湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

さぽちが(NPOサポートちがさき)の宿題レポート

2008-01-16 07:41:57 | 引きこもり
すみません。昨日、父の常備薬が切れたので、主治医に連れて行った関係で、時間が大幅に足らなくなりました。2時40分と5時30分に騒ぎが起きまして、どうも時間の感覚が鈍ってきているように思えてなりません。今は静かに寝ています。

私の夜間傾聴は基本的には声を出さず、オンラインの文面で話しています。ところが感情極まっている方には、これはもどかしすぎて、一部は、文字ではなく、やはりひそひそ話になってしまいます。この声をどういうわけか聞きつけるように、父が深夜、レム睡眠行動障害を起こします。

そんなわけで、町田さん(仮名)の怒りは、受け止め切れませんでした。通院時に父は、3回危うく倒れるところでした。足に脳からの指示が伝わっていないパーキンソン氏病の状態に入って、そのつど父は沽券に関わったような表情を見せ、泥沼が始まっています。

私の活動がこわれてしまわぬように、時間を効率的に使おうと思います。介護に効率はなじまないものですが、そこから離れた日常の部分にカンフルを打っている状況です。

さて、さぽちがは、今日の午後から全体会。そこにむけた来年度への提案のA4一枚の宿題が出ていました。いかにそれを転載します。単発・出前企画のような「結び目活動」をどうまぶしていくか、さて泥団子提案どんなものでしょう。

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***市民活動の高度化(企業化)と中間支援の役割***
                         文責:飛田
 私は1970年代から社会活動に関わっている。この社会活動は時代を敏感に反映しているので、ここの問題を書いていくことで、市民活動が抱える課題を考えることが出来るように思う。社会活動(特定の集団の利害を担う、課題解決型の活動)を市民活動と読み換えることは出来ないが、社会活動の変化から市民活動をのぞきこむ事は出来る。(市民活動は趣味や日々の営みを含む文化的な総体を対象にしているから、変化のスパンが違うし、構造がちがう。市民活動は、社会活動からはみだしている。)

 私が社会活動の中でまなんできたことは、その活動の課題が常に時代とともに動いていることだ。1960年代の市民の視点は、1970年代に入って自由な個人の表現の形が広範に登場した。私も、社会活動の大事な視点は、代議制の代弁者にすべてを任せていくのではなく、今生活者としてある自分が、その身の丈から、語りだしひとと取り結んで(ネットワーキング)いく、直接性の価値を基本に置くという発想だった。

 1980年代に入ると、こうした草の根型の社会活動も、より洗練された活動を行う、それぞれの分野のコア(核)になるような活動が育ってくると同時に、活動のステレオタイプ化もまた始まっていく。これは小さな活動がおのずと解決の限界を知り、束ねるに足る解決の見通しが渾然としてきたことから、活動集団の格差が広がり、安全な活動に内容を絞り込んできた結果、異業種交流のようなユニークな活動を持った集団が、全体をひっぱる活動へと転換して行った。

 1990年代は、テレコムの大衆化をバックに、ますます活動は個人の意思を出発点にするような形へと流れが生まれ、地域自治活動は危機にさらされていく。ここで問われていたことは、地域に古きよきご近所さんのつながりを復活させるのか、多様化した社会の様々な社会・文化交流(愛犬家・環境緑化・カラオケ等)をひげ根の根粒のように束ねていく、リメイクした共同性を生み出していくのかという分岐が生まれたのと同時に、様々な隙間と世代の断層が問題となった。

 デジタルデバイドを基礎に、世代間の断層はますます深まっている。地域といったとき、今若い世代に地域がいかなる意味を持つだろうか。消費経済の発達が自前の活動をばかばかしい労力を伴うものになってから、代行者の発想が忍び込んできたのもこの頃だ。

 活動の解決力を持つために、企業的な手法を導入する、いわゆるNPO活動の専業化が始まっている。しかしこれは一方で、身の丈の声をあげることから始まった活動のなだらかなステップを軽視することになる。代行制の罠だと思う。世代の断絶から、いわゆる市民活動の高齢化が進行しているが、果たして団塊の世代が市民活動を牽引してくれるのか、私は疑わしく思っている、若者と同様に乗るが牽引しないお客さんの習性を身に着けているからだ。

20代/30代の世代の家庭にとって、ひととつながる意味はどのようなことなのだろう。プレイパークとして市民活動は、気心しれた人の範囲でいいではないかといわれたとき、社会的意義はどれほどの光彩を放つことができるだろうか。

 私はこの点で、洗練化した活動が家庭と地域をどう課題にするか、活動を広げる際にぶつかっている人の心の壁を目前にする意味で、市民活動カフェの活動を評価している。違う価値観が浮かび上がるという点だ。ただこのことが巨視的にみたとき、大きな流れを生み出す力にするには、反語的だが、ナチスではないが巨大な願望の組織が生まれる以外ありえないだろうと思っている。私はだから、小さな動きを作ればいいのだと思っている。ノットワーキング(結び目の活動)だ。短期的な活動を呼びかけ、それを連発していく。問題は、中間支援は受け皿作りではなく、仕掛けに踏み出すことだと思う。その仕掛けのシンクタンクを若手を含んで仕掛けの仕掛けをしてみたらどうかと思う。いかが?

 以上

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夜間傾聴:町田さん(仮名:ごめん!)

(校正1回目済み)

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