2011/10/26 記
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高校卒業程度認定試験が半月ちょっとに迫り、岩手に出かけ休んだ分のつけがまわってきていた。今回はなぜか東京組が多めで、訪問調整は同僚に任せる形となったのだが、逆に東京会場受験希望者が相変わらずいて、その担当をすることになってしまった。昨日はそんなわけで宿題詰めでブログを空けてしまった。申し訳ない。
気仙地方の訪問レポートを先に書く。
東海新報さんにお邪魔したので、**さんにお願いして碁石海岸線をたどって、末崎町の碁石地区コミュニティセンターに本拠を移動したという「さんさんの会」にお邪魔した。
さんさんの会は、震災後、リアスホールを本拠にして、和洋混合のさまざまな調理師さんたちのチームが配食サービスをたちあげ、400食を超える弁当を作っていた。イタリア料理のYさんや、和食のUさんが東京講演をされたときに、私は改めて交流を深めた。仮設住宅に被災者の方々が移ることを契機に、さんさんの会は本拠を移されたと聞いていた。
今回驚いたのは、配食サービスの対象を、独居の方など必要性の強い方に絞って、広範囲のエリアを配達されているということだった。ともかく専門の方が弁当をつくるので、素人作りではない、いわゆる「旨い弁当」なので、希望者も多かったろうと思う。そこを「対象を絞り込んだ」ということに骨っぽさを感じていた。
厨房はリアスホールとは桁ちがいに狭いものだったが、その場にいらした調理師Uさんの迫力に気おされつつ、なんとか調理の現場を見せていただいた。
100食ちょっとを作っているとのこと。陸前高田が近くなったので、そちらへの配食も考えているとの事。しかし、私の東京で会ったUさんは、目の前にいるUさんの息子さんとのこと。初めびっくりした。玄関先には、違う方が迎えてくださったからだ。先方も事情がわかって、しばらく私の話につきあってくださった。
私の関心事は、仮設住宅の見守り支援のことだった。大船渡市は北上市の資金の応援を得て、被災者70名の臨時雇用として、見守り巡回相談員制度を9月から始めていた。このため、見守り巡回の中心は、仮設自治会と、これらの相談員のネットワークに委ねられていた。さんさんの会の方々には、配食サービスを通じて、夫婦や独居の高齢者の方々や、比較的軽度の障がいを持った方の様子が垣間見られるか、そこまではうかがい知ることが出来ないというのか、その活動の経験をつかみたかった。つまり、被災した方においしものを食べていただくという本来の目的とは別の、副産物的機能のことに私は関心があった。
敗食時、特に様子がおかしいとか、応答がしばらくないというようなことはわかるが、それ以上は…というお話だった。私は阪神淡路の出来事を繰返してはならないと思っている。孤立し生気を失せていく高齢者の方々や、見えない先行きにアルコール依存症や心身症になったり、命を絶っていく50代、60代の「崩れていく人々」の続出に歯止めをかけたかった。
長期滞在型ボランティア以外に、後方支援からでは何も出来ないのかという悔しさがある。ましてや新聞紙面からは本当にうかがい知ることが出来なくなった障がい者の人々の状態などましてやである。
「命の旗」の有効性や、今後仮設コミュニティ作りの有効な契機となる「カー・シェアリング」の援助策のヒントをつかむような会話にはならなかった。職人気質のUさんは無口な方で、私の質問に応答するような会話だったからだった。
さんさんの会の今後に、「頑張ってください」と挨拶して、私は配食サービスの現場の課題を見せていただいて、サンリアSCに戻ってきたのだった。
サンリアSCの隣には、Yさんの新規開店のお店があるのだが、ご挨拶は翌日にして、日も暮れるので吉浜の民宿に向かったのだった。この一日、市議の**さんは私の運転手になってくださった。感謝。
最後に、民宿の場所に迷った私は、林道のような道の先で、野生の鹿の夫婦に出会った。到着後、鹿のことを聞いたが、珍しくも無く、畑を食い荒らして困るのだと、ぼそりと言った。環境の差に驚いた。
(つづく)
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父の介護度認定の更新テストがあった。家族が立ち会わねばならないので、父の入所している平塚の老健に行った。父の介護度は3。以前は4だったので、入所して改善があったというべきなのだろう。だいたい年1回あるのだが、今回のように、誤嚥性肺炎と急性腸炎で短期だが入院した場合、一度退所ということになるので、再入所には介護度の確認が必要だった。
路線バスの本数は気仙両市のような一日4本などという状態ではないが不規則なので、午後はぽっこり穴の開く魔の時間がある。それにもろにかかって、到着は10数分遅れてしまった。ところが父は昼食後、寝室に戻って昼寝を始めていた。話しかけても、うるさいとばかりいうしかめっ面をして、起きてくれないのだった。好物の寿司も煎餅もたちまち無駄足に終わってしまったのだった。
仕方が無いので、茅ヶ崎市から委託を受けた同老健のケアマネさんと、相談室で話し合うことに。入所生活の観察から大まかな父の心身の調子を確認した。私は在宅介護をしてきたとき、父と格闘に近い立ち回りをこなしてきた。だから、そのころの状況なら全身のほくろの位置までわかっている。老健では、入所生活観察の状態から,チェックシートの回答をつくり、それに違和感がないか家族に確認を取るという手順を踏んでいたのだった。父が目を覚ましたとき、検査を行い大きな変化があれば、確認連絡が来ることになった。父の認知症が少し進んだような気がしていた。入院騒ぎとなった誤嚥性肺炎は、珍しいものではない。しかし発見が遅れれば、すぐに炎症の熱が出、重症化する。その都度、10数万円かかるのではたまったものではない。老健に、食事後の誤嚥チェックを必ずして欲しいと要望を伝え、平塚経由で茅ヶ崎に戻った。市社協に立ち寄り、講演会共催の依頼をし、外回りを終えたのだった。
しかし地域の諸団体の反応が遅い。これが悩みだが、講演会は比較的通りがいい。家事で要請活動を中断したくないと思うのだが、こればかりはどうしようもない。在宅仕事分をできるだけしておけば、個別指導の訪問などの時間の融通の利く職種なので、やりくりができる。先に進みたいと思うが思うに任せない。
母と外食で夕食を済ます。母の調子はいいようだ。
夜間傾聴:橋本2君(仮名・久々に母親と話をした)
(校正2回目済み)
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高校卒業程度認定試験が半月ちょっとに迫り、岩手に出かけ休んだ分のつけがまわってきていた。今回はなぜか東京組が多めで、訪問調整は同僚に任せる形となったのだが、逆に東京会場受験希望者が相変わらずいて、その担当をすることになってしまった。昨日はそんなわけで宿題詰めでブログを空けてしまった。申し訳ない。
気仙地方の訪問レポートを先に書く。
東海新報さんにお邪魔したので、**さんにお願いして碁石海岸線をたどって、末崎町の碁石地区コミュニティセンターに本拠を移動したという「さんさんの会」にお邪魔した。
さんさんの会は、震災後、リアスホールを本拠にして、和洋混合のさまざまな調理師さんたちのチームが配食サービスをたちあげ、400食を超える弁当を作っていた。イタリア料理のYさんや、和食のUさんが東京講演をされたときに、私は改めて交流を深めた。仮設住宅に被災者の方々が移ることを契機に、さんさんの会は本拠を移されたと聞いていた。
今回驚いたのは、配食サービスの対象を、独居の方など必要性の強い方に絞って、広範囲のエリアを配達されているということだった。ともかく専門の方が弁当をつくるので、素人作りではない、いわゆる「旨い弁当」なので、希望者も多かったろうと思う。そこを「対象を絞り込んだ」ということに骨っぽさを感じていた。
厨房はリアスホールとは桁ちがいに狭いものだったが、その場にいらした調理師Uさんの迫力に気おされつつ、なんとか調理の現場を見せていただいた。
100食ちょっとを作っているとのこと。陸前高田が近くなったので、そちらへの配食も考えているとの事。しかし、私の東京で会ったUさんは、目の前にいるUさんの息子さんとのこと。初めびっくりした。玄関先には、違う方が迎えてくださったからだ。先方も事情がわかって、しばらく私の話につきあってくださった。
私の関心事は、仮設住宅の見守り支援のことだった。大船渡市は北上市の資金の応援を得て、被災者70名の臨時雇用として、見守り巡回相談員制度を9月から始めていた。このため、見守り巡回の中心は、仮設自治会と、これらの相談員のネットワークに委ねられていた。さんさんの会の方々には、配食サービスを通じて、夫婦や独居の高齢者の方々や、比較的軽度の障がいを持った方の様子が垣間見られるか、そこまではうかがい知ることが出来ないというのか、その活動の経験をつかみたかった。つまり、被災した方においしものを食べていただくという本来の目的とは別の、副産物的機能のことに私は関心があった。
敗食時、特に様子がおかしいとか、応答がしばらくないというようなことはわかるが、それ以上は…というお話だった。私は阪神淡路の出来事を繰返してはならないと思っている。孤立し生気を失せていく高齢者の方々や、見えない先行きにアルコール依存症や心身症になったり、命を絶っていく50代、60代の「崩れていく人々」の続出に歯止めをかけたかった。
長期滞在型ボランティア以外に、後方支援からでは何も出来ないのかという悔しさがある。ましてや新聞紙面からは本当にうかがい知ることが出来なくなった障がい者の人々の状態などましてやである。
「命の旗」の有効性や、今後仮設コミュニティ作りの有効な契機となる「カー・シェアリング」の援助策のヒントをつかむような会話にはならなかった。職人気質のUさんは無口な方で、私の質問に応答するような会話だったからだった。
さんさんの会の今後に、「頑張ってください」と挨拶して、私は配食サービスの現場の課題を見せていただいて、サンリアSCに戻ってきたのだった。
サンリアSCの隣には、Yさんの新規開店のお店があるのだが、ご挨拶は翌日にして、日も暮れるので吉浜の民宿に向かったのだった。この一日、市議の**さんは私の運転手になってくださった。感謝。
最後に、民宿の場所に迷った私は、林道のような道の先で、野生の鹿の夫婦に出会った。到着後、鹿のことを聞いたが、珍しくも無く、畑を食い荒らして困るのだと、ぼそりと言った。環境の差に驚いた。
(つづく)
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父の介護度認定の更新テストがあった。家族が立ち会わねばならないので、父の入所している平塚の老健に行った。父の介護度は3。以前は4だったので、入所して改善があったというべきなのだろう。だいたい年1回あるのだが、今回のように、誤嚥性肺炎と急性腸炎で短期だが入院した場合、一度退所ということになるので、再入所には介護度の確認が必要だった。
路線バスの本数は気仙両市のような一日4本などという状態ではないが不規則なので、午後はぽっこり穴の開く魔の時間がある。それにもろにかかって、到着は10数分遅れてしまった。ところが父は昼食後、寝室に戻って昼寝を始めていた。話しかけても、うるさいとばかりいうしかめっ面をして、起きてくれないのだった。好物の寿司も煎餅もたちまち無駄足に終わってしまったのだった。
仕方が無いので、茅ヶ崎市から委託を受けた同老健のケアマネさんと、相談室で話し合うことに。入所生活の観察から大まかな父の心身の調子を確認した。私は在宅介護をしてきたとき、父と格闘に近い立ち回りをこなしてきた。だから、そのころの状況なら全身のほくろの位置までわかっている。老健では、入所生活観察の状態から,チェックシートの回答をつくり、それに違和感がないか家族に確認を取るという手順を踏んでいたのだった。父が目を覚ましたとき、検査を行い大きな変化があれば、確認連絡が来ることになった。父の認知症が少し進んだような気がしていた。入院騒ぎとなった誤嚥性肺炎は、珍しいものではない。しかし発見が遅れれば、すぐに炎症の熱が出、重症化する。その都度、10数万円かかるのではたまったものではない。老健に、食事後の誤嚥チェックを必ずして欲しいと要望を伝え、平塚経由で茅ヶ崎に戻った。市社協に立ち寄り、講演会共催の依頼をし、外回りを終えたのだった。
しかし地域の諸団体の反応が遅い。これが悩みだが、講演会は比較的通りがいい。家事で要請活動を中断したくないと思うのだが、こればかりはどうしようもない。在宅仕事分をできるだけしておけば、個別指導の訪問などの時間の融通の利く職種なので、やりくりができる。先に進みたいと思うが思うに任せない。
母と外食で夕食を済ます。母の調子はいいようだ。
夜間傾聴:橋本2君(仮名・久々に母親と話をした)
(校正2回目済み)