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本棚システムで大英図書館を作り上げる

豊田市図書館協議会を傍聴しよう

 5月10日に豊田市図書館の指定管理者に関する協議会が開かれるようです。過去、2回、協議会委員〈2年任期)になったことはあるが、周りの人間は図書館にも本にも興味を持っていなかった。

 図書館協議会は「効率」だけで判断しようとするだろう。今、図書館に求められているものが行政では無理という観点での発展的解決を求めたい。公聴者には発言権はないので、原正しさだけが残るかもしれないが、私には思いはある。怨念として、残しましょう。

コミュニティが未来を拓く

 マルクスはパーティを作ることを求めたが、それが党になってしまった。コミュニティでなければいけない。ウクライナのことはウクライナの農民のコミュニティで作り出さないといけなかった。元々のレーニンの性格に寄るんでしょう。

 レーニンは無知な農民に苛ついだんでしょう。前提とシナリオが違っていた。かといって、トロッキーの全世界革命は無理筋だった。それにしても、パニックとか飢饉がウクライナで起こったこと。これは他国じゃないですか。ウクライナの農産物を重工業育成の犠牲にした。

本棚システムで大英図書館を作り上げる

 今日は京都で全国握手会。イクオに上野樹里を感じた。ノダメの出発点の音大3年生から。それに比べて、生田さんは音大2年生です。これからですね。続資本論でも書きますか。大英図書館としての本棚システムを急がないと、視力が持たない。

 「自由」、「平等」、「国家」などの本を近傍系で見えるようにしていく。

トランプ大統領で憲法改正と核武装か

 日本との関係では、核武装になっていく。何しろ、防衛のためには非常に効率的です。徴兵制なしに防衛できるという論理になっていくでしょう。エネルギーも効率的だと言うことで、日本列島という軟弱な地盤の上に原発を選択している国だから。

 核武装のためには憲法を変えることから始まる。
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OCR化した9冊


『トランプ革命』

 日本アメリカの未来

 二大政党を破壊する「アウトサイダー」旋風

 未来に希望がない若者たち

 トランプと「主流派」との駆け引きの見どころ

 「トランプ対クリントン」の行方

 「トランプ大統領」でアジア政策はこうなる

 アメリカはこれからも沈まない

 共和党政権との友好は日本の国益

 「国益」を真剣に考えるリーダーの時代

『沸騰現場を通じて考える「ニッポン再発見」』

 ドナウの真珠との意外な共通点 ハンガリー

  ドナウの真珠

  日本との意外な共通点

  そろばんを売り込め

  東欧の自由化をリード

  「ピクニック計画」とは?

  ハンガリーの悩み

  国民車スズキ

  日本的な働き方

  「食べられる国宝」

 謎の「沫承認国家」 ソマリランド  

  未承認国家の現実

  驚きのインフラ事情

  国としての機能は?

  なぜ「未承認」なのか

  主要産業はラクダ

  謎の国に日本人の若者が……

  脅迫にもめげず

  謎の国で日本を再発見

 奇跡の復活 エチオピア

  経済成長遂げる神秘の国

  長距離王国のドリーム

  日本とさほど変わらない。

  新たな難民問題が発生

  アフリカ最大の難民受け入れ国

  次なる「世界の工場」

  世界唯一のプレミアム

  意外な日本との接点

  巨大インフラ投資に潜む中国の野望

  中国の新世界戦略「一帯一路」

 謎のモザイク国家 レバノン

  謎のモザイク国家

  意外性と謎に包まれた国「レバノン」

  今も残る内戦の傷跡

  復活した「中東のパリ」

  周辺国に翻弄された歴史

  フエニキア人の末裔

  あの企業がレバノン進出

  食の大国レバノン

  ラマダンで勝負

  アラビア語圏のアンテナ

  難民キャンプの日本人

  豊かさが戦争を防ぐ

『先を読むマーケティング』

 日本とアメリカの書籍市場の現状

  日本の書籍市場

  アメリカの書籍市場

  日米の電子書籍市場

 消費者の購買意思決定

  効用最大化:便益と費用の比較

  製品差別化:電子書籍がもたらす便益は何か

  価格と取引費用:電子書籍購入時の費用は何か

  紙の書籍と電子書籍のどちらを買うか

 マルチサイドプラットフォームの進化

 ソーシャルメディアのビジネスモデル

  グーグル

  フェイスブックのビジネスモデル

 ビッグデータの意義

  消費者の購買インタフェイス

  ビッグデータのマイニング

 ビッグデータの商品化

  ターゲティング

  価格差別とロングテール現象

『是説現代心理学入門』

 集団構造化
  コミュニケーション・ネットワーク

  リーダーシップ

 集団内の社会的影響

  集団内パフォーマンス

  集団意思決定

 集合現象

  群衆行動

  普及と流行

  マス・コミュニケーション

『現代日本の教育を考える』

 社会教育をめぐる現代的問題--指定管理者制度-

  指定管理者制度の趣旨と目的

  指定管理者制度の現状と課題

  社会教育をとりまく文化的状況の変容のおそれ

  指定管理者制度の可能性

『図書館制度・経営論』

 コミュニティ基盤としての図書館

  アメリカ人の公共図書館の受け止め方

  わが国における公共図書館の受け止められ方

  公共図書館とコミュニティ

 図書館の社会的フロクラム

 アイデアストアからサラボルサ

 公共図書館の運営の今後

  直営か指定管理者かという選択

  公共図書館の資金と組織

  公共サービスの問題点

  公共図書館の新たな運営の模索

『戦後政治を終わられる』

 新自由主義の日本的文脈

  新自由主義の席巻

 新自由主義の思想史的考察

  スミスと「自由な市場」

  生産力か包摂か

  経済的自由主義と政治的自由主義

  資本主義の自己変革

  ケインズ主義とその落日

  シカゴ学派とチリの軍事クーデター

  資本の障害を除去せよ!

  階級の身分化

 日本的劣化--反知性主義・排外主義

  新自由主義的反知性主義

  草の根保守の組織化

  拉致問題というターニングポイント

  拉致被害者へのバッシング

  旧右派から新右派へ

  原発立地のカラクリ

  新右派連合の内実

  不良少年たちの逆説的状況

  寅さんの反知性主義

  庶民1と庶民2

  ポピュリズムから排外主義的ナショナリズムヘ

  「公正な競争」など存在しない

  大衆の変質

  トランプ現象

 「希望は戦争」再び

  国家に寄生する資本

  バブル依存の世界経済

  「成長戦略」としての戦争

『鉄道の歴史』

 ブレジネフの愚行

『世界の政治思想50の名著』

 はじめに

 アナーキー・国家・ユートピア

 共産党宣言

 平等社会

 ラディカルのルール

 ブランドなんか、いらない

 文明の衝突

 国家はなぜ衰退するのか

 国家興亡論
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国家はなぜ衰退するのか 成長が見た目どおりとは限らないのはなぜか

『世界の政治思想50の名著』より

権力と富--共有するべきか、否か

 公明正大な私有財産権、取引の自由、契約の履行を保証する法律制度、商業を支える道路の建設といったものはすべて、国家の力によって初めて達成できる。そして、誰もがそうした権利や自由を享受でき、それらから利益を得られるような制度が作られているとき、その制度は包括的制度と呼ばれる。しかし、法律制度や経済制度が社会のごく一部(たとえばラテンアメリカ植民地におけるスペイン人や、バルバドスのプランテーションの所有者、北朝鮮の支配者層など)だけを利するように作られている場合、それは収奪的制度と呼ばれ、国民の大多数は、進歩するために努力したり、よい生活をするために働いたりする意欲や能力を持つことがまったくできない。そうなると、経済は停滞してしまう。

 豊かな国と貧しい国を分けるのは、清潔な水、安定した電力供給、整備された道路、医療といった公共設備だけではなく、すぐれた法と秩序、刑法の公明正大さも重要である。先進諸国では、国民は夜中に明らかな理由もなく自宅から連行される心配はないし、政府は国民の家やビジネスを勝手に取り上げることはできない。

 さらに重要なのは、おそらく、それぞれの国家で国民が得られる機会の格差だろう。人びとはただ自宅に水道が欲しくてリオ・グランデ川を泳いで渡ったり、満員のボートで地中海を越えたりするわけではない。彼らが欲しているのは、母国ではエリート層でなければ手に入れられないチャンスなのだ。彼らは自分の才能を最も生かして、最大の生産性を上げられる仕事が選べる労働市場に加わりたいと願っている。

 ここで、包括的経済制度が国を豊かにすることが繰り返し証明されているとしたら、権威主義的な政治体制も含めて、すべての国が包括的な制度の樹立を願わないのはなぜなのだろうか、とアセモグルとロビンソンは問いかける。

 どんな国でも、エリート層は一般的に、多元主義的で開放的な経済制度の樹立に抵抗するものだ。なぜなら、そのような制度は彼らの収奪的な権力を脅かすからだ。権力を手に入れた者は、決してそれを手放したがらない。ほとんどの独裁者(著者は一九六五年から一九九七年にかけてコンゴを支配した独裁者、ジョゼフーモブツを例に挙げている)は、単に豊かな国家の支配者でいるよりは、国民から略奪し、ジェット機や自宅にぜいたくにお金を使う方が、いい暮らしができると信じている。残念なことに、モブツのような独裁者の考えは正しいのである。コンゴのような独裁国家では、堕落した王であれ植民地の支配者であれ、社会主義革命家であれ、クーデターを起こした軍部であれ、何らかのグループが権力を掌握し、政権の座に座っている。対照的に、包括的な制度の下では、富や権力は国民の間で分配されており、権力者が不当な利益を蓄え、それを持ち逃げするのは難しい。もしそんなことが起きれば、権力の座にいるのが誰であろうと、投票によって職を追われるだろう。

 スタンダードオイル社のように、十九世紀にアメリカで誕生したいくつもの巨大な独占企業は、市場だけでは包括的な制度が達成できないことを示している。実際、市場の独占は、権力と富を蓄え他人から機会を奪うために利用できる。「トラストの解消」は現在も政府の重要な役割の一つだ。アイダ・ターペルのように、政府の腐敗などを徹底して暴き出す「マックレイカー」と呼ばれるジャーナリストは、ヅァンダービルトやロックフェラーのように独占によって富を築いた「泥棒男爵」の腹黒い行動を明るみに出し、独占を防ぐ対策を講じるように政治家に圧力をかけた。政治家の中にこうした泥棒男爵の味方がいても、ひるむことはなかった。報道の自由は、収奪的な傾向に対する歯止めとして、これからもなくてはならないものだ。実際、テレビであれ新聞であれインターネットを利用したソーシャルメディアであれ、メディアの統制は、収奪的な支配体制においてはおそらく何よりも重要な項目だろう。

権力の分配--歴史の影響

 不平等は持続するだけでなく、時間とともにさらに拡大していく。なぜなら、国家の制度というものは(アセモグルとロビンソンが指摘するとおり、それはしばしば「過去に深く根を下ろしている」[上巻]、さまざまな方法で不平等を拡大させるからだ。いったんある国家が作られると、その国の最初のあり方によって、ものの見方や行動の仕方が決まってしまい、あとからそれを変えるのは難しい。万人に対する機会の欠如が最初に問題視されなければ、その状態は社会に定着してしまう。

 現在の制度があるグループや階級にとって都合がよければ、彼らは国民の多くの利益のためにそれらの制度を改革する気にはならないだろう。このようにして、社会はより多くの国民に、より多くの利益を約束する制度や政策を合理的に評価して作られるのではなく、権力者が彼らの利益を守るために作った政策によって形成される。権利が奪われていると感じるグループ、たとえば極左政党などが政府を転覆させたとしても、結局は他のグループを犠牲にして自分たちの権力を強化するだけで、不安定な社会のパターンはそのまま受け継がれる。ドイツの社会学者ロベルト・ミヒェルスが「寡頭制の鉄則」(上巻)と名づけたこの現象は、なかなか覆せないことが歴史的に証明されている。国民全員に繁栄と参加の機会がある真に成功した国家を創造できるのは、権力の分配を確実に行なう制度だけだ。ある国家が権力を分配する方向に発展する理由は、しばしば偶然によるもので、「決定的な岐路」(上巻)とも呼ばれている。

 それは社会のバランスを崩すような大事件の場合もあれば、さまざまな要因の積み重ねの場合もある。北アメリカ植民地は、設立当初はヨーロッパの封建制を模倣した社会になるはずだった。豊かな地主が低賃金労働者や奴隷から富を収奪する社会である。南部のプランテーション経済ではそれが実現したが、北部植民地では労働力(白人と先住民族の両方)の不足によって入植者に強い交渉力が生じ、また、土地そのものも単一の家族が耕す小規模な土地保有に適していた。こうした条件が入植者の間に自立的な思想を育てるため、入植者に豊かになろうとするインセンティブを与えない限り、新しい土地の開拓は進まないとイギリス政府は理解せざるを得なかった。

成長が見た目どおりとは限らないのはなぜか

 少なくとも短期的には、収奪的な制度を持つ国家がうまくいかないわけではない。一九三〇年代から一九七〇年代にかけて、ソビエト連邦は国家権力によって産業を農業から工業に移行することで、急速に発展した。しかし一九八〇年代になると、ソ連の経済成長は一気に減速した。

 ときには収奪的な政府が、経済を急成長させる場合もある。世界的に需要の多い商品を独占している場合(たとえばバルバドスの砂糖生産のように)や、収益の低い産業(農業)から高い産業(工場生産)に資源を移動させる場合がこれに当てはまる。スターリンが農場を集団化し、その収入でソビエトの工業を興したのもその一例だ。その工業化の過程は市場経済に比べれば非効率的で、技術の進歩は遅く、強制されたものだったが、それでも経済成長は生じるのである。一九二八年から一九六〇年にかけて、ソ連の経済は年率平均六パーセント成長した。多くの人びとはこの成長が持続的なもので、いずれはアメリカ経済を凌駕するとさえ思い違いをした。実際には、アセモグルとロビンソンが指摘するように、一九七〇年代に「イノベーションの欠如と経済的インセンティブの不足によってそれ以上の進歩が妨げられ」(上巻)、成長は止まってしまった。

 過去十年間の中国の成長は、ソビエト連邦の爆発的成長と非常に似通っていると著者は言う。中国経済はソビエトよりもはるかに多様性があるし、中国には数百万人の起業家がいると認めているが、ソビエトと同じ原理は中国にも当てはまる。「政治制度が収奪的である限り、過去の同様の事例と同じく、成長は本質的に限られたものになる」(上巻)と著者は言う。中国で持続的な成長が可能になるためには、中国経済が「創造的破壊」(上巻)を受け入れなければならない。政府が多数の国営企業を所有・支配している現状で、その可能性はどれくらいあるのだろうか? さらに、創造的破壊は包括的政治制度を通じて初めて実現するのだが、中国でそうした制度が誕生する兆しは見あたらない。
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ブランドなんか、いらない 消費者か、市民か?

『世界の政治思想50の名著』より

消費者か、市民か?

 クラインが『ブランドなんか、いらない』を書き終えた一ヵ月ほど後、世界貿易機関(WTO)のシアトル会議で、最初の大規模な「反グローバル化」抗議行動が行なわれ、その後、世界各地で同様の活動が続いた。『ブランドなんか、いらない』の十周年記念版の序で、クラインは、反グローバル化というのは誤った名称だと書いている。彼女や他の活動家が反対しているのはグローバル化そのものではなく、国際的な自由貿易協定から地方の水利権の取引まで、あらゆる政治のレペルで、ゲームの規則が限られた企業の利益に合うように歪められてきたという事実だという。WTOやその他の組織は、市場原理を掲げ、政府を軽視して、その影響を可能な限り減らそうとする「新自由主義コンセンサス」の一部だとクラインは考えた。

 二〇〇一年に起きた同時多発テロ事件によって、クラインの活動計画は多少の遅れを余儀なくされた。その情勢の中、資本主義に異議を唱えることは反愛国的と見なされたからだ。資本主義を攻撃することはアメリカを攻撃するようなものだった。自由貿易は愛国者の義務となり、「テロとの戦い」の支援にさえなった。

 一九九〇年代に縮小され、資金不足に陥っていた多くの政府機関(空港、病院、公共交通機関、水道、食品検査)が再び注目を浴び、テロの脅威に対応する能力の不足が明らかになった。倒壊寸前の世界貿易センタービルに突入した消防士たちの英雄的な活躍そのものが、公共部門には確かに果たすべき役割があるという印となった。そして、イラクでの戦争で後方支援を請け負ったハリバートンのような民間企業が、軍部と結託して利益を上げているというニュースが報じられると、今や政府は多数のためではなく、少数の利益のために存在するという疑念が裏づけられる結果になった。

 『ブランドなんか、いらない』に続いて出版された『ショック・ドクトリン』(二〇〇七年、テーマは新自由主義経済が発展途上国に与える影響)や『Rhing Changes Everything(これがすべてを変える)』(二〇一四年、テーマは気候変動対策に対する企業の抵抗)など、クラインの著作はすべて、今の世界秩序を維持している前提に疑問を投げかけるものである。

 人びとが必要とするものよりも、企業の短期的な要求(減税、規制緩和、投資機会の拡大)を優先するとき、私たちは高い代償を払うことになるとクラインは言う。自由放任の市場原理主義が失敗している証拠が山ほどあるにもかかわらずそれにしがみつくのは盲信に近い。それは、ジハードという名の自爆テロを行なう狂信的信者の信念体系と同じように非合理的であるとクラインは考えている。

 『ブランドなんか、いらない』は四部で構成されている。「奪われた公共空間」では、文化や教育へのマーケティングの浸透に注目する。「奪われた選択肢」では、企業にとって都合が悪いために押しつぶされる文化的選択肢について考察する。「奪われた仕事」では、臨時雇い、パート、外部委託の増大を描き出す。「そして反撃は始まった」では、抵抗の具体例と「企業支配」に代わる選択肢を示す。この本は、表面上は「ブランド・ブリー(*訳注 ブランドの力を使って人びとから搾取する大企業)」という新しい権力がテーマであるように見えるが、深いところでは「今、私たちは何者なのか? 消費者か、市民か?」を問いかけている。

 『ブランドなんか、いらない』は、二十八の言語でベストセラーになり、社会的良心を持っていないとベビーブーマー世代から批判されていた世代の政治的関心を高めたとしばしば言われる。しかし実際には、態度を変えたのはベビーブーマーの方だった、とクラインは指摘している。

公共領域の浸食

 『ブランドなんか、いらない』が注目したのは、発展途上国の搾取工場だけではなかった。欧米諸国では、忍び寄る企業支配、つまり、私益による公共領域の乗っ取りが進行しているとクラインは感じ、それが本書のテーマの一つになっている。一つの重要な例は、アメリカの大学がスポーツシューズやソフトドリンクの会社と結んでいるスポンサー契約である。問題なのは、その契約の条項によって、大学がリーボックにせよコカ・コーラにせよ、契約を結んだ企業を「批判する」ことが禁止されている点だった。コカ・コーラとスポンサー契約を結んでいるケント州立大学で、アムネスティのグループがナイジェリア解放運動の人権活動家を講師に招き、コカ・コーラが当時の独裁政権を支援していることに注意を喚起しようとしたことがある。しかし、大学当局は、講演がコカ・コーラを批判するものであることを知ると、そのイベントヘの資金援助を拒否したのである。こうした契約は、「学校の根源的な価値に(中略)影響を与える。(中略)学内の言論の自由や平和的な抗議運動も、影響を受ける」)とクラインは言う。

 彼女はまた、大学の研究室や研究組織に対する企業の支援にも言及している。ある研究結果がスポンサー企業の価値を下げるものであったとき、それを発表しないようにという圧力を大学はかけられる。そういう場合、大学はたいがい研究チームではなく企業の側に立つ。研究内容自体が企業の利益に合うように意図して作られるケースもある(タコ・ベル提供のサービス業スクール、Kマート提供のマーケティング学科、ヤフー!提供のIT研究センターなど)。しかし、公的な大学に期待されているのは私益に影響されない研究である。

 大学が企業のようになったとき、大学は真実と客観的な議論のための公共空間であるという考えは失われる、とクラインは言う。投資した金額に見合う成果を得るために、大学当局に自由な言論を封殺させようとする企業から大学の大半が資金提供を受けるような事態になれば、公共空間は決して実現しない。

実質的な選択肢の消滅

 一九九〇年代の末、世界中に、マイクロソフトの「今日はどこに行きたいですか?」といった広告が爆弾のように投下されていた。本当の問いは、こうだったはずだとクラインは言う。「私たちのこのシナジーの迷路に、どうしたらキミを迷い込ませることができるかなあ?」

 大規模な合併、買収、企業シナジーが意味していたのは、選択肢、双方向性、自由が拡大する時代というのは幻想だということだった。実際には、多数のブランドや製品が一社に所有されていることが多かった。それを可能にしたのは、レーガン政権下で始まった反トラスト法の弱体化だった。

 巨大企業は、莫大な現金の力で中小企業をつぶし、納入業者を搾取し、最小限のコストで製品を作らせる「かぎりない低価格競争」を行なった。その結果、チェーンストアが優勢になり、その背後にいる企業にさらに大きな力を与えた。

 ウォルマートやスターバックスが新しい州や地域に進出するときの戦略は、その地域を一気に店舗網で覆い尽くし、競争相手をすべて追い出してしまうことである。

 中には十分に顧客を獲得できない店舗も発生するが、全体で見れば会社の収益は増加する。この「カニバリゼーション」戦略を実行できるのは資金が豊富な会社だけである。スポーツ用品のナイキタウンやCDショップのヴァージン・メガストアといった新しい大型店には、デパートで他のブランドと競争するのを避ける目的がある。カナダの衣料品小売り企業ルーツは、サマーキャンプまで開いて、自社製品が一つの「規範」や「伝統」の一部であることを印象づけようとしている。ウォルト・ディズニー社がフロリダに建設した街「セレブレーション」には、広場などの公共空間が数多く設けられていて、落書きもないし、浮浪者もいない。しかし、現実世界の学校、図書館、公園などの公共空間にかける予算は、ますます削減されつつある。
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