--- 今回も、ここの話から広げています。「日常を離脱する調理の中の美」の話。
☆自主学習のヒント集「視点をずらす(1):食材を見つめる・食材から考える」☆
鉄棒をまたいで、くるり天地反転した世界を味わったときのことを覚えているだろうか。見慣れた風景が一皮剥けたように新鮮に感じたのではなかろうか。東海道中膝栗毛の中にも、股をひらいて、その向こうに逆さ富士を眺める話があるそうだが、それも同じことだ。鉄棒にぶらさがったこめかみが脈打って、その視界も揺れていた。
大き目の手鏡を水平に持ち、その鏡の視界だけを見ながら歩くと空を歩いているような不思議な感覚になる。この辺は、感覚心理学の逆さメガネの実験を思い起こさせるが、その不思議な世界の話はいずれ話すことにして、僕らは普段、こういう張り詰めた視界の中ではなく、「日常」というまどろみの中を生きている。
天地を逆転させることによって、その常識の破れ目を垣間見たわけだが、僕らは「慣れ」の応援を得て日々を送っている。だから、その範疇に入らない視界は新鮮に見える。
その新鮮さを感じている自分(私を知る私…メタ自我)は、美という形で世界を直感的に再構成している。このクリアな鏡が、私の姿を映し出してくれる。
ゆでたキャベツの透過光に美を感じるとき、君は美を感じることが出来る君である。突き刺さる映像の矢の痛みに耐えるかのように意思的だ。その意思に支えられた個的な体験を他者へ伝えよう。言葉なり、絵画や写真、時には音楽に練り直し、伝わらないもどかしさの接点に君の鼓動が脈打っている。
身近な世界に君は確実に生きている。それを食の営みは、指し示している。流れるも、留まるもそれが価値を持つのは、君が光に照らし出されたときだろう。
マルセル・デュシャンの「泉」を思い出した。便器を倒し「便器」という社会的な意味を剥ぎ取ることによって、物は隠された自らを語りだす。便器という了解の世界からは封じられて見えないものがあるのだ。
冷蔵庫を開けたとき、そこに並ぶ食材は君の日常生活観によって「便器」と同じ「命名」を受けている。それを破る行為が「切断する」であったり「ゆでる」であったりするのだ。「指のフレーム(枠)」(本文参照)を活用して世界を覘きなおしてみるといいのだ。