湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

5/24 映画「天心の譜」上映会に参加してきました

2013-05-25 06:11:16 | 地震津波災害ボランティア
2013/05/24 記
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茅ヶ崎手をつなぐ育成会の「天心の譜(しらべ)」上映会に参加した。私は3.11関連から発想しているので、それがどこかで接点がないかと淡い期待を持っていた。この作品は、知的障がいをもつ9人の撮影隊が、「コバケンとその仲間たちオーケストラ」の営みを追う活動とその映像が中心となっている。そういうものとして観るべきなのだろうが、やはりその編集表現には違和感を感じるものだった。

それは小手先のものではなく、物事の考え方が背景にある。皮肉なことだが、小林研一郎氏が団員に伝えようとしている音楽に込められる気持ち、音楽が表現であるというメッセージが、転じて作品のBGMにも適応されることに落とし穴が見えてしまう。大事なことは、音楽は表現ゆえにメッセージ性を持っており、それが映像にかぶるとき、豊穣な映像の本質を忘れると映像と音楽のメッセージが衝突してしまう。

話はがらりと変わるが、被災地三県の中小企業が衛星を打ち上げる話がある。その中に未来に対する子どものメッセージを入れる。そうすれば、空を見上げた時に自分の理想が空にあるから、その子の人生の指針になるという話だ。それはそれだけで考えると、とても素晴らしいアイデアにみえる。しかしその背景で、理想に向かう子どもという形で、地上の子どもたちは束ねられてしまう。様々な子がいる。ひとりの子でも喜怒哀楽さまざまなコンディションがある。視覚に障がいのある子もいれば、ベッドから離れられない子もいる。こうしたことを考えると、シンボルをたててそこにひとを束ねる方法論の危うさが浮かびあがってくる。

理想をたて、そこに向かう姿に子どもを結びつけるとき、それは子どもの成長の神話に支えられていることに気がつく。これが高齢者なら…、背伸びの入れ物にひとを追い込む視角の偏狭さに気がつくだろう。音楽は根源的で豊かな表現を提供すると同時に、情でひとを束ね強いメッセージ性があるがゆえに、肉体を持った様々なひとを塗り込めてしまう。その精神性からみえてくる地上の私から見上げるそれは、いわば「公」の私だ。

小栗謙一監督の作品共通のテーマは、ファインダーの向こうの人物の命、変容と成長のドラマであるようだ。(全作品を見ていないので、”ようだ”と書く。)しかし、その映像を追体験している私は何者なのだろう。エリクソンのそれのように、成長の可能性を指摘された背を追う者なのだろうか。そこには、モデルとなった人物と私との同質性の認識がなければ、そのメッセージは伝わらないし、憧れている私を期待されている野放図のレッテルを貼られた私が見えるばかりなのだ。

宇宙飛行士やスポーツ選手、時代を遡れば軍人さんもまたその構図に束ね包み込まれてしまう。なぜ常に現在の私は脱皮していくべき否定的存在なのだろう。この違和感がつきまとってくる。

作品は初め小林氏の指導の中、楽団員がいきいきと演奏練習の中で成長していくのが見える。ここまでは、私は映像の中のブレス(息)を感じて見入っていた。ところがその練習が断ち切られる3.11の災害が割り込む。このとき、東日本大震災の被災映像が現れチゴイネルワイゼンが流れて、私の共感の絆は絶たれてしまった。

私は東日本大震災の破滅的映像を見たとき、一切の情感を捨てた。今ここで起きている現実と対峙すること、その現実はそのものとして向かい合おうと考えた。貿易センタービルに旅客機が激突したときもそうだった。リアルな物事を予定調和的な解釈に当てはめるなということ。人の営みや物事には常に音楽的な情感が伴うが、東日本大震災のそれは、沈黙の中に対峙が行われたのだった。被災したひとびとの思いへの想像が、チゴイネルワイゼンとは、被災した人に聞いてみるといい。作品と私がそこで切り離された。

その後、映像はスペシャルオリンピックの画像へと飛び、なんと第二次世界大戦の映像へと変わる。これらを貫いて、「私たちはどんなに絶望的な環境でも立ち直っていくのだ」と作品の影の主題がたちあがる。常民としての私らが困難を乗り越えていけることへのメッセージが送られてくるが、人災・天災・スポーツが、それを言いたいための素材に連ねられるとき、私たちは庶民として、またカタルシス中毒の観客となって会場から充足して家路につくのかなとうんざりした。もとのテーマの障がいを持った若者が表現を獲得して、社会参加していく姿の命の躍動を描いた方がすっきりする。

「語るべきは、今の私たちである。」また常民の感覚に訴えているのだろうが、ふまれてもふまれても立ち直って生きていくというテーマは、その共感に危険性があることを知るべきだ。いみじくも第二次世界大戦の画像を挿入したことで、この戦争を起こしたのが自らが支えた為政者であったことの自己責任をかなたに置き去りにしてしまう、常に「巻き込まれた外野」になる。

いや、よかった、よかったと会場を出る観客にさせられた私たちは、それこそ鈍麻した人間像ではないか。奇妙な編集をかけたために、何が言いたいのかさっぱりわからない作品だった。

蛇足だが、これ被災地で上映するのかなと老婆心が疼く。被災者の疎外感、通じないのかなと思う。

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有楽町の交通会館で、25日に東京で大船渡の被災映像が上映される。連携の可能性がないか、様子をみてくる。

●「津波惨禍の映像、東京で25日上映 大船渡・伝承館」

夜から授業なので、時間が大丈夫そうなら、PCAT東京事務局に寄ってくる。土曜日、大丈夫だろうか。


夜間傾聴>南橋本君&塾長

(校正2回目済み)

コメント
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