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豊田市図書館の30冊

188.8『禅宗入門』

913.6『オーディション』

010.1『図書館の自由を求めて』

010.21『歴史に見る日本の図書館』知的精華の受容と伝承

019.9『読書は格闘技』 ⇒ 未唯空間で「読書は格闘技」の記述が最初に出てきたのは、2010年9月8日です。これが実感だった。ちなみに1万冊達成は2008年10月です。

375.1『すぐ実践できる情報スキル50』学校図書館を活用して育む基礎力

410.7『数学ガイダンス2016』大学数学への完全ガイド

361『よくわかる国際社会学』

236.9『ポルトガルの歴史』世界の教科書シリーズ 小学校歴史教科書

379『よくわかる国際社会学生涯学習』

371.23『西洋教育思想史』

596.65『一日一氷 365日のかき氷』

664.69『ウナギと人間』

015.2『パスファインダー作成法』主題アクセスツールの理念と応用

673.98『カフェ・バッハの接客サービス』

316.8『多文化社会読本』多様なる世界、多様なる日本

519.1『地域環境戦略としての充足型社会システムへの転換』

311.1『逆行の政治哲学』不正義から問い返す

913.6『最強の経営者』小説 樋口廣太郎アサヒビールを再生させた男

182.1『日本仏教史』

019.9『きみに贈る本』

368.3『自死』現場から見える日本の風景

601.1『まちで闘う方法論』自己成長なくして、地域再生なし

336.55『「書く力」を身につければ面白いほど仕事はうまくいく!』書くことで、論理的に話す能力も高まる

135.3『寛容論』

913.6『『深い河』創作日記』

335.57『経済法』独占禁止法と競争政策

430『やりなおし高校化学』

376.48『「才色兼備」が育つ神戸女学院の教え』教えて! 校長先生

316.1『中国 消し去られた記録』北京特派員が見た大国の闇
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広島の原爆慰霊碑への訪問

名古屋に行かない口実

 なんか頭がふらつきます。ということで、名古屋へ行くのは取りやめました。やはり、今日はいないんじゃないかというのが浮かびます。

 6月1日に新しいフラペティーのが入ります。昨日、駅前のスタッフがマニュアルで勉強していた。ケーキがそのまま入り込んだモノで、スタバはかなり本気です。ということは、Iさんは必ず、出てきます。

 去年のように、メールで確認できることは例外だったんですね。

甘いものを要求

 今日は甘い物がほしいので、アイスドリップにシフォンケーキをつけました。アイスには蜂蜜を入れた。本当はアイスラテに蜂蜜なんですけど。

金曜日は豊田市図書館の新刊書の日

 久しぶりのどうにか30冊。とりあえず、よかった。

広島の原爆慰霊碑への訪問

 原爆投下よりもルメイによる東京大空襲の方がむごい。比較できないけど。東京大空襲への異例はないみたいです。

 1959年、ゲバラは日本訪問時に広島訪問を要望したが、スケジュールは組まれなかった。そこで、神戸滞在中に、急遽予定を変更して、夜行電車で広島に向かった。原爆ドームで献花後に語ったのは、「きみたち日本人は、米国にこれほど残虐な目にあわされながら、腹が立たないのか」と案内役の県庁職員に話しかけた。⇒15/01/23「チエ・ゲバラの広島訪問」より

豊田市のコンビニは駐車場次第

 駐車場が狭すぎる。豊田市では経営者は居ないでしょう。二ヶ月以上、この状況です。
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葬式仏教 死者のための仏教か!?

『日本仏教史』より 檀家制度

この檀家制度の基礎になるものは「宗門人別改帳」です。寛文十一年(一六七一)、幕府は諸代官に命じて宗門人別改帳をつくらせました。以後、これが制度化されて、江戸時代の全期間を通じて実施されます。日本に一人も切支丹がいなくなってからも、宗門人別改帳の作成が檀那寺に義務づけられたのです。

この宗門人別改帳は、原則として一戸単位に作成されます。まず戸主と全家族、それに奉公人の名前と性別、年齢が記載され、さらにその家の宗旨と檀那寺名が付され、そこに檀那寺と村役人の請印が加えられます。これが寺請証文になるわけです。それ故、結婚や死亡等による異動があれば、その都度、檀那寺が寺請証文を発行することになっていました。

かくて、仏教寺院は、市役所・区役所の戸籍係になってしまったのです。

いや、仏教寺院はもっと阿漕でした。寺側は檀家を、

 「いいかい、おまえさん、あんまりお寺を粗末に扱っていると、来年の宗門人別改帳には請印を捺さないからね。それでいいのかい……」

と恫喝する始末。そういう例があちこちで見つかっています。石田瑞麿著『日本仏教史』(岩波書店)によると、寺院側はのちには、徳川家康が慶長十八年(一六一三)に出したとい

 --「御条目宗門檀那請合之掟」--

なる法令を偽作したとあります。それには、檀家は、

 --寺の行事への参加。寺の雑役・修理・建立につとめること。葬式には檀那寺の差図を受けること。中陰・年忌・命日、あるいは先祖の仏事法要を怠らないこと--

などが義務づけられています。こうした「掟」が寺々に張り出されていました。檀家を嚇して寺にお布施を持って来させようとする魂胆が読み取れます。

その結果、日本の仏教は「葬式仏教」になってしまいました。

そりゃあ、そうでしょう。檀家から金を搾り取るには、葬式や年間法要をやらせるのが手っ取り早い方法です。もしも寺で葬式をやるのを拒めば、その人は切支丹にされてしまいますから、寺で葬式をやるよりほかないのです。おかしなことになりました。

苑如を論じた章でも言いましたが、浄上真宗の開祖の親鸞は、

《「某、閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」》

と遺言しています。また、時宗の開祖の一遍は、

《わが門弟子におきては、葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし。但在家の者、結縁のこゝろざしをいたさんをば、いろふにおよばず》(『一遍上人語録』巻下)

と言っています。出家した弟子は、わたしの葬儀にたずさわってはならぬ。遺体は野山に捨てて獣に与えよ。しかし、在家の者がそれをやるのは干渉しない、というのです。

本来、僧が葬儀に関与するのは、特殊な場合を除いてなかったことです。ところが江戸時代になって、切支丹弾圧のために(といった名目で)仏教の僧が葬儀をやらねばならなくなりました。さて、そうなると、今度はお坊さんが戸惑ってしまいます。檀家の葬式をやるにも、やり方が分からないのです。

なぜなら、葬式は習俗です。習俗というものは、それぞれの地方の風習に従って、民衆が勝手にやるものです。ですから「仏教的葬儀」なんてものはありません。

なのに、突然、仏教的葬儀をお坊さんが執行せざるを得なくなって、お坊さん自身が戸惑ったわけです。

そこで、僧侶の葬式のやり方でやることにしました。

在家の人間の葬式は在家の人間、具体的には本家の家長だとか、村の長がやってくれます。けれども、出家者には家がありません。それで、出家者の葬儀は、仲間である出家者がやるよりほかない。その仲間どうしの葬儀のやり方がとられたのです。

で、まず死者を出家させます。死者の頭を剃って丸坊主にします。実際には剃らずに、まねごとをする地方もあります。昨今はほとんどがまねごとです。

死者を出家させるなんて、まるで漫画ですね。

死者が出家すれば僧になり、僧になれば僧名がいります。それが戒名です。しかし浄土真宗と日蓮宗では、戒名といわずに法名・法号と呼びます。

戒名は、受戒したときに師から授かる僧名です。死者は師僧の弟子となったのです。そこで次に師僧は、この弟子を教育せねばなりません。そのためにお経を読んで聞かせるのです。葬儀のおりにお経が読まれるのは、あれは弟子(死者)に聞かせているのです。葬儀に参列した人が、「あんな漢文のお経なんて、われわれにはちっとも分からない」とぼやきますが、別段会葬者に分からせる必要はありません。死者が分かれば、それでいいのです。

でも、この葬儀だけで終わってしまっては、寺院は「商売」になりません。そこで葬儀のあと、追善供養の法事をすることを檀家に義務づけました。それも、時代が下がるとだんだん法要の必要回数が増えてきます。それで江戸時代の後期には、

--初七日・二七日・三七日・四七日・五七日こ(七日∵七七日(四十九日、満中陰)・百箇日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌 といった法要を営まねばならなくなりました。場合によっては五十回忌までやらされます。

「そんなこと、やりたくない」と言えば、宗門人別改帳から名前を削られる心配があります。庶民は泣く泣くお布施を出さねばなりません。

ともかく、江戸時代になって、仏教は「葬式仏教」になりました。

そして寺院は葬儀・法要といった「商売」によって経営が安定します。そのため僧侶は安逸に流れ、堕落しました。結局は仏教が死んでしまったのです。

その原因は檀家制度にあります。先祖供養を骨駱とした檀家制度は、生きている人間のための宗教ではありません。わたしは、寺院が先祖供養をやめるよりほか、日本の仏教の再興はないと思います。

 「でも、お葬式や先祖供養をやめると、わたしたちは生きてゆけなくなります」

現代においてそう言われるお坊さんがいます。それじゃあ、仏教はお坊さんを養うためにあるのですか!? そう訊きたくなります。

仏教は生きている人間のためにあるのです。そのことを忘れてもらっては困ります。
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格差をめぐる問い 競争か、平等か

『よくわかる国際社会学』より 格差をめぐる問い

21世紀の国際社会学が探究すべきテーマの2つめは、格差である。国際移民はグローバル化とそれに伴う国際的競争に基づいてホスト社会に流入していく。

この意味では競争が移民の必要性を生み出しているのである。しかし、過度の競争は移民の周辺化を促進する可能性がある。このとき、格差を緩和し移民に関する平等を確保する手だてをとらなくてはならない。

グローバル化と二極分化

 グローバル化は多くの領域で国境を超えた激しい競争を随伴する。国際移民はその競争の中で必要とされ、同時に自らの欲求を満たしている。この意味では、移民は競争によって生み出されているのである。政治難民という競争とは縁遠く見える移民でさえ、戦争や難民認定に関わる国家間のせめぎ合いによって存在を規定されている。

 競争が最も激しく集積する場が世界都市(world city、global city)である。世界都市には多国籍企業を初めとした様々な企業の管理統括部門が集まってくる。そして必然的にそこで働く多国籍エリートが集まる。エリートたちは高度な管理職にっいたり、情報技術(IT)のような高度な技術を駆使してグローバル化における厳しい競争に打ち勝とうとしている。しかしこのような管理統括部門の集積は、同時にそうした部門を下支えするサービス部門を必要とする。オフィスの清掃、食事の供給、事務用品の供給といった仕事が必要となるのである。そのため、そのような下支えのサービス部門で働く単純労働者の大規模な需要が生ずる。その結果、世界都市には一部のエリート移民と大量の下層単純労働移民という二極分化が形成される。

 世界都市の周辺を見渡すと、やはり単純労働者の莫大な需要が存在する。都市周辺部では製造業を中心とした様々な産業が外国人労働者抜きではやっていけなくなっている。公式には海外からの単純労働者の導入を認めていない日本においても、外国人研修生かこの需要を埋めている。このように、都市周辺部では二極分化のうち下層の部分が厚みを増す動きが進んでいる。

多様な格差とジレンマ

 このような移民過程を通じて、移民は様々な格差にさらされていく。経済的、政治的、社会・文化的、教育的な、様々な格差。格差が顕著になるのは、それがどこかに集中した場合である。地理的に集中すると格差は、ゲットーやスラムという現れ方で、われわれの目に映る。フランスの「郊外」やイギリスの「インナーシティ」はその典型である。また、集団的に集中すると、第2世代また第3世代といった世代を経ても下層から抜け出せない貧困の再生産という現れ方をする。いずれにしてもある程度平等かつ均質であるべき社会の中に、1異質で不平等な部分が集中すると、移民による格差が問題化するのである。そして、その問題は移民の人種的性質や文化ゆえに生じたのであると理解されがちである。

 このように格差問題が顕著になると、われわれは移民に関するジレンマに気づかされる。移民は競争の中で必要とされる存在である。したがってホスト社会も移民自身も競争を必要とし、その中で必要とされ、相互に欲求を満たすのである。しかし同時に、競争が過度になると移民は下層を形成し「敗者」となる。このとき移民個人にとっても、また秩序が脅かされるという意味で社会にとっても望ましくない社会状況が現出する。そこで、人権、秩序といった観点から、移民たちを救済し、平等を確保しなければならないという要請が生じる。すなわち、競争と平等とのジレンマが移民を取り巻いているのである。

問いの設定と対処

 そこで、21世紀の国際社会学は次の2つの問いを探究するよう迫られる。第1に、グローバル化に伴う競争をいかに、どの程度緩和するか。そのためには移民のためのセーフティネットをつくらなくてはならない。社会福祉給付制度、教育制度といったマジョリティとも共通のセーフティネットを整備するだけではない。NGO/NPOの活動に対する支援や、移民自身のネットワークまたはエスニック・エンクレイ勺の創出・維持の支援も有効かつ必要とされるであろう。

 第2の問いは、移民に関する平等をいかにして実現するかである。アメリカ合衆国のようなアファーマティヴ・アクション政策をどのような領域にどの程度実施すればよいのかという問題や、どのような領域に関して差別禁止法。をつくるかといった問題が具体的に問われるべきである。しかしさらには、移民に関するどのような社会状態が「平等」なのかといった、古くて新しい問題も問われなければならない。例えば「機会の平等」と「結果の平等」をどの程度混合するとよりよい平等が実現されるのか、また平等政策を推し進めたとき、それはマジョリティに対する「逆差別」になるのではないかなどを考えていかなければならない。

 21世紀の国際社会学は、以上のような問いを通して移民に関する格差の問題に切り込んでいかなくてはならないのである。
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人の移動とグローバリゼーション

『人の国際移動とEU』より 人の移動、グローバリゼーション、国家

国際関係論の理論においては、諸国家は何よりもまずその安全保障あるいは軍事的な機能によって定義される。ウェストファリア体制における国家とは、何よりもまず「防衛国家(Garrison State)」である。リアリストとネオ・リアリストは国家というものをパワーを最大化し、その領土と人々を守り、国益を追求することを最大の責務とする一体的で合理的なアクターだと見なす。しかしながらヨーロッパにおける産業革命の開始以来、国家は徐々に重要な経済的機能を引き受けるようになっている。物質的な富とパワーを確保するために、国家は敢えて経済を開放し、自由貿易政策を追求するようになった。

これがローズクランスが呼ぶところの「貿易国家(Trading State)」の興隆へつながったのである。その結果、国家はそのパワーの源としての領土と軍隊への依存から一定程度解放された。国際関係の理論はリアリストの限られた見方を離れ、徐々に相互依存的となる世界においてパワーも拡散していることを認めるようになった。このネオ・リペラルな見方においては、諸国家は国際的な貿易と金融によって結びつけられており、そのため諸国は基本戦略を変えて、新たな協調の道を探らねばならないとされる。以前、私は人の移動と貿易とは分かち難く結びついた同じコインの裏表だと論じた。従って「貿易国家」の興隆は必然的に「移住国家」の興隆でもあり、そこでは商業や金融によって導かれるのと同じくらい、人の移動(人々の移動、人的資本、労働力)によってもパワーや利益について考量がなされるのである。

植民地化や経済発展の目的から、あるいはグローバル化する経済において競争力を獲得するため、諸国家は数世紀にわたって大量の人の移動の組織化に取り組んできた。近年のカナダやオーストラリアといった国々による熟練労働者募集の試みは、グローバリゼーションと人の移動の長い歴史のなかの最後の一章である。18世紀や19世紀--比較的人の移動が自由だった時代である--へ目を向ければ、アメリカやロシアのように広大な辺境を有する多くの国家は喜んで移民を受け入れており、他方で増大する地方からの脱出と急増する都市とを有して人口過剰となった社会は喜んで大量の非熟練の、しかもしばしば読み書きのできない農夫や労働者を送り出していた。

しかしながら、ヨーロッパの伝統的な移民送出国の幾つかは20世紀初頭までに産業革命に入り、出生率の低下と人口の安定化とを伴う人口統計学上の移行期に入った。大西洋を横断する人々の大移動は終わりへと近づき、ナショナリズムが高まると、国家がその市民を識別可能なこと、そして新たな人口統計上のレジームを構築可能なことは、軍事的な安全保障の観点から徐々に重要なこととなっていった。課税や徴兵のために各国人口を管理する必要性はパスポートや査証体制、そしてそれに付随する移民・国籍政策の発展へとつながった。各個人がひとつは、そしてただひとつだけ国籍を持つこととされた。そして法制度としての国籍は、諸国民国家からなる敵対的で無政府状態の世界のなか、個々人に一定の保護を提供するものとされた。ドイツのように移民送出国の国々は血統主義(血統、縁戚、エスニシティ)に基づく国籍法を採用する傾向があった一方、アメリカやフランスのような移民受入国では出生地主義(領土または出生地)に基づくより拡張的で政治的な市民権が発達した。

ヨーロッパにおける戦争は民族統一主義と、国境の引き直しとに火を点け、これがまた新たな人の移動を促すこととなった。20世紀には数百万の避難民や難民が「暴力を逃れて」国境を渡ったことだろう。第一次世界大戦は人の移動と国際関係の歴史のなかで決定的な転換点を記した。諸国家は、市場(供給-プッシュと需要-プル)が国際的な移動の原動力となっていた18世紀、19世紀の比較的開かれた移動レジームヘとは戻らないだろう。その代わり20世紀の世界は徐々に閉じた世界となり、旅行には手の込んだ文書が必要とされるようになるであろう。第一次世界大戦は帝国主義の終わりの始まりをも記していた。アジアとアフリカで独立と脱植民地化のための闘争が起こり、この闘争はついにはさらに数百万の人々に移動を強いる結果に終わったのである。戦間期、国民国家からなるウェストファリア的体制はより堅固なものとなった。ヨーロッパ-大西洋地域の中核国では更なる制度化が進展するとともにアジア、アフリカ、中東では新国家の建設(または旧国家の再興)とともに世界へ広がりっづけたのである。旧国家も新国家もその主権を用心深く守り、各地域の人々も段々と市民権やナショナル・アイデンティティヘの意識を強めていった。このような展開から、国際的な人の移動はより政治的な性格を帯びるようになり、ディアスポラや亡命の政治が前面に出てきた。それ以後、境界を越えるという行為は経済的な行為であると同様、政治的な行為ともなる可能性を帯びるようになり、諸国家は再度徹底してその権威を主張するようになった。無政府主義や共産主義などの反国家的な革命運動の高まりは、国家安全保障とアイデンティティの名の下に移民への過酷な取り締まりと、市民的諸権利や諸自由の巻き戻しを引き起こした。

ヨーロッパにおける1930年代、40年代の諸事件は国際的な人の移動を統御する法規範を根本的に変化させた。ホロコーストと第二次世界大戦は国際連合の創設と新たな難民法および人権法の創出へ帰結した。国家はその領域への管理を取り戻し、内政問題への不干渉原則を引き続き保持したものの、戦後国際秩序は個人や諸集団に新たな法的空間を創り出した。 1951年の難民の地位に関するジュネーブ条約は「迫害を受ける十分な恐れ」と共に一旦安全な国の領域へ入国を許可された個人を恣意的に追放したり、その国籍国へ送り返したりすることはできないとする庇護原則を確立した。国際法の下で人は法的聴聞を受ける権利を付与されたが、同時に重要なことはどの国家も庇護申請を認めることを強制されはしないということである。しかしながら、もし当該国家が条約の調印国であり、もし彼もしくは彼女が迫害や暴力に脅かされているならば、その個人を出身国へ送り返すことは法的にできない。それがノン・ルフールマンの原則である。

1948年12月に国連総会で採択された国連憲章ならびに普遍的人権宣言は人々の「国境を越える」権利の原則を補強した。1948年、同様に国際社会はホロコーストとその他の人道に対する犯罪への直接的な応答として、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約を採択し、調印した。これらの国際法、国際政治の展開と並び、ヨーロッパと北アメリカの最も強力な自由主義国家の政治と法のなかで徐々に「権利に基づく自由主義」の増大が見られた。この国際法および国内法における自由主義の発展は相互に刺激を与え合い、国際、国内双方のレペルで移住者への新たな権利(法的空間)を創り出したのである。

これらの法的進展がなぜそれ程重要なのだろうか。WTOやIMFのような国際機関を通じて促進したり規制したりできる貿易や金融の流れとは違い、境界を越える人の移動には質的に異なった一連の規制レジーム--しっかりと権利概念に基づいたもの--が必要となる。諸個人が商品やサーヴィス、資本とは異なって自らの意思を持ち、法的主体や住まう社会の構成員ともなれることは指摘せずともほとんど自明の理である。彼らはその政体の市民となることもできる。問題は諸国家がどの程度まで秩序だった(合法の)人の移動のために国際レジームを設立しようとし、そしてどの程度までそのようなレジームは国際法と対立するものとしての国内法に依拠するだろうかという点である。
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人の移動の実態 リトアニアの状況

『人の国際移動とEU』より リトアニア・ラトヴィア--東欧のE (Im) migration問題の極端例として

東欧における人の移動の実態

 東欧諸国によるEU加盟以来、およそ10年が経過した。その間のEurostatの統計防報を見ると、これらの国々の人口流入と人口流出のバランスには、一定の差異があることがわかる。ハンガリーとスロヴァキアの2カ国は総合的にみて東欧諸国は、EU旧加盟諸国ほどには流入による人口増を経験していないし、仮に流入人口が上回っているとしても、その中における非欧州・非先進国出身者の比率は旧加盟諸国ほど高くない。チェコやスロヴェニアの状況は、旧加盟国にやや近いものがあり、その後にハンガリー・ポーランド・エストニア・スロヴァキアなどの国が続く。そして何よりも目を引くのは、ラトヴィアとリトアニアの2カ国の極端さである。

 問題となるのは、このような人の移動をめぐる問題が、国内政党政治の文脈でどのように受容され、連関付けられているのか、である。そのような質的な分析を8カ国すべてで行うことは現実的ではない。以下では、人口流出をもっとも極端に示している2カ国、リトアニアとラトヴィアの事例を取り上げる。以下ではそれらの各国の状況もふまえつつ、人口流出の実態、さらに国内政治流入の方が一貫して優勢であり、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドの4カ国は人口の流出が一貫して優勢である。チェコとスロヴェニアは流出優位と流入優位の双方を経験しており、中間的な位置にあるといえる。

 ただし、ここで注意しなければいけないのは、流入人口が流出人口を上回っているケースであっても、その流入人口の殆どが同国国籍保有者の人間の再入国であって、他国からの移民ではないケースである。たとえば、2012年のEurostatのデータに基づくと、スロヴァキアの流入人口の45.7%は同国国籍保有者の帰還である。また、同国国籍者の流入ではなくとも、その流入移民が先進国からの流入なのか開発途上国からの流入なのかでは、国内における移民問題に対する含意・インパクトが異なる。

 そこで流入人口のうち、「同国国籍保有者」「欧州出身者」(非欧州先進国出身者」を除いた人口を、非欧州・非先進国出身移民比率として算出すると、多いチェコやポーランドでも20%台、少ないラトヴィアやリトアニアでは5%以下にすぎない。ここまで算出してきた、流出入による人口変化率(2009-2013年平均)と、流入移民中の、非欧州・非先進国出身者率(2012年データ)を、横軸と縦軸にそれぞれ取ったものが、図表3である。なお、参照用として、同様のデータ処理を行った旧加盟国(本書第2部で扱われている諸国とベルギー及び南欧3力国を選んだ)の位置も示す。の状況について概説する。

リトアニアの状況

 欧州大の人の移動をめぐる問題を取り扱う以上、リトアニアが置かれた、やや特殊な地位には言及しておく必要があるだろう。リトアニアの西には、ロシアの飛び地であるカリニングラードがあり、同地とロシア本土間の陸上移動のためには、(ベラルーシを経由して)リトアニアを超える必要がある。すなわち、リトアニアがEUに加盟し、その後欧州シェングン圏に加わった事で、カリニングラードはEUが抱えるロシアの飛び地(そして出入国管理問題の焦点)となった。そのため2003年4月の欧州連合理事会では、簡易査証としてのFacilitated Transit Document (FTD)の導入が決定され、ベラルーシおよびロシアと、リトアニアの国境において、本文書に基づく出入国許認可業務が実施されている。とはいえこのFTDは、あくまでリトアニアをバイパスして行われる人の移動に影響するもので、リトアニア国内が抱える人口流出を規定するものではない。その特殊な地位ゆえに人口流出が顕著である、という事ではないのである。

 なぜ、かくもリトアニアでは人材流出が顕著なのか。最大の要因はその相対的な経済的後進性である。多くの人々がよりよい稼ぎを求めて国外へ、特に欧州内ではアイルランド、イギリスやドイツヘ多く移住している。ある報道が示すところによると、リトアニア国外に移住した60%の人々が母国に帰らない理由として、その経済的状況の悪さを挙げている。また経済的要因だけではなく、リトアニア社会における寛容さの欠如も、56%の回答者が挙げている。そのため、移民先で職を失っても、現地に残り仕事を探し続ける、ないし第三国に移転して仕事を探すなどして、リトアニアには帰国しない層が多い事が指摘されている。

 リトアニアでは、国外への人口流出が重大な課題であって、国内への移民流入は殆ど存在しない。しかしその事は、リトアニアで極右政党・反EU政党が存在しない事を意味しない。欧州議会会派が「自由と民主主義のヨーロッパ」(EFD)、欧州政党がADDEという、(英国のUKIPと同じ所属状況である)ハードな欧州版疑主義政党として、「秩序と正義」(TT)が同国では長らく議席を有し、近年は連立与党としても活動している。同党は、一部からカリスマ的な人気を得る、ローランダス・パクサスを首領として2000年代に立ち上げられた政党であり、エネルギー問題に関する国粋主義的なスタンスで着目を集め、特に反既存政党色を前面に出して国政に参入した。党首個人の人気に依拠するポピュリスト政党と当初は見られていたが、その後の党首のスキャンダル騒動以降も堅実に議席を確保しており、リトアニア政党政治に着実に根を下ろし始めている。

 より極右的な政党・団体の例としては、「リトアニア民族主義連合」(LTS)が存在する。同党は、2013年にリトアニア・ラトヴィア・エストニアそれぞれの極右陣営と合同で、明確に反移民・反多文化主義・反EUを唱えた「バウスカ宣言」に署名しているが、近年の国政では議席を有しておらず、その存在感は、今のところ、非常に周辺的な物である。

 ではこのような政党システムの中で、リトアニアにおける激烈な人口流出の問題はどのような政治的争点として構成されているだろうか。研究者・ジャーナリストらの中には、危機的な人材流出・頭脳流出の問題として警鐘を鳴らす者もいたが、政治的に大きな争点としては取り組まれてはいなかったのが実情であった。ただし、変化の兆候も見られる。国内人口が大台の300万人を割った事実が重く受け止められた2015年の初夏、連立与党3党により、移民流出は国家の危機であると規定する決議案が提案された。具体的な数値目標としては、国民の18%が国外に流出している現状を、9%にまで減少させる事が提起されている。野党の一部からは、同決議は具体性のない、ただの人気取りだとして非議する意見も示されたが、その理念自体には反対していない。

 興味深いのは、本協定を発議したのが、先述の「秩序と正義」である事である。リトアニアの人口流出を加速させた一因には、紛れも無くリトアニアのEUおよびシェングン圏加盟がある。強硬な欧州版疑派の政党であれば。この状況に対して「EUからの離脱が間頴の解決策になる1という楳案を行う事は(理屈としては)考えられる事態だろう。また、人口流出の多さを不都介な事実として黙殺することもできる。ところが、リトアニアの議会政党の中で、もっともEUに対して懐疑的と目される同党が、EU加盟に伴う同国の人口流出に関する問題意識を適切に有し、EUに属したままである事を前提とした積極的な解決策を少なくとも決議レベルとはいえ打ち出した事は、意外な事の様にも思われる。

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