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図書館長活用術 多ジャンルを多読できる「お手玉式貸出」

『図書館長活用術』より 「教養力」編 知識をアップデートし続ける「NDC自担」 ▽習慣化することで、特定ジャンルをライフワーク的に追える 多ジャンルを多読できる「お手玉式貸出」 ▽無理なく継続的に勉強できる ⇒ 私の場合は、これにOCR化を20年来やっています。

「NDCの自担」とは逆に、できるだけ雑多にさまざまなジャンルの本を読んでいく「多ジャンル多読」も、役に立つものです。

わかりやすいメリットとしては、コミュニケーションに強くなることがあります。

新聞記者をしていたころ、私はよく初対面の人(新任された役所の幹部とか)にインタビューをしたのですが、これがなかなかたいへんでした。

こういったインタビューの対象は「普通の人」であって、著書もなければ、過去のインタビュー記事もない。事前に予備知識を入れようがないのです。

業務のことを聞けばちやんと答えてくれるものの、そんなことばかり聞くのもおもしろくない。それに、いつまで経っても雰囲気が和まないので、ころあいを見て「趣味はなんですか?」と水を向ける。そこで、自分でも食いついていけるジャンルの話になるかどうかで、インタビューの成否が決まってしまいます。

過去には、ほとんどしやべってくれないインタビュー対象者もいました。あまりにも書くことがないので「ところで休日はどんな感じでお過ごしですか?」と聞いたら「奈良の遺跡をめぐって考古学の研究をしている」といった「ついていけないマニアックな話」になってしまい、後悔したこともあります(このときのショックでいまや私も考古学ファンになってしまいました)。

こういった経験で学んだのは「雑談をするには雑学が必要だ」ということです。

単純な話で、広く浅い知識があれば、共通の話題を見つけやすいのです。

コミュニケーション能力などなくても、雑学さえあれば初対面の人とそこそこ打ち解けることができます。

こういった「雑談能力」は、人を感化したり、異性を口説いたりといったエモーショナルなコミュニケーションには、役に立たないかもしれません。しかし、商談の前に軽く世間話をして場をなごませたり、仕事の情報交換や打ち合わせをしたりするくらいならこれで充分なのです。

さて、そんな雑学を身につけるには、図書館を使ってたくさん本を読むことです。

ネット検索でも知識は得られますが、ウィキペディアのような断片的すぎる知識は使えません。いくら細かく歴史の年号を覚えていようと、世界史の話で盛り上がったり、議論したりはできませんね。

ネット検索だけの知識は、柱やタイル、レンガなどの建材を空き地にガラガラと積んで「これが僕の家です」と言っているようなもの。知識というのはちゃんと構築されていないと使えないのです。

多読する場合、本は最初から最後まで読むとは限りません。おもしろくなければすぐ返せばいいし、「あ、ここはもう知ってるな」「ここまでマニアックな話はいいや」というところは飛ばせばいい。読みにくい文章なら、読めるところだけ読めばいいのです。

このやり方は気楽でいいのですが、大量の本を使うという問題があります。図書館で10冊も借りて帰ると重くて疲れてしまいますよね。

実は貸出で大量の本を読むには、ちょっとしたコツがあります。

それは「お手玉」のように、図書館と自宅で本をくるくる回して読んでいくこと。たとえば、私が日ごろやっている方法は次のような感じです。

 1 自宅に借りた本が10冊ある

 2 オンラインで3冊、貸出予約をする

 3 予約した本が図書館に届くまでに、自宅にある10冊のうち3冊を読み終える(最初から最後まで読むわけではなく、8割はザックリ読み)

 4 図書館カウンターで3冊を返し、同時に予約の3冊を受け取る

このやり方だと、家にある図書館の資料は常に10冊前後になります。返却期限もズレてやってくるので、「○日までに全部返さなければいけない」といったこともない。気持ちにもゆとりができます。

10冊借りて、10冊返して、というのはさすがに重たくて嫌になってしまいますが、(いつも自転車移動なので)3冊程度なら、さほど負担は感じません。

この方式なら、大量の本を一気に運ばなくても多読ができるわけです。

私は、予約せずに図書館の棚で本を探すときも、行く前に家にある貸出中の本を何冊か読み切ってから、返却カウンターに持っていくことにしています。

どうしても期限までに読み切れないときは、途中でもすっぱり諦めて返却することにしています。しばらくして「返却したけど、やっぱりあの本を読みたいな」と思ったら、書店で買うか、また借りるかすればいいのです。

この「お手玉方式」のために、私はスチール製のブックシェルフ(横置き本棚)を使っています。

この方法で借りた日ごとに本をまとめておき、レシート状の「貸出票」をマグネットで留めておけば、うっかりして期日を過ぎてしまうようなことはありません。
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図書館長活用術 分類法則を語呂合わせ暗記

『図書館長活用術』より 「発想力」編 分類法則を語呂合わせ暗記 ▽発想のヒントになる本を思いどおりに探せる ⇒ NDCが基本ですね。未唯空間のライブラリの3千冊もNDCがあるから近傍システムになり得る。

発想のために図書館を使うとき、ぜひ頭に入れておきたいのが「分類法」です。

全国の図書館は、「日本十進分類法=NDC(Nippon Decimal Classfication)」という分類法で本を並べています。

このNDCをほんの少しでも知っているのと、まったく知らないのとでは、本を探すときの手間がまるで違います。NDCをほんの少し覚えておくだけで、圧倒的にラクになるのです。

というのもNDCは(国会図書館やごく一部の大学図書館を除いて)全国どこの図書館でも使われているからです。公共図書館ならすべてNDCと考えて間違いありません。

つまりNDCの仕組みさえ理解しておけば、日本中どこの図書館に行っても通用するというわけです。NDCは、図書館を自在に使いこなすための第一歩と言えます。

ちなみにNDCは、情報の「分類整理」であり、ピンポイントで目的の情報を探し出す「キーワード検索」とはまるで違います。そのためネット検索とは、またひと味違った発想ができるのです。

そこで、ここでは簡単にNDCを紹介し、頭に入れる方法をレクチャーしておきます。

まず図書館の本はすべて、表紙と背表紙にラベルが貼られていますが、このうち背表紙に載っている文字や数字のことをまとめて「請求記号」と呼びます(表紙にあるバーコード付きのラベルは貸出処理などの管理用なので無視してください)。

この請求記号の中には、「375・4」とか「212」といった3、4桁ぐらいの数字が必ずあります。これがNDCに基づく「分類番号」です。

この分類番号は「本のジャンル」を表しており、本棚に入れるときも「212↓213↓214」という順番で並べられます。図書館の本棚は、最上段の左端から始まって、最下段の右端までこの番号に沿って並べられているわけです。

この数字のせいでNDCは一見難しく感じますが、ポイントをつかめば意外と簡単。2つか3つかでも「ジャンルの番号」を覚えておくだけでぜんぜん違うのです。

コツはいきなりすべてわかろうとしない

まず、NDCの番号は「いちばん左の番号」だけを見る。

「916」「070」という番号がラペルにあった場合、「16」や「70」はひとまず無視して、「9類の本」「O類の本」と捉えておきます。

いちばん左の数字はO~9の10桁しかないので、これによって、図書館の何十万、何百万という本が、たった10のジャンルに分類されていることがわかりますね。

では、その10分類とはどんなものかというと、次の通りです(覚えやすいものに★を付けておきました)。

  O 総記:1から9のどこにも当てはまらない本。百科事典が代表。ちなみに図書館学の本もここ

 ★1 哲学:哲学書だけでなく宗教書も入る。分厚い思想書からビジネスパーソン向け自己啓発書(159:人生論)までいろいろ

 ★2 歴史:日本史、世界史、地理の本。旅行ガイドもここ。レジャーから出張・旅行まで、よく使う

  3 社会科学:法律、経済、社会などの本。経営学・統計学などもここ。組織のリーダーをはじめ、ビジネスパーソンの仕事に欠かせない

 ★4 自然科学:宇宙や地球、動植物といったネイチャー系の本。「医学」もここ。気晴らしにもいい

  5 技術:工業や土木、機械、製造といったぶ狸業着分野≒料理や手芸などの「家政」分野もここに入るので注意

  6 産業:農業や畜産、商業、マーケティング、運輸など。「お仕事知識」の本はここ。鉄道や船、飛行機など「乗り物好き」も御用達

 ★7 芸術:絵画や音楽、写真などに加えて、スポーツ、将棋やマジックもここ。ひとことで言えば「趣味の本」

 ★8 言語:日本語と外国語にまつわる本。語学の本はここに集合

 ★9 文学:小説、エッセイ、詩などの文芸作品。貸出の多い「読みもの系」

まず「9:文学」。これは要するにほとんど小説です。公共図書館ではスペースが大きく、入り口近くなどのいい場所にあるのですぐわかるでしょう。本好きにはおなじみの棚ですがビジネスではあまり使いません。

次は「2:歴史」です。これは受験科目の日本史・世界史・地理とほぼイコールなのでイメージしやすいですね。旅行好きならガイドのたぐいを使うだろうし、本を読む人で歴史に興味がない人は少ないので、よく見ることになるはずです。

さらに、英会話などの語学をやっている人にとっては「8類:言語」、動物や昆虫、植物が好きな人にとっては「4類:自然科学」なども覚えやすいでしょう。忘れたときは、図書館の案内を見てください。

次のように語呂合わせで覚えることもできます。

 ・O総記→ゼロだから「なんでも」

 ・I哲学→「哲学」は第一の学問

 ・2歴史→二つ合わせて「歴史・地理」

 ・3社会科学→「さわやか三組」の「社会科学」(そういう教育番組があったんです)

 ・4自然科学→四は「自然科学」のシ

 ・5技術→轟音がする「工業技術」

 ・6産業→むっつり黙って働く「産業」

 ・7芸術→「NANA」は「アート」

 ・8言語→話す「言語」

 ・9文学→苦境・窮状の「文学」

これで、大まかな分類がつかめました。次にもっと細かい分類を見ていきますが、これもさほど難しくはありません。

と言うのも、3桁以上ある分類番号は、大分類をさらに細かく分けているだけだからです。たとえば分類番号「216・3」なら、次のような仕組みです。

 200:歴史(「O」は「なんでもあり」の意味で使われる)

 210:日本史(「歴史→日本史→なんでも」の意味)

 216:近畿地方の歴史(「歴史→日本史→近畿地方」の意味)

 216・3:大阪府の歴史(近畿地方をさらに分類)

仕事の専門に応じて、3桁のNDC分類番号を覚えておくのも手です。「595:理容・美容」「689:観光事業」など、それぞれの業界に対応する分類もあります。私は新聞記者だったので「070:ジャーナリズム」を含む「O類:総記」から覚えていきました。

このように、便利なNDCですが、欠陥もあります。

簡単に言えば「NDCは図書館が書庫の本を整理するために作られた仕組みであって、ぶらぶら本を見ていく利用者のことはあまり考えられていない」ということです。

NDCに忠実に本を並べると、『高分子ナノ材料がわかる本』(578:高分子化学)の近くに『できる主婦の片づけテクニック』(590:家政)とかいった本が並ぶといったヘンなことが起きるのです。

ほかにも、たとえば書店ならすぐに見つかる「田舎暮らし」というジャンルもNDCにはないので、たとえば「会社を辞めて田舎で自然に囲まれた生活をしたいな」と考えている人の場合、「365:生活・消費者問題」だけでなく、自分で考えながら「611:農業経済」「660:水産業」「650:林業」あたりを見ていかねばなりません。

そこで、ほとんどの図書館では、すべての資料をNDCで分類しつつも、料理や健康本、就職活動などのテーマ・ジャンルごとに本を∵刀所に集め、利用しやすいようにしています。これを「別置」と言います。

とりあえず、10の大分類のうち半分でも覚えていれば準備はバッチリです。
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「アジア的」ということ 「内側」と「外側」

『アジア的ということ』より 「西欧的」ということ

「内側」と「外側」

 また西欧的な概念として流行である「内側」と「外側」という概念でいいますと、「外側」ってのは共同体の内部ではいらないわけで、「内側」同士の支配と被支配というのをかんがえれば、「外側」と同じ役割か同じ意味をもつことになります。「アジア的」な社会が「外側」という概念をもったのはほんの最近のことです。日本でいえば近世の初頭くらいのときにはじめて本格的な意味で「外側」をもったといえるほどです。これはどこの「アジア的」な国の社会でもそうです。インドの社会でも、仏教なんかが発生した太古から一九世紀の初頭くらいまでのあいだは、やはり典型的な「アジア的」な社会で、「内側」だけで話はすんでしまったとかんがえられます。農耕的な社会があって、余計な収穫物は税金として納めるという大きな筋道があって、インドの社会でいうと家内工業、つまり農家が兼業でもっていた紡績の小さな工業があって、それを販売する商業がわずかに成りたっている、それが一九世紀の初めまで続いてきた社会の像です。「アジア的」な社会で「外側」という概念をかんがえると、征服王朝はありますから、これは「外側」と「内側」が絶えず同一性として交替しているわけです。ただ末端の村落共同体あるいは農耕の共同体では、紡績が家内工業の域を脱しないうちは「外側」という概念を作れなかったわけです。だからインド社会でいえば、一九世紀の初頭までは「外側」という概念はなくてすんだし、またなかったとかんがえてもよろしいとおもいます。イギリスがインド社会を植民地化するために入りこんできまして、インド社会の農家の家内工業としてあった紡績を、産業革命の産物である先ほど云いました蒸気ミルで紡績機をつかって、大規模な紡績産業にかえてしまったとき、はじめてインド社会は本格的な意味での「外部」を、つまり農耕社会にたいする「外部」、あるいは「内部」観念にたいする「外部」という観念を産みだすことになりました。

 日本でもまったく同じことです。小さな細工物や農器具の製造業とか、鍛冶屋さんとかは、近世までに大きな規模に発達したわけではないんです。それらは農耕社会にたいする「外部」という概念を作れる唯一のものですが、その唯一のものがそんなに勢力をもって農耕社会と相対立してきたのではありません。本当の意味で日本の杜会が「外部」というもの、つまり「アジア的」な型の農耕社会に対立して「外部」という概念を作れるようになったのは、明治維新の近代化がはじまってからです。それから日本の社会が農耕社会における思考にたいして「外部」的な思考つまり非農耕的な産業思考を作り出すようになったのです。だから「アジア的」な社会の特質は「外部」という概念をなかなか作らなかったということです。それから社会の構成を論理的な階梯を踏んでつきつめなければ、支配と被支配とに到達しなかったことです。支配共同体と被支配共同体の関わりはむきだしの対立とみなせばいいし、その関わりは単純に、貢納制、つまり貢ぎ物を納めるか受けとるかという関係をかんがえれば成りたつわけです。そんな関わりしかない社会では、この階層にある者には、こういう論理を使わなければ通用しないとか、その上にあるこういう社会にはちがう論理を使わなければ通用しないという差異の概念は作られ難く、また「外部」の概念も貧弱ですから、矛盾という概念が育たないわけです。出来事や事物は論理の階梯を踏んで、その繋がりがあるんだという考え方は「アジア的」な社会では作りようがないことになります。「外部」というようなもの、論理的な思考というようなもの、あるいは論理的な思考を促すに足るだけの非農耕的な産業が入ってきて社会の発達を促したのは、近代になってからです。

日本のイメージ

 日本の近代社会の現在の状態をどこでつかまえるかは、「アジア的」という概念がどこまで残存し、どこまで脱「アジア的」になっているか、ということで測ることができます。近代日本の社会はおおまかにいえば、アジア的な専制君主、つまり「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という旧憲法の「神聖ナル」君主がいて、その下で行われた近代化ということになります。この基本的な政治社会的なイメージは「アジア的」なタイプの君主を頭にいただいて、その下で「アジア的」な農耕社会の根幹に、近代西欧的な産業が導入され移植された過程になります。このなかで発生しやすかったのは、専制君主を頂点に棚上げしておき、農耕社会を主体にして社会の全体のイメージを作ってゆく考え方と、そういうアジア型の社会に西欧型の近代産業を急速に導入してきて、どんどんアジア型の農耕的な共同体を破壊して近代化してしまうという考え方との角逐として、日本の近代以後の社会の歴史をかんがえることでした。「神聖ナル万世一系ノ天皇」というアジア型のディスポティズムと、民衆の近代的な型の代表代議員のあいだを何か媒介したかといえば、明治維新の近代化の功労者と目された元老たちの「アジア的」というより仕方がない公私区別しがたい側近体でした。そしてこの元老的な側近体の消長は、農村の共同体の崩壊の度合とともに、日本の近代以後の政治社会の脱アジアの度合をはかる大切な目安だとおもいます。たぶん、日本の社会のイメージを作るばあいの大きな特質だとおもいます。

 近代以後の日本社会が大きな変革にさらされたのは第二次世界大戦期の太平洋戦争でした。この太平洋戦争の敗戦は「天皇(神聖ニシテ侵スベカラズ」という「アジア的」ディスポティズムを大きく変革してしまいました。新憲法でいいますと「天皇は国民統合の象徴である」という云い方に変えられています。これは江藤淳的にいえば、アメリカがこの憲法の草稿を作り、日本の支配関係者がそれに賛成したからできたことになりますが、どんなでき方にしても、「天皇は国民統合の象徴である」という云い方で象徴されるものは、まるで人工的だとはいえないので、日本の戦後社会の現代化のなかで象徴的な役割の必然をになっているとおもいます。「万世一系ノ神聖」な天皇から「国民統合の象徴」まで大変革したことは、戦後社会の大きな特徴ですが、さてこの戦後社会をどこでどうとらえているか、そのイメージのちがいが現在のさまざまな対立と論争の根本の種になっています。
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ホッキョクグマの激減

『北極大異変』より 北極の王はもういない.ホッキョクグマの激減

イアン・スターリングは、四〇年以上もホッキョクグマの研究に携わっている。分布域の南端にいるホッキョクグマにとって状況の好転はないだろう、と彼は見る。その地域で彼と同僚が目にするクマたちは、二〇年前、三〇年前に見た典型的なホッキョクグマにくらべてより若く、体躯は短く痩せている。理由は簡単だ。クマたちは一年間生き抜くために必要な脂肪分を、氷上のアザラシを捕食することによってため込む。今やハドソン湾南部の常態として春に氷が割れ始める時期が平均三週間早くなっているせいで、クマたちは陸上で過ごすことが多くなり、繁殖の成功と子グマのために必要なたくわえを増やす機会が減っている。そうすると、悪循環に陥ってしまうのだ。食事時間が減れば、蓄積された脂肪ぱすぐに減る。脂肪がなくなると、町へ出かけて食べ物を探すクマも出てくる。凍結の時期が一、二週間遅くなっただけで、ホッキョクグマの苦労はぐんと増える。

未来の北極がホッキョクグマにとって棲みにくくなる、と考えるのはスターリングだけではない。彼と生物学者のスティーブ・アムストラップは、米国地質調査所が二〇〇八年に発表した画期的なレポートの主要著者のひとりであるが、同レポートは、ハドソン湾の西岸と南岸、アラスカ沿岸、カナダ北極圏西部にいるクマを含めた世界中のホッキョクグマの三分の二は、予想どおりに海氷が減少していけば、今世紀半ばまでにはいなくなると予測する。彼らの警告はつづく。今世紀末に生き残っているホッキョクグマは、生き延びるのに十分な氷とアザラシがまだ存在しそうなカナダとグリーンランドの高緯度北極圏にいるものだけになるだろう。

クマたちの未来について過去から学べるとすれば、これまでにない速度で北極を暖めて海氷を溶かす温室効果ガスの排出制限についてはほんの少ししか、あるいはまったく進捗がないにしても、見かけほどに現状は絶望的ではないかもしれないということだ。以前にも、ホッキョクグマが進退きわまる事態に陥ったことは何回かあったが、どの場合でも公的な施策が彼らを救った。

たとえば一九六〇年代には高性能ライフル、自殺銃(銃を仕込んだ罠)、自家用スノーモービル、飛行機や船からの狩猟などが人とホッキョクグマの関係を根本的に変えた。人と獣の古典的対決がゲームセンターの射撃ゲームみたいになってしまった。「トロフィーハンター」と呼ばれる獲物自慢ハンターを海氷上に連れていこうとする三〇機もの小型飛行機がコツェビューの町外れの氷の上で列をなすほどに、アラスカに来るハンターたちはたくさんのクマを殺していた。

ホッキョクグマ殺しの増加は世界的傾向だった。一九二〇年代、ノルウェー領のスヴァールバル諸島では毎年九〇〇頭のクマが殺されていた。一九二六年の特筆すべきケースとして、アメリカ人少女がロアール・アムンセンが遠征時に使った古い補給船ホビー号の甲板から、一一頭のクマを撃った--うち六頭は一日で--という話がある。

スヴァールバル諸島でのクマ狩りは、第二次世界大戦の終わりには年間約五〇〇頭まで減っていたが、それは単に殺せるクマの数が少なくなっていたからにすぎない。

一九六〇年代の初期、ホッキョクグマの運命は大変厳しい状況にあり、カナダ人科学者リチャード・ハリントンがあと一万頭しか残っていないのではないかと推測したほどである。それは現在の頭数の半分以下に相当する。正しい数字は誰も知らなかったが、一九五六年にホッキョクグマを保護動物とする法案を首尾よく通したソ連の科学者たちは、ハリントンは楽観的だと考えていた。彼らの想定値はハリントンの数字の半分だった。

危機感はニューヨークタイムズのような新聞紙上で波紋を呼び、アラスカ州のフェアバンクスで、最初のホッキョクグマ保護を眼目とする環北極圏会議が開催されることになった。一九六五年のその会議に出席した科学者にとっては幸いなことに、そこにはクマの絶滅を阻止するために何かをしようという真摯な政治的関心があった。米国内務省長官スチュワート・ユーダル、アラスカ州上院議員E・L・バートレット、アラスカ州知事ウィリアム・A・イーガンらが出席し、根本的な保護政策を取るべしという呼びかけに加わったのである。

個人的にもバートレットは、「バッファローが絶滅寸前まで追いつめられた同じ道を、ホッキョクグマかたどることがないよう」決意した。

バートレットは会議参加者にこういった。「心配する人たちがいうように、ホッキョクグマが絶滅の危機にあるとするなら、世界は彼らを失った分だけうつろな世界になるのです……もしも人類がまだ、ホッキョクグマの威厳と気高さとユニークさを認め、理解する余裕を持つことができるならば、人類が善悪の判断に関するテストに解答を提出し、合格する見込みは十分にあります」

このあとの展開は、冷戦型思考が浸透していた時代背景を考えると、驚くべきものだった。会議の結論として、巣ごもり中の雌と子グマの保護を求める決議を可決した。当時巣ごもりをしている母子は撃ち殺されるのが常だったのである。米国、カナダ、デンマーク、ノルウェー、そしてソ連は--国際自然保護連合の主導のもと--ホッキョクグマの未来を保証するために、各国の資源と研究業績を持ち寄ることに合意した。この目的のために参加国は一九七三年に保護協定を締結し、そこで娯楽やスポーツとしての狩猟の制限、飛行機や船からのホッキョクグマ狩猟の禁止、調査研究継続の確約などが表明された。

また、そのときまでに米国は狩猟を制限した。ノルウェーは完全禁止、そしてカナダはイヌイットによる狩猟とスポーツハンティングに割当制度を課した。危機は比較的短期間のうちに回避された。逆境にあったホッキョクグマの小集団は、ほぼすべてが個体数を回復した。とはいえそのためには長い時間--スヴァールバル諸島の一部などでは三〇年--が必要だった。

スターリングは今でも、あの危機の時代を驚きをもって振り返る。

「何年ものおいた、ホッキョクグマの保護というテーマだけが、北極圏全体に関する合意市項として、鉄のカーテンにより隔てられた両陣営がサインするに至った唯一のものだったのです」

もちろん、それは昔のことで今は違う。現在、ホッキョクグマにとって一番の脅威は気候変動であって、狩猟でもなければ無分別な人間の行動でもない。今ではアルーゴアのような人物や、保護政策を呼びかける世界自然保護基金やホッキョクグマ国際協会のような団体もあるが、注目すべきいくつかの例を除くと、実際に何かを成し遂げたE・L・バートレットやスチュワート・ユーダルのようには政治的に有効な動きを実践できていない。
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2週間ぶりに、読書とOCRに専念

セブンイレブンの乃木坂グッズ

 近所のセブンイレブンだと、グッズの売れ行きが悪いですね。缶バッチは飛鳥が完売で、生ちゃんがあと1個だけど、他はまだ、多く残っている。生ちゃんだけはなくさないと。

2週間ぶりに、読書とOCRに専念

 『図書館員をめざす人へ』

  公共図書館での司書の活用を考えていた。豊田市図書館が新しくオープンした時から、5年ほど、ボランティアに参加しながら、図書館のあり方を考え続けた。豊田市には司書はいらないというのが、三浦さんの考えだった。

  浦安市図書館では分館まで司書を配置していた。訪問した時に、聞きたそうなそぶりだけで、司書が話しかけてくれた。常にアンテナを張っている。

  それ以前に調査に行ったLAPLの司書も印象深かった。LAPLは調査型の図書館で、その中核に司書とネットワークを位置づけていた。

  今後の図書館に必要なのは、専門性を持った上に、地域にアウトリーチできる人だと思います。

 『理系に学ぶ。』

  ここでは、1兆年という単位が出てきた。以前、計算したところでは、この宇宙がビッグバン以前の姿に戻るのは、1兆年係、そこからマルチバースで、現在の形になり、「私」が生まれるまでにさらに1兆年かかるという計算だった。

  ということは、2兆年後に<今>の次が生まれると言うこと。ただし、その時の時間のコードは、かなり変わっている。

 『「好き嫌い」と才能』

  池田晶子さんの著作で「好き嫌い」が重要ということが書かれていたのを思い出した。

  自分が好きなことを推し進めることで、分化することができる。そこからブルー・オーシャンも開けます。

 『北極大異変』

  ホッキョクグマはアザラシが氷から首を出したところを捕まえることで、長い時間をかけて変化してきた。温暖化の速度がそれを追い越してしまった。さあ、どうする、ホッキョクグマ。人間との共存は考えない方がいいと思うけど。

 『アジア的ということ』

  ヘーゲルの「歴史哲学」の出だしはアジアの君主制が未だに続いていると見ている。たぶん、これは正しいでしょう。しかし、日本、中国、韓国での世界観が大きく異なるように、アジアでは一括りにできない。

  ただし、アジアは「内側に生きていいる」ということは合っている。英国、米国がその方向を目指しているような気がします。西洋はあくまでもアジアと対比できる存在でいてほしい。

 『図書館長活用術』

  本にとって、NDCは命です。本来、分類できないモノを分類している。ヘーゲルの『歴史哲学」を哲学のジャンルを探しても出てこない。NDCは「201」です。歴史の総論に位置づけられている。ハンナ・アーレントの著作は「311」社会科学ですが、ハイデガーとの往復書簡は「134」ドイツ哲学です。

  だけど、本の近傍というか、メジャーになりうる。相対する著作が同じようなところにあるから、集合としての本が意味をなす。

 『ブラックバイト』


  この本の面白いのは、利用される「責任感」と「やりがい」の部分です。これはメーカーを含めて、組織のキーワードです。「やりがいの搾取」を大きく発展させたというけど、スタバでのパートナーへの扱いと異なるのは、待遇だけです。そして、これが今後の「高度サービス」につながっていく。

  もう一点、米国と同様な問題は「奨学金問題」です。北欧にはこの問題はない。無料での教育制度。アルバイトの必要性が発生し、コンビニなどのアルバイト、その後の仕事そのものに影響を及ぼしている。

 『ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』』

  彼は身の回りのモノはすべて燃やしたが、この日記だけは別のところにあったので、残ってしまった。「論考」執筆前の極限状態が示されている。

  併せて、ブルシーロフ攻勢で100万~150万人が絡んだ戦闘が判明した。ロシア革命にもつながった。人類はこの戦闘を通じて、どろどろした地上戦から空中戦(爆撃)に向かった。その先にあったのは、東京空襲であり、広島原爆であった。

 『オリーブの歴史』

  地中海文明が終わると同時に、イタリア移民と同時に世界に広がっていった。

 『希望の日米同盟』

  表題の「希望」がどこにあるのかわからない。「トランプ大統領」ふぁその姿を明確にしてくれるでしょう。新しい希望?
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