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数学科を語ろう

『数学ガイダンス2016』より

飯高 現在フリーアナウンサーとして活躍されている神田さんですが、大学ではどうして数学科を志望したのですか。

神田 中学生のころから数学が好きでした。勉強していていちばん夢中になれたのが数字と向き合うことだったので、大学では数学科を選びました。ただ、小学生の頃からアナウンサーになりたいという夢を持っていたので、そのためには文系に行ったほうがいいかなとも思い、少し迷いましたが。

飯高 数学科に入りたいという人は、考え方がきりっとしているように思います。数学をやりたいという決意をもっていて、他の人とはちょっと違うところがある。

神田 私の場合は、ほかの人と違うという意識まではなかったかもしれません。

飯高 学習院大学で日本史を専門とする教授から、歴史学で大事なのは論理的な分析力だと聞きました。実は歴史学にも数学をきちんとやってきた人が必要。本物の考える力を持った学生に来てほしいけれど、数学が受験科目に入っていても選択なのでとる学生が少ないのがとても残念、と言っていました。

神田 それをいいますと、基本的にはすべての分野で、数学的思考力があったほうが役に立ちますね。

飯高 でも、実際に数学科に入ってみると授業が全然わからないという学生の話をよく聞きます。これもある先生が言っていたのですが、化学を勉強したいと思って大学に入ると、高校で習った化学とは違って、結局、物理を一所懸命にやらされている。物理学科の人は、高校までの物理とは全然違って数学をすごく使うから、もっと数学を勉強しておけばよかったと気づく。数学科の人は、わけのわからないことをやらされて、これは哲学ではないかと思う(笑)。

神田 そうですね。高校までの数学とは違って、偉大な数学者が見つけ出した公式をひたすら証明していくというのを4年間ずっとやっていた気がします。数学科がこういうところなんだということは、高校では教わっていなかったな、と感じたこともあります。高校までに習っていたあの楽しい数学はとこへ行ったのかと思いました。

飯高 教えている立場からすると、高校と大学の数学にギャップがあることにすら気がつかなかったりするんです。

「数学女子」の学生生活

 飯高 『数学女子』(竹書房、全5巻)という漫画があるのをご存じですか?

 神田 知っています。

 飯高 ある大学の数学科を舞台に、1学年でたった4人しかいない女子学生のキャンパスライフを描いています。作者の安田まさえさんとは、以前『数学セミナー』で対談をしたことがあります(2012年9月号)。ご自身も数学科出身で、実体験をもとにして作品を描かれているそうです。僕が講義をしているときには、学生が何を考えているか全然わからなかったけれど、『数学女子』を読んで数学科の女子学生の心理状況がはじめてよくわかりました。

 神田 先生から見て、学習院大学数学科の学生はどういう特徴がありましたか。

 飯高 女子学生でいうと、美人が多いということでしょうか(笑)。

 神田 そうなんですか。たしかに、女子の割合は多かったですね。私の学年は、70人くらいいるなかで、女子が30人でした。これから数学科に入る女子の方に、これは気をつけたほうがいいと思っていることがあります。数学科の女子は考え方が論理的すぎて、男性と口論しても負けないんです。

 飯高 なるほど。高校でも習うけれど、数学で背理法というのがありますね。一般の会話で背理法的論理で追いつめられると、ダメージが大きいようです(笑)。

 神田 そういった「プライベートで使う数学」のようなものを、一年生の講義で話してもらえるとありかたいです。論理的な考え方ができると、仕事では説得力が出ますし、話し合いでもきっちりとした意見が言えるので、数学科での経験がとても役に立つと思います。

 飯高 そういうふうに数学が役立っている話をきくと、僕もすごくうれしいです。

 神田 大学生活を振り返ってみると、いろいろな講義を受けたなかで、飯高先生がいちばん楽しそうに授業をしていらしたんです。数学と接していると笑顔になれるということなんですか。

 飯高 なんにも考えていないね(笑)。たぶん自然にそうなっているんですね。

 神田 私が先生のゼミを選んだのも、笑顔に惹かれたからです。先生の持っておられる雰囲気が柔らかく明るいので、アットホームななかで卒業研究ができました。

 飯高 卒業論文は、連分数の研究に関するプログラミングでしたね。

 神田 そう、プログラミングをやっていました。先生のゼミでは、学生が二人組で研究発表をしました。

 飯高 一人ではわからないことも、二人や三人で考えるとアイデアが出てくることがある。講義のときも、よくできる学生一人に問題を解かせると、それで終わってしまう。それでは他の人にはよくないと思って、三人で一つの問題を考えてもらうやり方にしたら、話し合って議論をするなかで解けたりする。そして、ほかの学生にもわかるように説明してくれる。実は、学生は先生よりも教育力があって、輪講のとき払他の学生が黒板で説明をすると先生の説明より関心を持って聞いてくれる。

 神田 学生のころの輪講を思い出しました。

 飯高 いまでも同級生たちと会ったりしますか?

 神田 私の学年はとくに仲が良かったようで、よく集まります。就職してそれぞれの道に進みましたが、実業家になった人、SEでステップアップしている人など、幅広く才能を発揮しています。就職活動をしていた頃,SEの仕事を選ぶ人が多いなかで、自分だけ違う道に進むことに少し罪悪感も感じていました。せっかく4年間も数学に時間を費やしたのに、お世話になった先生にも申し訳ない気がして。先生は、教え子が数学の道で活躍するのを望んでいるとか、そういう考えはありますか?

 飯高 いいえ、それは全く思ったことがないです。教え子たちがそれぞれ自分の良いところを生かして幸せになる。そのために、何かお役に立てればいいな、といつも思っています。その人が自分のキャリアを生かして幸せな人生を送るのが、私の最大の願いです。

数学科での経験は役立つ

 神田 大学時代には、数学科出身であることがこんなに汎用性が高いとは、正直思いませんでした。就活の面接では、「どうして数学科を出てアナウンサーを選んだの?」と毎回聞かれたのですが、返事は決まっていて、こう答えていました。「高校のときに、文系に進むか数学科に進むか悩んだけれど、アナウンサーは狭き門で必ずなれるという保証もない。もし明日、交通事故で死んでしまって、たとえアナウンサーになる前に人生が終わったとしても後悔がないようにと考えて、勉強していていちばん幸せを感じる数学を選びました」.

 飯高 それはうまい言い方ですね。僕でも言えません。

 神田 NHKのアナウンサーになってみると、文系出身の人に比べて文章を読んだ量が少ないので、表現力が劣ってしまうこともありました。でも、アナウンサーの仕事はそればかりではない。たとえば口ボットコンテストのMC(司会)をすると、理系の学生の気持ちもとてもよくわかるし、物理で回路の勉勉強したことも役に立つ。理系の知識は幅広く使えることを実感しています。以前、経済の番組のキャスターを1年やっていましたが、数字に抵抗がないこともあって、経済の話題もすんなり頭に入ってきます。番組の提案書を書くときにも、順序立てて説得力あるものが書けます.

 飯高 いま神田さんが担当している番組ではどうです。

 神田 世界情勢に関してジャーナリストの方とお話するんですが、生放送で時間が限られているので、お互いに論理的に話していかなければなりません。コマーシャル中に相手の方から「神田さんは理論派ですね」と言われたりします。数学科を出たことがアナウンサーの仕事に生きている、いまそう感じています。

 飯高 そのように言ってもらえると、数学の先生としてすごくうれしい。

 神田 最近ようやく「数学科っぼい発想をするね」などといわれるようになりました。とくにこの1~2年、NHKを退職してフリーアナウンサーになってから、自分の特徴かそこにあると気づいたんです。これからはその技をもっと磨いて、どんな分野であっても話を深めていけるように究めていきたいと思っています。
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アーレント 異郷の政治哲学に向けて

『逆行の政治哲学』より 全体主義的思考を超えて アーレント:国家への問いかけ

アーレントの豊饒で複雑な政治哲学をくまなく見渡すことは、もとより不可能であるのはいうまでもない。ここでは、必ずしも著作に即すかたちではないにせよ、それ以後の彼女の探究が分け入ってゆく問題群のいくつかを取り上げて、読者がみずからアーレントの思索の跡をたどる際の手がかりとなるよう、そのごく大まかな見取り図をスケッチしておくことにしよう。

アーレントの思考が政治哲学へ向かう動機は、一言でいうならば、反ユダヤ主義がいかにして成立し、最終的に人類史上空前の破局へと至りえたのかを理論的に解明することだった。この課題は最初の大著『全体主義の起原』(1951年)でとりあえず果たされる。ナチズムとスターリニズムに代表される全体主義が成立するには、これまで述べてきた国民国家のパラドックスに加えて、19世紀には揺るぎない存在だった階級社会が次第に解体し、流動化した原子化した個人から成る大衆社会の成立が不可欠だった。物質的利害はもちろん、価値観、世界観などの共有によって統合されることのなくなった個人は、かつてない孤立した状況に追いやられることになる。なるほど大衆のなかにあっても、人間は物理的には他者とともに生活し世界を形づくっていることに変わりない。あるいは、独房のなかでひとり孤独に時を過ごしているとしても、他者と連帯感を分かち合い、世界と強くかかわっていることもありえるだろう。しかし20世紀以後、日常的に意識のなかに他者も世界も存在しないほど孤立し、見捨てられている人びとが大量に出現するようになったことも確かなのだ。ユダヤ人とはまた異なる要因によってではあるが、非ユダヤ人も同様に無世界性のうちに投げ出されるようになったわけである。そこでは、私のアイデンティティも危機に瀕することになる。

私は私であるというアイデンティティをもつことができるのは、他者によって承認される私と、そこからはみ出している私が私のなかで絡まり合って存在し、しかもそのような私と他者が共有する世界が存在することに支えられているはずである。そうした自己、そして自己と他者の関係はいかにして存在しうるのか、世界はいかなる構造をもち、その現実性が確保されうるのはいかにしてか。アーレントは生涯この問題を追求し続けることになる。

人間の様々な行為のあり方の解明を主題とし、アーレントの主著とみなされることも多い『人間の条件』(1958年)は、世界について論じた作品でもある。世界には、「仕事」を通じて産出される物によって形成される層だけでなく、物を介すことなく人間と人間のあいだに成立する「共通世界」という層も存在する。この共通世界は、「活動」、具体的には主に言語によるコミュニケーションを通じて、私と他者がそれぞれの個人の問題からは切り離された共通の事柄をめぐってかかわり合う世界の次元であり、それを公的空間と呼ぶこともできる。「活動」は、私が私であるためには他者が不可欠であるということ、すなわち複数性に条件づけられている。複数性は人間が人間であるための条件であり、何より優れて政治の条件でもある。

ところで、『人間の条件』では、この公的空間が古代ギリシアのポリスを範例として論じられている。そのため、複数性を同質的な共同性と同一視したり、失われた政治の黄金時代への郷愁をそこから読み取ろうとする向きもあるかもしれない。しかし、それは当を失している。暴力によってではなく言葉と約束によって国家を創設するアメリカ革命を主題とし、共和主義的な政治観がいっそう前面にせり出してくる『革命について』(1963年)でも、事情は変わらない。市民の同質性とその基礎となる共通善によって特徴づけられる古典的な共和主義とアーレントの政治的思考とのあいだには深い溝がある。国民国家すら終焉を迎えている時代に、帰るべき「故郷」などどこにもない。政治体の構成員が同質的ではなく多種多様であること、単一ではなく複数であることは、アーレントが政治哲学を展開するにあたって、暗黙の、そして最大の前提条件である。それは、若きアーレントの経験と思考の軌跡を想い起こせばむしろ当然のことだろう。「アーレント的政治哲学」なるものがもしあるとすれば、それはこうした多種多様な人びとの共生を可能にする条件を探究する、いわば異郷の政治哲学以外ではありえない。

ユダヤ人等の絶滅計画は、もちろんそれを立案し主導した一握りのナチ高官の働きだけで現実のものとなることはない。その計画に賛同しているにせよ、たんに異を唱えないだけにせよ、とにかく命令を忠実に遂行する多くの人員がいなければ実現不可能なことである。また、たとえ直接そうした職務にかかわりはないにせよ、あるいはナチのイデオロギーに強く共鳴しているわけではないにせよ、巨大な犯罪計画の実行をそのままやり過ごしている大衆の存在があって初めて成り立つことである。そうした大衆は、先にふれたようにすでに意識のなかに他者や世界への関心を失っている。自己と他者のあいだへの関心、すなわち世界への関心の代わりに大衆の関心を占めているのは、疑似科学的なイデオロギーを除けば、自分の内部にある生命と生活にまつわる問題である。ここにいる膨大な人びとは、個人として見るかぎり、おそらく大部分はとくに悪人などではないに違いない。彼らは、自分と家族の生活やそれとかかわる自分の仕事や出世に没頭しており、そうした私的な幸福と安全を守るためであれば、いかなる職務でも異を唱えることなく遂行することにさして疑念を抱かない。このような無思考性の集積が生み出す悪という、優れて現代的な問題の解明も、アーレントの生涯にわたる課題のひとつとなる。

絶滅収容所へのユダヤ人移送の責任者だったナチ官僚アイヒマンをこうした無思考性の範例として、アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)で検討する。そこでアーレントは、共生する他者は本来だれにも選択できないはずであるにもかかわらず、それを選択する権利があるかのように振る舞うことによって他者の複数性を守る義務に反したという理由で、アイヒマンを断罪する。しかし、善悪の判断がつかず思考不能に陥っているのがアイヒマンだけではないことはいうまでもない。権威や伝統のような思考にとって手摺りの役割を果たすものは、失われてすでに久しい。それでは、私たちがみずから思考することができるためにはどうすればよいのか。世界で生じている出来事を想起し、他者に聞かれる言葉に換え、記憶され、物語にすること、とアーレントは示唆している。人類史上最も暗い時代を生き抜いたアーレントは、苦難のなかで人間とその行為のかけがえのなさを確かに終生物語ったのである。

20世紀の秩序の全面的な解体を描ききり、その廃墟から建ち上がるべき政治を構想しようとしたアーレントの試みは、当然のことながら、断片的なものに終わり、無数のひびが入っている。しかし、その瓦篠のそこかしこに未来を切り拓くかけらが見いだせることも明らかだろう。
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「行政の専制」 「民主」と「専制」

『逆行の政治哲学』より 自由のないデモクラシー トクヴィル:「行政の専制」

かつてドイツの法・政治理論家のカール・シュミットは、19世紀の政治思想史は1つの標語で概観できると言いきった。すなわち、「民主主義の勝利の行進」である。近代革命後、西洋のすべての国家で、「進歩は、まさしく民主主義の伝播と同義であり、反民主主義的な抵抗は、単なる防衛であり、過去の遺物の弁護であり、新しいものに対する古いものの闘争であった」。民主主義が、人類の進歩を意味すると同時に、現実的な政治目標になったのが19世紀の特徴だったということができる。

しかし、民主主義が現実的な政治原理となるにつれて、その形態は一義的ではないことが明らかになってきた。「それは、その最も重要な敵対者である君主主義的原理が消滅したとき、内容の明確さをおのずと失い、あらゆる論争的概念と同じ運命をわかつことになった」。つまり、「民主」主義は別の政治原理(主義)と対抗するなかでは積極的な意味をもちえたが、他の主義が消滅すると、それ自体としては明確な内容をもちえなくなったとされる。事実、フランス革命後の第二共和政における〈人民投票型〉「独裁者」の登場は、民主主義が「保守的でも反動的でもありうる」ことを示した。

こうして民主主義が勝利に向かうなかで露呈したディレンマを初めて体系的に論じた政治思想家が、アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville、1805~59年)である。確かに、彼の生きた19世紀前半のフランスの政治体制は(短期間の共和政を除けば)帝政か王政で、身分制は廃止されたとはいえ基本的に制限選挙制度が採用されていた。しかしトクヴィルは、ヨーロッパに比べて民主主義の勝利が確定的となったジャクソン時代のアメリカを訪れ,民主主義の利点と欠点をつぶさに観察した。また、彼は民主主義を、すでに完了したいわぱ静的な概念ではなく、ヨーロッパ諸国で現在進行中の動的な概念としてとらえることで、その行く末を占うことができたのである。トクヴィルの観察した民主主義は、平等を実現した政治・社会である以上に、平等化する政治・社会だった(その意味で、文脈において民主主義よりは「民主化」、あるいは政治体制を越えた社会状況を指すものとして「デモクラシー」と表記したほうが適当だろう)。シュミットの『現代議会主義の精神史的状況』(1923年)の議論に引きつけていえば、トクヴィルは民主主義に対抗する原理がなお根強く存在する時代に、それが消滅した後の「民主」的時代の問題の輪郭を描いたのである。

ところで、日本国内でも明治時代から、トクヴィルの主著『アメリカにおけるデモクラシー』(以下、「デモクラシー」と略す)は、福部諭吉などによって注目されてきたことはよく知られている。 1873(明治6)年には、福部の弟子である小幡篤次郎によって抄訳(邦題「上木自由之論」)が出版されている。それは『デモクラシー』第1巻の一部を英訳版(ヘンリー・リーグ訳)から翻訳したものだが、福部はその部分に依拠しながら分権論・民権論を主張した(「分権論J 1877〔明治10〕年刊)。たとえば『デモクラシー』第1巻第5章では、中央・地方の権限に関して「政治の集権」と「行政の集権」という概念が登場し,前者は全国一般にかかわる事柄(たとえば外交・安全保障)、後者は全国各地方の必要・便宜に従う事柄の集権というように区別されるが、福部はこれらを「政権」と「治権」と表し、トクヴィルに従うかたちで前者は自由にとって必要だが後者は不必要、むしろ危険であると論じた。と同時に福部は、「デモクラシー」第1巻で描かれた政府から自立した社会(「私立」)の必要を強調した。それ以後、明治の議論がどこまで影響したかはともかく、日本ではトクヴィルのデモクラシー論といえば分権論や政治参加が連想され、また「公」とは異なる市民の団体活動(今日ではNPOやNGO)の意義を論じる場合にしばしば参照されてきた。

確かに、トクヴィルの「デモクラシー」第1巻(1835年)では、アメリカにおける地域自治をはじめ自由の諸制度の存在が評価される一方、「行政の集権」の不在が指摘されている。だが、「デモクラシー」第2巻(1840年)では、「行政の集権」が現実的な脅威、すなわち民主主義において自由を脅かす最大の脅威として論じられる。直接的には、両巻の5年のあいだにヨーロッパで進んだ産業化と、それに伴う行政の役割拡大の観察が彼の問題関心を移行させたが、しかしトクヴィルによれば、デモクラシーそれ自体に「専制」を招来する原因が内在しているという。つまり、民主主義にとって自然なのは自由よりは専制なのだ。言い換えれば、それは放っておけば専制に至るおそれがある。そこで、従来のように弥縫策として自治を素朴に論じる前に、専制といういわば不正義の性格をまずは見定める必要があるのではないだろうか。

トクヴィルは、自由になった人間が自由を放棄するという民主的社会の矛盾を新しい専制として指摘した。確かに、新しい脅威を示す言葉として「専制」は古いと自覚しながらも、トクヴィルが同概念を用いたことにはそれなりの意味がある。つまり、そうすることで、彼の専制論は自由と専制という問題をめぐって格闘してきた西洋政治理論の伝統に連なることになったのである。専制の概念は、暴政や独裁に比べると政治思想史でそれほど注目されないが。その概念史は暴政と同様に長い歴史をもつ。また、必ずしも暴力的ではない--むしろ(後述するように)被治者の「同意」(民意?)を前提とするような--専制のほうが、近代以降の抑圧的体制を表現するのに都合のよいものとして浮上するだろう。それは、人類が文明化と民主化を同時に進展させた世紀の行進をいわば裏側から照射する概念として再注目されるのである。

本講義では、まず、西洋思想における「専制」の概念史の変遷を、主にメルヴィン・リクターの議論(Richter 1973)に依拠しながら概観する。そして次にその歴史を踏まえてトクヴィルの指摘する民主的専制である「行政の専制」の特質を明らかにする。最後に、彼がそれに抗して構想した民主主義の別の形態、自由のあるデモクラシーの条件を考察する。それは、冷戦体制崩壊で勝利した西側諸国の政治体制としての「リペラル・デモクラシー」ないしそのイデオロギーとは必ずしも同義ではない。むしろ、そのズレ自体がトクヴィル思想を今日意味あるものにすることを示したい。
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身辺整理しないと

明日は5月の最終日。身辺整理しないと

 明日は身辺整理をしよう。6月1日からの活動に向けて。特別な存在と知りながら、痛いモノは痛いです。どうにかしてよ。面倒くさいから。一番やらないといけないのはデータでしょう。環境でしょう。

 だるさから抜け出せるか。未唯が6月から実家帰省する。やりがいにしようか
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