湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

目の治療中でした/PCテレコム休止の時間中に考えたこと

2009-06-22 04:57:30 | 引きこもり
右目の調子が悪い。薄い霧がかかり綿埃のような影がかかっている。飛蚊症のように眼球の動きに合わせて埃が飛ぶような以前の状態を超えて、今は埃がひっかかっているようで、視野の中を動かなくなった。左目は埃が飛ぶが、眼球の動きによって一緒に動いている。右目はより悪化した網膜色素変性症の症状である。朝、起きたては最悪なのだが、処方してもらった点眼薬の効果で直っては来ているのだが、今朝は両目ともちらつき、右が以前より悪い状態が続いている。ともあれ右目の充血はとれた。介護も家事も片目が見えるので出来なくはないが、やたらに指先を引っ掛けて物を落としたり、ぶつかったりとミスが増えた。

月曜日は父のデイサービスのために、東京の眼科に行くことができない。朝9時の送り出しと16時半の迎えの間だと、茅ヶ崎駅に16時には戻っていなくてはならない。先方が昼休みを取るため、これでは通院できない。要するに、デイサービスは、家族のためのものではない。入浴と気分転換など本人のためのものなのだ。

ひとつの症状で複数の医師にかかることができないので、地元の眼科で実費で応急処置出来ないか相談する。明日は階段介助がいるので、家族が父の送迎時にいなくてはいけないという縛りがかかる。先ほど橋本の学習巡回だけを済ませてきた。今夜の相模大野の授業の取り出し指導は、火曜日朝担当に動かしてもらった。この辺は眼科より融通が利く。しかし生業の質は、これがぎりぎりのところだと思う。それは収入のことだけではない。

祖母の介護の頃から、私のフリースクール再建の道は、本業再開の可能性を失いつつ、社会活動として立てる方向に次第に後退していた。日本のフリースクールの実践史も、公教育によるつまみ食い(ゆとり教育)と未消化のままの復古という波の中に翻弄されてきた。私も某進学塾の裏仕事のような学力回復屋に限定的に治まっている。昔は、たまに請負いで授業の出前をやってきたが、事故入院後(2000~2002)、その請負い仕事も、祖母から父への介護の受け継ぎの中に追われるように時間を食いつぶされ、関係者の人間関係は押し流されてしまった。

今自分が始めている活動は、キャリア教育というか、学齢期を過ぎた方の就労という生活作りの社会人教育にシフトしてきたのだとも言えるように思う。教育というと教室という特殊な環境を前提に考えがちだが、社会参画(公私にわたる他者との関係作りと自己改革)の営みの意思的な関わりの総体を教育と呼ぼう。その広義の意味で、私の活動は、本業の仕事から社会活動へと軸足を変えてきている。介護との妥協の結果である。

生業の質がぎりぎりのバランスの中にあることは自覚している。しかし、2000年の事故で私は一度死んでいるのだと思っている。活動の継続は生業の中にあり、戻ってきた地域の社会活動は、実質0からの出直しとなった。人や活動をつなぐことによって生成する差異のすり合わせの接点を意図的に引き出す活動は、門付けのような無心と空転のまま8年を経ようとしている。そこに軸足を移しているのだから、活動の力学、自己形成と誕生の情動の熱気を発酵させる枠組みを、はずさずに生み出したいと思う。ジグソーパズルのはめ込み論や、受け皿論の自分を外に置いた論理を超えたい、その思いはますます強くなっている。

今必要なのは地域の消費生活に根ざした社会的企業つまり、公共活動のニーズに応える社会参画活動だと思う。地域起業の温床であり、プレ就労(企業就労または起業のための)のコンディション立て直しの場を生み出すことだ。それは依然芽をだせないままだ。

社会的弱者ということをめぐって、PJ創設時に論議があったことを思い出していた。私はこの言葉を好きになれない、しかし、社会参画と社会復帰の契機は社会的に認められるべきものだ。それは私たちひとりひとりの保険でもあるからだが、同時に企業賃労働の中に断ち切られた仕事と社会参画の、平和な融合を取り戻すためのものだ。その主人公を協働スペースに呼び寄せる磁場作りを悶々と探っている。

一昨日の夜は、PCテレコムを休み、網膜色素変性症の当事者団体JRPSの発刊したDAISY版の講演録を聞きながら目をつむっていた。視角障がい者向けの音声オンリー版なので、物足りなさと拡散する連想からDVDを止め、あれこれ考えていた。途中、中延君(仮名)の傾聴依頼が飛び込んだが、上記のような煩悶を堂々めぐりさせていた。

右目はちらつきは治まったものの、霞はまだ完全ではない。左はようやく前の調子を取り戻した。ぼちぼち書きこみも復活させるのでご覧下さい。

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次回の「夢たいカフェ」運営委への勧誘のために辻堂「ぽれぽれ」のTさんに電話をいれた。Big Issue 再販開始のご挨拶ということで、藤沢の「きずな」にも連絡を取った。順調といえば順調なのだが。

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父が最近静かになったというより調子が悪いようだ。一昨日は大声のレム睡眠行動障害を再発させたかのような一件があったが、とにかく眠りこけている。私の目の調子が悪かったので、配膳と夜の紙パンツ交換以外は、二階の父の部屋に上がっていかなかった。悪臭が階段を吹き降ろしてくるのて、ポータブルトイレを覘いて驚いた。椅子の右側全体が汚れて、椅子の右後のコンクリート土台の穴が尿浸しで溢れて、防水シートがびしょぬれになっていた。

父は椅子の右側の手すり越しに小便をしていたのだった。ベッドから伝え歩きが間に合わなかったのだろう。しかしその量は一・二回のものではなく一日がかりのものだった。尿の一部は防水シートから流れ出して、絨毯にシミを作っていた。紙パンツは乾いたままだった、介護に部屋に行き、そこで見た父は、尻と睾丸をむき出したまま、掛け布団を巻いて寝ていたのだ。

尿は茶色く濁り、時間がたって腐敗していた。猛烈な悪臭をふき取るには、木製のポータブルトイレを持ち上げて下を拭かなければならなかった。私は右ひざを骨折した後遺症で、しゃがみこむことが出来ない。ふたたびパンツ一丁で尿まみれを覚悟しなくてはならなかった。母がトイレの外枠を支えてくれたが、したたる変色した尿はラテックス手袋の手首から流れ込んできた。地獄だった。

拭き掃除を終えて、糞尿をためるバケツを一階のトイレに流しに行こうとしたとき、すさまじいことが起こった。バケツの無いトイレに、注意したにも関わらず、父が真横から排泄したのだった。尿は再び床に広がり、部屋に戻り制止した私の腕ははたかれ、怒鳴る父の入れ歯が宙を飛んだ。やり直しとなった。

2回目の清掃を終えて、先に母にシャワーをやらせたが、母は、こんなことで私の余生をつぶされるのと私に怒りをぶつけた。感謝や協力のかけらもない相手をなぜ介護しなくてはいけないのかというものだった。目にしみる悪臭のする手を洗いながら我慢してそれを聞いていた。

手を緩めれば、介護する妻と家族は世間から非難される。介護事業者も被介護者を優先して考える。母の同窓会では、すでに亡くなった方のために会員は半減しているという。死が隣り合わせにある年齢の人間の生の時間を、「介護に捧げよ」とは誰もいえないだろう。主の座を確保するために、宗教を振り回し、母方の仏壇を焼き、位牌を捨て、表札をノミで叩き割った人物である。母方の親戚は遠縁以外は亡くなり、孤立した母を従わせようとして数年後、その父が倒れたのだった。家族愛の強制を私達は長年受けてきた。だから父は交戦的なまま、感謝を弱みと間違えている。沽券に関わるからおむつをしない。しかし、間に合わなければ紙パンツにすればいいではないか。右手すりごしに排尿する横暴さを我慢する根拠があるのかと自問し、無神経と暴力の破壊力に耐えている。

父の膝の傷の化膿止めのクラビット錠を飲ませるのを忘れていたので、衝突の直後、再び水と薬を持って階段をあがった。ベッド枠にしがみついて寝転がっていた父もぎょっとした顔をしていたが、薬を飲ませて、照明を消した。

まもなく夜明け。

9時に父をデイケアに送り出す。10時には家業の関係で業者が来る。14時には家事援助の初仕事の方が来るので、説明の付き合いがある。16時半には父の帰宅待ちうけがある。しかし午後は母に任せ、眼科に行く。医院の昼休みが邪魔。16時半には家に戻らなくてはならない。タクシーかなと思う。夕食の下ごしらえをして、海老名の巡回。時間が間に合えば、サポセンで路上生活者のTさんからのメールチェックをする。睡眠時間の戦いの一日。

夜間傾聴:中延君(仮名・昨夜)
     なし(今夜)

<注文書籍より>
●「精神障害をもつ人たちのワーキングライフ―IPS:チームアプローチに基づく援助付き雇用ガイド」
●「ビレッジから学ぶリカバリーへの道―精神の病から立ち直ることを支援する」


(校正2回目済み)

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