中で、買物がてら、駅前に元Big Issue 販売のTさんを捕まえに出た。Tさんは「あすなろ会」の会則原案を書き上げ、メモを私に受け渡すことになっていた。茅ヶ崎駅南口の路上の誰かが私とTさんの「袋入り交換メモ」を持っていてくれることになっていた。ところが、最近南口は集団仕事が入ったか、アル中の++さんを除いて誰もいなくなるので、結局受取が空振りしていた。今回も同じと諦めて吉野家に向かおうとしたとき、

「ちょっとぉ、飛田さ~ん!」と、++さんが追いかけてきたのだった。

明らかに表情が開いていた。彼が「交換メモ」を預かっていたのだった。嬉しかった。やっと味方と思ってくれたことを感じたからだった。階段下でティッシュを配っている青年が異様な顔をしてみていたが、Tさんに渡したと同様に++さん用に「わーく」編集部の名刺を、髭面の++さんに渡した。

「ありがとう、今後ともよろしく。」

と伝え、とくに行政のことで困ったことがあったときは「交換メモ(路上BBS)」に書けば協力するというと、++さんは、おもいっきりの笑顔で名刺をぴらぴらさせてうなづいた。

「あすなろ会」はどうやら順調な出発が切れそうだ。

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デイサービスの帰宅時間の16時半までに、買出しを終えて家に戻った。端正な文字でTさんは「会則原案」を書いてきた。「フォーラム懇談会」の会則を参考資料に渡しておいたので、真似したらしく文体はこちこち。ざっと読んだところで、階段介助の信者さんが現れた。

父は機嫌を直して戻ってきた。ゆっくりと休み休みなんとか階段を上がることが出来た。しかしガーゼだらけ。入浴したあと擦り傷の傷口の手当をしてくれたからだった。ところが良く見ると下半身の服が違うのだった。「やったな」と直感。案の定、出発直前に便意を催し、間に合わなかった模様。ベッドに誘導後、信者さんが帰った直後、ポータブルトイレの前で転んで周囲も汚してしまった。

出かける時間があと1時間に迫っていた。20分差の入れ替えで母が帰ってくることになっていたが、目の前の事態のこと以外は考えられなくなっていた。時間内に始末を終えなくてはならなかった。身はひとつである。案の定父はじっとしていなかった。洗濯物を階段下に下ろして、下洗いをしていると私を呼ぶ声がした。父がベッド柵に足先を突っ込んで逆立ちに滑り落ちていた。じりじりと時間が迫っていた。父が「拭けないので尻を拭いてくれ」と注文、重ねて家の前の放置自転車の件で浜竹交番から電話が入り、ついにタイムリミット。巡回は延期。正直言って悲しくなっていた。大の大人が仕事の始末もつかない。

巡査がやってきて、自転車の状況聞き込みをした。悪い予感は的中した。父が大きな歩行器で階段上に現れたのだった。父は来客に応じるつもりで出てきていた。駆け上がって父を部屋に戻した。巡査が異様な雰囲気に気が付いて、敬礼をして帰って行った。敬礼されても困るのだが。

落ち込んで洗濯物を干していると、巡回先の小田急相模原君から本校経由で連絡が入った。話したいから、遅くなっても来て欲しいとの事。申し訳ないやら、心理カウンセラーにはなれないなと思う。私は教員の端くれである。彼に感謝しつつ、受諾し、出遅れたバスに乗ることにした。母と丁度入れ替えだった。

終バスに間に合わず、小田急相模原君の課題を抱えて帰ってきた。微妙なのである。リスクの少ない方を善しとする判断だけでは決められない事態がある。同僚にも話せない事態を私達外勤講師(困難請負屋)は自己責任で抱え込む。無事過ごしてとんとん、成功などまずない。その隘路を一緒に歩く。

夜間傾聴:なし

(校正2回目済み)
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JHC板橋会見学を終えて(1)「JHC赤塚」「JHC秋桜」

2009-06-03 17:44:03 | 引きこもり
板橋区の下赤塚と、ときわ台にあるJHC板橋会の事業所を見学してきた。片道1時間40分以上かかるので、朝出て夕方にもどる日程。今回は事前の予約の半数4名の参加となった。前回の見学会と関係の研修準備が続き、日程が近かったために、再確認が遅れたためだった。

今回の見学会は、茅ヶ崎に出来るたい焼き屋さんと協働スペースのデザインを考えるという前提があったために、関係者以外は目的が見えにくいという難があった。ひとつは、協働ショップのネットワークの結節点(ノード)としての機能をどう作るかということ、もうひとつは就労支援を本人の自主活動としてどう育てていくのかという観点があった。更には、前者について地域協働、相互連携(例えばJHC秋桜の弁当の配食サービスのような…)の形の事例を求めた。後者については、プレ就労と地域セイフティネットのようなスキルアップと、失業社会的挫折組の受け皿のような通過型のデザインと、そこを本拠とした地域起業型のデザインのヒントが期待されていた。

巡回する事業所は4つあった。すべてJHC板橋会のネットワークの中にあった。「JHC大塚(洋菓子作り)」「HC秋桜(弁当作り・飲食店・配食サービス)」「JHCスペースピア(地域活動支援・相談支援)」「社会就労センター プロデュース『道』(喫茶『風見鶏』・一般就労への就労移行支援)だった。それぞれに解説の方が付き、Q&Aをしっかり話し合えたので、日程最後の「道」が15時終了ということで時間切れ、3箇所の見学に終わった。

JHC板橋会は24年の歴史を持っている。それだけに、それぞれの成果と同時に課題も浮かび上がってくる。また地域の雰囲気や、参加者(あえて利用者と呼ばない)の皆さんの体温のようなものは、現場に足を運ばなければわからない。見学はそういう不確かな姿をまるごと感じ取ってくる行為なのだが、今回はそのための時間的なゆとりを取るために、内容の次に隣接した事業所を選び、上板橋の「クラブハウス・サンマリーナ」を後日機会のあるときに送った。

私達は、初め下赤塚駅そばの「JHC大塚」にお邪魔した。私は以前に「パイ焼き窯」見学のとき、一般就労を目指した洋菓子作りの技術習得の職人作りに匹敵する活動を見てきていたので、そのプログラムを通過できる素質が問われる点が気になっていた。

「JHC大塚」は、近郊駅前都市の表通りの、すぐ裏側の住宅街が持つコロニー化したまとまりのなかに、しっくりはまる内容を持っていた。つまり素人臭さと、この地域の店で働くための誠実さのようなのようなものを感じていた。ケーキもパウンドケーキ、それにクッキーというロー・ハードルでありながら、奥が深いが、いわゆる共同作業所の定番の品選びをしていた。材料の品質や焼き上げ、包装、販売方法などを売り上げの制約の中で最大限に引き出していく、そのセンスと経営力が、類似の店の味の違いとなって現れてしまう。その「差」は、比べる意志のあるものが気づく地味なものだが、障がい者店舗畑の人間には、店の潮位の変化としてそれがわかってしまう。それは構成員の方の気持ちではなく、ここからの一歩上はプロとの出会いだという天井のようなものだった。

素人の方が練り上げて作ってきたお店なのである。どこにも構成員・スタッフの方の手が入っていた。2階を案内されても、よそよそしさの無い落ち着きを持っていた。しかし商品が客を呼んでいないというか、相手を持っていない、これが目立ってしまっていた。

パイ焼き窯さんのように、営業活動に専業店に競り勝つような磨きをかけた経営が他極にある。しかしそのお菓子が媒介となって地域の人とつながる、販売活動ともちょっと違うつながりの精彩が萎えてきているところにお邪魔したように感した。これは不況下シャッター通り商店街に開店しようとする私達が気をつけなくてはならないつかみどころの無い最大の難関、ここの活力のノウハウが試行錯誤の期間の厳しさとして浮かび上がってきた。

こちらの店舗が地元住民の方の協力によって支えられているところに、店の歴史を感じるのだが、変化とつながりへの意志が感じられなかったのだった。本人活動の立ち上げの難しさがそこにあった。お土産にパウンドケーキと小クッキーを買った。そのパウンドケーキは包装に工夫が必要だったが中身は美味しかったが、小クッキーはいただけなかった。こういうばらつきは、あってはならないことなのだが。ここは当事者さんを「利用者」と考える法の旧い発想が足を引いているように思えた。

余談だが、2階の消毒器付きスリッパ収納器は面白かった。なるほど支援者の方たちの出入りが多いのですね。

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JHC板橋会の事業所を横断する職員さんのガイド役の方によって、私達は、次の「JHC秋桜」にお邪魔した。丁度お昼時だったので、私達のお弁当定食を準備していてくださり、私達は定食をいただきながら、お店の様子を観させてもらった。

厨房狭しと当事者の方が仕事を分担して働いており、ただ配食で出かけている方が戻っていない状態なので、帰ってきたら一杯になってしまうと、余計な心配をしていた。

私達が食事をしている間に、何人かのお客さんが入って食事をされていたが、中には始めてのお客さんで、喫煙休憩が目当ての方が、禁煙と分かって出て行くなど、接客商売の難しさも。カレーとお弁当という形だから、喫茶または食堂の展開と、「お弁当」という先方が可搬性をメリットにした料理の形態が、違和感を感じさせた。可搬性を持たせる場合には、味の保持とまとまりのよさという、例えば横にパックを持っても、汁が流れ出さないというような携帯優先の工夫がはいる。ところが喫茶・食堂のようなお店の展開では、食事に「華」がないといけない。ここが違和感の原因だった。

しかしお弁当としては、調理師の方が入っているのか、バランスの良いもので、美味しかった。ただ私だったら「汁」にこだわる。機械切りでもいいから、白髪ねぎを作っておいて、直前に使うなどの鮮やかさを作る。または好き嫌いがあるが小粒トマトとか赤カブを使った色を入れる。これらは、配食用には向かない。これが使い分けと思うのだが。人通りが少なめだが車が通らない落ち着きのあるところだから、口コミの効く、競合店も少ない立地展開が出来る店舗であると思った。「日替わり」とあったが、メニューを見てみたかった。お弁当チェーンとの違いをどうだしているのかなと思いつつ、美味しくいただいた。バランスはプロのものだった。

食事後、「JHC秋桜」の事業展開の概要説明をしていただいた。私の関心は、ここにどのような冒険を仕掛けているかという部分だった。安定して当事者さんの職場を維持継続することと、当事者さんの仕事と知り合いの輪を拡げることとは矛盾しないはずなのだが、実際の問題として、当事者さんが仕事に慣れるために払う労力だけでも相当のパワーを要する。今回、「秋桜」さんの仕事手順は相当試行錯誤を重ねた結果であって、私が考える相互の関係が規定する力までマッチングの発想で掻き消えているように思えた。「赤塚」「秋桜」ともに、見学の限界ではあるが、「現場の労働の様子」を時間をかけてみてみなければ、本質的なことは見えないのだろうが、配食先が行政など関係機関の固定的な場所ばかりで、いわゆる民間の地域市場まで踏み出さないでいるというのは、仕事の定着支援の労力と、固定的な従業員としての当事者さんの安定したパワーが前提に出来ないところにあるように思う。日中の当事者さんの居場所として助成を受けていた場合、企業的な手法で純益を上げようとするところに制度的な飛躍がある。冒険するか否かというところで、企画力が問われているように思えるのだが。

私はJHC秋桜の独居高齢者宅の宅配サービスを通じて、地域の相互支援ネットワークに参加しているように聞いていただけに、現場の環境の重さを感じている。

ブログ書き込みの時間の限界が来たので、この辺で一度区切るが、歴史のある活動ゆえ、見えるものという点について、次回も「秋桜」見学話の続きから書いていく。ご覧下さい。

(つづく)


夜間傾聴:□□君(仮名・私の体力の限界で昼間巡回へ)
     多摩センター君(仮名・親御さん)

(校正1回目済み)


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今、夜間傾聴を終えたところです

2009-06-02 03:22:50 | 引きこもり
今日の見学会は、家を8時前に出なくてはなりません。
睡眠時間確保のため、今回は書きこみお休みさせて
もらいます。

すみません。
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路上生活者自立支援誌Big Issue の湘南販売の団体は「あすなろ会」ということになりました

2009-06-01 16:07:04 | 引きこもり
偶然再会することができたBig Issue 元販売員Tさんと、いよいよ湘南販売の準備に入った。Tさんは「あすなろ会」という路上生活者の地元連絡会を作る。しかし、この会は路上生活者の活動の特徴をいくつか持っている。

会則をつくりながら、Tさんと話して頭をひねることが結構あるのに改めて驚いた。たとえば、「会員」の定義である。まず正会員のような固定的・自己表明的な登録を彼らは避けるからだ。大半の方が事情を持っている。だから固定的・自己表明的な「登録」というところに身を置かない。

そこで、例えば「Big Issue 販売」というようなそれぞれの企画に限定して会員の登録していくことになった。もともとポルト湘南さんとカトリック茅ヶ崎教会さんの従来の支援の隙間充填のような補助の立場なので、企画と言っても2~3しかないのだが。「Big Issue 販売会員」とか「放置傘再販会員」…という具合。「お互いを縛らない」というのが大原則となる。

次の難関は名簿を作ろうにも「名前が無い」「住所が無い」ということだ。事情がある方が大半なので、本名はタブー。「通称」で登録していく。次に住所が無いこと。これは困った。上記の支援団体さんは、自分の施設を当事者の事情に応じて住所として貸しているが、私たちがはじめた団体は、なかなかそうもいかない。

そこで思案のすえ、一般会員は「茅ヶ崎市元町1-1路上」というように、「路上」をつけることにした。勿論正規の住所にはなりえないが、住民票をとることを強要もできないのだ。「とびさん 茅ヶ崎市元町1-1路上」という具合。しかしこれでは、公共施設を利用する団体資格は得られない。最低限、役員だけは住所が必要となった。Tさんは、前に教会さんの支援の中で、販売を行ってきた。それが偶然のある事件と、運営上の金銭管理のシステム的な問題があって、販売の直接支援の廃止状態となっていた。だから身元の住所をその教会に求めるわけにはいかなかった。最終的には、Tさんのみ、私の住所で請負うことにした。活動が立ち上げられないからだ。

次に教会の路上生活者支援担当者の方々の個人参加の資格で、援助会員になってもらった。私も援助会員である。Tさんが代表、私が会計ということで小さなスタートを切ることになった。□□さんは、ときどき様子を見てもらうこと、つまり「(監査)」(かっこ付き)なのだった。

できるだけシンプルに。路上生活者の皆さんが見ても様子がつかめる文体にすることに心がけた。要点だけお互いに確認し、Tさんが文面を書いて、私が修正をかけ、お互いで確認するという手順を踏むことになった。Tさんは、昨日から執筆中である。

最終的に□□さんの了解をとって、団体が発足する。今日はその下地原稿を受け取ることになっている。

もうひとつ、工夫をいれた。Tさんとなかなか出会えないので、「連絡ノート」を作ったのだ。他の路上のひとが保管してくれる。ここには、協力して欲しい特に行政関連の要望を書いてもらってもいいことにした。Big Issue の会計簿は別管理なので、このノートはいわばBBS路上版。うまく行くかどうかは、お楽しみ。路上の面々は、ノートにびっくり。さてさて。

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巡回の日送りが続いていたので、少々後ろめたさを感じながら、夜、海老名にいた。海老名の相模線側は閑散としていて暗闇があちこちにある。待ち時間があったので歩道橋から降りてみて驚いた。視野の下方のちらつきの部分が何も見えないのだ。予想より早く視野が狭まっていた。室内程度の明るさのところでは気付きにくかったが、日なたなどでは、ちらつきが目だってしまう。網膜色素変性症という治療法が無い病だ。ビタミンAとレスキュラ点眼薬という眼圧を下げ、網膜の血流をよくするいわばサプリメントを続けることで、症状の進行を抑えていく。

喫茶の照明はファミレスのようなところでも暗い。対面指導をするとき、テーブルに拡げた本の文字が読みにくくて困るときが多い。眼鏡の曇りかと思って眼鏡をはずしてぐったりした。同じ場所が霞んでいるのだ。見えている間にやりきる以外ないなと思いつつ、相模線の中でPCを開いた。

接続にはsoftbankのC01LCを使い始めているが、机上ではさほど気にならなかったことだが、膝の上において、PC本体から大きく飛び出しているスティック状の形態が気になり始めた。電車が揺れるとひっかかるのだ。

宿題の最後のレポートを車中の添付メールで送り出し、茅ヶ崎駅の北口側から終バスに乗った。

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帰宅後、ばかに大人しい父の様子を見に2階の父の部屋に向かって驚いた。部屋に入れないほど悪臭が、こもっていた。母が換気のために開け放った窓を父が閉めてしかもガスストーブをつけていたのだった。

ストーブを消して、換気をした。父は下半身裸。湿った紙パンツとパジャマが我慢できなくて床に脱ぎ捨てたのだった。周囲にテーブル上の電話子機やティッシュペーパーの箱などが散乱していた。立小便のときに濡らして、床に腰を落として紙パンツを脱ぎすて、立てないものだからテーブルにしがみつき、上に乗っていたものを落として起き上がり、ベッドに戻ったという経過が推測出来た。薄い掛け布団を股に挟んでいるので、また洗濯しなくてはならなくなっていた。父の実家で介護を受けていた生前の祖母が臨終半月ほど前に、久々の見舞いに行った父に悪態をついた。父は真っ赤になり、祖母を殴打して、長男夫婦に抑えられた。父には介護は出来ない。百万の怒りと虚しさを飲み込んで、その結果、老いを受け継いでいくのが介護だと、手を焼かせずにこの世を去った母方の祖父が言っていた言葉を思い出した。祖父は先に寝たきりになった祖母の傍らで、祖母の介護を請負った母と私の応援団をしながらこの世を去った。協力しない父の代わりに介護を行えたのは、塾屋だから出来たことだ。

父は日常生活の中で、守って欲しいと要求したことの、たったひとつも協力しない。眼鏡をはずすときはテーブルに置くということひとつ取っても、眼鏡は枕の下や掛け布団に紛れ込んでいる。そのひとつひとつの無視が介護者への棘となっていくことに全く気が付かない。

紙パンツをはかせているとき、乱暴な足の動きの結果、尿臭い足で頭をのけぞるほど強く蹴られてしまった。謝罪の言葉ひとつない、というより父はパンツを履くことに夢中になって気付かないでいる。「父として」ではなく「ひととして」と言い換える。怒りの激情が走る瞬間である。

部屋を整備し、母が出した食事を下げている最中に、電話が鳴りだした。草加煎餅の##さんからだった。自分の退院の電話を何回か家にかけていたらしい。母が父の宗教関係者と勘違いして、話し中途半端で電話を切ってしまっていたらしい。

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虚しさ覚めやらぬ気分のまま、私は##さんと話していた。以前、茅ヶ崎で就労支援のたまり場喫茶を作る提案をした際に、私はある試みを考えていた。お煎餅の喫茶を作ろうと思っていたのだ。ところが「お煎餅」というと、熟練した職人が焼きあげるお菓子をイメージして、それは無理だと遮断されてしまう。

私の考えていたのは調理用の煎餅、中華や東北の煎餅汁の「おこげ」にあたる素焼き煎餅を改良したものだった。カフェの稼ぎ時は朝食・昼食の「食事時」だ。このときに、手際よく動けるには、暖めるだけの食品が有利になる。

藤沢のカフェすばるは、カレーライスで勝負している。私はこれをスープで勝負しようと考えていた。このとき、腹持ちをよくするには、パン粥とかリゾットのような炭水化物を煮込む必要がある。ただリゾットは時間がかかるので、いっそ茶漬けとかパン粥を狙う。ここで出てきたのが調理用煎餅。沈めて客に出すという方式もあったが、ぱんのようにかじりながらも可能な味付けを求めた。この特殊な役割を煎餅に持たせようとプロの煎餅屋さんに接触していた。

これなら、調理スキルが易しくできるし、差別化も出来る。スープを変えれば季節の変化に対応できる。行程が多いので、作業を切り分け、軽度障碍の青年にも役割分担できる。そう思っていた。結局茅ヶ崎市との協働事業企画は、常識に妨害されて支援者の足並みがそろわない状況の中で、私が横浜のひきこもり者のネットワークと破綻して、企画は成り立たなかった。

そのとき、鎌倉のお煎餅やさんと、頓挫した和菓子製菓コースの専門学校に鳴った頃、紹介してもらった##さんとは、たまにメル友的お付き合いを続けていたのだった。##さんが椎間板ヘルニアで入院。持病の胆石もあって、入院が長引いていたのだった。

たい焼き屋さんの開店予定を喜んでくれた。明日のJHC板橋会の帰りに都内で会おうかと持ち出したら方向音痴を笑われた。東武東上線と東武伊勢崎線とは全然つながっていないというのだった。言われてみれば埼玉県の地理を私は全然分かっていなかった。一緒に笑ったら、虚しさが消し跳んだ。

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父は2日目に入り、打ち身の周辺にアザが浮き上がってきた。消毒しながら、からしを塗りたくなった。

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JHC板橋会は、地域相互支援のシステムと、ピアサポートの活かし方を掴みにお邪魔する。下赤塚・ときわ台を回って帰ってくる。茅ヶ崎駅改札口8:40改札口集合、昼食代込みで総額4~5,000円かかります。予約があるので、6/1ちゅうにご連絡下さい。(6/1)> コメントに書き込んでください。公開しませんので。

夜間傾聴:******君(仮名・親御さん)


(校正2回目済み)

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