お台場で3日にわたる集まりがあって、面白そうなところだけをつまみ食いしてきた。どういうわけか、僕が講師をしている某大検予備校の入学面談日といつも日程が重なるのだ。まったく…ネクタイ姿で、ゆりかもめに乗っているおっさんなどいやしない。
狙いはふたつあった。ひとつは現代環境アーティストの篠原猛史氏の招待講演、もうひとつは「まなびのパラダイムシフト」の状況論・正統的周辺参加論などの可能性をさぐっている研究者や教員たちのワークショップだ。
後者はこれからの学びを大きく変貌させていく原動力となっていくような質の高い集まりだ。僕の付き合ってきた学習困難児たちは、公教育の矛盾を一手に引き受けているような存在なのだが、学校という場を離れて私的な学習集団を組んだとき、学校の焼き直しではない新たな学びを要求される。その場面に新たな実践論の構想をかきたててくれるのがこの集まりである。ドン・キホーテでも妄想狂でもいい。この学校外の小さな試みは、人数こそ少ないが、教育の最前線の試みになりうるものだ。
しかしこの集まりには学校外のまなざしはない。いざ具体的な実践レポート発表となると、もう20年ちかく私塾運動の中でやりつくし、その塾は内容の限界から次の時代の壁を超えられずに、塾の衰退へと押し流された、その同じ道を新たな実践として、焼きなおしとは知らずに語っているのだ。学校の総合学習の時間利用の事例などは、話はそれで終わりなのかといいたくなる。学校は指導要領に縛られている分、今の社会取材型の授業が新鮮に見えるのだろう。検討されている活動の理論の広大な世界との落差がなんともいえない空しさがある。
僕のような地域の私塾・親の会の自主学習運動の立場から、それを取り上げている者は残念ながら見当たらない。教員は学校文化とでもいうべき独自の世界を作っている。自分でテーマを選び調べ友達と語り、発表会で意見の場を確保するという一連の仕組みが、教え込みという疲弊した教育からまなびを「解き放つ」方法と信じているようだ。その枠組み議論に子どもを入れてみればいいのだ。「どちらも結局は大人の都合ではないか」といわれるに決まっている。
今は付属校などの実験校と総合学習の時間など、一部の時間で試みられているだけだが、これが全教科、形式的に当てはめられたら地獄と感じる子も出てくるだろう。
学校は子どもを丸抱えしている。だから好きな教科も嫌いな教科も、子どもは好き嫌いなく身を合わせなくてはならない。そのことに教員は無頓着なのだ。やりたいものがやる、やりたくなるものをやるというのがフリースクールだが、レポーターの発想自身が学校空間のタコ部屋を意識していない。ここがいつもひっかかってしまう。
状況論は、公教育の学校空間を越えて、社会組織、私的なグループ探求に及ぶものだ。事実、職場に学びのメスをいれる研究がある。それが日本の教育現場の研究となると、どうして世界がステレオタイプ化してしまうのか。
どんなに小さくとも、ごまめの歯軋りで、そのことを超えていく学びを生み出していかなくてはと、苔の一念のように思うのだ。
篠原氏の招待講演の話はこのつぎに。
(つづく)
狙いはふたつあった。ひとつは現代環境アーティストの篠原猛史氏の招待講演、もうひとつは「まなびのパラダイムシフト」の状況論・正統的周辺参加論などの可能性をさぐっている研究者や教員たちのワークショップだ。
後者はこれからの学びを大きく変貌させていく原動力となっていくような質の高い集まりだ。僕の付き合ってきた学習困難児たちは、公教育の矛盾を一手に引き受けているような存在なのだが、学校という場を離れて私的な学習集団を組んだとき、学校の焼き直しではない新たな学びを要求される。その場面に新たな実践論の構想をかきたててくれるのがこの集まりである。ドン・キホーテでも妄想狂でもいい。この学校外の小さな試みは、人数こそ少ないが、教育の最前線の試みになりうるものだ。
しかしこの集まりには学校外のまなざしはない。いざ具体的な実践レポート発表となると、もう20年ちかく私塾運動の中でやりつくし、その塾は内容の限界から次の時代の壁を超えられずに、塾の衰退へと押し流された、その同じ道を新たな実践として、焼きなおしとは知らずに語っているのだ。学校の総合学習の時間利用の事例などは、話はそれで終わりなのかといいたくなる。学校は指導要領に縛られている分、今の社会取材型の授業が新鮮に見えるのだろう。検討されている活動の理論の広大な世界との落差がなんともいえない空しさがある。
僕のような地域の私塾・親の会の自主学習運動の立場から、それを取り上げている者は残念ながら見当たらない。教員は学校文化とでもいうべき独自の世界を作っている。自分でテーマを選び調べ友達と語り、発表会で意見の場を確保するという一連の仕組みが、教え込みという疲弊した教育からまなびを「解き放つ」方法と信じているようだ。その枠組み議論に子どもを入れてみればいいのだ。「どちらも結局は大人の都合ではないか」といわれるに決まっている。
今は付属校などの実験校と総合学習の時間など、一部の時間で試みられているだけだが、これが全教科、形式的に当てはめられたら地獄と感じる子も出てくるだろう。
学校は子どもを丸抱えしている。だから好きな教科も嫌いな教科も、子どもは好き嫌いなく身を合わせなくてはならない。そのことに教員は無頓着なのだ。やりたいものがやる、やりたくなるものをやるというのがフリースクールだが、レポーターの発想自身が学校空間のタコ部屋を意識していない。ここがいつもひっかかってしまう。
状況論は、公教育の学校空間を越えて、社会組織、私的なグループ探求に及ぶものだ。事実、職場に学びのメスをいれる研究がある。それが日本の教育現場の研究となると、どうして世界がステレオタイプ化してしまうのか。
どんなに小さくとも、ごまめの歯軋りで、そのことを超えていく学びを生み出していかなくてはと、苔の一念のように思うのだ。
篠原氏の招待講演の話はこのつぎに。
(つづく)