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先進国の都市化と都市問題 デトロイト

『地理学入門』より

先進国の都心周辺の旧市街地では、過密化により高所得者や若い世代が郊外に移住して、人口が減少し、高齢化が進み、購買力の低下やコミュニティの崩壊に加え、貧困層、移民、外国人労働者の流入によるスラム(不良住宅街)の形成、それによる失業率、犯罪の増加などのインナーシティ問題が生じている。スラムやその周辺では、路上や公園などで生活するホームレスの数も多い。

かつてアメリカのデトロイトはゼネラルモーターズ、フオード、クライスラーのビッグ3による自動車産業がさかんで繁栄したが、1967年にアフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が起き、多数の死傷者を出した。これをきっかけに白人の郊外への移住が加速した。

1970年代頃から日本車の台頭により自動車産業が不景気になると、企業の社員の大量解雇、下請けなどの関連産業の倒産により、市街地の人口流出が深刻化していった。それと同時にダウンタウンに増えていったビルの廃虚にホームレスの人々が住み着くなどして、治安が悪化し、ますます人口流出が進んだ。税収が改善されないデトロイトは2013年には財政破綻を声明し、ミシガン州の連邦地方裁判所に連邦倒産法適用を申請した。負債総額は180億ドルにのばった。市内の住宅の3分の1が廃虚か空き家になり、失業率は18%に達し、子供の6割が貧困生活を強いられているという。

ニューヨークでは1950年代には倉庫や低賃金の零細工場などが入居するだけの荒廃したソーホー地区に、1960~70年代、安価な住居を求めて芸術家やミュージシャンらが移り住み、それらの活動により地域が活性化し、中産階級や商業施設が流人するようになった。このような都市の居住地域が再開発されて高級化することをジェントリフィケーションと呼ぶ。この結果、貧困地域の家賃の相場が上がり、それまで暮らしていた貧困層が住めなくなったり、地域特性が失われるという問題が生じている。同じニューヨークのハーレム地区でもアフリカ系のアメリカ人が多く住み、貧困や犯罪といった問題を抱えていたが、1990年代に徹底的な治安改善政策により環境が改善され、街の再開発が進んで、高級化(ジェントリフィケーション)していった。

私は2000年6月に、かつてベルリンの壁があったところの中心、ブランデンブルク門のすぐ北にある帝国議会議事堂(旧西ベルリンと旧東ベルリンの境界付近の西ベルリン側にある)を訪れた。ドイツの首都ベルリンの中核をなす帝国議会議事堂は、そのとき、まさに大きな工事現場に取り残された遺物であった。1884~1894年に、P・ヴァロットの設計プランに基づいてイタリア・ルネッサンス風につくられた帝国議会議事堂は、1918年に崩壊したドイツ帝国、ワイマール共和国、第三帝国の議会が開かれたところである。第二次世界大戦後は西ドイツ側にあったが議会としては使用されず、東西ドイツ統一後、8年の年月をかけた改築を1999年4月に終え、9月から連邦議会本会議場となった。正面入り口の前でP・シヤイデマンが1918年11月9日に共和制を宣言、その15年後の1933年2月27日には放火によって、建物内部がほとんど焼失してしまった。ナチスはこの放火事件を口実としてたくさんの左翼政治家を逮捕した。1945年4月30日には、ヒットラーのファシズム政権が倒れ、ソ連軍が赤い旗を議事堂の上に掲げたのである。

このドイツの歴史を見てきた議事堂は、そのとき周りがほとんど建築中だったため、工事現場の中に忽然と建っているという、とても不思議な光景を作っていた。アクセル・シュルテスとシャルロッテ・フランクがこの首都中枢の再開発計画を展開し、長さ1.5kmにわたって、議会や政府の建築物が次々と建てられ、「Federal Belt(連邦地帯)」を建設する予定になっていた。

次に訪れたのは、ポツダム広場(旧西ベルリンと旧東ベルリンの境界にある)である。1920年代、ベタリンはパリと並ぶ世界屈指の文化都市であって、とくにこのポツダム広場周辺はヨーロッパ一混雑する交差点と言われ、当時すでに1日2万台の車、10万人の人の往来があったという。東京で言えば銀座のようなこの区域は、訪れたときには荒れ地を造成して新都心をつくるような巨大な工事現場だった。このポッダム広場付近は第二次世界大戦の空爆で徹底的に破壊され、その焼け野原の上をちょうどベルリンの壁が建設されたため、壁が崩壊するまで空白域のままでめった。その50年開放置された「焼け野原」を再生するために進められた二大プロジェクトが、ダイムラー・ベンツ社によるダイムラーシティとソニー欧州本社によるソニーセンターだった。ベンツはレンソ・ピアノ、ソニーはヘルムート・ヤーンの都市再開発プロジェクトを採用し、オフィス、ホテル、劇場、住居などを建設した。

まず、1998年10月に、4年の歳月をかけてショッピングアーケード、映画館、カジノなどを含むダイムラーベンツ・コンプレックスがオープンした。このショッピングアーケード、「アルカーデン」には、スタート時には110店のショップ、30店以上のカフェ&レストラン、20館もの映画館があった。また、もう一つのソニーセンターは2000年6月にオープンした。ヘルムート・ヤーンは、ソニーセンターを六つの建物のリズミカルな都市的調和で飾った。オフィス、娯楽施設、住居施設の中央には、ドーム状の巨大な屋根を持った公共広場をつくり、レストランやカフェ、ショップ、映画館などに収り囲圭れて、丈化的イベントのためのスペースを提供している。

このポツダム広場区域には、近くに建設されたセンターからガスとスチームタービンによるセントラルヒーティングが供給され、また、オフィス、娯楽施設、住居施設などの膨大な種類のケーブルのための電気通信施設がつくられ、それは人口約5万5000人の小都市に匹敵するという。

次に訪れたのは、ハッケシェル・マルクト(旧東ベルリン)という地域である。そのとき旧東ベルリンは、ペルリンの壁ができてから時計の針が止まってしまったかのようだった。ペルリンの壁が崩壊して10年だっても、ハッケシェル・マルクトあたりぱ、東西ベルリンの差をとくに感じた。バスでベルリン市内を移動していても、そこがかつて東ベルリンだったか西ベルリンだったかは一瞬にしてわかった。ビルの色を見れば一目瞭然だからだ。東ベルリンは、壁が崩壊してドイツが統一されるまで、ほかの旧社会主義国同様、建物はすべてコンクリートの色、つまり灰色である。つまり、建物が国有財産のため、国はお金を使って建物の壁にペンキを塗るようなことはしない。したがって、西ヨーロッパに見られるようなカラフルな建物はほとんどなかった。ドイツが統一されて10年のあいだに少しずつ壁に色が塗られたが、そのときはまだ、あちこちのビルがリニューアルのため工事中であった。

ハッケシェル・マルクトには、かつて労働者階級の人たちのアパートだった建物を、ドイツ統一後りニューアルして、1階に各種のおしゃれなショップを入店させ、2階以上をアパートにした複合建造物があった。しかし、リニューアルされた新しい部分とかつての東ドイツ時代の古い部分が隣接して奇妙な感じを受ける。このあたりの路地に入っていくと、戦前の古い建物がそのまま残っていた。路地の中に、戦後55年たってもまだ壁に残っている弾痕を見たとき、戦後時計が止まってしまった東ベルリンの街の沈痛さを感じた。近くには、ユダヤ人の教会もあり、戦争で破壊された建物が戦後再建されていた。まわりを何人もの警察官が巡回するようすは、ナチスに迫害されるという戦前の忌まわしい悲劇が終わった現代でも、またしてもネオナチによって攻撃されるという、やるせない憤りを感じさせるのだった。
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現代のナショナリズム

『現代の政治学の世界』より 現代のナショナリズム

ナショナリズムの歴史的形成

 近代の国民国家の形成が地域ごとに異なるように、ナショナリズムの発現形態もまた地域や国によって異なった様相をみせてきた。近代の初期に主権国家の形成が始まったヨーロッパでは、当初は封建国家あるいは絶対主義国家という形態をとっていたが、近代市民革命が起こることによって、身分的な階級関係が廃止されて「市民」という階級横断的で等質的な諸個人が形成された。この「市民」の形成が同時に権利の上で自由で平等な「国民」という概念を作り上げたのである。1789年のフランス革命は、王政と身分制を撤廃することで、フランス国民という等質的な「市民」を作り出し、国民意識を形成したのである。この国民意識は、経済的には、国内市場での自由な活動を望んでいたブルジョアジー(市民)の統一国家への要求を背景としたものであった。こうした国民意識がナショナルなものにたいする熱狂的な意識、すなわちナショナリズムの基礎をなしていた。19世紀後半になると、ドイツやイタリアなど他のヨーロッパ諸国でもイギリスやフランスに遅れて国民国家の形成の動きを強めるようになった.

 20世紀に入ると、国民国家の形成は、ヨーロッパ諸国からアジア・アフリカ諸国に拡大していった。アジア・アフリカ諸国は、概して、ヨーロッパ諸国の帝国主義的な植民地支配のもとに置かれており、そうした状況のなかでは、植民地的な支配と従属の関係からの自立ということがそれらの諸国の大きな課題となっていた。こうしてヨーロッパの帝国主義諸国からの独立と国民国家の形成への動きが、ネイションの形成、国民国家の形成へとつながっていった。そのさいに生まれた国民国家形成に向けての独立運動がもう1つのナショナリズムを構成したのである。第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国では、多くの国々が植民地支配国とのあいだの独立運動や独立戦争によって国民国家を形成した。アジアでは、インドはイギリスから、インドネシアはオランダから、そしてベトナムはフランスからそれぞれ独立した。

 以上のナショナリズムの2つの類型は、いずれも、国民国家の形成にさいして生まれたナショナルなものへの人々の熱狂的な意識を前提としたものである。しかし、ナショナリズムは、それが国民的な統合を前提にしていることから、対外的な侵略や対外的な攻撃のさいに利用される場合もありうる。国民国家としての統一を果たした先進諸国のなかにも、帝国主義的な進出をはかるさいに国民意識の高揚をはかる手段としてナショナリズムを利用したケースがある。1930年代のドイツのナチズム、イタリアのファシズム、そして日本の軍国主義的なファシズムは、対外進出を正当化するためのイデオロギーとしてナショナリズムを利用した。1930年代には、ヒトラーのナチス・ドイツはオーストリア共和国をドイツ帝国へ編入し、イタリアはエチオピアを占領し、日本は満州を占領するという帝国主義的な侵略政策を進めた。この場合のナショナリズムはネガティヴな側面をもっており、国家機構に権力を集中し国内的には総動員体制をとって対外進出を行う場合の国民意識の高揚に利用されたのである。その意味では、ファシズムやナチズムは、組織されたナショナリズムの運動であった。したがって、これらの国々においては、戦後世界において、ナショナリズムという言葉自体がマイナスのイメージで捉えられてきた。現代のドイツにおいては、依然として、ナチズム時代のドイツ・ナショナリズムをふたたび成立させてはいけないという考え方が支配的である。

リージョナル化とアイデンティティの拡大

 欧州連合(EU)は、現在のところ、28カ国から構成される国家連合(コンフェデレーション)である。1952年に石炭鉄鋼共同体が設立され、1957年にローマ条約が調印されて欧州経済共同体と欧州原子力共同体が発足すると、1967年にこれら3つの共同体が統合して現在のEUの原型を作り上げた。その後、1973年に、ベネルクス3国、ドイツ、フランス、イタリアの6カ国に加えて、デンマーク、アイルランド、イギリスが加盟し、その後ギリシア、スペイン、ポルトガルが加盟した、さらにオーストリア、フィンランド、スウェーデン、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、ブルガリアなどが加盟した。

 このようなEUの拡大は、国民国家という従来のナショナルな枠組を超えた大きな地域統合体の形成をもたらした。こうした地域統合を示す用語として使われているりージョナル化は、加盟国国民の意識の面でもアイデンティティの拡大をもたらしつつある。1992年にオランダのマーストリヒトで欧州連合条約が調印され、翌年には現在の欧州連合(EU)が成立し、国境を越えた人・モノ・サービスの移動が自由になった。国境の垣根が取り払われて人の移動が自由になることは、従来のナショナル・アイデンティティが直ちに消滅することを意味しないとしても、少なくともその境界が撤廃されることで上位のアイデンティティが形成されることを意味している。そして1999年には統一通貨であるユーロが導入され、すべての加盟国ではないにしても通貨統合が達成された。通貨統合への参加国が同じ通貨を使用するということは、それまで以上にそれらの国々のあいだで連帯的な意識を高めることにつながっていった。しかし他方では、EU域内に経済格差が存在することが、今日のギリシアのデフォルト(債務不履行)とユーロ圏からの離脱の可能生という問題を引き起こしているというのも事実である。

 こうしてリージョナル化によって、ナショナル・アイデンティティという従来の意識に加えて、EUという拡大した公共的な政治空間にたいするアイデンティティの意識が生まれるような環境が作り上げられつつある、欧州連合条約の第9条には、「構成国の市民はすべて、連合の市民」であり、「連合市民権は、各国の市民権に付加して認められるものであり、それに取って代わるものではない」と規定されている。連合市民権、いいかえればEU市民権は、ナショナルな市民権に加えて設定された拡大された市民権ということができる。実際問題として、EU以外の国々にたいしては、自らをEU市民として認識するようになっている。このようにEUの市民のあいだには、ヨーロッパ市民という意識が芽生えつつあるといってよい。このことは、アイデンティティの水準が、ローカル、ナショナル、リージョナルという多層的な構造を作り上げていることを意味している。

グローバル化と排外主義的なナショナリズムの台頭

 グローバル化は、世界的な規模での人口移動を引き起こしている。グローバル化を広く捉えて近代以降の現象としてみると、近代以降に世界的な移動が生じたということができる。ヨーロッパ諸国から北アメリカヘの人口移動をみると、17世紀から今日までのあいだに、約4,500万人がヨーロッパから現在のアメリカとカナダにあたる北アメリカに移住した。今日の北アメリカに居住している住民の多くは、その祖先をこうした移住にまでさかのぼることができる。またヨーロッパ諸国から中央・南アメリカヘの人口移動については、スペイン、ポルトガル、イタリア出身である約2,000万人が、中央・南アメリカに移住した。今日これらの地域では約5,000万人がヨーロッパ系住民である。

 さらにヨーロッパ諸国からアフリカおよびオセアニアヘの人口移動についてみると、これらの大陸では、約1,700万人がヨーロッパ系移民である。これらの人口の流れがアメリカやカナダ、中南米諸国、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドにおけるエスニシティ構成の主な基盤となっていった。これらのすべての国々では、原住民は征服され、ヨーロッパ人の統治下におかれ、南北アメリカやオセアニアでは、ネイティヴの人々は比較的小規模のエスニック・マイノリティとなっていった.

 1980年代以降の新自由主義的にもとづくグローバル化の拡大は、発展途上国から先進諸国への人口移動を押し進めた。国際的な移民や難民の人口移動についてみると、その原因として指摘できるのは、第1に、発展途上国における極端な人口増加と経済発展の停滞とのギャップである。このため、南の貧しい国から北の豊かな国への人口移動が加速化された。第2に、発展途上国での内戦、飢餓、環境破壊が、とりわけ中東諸国やアフリカ諸国からヨーロッパヘの人口移動を増加させている大きな要因となっている。また2003年のイラク戦争後、イラクやシリアでは内戦状態となり、そこで勢力を拡大しているイスラム国によるテロ行為が、シリアからの難民をEU諸国へ移動させる大きな原因となっている。

 こうした移民の増加にたいして、EU諸国においては、極右政党を中心に移民排斥の動きが起こっている。フランスの極右政党である国民戦線や、ドイツの極右政党の国家民主党(NPD)などは、いずれも排外主義的なナショナリズムを掲げて移民や外国人の排斥を主張している。これらの極右政党が主張する排外主義的なナショナリズムは、移民や外国人を排除することによってナショナル・アイデンティティを高めようとするものであり、1930年代のファシズムやナチズムが国民統合のために利用したナショナリズムと類似している面があるということができる。とりわけヒトラーのナチズムは、ユダヤ人を排斥することで国民統合を推し進めたからである。これらの排外主義的なナショナリズムの台頭が、現代のナショナリズムのもう1つの特徴となっている。

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女性活用でイメージするモノ

元町は土曜出勤

 元町は今日、出勤なのか、駐車場も道も混んでいる。

生田の音楽の幅

 生田の「低体温のキス」はロック調で、以前のグレイの「誘惑」を思い出させます。

 幅を拡げるというのか、本来の生田の熱情そのものです。あまりにも、一枚目の「あなたのために弾きたい」とは大きく異なります。フィンランド民謡とか「リボンの騎士」とかとはまるで異なります。チャレンジする心そのもの。

未唯空間での言葉の幅

 未唯空間から政治学を見ると、興味ある言葉になってきています。以前は単なる言葉だったけど、「合意形成」「分配」などしても、未唯空間で使っている言葉が出ています。

 先を見るともっと、先鋭的になります。「マスメディア」とか「世論」にしても、大きく意味合いを買えてきています。主体は政治ではない。

女性活用でイメージするモノ

 「女性活用」と言ったときに、パートナーのスタンスが気になります。自分の能力を否定する、指示に従おうとする、自ら変えていく発想を封殺されている。

 これは名古屋という販売部門では多くの頂点を持っていないことが関係している。技術部の中野さんの場合は色々な頂点を持てる。現にこの最近、特許を取っている。それに比べて、名古屋では無能な連中に従うしかない。

 名古屋で先頭に立つべき人間は自分のことしか考えていない。そういうところでしゃしゃり出る女に対しての風当たりは強い。それに全うにやっていけるだけのキャリアを与えないし、与えたとしても、すぐにへし折る。以前のエリカさんも一緒です。優秀な女性が活躍している場が見えない。

 中野のように技術でやっていく女性が突破口を創らないといけないのか。だけど、研究開発の技術者は24時間考え続ける態勢ができている。それに対抗するのはあまりにも窮屈。

新社屋の建設費用捻出?

 また、警察に因縁をつけられた。新社屋を建てるために、ノルマがあるのだろうか。この道は通らないようにしよう。頭にくるのは、あなたのために注意しているという態度です。

 人工知能車にしたら、横断歩道に人が立っているカラと言って、止まるのかな。ましてや、隊列で走っているときにそういう判断ができるのか。

 そのロジックのクルマができたら、横断歩道で遊ぶことができます。その時に、とがめられて、反則金を取られたら、その時は当然、メーカーが保障するでしょう。
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「創発するコミュニティ」、そして「コミュニティ・オン・ザ・ムーブ」

『絶望と希望』より 自治会・サロン・コミュニティー「新しい近隣」の発見

鍵となるのは、「創発するコミュニティ」を通底する「節合」の機制である。だがそれについて言及する前に、さしあたり「創発するコミュニティ」がどのようなものであるのかを示しておく必要があるだろう。まずアーリの主張をみておこう。かれは、創発性を「不均等で平衡から遠く離れた相互依存プロセスの諸集合を映しとらえるもの」であるとしたうえで、そこで観取される相互作用が「多様で重なり合った〔……〕ネットワークと流動体を通じてリレーされ、実にさまざまなスケール上に広がってゆく」点に創発性の特徴を観る。こうしたアーリの主張と共振しているのが河野哲也である。かれは創発性を、世界に存在する諸々のものが多元的かつ入れ子状をなして布置することに伴って生じるとみなす。そしてその独自の内容を、下位の審級が上位の審級にそのまま移るのでもなければ、上位の審級が下位の審級に直接立ち帰るのでもないところに見出す。こうしてみると、「創発するコミュニティ」の最大の特徴は、およそ目的論的ではないこと、つまり交互に並び合い、交わり合い、結び合う多種多様なつながりがどこからともなく、脈絡のないところからあらわれ、そうしたものがリゾーム状に広がっていくところにあるといえる。

だからこそ、「創発するコミュニティ」はまさに混沌としてうごめく世界に足を下していることになるが、そこに降り立って見出すことができるのが、他ならぬ「節合」の機制である。ところで「節合」は何よりも生成の行程としてある。そのことを踏まえたうえで、(「節合」が)まず「ある程度まで一方が他方に入り込んで適合する」位相的関係に根ざしていること、そして「自分の振る舞いが環境に変化を引き起こし、その変化が再帰的に自分に影響を与える循環的過程」として表出していることを指摘しておく。そうした点で、「節合」はまさにアフォーダンスと重なるのである。それはまたラクラウとムフがいうラディカル・デモクラシーとも共振している。それは簡約化していうと、ある一つの主体が「特権的主体」としてではなく、諸々の主体がおのおののアイデンティティを変容させながら、異なった地点から集合的意思を織りなすときに立ちあらわれる作動原理のようなものとしてある。ちなみに、この作動原理を貫くものは、筆者の言葉でいうと、「行為主体の、異主体との交わりを通して獲得された『当事者性』と、社会の側の変容に即して練り上げた『他者性』とのすりあわせ」である。

あらためて注目されるのは、「創発するコミュニティ」が指摘されるような「節合」の機制に貫かれているからこそ、それは同時に「コミュニティ・オン・ザ・ムーブ」としてもあるという点である。考えてみれば、これまでコミュニティ論議において色濃く漂っていたのは定住主義である。ここで、ペルとニュービーのコミュニティについての議論に耳を傾けてみよう。かれらによると、コミュニティは三つの系でとらえることができるという。一つ目は、「地政学的な意昧でのコミュニティ」である。これは「近接しコプレゼントである」ことが基本的な属性となっている。二つ目は、「ローカルな社会システムとしてのコミュニティ」である。それは「社会集団やローカルな制度組織による、局所的で相対的に境界付けられたシステミックな相互作用」を特徴とするものである。そして三つ目は、「感情の交わりとしてのコミュニティ」である。ここでは「メンバー間にみられる人格にもとづく強い紐帯、帰属意識、あたたかさを特徴とする人間同士の結びつき」が基調音となっている。

詳述するまでもなく、こうした論議は定住が自明視されている。しかし、上記した創発性=「創発的なもの」、そしてそこを通底する「節合」の機制を視野に入れるなら、定住主義が万全でないことが容易に理解できるであろう。むしろ時間軸を組み込んだ「コミュニティ・オン・ザ・ムーブ」というとらえ方のほうが、本章の第2節で概観したサロンの「もうひとつの自治会」としての内実をフォローアップできるのではないかと考えられる。いずれにせよ、異質なものとの出合い・対質を通して内から動的な関係を築きあげていく「創発するコミュニティ」は、高度に偶発的/流動的/非線形的であり、現在進行形のものであるのだ。

サロンが果たしてどの程度、「創発するコミュニティ」、そして「コミュニティ・オン・ザ・ムーブ」の内実/要件を充たしているのかがあらためて気になる。サロンにおいて、避難民が「ふれあい」、「語り合い」、「聞き合う」ことを通して「相互に関係をもつ」こと、そしてそのことによって隣接/近隣を再発見し解釈し直すとともに、自分一人ではない自分、つまり複数の自分に気づくようになっていることはたしかである。しかしだからといって、個々の行為を超えて新たな集合的特性や質的に新しい関係が生み出されているとか、新たな変化が生じ、そうした変化が積み重なることで人びとのつながりや関係が変わり、システム自体の構造が変わっているなどといった状況は、未だ明確な形では立ちあらわれていない。

サロンに観られる「自分に閉じこもることなく、しかし、また全体に融合することもない」共同性が、「上から」および「外から」の自治会の簒奪にたいして何らかの防波堤の役割を果たしていることは否定できない。そして、この局面ではまぎれもなく国家や行政と「対峙」している。同時に、避難民が置かれた現実に絶望しつつ、「絶望の共有」を超えて、自分たちの置かれている「関係の構造」を前向きに展開しようとすればこそ、サロンにおいて国家や行政と「対話」(一定の留保付きで協働と言い換えてもいい)することが避けられなくなっている。つまりそこに観られる、「内在に還ることなく、『外』に向かって開かれている」関係の構造が、「節合」にもとづきながらも、ガバナンスという形を変えたガバメントの機制に協和することが必然となっているのである。そしてそうした点では、サロンはかぎりなく不安定であり不定形である。しかしこの不安定で不定形であることを回避することはできない。なぜなら、サロンはいまのところ、発展途上の「創発するコミュニティ」としてあるからだ。

別の言い方をすると、旧来のガバメントによるトップダウンの統制/統合にも市場を介しての私化された関係による調整にも回収されないコミュニティが未だ成熟したものとして立ちあらわれていない状況下ブ」としてある。そしてこのことを論じるにつけ、猛威を振るう新自由主義的復興経済の許でみてきたような「創発するコミュニティ」の足元が大きく掘り崩されていることを見逃してはならないであろう。こんにち、共同体言説の多くがあまりにも容易に新自由主義の枠組みの内部にとりこまれている。そうした現実をどう伝えていくかという以上にどう対応していくかが、いま大きく問われているように思われる。
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