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「行政の専制」 「民主」と「専制」

『逆行の政治哲学』より 自由のないデモクラシー トクヴィル:「行政の専制」

かつてドイツの法・政治理論家のカール・シュミットは、19世紀の政治思想史は1つの標語で概観できると言いきった。すなわち、「民主主義の勝利の行進」である。近代革命後、西洋のすべての国家で、「進歩は、まさしく民主主義の伝播と同義であり、反民主主義的な抵抗は、単なる防衛であり、過去の遺物の弁護であり、新しいものに対する古いものの闘争であった」。民主主義が、人類の進歩を意味すると同時に、現実的な政治目標になったのが19世紀の特徴だったということができる。

しかし、民主主義が現実的な政治原理となるにつれて、その形態は一義的ではないことが明らかになってきた。「それは、その最も重要な敵対者である君主主義的原理が消滅したとき、内容の明確さをおのずと失い、あらゆる論争的概念と同じ運命をわかつことになった」。つまり、「民主」主義は別の政治原理(主義)と対抗するなかでは積極的な意味をもちえたが、他の主義が消滅すると、それ自体としては明確な内容をもちえなくなったとされる。事実、フランス革命後の第二共和政における〈人民投票型〉「独裁者」の登場は、民主主義が「保守的でも反動的でもありうる」ことを示した。

こうして民主主義が勝利に向かうなかで露呈したディレンマを初めて体系的に論じた政治思想家が、アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville、1805~59年)である。確かに、彼の生きた19世紀前半のフランスの政治体制は(短期間の共和政を除けば)帝政か王政で、身分制は廃止されたとはいえ基本的に制限選挙制度が採用されていた。しかしトクヴィルは、ヨーロッパに比べて民主主義の勝利が確定的となったジャクソン時代のアメリカを訪れ,民主主義の利点と欠点をつぶさに観察した。また、彼は民主主義を、すでに完了したいわぱ静的な概念ではなく、ヨーロッパ諸国で現在進行中の動的な概念としてとらえることで、その行く末を占うことができたのである。トクヴィルの観察した民主主義は、平等を実現した政治・社会である以上に、平等化する政治・社会だった(その意味で、文脈において民主主義よりは「民主化」、あるいは政治体制を越えた社会状況を指すものとして「デモクラシー」と表記したほうが適当だろう)。シュミットの『現代議会主義の精神史的状況』(1923年)の議論に引きつけていえば、トクヴィルは民主主義に対抗する原理がなお根強く存在する時代に、それが消滅した後の「民主」的時代の問題の輪郭を描いたのである。

ところで、日本国内でも明治時代から、トクヴィルの主著『アメリカにおけるデモクラシー』(以下、「デモクラシー」と略す)は、福部諭吉などによって注目されてきたことはよく知られている。 1873(明治6)年には、福部の弟子である小幡篤次郎によって抄訳(邦題「上木自由之論」)が出版されている。それは『デモクラシー』第1巻の一部を英訳版(ヘンリー・リーグ訳)から翻訳したものだが、福部はその部分に依拠しながら分権論・民権論を主張した(「分権論J 1877〔明治10〕年刊)。たとえば『デモクラシー』第1巻第5章では、中央・地方の権限に関して「政治の集権」と「行政の集権」という概念が登場し,前者は全国一般にかかわる事柄(たとえば外交・安全保障)、後者は全国各地方の必要・便宜に従う事柄の集権というように区別されるが、福部はこれらを「政権」と「治権」と表し、トクヴィルに従うかたちで前者は自由にとって必要だが後者は不必要、むしろ危険であると論じた。と同時に福部は、「デモクラシー」第1巻で描かれた政府から自立した社会(「私立」)の必要を強調した。それ以後、明治の議論がどこまで影響したかはともかく、日本ではトクヴィルのデモクラシー論といえば分権論や政治参加が連想され、また「公」とは異なる市民の団体活動(今日ではNPOやNGO)の意義を論じる場合にしばしば参照されてきた。

確かに、トクヴィルの「デモクラシー」第1巻(1835年)では、アメリカにおける地域自治をはじめ自由の諸制度の存在が評価される一方、「行政の集権」の不在が指摘されている。だが、「デモクラシー」第2巻(1840年)では、「行政の集権」が現実的な脅威、すなわち民主主義において自由を脅かす最大の脅威として論じられる。直接的には、両巻の5年のあいだにヨーロッパで進んだ産業化と、それに伴う行政の役割拡大の観察が彼の問題関心を移行させたが、しかしトクヴィルによれば、デモクラシーそれ自体に「専制」を招来する原因が内在しているという。つまり、民主主義にとって自然なのは自由よりは専制なのだ。言い換えれば、それは放っておけば専制に至るおそれがある。そこで、従来のように弥縫策として自治を素朴に論じる前に、専制といういわば不正義の性格をまずは見定める必要があるのではないだろうか。

トクヴィルは、自由になった人間が自由を放棄するという民主的社会の矛盾を新しい専制として指摘した。確かに、新しい脅威を示す言葉として「専制」は古いと自覚しながらも、トクヴィルが同概念を用いたことにはそれなりの意味がある。つまり、そうすることで、彼の専制論は自由と専制という問題をめぐって格闘してきた西洋政治理論の伝統に連なることになったのである。専制の概念は、暴政や独裁に比べると政治思想史でそれほど注目されないが。その概念史は暴政と同様に長い歴史をもつ。また、必ずしも暴力的ではない--むしろ(後述するように)被治者の「同意」(民意?)を前提とするような--専制のほうが、近代以降の抑圧的体制を表現するのに都合のよいものとして浮上するだろう。それは、人類が文明化と民主化を同時に進展させた世紀の行進をいわば裏側から照射する概念として再注目されるのである。

本講義では、まず、西洋思想における「専制」の概念史の変遷を、主にメルヴィン・リクターの議論(Richter 1973)に依拠しながら概観する。そして次にその歴史を踏まえてトクヴィルの指摘する民主的専制である「行政の専制」の特質を明らかにする。最後に、彼がそれに抗して構想した民主主義の別の形態、自由のあるデモクラシーの条件を考察する。それは、冷戦体制崩壊で勝利した西側諸国の政治体制としての「リペラル・デモクラシー」ないしそのイデオロギーとは必ずしも同義ではない。むしろ、そのズレ自体がトクヴィル思想を今日意味あるものにすることを示したい。
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